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昔の都は水捌けが悪く生活排水がすべてたまってしまうため都の寿命だったのでしょうね。一ヶ所にとどまれば土地も痩せて作物が取れなくなるしな。
昔、イギリスの王は宮廷の一族を引き連れて移動し、行く先々で食べものを徴発したので、農民は王の姿を見ると逃げ去ったという。疫病で荒れ果てた地方から食糧が届かなくなることは十分に考えられ、日本でも同様のことが起こったのかも。腹減ったーと聖武言い。
でも遷都後はだいぶ長く同じ場所でやってましたけどww
奈良が衰退したのは邪馬台国以来あった古代奈良湖が干上がったからだよそれまでは内陸の港町で物流の拠点だっただから以後は一度も奈良が発展した事は無い遷都先の平安京は加茂川沿いの港町として長年栄えた
大仏建立時に金メッキに使った大量の水銀が引き金になって大規模な環境汚染を引き起こした(金と水銀を混ぜたものを銅製の大仏に塗ったあと火をつけて熱で水銀を蒸発させることで金メッキをやるのを行った為大量のガス化した水銀が大気中に放出されたので)事が発端で移転せざるを得なくなったからという説も。
近年の土壌調査では従来言われているほど水銀の汚染はひどくなかったという結果が出てるそうです。
平安京でも「方丈記」の冒頭にある様に加茂川も糞尿まみれであった事を伺わせる表記があります。
方丈記の冒頭というのは、「淀みに浮かぶ、うたかたは…」の部分のことでしょうか?この文章が、加茂川が糞尿まみれであった事を伺わせる?想像力が逞しすぎますよ😅まず鴨長明は、この川が加茂川だとは言っていない。そして淀みに泡沫があるのは、さほど汚い川じゃなくてもあり得ます。ましてや糞尿まみれだなんて、想像が飛躍し過ぎですよ😂
平城京のBGMのせいで聞きにくかったです
律令に関しては、現代でいうところの施行令(政令による)とも言える格、施行規則(省令)ともいえる式が補完的下位法令と位置付けられ、有名な延喜式は延喜年間において制定された律令制に基づく施行規則群と位置付けられ、御成敗式目に代表される式目も式の一種であって武家政権が延喜式運用のために定めた、現代でいうところの中央官庁からの通知、通達の類になる。すなわち、平安の頃には律令の形骸化が進んでいた喧伝されるも、明治の近代法体系の整備まで律令を核とした法体系は一応は機能していたと言え、明治維新直後の官職秩序も延喜式に依拠を求めていた点、曲がりなりにも明治初期の段階まで律令制が基本法としての地位があって、日本はあくまでも法治国家であった。なお、平城京廃都の背景には、大仏建立時のメッキ処理におき大量の水銀を蒸着させた結果の水銀の大気曝露による中毒発生に原因があるという説も聞く。
へえ~学校の歴史では表面的な事跡を覚えさせられるだけで興味ゼロだったんですが、深堀ると面白いことが満載ですねメチャ勉強になりました、感謝
奈良時代の終わりの西暦が、教科書でも割れていると思う。中学社会の歴史的分野では、大阪市に本社がある日本文教出版(日文)発行の「中学社会 歴史的分野」では「長岡京へ移る784年までを奈良時代といいます」と記述しています。また、高校日本史では山川出版社、東京書籍各社発行では794年、実教出版発行では784年と記述されています。新課程の日本史探究では、清水書院発行は「長岡京・平安京へ遷都する794年」という不可解な記述もあります。ただ、長岡京があった京都府長岡京市は「山背国」(平安京遷都から「山城国」)であったから、奈良時代には含まれないのではないのか?奈良時代は、平城京を一貫とした解釈が正しいと考えられます。けど、奈良県の公立中学校で多く採択されている日文の歴史的分野教科書が北海道函館市内の公立中学校で採択し、拝読したら、新解釈を突かれた感じでした。😅
道鏡は左遷というけど下野国の薬師寺は日本三大戒壇の一つ。そこの別当となると晩年は言われるほど不遇では無いですね😊。栄転と言はれても大丈夫な待遇ですよ。
1:14 元明天皇(げんめいてんのう)6:06 元明天皇(もとあきてんのう)→ 最初に読めていた名前を次に出てきた時に間違えるか?
