『君が代』 (きみがよ)は、日本の国歌である。 概要 10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている[1][2]。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」[2] を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌[2][3] となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。 「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである[9]。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる[12][注釈 3]。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代の民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある[13][注釈 4]。 バジル・ホール・チェンバレン イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語に翻訳した[14]。チェンバレンの訳を以下に引用する[15]: Thousands of years of happy reign be thine; Rule on, my lord, till what are pebbles now By age united to mighty rocks shall grow Whose venerable sides the moss doth line. (→汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが 時代を経て、あつまりて大いなる岩となり 神さびたその側面に苔が生(は)える日まで)[16] 香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。 皇祚連綿兮久長 萬世不變兮悠長 小石凝結成巖兮 更巖生綠苔之祥 礼式曲「君が代」制定までの歴史 和歌としての君が代 テキスト 歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない[3][9]。 我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで 文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)[3][8][17][18]。 『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い[8]。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある[19]。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている[20]。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である[21]。 なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[19]。 解釈 万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない[9]。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である[22]。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある[22]。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である[22]。 後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる[23][24]。 『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[22]。
これは学校の道徳の授業で見せるべきだ
とんでもなく良い教材です。
感服致しました。
この話は子供たちに受け継がれて、誰もが日本国歌を大切にする文化が根付きますように
素晴らしい動画を。ありがとうございます!
「君が代」は、もとは愛する人の幸せな長寿を願う恋の和歌。それをわたしたちの祖先が千年以上にわたって愛唱し続けてきました。
この事実を、美しい日本画と共に分かりやすく表現した絵本『ちよにやちよに』を読み、感激しました。いまでは、子どもや孫たちにプレゼントしています。
みんなが「君が代」のほんとうの意味を理解して、堂々と嬉々として、大声で歌う日本でありたいですね😃
世界に誇る素晴らしい歌詞❗️😊 そして、それを歌える国民は本当に幸せです…😔
「きみ」という言葉が男女を表す「き」と「み」から生まれた言葉と知ったとき感動しました。
日本国歌が大好きになりました❣️
素晴らしい講義有難うございました。日本人は修身を身に付ける機会を設けるべきでしょう。新日本人にはわかりません、真日本人として本来の意味を理解し、日本国を愛し、日本国民共々苔のむすうまで繁栄していきましょう。
ありがとうございます、小名木先生。
君が代は素晴らしい歌です。
天皇陛下のお領りになる我が美しき国がいついつまでも続きますように。
これは祝詞でもあり、多くの人が唱えば唱うほどに我が国我が君主は力を持ちたまわれる、そう言う気がします。
この君が世の話は、ぜひ子供たちに、知ってもらいたいと思います。
勉強させていただきました!
本当にありがとうございます。このような貴重な話をいつでも拝見できる時代すばらしいですね。
素晴らしい講義有難うございます。日本人として大変勉強になりました。
小名木先生、国歌「君が代」の意味の凄さを改めて勉強させてもらった感じです😃
ありがとうこざいました❗️
君が代は素晴らしいーーー🌺
ありがとうございます😊🤗
昔はよく 祝祭日にはどこの家庭でも国旗を上げていました。学校でも朝礼の時は国旗掲揚して
君が代を歌いました。最近は公共の施設でも国旗は上げていません。せめて 公共の施設だけでも国旗
を上げてほしいです。
僕の住む田舎では、公共施設 学校 交番 公民館 消防署 掲揚していますよ。
バスは国旗つけてるよ
学生の頃意味も知らなくなんとなく歌ってました
こんなに深い意味があるなんて知らなかったです。感動しました
日本の歴史をちゃんと知りたくなりました
勉強します
君僕の息子?
今の学校って国歌の歌詞の意味も歌い方も教えないんですか?
それじゃあ一体何を教えてるんだろう?
幾ら知識を教えても愛国心がなかったら、その知識をどこでどう生かすか考える時に極めて個人的な視点からしか発想できない者ばかりになってしまうのではないか?
それってコミンテルンが民主主義や他の体制の国家を弱体化させるための方策として暗躍してるからじゃないのか?
と、思わずにはいられないほど教育機関がおかしくなってませんか?
@@LandMark291 僕が通ってた学校では、教師にこのように教わりました。生徒手帳に君が代の歌詞がありますそれを見て音程に合わせて歌いましょう。以上です
愛国心に関しては、右翼だ!!反社会的勢力だ!!と教わり愛国心=悪い人と教育を受けました。
なんで日本人が日本を好きになるとダメなんですか?僕には分かりません
日の丸、君が代は日本人の礎です。畏敬しております。
ありがとうございます。
うちの孫たちは君が代を知りませんでした。(小2年と小4年)
そこで、毎晩 君が代を歌って寝ることにしました。
今度は 意味を教えます。
初めて君が代の考察を知りました
小学生の頃から国家として歌わされてきた日本人
しかし本当の意味は今日までわからない、考えたこともないのが事実でしたが、今これを観てわかりました
ありがとうございます
世界一の国歌ですね。ありがとうございます。子供たちに伝えていきます。
君が代は、愛の歌ですね🤗🤗🤗
とても良いお話をしていただきまことに感謝申し上げます❤❤❤
日教組の人間とかに見せてやりたいです
祝祭日に、日章旗を掲揚する御家庭が増えてきていますね。
素晴らしい事で御座います。
時間はかかりましょうが、粘り強く宣揚していただきたいと思います。
昔は旗日って言ってましたね
@@s28kids
そうそう、私が旗日って言うと、若い方は????????になっちゃうもんね!
明治生まれの祖父や祖母は、普通に旗日でしたよ。
いつも勉強になります。
四十数年前、小学六年生だった時の担任が日教組で、君が代を歌うのはおかしいと、数時間の講義をした上で、卒業式で君が代を歌うか歌わないかの多数決を取りました。小学校6年生といえば、先生の言う事は絶対的で、クラスは卒業式当日、着席したまま歌いませんでした。今となっては恨めしく悲しい思い出です。
君が代に誇りを持っています。
良い講義をありがとうございました。気持ちが晴れました。
あ
そうですか
つらい?
