ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
秀逸過ぎるデザインでしたね。配信、ありがとうございました。
82系はスマートだけど親しみがあって、よくできたデザインでしたね。81系はちょっとイケてないお姉さんかな?
小学生の頃、川西池田近くの踏切で夕方4時半頃だったと記憶しておりますが毎日、大阪行き上りの長編成まつかぜを見るのは楽しみでした。やはりかっこいいでした~😊
キハ82系は分割併合ができて、見た目もスマートな名車ですね。
博多発着の特別急行「まつかぜ1・4号」は、大阪~鳥取間、堂々の13両編成でした。特別急行列車として貫禄がありました。
食堂車で飲食したことのある、数少ない思い出のうちのひとつです。
まつかぜ4号には一度だけ乗ったことがあります。宝塚駅のホームは確か7両分しかなく、6両がホームから外れて停車、ドアカットもなく客扱いしていたのが驚きでした。
ヨンナナサンダイヤ改正では鳥取回転車があり、まつかぜ下りは3号上りは2号になっていた。この頃には伯備線経由の特急やくもに主役の座を譲っていた。またこのヨンナナサンダイヤ改正では播但線経由で特急はまかぜ2往復が誕生しているが、播但線にはその前から臨時特急ゆあみや、白銀といった特急があり、はまかぜもふくめて播但線内は無停車だった。はまかぜが播但線の駅にも停車するようになったのは急行但馬が廃止されたからである。ちなみにヨンナナサンダイヤ改正の頃には但馬上り2号は全車指定席だった。
本当に、山陰本線は特急銀座だったのですね。伯備線の高速化や智頭急行の開業で陰陽連絡線の利便性は向上しましたが、電化されなかった城崎温泉駅から先はだいぶ寂しくなってしまいました。
城崎(温泉)-浜坂間は絶景が続き、鳥取方面に行くには必ず通過する区間でした。智頭急行の開業は大きいですね。
浜坂、香住が寂れたのは智頭急行のせいだけではない。少子化が進んだことと、車社会が進んだことが大きい。観光客が鉄道より自動車を選んだからだ。
特急でも4時間かかる鳥取は遠いところでした
智頭急行をぶっ飛ばして行けば速いですね。
サンロクトウ改正で九州直行特急と共通運用で新製配置された特急まつかぜ。同期になる宮崎や長崎に向かう特急が電化や新幹線延伸で姿を消していく中で、くたびれが目立つもののキハ181系に完全更新されるのは博多発着便が消えてからでした。特急あさしお・はまかぜ設定時に使用された車両は日本海縦貫線電化で流れてきた個体で此方も酷使によるくたびれがあちこちに出ていました。
キハ181系は新形式ですが設計上の不具合があり、現場ではキハ82系の方が喜ばれたような話を聞きました。本来は初期故障として改善していく時期と、国鉄現場の荒廃期が重なり、不具合が取り切れなかったのでしょうか。
特急「まつかぜ1号」は昭和50年4月29日に大阪から博多迄乗車経験あり。指定券は中央線金山駅で購入。乗車券はA型硬券で「大阪市内から福岡市内ゆき、塚口、山陰、鹿本経由、発売日共5日間、3510円」となってます。一年くらいですか新大阪から出雲市まで特急「おき」号が181型特急気動車で運転されてました。翌年の新幹線岡山開業で、晴れて岡山〜出雲市間の特急「やくも」号に出世しました?あさしおは元々、金沢〜出雲市間の気動車急行で運転されてました。経由線は北陸・小浜・宮津・山陰線。後に山陰本線京都口発着の特急の愛称に転用されました。今は、やくも以外は鬼籍です。
3510円!信じられないくらい安いですね。新大阪発岡山経由のおき号は記憶にありません。山陰本線西部を走っていたのは覚えています。
まつかぜは鳥取と益田の間を走っています。機会があれば乗りたい。
まつかぜ、やくも、あさしお、当たり前の特急、今の人には分からないでしょうね!(^^)特急に乗って博多?本当に良い時代でした!!