先日、飛鳥村と奈良に行ってきました。何故遷都を繰り返したのか。少し理由が分かりました。
学校での歴史の勉強だと、トピック案件の年号暗記が目立つが、各政治家の行った政策などを見ると今の政治家と大して変わらん感じでやっていたということがわかるし、社会インフラの整備が無いと疫病が流行る、ということもわかる。トピック案件にばかり注目させるより、当時の人々の生活環境や社会制度にもっとフォーカスあてた方が、面白いと思う。
年号暗記しなさいって先生から言われたことないし、教えられたこともないし、覚えたこともない…😅ちゃんと授業聞いてなかったんですね😅😅今さら分かってもしょうがないけど😢
実質的な奈良の最期は、1181年の南都焼き討ち。 東大寺、興福寺など奈良の主要な寺院のみならず街が灰燼と化した。この事件は奈良の都と共に時代を受け継いでいた民衆も断絶させてしまった。
光仁帝という準備期間はさんで、藤原氏が天智帝系の世の中にしたかったからだと思うけどw奈良時代も何とか権力を保持できて北家を安定できた事、称徳帝という政治と恋をごちゃまぜにした女帝が出てしまった事が大きかったと思う。ちなみに奈良時代に天武帝本人を除くと天武帝直系の帝は「五体」なんだよね。後に平家を名乗った武将さんは本当に平家だったのかね?w
突然謎のBGM!これ要らないよ!あとの説明はなかなか面白かったです。やはり貴族の政治はダメだな!
平城京を捨てたのは仏教勢力から逃れるため。遷都先を長岡に選んだのは桓武の母高野新笠や造宮使藤原種継の地元であり支持基盤があるという人脈上の理由。あと3本の川が合流しており運輸面で便利。難波宮の木材を川で運んでるし衛生面も併せて水利上の理由。
仏教勢力から逃れる為に遷都したはいいが、新たな都も結局は別の仏教勢力に支配されてしまうという笑えない落ちが待っていた。
奈良時代とは天武系と天智系の官僚の暗闘天武系(筑紫君薩野馬)」の血統が「称徳」で断絶「天智の孫の光仁」が即位だから終わった
よく白壁王と山部王の即位を天武系から天智系への移行と捉える節があるけど当時としては草壁王の系統を擬制的に継いだというのが正確。山部王は聖武系統の酒人内親王と結婚しているし、酒人内親王との間に生まれた娘を息子と結婚させている。白壁王も由義の宮の造営をストップしたりはしてるけど西大寺の造営や仏教が取り入れられた宮廷儀式も続けている。
772年光仁天皇の皇后の井上内親王(いかみのひめみこ いのえないしんのう)が夫=光仁天皇を呪殺しようとしていたという疑いをかけられ皇太子の他戸親王(おさべのみこ)とともに廃位されます775年に幽閉されてた奈良で母子ともに死去
地元ですが、汚かったから 京へ遷都したとは初めて聞きました。佐保川以外に付近には、秋篠川や富雄川がありますが 当時は無かったのかな?下水道完備は一応されていたと聞きましたが。流行り病や怨霊を恐れて、又政治勢力の背景とで京を移したという認識です。
防人のイメージが強かった時代これはやりたくないって
坊さん達が調子に乗り過ぎたから別の場所に都を移したと聞いたことがある。和気清麻呂の改名の件、子供のイジメみたい。
燃料となる薪が尽きた。それだけやで。若草山に木がない理由がそれや。
23:21法治国家とパラダイス国家()を両立させていたとは!w奈良時代sgee!
行基さん、大仏建立の遺志は令和まで続いています。ちょっと動かしてみました。
平城京は汚かった部分のBGMが変で、何を言っているのか聞き取りにくい。
まるで平城京を表すかの様にな
@@自称紳士-n4e どうやらBGMを修正してくれたようです
日本スゴイの変なファンタジーが入ってなくて、ちゃんと歴史をまとめてくれてて良かったです
東大寺などの勢力が強大になり過ぎたからだろうな!
で、遷都先は時の最高権力者白河法皇が天下三不如意の一つに挙げるくらい強大な延暦寺と言う仏教勢力に悩まされる羽目になってしまった訳で。
藤原京(飛鳥時代)から始まって平城京、長岡京。滅茶苦茶せわしないな。民百姓からしたらたまったものではない。🤕
昔大仏 今マスクだなwww
野見宿禰は奈良時代から平安時代にかけて生きていたんですか?稗田阿礼は、天之鈿女命の子孫で女舎人(猿女部)の一族だったそうですね。女性ということですね。
奈良→平安は首都のお引越しで線を引いてるだけで、決定的にコレが変わったってのはイメージがないわ。なんか仏教嫌いみたいに思われてるけど、既存とは別の宗派にハマってたからね。
魔理沙は頭がいいなーリクエストです『壬生義士伝』渡辺謙さんの主演でTV放送された年末ドラマのなかで戊辰戦争直前に新撰組の人達が『旗本』に取り立てられるシーンがあったのですが史実としてはどうなのでしょうか?吉村貫一などのあまり有名でない隊士のエピソードを解説してくれませんか?
当時の人に飛鳥時代も奈良時代も平安時代もなくね?
早良親王の怨霊から逃れるためじゃなかった?
