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神武東征と稲作の広がりがあっている。
最新のデータに基づくと米伝来ルート説明に疑問を抱いてしまいました。
【弥生時代の開始年代 国立歴史民俗博物館 藤尾、今村、西本】の報告によると、菜畑遺跡から出土した山ノ寺式甕底部の内面付着炭化物を炭素14年代測定し、校正歴年代を算出した結果 945calBC~915calBC(91.2%)(紀元前10世紀半頃)と推定しました。弥生時代の始まりは紀元前945~915年のどこかで始まったと決定。従来の説から約500年遡ることに成りました。更に「加速器-炭素14年代測定の研究で菜畑遺跡から出土した山の寺式土器編年の再検討を行い、校正年代(西暦に変換した)を見ると紀元前1420~1100年(93%)という値を出している。この値は今回私たちが発表した年代を含み、更にそれより古い部分に及んでいる」 つまり菜畑遺跡は朝鮮半島の水田稲作より遥かに古い時代でした。朝鮮半島から渡来人が来て水田稲作を伝えたという説は成り立たないのではないでしょうか
丁寧に解説してくれているのにコメント荒れてしまっていて残念です。イデオロギーで過去を見るのはもったいないことです。南西諸島には先史時代の稲作遺跡が全くないこと、東シナ海横断の難しさ、山東半島から朝鮮半島南部へのアクセスや対馬海峡を挟んだ人的往来を考えれば、朝鮮半島経由で伝来した蓋然性は高いはず。3年前の動画にコメントしていてなんですが、この後も丁寧な動画を作り続けてくれてありがとうございます。
水耕が半島から来たってのは眉唾だな
日本には水田稲作より前に焼き畑畑作や稲作が南方沖縄経由で縄文時代のBC8000年頃すでに伝来しているようです。水田稲作は中国江南から直接日本に伝来したようで、韓国より日本のほうが水田稲作が早いようです。昔は朝鮮半島に倭人が住んでいたと中国の記録にありますから、日本から韓国に水田稲作を伝えたのかもしれません。
朝鮮半島の水田遺跡よりも日本の水田遺跡の方が古いはずです。つまり水田稲作は日本から朝鮮半島に伝わったと考えた方が自然です。この動画シリーズ全般で、変に朝鮮上げをしている所が気になりました。
揚子江下流域梁王城遺跡から出土した弥生時代の古人骨と土井が浜の古人骨のミトコンドリアDNAが一致し、しかも現代人につながっていることが判明しています。やはり直接揚子江下流域から来ています。
稲作の伝播は考古学による発掘調査と稲の遺伝子解析による結果、朝鮮半島経由ではなく逆に日本から半島に伝わったはずですが?
水田稲作は大陸、朝鮮半島から伝わったとは逆に日本列島から半島、大陸に伝わったという科学的根拠に基づいた新説が出ています
揚子江下流域から直接です。
稲は長江下流の長江文明で発生したとの説があります。温帯の植物ですから小麦、トウモロコシの黄河文明を経由して朝鮮北部から南部を経由する説は無理があります。長江流域の江南の越人が船を使い直接九州に伝えたとも考えます。水田稲作が伝わってきたルートで小麦文化の地域から水田稲作の遺跡が見つかっているのでしょうかご教示ください
小麦文化の地域から水田稲作遺跡が見つかっているかは分かりませんが、考古学者藤尾慎一郎によると、およそ7000年前に中国長江下流域で始まった水田稲作が日本列島に伝わるルートについては、東シナ海を渡る直接渡来説や、沖縄から島伝いに北上してくる南西諸島ルートがあり、考古学者の意見では朝鮮半島南部経由説でほぼ統一されているそうです。ただ、中国山東半島から朝鮮半島南部への至るまでに遼東半島を経由したのか、黄海を直接渡ったのかについては議論が続いているようですね。
@@歴史倶楽部 朝鮮半島南部経由説でほぼ統一されているとのことです。南部の遺跡で菜畑遺跡で発見された紀元前10世紀より古い遺跡は発見されているのでしょうか
最近の稲作の伝来についての研究を勉強してますか?
稲作に関して、DNA鑑定によって長江流域(揚子江)と判定されています。日本の稲作は、縄文時代後晩期(約3000-4000年前)と言われ始めていますが?朝鮮経由は修正されています。
朝鮮半島の稲作歴史に関して、もっと詳しく述べて欲しい。
米遺伝子の朝鮮半島と日本の違い、気候特に気温などの関係ついても説明して欲しい。なぜ米の育たない北京満州朝鮮半島経由で伝来したか?不思議。
稲作は朝鮮半島を経由していないという研究については如何ですか?
