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先生、浜崎さん、歴史に疎い私にとっては、毎回わかり易い解説で、大河を何倍も楽しみながら見ています。神奈川県に住んでいますが、2月に浜松城に行きましたし、5/5の武者行列に当選したので、殿に会いに行きます。三方ヶ原の戦いも、先生の解説を参考に見させて頂きます。いつも、お二人の掛け合いもと言ったら失礼なのですが、楽しみに拝見しています。これからも頑張って下さいね😊
三方ヶ原の戦いについては、多くの情報が ありますが 厳寒の時期に 信玄は4ケ月も戦っていた事。家康側も後詰めを計画した、素晴らしい臣下武将もいて、信玄に圧力をかけ、浜松城を守った事。など 新鮮な情報有難うございました。これからも、今までの未公開情報が発見出来たら、分かり易い解説を期待してます。
江戸幕府、征夷大将軍になった時点で遠い昔に亡くなっていった家臣のことを思い出したに違いない、と信じたいですね。運と家臣など仲間に恵まれた徳川が天下をとったことが必然、と我々に思わせるお二人の解説がとっても勉強になります。
素晴らしい歴史解説に吊り込まれて、最近見なくなっていた家康の大河を見るようになりました。お二方がこれ以上ない魅力的な方々で、学者ぶらず非常に謙虚にお話しになる方、とそれを知的にフォローされる女性の魅力。大河を観る以上の人間的魅力を感じます。
家康はラッキー。めちゃくちゃ良い家臣に恵まれた時点で凄くラッキーじゃないですか!
浜松住まいで、新城市にもよく行っているのですが、三方ヶ原の戦い、犀ヶ崖の夜襲の後、刑部城→野田城の行軍が2ヶ月もかかったのは不思議ですね。そこまでかかる距離じゃない。
いやー、言い方が悪いかもしれませんが非常に面白いですね、家康氏が何とすごい強運の持ち主でしたのでしようか、又本当にすごい家来を持って幸せな御仁です。
信玄の死はまさに「運を味方につけた」のですが、運を味方につける為には日頃の備えを努力し(守りを強化し、配下の臣を鍛えて適材を配置する 一言坂や二股城の戦い)チャレンジ精神を持ち(三方ヶ原へ撃って出る)チャンスを逃さず(犀が崖の夜襲にて一死を報いる)時を稼いだことが、信玄の死を招いたのではないでしょうか。先生の解説を伺い、家康が天下人となる為の「運を味方(三方)につけた戦いの様な気がしてきました。
いつもありがとうございます。今回も面白かったです!三方ヶ原の戦いでは家康が意地を見せた・・・の説に何故負け戦を?と正直思ってましたが、家康が三河を良くまとめて裏切りもなく武田にとって決定的な優位性もてなかったのがよく分かりました。当時の食料などは現地調達でしょうから、こちらも武田軍は上手くいってなかったのでしょうか。時期と地図は分かりやすく面白いですこれからも宜しくお願いします
ら
浜松城は海運で直接補給できるので武田の軍勢で落とすのは無理。信長の言うとおり城からでなければ武田軍は補給不足になっていずれ甲州に帰る。武田と野戦をやるのは得策ではないが、家康はガマンできなかった。しかし、それが家康のいいところでもある。負けたとしても周辺武将の信頼を勝ち取ったと思う。
夏目、本多、鳥居…つくづく家康は優秀で義に厚い家臣に恵まれてますね。姉川の合戦でも外交官石川数正が皆を救いました。酒井忠次も家康を一喝していました。家康は本当は浅井長政につきたかったんでしょうね。三方原の戦いも楽しみです‼︎