BGMデカすぎてよく聞こえない
「鎌倉時代が来たから」だと思う。
天然痘のせいやと思ったが……
政治の中心が時代の名なら奈良時代ではなく平城時代ではないのか平城、平安で被るから覚えづらいのか、中国や朝鮮にも同じ名前があるからなのか
むしろ平安時代じゃなくて京都時代じゃねそれだと京都は明治までずっと首都だったから鎌倉幕府以降の時代区分がおかしくなるのだが
墾田永年私財法が結果として藤原氏や仏教寺院の朝廷に対する影響力の増大に結びついたのも事実です。
終焉したんじゃなくて都を移転しただけやろ。言葉の使い方どうにかしてくれ。
奈良時代のスーパースター行基!
中臣鎌足噛むわ😭よく噛まずにいえるね
正倉院展の宝物等で、国際的で華やかなイメージのある奈良時代だが、農民にとっては税(作物・布・労役・懲役等)を取られる酷い時代……(;=´人`=)
奴隷制で成り立っていたギリシャローマ、さらにはアメリカ合衆国が美しく語られるようなもの。アメリカの都市も昔はゴミがうず高く積もっていたらしい。
平安時代長すぎだから、村上朝までの王朝時代、冷泉天皇から後朱雀天皇までの摂関政治時代、後三条天皇からの院政時代に分けてもいい気がする
1:08元明天皇は女性…どーしても気になって😅
今は水が国内経済に変わっただけで、奈良時代同様に今の日本政府も崩壊するだろう。
稗田阿求の先祖か
さい奈良~ (笑) 👍️
ふむぅ😮
日本書紀のどこまでが神話(笑)
さよう奈良
つまり、称徳という色狂いの女帝のせいで奈良の都が衰退したわけね。
別に色狂いではないです。そもそも道鏡との関係を匂わせる史料は少ないですし何より男女の関係には必ず尾鰭はひれが付きます。道鏡も破戒僧として罰せられていません。孝謙天皇も病から回復した時点で出家しています。二人はあくまで宗教上での師弟関係でしかなかったと思います。しかも二人とも歳を食ってる上にそんなことしていたら道鏡はされていたはずです。何かの原因を単純明快なものにするのは簡単でいいですが、実態から大きくかけ離れることにもなります。
称徳と道鏡の不貞話は後世の創作だぞ
貶めるための、藤原氏と天智系皇室の創作
押勝に失敗!
遷都の理由に「手狭になったから」と"ナレ"していましたが、理由にはもう少し具体的な内容があるのでしょうか?そもそも盆地の奈良は、古代から盆地だったようです。奈良盆地。大阪湾につながる河川(藤井寺と斑鳩の間)はあったようですが、その川を遡上する意味は何でしょうか。都を大洋の向こうから隠したかった? また、奈良盆地湖の周辺の陸地に権力人にとって何んらかの価値かあったのでしょうか。状況的には、メキシコのティノティトラン的に思えました。湖水の都。彼らも何故、あの様な高地に都市を?と思います。メキシコ湾から都まで市民バスで移動しましたが、景色は絶景、傾斜の景色は遠くまで眺望できて怖いくらいです。そんな地の利ですから、海の幸は期待(塩漬けなら別)できなかったと思います。だいたいこの都市を抱える巨大な窪みは何?でしょう。そもそもは火口?湖水の水の自然循環は都市の生活用水を処理できていたのでしょうか?飲み水の確保は湧き水? その痕跡は?奈良盆地湖と大阪湾の高低差と距離間での流速はどうなるのでしょう?手漕ぎとか、陸から紐引きなどで遡上させていたのでしょうか? まさか、水門なんぞあるわけもないでしょうし。なぜ、都は盆地に隠れるように設けられたのでしょう。盆地は夏暑く?、冬底冷え? の環境が、当時の人々は好みだった? 海の潮の満ち引きで高低差が嫌いだった?動物性タンパク質が手軽に確保できた? 鹿…狸、兎など?。奈良で貝塚は見つかっているのでしょうか? 奈良盆地湖の貝類の生息の証拠は出ているのでしょうか?まさか大陸の街づくりを真似て盆地…内陸にし設けた?ではないですよね。
都に盆地が好まれたのは単純に防衛しやすいという意味合いだったのでは?天智天皇が白村江でやらかして難波宮から大津宮に引き篭って、その大津宮も壬申の乱で攻め滅ぼされてますからね。まあ平城京も平安京も防衛を意識してたと言うにはガバガバに見えるのは当時の軍事技術が拙かったためかもしれませんね。
「奈良」の語源って、平らでなだらかなことから「なら(平ら)」と成って居ますので、「都」に適した広く平らな土地が有ったと言う事です。和歌山など急峻な山地が多いし、大阪は「浪速(なみはや)」と呼ばれる程、波が早く荒い為に港には適さないので、少し川を遡上した奈良が良かったのです。大和川は流れが緩やかで水運には適していますし、飛鳥時代の奈良は湖沼が多く存在する湿地帯(縄文時代には「古奈良湖」と言う大きな湖があり、現在の奈良県の低地はほぼその湖底)だったので、水運に適した土地でも有った様です。大阪にも淀川が有りますが、当時の飛鳥時代頃までの淀川は流れが急で水運には不向きだった様です。「平らな土地」と「河川や湖沼を使った水運」って、重要なんですよ。規模は小さいですが、山梨の「甲府」も盆地ですが複数の河川が近くを通っており富士川と通って太平洋に繋がって居た事で発展したんですよ。
