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三河武士のファンです。これからも視聴を続けたいと思いますので地元民も楽しめるような情報をこれからもよろしくお願いたします。
ありがとうございます。地元ならではの史料なども紹介できたらと思います。よろしくお願いします。
市橋先生のおかげで大河ドラマと日本史が好きになりました。私もまだまだ勉強中ですが先生のTH-cam楽しみにしてます。これからもよろしくお願いします
志村けんさんの先祖らしいですね、山県昌景の首を敵にわたらないように持って言った武将。凄いですね😲
先生の番組は資料元を解読しながら絵画や図面を用いて丹念に解説していただき、アシスタントの方との絶妙なやり取りと相まって実に中身の濃い30分です。ドラマの解説のみ に飽きたらない視聴者にとっては、 とても満足の行く番組です。
ありがとうございます。至らぬことも多いのですが、これからも良い番組にしていきたいと思っています。応援よろしくお願いします。
市橋先生、浜崎さんいつもわかりやすい解説ありがとうございます。こちらの動画のおかげで、うっかり大河を見逃すことがなくなりました。いつもいいタイミングでアップしていただきスタッフの皆様ありがとうございます。😃👍
ドラマの筋書き通りには行きませんが、歴史的な史料も加え、できるだけ丁寧にお話をさせていただきたいと思っています。これからもよろしくお願いします。
武田軍はさすがに3千の鉄砲ではかないませんね。本日の大河の山縣昌景は見事な描き方でした。見応えがあって面白かったです。いつも丁寧に解説してくださりありがとうございます。
凄まじい最期の描き方でしたね。屏風絵でも落馬した際の首のない絵が描かれます。そして家臣がその首を持ち帰る場面まで描かれています。一度ご覧になってください。
動画の長さ、30分前後で非常に見やすい長さだと思います。話が次回に続くことで、次回のアップも楽しみに待つことができますし。大河のオープニングで資料提供の欄に市橋先生のお名前が出てくると、このチャンネルのファンとしては嬉しく心躍ります^ ^ドラマでは大久保忠世の活躍も見たかったですが、なかなか全てを描ききれないのも大河ドラマ、、、仕方ないですね。ドラマの裏に隠された史実エピソードや資料を、こちらのチャンネルではご紹介いただけるので、また次回も楽しみにしております。
そうなんです。大久保の働きは屏風画の中央に描かれます。鉄砲だけの威力では、あの武田軍を打ち破ることはできなかったと思うのですが。これからもよろしくお願いします。
私は豊橋で手筒花火をやっているものです。吉田神社で何故今川義元が手筒花火を作らせたか、ズット疑問でした。今日初めて知りました。三河で硝石が採れたと言うことをありがとうございました。
当時は全国の中でも三河くらいしか硝石の生産がなかったようです。あとはポルトガルからの黒色火薬の買い入れ頼み。信長が買い占めを行ったんでしょうね。
毎度興味深いです 駿河台の地名の由来、初めて知りました 大久保の祖先が新田義貞と関わりあったのも初耳です 次回も楽しみです
今回もお疲れ様です。有難うございます。鉄砲の三段撃ちは馬防柵三段構えの間違い。鉄砲の数は後に秀吉が証したように一千挺足らず。実際は無敵・武田騎馬隊が馬防柵めがけて突進するような草原などなく、川を挟んだ狭い場所だから馬防柵から鉄砲隊の袋のネズミになったんですよね。鉄砲の連射であっという間に勝敗が決まるような劇画モドキの戦なんかではなく、実際には両軍は8時間も戦闘をしています。半日の天下分け目の関ヶ原が6時間ぐらいと言われていますから、敵の半分に満たない軍勢で武田軍はよく戦いましたね。鉄砲隊も敵よりも劣るのに。次回も楽しみです。
そうですね。一時期は小瀬甫庵が「信長紀」にずいぶん盛って「三千挺」などと記したと考えられてきましたが、最近はその反証も出されているようです。研究の成果を待ちたいと思いますが。僕は個人的には、鉄砲の数というよりも、現場で見つかっている鉄砲玉の数が異様に少ないという点に関心を持っています。さらに、武田も鉄砲を有していたようですが、黒色火薬の不足という点も指摘されています。奥が深いですね。
