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不憫に感じるのはキリスト教は純粋な布教活動じゃなかったこと
地元民です。30数年前、郷土史家から私の質問に帰ってきた答えと自身で何度も足を運んだ経験から。以降聞き覚えのない地名など沢山出てくると思います。地図などで確認していただけると原城の堅牢さや島原城の派手さがご理解できると思います。【何故、重税が行われたか】一言でいうとどこかのミサイルが好きな国の独裁者と同じ感じ考えるとわかりやすい。そもそも島原半島全体としてみれば稲作には不適合地。大きい河川は無く水の確保は難しい。(というか小川程度もほとんど無い)半島 北側火山灰土。 南側粘土質の土壌。年貢を米で徴収するのに無理がある。 ほか野菜などでも徴収したらしいですが割がかなり低かったとのこと。板倉重政が島原城(森岳城)を築城、実質島原単体では2万7千~3万石程度豊後高田の飛び地を合わせても5万石弱ほどだったともいわれるの米の石高だったが、なぜか幕府には10万石と上方申請。(幕府からも何度も間違いではないかとか確認が入った) 結局7万石が確定。板倉氏(初代)は自称戦の天才らしく築城を派手に行いたかったのが理由ではないかとのこと。7万石だから大きいお城作りますねー的な。実際、島原城は縄張り(規模)は熊本城とほぼ同等かそれ以上。現在の島原市役所があるあたりに大手門、ユニクロがあるあたりに北門、ここまでが城内。堀や石垣で構築した部分でも現在の島原高校グラウンド北側が三の丸の端です。現代で考えると見栄を張って豪邸を建て高級車を乗り回し…年収300万円の人間が年収700万円と確定申告した状態。なので領民から搾り取るしかない。【板倉が反乱の際に即座に対応できた理由は普段から準備していたから】大量の鉄砲や武具の確保、強固な島原城の築城(すでに徳川政権下で不必要)自称戦の天才の父。普段から分不相応な軍事準備を行っていたその遺産もあったし、島原藩自体がそういう家風だったのではとのこと。 島原城復元天守閣を見ればわかると思いますが、本丸天守の屋根瓦には一切破風がありません。それはいざと言うときは天守閣に大量の鉄砲を揃え、上から攻めてきた敵を狙い撃つため(その場合破風が邪魔になる)天守閣から鉄砲で狙い撃つために。 その場合すでに敗戦なんだけど…。戦キ〇ガイですね。【反乱一揆はなぜ鎮圧軍に耐えれたのか】原城はもともと有馬氏が築城した城です。有馬氏は南蛮貿易で巨万の富を得た地方豪族。有馬氏の居城は日野江城、出城が原城です。また、南蛮貿易の窓口であった口之津港から日野江城まで朱塗りの回廊でつながれていたなどの話もあるくらい大富豪。その豪族がいざというときのために厳選して作成した場所と構造物が原城。原城は前面三方面は攻めにくく、背後は海と断崖に面した小高い丘の天然の要害で強固で堅牢な「戦い専門」の出城です。当時の街道(現在の国道筋)から原城までは一本道しかなく、周りは低湿地や沼地。騎馬は役に立たず兵は足を取られたとの当時の記述あり。 低木や遮るものすら無く開けた土地が広がっていたようです。すでに多くの石垣などは島原城築城の際に持ち去られたが一部の石垣群と空堀ははほぼ健在で戦闘に耐える修復は割かし簡単にすんだ様子。また、洋上から艦砲射撃も行われましたが射撃距離が遠かったのでほとんど被害は出ていないことはその通り。それは原城背面の海上は有明海特有の干満差と浅瀬・少し離れた場所には沖縄とこの一部しかないサンゴ礁が一部あり、(以前は原城にしっかり説明看板があったが最近は無くなったような… 一揆立てこもりが圧政に対抗した、よくやった的な考え?か悲劇の拡大宣伝のためかと邪推してしまう…)大型船は座礁の危険性が高く十分な射程距離まで近づけないこと砲の仰角(そもそも高地攻撃する設計ではない)が足りなかったから。そういう場所が攻めに弱い訳は無いですよね。また、初期は幕府軍が布陣した場所は少し遠く離れた高台や少し距離がある小さな山の尾根地。進軍してくる様子が原城から観察でき、ほぼ一列縦隊で攻めるしかできず、攻めあぐね奮起させるために先頭で鼓舞した指揮官を打ち抜いたのは元武人などとも言われる凄腕猟師。籠城に耐えれたのはもちろん一揆軍の士気も高かったのだろうが原城の鉄壁の立地によるところが大きいと思われる。また、三の丸は浜辺に面しており、籠城中も小舟で食糧の搬入はひそかに行われた。現に指揮官が変わってからは鎮圧軍は布陣を高地から平地に変更。海上封鎖を行い、本格的な攻撃のために三の丸から攻めて兵糧攻めに取り掛かった。【一揆軍は本当にその人数か?】一揆軍に参加したのはほとんどの「残った島原領民」だったと思われる。いわえる村単位で一揆に参加したのは間違いない様子。村の中でも反対派はいたようだが暴行や脅迫で一揆に村単位で参加せられた事実もあります。一揆に参加せず逃げ出した領民も多数いたようです。不参加者を見せしめに殺害もあったようですが、民衆は半強制ではあったものの重税の不満は等しく、結果として村単位ほぼ島原半島全域から立てこもった模様です。しかし、3万7千とか本当だろうか?原城に行けばわかることですがまず原城の面積などの規模的には3万7千の人員は収容できません。トイレ・食事・寝床・戦闘のための櫓・空堀・防壁などを考えるとまずありえません。