@@アサヤス-w8v ■お話、ありがとうございます。※「奈良」の語源って、平らでなだらかなことから「なら(平ら)」と成って居ますので、「都」に適した広く平らな土地が有ったと言う事です。和歌山など急峻な山地が多いし、大阪は「浪速(なみはや)」と呼ばれる程、波が早く荒い為に港には適さないので、少し川を遡上した奈良が良かったのです。大和川は流れが緩やかで水運には適していますし、飛鳥時代の奈良は湖沼が多く存在する湿地帯(縄文時代には「古奈良湖」と言う大きな湖があり、現在の奈良県の低地はほぼその湖底)だったので、水運に適した土地でも有った様です。★こうした"お話"は検索すれば出てまいります。※「現在の奈良県の低地はほぼその湖底)」とありますが、それは遥かに古代(石器・縄文)の事では? 三段跳び的我が田水引は無理がある以上に異常な見識を露呈します。大阪湾と奈良盆地の高低差(今日の)はご理解されていると思いますが、この河川の水量等の予測・計算可能な"水流力"を踏まえますと、一言で「大阪湾から川上りした」的言説はありえないと思います。古奈良湖については承知しています。旧石器時代〜縄文時代には海退により大きな湖が出現したようですが、時間のスパンが"無限的"と言えます。一方、大和川にでは部分的に隆起(昭和)が起き、"亀の瀬"などは(120メートル幅で隆起高低差不明)崩落により川幅は変化していまが、これは今に始まった事とではなく過去にも生じていると捉えるのが合理的と思われます。亀の瀬に限らず大和川の流速は、大阪湾からの遡上を妨げないのでしょうか? 艪で川上りし可能か…岸からの人力・牛等での牽引があったのか?であれば牛や人夫の移動する道は確認されているのか。などです。教養ある人が3人も集まりますと、知らず知らず現代的思考・合理的推論が妥当性を強め合意に至る事があります。@user-wo9oy8vb2r さんには、ご返事いただいた事にお礼申し上げます。お返事は不要でございます。ご自身以外の方には、具体的にお話されるのが宜しいのではと感じた次第です。では。
@@chandee7939 「古奈良湖」に関しては、私のコメントで『縄文時代には』と表記しているので、『遥か古代の事では?』って、無駄なコメントですよね。古奈良湖の話をしたのは、「大きな湖」は無くなっても飛鳥時代頃はその名残として「湿地帯が残って居た」と言う意味ですよ。湿地帯だから各所で「水運」は使えるし、水場が有る事で元々一定数の人口が居て文化が発展し易く、且つ、森林の様に巨木を切り開かなくても広い土地を利用出来たと言う事を言って居るんですけどね。知らず知らず現代的思考』って、それ、あなたもそうじゃ無いですか。『牛や人夫の移動する道は確認されているのか』って、今と違って昔の河川は平地では大雨の後にクネクネと蛇行したり流路が変化するので、よっぽど整備された場所以外は、川沿いの「道」なんて出来る訳が無いでしょう。だからこそ、河川の蛇行で出来た「扇状地」が「平地」となるのですから。『盆地は夏暑く』と言うのも、現在の奈良盆地などの気温で考えるからでしょう。奈良時代初頭までは極端に気温が低い「古代後期小氷期」と呼ばれる時期だったので、夏も『暑い』と言うより『暖かい』と言う感じでは無いでしょうか。
山に囲まれた盆地は守りにはいいが手狭になるから勢力拡大によって大きくなった大和王権にとっては都としての土地としては不向き。京都は瀬戸内海と琵琶湖へのルートを確保できることなど物流の中心としていい場所です。
♀私は、中臣鎌足のときも、結婚も恋愛も子孫もいないから、私達♀天照皇大神宮天照皇大神の過去現在未来は♂男子の前世現世来世と永遠に一切関係ありません。人は、私らが、守護に男子に来てるとき、男子の世界に一切関わらないでいるから、私らは、男子を前世にも持ちません。異性交際、関係は、近年、皆殺しで、最後は終わるから、鬼などが、手を汚してまで人類を手にかけないから、何度も口で説明してわからないときは、自然が手にかけてきて、宇宙の独身を維持します。
昔の都は水捌けが悪く生活排水がすべてたまってしまうため都の寿命だったのでしょうね。一ヶ所にとどまれば土地も痩せて作物が取れなくなるしな。
昔、イギリスの王は宮廷の一族を引き連れて移動し、行く先々で食べものを徴発したので、農民は王の姿を見ると逃げ去ったという。疫病で荒れ果てた地方から食糧が届かなくなることは十分に考えられ、日本でも同様のことが起こったのかも。腹減ったーと聖武言い。
でも遷都後はだいぶ長く同じ場所でやってましたけどww
奈良が衰退したのは邪馬台国以来あった古代奈良湖が干上がったからだよ
それまでは内陸の港町で物流の拠点だった
だから以後は一度も奈良が発展した事は無い
遷都先の平安京は加茂川沿いの港町として長年栄えた
大仏建立時に金メッキに使った大量の水銀が引き金になって大規模な環境汚染を引き起こした(金と水銀を混ぜたものを銅製の大仏に塗ったあと火をつけて熱で水銀を蒸発させることで金メッキをやるのを行った為大量のガス化した水銀が大気中に放出されたので)事が発端で移転せざるを得なくなったからという説も。
近年の土壌調査では従来言われているほど水銀の汚染はひどくなかったという結果が出てるそうです。
平安京でも「方丈記」の冒頭にある様に加茂川も糞尿まみれであった事を伺わせる表記があります。
方丈記の冒頭というのは、「淀みに浮かぶ、うたかたは…」の部分のことでしょうか?