体験ですね
一生忘れないですね
僕はそんな事より嬉しかった記憶がある
マチューくん
正確にはマシューくんかな
オレゴン州の子やってケンカもしたよ
あいたい
先生が授業で使うからと生徒に新聞を持参させ
どこの新聞を持ってきたかチェックしていました
50年前の話ですが愛知の小学校です
そういう事が当たり前の世の中でしたネ…😅 67歳の爺さんですが、最近は君が代や日の丸で「糾弾」されなくなっただけでも、少しは良くなりました…😊
素晴らしい👍
昔は、祖父母,親から、教えてもらった記憶があります。
家族から子供の教育を大切に!日本を大切にしていきましょう♪
ありがとうございました🙏
メロディーの独自性もさることながら、国歌に相応しい素晴らしい歌詞ですね。
かなり、わかりました❤君が代はすきです🎵
小名木先生、ありがとう。年金をもらう者として初めて知りました。恥ずかしい限りでした。 😔
初めて教えてもらえました。
私は今年で36歳になる者ですが、普通に君が代を学校で習ったけどなぁ。
「君が代」の正しい意味を初めて知りました。二重三重に誤解がはびこっているようですね。小学3年生の孫娘に尋ねたら,「何それ?』って言われ日本国旗も同様なので絶句しました。
国歌『君が代』好きです❤️
私は、日本の誇りを大切にする⏩ゆきのん日和も視聴しています
これからも→日本、日本人の素晴らしさをアピールして下さい
ご苦労様です
世界広しと言えど、ラブソングを国歌にしている国は日本だけ、すごく誇らしいですね
まさにそう
日本人で良かったと誇りです
君が代を歌うと、波動が上がるよ
千年以上前の歌が受け継がれているものを途絶えされるわけにはいかない。
素晴らしい! この結美大学のコンテンツほど日本人である誇りを呼び覚ましてくれるものはほかにありません。ありがとうございました。
文科省の役人共に是非観てもらいたい動画ですね。
そして教師達にも。
公然と君が代反対の意思表示する教師が未だに居るみたいですが、この真相を知っても同じ態度を取るのか?と問いたい。
いい声
君が代は素晴らしい歌です。
日本そのものを表していますね。
女官が仕えていた主君の幸せを祈って「わが君」と記した歌を、若き男女の結婚の祝い歌として「きみ」と置き替えて千年以上ものベストセラーとなり、ついに国歌となった。
国歌の「君」は天皇を指すときちんと決められたのかな?
古事記ではいざなぎのみことといざなみのみことから天皇や国民が生まれたのだから、天皇と国民は一体の家族だ。
そういう意味では、天皇の繁栄は国民の繁栄でもある。
現在の君は何を指しているのか知らないが、もとが若き男女の門出を祝った歌であることは素晴らしいことだ。
何かの調査で、世界で最も素晴らしい国歌の一位に日本国歌が選ばれたと聞いたことがある。
一位にふさわしい国歌だと思う。
これまで学ばせて頂いた事の再認識が出来ました。ありがとうございます。楽しく拝聴させて頂いてます。これからも応援してます。
新しい解釈を与えて、凝固まった観念を解きほぐして、見つめ直すきっかけを作る手法が、
そんな憂いから来ていて、おーとなってしまいました。
えぇわあ
君が代
さいこーや
つか
日本人で良かったッテオマエ
昔聞いたことありました。
外国は国歌あったが日本なかったため急いでこの曲を国歌にした聞いたことあります。
意味の強弱が感心の強弱と比例します、感心すれば
心が揺さぶられ、やる気がでます、結び大学は、日本人をやる気にさせ、誇りと、自信を復活させる大学です、
ありがとうございます!
君が代起立斉唱拒否事件とか起きてましたよね(最判平成23年5月30日)。
右でも左でもない普通の一般人ですが、国歌を通して国を大事に思う気持ちって当たり前の感情だと思いますけどね。
国際大会なんかでも各国の選手が当たり前に歌ってるじゃないですか。
それを公務員が拒否だなんて言語道断ですよ、国の歴史を否定する大義はない。
>公務員が拒否だなんて言語道断 バカ朝日の報道を信じるからそうやって間違えるんだよ。「公務員が座って君が代拒否」というのは、国歌が法律に定められなかった時代に、プロテスタントが自己の宗教上の信念に基づいて歌うことを拒否しただけだ。それと政治信条は全く関係ない。立法機関の者がこういう真面目で優秀な行政職のプロテスタントを助けるためにやむを得ず法で国歌を定めたわけだ。ある意味めんどくさい連中だが、彼らはバカッパヨではない。その証拠に法にさえなっていれば、彼らはそれに従う。
彼らに対するウソ報道に悪乗りしてるのがバカッパヨ。ある意味連中の妄想に乗って噴上がつてるのがアナタ。
左翼の日教組が日本をこう惑わしてる原因
『高砂』ー2
・高砂部屋
(たかさごべや)は、日本相撲協会所属で高砂一門の相撲部屋。番付で用いるいわゆる相撲字では「はしご高」(髙)を用いるが、部屋の看板を含めその他の活字媒体では「はしご高」を用いていない。
歴史
明治初期に角界の改革を求めて活躍した初代高砂浦五郎が一代で角界を代表する大部屋に育て上げ、現在までに横綱6人・大関8人を輩出するなど、角界屈指の名門部屋として知られる。
初代高砂(高見山大五郎)は角界の改革を求めて高砂改正組を組織し、東京相撲会所を脱退した。帰参後はもともと江戸相撲にあった「高砂」という名跡と重複する形となり、1889年に旧・高砂が高島へと改名し、新・高砂は名前は代々の通り名として「浦五郎」と名乗ることとなった。2代高砂から現在の8代高砂までは、初代高砂の名の「浦五郎」を継承している[注釈 1]。
1986年5月には部屋経営を断念した大山部屋を吸収合併した。
1988年10月に5代高砂(第46代横綱・3代朝潮)が急逝したため、高砂部屋の部屋付き親方である14代尾上(元小結・富士錦)が6代高砂を襲名して高砂部屋を継承した。翌1989年12月には、部屋施設を台東区橋場一丁目に移転した[1]。2001年3月場所には、闘牙が十両に陥落したことで、明治時代から続いた部屋の幕内力士在位が途絶えてしまった。