そもそも規模が小さいから森岳城に変更したくらいです。有馬氏地方豪族が使うにはちょうど良い大きさであった規模が原城。有馬氏の沖田畷の戦の人員や当時の石高と兵士の関係からも考えてもせいぜい1.5千名~かなり多く見ても2千名程度が籠城許容限界人員だと思われます。1万5千とか3万7千とか言われる島原の乱一揆軍の人数ですが、古文書に記載してあったとの事柄から聞いた話です。一揆鎮圧後に幕府の偉い人が見分に来る際に打ち取られた一揆軍は見せしめのため街道筋から少し離した場所に竹で首の晒し台が築かれた。打ち取った反乱人数があまりにも少なかったので恰好がつかず打ち取った首を縦に割り左右に並べ、また体は別に街道筋に並べたとの見分があるようです。要するに頭を縦割りにして左右で街道側に向け首がない死体を街道に並べた疑惑があります。だったら1人が2人3人に見えますから。そもそも攻城戦では火矢などが定石ですが、火矢は一切使っていないことが最初から人員嵩ましが余計に考えらるとのこと。実際、場所に足を運んで人員を考えてみると私の推測では女子供老人合わせて8千~9千名。かなり多くても1.2万名いないくらいではなかったかと思います。準戦闘員を考えるとかなりの奮戦ですね。実際参加した一揆軍の中にはには関ケ原に参加した経験がある人や没役したが実戦経験豊富な武士が多数参加が確認されていること、関ケ原西軍に属し参加理由として最後に徳川に一矢報いたいと言っていた老武士なんとか左衛門が参加したなどが記録があり、耐えれた要因でもあると思われます。【忍者について】確かに忍者が来たようです。しかし、方言が強く何を話しているか内容が分からなかった。何度か潜入したがやはり話の内容が理解できず、仕方なく兵糧が少ないと報告した。そんなこと兵糧攻めしてるのでわかりきっていること。わざわざ呼んで潜入させたのに「忍者は全くの役立たずで解雇した」と鎮圧軍の資料に残っています(笑)地元を離れて三十数年。見聞きした島原の乱は伝えることもなく過ぎて終わるな~と思っていた。真実かどうかはわかなないがこんな話もあった程度にどうぞ。伝える機会があり幸いです。
天草の本渡市(現在天草市)、地元出身者です。高校の裏山に、「殉教公園」という博物館が建ててあります。母校生徒は無料で入館できました。当時の内情に関しては詳しくは知らず、この動画で詳しく知る事が出来ました。感謝です。
天草四郎ほかキリシタン大名の人身売買に言及がない。人身売買、奴隷貿易で得た豊富な資金で武器を購入してたから強かったそう。
知らなかったキリシタン側も清廉潔白というわけじゃなかったんですね!
天草出身者としては、辛い歴史ですが。。。勉強になりました。配信ありがとうございます😭
島原の乱は単にキリシタンvs幕府って話ではないですよね。
オランダ船による艦砲射撃は、「キリスト教国であるオランダは助けてくれない」という心理的負荷をかける効果はあったでしょうね。
アマチュアの郷土史研究家の人が発信していたけど、小西行長より一世代前の、長崎開港したキリシタン大名:大村純忠の代には下記のような蛮行が行われていた、なんて情報もあるから色々と判断に困る複雑な歴史的経緯・事情も有りそうよね。欧州国による中南米侵略の先導役を宣教師が果たしていた、みたいなことが島原の乱よりも先に九州で起きていたようにも見えるし。・キリシタンに改宗しない大村領民を追放・領内すべての寺社仏閣41ヶ所を一斉に破壊・焼き打ち・領内から逃れようとした仏僧がキリシタンに捕えられ殺害される・キリシタンが寺の墓を暴き遺骨を川に流す
>天草四郎が起こした奇跡→実際にあったと言われるのが、最初の幕府軍大将の戦死。板倉重昌が撃たれた時、発砲した銃手が見当たらなかったというもの。
オランダとスペインの代理戦争っぽさもあり、当時の世界情勢とリンクしてますね
天草四郎時貞と言えば魔界転生の沢田研二さんが生首で笑うシーンが印象に残る。
たしかこの藩って貿易ができなくなって収益が減ってるのに幕府に年貢の過剰申告して領民に過酷に年貢を徴収しておこしてるんだよなぁ
一度は敵将を討ち取ったのはすごいことだと思う
神社や寺の破壊をしなければキリシタンも迫害されなかったんじゃないかな。益田氏。長州藩の人か。藤原氏(大和族)は天皇(日向族)にはなれないからそういう因縁対決もあって「俺は神だ」とか言ったのかもしれないね。
原城には浮かばれない霊が未だ出るそうですが、神を信じ天草四郎を信じ戦ったのにその人たちに天国への扉は開かれてないのかと思うと切ない。
21:05 正式には堅高は天草領の没収の減封、出仕停止の処分であり、堅高の自殺、無嗣により改易となってますね。
島原藩も最初はそこまで弾圧的では無かったけど、幕府にもっと厳罰化しろと言われてから厳しくなったそれに島原藩をスパイにして、マニラのスペイン植民地を攻める計画まであったらしいし戦の準備のために年貢集めとキリシタンの取り締まりが厳しくなったんだろうね
最近、原城を訪れたばかりでしたから、大変面白く視聴しました。原城の築城者・有馬貴純と原城の構造の話がプラスされるとさらに良かったですね。
島原の乱は宮本武蔵が中津藩主・小笠原長次の後見として参陣していたことでも知られる。松平信綱は俗に「知恵伊豆」と呼ばれた人物。
