ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。peraichi.com/landing_pages/view/reiwamail
2024年5月25日(土曜日☁20時08分)この世界は一見現実のような世界に観えても所詮最後は死んでゆく身ですから現実も夢とかすと思いました。仏教で答えたなら諸行無常だと思いました。菊谷先生、本日も貴重な大切なお話を学ばせて頂きました。ありがとう御座いました🙏😊
尊い,お話しありがとうございました。とても、学びになりました。
こんばんは。🌃🤱🌆🤱🌇🤱🌉🤱今日も、ありがとうございます。🌃🤱🌆🤱🌇🤱🌉🤱
菊谷先生いつも本当にありがとうございます。〜受けぬ形もなければ生まれぬ(迷わぬ)里もなし〜この世も夢幻で酔生夢死の世界、弥陀の本願念仏のみぞ真実なりけり〜心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
お話、聴聞しました。ありがとうございます。😊
本当、幻の世の中。本気になるだけ損。絵も字も話も全て素晴らしい。転職ですね、菊谷さんは^_^素晴らしい先生です。ありがとうございます。
今日もありがとうございます🙇
確実に生きていると、目の前のものが現実だと断定して良いと信じれるのは今この瞬間だけですよね。諸行無常であり、逆境も順境もある人生を、刹那に集中して生きていくべきだと最近気づきました。今日もありがとうございました。
全く同感です。
いよいよ死ぬとき、自分にとってこの世のモノは何一つ残らないが、南無阿弥陀と一体になった心は変わらないと理解しました。ありがとうございました。
毎回ためになるお話本当にありがとうございます。本当に勉強になって助かります。また素敵なお話聞かせていただきたいです。ありがとうございます^ - ^
昔、学生時代自分の特質で誤解で聞き損なって、もともと自己肯定感が低く焦燥感寂寥感に苛まれてしまいました。仕事をし出して年配者の知り合いが増え少し治り、自分の憂鬱症杞憂も無常と知らされました。何でも度が過ぎると自分にも周りにも迷惑をかけますね。日々好日。太宰さんを否定するわけではないですが、自分のキャパ技量もある程度考えて、哲学や文学医学先人の智恵や影響力のある人の話との距離を間合いをとらなければならないと思いました。まだ見ぬ未来も過ぎ去った過去も目の前の現実も、ひとときと思うことにしてます。😊いつまで続くかわかりませんが。😄忘れる事もとぼけることも自分の生命力になりました。突き詰める技量のある人と、間違って迷惑をかける人がいるので、後者の人はのんびり構えた方が人生案外上手く行きますね。夢幻をどう捉えるかその人の心情によりますね。悩んでる人がいたらまず心理的に安全安心になってほしいと思いました。1つの事象にあまりとらわれないで物事を俯瞰して観るのもありと昔の自分に言いたいです。🙏
ありがとうございました。
大昔のことを鮮明に思い出すとき、まるでこの間のような印象を持つことがあります。光陰矢のごとし、それほど人生で経験する喜怒哀楽は刹那の出来事です。終われば邯鄲の夢とは昔から言われますが、人生悔いのないように楽しもうとすればするほどその惜しさに後悔する、いつ何時も最後に人が求めるのは来世だとよく分かります。
人生をあることと肯定してあの世も因果の道理から肯定されます 人生を学びの闇と捉えそれを光源としてこの世とあの世が肯定され存在します 短命でも縁と受け入れて人生が光となります 誤魔化してこの世は夢幻とするのでなく つらいことも受け入れて損も学びとするとあの世は明るいです 苦境こそ光となる闇である ここに現世と来世が肯定されます ありがとうございました
いつも楽しみにしてます。最近、菊谷さんの批判のユーチューブ見ましたが、ただのやちもちやねたみと思います。これからも頑張ってください。
同じです。
何時もありがとうございます。夢でも幻でも良いので亡くなった後、大切な人に逢いたいです。南無阿弥陀仏。
確かに話の通りですね~😅念仏は頂けませんが😅
夢かと思えば現、現と思えば夢の如し。と、浮かびます。ならば、念仏とは、今の心の思い、状態が投影されて映し出される事、と言えるかも知れません?😮平生の一念で信楽になるって、夢の中で、これは夢だと分かった時。そして、夢から目覚めて行く過程を心の楽しみ信楽と言うのカモ知れませんね?その先に真実が、ある。❤
昔の良かった時が、夢のようです….