この文章が、加茂川が糞尿まみれであった事を伺わせる?想像力が逞しすぎますよ😅
まず鴨長明は、この川が加茂川だとは言っていない。
そして淀みに泡沫があるのは、さほど汚い川じゃなくてもあり得ます。ましてや糞尿まみれだなんて、想像が飛躍し過ぎですよ😂
平城京のBGMのせいで聞きにくかったです
律令に関しては、現代でいうところの施行令(政令による)とも言える格、施行規則(省令)ともいえる式が補完的下位法令と位置付けられ、有名な延喜式は延喜年間において制定された律令制に基づく施行規則群と位置付けられ、御成敗式目に代表される式目も式の一種であって武家政権が延喜式運用のために定めた、現代でいうところの中央官庁からの通知、通達の類になる。
すなわち、平安の頃には律令の形骸化が進んでいた喧伝されるも、明治の近代法体系の整備まで律令を核とした法体系は一応は機能していたと言え、明治維新直後の官職秩序も延喜式に依拠を求めていた点、曲がりなりにも明治初期の段階まで律令制が基本法としての地位があって、日本はあくまでも法治国家であった。
なお、平城京廃都の背景には、大仏建立時のメッキ処理におき大量の水銀を蒸着させた結果の水銀の大気曝露による中毒発生に原因があるという説も聞く。
へえ~
学校の歴史では表面的な事跡を覚えさせられるだけで興味ゼロだったんですが、深堀ると面白いことが満載ですね
メチャ勉強になりました、感謝
奈良時代の終わりの西暦が、教科書でも割れていると思う。
中学社会の歴史的分野では、大阪市に本社がある日本文教出版(日文)発行の「中学社会 歴史的分野」では「長岡京へ移る784年までを奈良時代といいます」と記述しています。
また、高校日本史では山川出版社、東京書籍各社発行では794年、実教出版発行では784年と記述されています。
新課程の日本史探究では、清水書院発行は「長岡京・平安京へ遷都する794年」という不可解な記述もあります。
ただ、長岡京があった京都府長岡京市は「山背国」(平安京遷都から「山城国」)であったから、奈良時代には含まれないのではないのか?
奈良時代は、平城京を一貫とした解釈が正しいと考えられます。
けど、奈良県の公立中学校で多く採択されている日文の歴史的分野教科書が北海道函館市内の公立中学校で採択し、拝読したら、新解釈を突かれた感じでした。😅
道鏡は左遷というけど下野国の薬師寺は日本三大戒壇の一つ。そこの別当となると晩年は言われるほど不遇では無いですね😊。栄転と言はれても大丈夫な待遇ですよ。
1:14 元明天皇(げんめいてんのう)
6:06 元明天皇(もとあきてんのう)
→ 最初に読めていた名前を次に出てきた時に間違えるか?