初めてコメントさせて頂きます。いつも楽しく拝見させて頂いております。私も徳川贔屓の者です。我が先祖は徳川家に仕えた高遠内藤家の家臣でございました。内藤家と言えば現存する新宿御苑は内藤家の下屋敷跡でございました。たまたまご縁があり新宿の太宗寺が運営する墓廟に出資する事が出来ました。丁度その頃市橋先生のTH-camを見付けて以後楽しく拝見しております。コロナの前に高遠には行って来ましたので、今度は主君のルーツを探るべく岡崎に行ってみたいと思っております。以後お見知りおき下さいましたら幸いでございます。
そうですか。内藤一族は徳川の創業期から欠かせない側近衆でした。むろんそれよりも以前から松平宗家に仕えていましたが。また是非岡崎にお越しください。内藤一族のご子孫の方も幸田町に住んでおられます。
漢なら引けぬ時がある🔥を好演されて感動しました🔥
勝頼の怒りは、自負心を傷つけられた長篠の寝返りにあったのでしょうね。引けぬ時になってしまったんですね。
天下のご意見番、大久保彦左衛門のルーツが解って嬉しかったです。先生!駿河台と言えば予備校ではなく、なんと言っても明治大学ですよ‼️
本当ですね。大変失礼しました。駿河台、現代でも文教地区であることが興味深いです。
面白いです。ありがとうございました。
こちらこそありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
徳川家康公のことが昔から大好きなので、徳川贔屓のまま続けてもらえれば幸いです。
僕自身も大ファンなのですが、贔屓の引き倒しにならぬよう、フラットに歴史的な事実を見てみたいと心がけています。これからもよろしくお願いします。
とても勉強に、なります。松潤ファンなので。
松潤て口がヒン曲がってるけどいーの?ワイが松潤なら金あるし整形するね
これからも悩む家康を演じてほしいですね。いい役者さんです。
馬場信春、信房、無双👍鬼美濃不死身
友里ちゃん、白いノ-スリ-ブのお洋服似合ってて素敵ですよ(*'▽')
今日の合戦は、残酷で悲しかったです。武勇を誇る武田の名将が次々と鉄砲で殺される、まさに「なぶり殺し」ですね。犠牲になった方々の御霊にご冥福をお祈り致します。
史料には勇猛な武田の将士たちを「練雲雀のごとく」と記されています。鉄砲を集団で使用する恐ろしさがよく表されています。
勝頼公は騎馬隊優位が無い時点で兵力差が勝敗を決する事を理解出来ていない筈は無く負けを覚悟して挑んだと思います。誤算は重鎮含む多大な損害。戦の変化を見余ったのでは無いでしょうか。
同感です。勝頼の鉄砲に対する認識が少しだけ甘かったのかもしれませんが、黒色火薬の不足にも原因があったようです。信長は黒色火薬を大量に仕入れていましたから、その差が出たのかもしれませんね。
地元の新田義貞氏の首塚が岡崎にありますが、義貞の弟の脇屋義助の墓は愛媛県今治市にありますね。ウチの先祖は新田一門の新田岩松家京兆家一門になります。
そうなんですね。また細かいお話などお聞かせください。
@@市橋章男 ちなみに、新田義貞氏が鎌倉幕府を倒幕で挙兵をした時に親戚の先祖は清和源氏の流れで、愛媛県今治市から群馬県まで挙兵に駆け付けたと石碑に書いてあります。苗字は窪田家と久保田家ですが。
先生のお話、大好きです!なのに、先生からお聞きした史実と今日はかなり違いました。。元々、酒井忠次が言い出した夜襲、信長はその成功を絶賛して、陣羽織をあげたんですよね?今日のドラマ、全く違って描かれてて、信長、可哀想でした(信長びいきでーす)
信長が悪しき野心家過ぎですよね。秀吉はもっとひどいけど(笑)。史料に遺されている部分はずいぶん省かれてしまいました。僕も残念です。
設楽ヶ原の少し引いた所に戦没者を埋葬し供養した塚があります信玄塚で毎年火踊り?名前は定かではないけどいまだに供養されてますね🎉
駿台予備校と大久保の関わりは目から鱗
ほかにも旗本衆がいたようですが、彦左衛門はとくに有名でしたからね。
大久保一党、長福寺に触れて頂きありがとうございます。出来れば、久世家にも触れて頂けばありがたかったです。次回以降の第二次高天神の戦、大須賀康高与力、横須賀衆の久世広宣の働きに触れて頂ければ幸いです。
そうですね。大久保家の墓塔に交じって久世家の墓もあります。また機会がありましたら是非。
心よりお待ち申し上げております。
硝石は糞尿から作ることが出来ます。
上州の黒備え小幡勢も多くの損害を出したと、地元の書籍で読んだことがあります。
小幡勢の本貫地の甘楽に行ってきました。展示してあった具足は朱具足でしたが、黒備えだったんですね!