いつも楽しい歴史解説をありがとうございます。先日、しかみ像を見たくて名古屋にある徳川美術館に行って参りました。しかしながら、お土産グッズはあるのですが展示はされていなくてガッカリしました。聞くところによると、ここ数年展示されていないとのことで、私と同じ思いをされた方も多いようです。理由はわかりませんが調べてみると、先生が解説された『昭和10年(1936)、徳川黎明会発足の展覧会で展示「従来門外不出とされていた家康公が三方原で戦死を免れた難苦の状を狩野探色が画いたもの」と尾張德川氏が説明』に起因しているようです。先生が最後におっしゃった「三方ヶ原戦役の時を描いたものではない」という確証も得られない「三方ヶ原戦役画像」で良いのではないか・・・・描かれてる家康は家康であり、ロマン漂うしかみ像の展示を是非とも願うものです。
大変興味深い御説明ありがとうございます。浜松出身で今は横浜在住ですが、三方ヶ原の戦いは子供の頃から学校や親から教えて貰っていて縁深いです。しかしここまで詳しい情報は初めてですので大変参考になりました❗️
家康公は還付無き程にうちら割れましたが信玄公が病没、甲斐に撤退。武田は戦に勝ち徳川は勝負に勝った。やはり戦は家中含め生き抜いた者が勝になるんですよね。
そして布橋という布の端を、犀川崖の上を走り即死
先生 浜崎さん こんにちは👋😃いつも楽しく拝見させていただいています❗韓国から*^^
信玄のファンだが、こうやって見てみると兵のほとんどが農民のためこの寒い時期を選んでの出陣となったのであろう。それが信玄の病を悪化させ非運な結果だと思う。僕のイメージする家康は先生が仰るとおり津川雅彦さんが適任だと思う。特に大河ドラマ「葵徳川三代」の津川雅彦さん演じる家康はあのままなんじゃないかなと感じた。
今回 とても面白かったです💕歴史詳しく無い私ですが毎回分かりやすくて歴史に興味が湧いています(*^^*)ありがとうございます🙇♀️
武田は冬でないと甲斐を出られないから、本当はもっと地盤を固めてからでないと上洛は無謀だったんですよね。
三方ヶ原の戦いも決戦するか悩んで日暮れ前に開戦した事実を含め、信玄が慎重に事を進めすぎたきらいが垣間見えますね。
本日、NHKの「歴史探偵」で、信玄が戦国最強になった理由を解き明かしてましたね。今のアメリカ軍の強さの秘密である軍事理論「ミッション・コマンド」を戦国時代に確立していたとか。信玄、凄すぎます!
温暖な三河と言えども厳冬期。抜かる信玄公の落とす運。
武田軍が浜松城を攻めれなかったのは、信玄公の体調が悪くなり、それどころではなかったのでは?
秋葉街道を南下して来たとばっかり思ってた。お話では身延から廻って来たそうですが、これで決まりでしょうか?
最初の浜松城攻めが失敗してるので武田にしたら家康を城に縛り付けて置けば、それで成功ですからね。ところがわざわざ出てきちゃったw時間をかけ過ぎれば、尾張から援軍が間に合うかも知れないし、城攻めするよりさっさと港を抑えるのは必須ですね。厳冬期の行軍だった訳か。信玄のシボウも色々説ありますが。結局野田城まで4ヶ月かかってますしね、結果的に行軍遅延に成功って感じかな。
面白かったです。今夜も楽しみです。家康の三方ヶ原の絵については私はどこかであまりの恐ろしさに大を粗相してしまい、この無様な姿を戒めの為肝に銘ずるため描かせた、と聞いたことがありました。もっともらしいウソでしたねw信玄の死因は結核、ガンと並び日本住血吸虫に侵されたという説もあるんですね。山梨県特有の地方病ですかね。あとは茨城県などでも見られたとか。近年、、、平成に入ってやっと撲滅されたと聞いていますが信玄がそれに侵されていたとは何とも不運。もちろん当時は死因が不明だったんでしょうね。ナントカ巻貝が寄生して引き起こすやつですね。怖い病状です。水が汚染されるそうですね。youtube内で動画を見て知りました。
浜松市民です。犀ヶ崖は浜松城の北側の堀と考えて居ます。浜松市西島って、今の西島だとすれば浜松城からはすごく離れていて後詰めとして機能するんでしょうか?ちょっと遠過ぎる気がしてなりません。
明治時代の陸軍が作った布陣図は信用に値しますか?桶狭間の戦いにしても、関ヶ原の戦いにしても最近は従来の布陣や攻撃は間違いだったとされつつありますよね?
