ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
私はパウロが言った、集まり合うことをやめてはいけません…の言葉に従います。これから来る艱難は、並大抵なものではないと思います。いい加減な信仰では携挙に取り残されてしまいます。だから今のうちに礼拝は大切にして、できる限り礼拝に行こうと思っています
教会タイムズで語って欲しい、お悩み、相談を募集しています!メールかコメントでどしどしお願いします
でも、こうやって、みんなで意見を出せる場をもうけてくれて、ありがとうございました。また、教会に行ってみようかなって気になりました。
一番無くしてはならないのは、教会側が自分に関心を持ってるという事を気づかせる事だと思いました。
何事にも時期があるそうですが、私も牧師先生の言ってる事は最もだ、礼拝とかも出た方がいいと思うんですが、やっぱり面倒臭いとか、違和感みたいのを感じて教会に行けません。でも、教会関係者が発してる言葉とか、牧師先生の言う事はちゃんとみんな聞いてると思いまふ。だから、メゲズにメッセージを送り続ける事が大事だと思います
思いは、ちゃんと伝わってますm(_ _)m🌌🌌🌠🌌本当にありがとうございました
思いは、ちゃんと伝わってますm(_ _)m🌌🌌🌠🌌だから、大丈夫です。継続は力なり!🌌🌌🌌🌌
既に許されているのに許されているのか?というのは?と見る前はタイトルに疑問を持ちましたが、🎉見終わってみれば🎉そんな事もなく楽しく見てました✨
コメントありがとうございます!既に許されているのに罪悪感を抱いてしまうという問題ですね
「完全オンライン教会」のクラウドチャーチです。「オンライン礼拝」の理解増進の内容を配信いただき、感謝します。ただ、今回の配信で疑問に思った点がいくつかあるので、ここに書かせていただきます。■「許されるのか」というタイトル許すという行為には主体があるので、誰から見て許されるのかという話をしているのかが気になりました。神に許されるのか、それとも特定の人に許されるのか、共同体に許されるのか、それぞれで話が変わってくると思います。また、「許されるのか」というタイトルの前提には「許されない」という意見が一定数あることを示していますが、どういう論点で「許されない」という意見があるのかの紹介がありませんでした。「許されない」という人たちが、どういう視点からそう思っているかの紹介があり、それに対する反論があれば、より分かりやすかったと思います。■「オンライン礼拝」とは何か定義してほしかったこの議論では「礼拝」とは何か、また「オンライン礼拝」とは何かで話が変わってきます。まず議論の前提として、「礼拝」や「オンライン礼拝」の定義づけをしてほしかったです。■人からどう見られるかで議論されているタブレットの使用の件でも如実に表れていましたが、この動画の内容の多くが「人からどう見られるか/評価されるか」で話しているように感じました。それよりも聖書の記述をベースにどう考えるべきかを話した方が、本質の議論になるのではないかと思いました。■テクノロジーの問題なのか?議論の大部分は「聖書でも宗教の歴史でも最新のテクノロジーを用いているのだからオンライン礼拝もokのはず」という内容でしたが、個人的には「本質はそこなのか?」と思いました。これは私見ですがオンライン礼拝は「許されない」と思っている方々の理由の多くはテクノロジー云々ではなく、もっと別の理由だと思います。少し根拠としては軸がズレてしまっているのかなと感じました。長々書きましたが、後編も注目しています!
様々な視点を提供いただきありがとうございます!礼拝の定義など話す人がいたら議論が豊かになったかもしれませんね
行けるのに、行けなかった罪悪感。教会は、日曜日は、礼拝が当たり前で、その教会のその決めた礼拝に行くのが、良くてオンライン礼拝は、礼拝じゃない。みたいな教会の雰囲気が、罪悪感を産むのでしょ?オンライン礼拝も、リアル礼拝も「霊的うえ渇き」が出てくるからね。
霊的うえ渇き、大切ですね!
