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ちょうど蘇我氏の本を借りて帰ってきて通知が来たので驚いた素晴らしいタイミング!!ありがとうございます!!
蘇我えみしと言うと、山岸凉子さんの「日出処の天子」を思い出す
山岸先生は天才であり、神です。
記紀は200年も前に石川家と別れた蘇我家を一つの家として書いています。馬子や蝦夷と言う名は存在しません。この辺は記紀は分かりやすく誤魔化しであることを書いています。元々大陸に出すための書籍であって国内向けにはさほど誤魔化す必要は無かったし、そもそもやられた側が真実を忘れるわけがありません。蘇我馬子は、石川臣麻古といい、現在でも北陸蘇我家に本来の名前が伝わっています。初代武内宿祢は出雲に匿われて嫁を貰った以降は、出雲系の臣を名乗り、物部系の宿祢姓を捨てました。蘇我臣石川。彼が蘇我宗家の石川家の始まりです。息長家と中臣家、中臣家に養子入りした鎌子が石川家を暗殺して滅ぼした事を、逆に英雄にするために蘇我氏の名前を使って書いたのが記紀になります。
知りませんでした。江戸幕府倒幕後に在日朝鮮人が日本人に養子縁組して政財界に入り込み日本解体に動いていることと似てますね。こんな昔から似たようなことが繰り返されていたのですね。だから身内で結婚することが権力を守ることに必須なのですね。
阿蘇氏も 宜しくお願いします
年寄なので厩戸皇子と蘇我毛人と書いてしまいます
我蘇るですか、凄い名前ですね😓
藤原氏とは何者なのかもやってください
上宮聖徳法王帝説には蘇我入鹿は林太郎との記述があるんでしょ?別名だと思われるけども、これの意味と林太郎の記述の後に意図的に消された(削られた)文字列が謎です。
蘇我氏の「我れ蘇る」田中英道先生。11代出雲振根から、崇神が十種神宝を強奪した時に、半分に割れた物部氏。敗れた方の物部の生き残りが、蘇我氏になって復活したんですよ。逃げて行った先は、常陸から香取、そして千葉の蘇我。崇神について行った物部氏は、裏切ってるので激しい対立になったんですね。で、上手い事やって生き残ったのが藤原氏です。
もう一つの蘇我氏のルーツは、北陸三国郡石川臣氏です。そこにオオドノキミ(継体天皇)が入婿し、オオドノキミと一緒に大和入ったとする説。ヤマトの地元豪族でない蘇我氏は、連姓になれなかった。
私は、半島から対馬、壱岐、松浦と渡って来る時に最初に見える日本の地「浮岳」という山の中腹に住む者です。(水平線にポッカリと浮いて見えて来ます)その為でしょうか、頂上には「浮嶽神社」というお宮があり(おそらく航海安全祈念のため)、私共はその氏子です。その山のすぐ隣に「白木」という集落と地名があります。「シラキ」です。・・・どう考えても新羅の流れでしょう。これまで、新羅とヤマトは敵対していた筈なのに何で新羅の部落が・・と思っていたのですが、解説を聞いて少し疑問が解けました。ヤマトは百済一辺倒ではなかったのですね、・・まぁ外交は一筋縄では行きませんよね・・。個人的には、鎌足が豊璋だったら楽しいなとは思っています。ついでになりますが、近くに鎮懐石八幡宮のある場所で、妻の実家が武内宿禰に多少のご縁のある家です。・・応神天皇のパパは武内さんだと思っていますが如何でしょう・・。
蘇我氏が滅亡した後、翡翠が何処で取れるか分からなくなったそう。ということは、蘇我氏は縄文系、蝦夷系の有力者の家系では?竹内文書にも出てくる、世界を飛び回った家系だと思う。
これ、不思議でした。古来からのものがわからなくなるつまり後からのものが新参かと。両方の見方で見たいものです。
蘇我蝦夷の母は物部尾輿の娘です。物部宗家滅亡後、その権益を相続したのではないか。一方、上宮王家(太子一族)も斑鳩や九州など旧物部の勢力が強い地域に影響力があります。蝦夷と山背は旧物部の権益を巡って対立していたのではないでしょうか。事実、馬子没後、蝦夷は上宮王家の私有民(壬部)を勝手に使役し係争となった記録があります境部→上宮王家と協力して旧物部権益を経営する蘇我守旧派蝦夷→独占したい改革派じゃないかなそれなら、非蘇我系の皇族を立てる理由を説明できる
大臣は”おおきみ”でなく”おおおみ” おおきみは大王、つまり天皇の事だし
蘇我は藤原みたいに帝が与えた名と思う。元は物部の分家か何かだと思う。史記に匈奴に行ったきり何年も帰ってこなかった蘇と言う人物がいる。そこから宛てられたと思っているが、クマソを討伐に行って、与えられた名かも。稲目は米奉行もしくは大目付蝦夷は征夷大将軍の前の役職名入鹿は茨木鹿島ないし鹿児島まで統制してきたという褒美名官位名の前身みたいな名、本当の呼び名ではない。