自分が生きているこの世界とは別のもう1つそれと平行して流れている世界があるように約20年位前から感じています。
昔、オーストラリアの原住民のアボリジニについて聞いたことがあるのですが、彼らの人生観が不思議で、現世の出来事はすべて夢で、瞼が閉じ、息が途絶えた途端に本物の現実に突入するらしいです・・・可笑しなことを言うなと思っていましたが、これは今日の浄土真宗の教えに通じていますか?自分では自覚はないですが、我々はこれまでに何度も生まれ変わり、死に変わりしているらしく、「袖すれ合うも他生の縁」ということで、全ては前世から何かしら繋がっているのかもしれない・・・とも考えられます。何かのご縁で、この時代にこの日本に生を受け、こうして浄土真宗の素晴らしいお話が聴けたことに感謝です。
今晩は、人生これもまた夢,幻か?ならば小さな事に捉われず日々これ感謝を持って生きよう。
「この世は幻」や「胡蝶の夢」真にうがった話ですが、私は少しずれを感じます。「諸行無常」だから幻と言えるのかな、正夢や「デジャブ」を見た時現実と夢の違いが認識できなくなります。「一切皆苦」であるこの世を夢とした方が楽に成ります。「諸行無常」は幻ではないから「一切皆苦」と言えるんです、「喜怒哀楽」が煩悩が作った「判断」によって振り分けられている事が認識出来て「諸行無常」が納得できる。「塞翁が馬」の逸話は幻の話ではない、出来事に一喜一憂する人の思いが幻だという話です。「胡蝶の夢」は現実と夢の違いはないと言っていると思うと幻に成ります、が、そう解釈していいのでしょうか。「諸行無常」は物事が変化する事ではなく、物事を判断した事が変化する事を現わしているように見えます。「出世」「栄達」「富貴」を得る事を幸福と思っても、責任が増える、自尊心を持つ、見下したくなると煩悩が判断すると変化します。「左遷」「更迭」「破産」への恐怖が生まれます。最先端の技術、新製品、最新のファッション、最強の兵器、最強の軍隊などすべてつかの間の評価に過ぎません。「判断」「評価」が有る者は全て「塞翁が馬」のように「諸行無常」に過ぎません。煩悩が作った「判断」が幻であって、現実の物事は幻ではない、これが解釈のずれです。「判断したのは私です」と煩悩は「自我」を生み出しているのです、生まれつきの「自我」などありません。「自我の目覚め」と言う言葉は「煩悩が自我を生み出した」という事なので「自我」は幻なのです「諸法無我」。
幼少期に誘拐され性犯罪を受けた自分にはこの世が夢幻であって欲しいです(。・_・`。)
過去が空しいと思う時、不思議に、能力は出てきます。
このタイトルには驚きました。
夢というと、五感から来る情報を受け取っている自分が存在していて、というように感じるものでしょうが、実は、この意識や自分というものも幻であるかもしれない、というのが個人的な実感です。自分の外側はおろか、内側もない・・・唯物論も観念論も偽りだろう、存在するのは、それらの相関関係だけかもしれないと。
般若心経で色即是空 空即是色が本趣旨に該当するでしょうか。映画「マトリクス」でモーフィアスが「現実とは何だ?“現実”をどう定義する?感じるとか、匂いをかぐとか、味わうとか、見るとかを現実とするなら、現実とは君が脳で解釈した電気信号にすぎん」と言っているように、世界は電気信号の産物の類であって、私たちがあると認識しているような現実は本当は存在しないと思います。
夢のほうが良かったと思うことが多々ある(笑)
ギリギリ。やっと生きてます。煩悩まみれの自分。変われない。疲れましたね。すみませんネガティブで。ニーチェ曰く寝なさいと。疲れてるからとことん寝なさいと。反省せずとっとと寝ろと。一方マルクス・アウレリウスはその1日を書き残した。しあわせとはなんだろう?
日本的に言うと怪異かカミか……に選ばれるは幸運か不運か否か見られる事によって自我が与えられ、仮面を被せられてカミと合一してしまったヒトの居る世界は夢か現かカミ視点からこの世界又は宇宙を評価すると……スコアは良くてPS2くらいしかない
ドラクエ6
本来、私たちのいる場所はあの世です。そしてこの世には罪の清算のために来ています。前世の罪と現世で犯した罪を清算する努力をしてあの世に帰ります。それを何度か繰り返し罪の清算が終わった魂はもうこの世に来る意味がないのであの世で過ごすようになると思っています。
南無阿弥陀仏m(__)m
秀吉は天下を取りましたけど、親鸞は屁にもならない理屈を並べただけです(屁理屈とも言いますか)
この世は幻ですね
それでも子育ては有意義で`あり、まことです!子供を3人しっかり育てると天に生まれると聞きました!それで、私の親の死は安楽でしたよ!
