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大変に立派な先生が居られたのですね。子供の心が奇麗です。何とかして子供たちの学力、発表力、表現力、思考力を伸ばしてやりたいと、奮闘する山田先生のお気持ちがすばらしい。先生はすでに存命ではないのでしょうが、この記録は真心を伝えていると思います。
こう言う貴重な映像は本当にありがたいです。後生大切に残して頂きたいです。
私は昭和三十年生まれですから…その当時の昭和の戦後復興の時代の香りを感じました。 先生は、おそらく応召兵として戦地に赴き、生還された方だろうなと分かります。 先生の凛とした多姿勢と、その立ち居振る舞いから、本当にご苦労為されたんじゃないかと思います。 何円もへき地の村の分教場を戦後真間汚なく、から撮影当時の31年往時を思いめぐらすと、ここに本物の日本人ワオ見つけた思いでうれしくなります。 無駄な動きも余計なことも言わない、戯言が無く常に、前向きなオーラを感じて背筋が伸びます。 当時は着物を動きやすい、チャンチャンコと、モンペにしそのファッションは手作りですよね。 私の小学校一年生の37年でも、それほど雰囲気は変わってません。 山奥からスキーで下ってくる子もいましたし、当時は、特に子供さんが多く、小学校での一クラス二十余名が三クラス四クラスもありましたね。 達磨ストーブに巻から火を起こす当番がなんか好きで、一時間も早く、登校して関丹波から石炭を取ってきたり、ま巻き割ったり、この巻き割りやると体が温まって、苦になりませんでしたよ。 そして内緒で、持ち焼くんですが、臭いでばれるんだよね、昔のもちは、上等でしたから、おいしいし香ばしい。 かきもちやミカンまで焼きましたよwwww もう、当時に思いにふけますね。
読書から自分の意見を述べたり自主性や社会性を養ったり…型にとらわれず子供一人一人の能力と向き合っている感じがとても素晴らしいと思います。父が昭和24年生まれでちょうどここに居る子達の1.2年生にあたると思います。山村育ちではないですが、白黒写真でしか見たことない父の姿。こういう時代に生きていたのかなと感慨深いものがあります。
日本人に生まれて良かった🍀誇らしい日本。勤勉で正直な日本人たちが眩しいですね。何度も言いますが日本人に生れて、本当に良かった🍀
こんにちわ。群馬の 斉藤今朝雄 と申します。長い間探し求めていた映画でした。山田 修さんも若かったですね。それもそうです。昭和31年で私がまだ一歳でした。
祖母が、片品村で、教師をこの頃していたとの事です。こんな感じだったのかと、感慨深く拝見しました。
私も此の学校と良く似た谷間の山奥の小中学校で学びました当時山道を毎日歩いて1時間30分もかけてかけてこられた恩師。先生方本当に有難うございます
厳しい生活を余儀なくされているとは思えないほど、先生も子供たちも生き生きしていつも楽しそうなのが印象的です☺️
私が昭和28年3月生まれ、67歳だから、この子供達は現在75歳前後ぐらいでしょうね。私も秋田のこのような山の中の分校通いでした。現在は東京のど真ん中で暮らしておりますが、こんな現在は想像もしていませんでした。きっと、ここの子供達も大半が都会暮らしをしているんでしょうね。昔を懐かしみながら・・・
私も昭和28年3月生まれです。空爆で丸焼けになった鉱山町の大きな学校に行きました。その当時、山の中に僻地教育というものがあったなどと初めて知りました。あの頃の日本人は他人を思いやり、助け合って一生懸命生きていたという事が、懐かしく思い出されます。
野栗澤分校で調べたらここで20年以上教員やってた山田修先生は「すりばち学校の子供たち」なる写真集出してるんだな。1976年閉校とのこと。
日本の原風景があるように思います。こういう光景が日本のあちらこちらにあったのですが、その多くが既に無く閉校されたり集落そのものが廃村になったりしてます。本当に寂しい限りです。
私も隣村の分校育ちです。やはりこのような立派な先生もおりました。せめて半分でも山田先生の文才がありましたら・・・と思いまちた。
貧しくとも、人が人を作る時代でした。永く続いた日支事変、大東亜戦争は日本人を強く育んだ。その強さが戦後、米国に次ぐ経済大国になり世界の奇跡とも呼ばれた。現日教組の先生方や日経連の方々に是非見て頂きたい番組である。人が人を作る時代を再び迎えなければならない。貴重な番組誠に有り難うございました。
100%ピント外れも甚だしい。①戦後教育は戦前の軍国主義の反省が出発点。教師の胸に秘められていた教育の原点は「二度と教え子を戦場に送らない」②「奇跡の復興」?物を考える事が出来ない君に歴史の経緯を語っても通じないと思うが,戦後の経済成長は奇跡ではなく,必然。昭和30年代後半団塊の世代が労働適正年齢に達し労働→生産→収入→消費の循環が始まった。それを可能にしたのは皮肉にも戦前培った軍需産業の生産技術の蓄積。ドイツしかりという事です。歴史を学ばない者は痴呆に等しい