個人的には入鹿が殺害された時の「韓人が入鹿を殺した」という言葉の意味が気になる韓人とはだれのことをさしているのか中大兄皇子と鎌足のことか
なるほど!ですね。中臣は、物部の部下みたいな立ち位置だったんですよね。なるほどです、繋がりました。
昔、職場に中臣さんていたな…そう言えばもっと昔、別の職場にソガジイと呼ばれるソガさんがいたな(笑)
蘇我氏皇胤論は無視なのね。欽明天皇の妃堅塩媛は大后(皇后)とされているが、当時大后は皇族しかなれなかったから蘇我氏は皇族と考えるしかないわけですが。
我は蘇の者なり。
藤原氏の方が…ね
天皇になり損なった1豪族。
蝦夷とか入鹿とか名前を見た印象、あまり良くない名前だなと思ってた。中学生くらいだけど。特に蝦夷という名前はいくらなんでもなぁ。
ヤマトの国の高市の本宗家は磯城郡だと思ったが?蘇我氏の本拠地はも?翡翠の話しは本当だと思われるけれども?勾玉の弥生時代から引き続いていた話しがあって、蘇我宗家が無くなって仕舞った後は翡翠の原産地が解からなくなってしまったとか?分家の相模の曾我の庄園は続いて居るよ。俺もそこの曾我の男子の部の民の種なんだけれども 、多分女系の嫁入りの母の管轄ってことになるかなぁ?渡来人でも帰化しなければ日本国に住み付かないじゃない?蘇我氏に対する妬みの恨みで造り話しがされたのかも知れないが?名前自体があり得無いじゃない?蝦夷とか馬子とか入鹿とか?それでも人間の政治手法で議会政治は天皇の権限を抑制するからだとか?議会の建議はもうずっと後で天皇は倒れないけれども?イギリスの名誉革命で手っ取り早くして「ここにサインを下さいませ?ウィリアム・イギリス王万歳!?聖なる王は汚い政治に介入せずとも加わらなくても善いのです、配下の者が行動しますので?」って?天皇のもの公家だから人殺しせずに?ちょっとそっちにいていろ!?あとで聴くからだとか?明治天皇が啓蒙君主からだとか!?文明開化で!?俺は天皇陛下の支配下に御座います!天皇陛下万歳!?って?東条英機じゃないけれども?
系図が小さくて読めない。朝鮮半島からの出身ではないという学者が多い、ということですがいま一つ説得力がないように思います。
絵から見ると、耳位置が隣国型蘇我馬子の絵は大陸系だね。
ちょうど蘇我氏の本を借りて
帰ってきて通知が来たので驚いた
素晴らしいタイミング!!
ありがとうございます!!
蘇我えみしと言うと、山岸凉子さんの「日出処の天子」を思い出す
山岸先生は天才であり、神です。
記紀は200年も前に石川家と別れた蘇我家を一つの家として書いています。馬子や蝦夷と言う名は存在しません。この辺は記紀は分かりやすく誤魔化しであることを書いています。元々大陸に出すための書籍であって国内向けにはさほど誤魔化す必要は無かったし、そもそもやられた側が真実を忘れるわけがありません。
蘇我馬子は、石川臣麻古といい、現在でも北陸蘇我家に本来の名前が伝わっています。初代武内宿祢は出雲に匿われて嫁を貰った以降は、出雲系の臣を名乗り、物部系の宿祢姓を捨てました。
蘇我臣石川。彼が蘇我宗家の石川家の始まりです。
息長家と中臣家、中臣家に養子入りした鎌子が石川家を暗殺して滅ぼした事を、逆に英雄にするために蘇我氏の名前を使って書いたのが記紀になります。
知りませんでした。江戸幕府倒幕後に在日朝鮮人が日本人に養子縁組して政財界に入り込み日本解体に動いていることと似てますね。こんな昔から似たようなことが繰り返されていたのですね。だから身内で結婚することが権力を守ることに必須なのですね。
阿蘇氏も 宜しくお願いします
年寄なので厩戸皇子と蘇我毛人と書いてしまいます
我蘇るですか、凄い名前ですね😓
藤原氏とは何者なのかもやってください
上宮聖徳法王帝説には蘇我入鹿は林太郎との記述があるんでしょ?別名だと思われるけども、これの意味と林太郎の記述の後に意図的に消された(削られた)文字列が謎です。
蘇我氏の「我れ蘇る」田中英道先生。
11代出雲振根から、崇神が十種神宝を強奪した時に、半分に割れた物部氏。
敗れた方の物部の生き残りが、蘇我氏になって復活したんですよ。
逃げて行った先は、常陸から香取、そして千葉の蘇我。
崇神について行った物部氏は、裏切ってるので激しい対立になったんですね。
で、上手い事やって生き残ったのが藤原氏です。
もう一つの蘇我氏のルーツは、北陸三国郡石川臣氏です。そこにオオドノキミ(継体天皇)が入婿し、オオドノキミと一緒に大和入ったとする説。ヤマトの地元豪族でない蘇我氏は、連姓になれなかった。