水稲耕作半島渡来説なら対馬壹岐を経由して博多に初期の水田が現れるのが自然です。長江下流域から佐賀に黒潮に乗ってたどり着いた人々がいてもおかしくありません。この頃オーストロネシア全域に人が住んでいたのですから。
稲のDNA解析がされています。その結果は朝鮮と日本の稲は系統が違うことがわかったということで。朝鮮から稲が入った説は疑問です。むしろ日本から朝鮮への流れでは。
大陸で水田稲作は何時からですか?
水田稲作は、中国の高温多湿である長江地方から黒潮にのって渡来人がもたらしたと今は言われています。梅雨がある日本だからとおやもいます。寒冷、乾燥の半島、争いが多い半島から伝わったとは思えません。稲作があったから朝鮮をしたがわせる力があったと思います。
朝鮮での水田稲作の遺跡が前10世紀で発見されているのであれば紹介しなければなりません!
縄文時代、弥生時代って、そんなに明確に区切れるものなのかな・・・と常々疑問に感じてます。例えば当時の人たちは「おい!明日から弥生時代だってよ」「え~!縄文今日で終わりなん??・・・じゃ今晩みんなでカウントダウンする?」とか言ってたりしたのかな?とか、妙に形骸的なイメージがあります。
なかなか、面白い、です。切らないで話した方が良いと思います。岸田総理みたいですよ。
朝鮮半島の表土は薄く農耕に適さず、稲作りも水稲ではなく陸稲=オカボであったという説も有りますがいかがですか。朝鮮半島経由の稲作の伝播は他の方のコメントにもあるとおり疑問です。
大野晋さんによると、インドタミル地方の文化と日本の文化は濃厚な類似性がみられ、インドタミル地方を出発に、大陸や琉球を長期に経由して、九州―瀬戸内海―畿内への広がったという説を語られています。
稲作は半島を経由した痕跡は無いぞ遺物のDNAも違うし半島での稲作は気候的に無理があることがわかっているし見つかる痕跡も全然新しいもので規模も小さくやっては見たが定着はしなかったとしか考えられん
そうだ、そうだ。こいつ、何者や?日本最古の縄文土器だって、本当は世界最古なんだぞ。こいつ日本を貶める為に来た、C国かK国の回し者だろう⁉️
グッドボタンもチャンネル登録もして居ないのにサムネがいっぱい上がって来る!
寒冷地でも栽培できる稲の品種改良にかかった時間はどのくらいなのでしょうか。黒ボク土での稲作、干上がった湖沼での稲作について解説していただけると助かります。
弥生時代に、争いごとが増えることに対して、「恐ろしいですね」と感情論を入れるのは、歴史を勉強する者として、いかがなものか?
稲作が半島経由?稲のDNAが一致しないのでしょう? 古臭い話はもう止めたほうがいい。
なぜ、稲作は伊勢湾沿岸から金沢へ陸路で伝搬したと考えられるのでしょう。山陰地方から金沢へ海を使って伝播したとか、大阪、琵琶湖から金沢へ伝播したと考えることができないのでしょう?飛騨の山を越えるのは大変です。伊勢湾沿岸から関東へ伝播するのですら大変な時間がかかっています。伊勢湾から金沢へと伝播するより、山陰から琵琶湖から伝わったと考えるのが自然です。
今では、稲作は縄文時代にもう行われて居たのが、最新情報、弥生土器も炭で焼いていた。もう少し最新情報を勉強して下さい。
2年前とは色々情報が更新してるのだから、稲作の伝来とか言う過去の動画はやめた方がいいですよ。恥ずかしい。
稲作がゆっくり浸透する、先住民とは平和共存。戦争が頻発する、稲作民同士の水や土地争い。ということか。
稲作の伝来は間違って居ます。朝鮮北部では稲は作れません。作れない所から伝わる事自体怪しいと思いますが、今では縄文人により日本から中国揚子江流域に伝わったの最新情報、最も勉強して下さい。
たしかに1年前でこの情報は古すぎるかもですね。弥生時代の始まりと春秋戦国時代との関連性に言及がないのもちょっとって感じだし、縄文時代の時も鬼界カルデラの噴火にも言及が無かったように思います。
稲作は朝鮮半島を経由したとは思えない。中国北部は麦作文化と思います。米は中国南部から直接渡来したのでは。
秦の時代紀元前200年前に徐福が不老不死の薬草を求めて和歌山県あたりまで来ている、大陸には帰国していないそのまま住み着いた秦朝の高官、中国文化の痕跡がない秦(はた)の名字は今でもあるが秦の一族はどうなった?日本はまだ弥生時代徐福だけではなく従者も100人は連れてきている、徐福なんにもしていない!秦の記録には徐福伝説はある。
米は半島から来たのじゃない!!あんた、「お隣さん系」?