2002年2月1日、6代高砂の停年退職を間近に控え、高砂部屋から移籍して若松部屋を継承していた11代若松(元大関・4代朝潮)が名跡変更して7代高砂を襲名し、高砂部屋と若松部屋が合併した。もっとも、部屋施設は旧若松部屋の施設がそのまま利用されるなど、実質的には、若松部屋が高砂部屋を吸収合併した形であった(逆さ合併)。7代高砂は、若松部屋時代からの弟子である横綱・朝青龍や関脇・朝赤龍のほか、6代から引き継いだ小結・闘牙など多くの関取を擁して一大勢力を築いた。しかし、2000年代中期に闘牙や泉州山、皇牙といった関取経験者が相次いで引退し、2010年には朝青龍も不祥事により引退して、2016年時点で関取は朝赤龍と朝弁慶の2人のみとなるなど、2000年代後半以降は部屋の勢力が急激に衰えた。それでも、1927年の東西相撲協会の合同以来、2016年11月場所まで90年間関取を絶やしたことのない部屋であったが、朝弁慶が2016年11月場所で幕下に陥落し、朝赤龍も次の2017年1月場所で幕下に陥落したため、1878年の部屋創設以来、初めて関取不在となった。同時に、継続中のものとしては最長だった関取継続の記録も138年で止まった[2]。その後、朝乃山が十両昇進を果たし、関取不在は一場所で解消している。
2020年11月26日、7代高砂の停年を間近に控え、部屋付きの親方となっていた17代錦島(元関脇・朝赤龍)と名跡を交換し、7代高砂は18代錦島、17代錦島は8代高砂をそれぞれ襲名し、8代高砂は同日付で部屋を継承した。4代以降、高見山を始め外国人力士を多く迎えている高砂部屋にとって、初の外国出身の親方が部屋を運営することになった[3]。
2021年5月19日、大関・朝乃山の相撲協会新型コロナウイルス対応ガイドライン違反の行動が報道により発覚、協会コンプライアンス委員会(青沼隆之委員長=元名古屋高検検事長)による調査が行われた。調査の過程で、先代師匠の18代錦島(7代高砂)による違反行為も判明、8代高砂が通いの親方であることが問題視された。同年6月10日付で18代錦島は協会を退職、同年7月中に部屋の家主を8代高砂に変更することを6月4日の同委員会会合で確認したという[4]。
昭和以降においては、高砂部屋からは大山部屋(後に高砂部屋と合併)・若松部屋(現在は高砂部屋と合併)・振分部屋・高田川部屋・東関部屋(現在は八角部屋と合併)・中村部屋(後に東関部屋と合併)・錦戸部屋が分家独立を果たしている。なお、現在の高砂部屋は合併前の若松部屋の建物を引き続き使用しており、6代高砂時代の部屋の建物は2004年2月まで錦戸部屋、同年9月からは常盤山部屋(旧千賀ノ浦部屋)が使用していたが、常盤山部屋は2021年2月に板橋区に移転した[5]。2021年5月場所後には立浪部屋が同地に移転する予定[6]。
伝統的に稽古土俵は俵を使わず、浅く掘り下げた「皿土俵」と呼ばれる仕様を採用している。怪我の防止のためとされ、分家である東関部屋や錦戸部屋にも受け継がれている。
師匠
代数 親方名 引退時の四股名 最高位 出身地
初代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 高砂浦五郎 前1 千葉
2代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 高見山宗五郎 関脇 千葉
3代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 2代目朝潮 大関 愛媛
4代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 前田山英五郎 横綱 愛媛
5代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 3代目朝潮 横綱 鹿児島
6代 高砂浦五郎[注釈 1](たかさご うらごろう) 富士錦猛光 小結 山梨
7代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 4代目朝潮 大関 高知
8代 高砂浦五郎(たかさご うらごろう) 朝赤龍太郎 関脇 モンゴル
部屋付き親方
若松武彦(わかまつ たけひこ、前1・朝乃若、愛知)
・朝汐 太郎ー初代
(あさしお たろう、元治元年11月28日[2](1864年12月26日) - 大正9年(1920年)8月26日)は、大相撲の大関(現役中に1日限りの横綱免許)。本名:杉本→増原太郎吉(ますはらたろきち)。身長179cm、体重102kg。得意手は左四つ、上手投げ、寄り。
・朝潮 太郎ー二代目
(あさしお たろう、1879年4月19日 - 1961年4月30日)は、日本の大相撲の力士である。所属部屋:高砂→佐ノ山→高砂。最高位は大関。本名薦田長吉(後に坪井)。身長176cm、体重113kg[1]。横綱男女ノ川や前田山を育てるなど弟子育成で成果を上げた[2]。協会取締の重責も担ったが1932年の春秋園事件の責任を取って取締を辞した。1941年12月、前田山に部屋を譲って廃業。しかし1950年に開催された前田山の断髪式では師匠として止め鋏を入れている[3]。1961年4月30日、82歳で没。
・朝潮 太郎ー三代目
あさしお たろう、1929年(昭和4年)11月13日 - 1988年(昭和63年)10月23日)は、本名は米川 文敏(よねかわ ふみとし)、鹿児島県徳之島出身(出生地は兵庫県武庫郡、現在の神戸市)で、高砂部屋に所属していた大相撲第46代横綱。現役時代の体格は身長189cm、体重145kg。得意技は左四つ、寄り[1]。
・朝潮 太郎ー四代目
(あさしお たろう、1955年12月9日 - )は、高知県安芸郡(現在の高知県室戸市)出身で高砂部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は長岡 末弘(ながおか すえひろ)、現役時代の体格は身長183 cm、体重183kg。得意手は突き、押し、左四つ、寄り。星座は射手座、血液型はB型。1990年から2002年まで若松部屋、2002年から2020年まで高砂部屋の師匠を務めた。
お早ようございます!大変解りやすく君が代の歌詞の背景に有る深い意味を解説して下さリ有り難うございます!漢字は、元々古代中国の時代の文字を読みやすい形にしたものでその原形を調べたら深い意味が理解できる様ですね🐭!