こういう映画みると、泣けてくる。
雑巾がけ、懐かしいですね😊運が悪いとトゲが刺さるんですよねw床板の節穴を覗くと先代が落としたであろうお宝がいっぱい眠ってるのw
こういった映像をチェックするとけっこうな数の人が興味あるんだなと気付かされる。
群馬フィルの草創期の苦節を描いた、「ここに泉あり」という映画に出てくる、山の学校を思い出しました。山間の制約が多いであろう部落で、元気いっぱいに育つ子供達を、創意工夫と愛情を持って育てようと努力する先生。でも努力するのは先生だけでなく、子供達も、部落の人達もみんな一体となって努力してる姿が、素晴らしいですね。
昔あの映画のロケ地めぐりをやった記事を読んだ事がありましたが、山の学校は同じ上野村とのこと。この分校の本校でしょう(神流川は利根川水系だから『奥利根』でも間違いじゃない)小林桂樹氏は「この子たちは一生炭焼きや木こりで終わるんだ」 と言ってましたけど、その子たちが大きくなる頃には炭焼きや林業がダメになったのと高度経済成長で、『この子たち』のほとんどが町へ出ていってしまったという、何ともやりきれない締めだったと記憶しています
見ていると自分がニコニコしているのに気がついた。尊敬する人がいて、地域皆が教育に尽力する。地域社会に於いて、公共の事は多くの見返りを要求しないという時代が又日本に訪れると良いなぁ。先生は先生と呼ばれて恥じない様に尽力する地域の名士だ。
とても貴重な映像だと思います。こんなに素晴らしい教師と、その教師を慕う様にすくすくと成長してゆく子供たち。何も無い自然の中で育まれた、一つの素晴らしい映画を見ている様な村の人と教師との関係や絆。当時の日本には至る所にこう言った学校があったと思うだけで何か考えさせられるものを感じました。映画の様と言いましたが、かの有名な映画二十四の瞳の実話版に感じてしまいました。昔の日本には今はもう忘れてしまった大切なものが本当にあったんだなあ…としみじみ感じました。これからの世代にも学校教育の一環で歴史を勉強するだけでなく、現実の記録として残して観てもらいたい作品だと思います。
当時の日本には当たり前のように一万校もあり、その大半が殆んど忘れ去られた過去になりつつある中、これほど詳細に伝えるとは、歴史的に極めて貴重な映像だと思います。みんな貧しく、みんな一生懸命だった。この人たち、この子たとの努力が今の日本を作ってきたんですね。でも、今、この村はどうなっているのでしょうか?
昔は、貧しくても逞しく育った。現在は何でも手にはいるが心は....1956年制作ね、懐かしい筈だ。
そこに住んでいるだけで全身バネですよね、更に周辺を走るとは凄いですね!懐かしい机、上に開くタイブ、これで昔勉強していましたね・・・。
私の友達にグンマ県の方がいた。グンマはいいとこだんべぇ、とか、グンマはいいとこだに~って語尾が伸びるんです。あいつは今どうしてるんだんべー。この時代の教師は、まだまともな先生がいたんだに~。まさしく山の「24の瞳」の世界ですね。みなさんがお幸せな人生を生きておられることを心よりお祈りいたします。
現在の群馬県多野郡上野村野栗沢ですねえ。上野東小学校野栗沢分校は昭和51年に廃校となっていますが「すりばち分校」として名が通っており、この近くにある宿舎も「すりばち荘」という名前になっていますね。学校跡地には「すりばち分校跡地」という石碑があるそうです
野国沢に聞こえたが野栗沢なのか。この集落、今も健在でほっとした。
グーグルマップ、ストリートビューででみたらとんでもない僻地だな。
大変でしたね何処に行くにも歩きが当たり前つらい気持ちは無かった懐かしい思い出戻れんけどね先生も素晴らしいでした
窓ガラス越しに教室をのぞき込む幼児の顔。かわいい。
昔の子は皆んな素直ですね。
意外とコメント欄に若そうな人がいる。なんか嬉しいな。
この先生夫婦には子どもがいないのだろうか、それからまた、先生も地域も古い日本人の良さ、つまり質素で真面目でひたむきで勤勉さが満ち満ちていると思った、生きることに真剣な時代だったからかなあ
子供がみな可憐で可愛らしい。このような生活は不便であろうと思うが、それでも憧れる。
そうじは、変わらない
これは良かったです、泣けた😞💦昔の自分だよ😃
こんな山奥にこんなにたくさんの子供がいる風景は二度と見れないんだろうな
この学校は1976年に閉校したそうです。
明治維新からこのかた、あまねく小学校教育ができたのも、豊富な針葉樹林のおかげ林業は大切ですカメラマン、ご苦労さま
このような先生ならば、悪さをしたら真っ先に我が子を疑ってしまいますね人情味、見習いたいものです
こんばんは、昭和三十年生誕の方のご意見が多いですね、私も昭和三十年生誕で、今は坊主見習いの修練中ですが、当時の子供は弁当持参ですよね、私は弁当を持ってゆくのが恥ずかしくて嫌でした、幸いにも給食が出るようになりうれしかったなあ、父のデッカイ弁当箱に麦飯少々と味噌きばの漬け物、見るな、見るな、ばんざい。 合掌
昔の学校すげぇ!