この敗戦は家康自身痛恨の戦だったけど教訓も与えた感じがする。解説を見るとかなり奮戦したんですね家康。信玄も徹底的にやれなかった訳がわかりました。むしろ奮戦した家康側が人材を多数亡くした方が痛手だったでしょうね。
なぜ武田軍は秋から冬にかけて進軍しなければいけなかったのか、という疑問に答えないといけないと思います。たまたまこの時期だったのか、この時期しか進軍できなかったのか。答えは後者です。武田軍に限らず信長軍以外は兵農分離できておらず、田植えや収穫の時期は戦争などできなかったという事実は重いと思います。 3
4/23放送の姉川戦で忠勝の武功が演出されなかったのが腑に落ちなかったのですが、伏線としてあえて描かなかったのかも。以前から間者を送っているにも関わらず忠次忠勝康政トリオ含め徳川家臣団の戦術器量に関して信玄は不勉強過ぎた。これが仇になって足止めを食らい命を落としていったと認識しています。
津川さん 今頃(ひっくり返ってン だろうなぁあっちで……
しかみ像は、とても31歳の家康には見えないと思っていました。
媒(なかだち)は、確かに媒介や仲介の意味もありますね。謀る(はかる)と似てますが、女偏が興味深いです。深い意味は・・、無いです。
浜松城が攻められなかったのは信玄の寿命と言うよりは時間が足りなかったのではと思います。それまでは得意の凋落などであっさり遠江を落としてきたものの本領浜松ではそうは行きません。浜松城で籠城戦に持ち込まれると年わ越えその後三河、尾張を攻めるには春を過ぎ大切な田植えを迎えられません。上洛仕切る前に浅井、朝倉連合軍で尾張決戦に持ち込むのもどの所領も春を越えてしまいます。なのでいつでも落とせるよの強烈な脅しだけで西に進軍したのは必然なのかなと思います。尚信玄の死は私は脳血管系の急性症状だったと思います。胃がんの末期症状になると急激に痩せたり、全く食べ物が入らず、何ヶ月にも及ぶ進軍は不可能だろうし、とても当時の器具で寒さは耐えられないと思います。あえて出て行くはずはなく後継者に念密に委譲して本人は甲斐に残らざるを得ません。なので冬によくありがちな脳血管障害だと考えるのが妥当だと思います。
一言坂 、二俣城 、三方ケ原、 1 、2 、3、何かある!?
箱書きにある長篠戦役に対して三方ケ原戦役でも良しとするのはやはり忖度?歴史学って時の価値観、利害関係者等によって影響を受けてしまうものなんですよね。
脱糞は 創作ですか?
しかみ像は、三方ヶ原のすぐ後では、次に向けての準備中だから、絵を描かせるのは無理。思惟像とも違うと思う。表情がおかし過ぎる。
あの絵の背景は嘘だったのか⁉️😂逃げ帰った後、ク◯漏らしてたというのも嘘なのか?😳笑
家康はう○こ漏らしながら逃げて、学びましたね。
でもね三方原の戦いは完璧な負け。歴史解説なのだから、さいが崖で一矢報いたとかはどうでも良いのでは?負けなんで運が良かっただけですよ。
先生、浜崎さん、歴史に疎い私にとっては、毎回わかり易い解説で、大河を何倍も楽しみながら見ています。神奈川県に住んでいますが、2月に浜松城に行きましたし、5/5の武者行列に当選したので、殿に会いに行きます。
三方ヶ原の戦いも、先生の解説を参考に見させて頂きます。
いつも、お二人の掛け合いも
と言ったら失礼なのですが、楽しみに拝見しています。これからも頑張って下さいね😊
三方ヶ原の戦いについては、多くの情報が ありますが 厳寒の時期に 信玄は4ケ月も戦っていた事。家康側も後詰めを計画した、素晴らしい臣下武将もいて、信玄に圧力をかけ、浜松城を守った事。など 新鮮な情報有難うございました。これからも、今までの未公開情報が発見出来たら、分かり易い解説を期待してます。
江戸幕府、征夷大将軍になった時点で遠い昔に亡くなっていった家臣のことを思い出したに違いない、と信じたいですね。運と家臣など仲間に恵まれた徳川が天下をとったことが必然、と我々に思わせるお二人の解説がとっても勉強になります。
素晴らしい歴史解説に吊り込まれて、最近見なくなっていた家康の大河を見るようになりました。お二方がこれ以上ない魅力的な方々で、学者ぶらず非常に謙虚にお話しになる方、とそれを知的にフォローされる女性の魅力。大河を観る以上の人間的魅力を感じます。
家康はラッキー。
めちゃくちゃ良い家臣に恵まれた時点で凄くラッキーじゃないですか!
浜松住まいで、新城市にもよく行っているのですが、三方ヶ原の戦い、犀ヶ崖の夜襲の後、刑部城→野田城の行軍が2ヶ月もかかったのは不思議ですね。そこまでかかる距離じゃない。
いやー、言い方が悪いかもしれませんが非常に面白いですね、家康氏が何とすごい強運の持ち主でしたのでしようか、又本当にすごい家来を持って幸せな御仁です。
信玄の死はまさに「運を味方につけた」のですが、運を味方につける為には日頃の備えを努力し(守りを強化し、配下の臣を鍛えて適材を配置する 一言坂や二股城の戦い)チャレンジ精神を持ち(三方ヶ原へ撃って出る)チャンスを逃さず(犀が崖の夜襲にて一死を報いる)時を稼いだことが、信玄の死を招いたのではないでしょうか。先生の解説を伺い、家康が天下人となる為の「運を味方(三方)につけた戦いの様な気がしてきました。
いつもありがとうございます。今回も面白かったです!