説法、ありがとうございます。まぁ俺は「死」は怖くはない。
仏教に説かれている本当の幸福とはどんなものか、20日間の無料メール講座で話しをしています。
peraichi.com/landing_pages/view/reiwamail
2024年5月25日(土曜日☁20時08分)この世界は一見現実のような世界に観えても所詮最後は死んでゆく身ですから現実も夢とかすと思いました。仏教で答えたなら諸行無常だと思いました。菊谷先生、本日も貴重な大切なお話を学ばせて頂きました。ありがとう御座いました🙏😊
尊い,お話しありがとうございました。とても、学びになりました。
こんばんは。🌃🤱🌆🤱🌇🤱🌉🤱今日も、ありがとうございます。🌃🤱🌆🤱🌇🤱🌉🤱
菊谷先生いつも本当にありがとうございます。〜受けぬ形もなければ生まれぬ(迷わぬ)里もなし〜この世も夢幻で酔生夢死の世界、弥陀の本願念仏のみぞ真実なりけり〜心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
お話、聴聞しました。ありがとうございます。😊
本当、幻の世の中。
本気になるだけ損。
絵も字も話も全て素晴らしい。
転職ですね、菊谷さんは^_^
素晴らしい先生です。
ありがとうございます。
今日もありがとうございます🙇
確実に生きていると、目の前のものが現実だと断定して良いと信じれるのは今この瞬間だけですよね。
諸行無常であり、逆境も順境もある人生を、刹那に集中して生きていくべきだと最近気づきました。
今日もありがとうございました。
全く同感です。
いよいよ死ぬとき、自分にとってこの世のモノは何一つ残らないが、南無阿弥陀と一体になった心は変わらないと理解しました。ありがとうございました。
毎回ためになるお話本当にありがとうございます。
本当に勉強になって助かります。
また素敵なお話聞かせていただきたいです。
ありがとうございます^ - ^
昔、学生時代自分の特質で誤解で聞き損なって、もともと自己肯定感が低く焦燥感寂寥感に苛まれてしまいました。仕事をし出して年配者の知り合いが増え少し治り、自分の憂鬱症杞憂も無常と知らされました。
何でも度が過ぎると自分にも周りにも迷惑をかけますね。日々好日。太宰さんを否定するわけではないですが、自分のキャパ技量もある程度考えて、哲学や文学医学先人の智恵や影響力のある人の話との距離を間合いをとらなければならないと思いました。
まだ見ぬ未来も過ぎ去った過去も目の前の現実も、ひとときと思うことにしてます。😊いつまで続くかわかりませんが。😄忘れる事もとぼけることも自分の生命力になりました。
突き詰める技量のある人と、間違って迷惑をかける人がいるので、後者の人はのんびり構えた方が人生案外上手く行きますね。夢幻をどう捉えるかその人の心情によりますね。悩んでる人がいたらまず心理的に安全安心になってほしいと思いました。1つの事象にあまりとらわれないで物事を俯瞰して観るのもありと昔の自分に言いたいです。🙏
ありがとうございました。
大昔のことを鮮明に思い出すとき、まるでこの間のような印象を持つことがあります。
光陰矢のごとし、それほど人生で経験する喜怒哀楽は刹那の出来事です。
終われば邯鄲の夢とは昔から言われますが、人生悔いのないように楽しもうとすればするほどその惜しさに後悔する、いつ何時も最後に人が求めるのは来世だとよく分かります。
人生をあることと肯定してあの世も因果の道理から肯定されます 人生を学びの闇と捉えそれを光源としてこの世とあの世が肯定され存在します 短命でも縁と受け入れて人生が光となります 誤魔化してこの世は夢幻とするのでなく つらいことも受け入れて損も学びとするとあの世は明るいです 苦境こそ光となる闇である ここに現世と来世が肯定されます ありがとうございました
いつも楽しみにしてます。最近、菊谷さんの批判のユーチューブ見ましたが、ただのやちもちやねたみと思います。これからも頑張ってください。
同じです。
何時もありがとうございます。夢でも幻でも良いので
亡くなった後、大切な人に
逢いたいです。
南無阿弥陀仏。
確かに話の通りですね~😅念仏は頂けませんが😅
夢かと思えば現、現と思えば夢の如し。と、浮かびます。
ならば、念仏とは、今の心の思い、状態が投影されて映し出される事、と言えるかも知れません?😮平生の一念で信楽になるって、夢の中で、これは夢だと分かった時。そして、夢から目覚めて行く過程を心の楽しみ信楽と言うのカモ知れませんね?その先に真実が、ある。❤
昔の良かった時が、
夢のようです….
自分が生きているこの世界とは別のもう1つそれと平行して流れている世界があるように約20年位前から感じています。
昔、オーストラリアの原住民のアボリジニについて聞いたことがあるのですが、彼らの人生観が不思議で、現世の出来事はすべて夢で、瞼が閉じ、息が途絶えた途端に本物の現実に突入するらしいです・・・可笑しなことを言うなと思っていましたが、これは今日の浄土真宗の教えに通じていますか?