純日本人です笑
@@歴史倶楽部 さん資金は?
柳田國男の海の道は、幻想だったのか?
もっときちんとした検証を望みます 従来の説を繰り返す意味があるのか疑わしいです。
おおよそ全部の動画を拝聴したのですが、この人の説は疑問だらけ信じられません。
出鱈目解説。恥ずかしいとおもわないのか。
朝鮮に渡海してくる技術があったのは疑わしいですね。事実対馬壱岐には日本人が住んでるのでそこまで渡ってこれなかったんだと思う。新羅も日本に一方的に侵略され、白村江に至っても海戦をやっているのは日本だった。鎌倉時代でも船が稚拙で全滅した。
板付Ⅰ式土器より古時代の稲作の遺跡が日本各地にあるのに板付Ⅰ式土器が稲作が大陸から伝わった証拠になるわけがない。動画をつくるのなら古い文献や説を捨てて勉強しなおした方がよいじゃない。嘘を広めるな。
つづき、そうすると、タミルーフィリッピン・琉球-九州・南朝鮮という海を経て並列的な伝わり方が考えられます。つまり朝鮮と日本には、共通祖先がいると考えるのが自然ではないでしょうか?
諸説ある中で一仮説を確定的に 断定的にに説明されていますが非常に強引な手法です。諸説をも説明して朝鮮半島経由で稲作伝来説を主張されなら納得出来ますが。戦後この様な説が主流だったと思いますが。そしてこの動画に垣間見えた特定政治勢力の主張が気になります。
君は、菜畑遺跡からは縄文土器しか出土しないかった。即ち、渡来人ではなく、日本人が水田稲作を始めたんだよ。こんなことが分からないのかね。
朝鮮半島南部の稲作は倭人が伝えたのでは?
古事記、日本書紀の記載により神武天皇の東征も紀元前7世紀だね。やはり古事記、日本書紀もちゃんと事実に合って信じられる史料だね。
時報が古過ぎます。もっと勉強してから、作り直すをお願いします。
稲作伝来の説明を聞きき、この後の視聴を辞めます。登録も解除、サヨウナラ。
大変よくまとめておられ勉強になります。TH-camで古代史の動画を見るため知識がついてしまいました。それで質問させていただきます。1番目は、稲作の伝播についてですが、WEBで見ていた時、稲作が広まったのはBC100年頃までに西日本に、そして紀元300年頃までに東日本にもと言う説明がありました(多分クボタのHPだったような、あやふやですが)。ご説明だと、これよりもづい分早かったようですね。炭素年代法というのは信頼性あるんですか?2番目は、稲自体の渡来経路ですが、遺伝子解析から、朝鮮経由はあり得ないという主張があります。なんでも、現代の稲の比較では、中国や日本の稲にある遺伝子が朝鮮のものにはないこととを挙げていました。なので、中国南部から直接日本に入ってきたと考えた方がいいのではないでしょうか?3番目は、全部水田と言ってましたが、陸稲との区分はしなくていいんですか?これもWEBからの知識ですが、水路が全国的に整備されたのは紀元後200〜300年という説明でした。水田稲作には面倒な水路が必要ですから、最初佐賀県あたりで小規模な水田稲作がされていたとしても、ご説明よりももっと遅かったんじゃないかと疑っています。4つ目は、魏志倭人伝の卑弥呼がいた邪馬台国では山の上で稲作ののような記述だったと思うのですが、これは陸稲じゃないかと思うのですが、どうでしょう?これは紀元後3世紀ですよね。5番目が、戦いが起こった理由についてですが、私は、人間や動物には戦いの本能があると言ったオーストリアのノーベル賞学者の説を信じてます。なぜ戦うかといえば、フードテリトリーを守るためです。縄文人たちは狩猟採集の生活なので、広い範囲の土地を自由に使っていたんじゃないですか。しかし、一旦自分たちの食糧調達地が侵されたら戦争です。これは間違いないと思います。