日本語って短い言葉、たった1音でも深
い意味がある。これってとっても日本らしくて良いですよね。例え深い意味があることを理解出来なかったとしても、仏教でいうところの真言の様にただ歌えるだけでも他の国には無い大きな意義があるような気がします。
こういうことこそ小学校で学びたかった。今からでも遅くない。子供たちに伝えましょう。文部科学省を待っている暇はない
深いわあー。
当たり前なことを国歌にした日本はスゴい。
完璧に成長した男女が時代を越えて永遠に千年も万年も生まれ変わっても結束し協力し合い団結して固い絆と信頼で結びついていこう
です祝いやラブソングは曲解です
男女というのは神のことです
神とは笏(しゃく)を持った高貴な人、貴族です
我々神の子供たちが和を作り継続していくという意味ですよ、つまり日の本(太陽は神です)
そこから日本に繋がっていくんです
素晴らしい。
先生の解説、お話しは日本人なら、とっくの昔に知っていなければ、いけない事で、これを、知らない?理解?してない国民・知らないで死んで行ってしまった人達が!日本に沢山!いっぱいいるよ!。
竹田恒泰氏は「これが国歌として採用した時点で天皇を指す」といった解釈でしたね。
イギリス国歌も女王陛下への歌ですし、実際、天皇陛下の御前で君が代を歌った場合、陛下は足を止めてお聴きになられる点、陛下自身は歌われない点を指摘されていました。
『海行かば』ー1
(うみゆかば)は、日本の国民歌謡の一つ[1]、歌曲[2]、合唱曲[2][3][4]。特に太平洋戦争中は準国歌、第二国歌とも呼ばれた(ただし、法的に認められたものではない)[5]。
詞は、『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番。『新編国歌大観』番号4119番。大伴家持作)の長歌から採られている。作曲された歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。
この詞には、1880年(明治13年)に当時の宮内省伶人だった東儀季芳も作曲しており、軍艦行進曲(軍艦マーチ)の中間部に聞くことができる。戦前においては、将官礼式曲として用いられた。
歌詞
ウィキソースに海行かばの原文があります。
海うみ行ゆかば 水み漬づく屍かばね
山やま行ゆかば 草くさ生むす屍かばね
大おほ君きみの 辺へにこそ死しなめ
かへりみはせじ
(長閑のどには死しなじ)
歌詞は2種類ある。「かへりみはせじ」は、前述のとおり「賀陸奥国出金詔書歌」による。一方、「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)による。大伴家持が詔勅の語句を改変したと考える人もいるが、大伴家の「言立て(家訓)」を、詔勅に取り入れた際に、語句を改変したと考える説が有力ともいわれる[誰によって?]。万葉学者の中西進は、大伴家が伝えた言挙げの歌詞の終句に「かへりみはせじ」「長閑には死なじ」の二つがあり、かけあって唱えたものではないか、と推測している。
原歌
賦・長歌
作詞者:大伴家持(718年 - 785年、著作権消滅)
作曲者:信時潔(1887年 - 1965年、著作権保護期間満了)
陸奥国より金を出せる詔書を賀ほく
葦原の 瑞穂の国を 天降あまくだり 領しらしめける すめろきの 神の命みことの 御代みよかさね 天あまの日嗣ひつぎと 領しらしくる 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山河を 広み厚みと たてまつる 御調宝みつきたからは 数へ得ず 尽くしもかねつ しかれども 我わご大君の 諸人もろひとを いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて 黄金くがねかも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏とりが鳴く 東あづまの国に 陸奥みちのくの 小田なる山に 黄金くがね有りと 申したまへれ 御心みこころを 明らめたまひ 天地あめつちの 神相珍うづなひ 皇すめろき祖の 御霊みたまたすけて 遠き代に かかりしことを 朕わが御世に あらはしてあれば 御食をす国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 物部もののふの 八十やそ伴の雄を 服従まつろへの 向けのまにまに 老人おいひとも 女をみな童児わらはも しが願ふ 心だらひに 撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに尊たふとみ 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖かむおやの 其の名をば 大来目主おほくめぬしと 負ひもちて 仕へし官つかさ 海行かば 水漬みづく屍かばね 山行かば 草むす屍 大君の 辺へにこそ死なめ かへり見は せじと言立ことだて 大夫ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖おやの子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる辞立ことだて 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひつげる 言の職つかさぞ 梓弓 手にとりもちて 剣つるぎ大刀たち 腰にとりはき 朝まもり 夕のまもりに 大君の 御門みかどのまもり われをおきて 人はあらじと 弥いや立て 思ひしまさる 大君の 御言の幸さきの 聞けば貴たふとみ(18-4094)
【通釈】
[長歌] 葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された神様たる天皇が、代々日の神の後継ぎとして治めて来られた御代御代、隅々まで支配なされる四方の国々においては、山も川も大きく豊かであるので、貢ぎ物の宝は、数えきれず言い尽くすことも出来ない。そうではあるが、我らの大君が、人びとに呼びかけられ、善いご事業を始められて、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に、黄金があると奏上してきたので、御心の曇りもお晴れになって、「天地の神々もこぞって良しとされ、皇祖神の御霊もお助け下さって、遠い神代にあったと同じことを朕の御代にも顕して下さったのであるから、我が治国は栄えるであろう」と神の御心のままに思し召されて、あまたの臣下の者らは付き従わせるがままに、また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるようにと、物をお恵みになり位をお上げになったので、これはまた何とも尊いことであるよと拝し、いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる。さて我ら大伴は、遠い祖先の神、その名は大久米主という誉れを身に添えてお仕えしてきた役柄、「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元に死のう。後ろを振り返ることはしまい」と誓っては、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、「子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである」と言い継いできた誓言を持つ職掌の氏族であるぞ。梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、「朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無い」と、さらに誓いも新たに、弥が上にも心は奮い立つ。大君の栄えある詔を拝聴すれば、たいそう尊くて。
こんばんは、23年前、平成11年に、小渕恵三首相の頃、国旗国歌法案制定されましたね。
私は小学校4年で終戦を迎えた。今ごろ「君」の本当の意味はこうだなんて言ってるが、戦時中は国威を発揚するために使われたんだよ。
母国の日本の国威を発揚して何故いけないノ❓️😄
先生、私は昔から「君が代」が大好きでした。
特に「さざれ〜いしの〜」の部分のザザザザー