大阪から博多までまつかぜ1号に乗りとおす!今にしてみれば、やっておけばよかったと思います。
父と一緒に城崎に泊ってまつかぜ1号の余部鉄橋通過を撮りに行ったなぁwその時のお昼に鉄橋下の食堂で食べたハンバーグ定食に入ってた調理山ウドがうまかったの覚えてる。あの大事故の時には、その食堂自体がなかった。写っていないだけでもしまだあったら場所がホントに近かったはず。城崎から余部往復は旧客普通だったなぁ^^ 時は70年代後半、もう50年近く前のお話ですよ^^
悲しい事故で命を落とされた方のご冥福をお祈りします。
高校生の時に特急まつかぜ博多から宝塚まで乗って、人生初めて食堂車も利用しました。カレーライス確か700円。ちょっと高かったなーとゆうのが当時の感想でした。
食堂車は価格が高嶺の花でしたね。カレーならいまでも700円で食べられます!
鉄じいじの鉄の思い出さん、こんにちは👋😃。お久しぶりです。僕は、1999年秋🌾🍁、新幹線🚅で、新大阪から岡山まで乗って、岡山から松江まで特急やくも号に乗って、1泊2日の松江旅行✈🚅に行った事があります。
こんにちわ!やくも号、いいですね。181系時代も、381系も、新型振り子電車もそれぞれ魅力があって、また乗りたい列車です。
初代特急やくもは新幹線連絡のために最盛期にはグリーン車を2両連結されていて基本編成は特急白鳥と共通運用だった。特急まつかぜはどちらかというと関西地区対山陰地区の列車でヨンナナサンダイヤ改正まではグリーン車が1両で米子止まりの普通車が6,6両でそれ以降はグリーン車食堂車付きの6両だった。やくもも米子で3両切り離されて浜田までは9両だった。昭和46年4月には急行おきを格上げされて特急おきが山陽本線伯備線経由の181系気動車で運行されたがヨンナナサンダイヤ改正で山陽本線区間を廃止の上で特急やくもに改称されて4往復運行され内1往復は益田発着だった。ちなみに急行おきは赤穂線経由だったが、特急おきは山陽本線経由に改められている。
新大阪から岡山経由で伯備線に入る特急「おき」は記憶に残っていません。1年くらいで岡山発「やくも」になったんですね。手元にある1969年の時刻表では、急行おき号が載っています。
ちなみに急行おきはヨンサントウダイヤ改正までは急行だいせんを名乗っていて夜行急行だいせんがおきでした。このときに山陰本線湖山駅付近で事故にあっていいます。新聞にも載っていました。
山陰出張の帰り博多発80系[まつかぜ]で帰阪した.冬季は鳥取付近で日が暮れ闇夜の中,[食堂車🍴]で無聊を慰めた.鳥取,城崎,豊岡,福知山,宝塚,大阪に停車する殿様列車でした.