猛獣たちも同様ですから。弥生人は稲作をしますから、より固定された土地をフードテリトリーにします。このフードテリトリーが犯されるのであれば戦争です。つまり、食糧調達地が、縄文人たちには広く境界もあやふやだったのが、弥生人は狭くはっきりしたことによって、戦争の頻度や規模が変わったんじゃないかと考えます。どうでしょう?6番目が甕の棺というのはいつくらいまで続いたのでしょうか?紀元後50年代に後漢の皇帝から金印をもらいましたが、その金印は一旦行方不明になり、江戸時代に糸島かどこかの甕の棺から見つかったという説明がある動画でありました。金印の真偽については、私は偽物説なのですが、いろいろ引っかかる事がありためです。そのうち甕の棺もそうです。ご教示いただけると助かります。最後に、古代史も地域によって説がバラバラです。郷土史的に考えればどうしても贔屓目な事が出てきます。そこで、少し失礼と思いますが、どういうお立場なのか簡単にでも教えていただけると助かります。
コメントありがとうございます。1.水田稲作が紀元前10世紀に始まったという研究成果が発表されたのは2003年5月のことです。国立歴史民俗博物館の研究チームが、水田稲作開始期の調理用の土器に付いているススなどの炭化物を炭素14年代測定したところ、紀元前10世紀までさかのぼることが分かりました。50年前までも同じ炭素14に着目した年代測定をしていましたが、AMS=加速器質料分析法という新たな炭素14年代測定法ができ、それまで測定に必要な試料の量が足りなくて測定できなかったものが、短い時間で、しかも高精度に測定できるようになりました。炭素14年代測定の説明に関しては、私の日本史①の動画で解説してます。2.そうなんですね。参考にさせていただきます。3.九州北部に伝わった稲作が灌漑水田稲作と考えられていることから、今回は水田稲作の伝播を中心にお話しました。4. 禾稲・紵麻を種え…という記述はありますね。陸稲なんでしょうか。5.おそらく縄文時代にもそのような争いがあったと想像できますね。考古学的に、戦いをしたという形跡が弥生時代からは見られるようになりますね。立場は、秘密ということでお願いします
ご返答ありがとうございます。
ファクトと想像を区別しないで歴史を語るのはやめてほしい。
河姆渡辺りで水稲栽培を始めたのは先島諸島辺りから苗を持って行った縄文の人たちだろう。朝鮮半島南部に居た人たちも縄文人。未だに大陸由来半島経由説を拡散してる人って、、、。
ある意味おかしい。中上流と下流の水稲地域と分ける事がおかしい。人間には、塩が必須で生存の為に反乱の理由になった。日本では、岩塩等々無い。かろうじて、一部地域で温泉的に出る位。製塩の為の場所と燃料を調達する場所で争いの本にもなったろう?
よく研究されておられて敬意を表します。イラストがあって教材にも適切です。86歳作家。
水田が始まっていたから縄文土器だけど弥生土器と呼ぶwww時代区分を土器ではなくて水田稲作に変えたのはいいとして、だからと言って縄文土器を弥生土器と呼ぶのはバカですか?両方同時に変わる方がおかしいでしょう。水田にして生活様式が変わって新しいやり方を発見してやがて弥生土器が生まれる、段階的に変わっていくものです、ガラケーなのに5Gが普及したのでこれも最古のスマホですwwwwってか?
その時代には、骨格・人相が一変するほどの渡来人(弥生人)の民族大移動と縄文人へのジェノサイドがあったんですね。ヤマト民族とは、大陸からの中国人、半島からの朝鮮人(渡来人)だったんですね。ご教示ありがとうございます。
中華人(略奪民族=中華思想)の子孫は、Y染色体研究で日本男性の40%位いるそうですよ!