鉄砲は、1人で作ると1丁完成させるのに、半年近くかかったと岩村で説明されましたが、設楽で使われた鉄砲の数を考えると鉄砲製作や玉、火薬の製造にどのくらいの専門集団がいたのだろうか?この時期に、大量生産の技術が確立したのでしょうか?
この時期はまだポルトガルからの買い付けに頼っていたのだと思います。特に硝石を主原料とする黒色火薬は、日本ではほとんど生産されていませんでしたから、信長がほとんど買い占めをしていたのでしょう。その差が出たのかもしれませんね。
武田の暗号が解読できず次の攻勢場所がわからなかったが長篠城の水が不足しているという情報に反応したため、徳川織田は待ち伏せに成功した。
初めて聞くお話です。また詳しく教えてください。ありがとうございました。
いつも楽しく拝見しています。ひとつお尋ねしたいのですが、市橋先生は「家人」を「けにん」ではなく、「かじん」と読んでいらっしゃいます。当時は「かじん」と言っていたのでしょうか? ご教示いただければ、幸甚に存じます。
撤退したら国衆達の離反が加速するだけ、かと言って決戦しても数が違いすぎる。 勝頼は最初から詰んでいたように見えます。やはり生まれた地の差なんでしょうね。
難しい判断だったと思いますが、実は鳶の巣山を占拠されて、下を通る別所街道が通れなくなったとも考えられています。山路を大軍で通ることは難しかったんでしょうね。
この後、信康、築山殿事件へと発展する重要ポイントとなりますね…戦国の世は不憫です。
そうなんです。次回はそんなところに触れていきます。よろしくお願いします。
鉄砲もさることながら単純に数が倍以上だったことが一番の勝因疲れた武田方が撤退に入った後一斉に襲い掛かって決着実際馬場、真田、内藤らは馬防柵より遠い所で討ち死に12000の主力兵力で1万の戦死はあり得ない「甲斐衆千余討ち死に」という当時の記録が正しいだろう
屏風絵の見方=絵解きは、本当に参考になります。討ち死にした山縣政景の首を家臣が切って持ち去るのは残酷ではありますが、主人の遺体が乱取りや夜盗によって身ぐるみはがされ褌まで持ちされて晒されるのは忍びない、そう考えると大谷刑部の家臣湯浅五助と同様に主人思いの行為ですね。また、大久保氏がもとは新田義貞勢だったのは初めて知りました。家康の関東入府によって井伊、本多、榊原よって現在の群馬県の主要な市の基礎が築かれて、しかも大久保氏は群馬県太田市を拠点にした新田氏と縁があるとは。三河人が現在の群馬の基礎を築いたと言っても過言ではないと思います。そう考えると三河武士と上州(群馬)は深い縁がありますね。ちなみに群馬在住の兄によれば、大河「真田丸」の時は群馬県沼田市だけ盛り上がり、高崎、館林は全く無反応だったとか。
ありがとうございます。仰る通りですね。僕も何度か太田市、足利市、舘林市など訪れました。歴史的なつながりを感じています。
館林は北条方の影響が強い高崎は知らん上杉方の影響かも知らんけど
この戦い、毎度思うが、やられるのが分かり切っているのに、何で武田軍は鉄砲隊が待ち受けている馬房柵にわざわざ突っ込んで行ったのか。誰か教えてよ
負けるにきまってるのに日本がアメリカと戦争したみたいなもんでぼんやりとしたなんとかなるだろう精神とかよくわからんプライドとかしょうもない理由で大敗北ってあるんやと思います尾張の弱兵なんぞ数が多かろうが武田の敵ではないわ!って感じかと日本が「西洋人は軟弱で忍耐が足りないから日本が勝つ」と言ってたみたいなもんで
市橋さんが体を動かす度に「ギューッ、ギューッ」と音がするので耳障りです。厚みのある革張りの椅子でしょうか?ファブリック張りの椅子に替えてみては如何でしょうか?