とさざなみが立つ感じがゾクゾクします。
日本人に産まれて良かったです。
『海行かば』ー2
反歌
大夫のこころ思ほゆ大君の御言のさきを聞けば貴とみ(18-4095)
大伴の遠つ神祖の奥つ城は著しるく標しめ立て人の知るべく(18-4096)
すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金くがね花咲く(18-4097)
[反歌一]
ますらおとは如何なるものか、その心構えが思い起こされる。大君の栄えある詔を拝聴すれば、たいそう尊くて。
[反歌二]
大伴氏の遠い祖先の神の墳墓には、はっきりと墓標を立てよ、世の人がそれと判るように。
[反歌三]
天皇の御代の栄えるしるしと、東の国の陸奥の山に、黄金の花が咲いた。
【補記】天平二十一年二月二十二日、陸奥国守百済王敬福より黄金が献上され、同年四月一日、聖武天皇は東大寺に行幸して黄金産出を大仏の前に報告した。この長歌は、越中にあった家持がその報に接し、詔書を祝賀したもの。「大来目主」は、「偉大なる久米部の統帥者」の意で、『萬葉集古義』の指摘通り、天忍日命(あめのおしひのみこと)以下、大伴氏遠祖の通称であろう。「言立て」は、決意や祈りなどをはっきりと口に出して述べること、及びそうして言挙げされた文句。
【主な派生歌】
秋ぞみるこがね花さくみちのくの山の木の葉の色をひとつに(正徹)
いづくをも秋やかまくら山とみん金花さく下紅葉かな(〃)
君がよのこがね花さくみちのおくの同じ名におふみよしのの山(細川幽斎)
はしきやし有田の山は冬枯に青葉しげりてこがね花さく(本居宣長)
・大伴 家持
(おおとも の やかもち)は、奈良時代の公卿・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残し、延暦年間には中納言にまで昇った。
歌人として
長歌・短歌など合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』全体の1割を超えている。このことから家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。『万葉集』卷十七~二十は、私家集の観もある。なお、473首のうち223種が越中国在住中の歌である[6]。
『万葉集』の最後は、天平宝字3年(759年)正月の「新しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重け吉事(よごと)」(卷二十-4516)である。時に、従五位上因幡守大伴家持は42歳。正五位下になるのは、11年後のことである。『百人一首』の歌(かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける)は、『万葉集』には入集していない。
勅撰歌人として、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に60首が採られている[7]。
太平洋戦争中に玉砕を報せる大本営発表の前奏曲として流れた「海ゆかば」(作曲:信時潔)は、家持の「賀陸奥国出金詔書歌」(『万葉集』巻十八)に拠る。
官歴
注記のないものは『六国史』による。
天平10年(738年) 日付不詳:見内舎人[10]
時期不詳:正六位上
天平17年(745年) 正月7日:従五位下
天平18年(746年) 3月10日:宮内少輔。6月21日:越中守
天平21年(749年) 4月1日:従五位上
天平勝宝3年(751年) 日付不詳:少納言[10]
天平勝宝6年(754年) 4月5日:兵部少輔。11月1日:山陰道巡察使
天平勝宝9年(757年) 6月16日:兵部大輔。日付不詳:見右中弁[11]
天平宝字2年(758年) 6月16日:因幡守
天平宝字6年(762年) 正月9日:信部大輔
天平宝字8年(764年) 正月21日:薩摩守
神護景雲元年(767年) 8月29日:大宰少弐
神護景雲4年(770年) 6月16日:民部少輔。9月16日:左中弁兼中務大輔。10月1日:正五位下
宝亀2年(771年) 11月25日:従四位下
宝亀3年(772年) 2月16日:式部員外大輔
宝亀5年(774年) 3月5日:相模守、止左中弁。9月4日:左京大夫兼上総守
宝亀6年(775年) 11月27日:衛門督
宝亀7年(776年) 3月6日:兼伊勢守
宝亀8年(777年) 正月7日:従四位上
宝亀9年(778年) 正月16日:正四位下
宝亀11年(780年) 2月1日:参議。2月9日:右大弁
天応元年(781年) 4月14日:兼春宮大夫。4月15日:正四位上。5月7日:兼左大弁、春宮大夫如元。8月8日:復任(母服喪)。11月15日:従三位。12月23日:山作司(光仁上皇崩御)
天応2年(782年) 正月19日:解官(氷上川継の乱連座)。4月:宥罪、復任[4]。5月17日:兼春宮大夫。6月17日:兼陸奥按察使鎮守将軍
延暦2年(783年) 7月19日:中納言
延暦3年(784年) 2月:持節征東将軍
延暦4年(785年) 8月28日:薨去(中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍)。9月24日:除名(藤原種継暗殺事件)
延暦25年(806年) 3月17日:復位(従三位)
系譜
父:大伴旅人[12]
母:丹比郎女
妻:大伴坂上大嬢 - 大伴宿奈麻呂の娘[要出典]
生母不明の子女
男子:大伴永主[12]
この他に藤原訓儒麻呂に求婚された娘がいたと推測される歌が『万葉集』[13]に残されている[14]。
こんな内容なかなか知ることが出来ません。教えていただき、ありがとうございました。
君が代は、ヘブライ語由来であり、ヘブライ語の音に漢字をあてはめているという説もあるみたいです。どれが本当なのかわかりませんが、そういう説明も説得力があり、興味深いものです。
「日本とユダヤのハーモニー」をググッて見ると全く別の意味が理解出来ます。
一度見て、聞いて見ると良く分かります。
全く別の意味だと言う事が!
外国人が日本で暮らしも良いけど、この歌の下で、我を通すのでは無く暮らして欲しいな!😅
君が代は戦前の軍国主義の歌。と思っている人が多いのではないでしょうか。
そうじゃない。右も左も無い。
小学生のうちから歌の意味をちゃんと教えるべきです。
学校の先生が教えない大切なことは、親が教えるべきですね。
うちの子達には日本国民として国歌『君が代』が歌えないような恥ずかしい大人にはなってほしくないですもの。
母親の名前がキミ子です!
私の祖母の名前もきみ子さんです!
なぜひらがなと漢字が混同してるのかなとずっと思っていたのですが、謎が解けた気がします✨ありがとうございます!
母の姉はキミ 母の妹はきよ。
「千代に八千代に」は、ここでは千年八千年ではなく、千ダイ八千ダイという意味だと思います
もともと、代(よ)という言葉に年という意味はなく、複数年のまとまった年月を表す言葉です
したがって、先祖代々あるいは子々孫々という意味で使われていたものが意味が変化していったのではないかと思われます
ここでは、「君が代」が主語なので、それを受ける術部の「代」は同じ意味で取るべきです
そうすると、この歌は、単なる長寿祈願の歌ではなく、「子々孫々に末長く受け継がれていくほど立派な代になりますように」
という意味になり、先生のおっしゃっておられる解釈がより鮮明になります
結婚式で長寿祈願のスピーチをする人はいませんよね
代と代をつなぐ節目となる儀式において歌われたのは、そういう意味で人々が解釈していたからだと思います
当に、日本はかっこいい!
奈良の参政党の個人演説会で小名木先生のお話を聞きました!( どーだ、羨ましいか。)
小名木先生の声の大きいのには、びっくりしました! マイクなんていりませんよね!
さて、『 君が代 』は、てっきり古今和歌集が最初と思っていました。「 そんな事はない。」と言ったのが昭和二年うまれの、もと警察署長。家から高校時代の参考書を持って行って見せてやったものです。「 こんなに古いんだぞ 」と。
ところが、もっと古い? おまけに『 君 』とは「 天皇 」でも「 あなた 」でもなく、『 男と女の世の中は 』ですって?!
これは、正鵠を射ていると思います。少なくとも結婚式のお祝いの歌として定着したのは、そういう意味の歌と認識されていたからです。
PS.