「私は神だ」とか「神の声が聞こえる」とか言ってるヤツって単なる統合失調症だよな悲惨なのは本人よりも周りの人病人の言動に振り回されて命を落とすとか悲劇以外の何物でもない
海の向こうから同士が助けにくるとして先導し抵抗も凄まじく。幕府軍は蘇るのではと恐怖をおぼえる位で埋葬方法も確実にと、すごかったらしいですね。
一機軍が途中まで、明らかに戦闘経験のある戦術家の指示で動いてるんよね。物資の出所と合せて、島原戦闘の背景が気になる点。
小西・有馬といった旧領主の遺臣の他に古くから同地に割拠した天草氏や志岐氏といった国人層が関与してるけど、どう見ても南蛮商人も噛んでると思う。
で、自分を天草四郎の生まれ変わりと主張する美輪明宏(大笑)
そもそも唐行きさんや海賊稼業で食いつなぐような貧しい土地柄なのに朝鮮出兵でさらに割を食って九州不憫すぎる…
古今東西松平信綱の右に出る優秀な官僚はそうそういないと思う。農民と異国の宗教がコラボした未曾有の一揆への対応の二十年後今度は江戸城天守閣まで焼いた大規模都市災害の振袖火事後処理にも迅速に対応すごい手腕
幕府軍は十二万の兵を投入してその内十分の一が戦死してしまったんだな、最悪三つ四つの潘が滅びてしまっているぞ
剣豪の宮本武蔵も鎮圧軍に来て居て投げられてくる石で、大怪我をして大変だったと、書いて居る様です😅後の海外出稼ぎに行かざる得ない歴史を見ても😢生きる為に、他の手立てが無く死ぬ気で戦うざる得なかった罪なき、天草の民が可哀想です。貴重な動画を、ありがとうございます。
天草四郎はキリスト教を騙る魔道士森宗意軒に操られていたらしい。
島原の乱といえば水野勝成さん親子孫三代に渡って参戦した
天草四郎時貞って、豊臣秀吉の孫だとも言われてるんだよね。旗印があってそれが金瓢箪があるんだよね。金瓢箪というのは、豊臣家の旗印だからね。可笑しいんだよね、なんの関係もないのに長崎、天草地方に豊臣家の金瓢箪があるわけないんだよね。敵軍には宮本武蔵がいたんだよね。この頃宮本武蔵は九州の大名についていたんだよね。その時親父柳生但馬守宗矩の命令で天草地方に行ってた柳生十兵衛光貞がいたから、その時武蔵と十兵衛があったとされてるんだよね。
ーコメです天草四郎です魔界天生したんだよな
神輿ではあるんかなと
存在しないものを崇め、その存在しないものに対して人生を賭ける。宗教とは人間が作り出した虚構
担がれて彼自体は戦出来る人では無いのよのね
キリスト教系新興宗教の教祖で在る、教祖に振り回された狂信者が命を落とした🙏
イエスも自称ケンシロウじゃなくて、救世主だからの
中公新書の島原の乱との内容がかなり違いますね。戸惑うくらい…。
いつも興味深いUpを、ありがとうございます。「徳川幕府を舐めてはダメですよ。」・徳川幕府の常套手段潰したい藩に統治の難しい所領を与え問題が発生する迄放置する。(九州にキリシタンが多数居る事は幕府は十分に把握して居る)・徳川幕府は”なるべく早くキリシタンを一掃する策を実行“しただけの話。・九州を含めキリシタンを1ヶ所に自発的に集合させ一網打尽の粛正をしただけの話。・時貞派は、まんまと徳川幕府の謀略に乗せられて自滅しただけの話ですよね。「信長が伊勢長島の一向一揆殲滅」に同様な策を講じて居ますよね。(若干状況は違うが、信者を一ヶ所に集結&籠城させ殲滅する)
18:29火蓋は切るだけです・・・・落とすのは幕です・・・・!
美輪明宏さんの『霊ナァンテ怖クナイヨー』という本に、詳細が書かれています。
森蘭丸説もあったね〜
キリスト信徒側のやらかしに触れないのはわざとなのだろうか。
統合失調症が大事件起こしたって事
父が言うには秀頼の子供説…
天草四郎とジャンヌダルクは、少し似てるな
天草四郎『ボクは神であるぞ💥😇😇』昭和天皇『あ、そ…』
これだから歴史は好きじゃない。何が本当だったのか、なんてその場に居たはずの人間たちでさえちゃんと見定めることが出来ていない現状となんら変わりない。
昔、美輪明宏さんが「私の前世は天草四郎」って言ってました。
多数の占い師が美輪明宏氏の後ろにマリア様がいると言われたとか。今から10年前に、六本木の協会の神父が教壇で熱弁していたら、頭の上にマリア様が浮いていた。 俺はマリア様の来ている服の裾(足下)しか見えなかったんだけど(^^; 一緒に来ていたスピリチュアルの女性は、全身とマリア様の周りに天使が飛んでいるのが見えたみたい。
@@make--wish4079 何でマリアだと分かったんだろ?会ったことがあるのか、三輪さんの後ろで「あたしマリア」って言ってたんだろうか
@@Y.H-g9g 美輪明宏氏は、「天草四郎時貞」と言われたみたい。 たしかに、スピリチュアルの女性は、マリア様にあった事はないんだよな。。。 俺の場合は、布切れが神父の頭にふわふわと浮いていたのが見えただけ。 六本木のミサの帰りに、いきなり「見えた?」って、真剣な顔で問いかけるスピリチュアルの女性に言われ、「どうしたんですか?」と聞いたら、マリア様の話になったんだ。
@@make--wish4079 霊が見えてもなんもいいことないですよ。本当。
@@hochihochi8732 そうなんだよね(^^;15歳位から見えたりするようになった。 得がないんだよね(^^;
ほんとに美少年だったのか?