先日、飛鳥村と奈良に行ってきました。何故遷都を繰り返したのか。少し理由が分かりました。
学校での歴史の勉強だと、トピック案件の年号暗記が目立つが、各政治家の行った政策などを見ると今の政治家と大して変わらん感じでやっていたということがわかるし、社会インフラの整備が無いと疫病が流行る、ということもわかる。トピック案件にばかり注目させるより、当時の人々の生活環境や社会制度にもっとフォーカスあてた方が、面白いと思う。
年号暗記しなさいって先生から言われたことないし、教えられたこともないし、覚えたこともない…😅ちゃんと授業聞いてなかったんですね😅😅今さら分かってもしょうがないけど😢
実質的な奈良の最期は、1181年の南都焼き討ち。 東大寺、興福寺など奈良の主要な寺院のみならず街が灰燼と化した。この事件は奈良の都と共に時代を受け継いでいた民衆も断絶させてしまった。
光仁帝という準備期間はさんで、藤原氏が天智帝系の世の中にしたかったからだと思うけどw
奈良時代も何とか権力を保持できて北家を安定できた事、
称徳帝という政治と恋をごちゃまぜにした女帝が出てしまった事が大きかったと思う。
ちなみに奈良時代に天武帝本人を除くと天武帝直系の帝は「五体」なんだよね。後に平家を名乗った武将さんは本当に平家だったのかね?w
突然謎のBGM!これ要らないよ!あとの説明はなかなか面白かったです。やはり貴族の政治はダメだな!
平城京を捨てたのは仏教勢力から逃れるため。遷都先を長岡に選んだのは桓武の母高野新笠や造宮使藤原種継の地元であり支持基盤があるという人脈上の理由。
あと3本の川が合流しており運輸面で便利。難波宮の木材を川で運んでるし衛生面も併せて水利上の理由。
仏教勢力から逃れる為に遷都したはいいが、新たな都も結局は別の仏教勢力に支配されてしまうという笑えない落ちが待っていた。
奈良時代とは
天武系と天智系の官僚の暗闘
天武系(筑紫君薩野馬)」の血統が「称徳」で断絶「天智の孫の光仁」が即位
だから終わった
よく白壁王と山部王の即位を天武系から天智系への移行と捉える節があるけど当時としては草壁王の系統を擬制的に継いだというのが正確。
山部王は聖武系統の酒人内親王と結婚しているし、酒人内親王との間に生まれた娘を息子と結婚させている。
白壁王も由義の宮の造営をストップしたりはしてるけど西大寺の造営や仏教が取り入れられた宮廷儀式も続けている。
772年
光仁天皇の皇后の井上内親王(いかみのひめみこ いのえないしんのう)が夫=光仁天皇を呪殺しようとしていたという疑いをかけられ
皇太子の他戸親王(おさべのみこ)とともに廃位されます
775年に幽閉されてた奈良で母子ともに死去
地元ですが、汚かったから 京へ遷都したとは初めて聞きました。
佐保川以外に付近には、秋篠川や富雄川がありますが 当時は無かったのかな?
下水道完備は一応されていたと聞きましたが。
流行り病や怨霊を恐れて、又政治勢力の背景とで京を移したという認識です。
防人のイメージが強かった時代
これはやりたくないって
坊さん達が調子に乗り過ぎたから別の場所に都を移したと聞いたことがある。
和気清麻呂の改名の件、子供のイジメみたい。
燃料となる薪が尽きた。それだけやで。
若草山に木がない理由がそれや。
23:21
法治国家とパラダイス国家()を両立させていたとは!w
奈良時代sgee!
行基さん、大仏建立の遺志は令和まで続いています。
ちょっと動かしてみました。
平城京は汚かった部分のBGMが変で、何を言っているのか聞き取りにくい。
まるで平城京を表すかの様にな
@@自称紳士-n4e
どうやらBGMを修正してくれたようです
日本スゴイの変なファンタジーが入ってなくて、ちゃんと歴史をまとめてくれてて良かったです
東大寺などの勢力が強大になり過ぎたからだろうな!
で、遷都先は時の最高権力者白河法皇が天下三不如意の一つに挙げるくらい強大な延暦寺と言う仏教勢力に悩まされる羽目になってしまった訳で。
藤原京(飛鳥時代)から始まって平城京、長岡京。滅茶苦茶せわしないな。民百姓からしたらたまったものではない。🤕
昔大仏 今マスクだなwww
野見宿禰は奈良時代から平安時代にかけて生きていたんですか?
稗田阿礼は、天之鈿女命の子孫で女舎人(猿女部)の一族だったそうですね。女性ということですね。
奈良→平安は首都のお引越しで線を引いてるだけで、決定的にコレが変わったってのはイメージがないわ。
なんか仏教嫌いみたいに思われてるけど、既存とは別の宗派にハマってたからね。
魔理沙は頭がいいなー
リクエストです
『壬生義士伝』渡辺謙さんの主演でTV放送された年末ドラマのなかで戊辰戦争直前に新撰組の人達が『旗本』に取り立てられるシーンがあったのですが史実としてはどうなのでしょうか?吉村貫一などのあまり有名でない隊士のエピソードを解説してくれませんか?
当時の人に飛鳥時代も奈良時代も平安時代もなくね?
早良親王の怨霊から逃れるためじゃなかった?