自分では自覚はないですが、我々はこれまでに何度も生まれ変わり、死に変わりしているらしく、「袖すれ合うも他生の縁」ということで、全ては前世から何かしら繋がっているのかもしれない・・・とも考えられます。
何かのご縁で、この時代にこの日本に生を受け、こうして浄土真宗の素晴らしいお話が聴けたことに感謝です。
今晩は、人生これもまた夢,幻か?ならば小さな事に捉われず日々これ感謝を持って生きよう。
「この世は幻」や「胡蝶の夢」真にうがった話ですが、私は少しずれを感じます。
「諸行無常」だから幻と言えるのかな、正夢や「デジャブ」を見た時現実と夢の違いが認識できなくなります。
「一切皆苦」であるこの世を夢とした方が楽に成ります。
「諸行無常」は幻ではないから「一切皆苦」と言えるんです、
「喜怒哀楽」が煩悩が作った「判断」によって振り分けられている事が認識出来て「諸行無常」が納得できる。
「塞翁が馬」の逸話は幻の話ではない、出来事に一喜一憂する人の思いが幻だという話です。
「胡蝶の夢」は現実と夢の違いはないと言っていると思うと幻に成ります、が、そう解釈していいのでしょうか。
「諸行無常」は物事が変化する事ではなく、物事を判断した事が変化する事を現わしているように見えます。
「出世」「栄達」「富貴」を得る事を幸福と思っても、責任が増える、自尊心を持つ、見下したくなると煩悩が判断すると変化します。
「左遷」「更迭」「破産」への恐怖が生まれます。
最先端の技術、新製品、最新のファッション、最強の兵器、最強の軍隊などすべてつかの間の評価に過ぎません。
「判断」「評価」が有る者は全て「塞翁が馬」のように「諸行無常」に過ぎません。
煩悩が作った「判断」が幻であって、現実の物事は幻ではない、これが解釈のずれです。
「判断したのは私です」と煩悩は「自我」を生み出しているのです、生まれつきの「自我」などありません。
「自我の目覚め」と言う言葉は「煩悩が自我を生み出した」という事なので「自我」は幻なのです「諸法無我」。
幼少期に誘拐され性犯罪を受けた自分にはこの世が夢幻であって欲しいです(。・_・`。)
過去が空しいと思う時、不思議に、能力は出てきます。
このタイトルには驚きました。
夢というと、五感から来る情報を受け取っている自分が存在していて、というように感じるものでしょうが、実は、この意識や自分というものも幻であるかもしれない、というのが個人的な実感です。自分の外側はおろか、内側もない・・・唯物論も観念論も偽りだろう、存在するのは、それらの相関関係だけかもしれないと。
般若心経で色即是空 空即是色が本趣旨に該当するでしょうか。
映画「マトリクス」でモーフィアスが「現実とは何だ?“現実”をどう定義する?感じるとか、匂いをかぐとか、味わうとか、見るとかを現実とするなら、現実とは君が脳で解釈した電気信号にすぎん」と言っているように、世界は電気信号の産物の類であって、私たちがあると認識しているような現実は本当は存在しないと思います。
夢のほうが良かったと思うことが多々ある(笑)
ギリギリ。
やっと生きてます。煩悩まみれの自分。変われない。疲れましたね。
すみませんネガティブで。ニーチェ曰く寝なさいと。疲れてるからとことん寝なさいと。反省せずとっとと寝ろと。一方マルクス・アウレリウスはその1日を書き残した。
しあわせとはなんだろう?
日本的に言うと怪異かカミか……に選ばれるは幸運か不運か否か
見られる事によって自我が与えられ、仮面を被せられてカミと合一してしまったヒトの居る世界は夢か現か
カミ視点からこの世界又は宇宙を評価すると……スコアは良くてPS2くらいしかない
ドラクエ6
本来、私たちのいる場所はあの世です。そしてこの世には罪の清算のために来ています。前世の罪と現世で犯した罪を清算する努力をしてあの世に帰ります。それを何度か繰り返し罪の清算が終わった魂はもうこの世に来る意味がないのであの世で過ごすようになると思っています。
南無阿弥陀仏m(__)m
秀吉は天下を取りましたけど、親鸞は屁にもならない理屈を並べただけです(屁理屈とも言いますか)
この世は幻ですね
それでも子育ては有意義で`あり、まことです!子供を3人しっかり育てると天に生まれると聞きました!それで、私の親の死は安楽でしたよ!
説法、ありがとうございます。まぁ俺は「死」は怖くはない。