疑う人は粛清
田村節雄の漫画、『続 新戦国自衛隊』。その最終巻でタイムスリップした自衛隊員の一部が、天草の乱の一揆側に加勢。天草四郎に高性能の防弾服を着せ、火縄銃の弾を防ぐ描写があった。隠し持っていた89式小銃で、幕軍の火薬集積所を狙撃。爆発させる場面があった。最後は、反乱軍の生存者と一緒に捨て身の突撃を敢行。その姿を見た宮本武蔵(幕府軍側として参戦)が武士の死に様として、感銘を受ける様子が描かれていた。
美輪さんすごい😂
今も昔もグレタやゆたぼんのような悪い大人のせいで人生を狂わされた子供はいるんだね
為政者に対する不満を煽り貧しい者を蜂起させて暴動を起こすのは、まさに社会・共産主義のやり口。さすが美輪さんだわw
何かに傾倒するのは未熟な証拠である。聖書や経典などは確かにタメにはなるが、鵜呑みにしてはならない。鵜呑みにするということは、自身がその体験をしていないからであり、体験してきた者であれば、それを自身の見解に置き換えて物事を構築する。俺は昔からどこどこの教授が言ったとか、お医者様が言ったなどと言われるのが無性に腹が立つタイプで、ではお前の持論はなんなのだ?と聞きたくなる。誰かが言ったというのは、早い話自己責任から逃げているだけである。ゆえに、そんな奴等の説法を聞いてるほうが馬鹿というもの。つまり、第三者がという人たちと、詐欺師は同座にいるということ。字面だけで辛酸を舐めてきたかのようにドヤってる連中なんて信用すらしてはならない。
天草四郎って豊臣秀吉の子孫だったよね?
この島原天草一揆では、明智光秀の孫二人が犠牲となっている。三宅藤兵衛と細川忠利だ。三宅藤兵衛は、光秀の従弟明智左馬助秀満とガラシャの姉との子。本能寺の変の後の混乱で両親を亡くした後ガラシャに引き取られる。ガラシャが関ヶ原の合戦の時に亡くなると細川家を出ていき、天草へ移り住み富岡城代となる。そして、一揆最大の激戦区で戦死。細川忠利はご存知ガラシャの三男。三宅藤兵衛とはいとこ同士で兄弟のように育つ。藤兵衛が細川家を出ていった後も欠かさず手紙のやり取りをしていたほどだった。ガラシャが心配して洗礼を受けさせるほど体が弱かったのに、藤兵衛の仇を討つ為か無理をして討伐に参戦。それが命を縮めてしまったようで高齢の父忠興よりも先に亡くなってしまいます。
忠利の場合、幕府や父、廃嫡された兄(忠隆)に気を使う状態の方が大変だったのでしょう島原天草の乱の影響はわかりませんが、忠利が亡くなったのは1641年と乱平定後の3年後ですし
日本にも十字軍が存在していたということだ。
わたしも 沢田研二さんの天草くんしか知らない😄 「魔界転生」?天草くん、しつこいのよ😅また生まれ変わって柳生一族と闘うって😅 しつこいのよ
美輪さんに 詳しく 聞いて欲しい
安倍が悪い!アベガー!と喚くだけだよw
僕、私は、神と言う人は神じゃない😮
神っぽいな、それ(時貞)
というのが徳川史観の天草の乱。豊臣天四郎秀綱は触れなくていいの?そして当時の将軍家光の嫡子が、将軍の世継ぎなのになぜか坂東の田舎の百姓の娘の腹で、なぜか元服名が家「綱」、その次の男子もなぜか綱重、その次も綱吉。諱って重要だよね?なぜ綱をここまで推したの?祖父は秀忠、忠は源氏の由緒ある諱。大権現の元信元康家康の家しか使ってない。康は家康の祖父清康から引き継いだもの。主従関係による諱の信や秀が入ってないのはわかるがいきなりの綱推し、しかも島原の乱の後。生母の名も蘭が乱を想起させるからとお楽に改名させる。俺は、ここで徳川豊臣家の合体があったものだと推測してる。天の雨?ご落胤を逃す方便じゃないの?