BGMデカすぎてよく聞こえない
「鎌倉時代が来たから」だと思う。
天然痘のせいやと思ったが……
政治の中心が時代の名なら奈良時代ではなく平城時代ではないのか
平城、平安で被るから覚えづらいのか、中国や朝鮮にも同じ名前があるからなのか
むしろ平安時代じゃなくて京都時代じゃね
それだと京都は明治までずっと首都だったから鎌倉幕府以降の時代区分がおかしくなるのだが
墾田永年私財法が結果として藤原氏や仏教寺院の朝廷に対する影響力の増大に結びついたのも事実です。
終焉したんじゃなくて都を移転しただけやろ。
言葉の使い方どうにかしてくれ。
奈良時代のスーパースター行基!
中臣鎌足噛むわ😭よく噛まずにいえるね
正倉院展の宝物等で、国際的で華やかなイメージのある奈良時代だが、農民にとっては税(作物・布・労役・懲役等)を取られる酷い時代……
(;=´人`=)
奴隷制で成り立っていたギリシャローマ、さらにはアメリカ合衆国が美しく語られるようなもの。アメリカの都市も昔はゴミがうず高く積もっていたらしい。
平安時代長すぎだから、村上朝までの王朝時代、冷泉天皇から後朱雀天皇までの摂関政治時代、後三条天皇からの院政時代に分けてもいい気がする
1:08元明天皇は女性…どーしても気になって😅
今は水が国内経済に変わっただけで、奈良時代同様に今の日本政府も崩壊するだろう。
稗田阿求の先祖か
さい奈良~ (笑) 👍️
ふむぅ😮
日本書紀のどこまでが神話(笑)
さよう奈良
つまり、称徳という色狂いの女帝のせいで奈良の都が衰退したわけね。
別に色狂いではないです。そもそも道鏡との関係を匂わせる史料は少ないですし何より男女の関係には必ず尾鰭はひれが付きます。
道鏡も破戒僧として罰せられていません。
孝謙天皇も病から回復した時点で出家しています。
二人はあくまで宗教上での師弟関係でしかなかったと思います。
しかも二人とも歳を食ってる上にそんなことしていたら道鏡はされていたはずです。
何かの原因を単純明快なものにするのは簡単でいいですが、実態から大きくかけ離れることにもなります。
称徳と道鏡の不貞話は後世の創作だぞ
貶めるための、藤原氏と天智系皇室の創作
押勝に失敗!
遷都の理由に「手狭になったから」と"ナレ"していましたが、理由にはもう少し具体的な内容があるのでしょうか?
そもそも盆地の奈良は、古代から盆地だったようです。奈良盆地。
大阪湾につながる河川(藤井寺と斑鳩の間)はあったようですが、その川を遡上する意味は何でしょうか。
都を大洋の向こうから隠したかった?
また、奈良盆地湖の周辺の陸地に権力人にとって何んらかの価値かあったのでしょうか。状況的には、メキシコのティノティトラン的に思えました。湖水の都。彼らも何故、あの様な高地に都市を?と思います。メキシコ湾から都まで市民バスで移動しましたが、景色は絶景、傾斜の景色は遠くまで眺望できて怖いくらいです。
そんな地の利ですから、海の幸は期待(塩漬けなら別)できなかったと思います。だいたいこの都市を抱える巨大な窪みは何?でしょう。そもそもは火口?湖水の水の自然循環は都市の生活用水を処理できていたのでしょうか?飲み水の確保は湧き水? その痕跡は?
奈良盆地湖と大阪湾の高低差と距離間での流速はどうなるのでしょう?手漕ぎとか、陸から紐引きなどで遡上させていたのでしょうか? まさか、水門なんぞあるわけもないでしょうし。なぜ、都は盆地に隠れるように設けられたのでしょう。
盆地は夏暑く?、冬底冷え? の環境が、当時の人々は好みだった? 海の潮の満ち引きで高低差が嫌いだった?動物性タンパク質が手軽に確保できた? 鹿…狸、兎など?。
奈良で貝塚は見つかっているのでしょうか? 奈良盆地湖の貝類の生息の証拠は出ているのでしょうか?
まさか大陸の街づくりを真似て盆地…内陸にし設けた?ではないですよね。
都に盆地が好まれたのは単純に防衛しやすいという意味合いだったのでは?