2000年頃? でしたか、ある夏、産経新聞が書きました。( うろ覚えですが、)
「 今日も朝日新聞主催の全国高校野球選手権大会の行われる甲子園球場では、日の丸が高らかに掲げられ、君が代が厳粛に斉唱される。」( 爆笑 )
>君が代が厳粛に斉唱される。 だからこそ、今は斉唱されず、独唱を聞かされる。野球界はみんなそうだ。斉唱を禁止するたにそうしている。雇われ独唱者のファンが、「やっぱりウマい、素晴らしい」とかいうわけだ。見当違いも甚だしい。儀式にウマいのクサいのが、あるもんか。決まったとおりにやれ。独唱は禁止だバカって話。これに対し、サッカー・ラグビーの観客は、雇われ独唱者を無視してまでみんなで歌う。野球のクズっぷりがよく分かる。
中学の時に授業の中で、君が代の意味を書くように言われ、皆提出しましたが、先生から回答を聞いた記憶がありません。うやむやなまま時が経ちました。今思うと先生がどう答えたのか
聞けなかった事が残念です。
今年小学1年生になる娘の音楽の教科書を見たら、君が代がどこにも載ってませんでした。
私の時代はあったはずなのなーと思い、
いろいろ見てみたら、『ひのまる』という全く違う歌詞とメロディーが教科書に載っててビックリしました。
以下歌詞です。
1.しろじに あかく
ひのまる そめて
ああ うつくしい
にほんの はたは
2.あおぞら たかく
ひのまる あげて
ああ うつくしい
にほんの はたは
かなりショックでした😢
君が代が大切な祝詞だと
子供に教えていきたいです。
ナニコレ
今年還暦の者ですが、こちらは「日の丸の旗」という文部省唱歌で、「君が代」と同時に小学校で習いました。
「日の丸の旗」も明治時代に作られたという歴史のある曲です。ただし、2番は「ああ 勇ましい」だったと思います。
@@あんみつもなか322 naruhodo
いつか、「君が代がー」世界で朗詠される時が来るかもしれないなあ、等と想っています。
自分の中では、君は二人称なので、個人、隣人、隣国、世界中が和をもって永遠に平和で繁栄できるようにとの意味で解釈してます。
君が代は柿本人麻呂作詞で恋文です。
恋した相手は持統天皇です。勿論天皇に恋文など渡すことは許されない事でした。
後に島津藩が外国へ行った時に国旗をだし、国歌を歌えと言われ、出したのが日の丸です。つまり日の丸は島津藩の軍旗です。国歌はたまたま流行っていた君が代を歌ったのです。実は薩摩藩の歌です。
と、後南朝第73世武内宿禰 竹内睦泰先生から教えていただきました。
薩摩藩のおかげですね。一藩士といえど、日本国民ですからね。
君が代は古今和歌集です。私の名前は古今和歌集から名前付けられてます、祖父から聞いて大正の人です、それに前から御先祖様からの
『君が代』
(きみがよ)は、日本の国歌である。
概要
10世紀初頭における最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』の「読人知らず」の和歌を初出としている[1][2]。世界の国歌の中で、作詞者が最も古いといわれている。当初は「祝福を受ける人の寿命」[2] を歌ったものだが、転じて「天皇の治世」を奉祝する歌[2][3] となった。1869年(明治2年)に薩摩琵琶の『蓬莱山』にある「君が代」を歌詞として選んだ歌が原型となっている。
「さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで」とは「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意味で、限りない悠久の年月を可視的なイメージとして表現したものである[9]。同様の表現は『梁塵秘抄』巻一巻頭の「長歌十首」祝に「そよ、君が代は千世(ちよ)に一度(ひとたび)ゐる塵(ちり)の白雲(しらくも)かゝる山となるまで」にもみえる[12][注釈 3]。一方では、小石が成長して巨岩になるという古代の民間信仰にもとづいており、『古今和歌集』「真名序」にも「砂(いさご)長じて巌となる頌、洋洋として耳に満てり」とある[13][注釈 4]。
バジル・ホール・チェンバレン
イギリスの日本研究家バジル・ホール・チェンバレンは、この歌詞を英語に翻訳した[14]。チェンバレンの訳を以下に引用する[15]:
Thousands of years of happy reign be thine;
Rule on, my lord, till what are pebbles now
By age united to mighty rocks shall grow
Whose venerable sides the moss doth line.
(→汝(なんじ)の治世が幸せな数千年であるように
われらが主よ、治めつづけたまえ、今は小石であるものが
時代を経て、あつまりて大いなる岩となり
神さびたその側面に苔が生(は)える日まで)[16]
香港日本占領時期には、「君が代」の公式漢訳「皇祚」があった。
皇祚連綿兮久長
萬世不變兮悠長
小石凝結成巖兮
更巖生綠苔之祥
礼式曲「君が代」制定までの歴史
和歌としての君が代
テキスト
歌詞の出典は『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題知らず、読人知らず、国歌大観番号343番)である。ただし、古今集のテキストにおいては初句を「我が君は」とし、現在の国歌の歌詞とは完全には一致していない[3][9]。
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
文献にみえる完全な一致は、朗詠のための秀句や和歌を集めた『和漢朗詠集』の鎌倉時代初期の一本に記すものが最古といわれる(巻下祝、国歌大観番号775番)[3][8][17][18]。
『和漢朗詠集』においても古い写本は「我が君」となっているが、後世の版本は「君が代」が多い[8]。この「我が君」から「君が代」への変遷については初句「我が君」の和歌が『古今和歌集』と『古今和歌六帖』以外にはほとんどみられず、以降の歌集においては初句「君が代」が圧倒的に多いことから時代の潮流で「我が君」という直接的な表現が「君が代」という間接的な表現に置き換わったのではないかという推測がある[19]。千葉優子は、「我が君」から「君が代」への転換は平安時代末期ころに進んだとしている[20]。朗詠は、西洋音楽やその影響を受けた現代日本音楽における、歌詞と旋律が密接に関ってできている詞歌一致体とは異なり、その歌唱から歌詞を聴きとることは至難である[21]。