そもそもな認識として鎖国が徳川幕府が行った内向きな外交政策だと思っている者は多いと思うが自分は豊臣、なんなら織田から引き継がれる日本国外の対欧州の植民地政策に対する結果であり強いて言うなら、幕府が導き出した結果ではなく、欧州が制圧困難と結論付けた後に欧州側が準主体として日本を日本国に封じ込める策略それこそが結果的な鎖国だと自分は考える、正直日本の当時の軍事力で唯一抜けていた事は海軍力、もっと言えば上陸能力これを見抜いて欧州は結果的に日本を海の牢獄に閉じ込める計略に到ったのだと考える故に、海外の勢力がキリスト教と侵攻をしてくる状況で豊臣の隠し子説のある者を途絶えさせても、欧州が喜ぶだけだと考え極力家康の面子を潰さず豊臣を吸収したと考えるのは実に理にかなった解釈だと思う
義継だからって。⁉️関係無いと思いますが。❓️
自称神
天草四郎。豊臣秀頼の子供説。
❓️ 😳
時貞公だよね。⁉️
_そんな天草四郎時貞の生まれ変わりを自称する美輪明宏😬_
大川隆法は神であらせられます
キ、リ、ス、ト😂素晴らしい時貞😂
不憫に感じるのはキリスト教は純粋な布教活動じゃなかったこと
地元民です。
30数年前、郷土史家から私の質問に帰ってきた答えと自身で何度も足を運んだ経験から。
以降
聞き覚えのない地名など沢山出てくると思います。
地図などで確認していただけると原城の堅牢さや島原城の派手さがご理解できると思います。
【何故、重税が行われたか】
一言でいうとどこかのミサイルが好きな国の独裁者と同じ感じ考えるとわかりやすい。
そもそも島原半島全体としてみれば稲作には不適合地。
大きい河川は無く水の確保は難しい。(というか小川程度もほとんど無い)半島 北側火山灰土。 南側粘土質の土壌。
年貢を米で徴収するのに無理がある。
ほか野菜などでも徴収したらしいですが割がかなり低かったとのこと。
板倉重政が島原城(森岳城)を築城、実質島原単体では2万7千~3万石程度豊後高田の飛び地を合わせても5万石弱ほどだったともいわれるの米の石高だったが、なぜか幕府には10万石と上方申請。(幕府からも何度も間違いではないかとか確認が入った) 結局7万石が確定。
板倉氏(初代)は自称戦の天才らしく築城を派手に行いたかったのが理由ではないかとのこと。
7万石だから大きいお城作りますねー的な。
実際、島原城は縄張り(規模)は熊本城とほぼ同等かそれ以上。
現在の島原市役所があるあたりに大手門、ユニクロがあるあたりに北門、ここまでが城内。
堀や石垣で構築した部分でも現在の島原高校グラウンド北側が三の丸の端です。
現代で考えると見栄を張って豪邸を建て高級車を乗り回し…年収300万円の人間が年収700万円と確定申告した状態。
なので領民から搾り取るしかない。
【板倉が反乱の際に即座に対応できた理由は普段から準備していたから】
大量の鉄砲や武具の確保、強固な島原城の築城(すでに徳川政権下で不必要)
自称戦の天才の父。普段から分不相応な軍事準備を行っていたその遺産もあったし、島原藩自体がそういう家風だったのではとのこと。
島原城復元天守閣を見ればわかると思いますが、本丸天守の屋根瓦には一切破風がありません。それはいざと言うときは天守閣に大量の鉄砲を揃え、上から攻めてきた敵を狙い撃つため(その場合破風が邪魔になる)天守閣から鉄砲で狙い撃つために。
その場合すでに敗戦なんだけど…。
戦キ〇ガイですね。
【反乱一揆はなぜ鎮圧軍に耐えれたのか】
原城はもともと有馬氏が築城した城です。
有馬氏は南蛮貿易で巨万の富を得た地方豪族。有馬氏の居城は日野江城、出城が原城です。
また、南蛮貿易の窓口であった口之津港から日野江城まで朱塗りの回廊でつながれていたなどの話もあるくらい大富豪。
その豪族がいざというときのために厳選して作成した場所と構造物が原城。
原城は前面三方面は攻めにくく、背後は海と断崖に面した小高い丘の天然の要害で強固で堅牢な「戦い専門」の出城です。
当時の街道(現在の国道筋)から原城までは一本道しかなく、周りは低湿地や沼地。騎馬は役に立たず兵は足を取られたとの当時の記述あり。 低木や遮るものすら無く開けた土地が広がっていたようです。
すでに多くの石垣などは島原城築城の際に持ち去られたが一部の石垣群と空堀ははほぼ健在で戦闘に耐える修復は割かし簡単にすんだ様子。
また、洋上から艦砲射撃も行われましたが射撃距離が遠かったのでほとんど被害は出ていないことはその通り。
それは原城背面の海上は有明海特有の干満差と浅瀬・少し離れた場所には沖縄とこの一部しかないサンゴ礁が一部あり、(以前は原城にしっかり説明看板があったが最近は無くなったような… 一揆立てこもりが圧政に対抗した、よくやった的な考え?か悲劇の拡大宣伝のためかと邪推してしまう…)大型船は座礁の危険性が高く十分な射程距離まで近づけないこと砲の仰角(そもそも高地攻撃する設計ではない)が足りなかったから。
そういう場所が攻めに弱い訳は無いですよね。
また、初期は幕府軍が布陣した場所は少し遠く離れた高台や少し距離がある小さな山の尾根地。
進軍してくる様子が原城から観察でき、ほぼ一列縦隊で攻めるしかできず、攻めあぐね奮起させるために先頭で鼓舞した指揮官を打ち抜いたのは元武人などとも言われる凄腕猟師。
籠城に耐えれたのはもちろん一揆軍の士気も高かったのだろうが原城の鉄壁の立地によるところが大きいと思われる。
また、三の丸は浜辺に面しており、籠城中も小舟で食糧の搬入はひそかに行われた。
現に指揮官が変わってからは鎮圧軍は布陣を高地から平地に変更。海上封鎖を行い、本格的な攻撃のために三の丸から攻めて兵糧攻めに取り掛かった。
【一揆軍は本当にその人数か?】
一揆軍に参加したのはほとんどの「残った島原領民」だったと思われる。
いわえる村単位で一揆に参加したのは間違いない様子。
村の中でも反対派はいたようだが暴行や脅迫で一揆に村単位で参加せられた事実もあります。
一揆に参加せず逃げ出した領民も多数いたようです。
不参加者を見せしめに殺害もあったようですが、民衆は半強制ではあったものの重税の不満は等しく、結果として村単位ほぼ島原半島全域から立てこもった模様です。
しかし、3万7千とか本当だろうか?