せっかくの浜坂-城崎間の絶景区間も闇の中では仕方ないですね。食堂車で、(好きな方ならば)酒杯を傾け、暗い海に浮かぶ漁火に思いを馳せる。また良きかな・・・ですね。
むかし通っていた中学校手前の踏切で『まつかぜ1号』の通過待ちに会ったら、遅刻決定だった😅(中山寺駅手前の天神川トンネルちかくにある、あの学校です。)なお3号を見たら、もうすぐ給食でワクワクしていました🤤
まつかぜ1号は「恨みの長編成列車」だったのですね!部活で遅くなった夜は、まつかぜ4号に遭遇したかも。
@@tetsu-jiiji さま。まさにそれ😓
まつかぜはデビュー時から特急やったけど、あさしおは金沢と名古屋発着の大社の元の名前やし、やくもは準急時代はさんべのご先祖さんやったり、大阪ー浜田の特急やったり、、、山陰の優等列車ってだいせん、さんべ、おきとどれもこれも愛称のコンバートが激しいわな今のやくものご先祖さんがだいせんって何人知ってるんかな?だいせんーおきーやくもって3回も改名したけど何でそんな事態になったか米子局や国鉄旅客局の人に聞きたいわちなみに大阪ー浜田の時代のやくもは途中から白鳥の基本編成と共通運用やからキロ80が2両入っててちょっと格上みたいな扱いやったな
山陰線を走る列車、列車名の変化を辿ると興味深いですね。「おき」や「やくも」も波乱に満ちた経緯がありますが、いまは落ち着いています。
@@tetsu-jiiji初代だいせんがおきに改称されましたが、新幹線岡山開業の直前の中途半端な時期にキハ181を投入して特急格上げしたのは、伯備特急のテスト列車的な考えやったように思いますしなので散々トラブルがあったから運用テストもあったかも、、、ちなみに伯備線電化で余剰になったキハ181系ではまかぜ、あさしおが置き換えられたけど元祖博多まつかぜが80系で残ったのはキハ65の故障で手を焼いていた九州総局が受け入れを拒否したからだそうです
智頭急行がなかったらあさしおが残っていたのかなぁ…。
すっかりバスに取られていたかもしれません・・・
まつかぜは長距離特急あさしおは京都発の山陰特急やくもは岡山発伯備線経由オール気動車唯一のL特急はまかぜは播但線経由の山陰特急おきは小郡(現新山口)発山口線経由の山陰特急
おき(スーパーおき)はまつかぜの衣鉢を継いでいますが、2両編成で貫禄がありませんね。まだ乗車したことがありませんが、軽快に飛ばす現代の気動車特急にも乗ってみたいです。
スーパーいなばも2両編成で特急としては寂しいスーパーはくとは6両編成と現代の在来線特急として面目が立っている
秀逸過ぎるデザインでしたね。
配信、ありがとうございました。
82系はスマートだけど親しみがあって、よくできたデザインでしたね。81系はちょっとイケてないお姉さんかな?
小学生の頃、川西池田近くの踏切で夕方4時半頃だったと記憶しておりますが毎日、大阪行き上りの長編成まつかぜを見るのは楽しみでした。やはりかっこいいでした~😊
キハ82系は分割併合ができて、見た目もスマートな名車ですね。
博多発着の特別急行「まつかぜ1・4号」は、大阪~鳥取間、堂々の13両編成でした。特別急行列車として貫禄がありました。
食堂車で飲食したことのある、数少ない思い出のうちのひとつです。
まつかぜ4号には一度だけ乗ったことがあります。宝塚駅のホームは確か7両分しかなく、6両がホームから外れて停車、ドアカットもなく客扱いしていたのが驚きでした。
ヨンナナサンダイヤ改正では鳥取回転車があり、まつかぜ下りは3号上りは2号になっていた。この頃には伯備線経由の特急やくもに主役の座を譲っていた。またこのヨンナナサンダイヤ改正では播但線経由で特急はまかぜ2往復が誕生しているが、播但線にはその前から臨時特急ゆあみや、白銀といった特急があり、はまかぜもふくめて播但線内は無停車だった。はまかぜが播但線の駅にも停車するようになったのは急行但馬が廃止されたからである。ちなみにヨンナナサンダイヤ改正の頃には但馬上り2号は全車指定席だった。