すみません。落ち着きがないんでしょうね、きっと(笑)。これから気をつけますね。
うちの苗字は1338年、宇都宮泰藤から新田義貞の首塚を上和田の霞目犬頭神社に作った功労から与えられたそうです。と岡崎の郷土資料に書いてありました。
勝頼・・・信玄の遺言を無視して死を隠す事もできずまさに驕る平家は久しからずだな馬場や山県は本当悔しかっただろうな信玄ならあんな戦い方はしない
「戦は勝ってからせよ」という信玄の言葉がありましたね。歯がゆかったんでしょうか。
何か勝頼は、諏訪と母の敵討ち?武田を弱体化させている感もアリですよ。本人はイケイケドンドンでわかってないでしょうが。「ざまあみろ信玄め」心の奥底では案外かも。その証拠に家来が多く死んでもそんなに悲しんでいないような。内心、新編成ができるとほくそ笑む~どうでしょうか?あと江戸時代は鉄砲を禁止した~何でもないようで英断でしたな。今のアメリカを見ればわかります。戦国時代では殺戮の限りをするための道具だったのに、それが江戸で花火になったとは。徳川の知恵は偉大ですよ。これで特選欲しいですね!
尾張の人は、岡崎にはあまり興味を持たないがドラマは面白い、
このおばさんねえちゃん 愛嬌が凄く在っていいね。 オレ だぁ~い好き!
勝頼の独断 重臣の進言無視 玉の肥やし
偉大な信玄と比較されることが一番嫌だったのでは、と思います。「信玄公ならば…」と言ったとたんに、不機嫌になったんでは。
私は勝頼の独断とは思えないですね。当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと、豪族達の連合体という政治体制の武田家では全く違いますから。最近では山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達が決戦を積極的に主張したという話もあり、私はそれを否定はできないと思っています。この時の勝頼の出陣の目的は大岡弥四郎の内通を利用した岡崎城乗っ取りだった。 しかし大岡の謀反が家康に露見して頓挫。 ならば三河と遠江の分断を狙って今の豊橋付近にあった吉田城を攻めて失敗してからの長篠城攻めです。ここで撤退したら、武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで戦いもせずに尻尾を巻いて逃げたと信長や家康が喧伝し、三河や遠江の国衆達の離反が更に加速するだけの結果になったと思います。甲斐や信濃の国衆達も、信虎や信玄の時代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞が貰えない。 戦やその為の遠征の費用は家臣達の負担であり、その出費は戦の後に城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払って取り戻すのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の採掘方法では金がほとんど取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣達の出費を勝頼が補填できない。骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 仕切り直した時には今以上の兵力で織田が徳川の援軍に来るかもしれない。織田が畿内を完全に平定したら、織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手がない。浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と連携できなくなったとはいえ、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない。 そんな中で信長が出てきた。 信長を討ち取る、討ち取れなくても痛手を与えて織田の威信を失墜させなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのだと思います。
武田勝頼の過小評価から、最近は過大評価に変化しつつあるのが面白い歴史ファンには逆張りしたい人が多いから、勝頼は無能っていう人が多いと、今度は実は有能だって言い出す信玄より最大領土が多いとか言い出すがそれが何なの?って感じ昭和の日本軍はめちゃくちゃ領土拡大したから超有能だっていうのだろうか?勝てもしないのに戦線を伸ばしただけだってそれに対してはみんなわかっているのに
長篠の戦いは鉄砲云々言われますが、織田徳川3万8千に対し武田は1万5千でもう数で勝敗はほとんど決まっている。倍以上の敵に対し特に策もなく挑んだ勝頼の愚策だったと思う。
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市橋先生、浜崎さんいつもわかりやすい解説ありがとうございます。