原城に行けばわかることですがまず原城の面積などの規模的には3万7千の人員は収容できません。
トイレ・食事・寝床・戦闘のための櫓・空堀・防壁などを考えるとまずありえません。
そもそも規模が小さいから森岳城に変更したくらいです。
有馬氏地方豪族が使うにはちょうど良い大きさであった規模が原城。
有馬氏の沖田畷の戦の人員や当時の石高と兵士の関係からも考えてもせいぜい1.5千名~かなり多く見ても2千名程度が籠城許容限界人員だと思われます。
1万5千とか3万7千とか言われる島原の乱一揆軍の人数ですが、古文書に記載してあったとの事柄から聞いた話です。
一揆鎮圧後に幕府の偉い人が見分に来る際に打ち取られた一揆軍は見せしめのため街道筋から少し離した場所に竹で首の晒し台が築かれた。
打ち取った反乱人数があまりにも少なかったので恰好がつかず打ち取った首を縦に割り左右に並べ、また体は別に街道筋に並べたとの見分があるようです。
要するに頭を縦割りにして左右で街道側に向け首がない死体を街道に並べた疑惑があります。
だったら1人が2人3人に見えますから。
そもそも攻城戦では火矢などが定石ですが、火矢は一切使っていないことが最初から人員嵩ましが余計に考えらるとのこと。
実際、場所に足を運んで人員を考えてみると私の推測では女子供老人合わせて8千~9千名。かなり多くても1.2万名いないくらいではなかったかと思います。
準戦闘員を考えるとかなりの奮戦ですね。実際参加した一揆軍の中にはには関ケ原に参加した経験がある人や没役したが実戦経験豊富な武士が多数参加が確認されていること、関ケ原西軍に属し参加理由として最後に徳川に一矢報いたいと言っていた老武士なんとか左衛門が参加したなどが記録があり、耐えれた要因でもあると思われます。
【忍者について】
確かに忍者が来たようです。
しかし、方言が強く何を話しているか内容が分からなかった。
何度か潜入したがやはり話の内容が理解できず、仕方なく兵糧が少ないと報告した。
そんなこと兵糧攻めしてるのでわかりきっていること。
わざわざ呼んで潜入させたのに「忍者は全くの役立たずで解雇した」と鎮圧軍の資料に残っています(笑)
地元を離れて三十数年。
見聞きした島原の乱は伝えることもなく過ぎて終わるな~と思っていた。
真実かどうかはわかなないがこんな話もあった程度にどうぞ。
伝える機会があり幸いです。
天草の本渡市(現在天草市)、地元出身者です。高校の裏山に、「殉教公園」という博物館が建ててあります。母校生徒は無料で入館できました。
当時の内情に関しては詳しくは知らず、この動画で詳しく知る事が出来ました。感謝です。
天草四郎ほかキリシタン大名の人身売買に言及がない。人身売買、奴隷貿易で得た豊富な資金で武器を購入してたから強かったそう。
知らなかった
キリシタン側も清廉潔白というわけじゃなかったんですね!
天草出身者としては、辛い歴史ですが。。。
勉強になりました。
配信ありがとうございます😭
島原の乱は単にキリシタンvs幕府って話ではないですよね。
オランダ船による艦砲射撃は、「キリスト教国であるオランダは助けてくれない」という心理的負荷をかける効果はあったでしょうね。
アマチュアの郷土史研究家の人が発信していたけど、小西行長より一世代前の、長崎開港したキリシタン大名:大村純忠の代には下記のような蛮行が行われていた、なんて情報もあるから色々と判断に困る複雑な歴史的経緯・事情も有りそうよね。
欧州国による中南米侵略の先導役を宣教師が果たしていた、みたいなことが島原の乱よりも先に九州で起きていたようにも見えるし。
・キリシタンに改宗しない大村領民を追放
・領内すべての寺社仏閣41ヶ所を一斉に破壊・焼き打ち
・領内から逃れようとした仏僧がキリシタンに捕えられ殺害される
・キリシタンが寺の墓を暴き遺骨を川に流す
>天草四郎が起こした奇跡→実際にあったと言われるのが、最初の幕府軍大将の戦死。板倉重昌が撃たれた時、発砲した銃手が見当たらなかったというもの。
オランダとスペインの代理戦争っぽさもあり、当時の世界情勢とリンクしてますね
天草四郎時貞と言えば
魔界転生の沢田研二さんが生首で笑うシーンが印象に残る。
たしかこの藩って貿易ができなくなって収益が減ってるのに
幕府に年貢の過剰申告して領民に過酷に年貢を徴収しておこしてるんだよなぁ
一度は敵将を討ち取ったのはすごいことだと思う
神社や寺の破壊をしなければキリシタンも迫害されなかったんじゃないかな。益田氏。長州藩の人か。藤原氏(大和族)は天皇(日向族)にはなれないからそういう因縁対決もあって「俺は神だ」とか言ったのかもしれないね。
原城には浮かばれない霊が未だ出るそうですが、神を信じ天草四郎を信じ戦ったのにその人たちに天国への扉は開かれてないのかと思うと切ない。
21:05 正式には堅高は天草領の没収の減封、出仕停止の処分であり、堅高の自殺、無嗣により改易となってますね。
島原藩も最初はそこまで弾圧的では無かったけど、幕府にもっと厳罰化しろと言われてから厳しくなった
それに島原藩をスパイにして、マニラのスペイン植民地を攻める計画まであったらしいし
戦の準備のために年貢集めとキリシタンの取り締まりが厳しくなったんだろうね
最近、原城を訪れたばかりでしたから、大変面白く視聴しました。原城の築城者・有馬貴純と原城の構造の話がプラスされるとさらに良かったですね。
島原の乱は宮本武蔵が中津藩主・小笠原長次の後見として参陣していたことでも知られる。松平信綱は俗に「知恵伊豆」と呼ばれた人物。
「私は神だ」とか「神の声が聞こえる」とか言ってるヤツって単なる統合失調症だよな