女の子の、髪が、短い..
同じ時代の市井の風景を写真に残した井上孝治という写真家の人生を読んだ。(黒岩比佐子著)彼の写真集のひとつ『想い出の街』というのを早速図書館から借り出し絶妙なシャッターで切り取ったスナップを見ていたら、そこに写った子供達がいきなり動画になってここに出現したようで驚く!!九州の都市民と山村の人々の違いがあるけれど、人間とはかくありたしと真摯に思う映像だ。置き忘れたものを取り戻すチャンスは、やろうと思えば幾らでもあると信じたい。
男の子がなんで木材を引っ張ってきてると思ったら学校で使う薪なんだな。今でも山村をドライブしたら民家の前で薪積んでるとか普通にみかけるし。
現代の小学生は留守番もできないのであった
山田先生も勲章に値する人物ですね。いやまだ間に合う。
勲章なんか要りませんよ!
純真で警戒心のない子供は可愛いなぁ。しかも元気はつらつだしね、言うことないよ。教える相手が、こんな子ばかりだったら少々のことは我慢できそうだな。
素敵な映像です💛私のおかんがまだ赤ちゃんの時のですね~(ФωФ)この頃はまだカタカナなんですね。ちょっとだけタイムスリップして人々の生活とか建物とか色々見てみたいです☺️
こんにちは。今のサラリーマン化した先生にも是非とも観て貰いたい。先生の子供たちに対する愛情や本来あるべき子供たちの輝きに満ちた顔に癒されました。
安易な批判です。現在の教員の大変さを分かってない。国からの締め付け,親からの口出し,過労死しそうな時間外労働。昔は良かったの懐古にはうんざり
昭和の学校は凄く大好きです😍❤️昔は分校があったりして廃校になってしまい凄く寂しいですね😢私もこの時代に生まれたら成績が良くなったり私は平成3年生まれで障害者で成績が悪くダメな学生時代でした💔
この様な教育一筋の立派な先生が昔はおられた。また山仕事で生計を立てている村人の有様、この10年後には炭の相場が暴落し、炭焼きをする者が居なくなっており非常に貴重です。
先生は聖職だった。・・・・・。今は・・・・・。
今は、性職な輩が多く潜んでいる・・
人間が素直!このあと金の卵で低賃金でこきつかわれて早く結婚して嫁さんと寝ないで働いて下町の片隅に一軒家建てて孫の成長を楽しむんだろうな!