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武田軍はさすがに3千の鉄砲ではかないませんね。本日の大河の山縣昌景は見事な描き方でした。見応えがあって面白かったです。いつも丁寧に解説してくださりありがとうございます。
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動画の長さ、30分前後で非常に見やすい長さだと思います。
話が次回に続くことで、次回のアップも楽しみに待つことができますし。
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ドラマでは大久保忠世の活躍も見たかったですが、なかなか全てを描ききれないのも大河ドラマ、、、仕方ないですね。
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私は豊橋で手筒花火をやっているものです。
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今日初めて知りました。三河で硝石が
採れたと言うことを
ありがとうございました。
当時は全国の中でも三河くらいしか硝石の生産がなかったようです。あとはポルトガルからの黒色火薬の買い入れ頼み。信長が買い占めを行ったんでしょうね。
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今回もお疲れ様です。有難うございます。
鉄砲の三段撃ちは馬防柵三段構えの間違い。
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実際は無敵・武田騎馬隊が馬防柵めがけて突進するような草原などなく、川を挟んだ狭い場所だから馬防柵から鉄砲隊の袋のネズミになったんですよね。
鉄砲の連射であっという間に勝敗が決まるような劇画モドキの戦なんかではなく、実際には両軍は8時間も戦闘をしています。
半日の天下分け目の関ヶ原が6時間ぐらいと言われていますから、敵の半分に満たない軍勢で武田軍はよく戦いましたね。鉄砲隊も敵よりも劣るのに。
次回も楽しみです。
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そうですか。内藤一族は徳川の創業期から欠かせない側近衆でした。むろんそれよりも以前から松平宗家に仕えていましたが。また是非岡崎にお越しください。内藤一族のご子孫の方も幸田町に住んでおられます。
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勝頼の怒りは、自負心を傷つけられた長篠の寝返りにあったのでしょうね。引けぬ時になってしまったんですね。
天下のご意見番、大久保彦左衛門のルーツが解って嬉しかったです。
先生!駿河台と言えば予備校ではなく、なんと言っても明治大学ですよ‼️
本当ですね。大変失礼しました。駿河台、現代でも文教地区であることが興味深いです。
面白いです。ありがとうございました。
こちらこそありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
徳川家康公のことが昔から大好きなので、徳川贔屓のまま続けてもらえれば幸いです。
僕自身も大ファンなのですが、贔屓の引き倒しにならぬよう、フラットに歴史的な事実を見てみたいと心がけています。これからもよろしくお願いします。
とても勉強に、なります。松潤ファンなので。
松潤て口がヒン曲がってるけどいーの?
ワイが松潤なら金あるし整形するね
これからも悩む家康を演じてほしいですね。いい役者さんです。
馬場信春、信房、無双👍鬼美濃不死身
友里ちゃん、白いノ-スリ-ブのお洋服似合ってて素敵ですよ(*'▽')
今日の合戦は、残酷で悲しかったです。武勇を誇る武田の名将が次々と鉄砲で殺される、まさに「なぶり殺し」ですね。犠牲になった方々の御霊にご冥福をお祈り致します。
史料には勇猛な武田の将士たちを「練雲雀のごとく」と記されています。鉄砲を集団で使用する恐ろしさがよく表されています。
勝頼公は騎馬隊優位が無い時点で兵力差が勝敗を決する事を理解出来ていない筈は無く負けを覚悟して挑んだと思います。誤算は重鎮含む多大な損害。戦の変化を見余ったのでは無いでしょうか。
同感です。勝頼の鉄砲に対する認識が少しだけ甘かったのかもしれませんが、黒色火薬の不足にも原因があったようです。信長は黒色火薬を大量に仕入れていましたから、その差が出たのかもしれませんね。
地元の新田義貞氏の首塚が岡崎にありますが、義貞の弟の脇屋義助の墓は愛媛県今治市にありますね。ウチの先祖は新田一門の新田岩松家京兆家一門になります。
そうなんですね。また細かいお話などお聞かせください。
@@市橋章男 ちなみに、新田義貞氏が鎌倉幕府を倒幕で挙兵をした時に親戚の先祖は清和源氏の流れで、愛媛県今治市から群馬県まで挙兵に駆け付けたと石碑に書いてあります。苗字は窪田家と久保田家ですが。
先生のお話、大好きです!