悲惨なのは本人よりも周りの人
病人の言動に振り回されて命を落とすとか悲劇以外の何物でもない
海の向こうから同士が助けにくるとして先導し抵抗も凄まじく。幕府軍は蘇るのではと恐怖をおぼえる位で埋葬方法も確実にと、すごかったらしいですね。
一機軍が途中まで、明らかに戦闘経験のある戦術家の指示で動いてるんよね。物資の出所と合せて、島原戦闘の背景が気になる点。
小西・有馬といった旧領主の遺臣の他に古くから同地に割拠した天草氏や志岐氏といった国人層が関与してるけど、どう見ても南蛮商人も噛んでると思う。
で、自分を天草四郎の生まれ変わりと主張する美輪明宏(大笑)
そもそも唐行きさんや海賊稼業で食いつなぐような貧しい土地柄なのに朝鮮出兵でさらに割を食って九州不憫すぎる…
古今東西松平信綱の右に出る優秀な官僚はそうそういないと思う。
農民と異国の宗教がコラボした未曾有の一揆への対応の二十年後
今度は江戸城天守閣まで焼いた大規模都市災害の振袖火事後処理にも迅速に対応
すごい手腕
幕府軍は十二万の兵を投入してその内十分の一が戦死して
しまったんだな、最悪三つ四つの潘が滅びてしまっているぞ
剣豪の宮本武蔵も鎮圧軍に来て居て
投げられてくる石で、大怪我をして大変だったと、書いて居る様です😅
後の海外出稼ぎに行かざる得ない歴史を見ても😢生きる為に、他の手立てが無く死ぬ気で戦うざる得なかった罪なき、天草の民が可哀想です。
貴重な動画を、ありがとうございます。
天草四郎はキリスト教を騙る魔道士
森宗意軒に操られていたらしい。
島原の乱といえば水野勝成さん
親子孫三代に渡って参戦した
天草四郎時貞って、豊臣秀吉の孫だとも言われてるんだよね。旗印があってそれが金瓢箪があるんだよね。金瓢箪というのは、豊臣家の旗印だからね。可笑しいんだよね、なんの関係もないのに長崎、天草地方に豊臣家の金瓢箪があるわけないんだよね。敵軍には宮本武蔵がいたんだよね。この頃宮本武蔵は九州の大名についていたんだよね。その時親父柳生但馬守宗矩の命令で天草地方に行ってた柳生十兵衛光貞がいたから、その時武蔵と十兵衛があったとされてるんだよね。
ーコメです天草四郎です
魔界天生したんだよな
神輿ではあるんかなと
存在しないものを崇め、その存在しないものに対して人生を賭ける。
宗教とは人間が作り出した虚構
担がれて彼自体は戦出来る人では無いのよのね
キリスト教系新興宗教の教祖で在る、
教祖に振り回された狂信者が命を落とした🙏
イエスも自称ケンシロウじゃなくて、救世主だからの
中公新書の島原の乱との内容がかなり違いますね。戸惑うくらい…。
いつも興味深いUpを、ありがとうございます。
「徳川幕府を舐めてはダメですよ。」
・徳川幕府の常套手段
潰したい藩に統治の難しい所領を与え
問題が発生する迄放置する。
(九州にキリシタンが多数居る事は
幕府は十分に把握して居る)
・徳川幕府は”なるべく早くキリシタンを一掃する策を実行“しただけの話。
・九州を含めキリシタンを1ヶ所に自発的に
集合させ一網打尽の粛正をしただけの話。
・時貞派は、まんまと徳川幕府の謀略に乗せられて自滅しただけの話ですよね。
「信長が伊勢長島の一向一揆殲滅」に
同様な策を講じて居ますよね。
(若干状況は違うが、信者を一ヶ所に集結&籠城させ殲滅する)
18:29火蓋は切るだけです・・・・落とすのは幕です・・・・!
美輪明宏さんの『霊ナァンテ怖クナイヨー』という本に、詳細が書かれています。
森蘭丸説もあったね〜
キリスト信徒側のやらかしに触れないのはわざとなのだろうか。
統合失調症が大事件起こしたって事
父が言うには秀頼の子供説…
天草四郎とジャンヌダルクは、少し似てるな
天草四郎『ボクは神であるぞ💥😇😇』
昭和天皇『あ、そ…』
これだから歴史は好きじゃない。
何が本当だったのか、なんて
その場に居たはずの人間たちでさえちゃんと見定めることが出来ていない現状と
なんら変わりない。
昔、美輪明宏さんが「私の前世は天草四郎」って言ってました。
多数の占い師が美輪明宏氏の後ろにマリア様がいると言われたとか。
今から10年前に、六本木の協会の神父が教壇で熱弁していたら、頭の上にマリア様が浮いていた。 俺はマリア様の来ている服の裾(足下)しか見えなかったんだけど(^^; 一緒に来ていたスピリチュアルの女性は、全身とマリア様の周りに天使が飛んでいるのが見えたみたい。
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何でマリアだと分かったんだろ?
会ったことがあるのか、三輪さんの後ろで「あたしマリア」って言ってたんだろうか
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美輪明宏氏は、「天草四郎時貞」と言われたみたい。 たしかに、スピリチュアルの女性は、マリア様にあった事はないんだよな。。。 俺の場合は、布切れが神父の頭にふわふわと浮いていたのが見えただけ。 六本木のミサの帰りに、いきなり「見えた?」って、真剣な顔で問いかけるスピリチュアルの女性に言われ、「どうしたんですか?」と聞いたら、マリア様の話になったんだ。
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霊が見えてもなんもいいことないですよ。
本当。
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そうなんだよね(^^;
15歳位から見えたりするようになった。 得がないんだよね(^^;
ほんとに美少年だったのか?