私は、半島から対馬、壱岐、松浦と渡って来る時に最初に見える日本の地「浮岳」という山の中腹に住む者です。(水平線にポッカリと浮いて見えて来ます)
その為でしょうか、頂上には「浮嶽神社」というお宮があり(おそらく航海安全祈念のため)、私共はその氏子です。
その山のすぐ隣に「白木」という集落と地名があります。「シラキ」です。・・・どう考えても新羅の流れでしょう。
これまで、新羅とヤマトは敵対していた筈なのに何で新羅の部落が・・と思っていたのですが、解説を聞いて少し疑問が解けました。
ヤマトは百済一辺倒ではなかったのですね、・・まぁ外交は一筋縄では行きませんよね・・。
個人的には、鎌足が豊璋だったら楽しいなとは思っています。
ついでになりますが、近くに鎮懐石八幡宮のある場所で、妻の実家が武内宿禰に多少のご縁のある家です。・・応神天皇のパパは武内さんだと思っていますが如何でしょう・・。
蘇我氏が滅亡した後、翡翠が何処で取れるか分からなくなったそう。ということは、蘇我氏は縄文系、蝦夷系の有力者の家系では?竹内文書にも出てくる、世界を飛び回った家系だと思う。
これ、不思議でした。
古来からのものがわからなくなる
つまり後からのものが
新参かと。
両方の見方で見たいものです。
蘇我蝦夷の母は物部尾輿の娘です。物部宗家滅亡後、その権益を相続したのではないか。
一方、上宮王家(太子一族)も斑鳩や九州など旧物部の勢力が強い地域に影響力があります。
蝦夷と山背は旧物部の権益を巡って対立していたのではないでしょうか。
事実、馬子没後、蝦夷は上宮王家の私有民(壬部)を勝手に使役し係争となった記録があります
境部→上宮王家と協力して旧物部権益を経営する蘇我守旧派
蝦夷→独占したい改革派
じゃないかな
それなら、非蘇我系の皇族を立てる理由を説明できる
大臣は”おおきみ”でなく”おおおみ” おおきみは大王、つまり天皇の事だし
蘇我は藤原みたいに
帝が与えた名と思う。
元は物部の分家か何かだと思う。
史記に匈奴に行ったきり何年も帰ってこなかった蘇と言う人物がいる。
そこから宛てられたと思っているが、クマソを討伐に行って、与えられた名かも。
稲目は米奉行もしくは大目付
蝦夷は征夷大将軍の前の役職名
入鹿は茨木鹿島ないし鹿児島まで
統制してきたという褒美名
官位名の前身みたいな名、
本当の呼び名ではない。
個人的には入鹿が殺害された時の「韓人が入鹿を殺した」という言葉の意味が気になる
韓人とはだれのことをさしているのか
中大兄皇子と鎌足のことか
なるほど!ですね。
中臣は、物部の部下みたいな立ち位置だったんですよね。
なるほどです、繋がりました。
昔、職場に中臣さんていたな…
そう言えばもっと昔、別の職場にソガジイと呼ばれるソガさんがいたな(笑)
蘇我氏皇胤論は無視なのね。欽明天皇の妃堅塩媛は大后(皇后)とされているが、当時大后は皇族しかなれなかったから蘇我氏は皇族と考えるしかないわけですが。
我は蘇の者なり。
藤原氏の方が…ね
天皇になり損なった1豪族。
蝦夷とか入鹿とか名前を見た印象、あまり良くない名前だなと思ってた。
中学生くらいだけど。
特に蝦夷という名前はいくらなんでもなぁ。
ヤマトの国の高市の本宗家は磯城郡だと思ったが?蘇我氏の本拠地はも?翡翠の話しは本当だと思われるけれども?勾玉の弥生時代から引き続いていた話しがあって、蘇我宗家が無くなって仕舞った後は翡翠の原産地が解からなくなってしまったとか?分家の相模の曾我の庄園は続いて居るよ。俺もそこの曾我の男子の部の民の種なんだけれども 、多分女系の嫁入りの母の管轄ってことになるかなぁ?渡来人でも帰化しなければ日本国に住み付かないじゃない?蘇我氏に対する妬みの恨みで造り話しがされたのかも知れないが?名前自体があり得無いじゃない?蝦夷とか馬子とか入鹿とか?それでも人間の政治手法で議会政治は天皇の権限を抑制するからだとか?議会の建議はもうずっと後で天皇は倒れないけれども?イギリスの名誉革命で手っ取り早くして「ここにサインを下さいませ?ウィリアム・イギリス王万歳!?聖なる王は汚い政治に介入せずとも加わらなくても善いのです、配下の者が行動しますので?」って?天皇のもの公家だから人殺しせずに?ちょっとそっちにいていろ!?あとで聴くからだとか?明治天皇が啓蒙君主からだとか!?文明開化で!?俺は天皇陛下の支配下に御座います!天皇陛下万歳!?って?東条英機じゃないけれども?
系図が小さくて読めない。
朝鮮半島からの出身ではないという学者が多い、ということですがいま一つ説得力がないように思います。
絵から見ると、耳位置が隣国型蘇我馬子の絵は大陸系だね。