確かに黒沢氏を名乗る人は多い。中里村の今はないが山ちゃん饅頭で名前でわかっていた。山田先生は高崎の病院に入院したまでは知っているがその後は分からない。昔は今のような雨の降り方はしなかった奥名郷方面の崖崩れ見ると恐怖を感じます。
11:54あたりに 「いっける」 と云う言葉が 取り沙汰されていました。方言でしょうが懐かしい言葉でしたね。 「乗せる」 と指導されていました。しかし方言も この地域の大切な文化のひとつでした。では私の知る奥多野地方の方言をご紹介! 「いみゃあましい」 意味は「にくらしい」 の意味なんですが、幾分「愛嬌」を含んでの「にくらしい」の意味が込められているかも知れません。
方言は今では宝物です。残しましょう。喋れるようにしましょう。
冒頭に出てきた両神山を越えた秩父地方でも「いっける」と言ってますねあと、作文の朗読に出てた「おおごと」(大変だ)も言ってます
二十四の瞳を思い出した、素人のわざとらしくない演技、(ドキュメンタリー?なので演技というのはおかしいかもしれないけれど)にびっくりです
山田先生が書かれた「すりばち学校」を読んだのですが巻頭言は壺井栄先生が書かれていました。
こちらに現在のすりばち分校付近と野栗澤神社祭礼の様子がありました。きっとこの中に分校の子供達だった方が何人かいらっしゃるかもしれません。野栗澤神社の灯篭は、貴動画の最後の方で、先生が村を自転車で入っている時に出て来るものかと思います。いろんなことを考えさせられました。ありがとうございます。th-cam.com/video/r43oITw-60w/w-d-xo.html
野栗澤神社の動画見ました祭礼を仕切っていたおっちゃん達は年代的に、多分先生の薫陶を受けた青年団の皆さんでしょうニュース映画にも写ってたかもしれませんね
令和三年一月十七日配信 「谷間の學校」何遍でも観たい。 お早う御座います、理事長様。昨年は、大変有難いお手紙を頂き、少しばかりの喜捨で申し訳有りませんのに、大変恐縮いたましたが今年は、低年金が更に減額されますので、一口より少ない喜捨になるかも、ほんとにすくないです、無理かもです。★昨年の動画には、「コメント」欄が無くて理事長さんに直接、意見などしましたが、新しく「コメント欄」に多くの方々が、書き込みされていますね、うれしいです ★化学映像館に、皆さん「喜捨」してくれませんか?。私は、どうなるか年末まで苦慮するでしょう。 合掌 令和三年一月十七日 坊主見習い
Les petits enfants sont adorables. 🇨🇵
生徒さん今はいくつになったのか80は過ぎているかと思います、その人たちが見たら本当に懐かしさでいっぱいだと思います、私の田舎はそんなに山奥ではなかったが生活は大変でした、
どう計算してもまだ過ぎてないでしょ
生徒のことをクソほども想わず、勤務時間厳守と労働環境改善しか頭にない組合教師どもに観せてやりたいわ。
意味のなさない批判①日教組組織率2割②文科省の締め付け③親のエゴ④過労死水準の時間外労働。君が言うサラリーマンなら労働基準法に違反レベルです
@@akita1934 懐かしいな。2年前の書き込みか。批難はしていない。「観せてやりたいわ」といっている。①日教組組織率2割 意義も魅力も2割という評価。君は組合員か?もはや希少種。②文科省の締め付け 自由に開放された教育に君は責任が取れると?③親のエゴ 親のエゴという決めつけに君のエゴが垣間見えている。④過労死水準の時間外労働 オレが組合員ばかりの学校に異動した生徒指導困難校の4年後、3年担任と学年主任、学科長に生徒指導主任までやらされた事実に君の弁護の言葉を求めてみようかな。君が言うサラリーマンなら はて?どこにサラリーマンと言う言葉が?まぁせいぜいサラリーマンを名乗るなら、サラリーマンレベルに働いてから言うべきだな。
昔は分校が多かったのかな
いやでも足腰強くなりそう
今と何ら変わらないグンマー帝国の様子ですね
ここの一族は姓に澤の字を持ちますから信州神党の子孫でしょう。伊勢神宮に奉納する柱を立ている神社の氏子の武士達のことです。まあ信州も上州も似たようなもんだけど
❤🧡💛💚💙💜🤎🖤🤍
スマホもネットも無くて核家族化もしていないこの頃の方が日本人は精神的に幸せだったかも。
グンマーか
訛りが九州っぽかった気がしますが。
群馬の人間ですが、語尾の雰囲気が似てるところがあるのかもな、と思いました。「おおごと」とかは博多弁にもあるらしいですね。やっぱり同じような意味で。不思議ですね☺️
もへ
部落と映画で言えるところに時代を感じる
部落というのは必ずしも被差別部落を指すわけではなく単に集落を指して普通に使われます。間違った認識と無知は怖いですね。
@@ホールデンコールフィールド-t5m 今はニュースとかで使われなくなった用語だけど昔は普通に使えてたんだねーってな感じで言っただけなのにマウントとんにくるとかおめーさのほうがこわいわー中途半端な知識持ちほどドヤ顔で博識ぶってくるからこわいわーー
😄
@@ホールデンコールフィールド-t5m 😁