疑う人は粛清
田村節雄の漫画、『続 新戦国自衛隊』。その最終巻でタイムスリップした自衛隊員の一部が、天草の乱の一揆側に加勢。天草四郎に高性能の防弾服を着せ、火縄銃の弾を防ぐ描写があった。隠し持っていた89式小銃で、幕軍の火薬集積所を狙撃。爆発させる場面があった。最後は、反乱軍の生存者と一緒に捨て身の突撃を敢行。その姿を見た宮本武蔵(幕府軍側として参戦)が武士の死に様として、感銘を受ける様子が描かれていた。
美輪さんすごい😂
今も昔もグレタやゆたぼんのような悪い大人のせいで人生を狂わされた子供はいるんだね
為政者に対する不満を煽り貧しい者を蜂起させて暴動を起こすのは、まさに社会・共産主義のやり口。さすが美輪さんだわw
何かに傾倒するのは未熟な証拠である。
聖書や経典などは確かにタメにはなるが、鵜呑みにしてはならない。
鵜呑みにするということは、自身がその体験をしていないからであり、体験してきた者であれば、それを自身の見解に置き換えて物事を構築する。
俺は昔からどこどこの教授が言ったとか、お医者様が言ったなどと言われるのが無性に腹が立つタイプで、ではお前の持論はなんなのだ?と聞きたくなる。
誰かが言ったというのは、早い話自己責任から逃げているだけである。
ゆえに、そんな奴等の説法を聞いてるほうが馬鹿というもの。
つまり、第三者がという人たちと、詐欺師は同座にいるということ。
字面だけで辛酸を舐めてきたかのようにドヤってる連中なんて信用すらしてはならない。
天草四郎って豊臣秀吉の子孫だったよね?
この島原天草一揆では、明智光秀の孫二人が犠牲となっている。三宅藤兵衛と細川忠利だ。
三宅藤兵衛は、光秀の従弟明智左馬助秀満とガラシャの姉との子。本能寺の変の後の混乱で両親を亡くした後ガラシャに引き取られる。ガラシャが関ヶ原の合戦の時に亡くなると細川家を出ていき、天草へ移り住み富岡城代となる。そして、一揆最大の激戦区で戦死。
細川忠利はご存知ガラシャの三男。三宅藤兵衛とはいとこ同士で兄弟のように育つ。藤兵衛が細川家を出ていった後も欠かさず手紙のやり取りをしていたほどだった。
ガラシャが心配して洗礼を受けさせるほど体が弱かったのに、藤兵衛の仇を討つ為か無理をして討伐に参戦。それが命を縮めてしまったようで高齢の父忠興よりも先に亡くなってしまいます。
忠利の場合、幕府や父、廃嫡された兄(忠隆)に気を使う状態の方が大変だったのでしょう
島原天草の乱の影響はわかりませんが、忠利が亡くなったのは1641年と乱平定後の3年後ですし
日本にも十字軍が存在していたということだ。
わたしも 沢田研二さんの天草くんしか知らない😄 「魔界転生」?
天草くん、しつこいのよ😅
また生まれ変わって柳生一族と闘うって😅 しつこいのよ
美輪さんに 詳しく 聞いて欲しい
安倍が悪い!アベガー!と喚くだけだよw
僕、私は、神と言う人は神じゃない😮
神っぽいな、それ(時貞)
というのが徳川史観の天草の乱。
豊臣天四郎秀綱は触れなくていいの?
そして当時の将軍家光の嫡子が、将軍の世継ぎなのになぜか坂東の田舎の百姓の娘の腹で、なぜか元服名が家「綱」、その次の男子もなぜか綱重、その次も綱吉。諱って重要だよね?なぜ綱をここまで推したの?祖父は秀忠、忠は源氏の由緒ある諱。大権現の元信元康家康の家しか使ってない。康は家康の祖父清康から引き継いだもの。主従関係による諱の信や秀が入ってないのはわかるがいきなりの綱推し、しかも島原の乱の後。生母の名も蘭が乱を想起させるからとお楽に改名させる。
俺は、ここで徳川豊臣家の合体があったものだと推測してる。天の雨?ご落胤を逃す方便じゃないの?
そもそもな認識として鎖国が徳川幕府が行った内向きな外交政策だと思っている者は多いと思うが
自分は豊臣、なんなら織田から引き継がれる日本国外の対欧州の植民地政策に対する結果であり
強いて言うなら、幕府が導き出した結果ではなく、欧州が制圧困難と結論付けた後に欧州側が準主体として日本を日本国に封じ込める策略
それこそが結果的な鎖国だと自分は考える、正直日本の当時の軍事力で唯一抜けていた事は海軍力、もっと言えば上陸能力
これを見抜いて欧州は結果的に日本を海の牢獄に閉じ込める計略に到ったのだと考える
故に、海外の勢力がキリスト教と侵攻をしてくる状況で豊臣の隠し子説のある者を途絶えさせても、欧州が喜ぶだけだと考え
極力家康の面子を潰さず豊臣を吸収したと考えるのは実に理にかなった解釈だと思う
義継だからって。⁉️
関係無いと思いますが。❓️
自称神
天草四郎。豊臣秀頼の子供説。
❓️ 😳
時貞公だよね。⁉️
_そんな天草四郎時貞の生まれ変わりを自称する美輪明宏😬_
大川隆法は神であらせられます
キ、リ、ス、ト😂素晴らしい時貞😂