弥生人の頭蓋骨に、武器によると思われる損傷が多く見つかっているので、争い事があったことは推測されるが、ジェノサイドがあったかどうかなどは、昔のことなどで誰にも分かりません。
お米美味しいですよね。でも、太平洋戦争後、米軍機が関東平野を調査した時は「日本は麦作中心」だと思ったほど、稲作の印象はなかったそうです。日本の米が自給率100%を達成するのもわりと最近(1960年代)の話ですしね。(戦前は台湾産米で日本人の食卓は救われています)僕は他の方々が主張する歴史の「真実」よりも、とりあえず「通説」を淡々と解説して頂ける方がありがたいですし、真実を追及するなら自分で動画を作成するなり、大学に再入学して「定説」の研究する方が合理的だと思います。ちなみに福島県産の新米を親戚より頂いたので、毎日食事が楽しみです。
神武東征と稲作の広がりがあっている。
最新のデータに基づくと
米伝来ルート説明に疑問を抱いてしまいました。
【弥生時代の開始年代 国立歴史民俗博物館 藤尾、今村、西本】の報告によると、
菜畑遺跡から出土した山ノ寺式甕底部の内面付着炭化物を炭素14年代測定し、校正歴年代を算出した結果 945calBC~915calBC(91.2%)(紀元前10世紀半頃)と推定しました。
弥生時代の始まりは紀元前945~915年のどこかで始まったと決定。従来の説から約500年遡ることに成りました。
更に「加速器-炭素14年代測定の研究で菜畑遺跡から出土した山の寺式土器編年の再検討を行い、校正年代(西暦に変換した)を見ると紀元前1420~1100年(93%)という値を出している。この値は今回私たちが発表した年代を含み、更にそれより古い部分に及んでいる」 つまり菜畑遺跡は朝鮮半島の水田稲作より遥かに古い時代でした。朝鮮半島から渡来人が来て水田稲作を伝えたという説は成り立たないのではないでしょうか
丁寧に解説してくれているのにコメント荒れてしまっていて残念です。
イデオロギーで過去を見るのはもったいないことです。
南西諸島には先史時代の稲作遺跡が全くないこと、東シナ海横断の難しさ、山東半島から朝鮮半島南部へのアクセスや対馬海峡を挟んだ人的往来を考えれば、朝鮮半島経由で伝来した蓋然性は高いはず。
3年前の動画にコメントしていてなんですが、この後も丁寧な動画を作り続けてくれてありがとうございます。
水耕が半島から来たってのは眉唾だな
日本には水田稲作より前に焼き畑畑作や稲作が南方沖縄経由で縄文時代のBC8000年頃すでに伝来しているようです。水田稲作は中国江南から直接日本に伝来したようで、韓国より日本のほうが水田稲作が早いようです。昔は朝鮮半島に倭人が住んでいたと中国の記録にありますから、日本から韓国に水田稲作を伝えたのかもしれません。
朝鮮半島の水田遺跡よりも日本の水田遺跡の方が古いはずです。つまり水田稲作は日本から朝鮮半島に伝わったと考えた方が自然です。この動画シリーズ全般で、変に朝鮮上げをしている所が気になりました。
揚子江下流域梁王城遺跡から出土した弥生時代の古人骨と土井が浜の古人骨のミトコンドリアDNAが一致し、しかも現代人につながっていることが判明しています。やはり直接揚子江下流域から来ています。
稲作の伝播は考古学による発掘調査と稲の遺伝子解析による結果、朝鮮半島経由ではなく逆に日本から半島に伝わったはずですが?
水田稲作は大陸、朝鮮半島から伝わったとは逆に日本列島から半島、大陸に伝わったという科学的根拠に基づいた新説が出ています
揚子江下流域から直接です。
稲は長江下流の長江文明で発生したとの説があります。温帯の植物ですから小麦、トウモロコシの黄河文明を経由して朝鮮北部から南部を経由する説は無理があります。長江流域の江南の越人が船を使い直接九州に伝えたとも考えます。水田稲作が伝わってきたルートで小麦文化の地域から水田稲作の遺跡が見つかっているのでしょうかご教示ください
小麦文化の地域から水田稲作遺跡が見つかっているかは分かりませんが、考古学者藤尾慎一郎によると、およそ7000年前に中国長江下流域で始まった水田稲作が日本列島に伝わるルートについては、東シナ海を渡る直接渡来説や、沖縄から島伝いに北上してくる南西諸島ルートがあり、考古学者の意見では朝鮮半島南部経由説でほぼ統一されているそうです。ただ、中国山東半島から朝鮮半島南部への至るまでに遼東半島を経由したのか、黄海を直接渡ったのかについては議論が続いているようですね。
@@歴史倶楽部 朝鮮半島南部経由説でほぼ統一されているとのことです。南部の遺跡で菜畑遺跡で発見された紀元前10世紀より古い遺跡は発見されているのでしょうか
最近の稲作の伝来についての研究を勉強してますか?
稲作に関して、DNA鑑定によって長江流域(揚子江)と判定されています。
日本の稲作は、縄文時代後晩期(約3000-4000年前)と言われ始めていますが?
朝鮮経由は修正されています。
朝鮮半島の稲作歴史に関して、もっと詳しく述べて欲しい。
米遺伝子の朝鮮半島と日本の違い、気候特に気温などの関係ついても説明して欲しい。なぜ米の育たない北京満州朝鮮半島経由で伝来したか?不思議。
稲作は朝鮮半島を経由していないという研究については如何ですか?