@@TheGureimon この程度でマウントとか。私には良識持って書いてくれたようにしか見えませんよ
w
大変に立派な先生が居られたのですね。子供の心が奇麗です。何とかして子供たちの学力、発表力、表現力、思考力を伸ばしてやりたいと、奮闘する山田先生のお気持ちがすばらしい。先生はすでに存命ではないのでしょうが、この記録は真心を伝えていると思います。
こう言う貴重な映像は本当にありがたいです。後生大切に残して頂きたいです。
私は昭和三十年生まれですから…その当時の昭和の戦後復興の時代の香りを感じました。
先生は、おそらく応召兵として戦地に赴き、生還された方だろうなと分かります。
先生の凛とした多姿勢と、その立ち居振る舞いから、本当にご苦労為されたんじゃないかと思います。
何円もへき地の村の分教場を戦後真間汚なく、から撮影当時の31年往時を思いめぐらすと、ここに本物の日本人ワオ見つけた思いでうれしくなります。
無駄な動きも余計なことも言わない、戯言が無く常に、前向きなオーラを感じて背筋が伸びます。
当時は着物を動きやすい、チャンチャンコと、モンペにしそのファッションは手作りですよね。
私の小学校一年生の37年でも、それほど雰囲気は変わってません。 山奥からスキーで下ってくる子もいましたし、当時は、特に子供さんが多く、小学校での一クラス二十余名が三クラス四クラスもありましたね。
達磨ストーブに巻から火を起こす当番がなんか好きで、一時間も早く、登校して関丹波から石炭を取ってきたり、ま巻き割ったり、この巻き割りやると体が温まって、苦になりませんでしたよ。
そして内緒で、持ち焼くんですが、臭いでばれるんだよね、昔のもちは、上等でしたから、おいしいし香ばしい。
かきもちやミカンまで焼きましたよwwww
もう、当時に思いにふけますね。
読書から自分の意見を述べたり
自主性や社会性を養ったり…
型にとらわれず子供一人一人の能力と向き合っている感じがとても素晴らしいと思います。
父が昭和24年生まれでちょうどここに居る子達の1.2年生にあたると思います。山村育ちではないですが、白黒写真でしか見たことない父の姿。
こういう時代に生きていたのかなと感慨深いものがあります。
日本人に生まれて良かった🍀誇らしい日本。勤勉で正直な日本人たちが眩しいですね。
何度も言いますが日本人に生れて、本当に良かった🍀
こんにちわ。群馬の 斉藤今朝雄 と申します。長い間探し求めていた映画でした。山田 修さんも若かったですね。それもそうです。昭和31年で私がまだ一歳でした。
祖母が、片品村で、教師をこの頃していたとの事です。こんな感じだったのかと、感慨深く拝見しました。
私も此の学校と良く似た谷間の山奥の小中学校で学びました当時山道を毎日歩いて1時間30分もかけてかけてこられた恩師。先生方本当に有難うございます
厳しい生活を余儀なくされているとは思えないほど、先生も子供たちも生き生きしていつも楽しそうなのが印象的です☺️
私が昭和28年3月生まれ、67歳だから、この子供達は現在75歳前後ぐらいでしょうね。
私も秋田のこのような山の中の分校通いでした。
現在は東京のど真ん中で暮らしておりますが、こんな現在は想像もしていませんでした。
きっと、ここの子供達も大半が都会暮らしをしているんでしょうね。昔を懐かしみながら・・・
私も昭和28年3月生まれです。空爆で丸焼けになった鉱山町の大きな学校に行きました。その当時、山の中に僻地教育というものがあったなどと初めて知りました。あの頃の日本人は他人を思いやり、助け合って一生懸命生きていたという事が、懐かしく思い出されます。
野栗澤分校で調べたらここで20年以上教員やってた山田修先生は「すりばち学校の子供たち」なる写真集出してるんだな。1976年閉校とのこと。
日本の原風景があるように思います。
こういう光景が日本のあちらこちらにあったのですが、その多くが既に無く閉校されたり集落そのものが廃村になったりしてます。
本当に寂しい限りです。
私も隣村の分校育ちです。やはりこのような立派な先生もおりました。せめて半分でも山田先生の文才がありましたら・・・と思いまちた。
貧しくとも、人が人を作る時代でした。永く続いた日支事変、大東亜戦争は日本人を強く育んだ。その強さが戦後、米国に次ぐ経済大国になり
世界の奇跡とも呼ばれた。現日教組の先生方や日経連の方々に是非見て頂きたい番組である。人が人を作る時代を再び迎えなければならない。
貴重な番組誠に有り難うございました。
100%ピント外れも甚だしい。①戦後教育は戦前の軍国主義の反省が出発点。教師の胸に秘められていた教育の原点は「二度と教え子を戦場に送らない」②「奇跡の復興」?物を考える事が出来ない君に歴史の経緯を語っても通じないと思うが,戦後の経済成長は奇跡ではなく,必然。昭和30年代後半団塊の世代が労働適正年齢に達し労働→生産→収入→消費の循環が始まった。それを可能にしたのは皮肉にも戦前培った軍需産業の生産技術の蓄積。ドイツしかりという事です。歴史を学ばない者は痴呆に等しい