天智天皇が白村江でやらかして難波宮から大津宮に引き篭って、その大津宮も壬申の乱で攻め滅ぼされてますからね。まあ平城京も平安京も防衛を意識してたと言うにはガバガバに見えるのは当時の軍事技術が拙かったためかもしれませんね。
「奈良」の語源って、平らでなだらかなことから「なら(平ら)」と成って居ますので、「都」に適した広く平らな土地が有ったと言う事です。
和歌山など急峻な山地が多いし、大阪は「浪速(なみはや)」と呼ばれる程、波が早く荒い為に港には適さないので、少し川を遡上した奈良が良かったのです。
大和川は流れが緩やかで水運には適していますし、飛鳥時代の奈良は湖沼が多く存在する湿地帯(縄文時代には「古奈良湖」と言う大きな湖があり、現在の奈良県の低地はほぼその湖底)だったので、水運に適した土地でも有った様です。
大阪にも淀川が有りますが、当時の飛鳥時代頃までの淀川は流れが急で水運には不向きだった様です。
「平らな土地」と「河川や湖沼を使った水運」って、重要なんですよ。
規模は小さいですが、山梨の「甲府」も盆地ですが複数の河川が近くを通っており富士川と通って太平洋に繋がって居た事で発展したんですよ。
@@アサヤス-w8v
■お話、ありがとうございます。
※「奈良」の語源って、平らでなだらかなことから「なら(平ら)」と成って居ますので、「都」に適した広く平らな土地が有ったと言う事です。
和歌山など急峻な山地が多いし、大阪は「浪速(なみはや)」と呼ばれる程、波が早く荒い為に港には適さないので、少し川を遡上した奈良が良かったのです。
大和川は流れが緩やかで水運には適していますし、飛鳥時代の奈良は湖沼が多く存在する湿地帯(縄文時代には「古奈良湖」と言う大きな湖があり、現在の奈良県の低地はほぼその湖底)だったので、水運に適した土地でも有った様です。
★こうした"お話"は検索すれば出てまいります。
※「現在の奈良県の低地はほぼその湖底)」とありますが、それは遥かに古代(石器・縄文)の事では? 三段跳び的我が田水引は無理がある以上に異常な見識を露呈します。
大阪湾と奈良盆地の高低差(今日の)はご理解されていると思いますが、この河川の水量等の予測・計算可能な"水流力"を踏まえますと、一言で「大阪湾から川上りした」的言説はありえないと思います。
古奈良湖については承知しています。
旧石器時代〜縄文時代には海退により大きな湖が出現したようですが、時間のスパンが"無限的"と言えます。
一方、大和川にでは部分的に隆起(昭和)が起き、"亀の瀬"などは(120メートル幅で隆起高低差不明)崩落により川幅は変化していまが、これは今に始まった事とではなく過去にも生じていると捉えるのが合理的と思われます。亀の瀬に限らず大和川の流速は、大阪湾からの遡上を妨げないのでしょうか? 艪で川上りし可能か…岸からの人力・牛等での牽引があったのか?であれば牛や人夫の移動する道は確認されているのか。などです。
教養ある人が3人も集まりますと、知らず知らず現代的思考・合理的推論が妥当性を強め合意に至る事があります。
@user-wo9oy8vb2r さんには、ご返事いただいた事にお礼申し上げます。お返事は不要でございます。
ご自身以外の方には、具体的にお話されるのが宜しいのではと感じた次第です。
では。
@@chandee7939
「古奈良湖」に関しては、私のコメントで『縄文時代には』と表記しているので、『遥か古代の事では?』って、無駄なコメントですよね。
古奈良湖の話をしたのは、「大きな湖」は無くなっても飛鳥時代頃はその名残として「湿地帯が残って居た」と言う意味ですよ。
湿地帯だから各所で「水運」は使えるし、水場が有る事で元々一定数の人口が居て文化が発展し易く、且つ、森林の様に巨木を切り開かなくても広い土地を利用出来たと言う事を言って居るんですけどね。
知らず知らず現代的思考』って、それ、あなたもそうじゃ無いですか。
『牛や人夫の移動する道は確認されているのか』って、今と違って昔の河川は平地では大雨の後にクネクネと蛇行したり流路が変化するので、よっぽど整備された場所以外は、川沿いの「道」なんて出来る訳が無いでしょう。
だからこそ、河川の蛇行で出来た「扇状地」が「平地」となるのですから。
『盆地は夏暑く』と言うのも、現在の奈良盆地などの気温で考えるからでしょう。
奈良時代初頭までは極端に気温が低い「古代後期小氷期」と呼ばれる時期だったので、夏も『暑い』と言うより『暖かい』と言う感じでは無いでしょうか。
山に囲まれた盆地は守りにはいいが手狭になるから勢力拡大によって大きくなった大和王権にとっては都としての土地としては不向き。
京都は瀬戸内海と琵琶湖へのルートを確保できることなど物流の中心としていい場所です。
♀私は、中臣鎌足のときも、結婚も恋愛も子孫もいないから、私達♀天照皇大神宮天照皇大神の過去現在未来は♂男子の前世現世来世と永遠に一切関係ありません。人は、私らが、守護に男子に来てるとき、男子の世界に一切関わらないでいるから、私らは、男子を前世にも持ちません。異性交際、関係は、近年、皆殺しで、最後は終わるから、鬼などが、手を汚してまで人類を手にかけないから、何度も口で説明してわからないときは、自然が手にかけてきて、宇宙の独身を維持します。