三方ヶ原の戦いでは家康が意地を見せた・・・の説に何故負け戦を?と正直思ってましたが、家康が三河を良くまとめて裏切りもなく武田にとって決定的な優位性もてなかったのがよく分かりました。当時の食料などは現地調達でしょうから、こちらも武田軍は上手くいってなかったのでしょうか。
時期と地図は分かりやすく面白いです
これからも宜しくお願いします
ら
浜松城は海運で直接補給できるので武田の軍勢で落とすのは無理。
信長の言うとおり城からでなければ武田軍は補給不足になっていずれ甲州に帰る。
武田と野戦をやるのは得策ではないが、家康はガマンできなかった。
しかし、それが家康のいいところでもある。負けたとしても周辺武将の信頼を勝ち取ったと思う。
夏目、本多、鳥居…つくづく家康は優秀で義に厚い家臣に恵まれてますね。姉川の合戦でも外交官石川数正が皆を救いました。酒井忠次も家康を一喝していました。
家康は本当は浅井長政につきたかったんでしょうね。
三方原の戦いも楽しみです‼︎
いつも楽しい歴史解説をありがとうございます。
先日、しかみ像を見たくて名古屋にある徳川美術館に行って参りました。しかしながら、お土産グッズはあるのですが展示はされていなくてガッカリしました。聞くところによると、ここ数年展示されていないとのことで、私と同じ思いをされた方も多いようです。理由はわかりませんが調べてみると、先生が解説された
『昭和10年(1936)、徳川黎明会発足の展覧会で展示「従来門外不出とされていた家康公が三方原で戦死を免れ
た難苦の状を狩野探色が画いたもの」と尾張德川氏が説明』に起因しているようです。
先生が最後におっしゃった「三方ヶ原戦役の時を描いたものではない」
という確証も得られない
「三方ヶ原戦役画像」
で良いのではないか・・・・
描かれてる家康は家康であり、ロマン漂うしかみ像の展示を是非とも願うものです。
大変興味深い御説明ありがとうございます。浜松出身で今は横浜在住ですが、三方ヶ原の戦いは子供の頃から学校や親から教えて貰っていて縁深いです。しかしここまで詳しい情報は初めてですので大変参考になりました❗️
家康公は還付無き程にうちら割れましたが信玄公が病没、甲斐に撤退。
武田は戦に勝ち徳川は勝負に勝った。
やはり戦は家中含め生き抜いた者が勝になるんですよね。
そして布橋という布の端を、犀川崖の上を走り即死
先生 浜崎さん こんにちは👋😃いつも楽しく拝見させていただいています❗韓国から*^^
信玄のファンだが、こうやって見てみると兵のほとんどが農民のためこの寒い時期を選んでの出陣となったのであろう。
それが信玄の病を悪化させ非運な結果だと思う。
僕のイメージする家康は先生が仰るとおり津川雅彦さんが適任だと思う。
特に大河ドラマ「葵徳川三代」の津川雅彦さん演じる家康はあのままなんじゃないかなと感じた。
今回 とても面白かったです💕歴史詳しく無い私ですが毎回分かりやすくて歴史に興味が湧いています(*^^*)
ありがとうございます🙇♀️
武田は冬でないと甲斐を出られないから、本当はもっと地盤を固めてからでないと上洛は無謀だったんですよね。
三方ヶ原の戦いも決戦するか悩んで日暮れ前に開戦した事実を含め、信玄が慎重に事を進めすぎたきらいが垣間見えますね。
本日、NHKの「歴史探偵」で、信玄が戦国最強になった理由を解き明かしてましたね。今のアメリカ軍の強さの秘密である軍事理論「ミッション・コマンド」を戦国時代に確立していたとか。信玄、凄すぎます!
温暖な三河と言えども厳冬期。
抜かる信玄公の落とす運。
武田軍が浜松城を攻めれなかったのは、信玄公の体調が悪くなり、それどころではなかったのでは?
秋葉街道を南下して来たとばっかり思ってた。お話では身延から廻って来たそうですが、これで決まりでしょうか?