水稲耕作半島渡来説なら対馬壹岐を経由して博多に初期の水田が現れるのが自然です。
長江下流域から佐賀に黒潮に乗ってたどり着いた人々がいてもおかしくありません。
この頃オーストロネシア全域に人が住んでいたのですから。
稲のDNA解析がされています。その結果は朝鮮と日本の稲は系統が違うことがわかったということで。朝鮮から稲が入った説は疑問です。むしろ日本から朝鮮への流れでは。
大陸で水田稲作は何時からですか?
水田稲作は、中国の高温多湿である長江地方から黒潮にのって渡来人がもたらしたと今は言われています。梅雨がある日本だからとおやもいます。寒冷、乾燥の半島、争いが多い半島から伝わったとは思えません。稲作があったから朝鮮をしたがわせる力があったと思います。
朝鮮での水田稲作の遺跡が前10世紀で発見されているのであれば紹介しなければなりません!
縄文時代、弥生時代って、そんなに明確に区切れるものなのかな・・・と常々疑問に感じてます。
例えば当時の人たちは「おい!明日から弥生時代だってよ」「え~!縄文今日で終わりなん??・・・じゃ今晩みんなでカウントダウンする?」
とか言ってたりしたのかな?とか、妙に形骸的なイメージがあります。
なかなか、面白い、です。
切らないで話した方が良いと思います。
岸田総理みたいですよ。
朝鮮半島の表土は薄く農耕に適さず、稲作りも水稲ではなく陸稲=オカボであったという説も有りますがいかがですか。朝鮮半島経由の稲作の伝播は他の方のコメントにもあるとおり疑問です。
大野晋さんによると、インドタミル地方の文化と日本の文化は濃厚な類似性がみられ、インドタミル地方を出発に、大陸や琉球を長期に経由して、九州―瀬戸内海―畿内への広がったという説を語られています。
稲作は半島を経由した痕跡は無いぞ
遺物のDNAも違うし半島での稲作は気候的に無理があることがわかっているし
見つかる痕跡も全然新しいもので
規模も小さくやっては見たが定着はしなかったとしか考えられん
そうだ、そうだ。
こいつ、何者や?
日本最古の縄文土器だって、
本当は世界最古なんだぞ。
こいつ日本を貶める為に来た、C国かK国の回し者だろう⁉️
グッドボタンもチャンネル登録もして居ないのにサムネがいっぱい上がって来る!
寒冷地でも栽培できる稲の品種改良にかかった時間はどのくらいなのでしょうか。
黒ボク土での稲作、干上がった湖沼での稲作について解説していただけると助かります。
弥生時代に、争いごとが増えることに対して、「恐ろしいですね」と感情論を入れるのは、歴史を勉強する者として、いかがなものか?
稲作が半島経由?稲のDNAが一致しないのでしょう? 古臭い話はもう止めたほうがいい。
なぜ、稲作は伊勢湾沿岸から金沢へ陸路で伝搬したと考えられるのでしょう。
山陰地方から金沢へ海を使って伝播したとか、大阪、琵琶湖から金沢へ伝播したと考えることができないのでしょう?
飛騨の山を越えるのは大変です。伊勢湾沿岸から関東へ伝播するのですら大変な時間がかかっています。
伊勢湾から金沢へと伝播するより、山陰から琵琶湖から伝わったと考えるのが自然です。
今では、稲作は縄文時代にもう行われて居たのが、最新情報、弥生土器も炭で焼いていた。もう少し最新情報を勉強して下さい。
2年前とは色々情報が更新してるのだから、稲作の伝来とか言う過去の動画はやめた方がいいですよ。恥ずかしい。
稲作がゆっくり浸透する、先住民とは平和共存。戦争が頻発する、稲作民同士の水や土地争い。ということか。
稲作の伝来は間違って居ます。朝鮮北部では稲は作れません。作れない所から伝わる事自体怪しいと思いますが、今では縄文人により日本から中国揚子江流域に伝わったの最新情報、最も勉強して下さい。
たしかに1年前でこの情報は古すぎるかもですね。弥生時代の始まりと春秋戦国時代との関連性に言及がないのもちょっとって感じだし、縄文時代の時も鬼界カルデラの噴火にも言及が無かったように思います。
稲作は朝鮮半島を経由したとは思えない。
中国北部は麦作文化と思います。米は中国南部から直接渡来したのでは。
秦の時代紀元前200年前に徐福が不老不死の薬草を求めて和歌山県あたりまで来ている、大陸には帰国していないそのまま住み着いた秦朝の高官、中国文化の痕跡がない秦(はた)の名字は今でもあるが秦の一族はどうなった?日本はまだ弥生時代徐福だけではなく従者も100人は連れてきている、徐福なんにもしていない!秦の記録には徐福伝説はある。
米は半島から来たのじゃない!!あんた、「お隣さん系」?