聖書と聖歌に触れていれば♪エエと思います💒
ほんとですね
聖書って色々な意味に解釈できるところが少なくないんです。だから教会としては自分たちの教会と同じ解釈を教会員にして欲しいから 一人での聖書勉強を嫌う傾向にあるよう感じます。そういう意味から教会側としてはリアルで来て欲しいと思っているのでしょう。だからオンラインは独自での聖書勉強よりは益し、できたらリアルで、、、そんな訳で罪悪感を植え付ける傾向が有るのではないでしょうか? 私の所属する教会の経理の方はリアルで来てもらえないと献金が減ってしまうと語っていました。
私はパウロが言った、集まり合うことをやめてはいけません…の言葉に従います。これから来る艱難は、並大抵なものではないと思います。いい加減な信仰では携挙に取り残されてしまいます。だから今のうちに礼拝は大切にして、できる限り礼拝に行こうと思っています
教会タイムズで語って欲しい、お悩み、相談を募集しています!メールかコメントでどしどしお願いします
でも、こうやって、みんなで意見を出せる場をもうけてくれて、ありがとうございました。また、教会に行ってみようかなって気になりました。
一番無くしてはならないのは、教会側が自分に関心を持ってるという事を気づかせる事だと思いました。
何事にも時期があるそうですが、私も牧師先生の言ってる事は最もだ、礼拝とかも出た方がいいと思うんですが、やっぱり面倒臭いとか、違和感みたいのを感じて教会に行けません。でも、教会関係者が発してる言葉とか、牧師先生の言う事はちゃんとみんな聞いてると思いまふ。だから、メゲズにメッセージを送り続ける事が大事だと思います
思いは、ちゃんと伝わってますm(_ _)m🌌🌌🌠🌌本当にありがとうございました
思いは、ちゃんと伝わってますm(_ _)m🌌🌌🌠🌌だから、大丈夫です。継続は力なり!🌌🌌🌌🌌
既に許されているのに許されているのか?というのは?と見る前はタイトルに疑問を持ちましたが、🎉見終わってみれば🎉そんな事もなく楽しく見てました✨
コメントありがとうございます!既に許されているのに罪悪感を抱いてしまうという問題ですね
「完全オンライン教会」のクラウドチャーチです。「オンライン礼拝」の理解増進の内容を配信いただき、感謝します。ただ、今回の配信で疑問に思った点がいくつかあるので、ここに書かせていただきます。
■「許されるのか」というタイトル
許すという行為には主体があるので、誰から見て許されるのかという話をしているのかが気になりました。神に許されるのか、それとも特定の人に許されるのか、共同体に許されるのか、それぞれで話が変わってくると思います。また、「許されるのか」というタイトルの前提には「許されない」という意見が一定数あることを示していますが、どういう論点で「許されない」という意見があるのかの紹介がありませんでした。「許されない」という人たちが、どういう視点からそう思っているかの紹介があり、それに対する反論があれば、より分かりやすかったと思います。
■「オンライン礼拝」とは何か定義してほしかった
この議論では「礼拝」とは何か、また「オンライン礼拝」とは何かで話が変わってきます。まず議論の前提として、「礼拝」や「オンライン礼拝」の定義づけをしてほしかったです。
■人からどう見られるかで議論されている
タブレットの使用の件でも如実に表れていましたが、この動画の内容の多くが「人からどう見られるか/評価されるか」で話しているように感じました。それよりも聖書の記述をベースにどう考えるべきかを話した方が、本質の議論になるのではないかと思いました。
■テクノロジーの問題なのか?
議論の大部分は「聖書でも宗教の歴史でも最新のテクノロジーを用いているのだからオンライン礼拝もokのはず」という内容でしたが、個人的には「本質はそこなのか?」と思いました。これは私見ですがオンライン礼拝は「許されない」と思っている方々の理由の多くはテクノロジー云々ではなく、もっと別の理由だと思います。少し根拠としては軸がズレてしまっているのかなと感じました。
長々書きましたが、後編も注目しています!
様々な視点を提供いただきありがとうございます!礼拝の定義など話す人がいたら議論が豊かになったかもしれませんね
行けるのに、行けなかった罪悪感。教会は、日曜日は、礼拝が当たり前で、その教会のその決めた礼拝に行くのが、良くてオンライン礼拝は、礼拝じゃない。みたいな教会の雰囲気が、罪悪感を産むのでしょ?オンライン礼拝も、リアル礼拝も「霊的うえ渇き」が出てくるからね。
霊的うえ渇き、大切ですね!
聖書と聖歌に触れていれば♪エエと思います💒
ほんとですね
聖書って色々な意味に解釈できるところが少なくないんです。だから教会としては自分たちの教会と同じ解釈を教会員にして欲しいから 一人での聖書勉強を嫌う傾向にあるよう感じます。そういう意味から教会側としてはリアルで来て欲しいと思っているのでしょう。だからオンラインは独自での聖書勉強よりは益し、できたらリアルで、、、そんな訳で罪悪感を植え付ける傾向が有るのではないでしょうか? 私の所属する教会の経理の方はリアルで来てもらえないと献金が減ってしまうと語っていました。