こういう映画みると、泣けてくる。
雑巾がけ、懐かしいですね😊運が悪いとトゲが刺さるんですよねw
床板の節穴を覗くと先代が落としたであろうお宝がいっぱい眠ってるのw
こういった映像をチェックするとけっこうな数の人が興味あるんだなと気付かされる。
群馬フィルの草創期の苦節を描いた、「ここに泉あり」という映画に出てくる、山の学校を思い出しました。山間の制約が多いであろう部落で、元気いっぱいに育つ子供達を、創意工夫と愛情を持って育てようと努力する先生。でも努力するのは先生だけでなく、子供達も、部落の人達もみんな一体となって努力してる姿が、素晴らしいですね。
昔あの映画のロケ地めぐりをやった記事を読んだ事がありましたが、山の学校は同じ上野村とのこと。この分校の本校でしょう(神流川は利根川水系だから『奥利根』でも間違いじゃない)
小林桂樹氏は
「この子たちは一生炭焼きや木こりで終わるんだ」
と言ってましたけど、その子たちが大きくなる頃には炭焼きや林業がダメになったのと高度経済成長で、『この子たち』のほとんどが町へ出ていってしまった
という、何ともやりきれない締めだったと記憶しています
見ていると自分がニコニコしているのに気がついた。
尊敬する人がいて、地域皆が教育に尽力する。
地域社会に於いて、公共の事は多くの見返りを要求しないという時代が又日本に訪れると良いなぁ。
先生は先生と呼ばれて恥じない様に尽力する地域の名士だ。
とても貴重な映像だと思います。こんなに素晴らしい教師と、その教師を慕う様にすくすくと成長してゆく子供たち。何も無い自然の中で育まれた、一つの素晴らしい映画を見ている様な村の人と教師との関係や絆。当時の日本には至る所にこう言った学校があったと思うだけで何か考えさせられるものを感じました。映画の様と言いましたが、かの有名な映画二十四の瞳の実話版に感じてしまいました。昔の日本には今はもう忘れてしまった大切なものが本当にあったんだなあ…としみじみ感じました。これからの世代にも学校教育の一環で歴史を勉強するだけでなく、現実の記録として残して観てもらいたい作品だと思います。
当時の日本には当たり前のように一万校もあり、その大半が殆んど忘れ去られた過去になりつつある中、これほど詳細に伝えるとは、歴史的に極めて貴重な映像だと思います。
みんな貧しく、みんな一生懸命だった。この人たち、この子たとの努力が今の日本を作ってきたんですね。
でも、今、この村はどうなっているのでしょうか?
昔は、貧しくても逞しく
育った。現在は何でも手に
はいるが心は....
1956年制作ね、懐かしい筈だ。
そこに住んでいるだけで全身バネですよね、更に周辺を走るとは凄いですね!
懐かしい机、上に開くタイブ、これで昔勉強していましたね・・・。
私の友達にグンマ県の方がいた。グンマはいいとこだんべぇ、とか、グンマはいいとこだに~って語尾が伸びるんです。あいつは今どうしてるんだんべー。この時代の教師は、まだまともな先生がいたんだに~。まさしく山の「24の瞳」の世界ですね。みなさんがお幸せな人生を生きておられることを心よりお祈りいたします。
現在の群馬県多野郡上野村野栗沢ですねえ。
上野東小学校野栗沢分校は昭和51年に廃校となっていますが「すりばち分校」として名が通っており、この近くにある宿舎も「すりばち荘」という名前になっていますね。
学校跡地には「すりばち分校跡地」という石碑があるそうです
野国沢に聞こえたが野栗沢なのか。この集落、今も健在でほっとした。
グーグルマップ、ストリートビューででみたらとんでもない僻地だな。
大変でしたね
何処に行くにも歩きが当たり前
つらい気持ちは無かった
懐かしい思い出
戻れんけどね
先生も素晴らしいでした
窓ガラス越しに教室をのぞき込む幼児の顔。かわいい。
昔の子は皆んな素直ですね。
意外とコメント欄に若そうな人がいる。
なんか嬉しいな。
この先生夫婦には子どもがいないのだろうか、
それからまた、先生も地域も古い日本人の良さ、つまり質素で真面目でひたむきで勤勉さが満ち満ちていると思った、生きることに真剣な時代だったからかなあ
子供がみな可憐で可愛らしい。このような生活は不便であろうと思うが、それでも憧れる。
そうじは、変わらない
これは良かったです、
泣けた😞💦
昔の自分だよ😃
こんな山奥にこんなにたくさんの子供がいる風景は二度と見れないんだろうな
この学校は1976年に閉校したそうです。
明治維新からこのかた、あまねく小学校教育ができたのも、豊富な針葉樹林のおかげ
林業は大切です
カメラマン、ご苦労さま
このような先生ならば、悪さをしたら真っ先に我が子を疑ってしまいますね
人情味、見習いたいものです
こんばんは、昭和三十年生誕の方のご意見が多いですね、私も昭和三十年生誕で、今は坊主見習いの修練中ですが、当時の子供は弁当持参ですよね、私は弁当を持ってゆくのが恥ずかしくて嫌でした、幸いにも給食が出るようになりうれしかったなあ、父のデッカイ弁当箱に麦飯少々と味噌きばの漬け物、見るな、見るな、ばんざい。 合掌
昔の学校すげぇ!