本当に、山陰本線は特急銀座だったのですね。伯備線の高速化や智頭急行の開業で陰陽連絡線の利便性は向上しましたが、電化されなかった城崎温泉駅から先はだいぶ寂しくなってしまいました。
城崎(温泉)-浜坂間は絶景が続き、鳥取方面に行くには必ず通過する区間でした。智頭急行の開業は大きいですね。
浜坂、香住が寂れたのは智頭急行のせいだけではない。少子化が進んだことと、車社会が進んだことが大きい。観光客が鉄道より自動車を選んだからだ。
特急でも4時間かかる
鳥取は遠いところでした
智頭急行をぶっ飛ばして行けば速いですね。
サンロクトウ改正で九州直行特急と共通運用で新製配置された特急まつかぜ。
同期になる宮崎や長崎に向かう特急が電化や新幹線延伸で姿を消していく中で、
くたびれが目立つもののキハ181系に完全更新されるのは博多発着便が消えてからでした。
特急あさしお・はまかぜ設定時に使用された車両は日本海縦貫線電化で流れてきた個体で此方も酷使によるくたびれがあちこちに出ていました。
キハ181系は新形式ですが設計上の不具合があり、現場ではキハ82系の方が喜ばれたような話を聞きました。本来は初期故障として改善していく時期と、国鉄現場の荒廃期が重なり、不具合が取り切れなかったのでしょうか。
特急「まつかぜ1号」は昭和50年4月29日に大阪から博多迄乗車経験あり。指定券は中央線金山駅で購入。乗車券はA型硬券で「大阪市内から福岡市内ゆき、塚口、山陰、鹿本経由、発売日共5日間、3510円」となってます。
一年くらいですか新大阪から出雲市まで特急「おき」号が181型特急気動車で運転されてました。
翌年の新幹線岡山開業で、晴れて岡山〜出雲市間の特急「やくも」号に出世しました?
あさしおは元々、金沢〜出雲市間の気動車急行で運転されてました。経由線は北陸・小浜・宮津・山陰線。後に山陰本線京都口発着の特急の愛称に転用されました。
今は、やくも以外は鬼籍です。
3510円!
信じられないくらい安いですね。
新大阪発岡山経由のおき号は記憶にありません。山陰本線西部を走っていたのは覚えています。
まつかぜは鳥取と益田の間を走っています。機会があれば乗りたい。
まつかぜ、やくも、あさしお、当たり前の特急、今の人には分からないでしょうね!(^^)特急に乗って博多?本当に良い時代でした!!
大阪から博多までまつかぜ1号に乗りとおす!今にしてみれば、やっておけばよかったと思います。
父と一緒に城崎に泊ってまつかぜ1号の余部鉄橋通過を撮りに行ったなぁw
その時のお昼に鉄橋下の食堂で食べたハンバーグ定食に入ってた調理山ウドがうまかったの覚えてる。
あの大事故の時には、その食堂自体がなかった。写っていないだけでもしまだあったら場所がホントに近かったはず。
城崎から余部往復は旧客普通だったなぁ^^ 時は70年代後半、もう50年近く前のお話ですよ^^
悲しい事故で命を落とされた方のご冥福をお祈りします。
高校生の時に特急まつかぜ博多から宝塚まで乗って、人生初めて食堂車も利用しました。
カレーライス確か700円。ちょっと高かったなーとゆうのが当時の感想でした。
食堂車は価格が高嶺の花でしたね。カレーならいまでも700円で食べられます!
鉄じいじの鉄の思い出さん、こんにちは👋😃。お久しぶりです。僕は、1999年秋🌾🍁、新幹線🚅で、新大阪から岡山まで乗って、岡山から松江まで特急やくも号に乗って、1泊2日の松江旅行✈🚅に行った事があります。
こんにちわ!