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今日のドラマ、全く違って描かれてて、信長、可哀想でした(信長びいきでーす)
信長が悪しき野心家過ぎですよね。秀吉はもっとひどいけど(笑)。史料に遺されている部分はずいぶん省かれてしまいました。僕も残念です。
設楽ヶ原の少し引いた所に
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そうですね。大久保家の墓塔に交じって久世家の墓もあります。また機会がありましたら是非。
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上州の黒備え小幡勢も多くの損害を出したと、地元の書籍で読んだことがあります。
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武田の暗号が解読できず
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初めて聞くお話です。また詳しく教えてください。ありがとうございました。
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撤退したら国衆達の離反が加速するだけ、かと言って決戦しても数が違いすぎる。 勝頼は最初から詰んでいたように見えます。
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そうなんです。次回はそんなところに触れていきます。よろしくお願いします。
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12000の主力兵力で1万の戦死はあり得ない
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屏風絵の見方=絵解きは、本当に参考になります。討ち死にした山縣政景の首を家臣が切って持ち去るのは残酷ではありますが、主人の遺体が乱取りや夜盗によって身ぐるみはがされ褌まで持ちされて晒されるのは忍びない、そう考えると大谷刑部の家臣湯浅五助と同様に主人思いの行為ですね。
また、大久保氏がもとは新田義貞勢だったのは初めて知りました。家康の関東入府によって井伊、本多、榊原よって現在の群馬県の主要な市の基礎が築かれて、しかも大久保氏は群馬県太田市を拠点にした新田氏と縁があるとは。三河人が現在の群馬の基礎を築いたと言っても過言ではないと思います。そう考えると三河武士と上州(群馬)は深い縁がありますね。
ちなみに群馬在住の兄によれば、大河「真田丸」の時は群馬県沼田市だけ盛り上がり、高崎、館林は全く無反応だったとか。
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勝頼・・・信玄の遺言を無視して
死を隠す事もできず
まさに驕る平家は久しからずだな
馬場や山県は本当悔しかっただろうな
信玄ならあんな戦い方はしない
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勝頼の独断 重臣の進言無視 玉の肥やし
偉大な信玄と比較されることが一番嫌だったのでは、と思います。「信玄公ならば…」と言ったとたんに、不機嫌になったんでは。
私は勝頼の独断とは思えないですね。
当主の意見を通しやすい環境だった織田家とかと、豪族達の連合体という政治体制の武田家では全く違いますから。
最近では山県昌景や馬場信春、内藤昌豊ら重臣達が決戦を積極的に主張したという話もあり、私はそれを否定はできないと思っています。
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甲斐や信濃の国衆達も、信虎や信玄の時代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞が貰えない。 戦やその為の遠征の費用は家臣達の負担であり、その出費は戦の後に城下町や村で米や銭を略奪したり、城下町や村で攫った人や討ち取った兵から剥ぎ取った鎧兜や刀などを売り払って取り戻すのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の採掘方法では金がほとんど取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣達の出費を勝頼が補填できない。
骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 仕切り直した時には今以上の兵力で織田が徳川の援軍に来るかもしれない。
織田が畿内を完全に平定したら、織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手がない。
浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と連携できなくなったとはいえ、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける状況ではない。 そんな中で信長が出てきた。 信長を討ち取る、討ち取れなくても痛手を与えて織田の威信を失墜させなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断したのだと思います。
武田勝頼の過小評価から、最近は過大評価に変化しつつあるのが面白い
歴史ファンには逆張りしたい人が多いから、勝頼は無能っていう人が多いと、今度は実は有能だって言い出す
信玄より最大領土が多いとか言い出すがそれが何なの?って感じ
昭和の日本軍はめちゃくちゃ領土拡大したから超有能だっていうのだろうか?
勝てもしないのに戦線を伸ばしただけだってそれに対してはみんなわかっているのに
長篠の戦いは鉄砲云々言われますが、織田徳川3万8千に対し武田は1万5千でもう数で勝敗はほとんど決まっている。倍以上の敵に対し特に策もなく挑んだ勝頼の愚策だったと思う。