女の子の、髪が、短い..
同じ時代の市井の風景を写真に残した井上孝治という写真家の人生を読んだ。(黒岩比佐子著)彼の写真集のひとつ『想い出の街』というのを早速図書館から借り出し絶妙なシャッターで切り取ったスナップを見ていたら、そこに写った子供達がいきなり動画になってここに出現したようで驚く!!九州の都市民と山村の人々の違いがあるけれど、人間とはかくありたしと真摯に思う映像だ。置き忘れたものを取り戻すチャンスは、やろうと思えば幾らでもあると信じたい。
男の子がなんで木材を引っ張ってきてると思ったら学校で使う薪なんだな。
今でも山村をドライブしたら民家の前で薪積んでるとか普通にみかけるし。
現代の小学生は留守番もできないのであった
山田先生も勲章に値する人物ですね。いやまだ間に合う。
勲章なんか要りませんよ!
純真で警戒心のない子供は可愛いなぁ。
しかも元気はつらつだしね、言うことないよ。
教える相手が、こんな子ばかりだったら少々のことは我慢できそうだな。
素敵な映像です💛
私のおかんがまだ赤ちゃんの時のですね~(ФωФ)
この頃はまだカタカナなんですね。
ちょっとだけタイムスリップして人々の生活とか建物とか色々見てみたいです☺️
こんにちは。
今のサラリーマン化した
先生にも是非とも観て貰いたい。
先生の子供たちに対する愛情や
本来あるべき子供たちの輝きに満ちた顔に癒されました。
安易な批判です。現在の教員の大変さを分かってない。国からの締め付け,親からの口出し,過労死しそうな時間外労働。昔は良かったの懐古にはうんざり
昭和の学校は
凄く大好きです😍❤️
昔は分校があったりして
廃校になってしまい
凄く寂しいですね😢
私もこの時代に生まれたら
成績が良くなったり
私は平成3年生まれで
障害者で成績が悪く
ダメな学生時代でした💔
この様な教育一筋の立派な先生が昔はおられた。また山仕事で生計を立てている村人の有様、この10年後には炭の相場が暴落し、炭焼きをする者が居なくなっており非常に貴重です。
先生は聖職だった。・・・・・。今は・・・・・。
今は、性職な輩が多く潜んでいる・・
人間が素直!このあと金の卵で低賃金でこきつかわれて早く結婚して嫁さんと寝ないで働いて下町の片隅に一軒家建てて孫の成長を楽しむんだろうな!