やくも号、いいですね。181系時代も、381系も、新型振り子電車もそれぞれ魅力があって、また乗りたい列車です。
初代特急やくもは新幹線連絡のために最盛期にはグリーン車を2両連結されていて基本編成は特急白鳥と共通運用だった。特急まつかぜはどちらかというと関西地区対山陰地区の列車でヨンナナサンダイヤ改正まではグリーン車が1両で米子止まりの普通車が6,6両でそれ以降はグリーン車食堂車付きの6両だった。やくもも米子で3両切り離されて浜田までは9両だった。昭和46年4月には急行おきを格上げされて特急おきが山陽本線伯備線経由の181系気動車で運行されたがヨンナナサンダイヤ改正で山陽本線区間を廃止の上で特急やくもに改称されて4往復運行され内1往復は益田発着だった。ちなみに急行おきは赤穂線経由だったが、特急おきは山陽本線経由に改められている。
新大阪から岡山経由で伯備線に入る特急「おき」は記憶に残っていません。1年くらいで岡山発「やくも」になったんですね。
手元にある1969年の時刻表では、急行おき号が載っています。
ちなみに急行おきはヨンサントウダイヤ改正までは急行だいせんを名乗っていて夜行急行だいせんがおきでした。このときに山陰本線湖山駅付近で事故にあっていいます。新聞にも載っていました。
山陰出張の帰り博多発80系[まつかぜ]で帰阪した.冬季は鳥取付近で日が暮れ闇夜の中,[食堂車🍴]で無聊を慰めた.鳥取,城崎,豊岡,福知山,宝塚,大阪に停車する殿様列車でした.
せっかくの浜坂-城崎間の絶景区間も闇の中では仕方ないですね。食堂車で、(好きな方ならば)酒杯を傾け、暗い海に浮かぶ漁火に思いを馳せる。また良きかな・・・ですね。
むかし通っていた中学校手前の踏切で『まつかぜ1号』の通過待ちに会ったら、遅刻決定だった😅(中山寺駅手前の天神川トンネルちかくにある、あの学校です。)
なお3号を見たら、もうすぐ給食でワクワクしていました🤤
まつかぜ1号は「恨みの長編成列車」だったのですね!
部活で遅くなった夜は、まつかぜ4号に遭遇したかも。
@@tetsu-jiiji さま。まさにそれ😓
まつかぜはデビュー時から
特急やったけど、あさしおは金沢と名古屋発着の大社の元の名前やし、やくもは準急時代はさんべのご先祖さんやったり、大阪ー浜田の特急やったり、、、山陰の優等列車ってだいせん、さんべ、おきとどれもこれも愛称のコンバートが激しいわな
今のやくものご先祖さんが
だいせんって何人知ってるんかな?だいせんーおきーやくもって3回も改名したけど何でそんな事態になったか米子局や国鉄旅客局の人に聞きたいわ
ちなみに大阪ー浜田の時代のやくもは途中から白鳥の基本編成と共通運用やからキロ80が2両入っててちょっと格上みたいな扱いやったな
山陰線を走る列車、列車名の変化を辿ると興味深いですね。「おき」や「やくも」も波乱に満ちた経緯がありますが、いまは落ち着いています。
@@tetsu-jiiji初代だいせんがおきに改称されましたが、新幹線岡山開業の直前の中途半端な時期にキハ181を投入して特急格上げしたのは、伯備特急のテスト列車的な考えやったように思います
しなので散々トラブルがあったから運用テストもあったかも、、、ちなみに伯備線電化で余剰になったキハ181系ではまかぜ、あさしおが置き換えられたけど
元祖博多まつかぜが80系で残ったのはキハ65の故障で手を焼いていた九州総局が受け入れを拒否したからだそうです
智頭急行がなかったらあさしおが残っていたのかなぁ…。
すっかりバスに取られていたかもしれません・・・
まつかぜは長距離特急
あさしおは京都発の山陰特急
やくもは岡山発伯備線経由オール気動車唯一のL特急
はまかぜは播但線経由の山陰特急
おきは小郡(現新山口)発山口線経由の山陰特急
おき(スーパーおき)はまつかぜの衣鉢を継いでいますが、2両編成で貫禄がありませんね。まだ乗車したことがありませんが、軽快に飛ばす現代の気動車特急にも乗ってみたいです。
スーパーいなばも2両編成で特急としては寂しい
スーパーはくとは6両編成と現代の在来線特急として面目が立っている