純日本人です笑
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資金は?
柳田國男の海の道は、幻想だったのか?
もっときちんとした検証を望みます 従来の説を繰り返す意味があるのか疑わしいです。
おおよそ全部の動画を拝聴したのですが、この人の説は疑問だらけ信じられません。
出鱈目解説。恥ずかしいとおもわないのか。
朝鮮に渡海してくる技術があったのは疑わしいですね。事実対馬壱岐には日本人が住んでるのでそこまで渡ってこれなかったんだと思う。新羅も日本に一方的に侵略され、白村江に至っても海戦をやっているのは日本だった。鎌倉時代でも船が稚拙で全滅した。
板付Ⅰ式土器より古時代の稲作の遺跡が日本各地にあるのに板付Ⅰ式土器が稲作が大陸から伝わった証拠になるわけがない。
動画をつくるのなら古い文献や説を捨てて勉強しなおした方がよいじゃない。嘘を広めるな。
つづき、そうすると、タミルーフィリッピン・琉球-九州・南朝鮮という海を経て並列的な伝わり方が考えられます。つまり朝鮮と日本には、共通祖先がいると考えるのが自然ではないでしょうか?
諸説ある中で一仮説を確定的に 断定的にに説明されていますが非常に強引な手法です。諸説をも説明して
朝鮮半島経由で稲作伝来説を主張されなら納得出来ますが。戦後この様な説が主流だったと思いますが。
そしてこの動画に垣間見えた特定政治勢力の主張が気になります。
君は、菜畑遺跡からは縄文土器しか出土しないかった。即ち、渡来人ではなく、日本人が水田稲作を始めたんだよ。こんなことが分からないのかね。
朝鮮半島南部の稲作は倭人が伝えたのでは?
古事記、日本書紀の記載により神武天皇の東征も紀元前7世紀だね。やはり古事記、日本書紀もちゃんと事実に合って信じられる史料だね。
時報が古過ぎます。もっと勉強してから、作り直すをお願いします。
稲作伝来の説明を聞きき、この後の視聴を辞めます。登録も解除、サヨウナラ。
大変よくまとめておられ勉強になります。TH-camで古代史の動画を見るため知識がついてしまいました。それで質問させていただきます。
1番目は、稲作の伝播についてですが、WEBで見ていた時、稲作が広まったのはBC100年頃までに西日本に、そして紀元300年頃までに東日本にもと言う説明がありました(多分クボタのHPだったような、あやふやですが)。ご説明だと、これよりもづい分早かったようですね。炭素年代法というのは信頼性あるんですか?
2番目は、稲自体の渡来経路ですが、遺伝子解析から、朝鮮経由はあり得ないという主張があります。なんでも、現代の稲の比較では、中国や日本の稲にある遺伝子が朝鮮のものにはないこととを挙げていました。なので、中国南部から直接日本に入ってきたと考えた方がいいのではないでしょうか?
3番目は、全部水田と言ってましたが、陸稲との区分はしなくていいんですか?これもWEBからの知識ですが、水路が全国的に整備されたのは紀元後200〜300年という説明でした。水田稲作には面倒な水路が必要ですから、最初佐賀県あたりで小規模な水田稲作がされていたとしても、ご説明よりももっと遅かったんじゃないかと疑っています。
4つ目は、魏志倭人伝の卑弥呼がいた邪馬台国では山の上で稲作ののような記述だったと思うのですが、これは陸稲じゃないかと思うのですが、どうでしょう?これは紀元後3世紀ですよね。
5番目が、戦いが起こった理由についてですが、私は、人間や動物には戦いの本能があると言ったオーストリアのノーベル賞学者の説を信じてます。なぜ戦うかといえば、フードテリトリーを守るためです。縄文人たちは狩猟採集の生活なので、広い範囲の土地を自由に使っていたんじゃないですか。しかし、一旦自分たちの食糧調達地が侵されたら戦争です。これは間違いないと思います。猛獣たちも同様ですから。弥生人は稲作をしますから、より固定された土地をフードテリトリーにします。このフードテリトリーが犯されるのであれば戦争です。つまり、食糧調達地が、縄文人たちには広く境界もあやふやだったのが、弥生人は狭くはっきりしたことによって、戦争の頻度や規模が変わったんじゃないかと考えます。どうでしょう?