確かに黒沢氏を名乗る人は多い。中里村の今はないが山ちゃん饅頭で名前でわかっていた。山田先生は高崎の病院に入院したまでは
知っているがその後は分からない。昔は今のような雨の降り方はしなかった奥名郷方面の崖崩れ見ると恐怖を感じます。
11:54あたりに 「いっける」 と云う言葉が 取り沙汰されていました。方言でしょうが懐かしい言葉でしたね。 「乗せる」 と指導されていました。しかし方言も この地域の大切な文化のひとつでした。
では私の知る奥多野地方の方言をご紹介! 「いみゃあましい」 意味は「にくらしい」 の意味なんですが、幾分「愛嬌」を含んでの「にくらしい」の意味が込められているかも知れません。
方言は今では宝物です。残しましょう。喋れるようにしましょう。
冒頭に出てきた両神山を越えた秩父地方でも「いっける」と言ってますね
あと、作文の朗読に出てた「おおごと」(大変だ)も言ってます
二十四の瞳を思い出した、素人のわざとらしくない演技、(ドキュメンタリー?なので演技というのはおかしいかもしれないけれど)にびっくりです
山田先生が書かれた「すりばち学校」を読んだのですが巻頭言は壺井栄先生が書かれていました。
こちらに現在のすりばち分校付近と野栗澤神社祭礼の様子がありました。きっとこの中に分校の子供達だった方が何人かいらっしゃるかもしれません。野栗澤神社の灯篭は、貴動画の最後の方で、先生が村を自転車で入っている時に出て来るものかと思います。いろんなことを考えさせられました。ありがとうございます。th-cam.com/video/r43oITw-60w/w-d-xo.html
野栗澤神社の動画見ました
祭礼を仕切っていたおっちゃん達は年代的に、多分先生の薫陶を受けた青年団の皆さんでしょう
ニュース映画にも写ってたかもしれませんね
令和三年一月十七日配信 「谷間の學校」何遍でも観たい。
お早う御座います、理事長様。
昨年は、大変有難いお手紙を頂き、少しばかりの喜捨で
申し訳有りませんのに、大変恐縮いたましたが
今年は、低年金が更に減額されますので、一口より少ない
喜捨になるかも、ほんとにすくないです、無理かもです。
★昨年の動画には、「コメント」欄が無くて理事長さんに
直接、意見などしましたが、新しく「コメント欄」に
多くの方々が、書き込みされていますね、うれしいです
★化学映像館に、皆さん「喜捨」してくれませんか?。
私は、どうなるか年末まで苦慮するでしょう。 合掌
令和三年一月十七日 坊主見習い
Les petits enfants sont adorables. 🇨🇵
生徒さん今はいくつになったのか80は過ぎているかと思います、その人たちが見たら本当に懐かしさでいっぱいだと思います、私の田舎はそんなに山奥ではなかったが生活は大変でした、
どう計算してもまだ過ぎてないでしょ
生徒のことをクソほども想わず、勤務時間厳守と労働環境改善しか頭にない組合教師どもに観せてやりたいわ。
意味のなさない批判①日教組組織率2割②文科省の締め付け③親のエゴ④過労死水準の時間外労働。君が言うサラリーマンなら労働基準法に違反レベルです
@@akita1934
懐かしいな。2年前の書き込みか。
批難はしていない。「観せてやりたいわ」といっている。
①日教組組織率2割 意義も魅力も2割という評価。君は組合員か?もはや希少種。
②文科省の締め付け 自由に開放された教育に君は責任が取れると?
③親のエゴ 親のエゴという決めつけに君のエゴが垣間見えている。
④過労死水準の時間外労働 オレが組合員ばかりの学校に異動した生徒指導困難校の4年後、3年担任と学年主任、学科長に生徒指導主任までやらされた事実に君の弁護の言葉を求めてみようかな。
君が言うサラリーマンなら はて?どこにサラリーマンと言う言葉が?まぁせいぜいサラリーマンを名乗るなら、サラリーマンレベルに働いてから言うべきだな。
昔は分校が多かったのかな
いやでも足腰強くなりそう
今と何ら変わらないグンマー帝国の様子ですね
ここの一族は姓に澤の字を持ちますから信州神党の子孫でしょう。伊勢神宮に奉納する柱を立ている神社の氏子の武士達のことです。まあ信州も上州も似たようなもんだけど
❤🧡💛💚💙💜🤎🖤🤍
スマホもネットも無くて核家族化もしていないこの頃の方が日本人は精神的に幸せだったかも。
グンマーか
訛りが九州っぽかった気がしますが。
群馬の人間ですが、語尾の雰囲気が似てるところがあるのかもな、と思いました。
「おおごと」とかは博多弁にもあるらしいですね。やっぱり同じような意味で。
不思議ですね☺️
もへ
部落と映画で言えるところに時代を感じる
部落というのは必ずしも被差別部落を指すわけではなく単に集落を指して普通に使われます。間違った認識と無知は怖いですね。
@@ホールデンコールフィールド-t5m 今はニュースとかで使われなくなった用語だけど昔は普通に使えてたんだねー
ってな感じで言っただけなのにマウントとんにくるとかおめーさのほうがこわいわー
中途半端な知識持ちほどドヤ顔で博識ぶってくるからこわいわーー
😄
@@ホールデンコールフィールド-t5m 😁
@@TheGureimon この程度でマウントとか。私には良識持って書いてくれたようにしか見えませんよ
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