なお『古今和歌六帖』では上の句が「我が君は千代にましませ」となっており、『古今和歌集』も古い写本には「ましませ」となったものもある。また写本によっては「ちよにや ちよに」と「や」でとぎれているものもあるため、「千代にや、千代に」と反復であるとする説も生まれた[19]。
解釈
万葉集などでは「君が代」の言葉自体は「貴方(あるいは主君)の御寿命」から、長(いもの)にかかる言葉であり、転じて「わが君の御代」となる。『古今和歌集』収録の原歌では、上述したように「君」は「あなた」「主人」「君主」など広く用いる言葉であって天皇をさすとは限らない[9]。『古今和歌集』巻七の賀歌22首のうち18首は特定の個人、松田武夫によれば光孝天皇、藤原基経、醍醐天皇の3人にゆかりの人々にかかわる具体的な祝いの場面に際しての歌である[22]。その祝いの内容は、ほとんどが算賀であるが出生慶賀もある[22]。これに対し、最初の4首は読人知らずで作歌年代も古いとみられ、歌が作られた事情もわからない。そのうちの1首で、冒頭に置かれたものが「君が代」の原歌である。したがってこの「君」は特定の個人をさすものではなく治世の君(『古今和歌集』の時代においては帝)の長寿を祝し、その御世によせる賛歌として収録されたものと理解することが可能である[22]。
後世の注釈書では、この歌の「君」が天子を指すと明示するものもある。それが、『続群書類従』第十六輯に収められた堯智の『古今和歌集陰名作者次第』である。同書第1巻の刊行は、万治元年(1658年)のことであり、堯智は初句を「君か代ともいうなり」とし、「我が大君の天の下知しめす」と解説しており、これによれば、17世紀半ばの江戸時代前期において「天皇の御世を長かれ」と祝賀する歌だとの解釈が存在していたこととなる[23][24]。
『古今和歌集』に限らず、勅撰集に収められた賀歌についてみるならば「君」の意味するところは時代がくだるにつれ天皇である場合がほとんどとなってくる。勅撰集の賀歌の有り様が変化し、算賀をはじめ現実に即した言祝ぎの歌がしだいに姿を消し、題詠歌と大嘗祭和歌になっていくからである。こういった傾向は院政期に入って顕著になってくるもので王朝が摂関政治の否定、そして武家勢力との対決へと向かうなかで勅撰集において天皇の存在を大きく打ち出していく必要があったのではないかとされている[22]。
歌詞の音の数に注目すると、全て素数なんです。小生、素数ファンなんですが、和歌・俳句の音の数は全て素数で、和歌は5・7・5・7・7=31、俳句は5・7・5=17ですね。全ての数字は素数です。素数とは、正の約数が1とその数自身である約数で、1でない自然数のことで、無限にあります。英語ではPrime Numberと云い、他の数字より格上なのです。日本の文化に素数が深く関わっているのがとても興味深いです。
重大な間違いをされておりますよ。(畏れ多くも「国歌」に関わる動画なので早急に対処なされた方が宜しいかと存じます。)『和漢朗詠集』の成立は『古今和歌集』のそれよりも(100年ぐらい)後です。それと『和漢朗詠集』の中では「君が代は」で、『古今和歌集』の中では「我が君は」です。『古今和歌集』も『和漢朗詠集』も共に岩波の日本古典文学大系の中に入っていますので、実際に図書館でページをめくってみるのが宜しいですよ。なお、「我が君は」の歌は『古今和歌集』巻第7.賀歌の中に収録され、「君が代は」の歌は『和漢朗詠集』巻下.雑、祝の中に収録されております。それと3分53秒あたりでこの歌が『新古今和歌集』の中にも収録されているかの如き発言をされておられますが、『国歌大観』の索引で確認してみましたが、『新古今』には収録は有りません。
ホツマツタエではキは木、ミは実 お神酒(おミキ)、三々九度などにもつながります。
鹿児島県 薩摩川内市に君が代の発祥地がありますね。そのすぐ近くの交差点を日の丸交差点と言います。
結局、先の大戦から色々言われて歌わせないだの言ってましだけど、先の大戦が何故戦争する事になったのか、開戦の理由をなぜ国民に正しく伝えてないのかなんじゃないですかね?戦わざるをえなかった理由を今ならメディアで世界中に発信しても良い時代になっているとおもいますよね。
戦争と強固に結びつけられるイメージが安易で、元来は、イザナギイザナミの代がいつまでも続きますように、という歌だった、ということでしょうか。
また詠み人知らずということは、お役人が宮中でおべっかのために詠んだものではなく、市井の誰かが素朴な思いで詠んだといえますね。
我が君 から「我が」を消すだけのわずかな変化でまったく異なる意味にした芸術の一であり、塩を加えたら新たな料理になったような、元の歌とは別の歌として考えるべきという話で、天皇→戦争との結びつけは、元の歌のままで解釈した無用なすりこみの影響だということですね。
確かに当時意図がわからなかったのですが、戦争と結びつけるな、とかそんなことが言われていた気がします。「君」に当てられた元来の意味があるので、国歌の「君」の意味をそこに繋ぎ直せばいいのですね。
日本人として知っておくべき
大君
(おおきみ・おおぎみ)は、日本における天皇、皇子、皇女に対する尊称。ただし飛鳥時代までは「大王」と表記して、「大君」の表記はほとんど例がない。(おおいぎみ)は、貴族の長女の尊称。次女は「中の君」、以下「三の君」「四の君」と続く。源氏物語に宇治の大君として例が見える。
・きみ【君/▽公】
[名]
1 一国の君主。天皇。天子。
2 自分が仕えている人。主君。主人。「わが―」
3 人を敬慕・親愛の情をこめていう語。「いとしの―」
4 人名・官名などの下に添えて敬意を表す語。男女ともにいう。「師の―」
「明石の―」〈源・若菜下〉
5 貴人や目上の人をいう語。お方。
「この―をば、私ものに思ほし」〈源・桐壺〉
6 遊女。遊君。
「―達声をあげて…笑ひぬ」〈浮・一代男・五〉
7 古代の姓かばねの一。もと皇親系の尊号で、天武天皇の八色やくさの姓制では朝臣あそみ姓を与えられる者が多かった。
[代]二人称の人代名詞。
1 多く男が同等または目下の相手に対していう語。「―、一緒に行こう」
2 上代では多く女が男に対して、中古以後はその区別なく、敬愛の意をこめて相手をいう語。あなた。
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや―が袖振る」〈万・二〇〉
[下接語]大君・十善の君・万乗ばんじょうの君・儲もうけの君・嫁が君・我が君(ぎみ)兄君・姉君・尼君・父君・母君・姫君・村君・若君