6番目が甕の棺というのはいつくらいまで続いたのでしょうか?紀元後50年代に後漢の皇帝から金印をもらいましたが、その金印は一旦行方不明になり、江戸時代に糸島かどこかの甕の棺から見つかったという説明がある動画でありました。金印の真偽については、私は偽物説なのですが、いろいろ引っかかる事がありためです。そのうち甕の棺もそうです。ご教示いただけると助かります。
最後に、古代史も地域によって説がバラバラです。郷土史的に考えればどうしても贔屓目な事が出てきます。そこで、少し失礼と思いますが、どういうお立場なのか簡単にでも教えていただけると助かります。
コメントありがとうございます。
1.水田稲作が紀元前10世紀に始まったという研究成果が発表されたのは2003年5月のことです。国立歴史民俗博物館の研究チームが、水田稲作開始期の調理用の土器に付いているススなどの炭化物を炭素14年代測定したところ、紀元前10世紀までさかのぼることが分かりました。
50年前までも同じ炭素14に着目した年代測定をしていましたが、AMS=加速器質料分析法という新たな炭素14年代測定法ができ、それまで測定に必要な試料の量が足りなくて測定できなかったものが、短い時間で、しかも高精度に測定できるようになりました。
炭素14年代測定の説明に関しては、私の日本史①の動画で解説してます。
2.そうなんですね。参考にさせていただきます。
3.九州北部に伝わった稲作が灌漑水田稲作と考えられていることから、今回は水田稲作の伝播を中心にお話しました。
4. 禾稲・紵麻を種え…という記述はありますね。陸稲なんでしょうか。
5.おそらく縄文時代にもそのような争いがあったと想像できますね。考古学的に、戦いをしたという形跡が弥生時代からは見られるようになりますね。
立場は、秘密ということでお願いします
ご返答ありがとうございます。
ファクトと想像を区別しないで歴史を語るのはやめてほしい。
河姆渡辺りで水稲栽培を始めたのは先島諸島辺りから苗を持って行った縄文の人たちだろう。
朝鮮半島南部に居た人たちも縄文人。
未だに大陸由来半島経由説を拡散してる人って、、、。
ある意味おかしい。
中上流と下流の水稲地域と分ける事がおかしい。
人間には、塩が必須で生存の為に反乱の理由になった。
日本では、岩塩等々無い。かろうじて、一部地域で温泉的に出る位。
製塩の為の場所と燃料を調達する場所で争いの本にもなったろう?
よく研究されておられて敬意を表します。イラストがあって教材にも適切です。86歳作家。
水田が始まっていたから縄文土器だけど弥生土器と呼ぶwww時代区分を土器ではなくて水田稲作に変えたのはいいとして、だからと言って縄文土器を弥生土器と呼ぶのはバカですか?両方同時に変わる方がおかしいでしょう。水田にして生活様式が変わって新しいやり方を発見してやがて弥生土器が生まれる、段階的に変わっていくものです、ガラケーなのに5Gが普及したのでこれも最古のスマホですwwwwってか?
その時代には、骨格・人相が一変するほどの渡来人(弥生人)の民族大移動と縄文人へのジェノサイドがあったんですね。
ヤマト民族とは、大陸からの中国人、半島からの朝鮮人(渡来人)だったんですね。ご教示ありがとうございます。
中華人(略奪民族=中華思想)の子孫は、Y染色体研究で日本男性の40%位いるそうですよ!
弥生人の頭蓋骨に、武器によると思われる損傷が多く見つかっているので、争い事があったことは推測されるが、ジェノサイドがあったかどうかなどは、昔のことなどで誰にも分かりません。
お米美味しいですよね。でも、太平洋戦争後、米軍機が関東平野を調査した時は「日本は麦作中心」だと思ったほど、稲作の印象はなかったそうです。日本の米が自給率100%を達成するのもわりと最近(1960年代)の話ですしね。(戦前は台湾産米で日本人の食卓は救われています)
僕は他の方々が主張する歴史の「真実」よりも、とりあえず「通説」を淡々と解説して頂ける方がありがたいですし、真実を追及するなら自分で動画を作成するなり、大学に再入学して「定説」の研究する方が合理的だと思います。
ちなみに福島県産の新米を親戚より頂いたので、毎日食事が楽しみです。