最初の浜松城攻めが失敗してるので武田にしたら家康を城に縛り付けて置けば、それで成功ですからね。ところがわざわざ出てきちゃったw
時間をかけ過ぎれば、尾張から援軍が間に合うかも知れないし、城攻めするよりさっさと港を抑えるのは必須ですね。
厳冬期の行軍だった訳か。信玄のシボウも色々説ありますが。結局野田城まで4ヶ月かかってますしね、結果的に行軍遅延に成功って感じかな。
面白かったです。
今夜も楽しみです。
家康の三方ヶ原の絵については私はどこかで
あまりの恐ろしさに大を粗相してしまい、
この無様な姿を戒めの為肝に銘ずるため描かせた、
と聞いたことがありました。もっともらしいウソでしたねw
信玄の死因は結核、ガンと並び
日本住血吸虫に侵されたという説もあるんですね。山梨県特有の地方病ですかね。
あとは茨城県などでも見られたとか。
近年、、、平成に入ってやっと撲滅されたと聞いていますが
信玄がそれに侵されていたとは何とも不運。
もちろん当時は死因が不明だったんでしょうね。
ナントカ巻貝が寄生して引き起こすやつですね。怖い病状です。
水が汚染されるそうですね。youtube内で動画を見て知りました。
浜松市民です。
犀ヶ崖は浜松城の北側の堀と考えて居ます。
浜松市西島って、今の西島だとすれば浜松城からはすごく離れていて
後詰めとして機能するんでしょうか?
ちょっと遠過ぎる気がしてなりません。
明治時代の陸軍が作った布陣図は信用に値しますか?
桶狭間の戦いにしても、関ヶ原の戦いにしても
最近は従来の布陣や攻撃は間違いだったとされつつありますよね?
この敗戦は家康自身痛恨の戦だったけど教訓も与えた感じがする。
解説を見るとかなり奮戦したんですね家康。信玄も徹底的に
やれなかった訳がわかりました。むしろ奮戦した家康側が人材を
多数亡くした方が痛手だったでしょうね。
なぜ武田軍は秋から冬にかけて進軍しなければいけなかったのか、という疑問に答えないといけないと思います。たまたまこの時期だったのか、この時期しか進軍できなかったのか。答えは後者です。武田軍に限らず信長軍以外は兵農分離できておらず、田植えや収穫の時期は戦争などできなかったという事実は重いと思います。 3
4/23放送の姉川戦で忠勝の武功が演出されなかったのが腑に落ちなかったのですが、伏線としてあえて描かなかったのかも。以前から間者を送っているにも関わらず忠次忠勝康政トリオ含め徳川家臣団の戦術器量に関して信玄は不勉強過ぎた。これが仇になって足止めを食らい命を落としていったと認識しています。
津川さん 今頃
(ひっくり返ってン だろうなぁ
あっちで……
しかみ像は、とても31歳の家康には見えないと思っていました。
媒(なかだち)は、確かに媒介や仲介の意味もありますね。謀る(はかる)と似てますが、女偏が興味深いです。深い意味は・・、無いです。
浜松城が攻められなかったのは信玄の寿命と言うよりは時間が足りなかったのではと思います。それまでは得意の凋落などであっさり遠江を落としてきたものの本領浜松ではそうは行きません。浜松城で籠城戦に持ち込まれると年わ越えその後三河、尾張を攻めるには春を過ぎ大切な田植えを迎えられません。
上洛仕切る前に浅井、朝倉連合軍で尾張決戦に持ち込むのもどの所領も春を越えてしまいます。なのでいつでも落とせるよの強烈な脅しだけで西に進軍したのは必然なのかなと思います。尚信玄の死は私は脳血管系の急性症状だったと思います。胃がんの末期症状になると急激に痩せたり、全く食べ物が入らず、何ヶ月にも及ぶ進軍は不可能だろうし、とても当時の器具で寒さは耐えられないと思います。あえて出て行くはずはなく後継者に念密に委譲して本人は甲斐に残らざるを得ません。なので冬によくありがちな脳血管障害だと考えるのが妥当だと思います。
一言坂 、二俣城 、三方ケ原、 1 、2 、3、何かある!?
箱書きにある長篠戦役に対して三方ケ原戦役でも良しとするのはやはり忖度?歴史学って時の価値観、利害関係者等によって影響を受けてしまうものなんですよね。
脱糞は 創作ですか?
しかみ像は、三方ヶ原のすぐ後では、次に向けての準備中だから、絵を描かせるのは無理。思惟像とも違うと思う。表情がおかし過ぎる。
あの絵の背景は嘘だったのか⁉️😂逃げ帰った後、ク◯漏らしてたというのも嘘なのか?😳笑
家康はう○こ漏らしながら逃げて、学びましたね。
でもね三方原の戦いは完璧な負け。歴史解説なのだから、さいが崖で一矢報いたとかはどうでも良いのでは?負けなんで運が良かっただけですよ。