[類語]お前・貴様・貴方あなた・お宅・汝・貴方様・あんた・てめえ・おのれ・我・うぬ・そなた・お主・其方そちら・そっち
くん【君】[漢字項目]
[音]クン(呉)(漢) [訓]きみ
[学習漢字]3年
〈クン〉
1 民を支配する者。王侯。「君王・君主・君臨/暗君・主君・神君・大君・暴君・名君・明君・幼君」
2 人を尊敬して呼ぶ語。「君子/厳君・細君・夫君・父君・郎君」
3 同輩や目下の者を呼ぶ語。「貴君・諸君」
〈きみ(ぎみ)〉「大君・父君・姫君・若君」
[名のり]きん・すえ・なお・よし
・(たいくん)は、日本の将軍の外交称号。日本国大君の略。日本国大君を参照。
琉球王国の祭祀を司るに最高位の神女の称号。聞得大君を参照。(テーグン 、ハングル:대군)は李氏朝鮮における親王に相当する王族の尊称。単に「君(クン 군)」とも。
・日本国大君
(にほんこくたいくん)または日本大君(にほんたいくん)は、日本の江戸時代に対外的に用いられた、征夷大将軍の外交称号。江戸幕府が外交文書(国書)において使用し、初めは朝鮮との間で用いられ、のちに琉球やヨーロッパ諸国との外交関係でも用いられた。略称は「大君」。
概要
幕府の長である征夷大将軍、略して将軍は、字義的には単なる軍事司令官の称号に過ぎないことは、江戸幕府としても十分承知していた。そのため外交において、日本を代表する存在として認められる称号を用いる必要があった。
大君の語は『易経』に由来し、「大君命あり、国を開き家を承く」(大君有命,開國承家)、「武人大君と為る」(武人為於大君)、「知ありて臨む、大君の宜なり」(知臨,大君之宜)などと見えるもので、いずれも天子を指す。
また、英語やドイツ語などで(特に経済的な)実力者や大物を意味する タイクーン(例:ドイツ語のtycoonのページ) の語源となった[1][2]。
歴史
日本で支配者を意味する称号としては、室町時代に足利将軍(室町殿)が中国の明朝から冊封を受けて「日本国王」となり、外交文書においては国王号が使用されていた。足利義満は最初、征夷大将軍を名乗ったが、明より外交相手として認めてもらえなかった経験によるものであるが、日本国王は中華王朝との宗属関係を意味する号であり、朝廷からは「他国より王爵を得た」という批判を受けた。
江戸時代には、豊臣秀吉の朝鮮出兵で断絶していた日朝、日明関係の国交修復が試みられ、2代将軍徳川秀忠の時代には対馬の宗氏を仲介に李氏朝鮮との交渉が行われる。当時、将軍は「日本国源秀忠」という肩書きを使用しない署名を用いており、朝鮮に送る国書もこの形式がとられた。しかし朝鮮との貿易に依存していた宗氏は独断で国書を偽造し、国書の署名を「日本国王」として貿易の開始を取り付けた。後に送られる国書も偽造と改竄を続けたが、寛永10年(1633年)に事態が発覚する(柳川一件)。これを機に幕府は朝鮮に対し「大君」号と日本元号の使用を伝え、1636年(寛永13年)来日の朝鮮通信使から正式に使用される。
6代将軍徳川家宣のとき、正徳の治と呼ばれる改革を主導した新井白石は、多額の経費を要した通信使の待遇簡略化に取り組み、白石は「大君」が朝鮮では王子の嫡子を意味する称号であるとして、朝鮮国王との釣り合いを取るため、返書に記される「日本国大君」を「日本国王」に変更した(大君一件)。しかしこれには反対意見もあり、8代将軍徳川吉宗時代に再び「大君」号に改められる。
日米和親条約締結以降は、欧米諸国に対応するために条約の和文などにおいて「日本大君」「帝国日本大君」「帝国大日本大君」などが用いられ、1868年(明治元年)、天皇が外交権を接収するまで続いた。もっとも、「大君」に対応する西欧語は一定せず、とりわけ初期には天皇と将軍の関係が知られていなかったこともあり、中国の皇帝を指す場合と同様の「尊厳なる君主」の意味の"august sovereign"(英語)や一般に「皇帝」を意味する"Emperor"(英語)、"Keizer"(オランダ語)、"Empereur"(フランス語)が用いられていたが、後に天皇と将軍の関係が知られるようになると、「大君」の音訳たる"Ty-coon"もしくは"Tycoon"(英語)、"Tai-koen"(オランダ語)や、「大君」の直訳である"Grand Souverain"(フランス語)が用いられるようになった。
また、幕末の幕政改革においては、西周らにより議会政治を取り入れ、“大君”を元首とする国家体制も構想された。
明治以降は「大君」(おおきみ)が天皇の非公式な尊称のひとつとして使われる事になる。
学校の国語で教えるべきですね
それと国歌斉唱で起立しないやつ(脚の不自由な方は除きます)はけしからん‼️
歌詞は聞き手が解釈してもいいと思う。
その時代時代に様々な思いがあるはず。
僕は君が代が大好きだ!
千の代まで苔のむすまで幸せでいようというのは
男と女の関係なく、天皇関係なく良いことと思う
君が代の意味を再認識させてくれて感謝
君が代は安曇磯良を称えた歌ですよね。
ホツマツタエにも同じことが書かれています。
この君が代の解釈は知っていましたし、まさにそうだと思っていましたが、小名木さんの提唱したものだとは知りませんでした。
それこそ何百年も前からそう考えられて伝わったものだと思っていました。
日本の国歌と皇室の存在は、何故か日本人のほうが過小評価、歪曲解釈ばかりで、海外の評価のほうが余程高いものであるのが不思議ですね。
ちなみにどこぞの大陸の国の国歌は、抗日映画の主題歌なんてお粗末なものなのにw
次には、”海ゆかば”を解説していただけませんでしょうか。
旭日旗も祝い旗です。
最近は大人しいけど、君が代は洗脳美化の歌だ!と日の丸国旗を見ただけで過呼吸を起こす学校教員連中と、天皇制廃止!とか言ってる政治団体が騒いでた時期に私自身も色々調べました
結局行きつく先は一青窈さんのハナミズキって歌にたどり着きました。
君と好きな人が100年続きますように
私はこれが答えだと思ってます。当時それを聞いてたってのもありますが、、、(笑
大人になるとなぜか歌うことなくなった国歌 なぜだ
単純に、
I LOVE YOU FOREVER
っていうニュアンスだと思っています。
太平洋戦争で負けたから文句言うだけで、
日露戦争とかはなんも考えてない
本当に勉強してない輩が反対してますよね
いざなぎいざなみは君が代とは関係ないのでは?
それに、元の歌がどうであろうと、「法律上の存在である君が代」
は天皇を表すというのは変わりないです。
そもそも前提として、天皇を表すものでも何の問題もないですし。