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江戸時代の幕府が定めた軍役規定が、知行高1万石について人数235人(藩は1万石につき300人)というもので参勤交代の人員のもとにされていたので、これらを参考にした日本の旧参謀本部が「1万石に付き250人(便宜上の数字)」を出して戦国時代や安土桃山時代においても用いており、現在の歴史学者もこれを利用することが多いんやで。
鉄砲の普及率によって動員兵力が増えていった感じもあるから、扱いやすい武器が広まった事も大きいと思う。
遠征する場合、例えば兵糧にしても自国から全て輸送するわけじゃなくて敵地で略奪するのが前提だから、どれだけ略奪できるかも見込んで動員を決めていたのでしょうね。
8:38戦乱が全国的に常態化すると「田畑を荒らされて営農出来なくなった百姓」や「居住地が荒廃して失業した町人」が多数浮浪化し、勿論彼らは普段は『戦闘員』としてカウントされていないものの、合戦の際には雇われて足軽(戦闘員)に早変わり
太平記の数の盛り方はやべえわ
千早城攻めの幕府方80万、湊川の足利方が50万でしたっけ。子供の頃これを信じていたので「元寇で10数万」と言われても、「九州だけで武士が50万もいるのに、どうして国家の危機?」と思っていました。
@@竜涎香-g9o 千早城攻めはまさかの幕府方200万です笑笑その当時の日本全体(蝦夷地、琉球除く)の人口が1000万人程度ですから、一つの城を攻めるために、その5分の1の人口が動員されたことになってしまいます笑
小田原北条氏は本当記録残しすぎ
動員兵数は自国の国力を示すので、政治的外交的にも誇張するのは、当時の大名としては当たり前の事のよう。下手に実数を明かすと味方の士気にも影響及ぼすし、離反する国衆も出てくる。三倍とか、十倍くらい誇張もざららしい。ただ、戦死者数に関しては実数に近いらしい。だから歴史家や戦史研究家は死者数などを大いに参考にして動員可能数を予想する。実際は、さらに逃亡者なども出てくるからそれでも正確ではないらしいが。
徳川家家臣の松井松平家にある小牧・長久手の戦いの記録では合戦時のルールとして、総大将(この場合は徳川家康)から敵の人数を聞かれてら実際よりも半分の数で答える事になっている。逆に味方の数を聞かれたら実際の数よりも盛りに盛って報告する事になっている。これは味方の士気を高める事が目的。総大将はこれを考慮して報告を受ける。
日本の歴史は 嘘ばっかり(笑) 総動員数10万とか20万とか(笑) 誰が数えたんだョ。
領地から戦場までの距離と、農業が忙しい時期か暇な時期かでも大分違うぞ。
食料とか物資が絶対足りないだろって突っ込みたくなるよな
ほんと、それ。ましてや、現地調達な状態で、10万はおろか、1万でもおいそれと食料が手に入る訳が無い。守る側も攻める側も実数を盛るに決まっている。それだって情報戦なんだからね。
兵力といってもみんながみんな戦闘要因ではないとして、兵力が戦に連れて行かれた総数ならあながち間違ってないのかも
長島一向一揆の織田12万一揆軍10万はガチらしい。遠征ではないので補給線短くて織田軍がガチ動員かければ有り得る数値。
信長軍は兎も角、一揆勢はどうだろ?おそらく最初は最大で5万くらい居たんじゃなかろうかそんで持って織田との戦いで徐々にすり潰されていって、最後は生き残ってた3万人を焼き討ち根切りやで10万も居たなら残りの7万の一揆勢は煙の如く何処かに消えた事になっちゃうぜ
逃亡したり餓◯したりキャンプファイヤーの薪になったんでしょ、知らんけど
長篠の戦の鉄砲三千丁って、「千丁」の上に「三」を付け足したって何かで見た・・・小瀬甫庵だったかな?まぁ、面白くするとかいろいろな理由で兵数だの色々と改ざんしちゃうんだろうな
戦に勝つと自分たちの兵数は家中の者だけカウント敵は非戦闘員の輸送部隊までカウントし○倍の敵に勝利したと後世に大見得。というか、戦国時代は虐○した非戦闘員の首を敵兵の首と偽って提出する偽首が横行してたから提出された首の数が実際の敵軍の数より多いなんて事もあったんじゃないの。
戦国時代と同時期におけるウィーン包囲戦におけるオスマン軍10万とかカザン包囲戦におけるロシア軍15万、テノチティトラン包囲戦におけるスペイン連合軍20万ってのは妥当なのか誇張なのか?
ヨーロッパは前線に出ない後方部隊(炊事や設営などの補給部隊)を含めての事が多いから実際に前線で戦った兵力は少ないらしいね。当時の人口比率を考えれば、ヨーロッパも嘘八百は明白。
当時のオスマン帝国の版図を考えるとウイーン包囲における。オスマン帝国軍10万、神聖同盟軍五万は実数に近いのでは?スペインは怪しいけど。ロシアはウズベク汗時代のジョチウルスの総兵力が20万なんで雷帝時代のモスクワの質を問わずに総力を上げて集めたらそれぐらいは集められるかも?南米はわからん。
麦は化学肥料無いと反収が少ないから人口はそこまで居ない筈 かなり盛ってる
中国の歴史書は兵力を10倍に盛るのがデフォだったらしいですから日本も盛っていたんじゃないかなと思います。
ヨーロッパとかもだよねペルシア軍30万人にギリシア都市国家は勝ちました!アレキサンダーもスパルタも絶対盛ってる
日本の太平記の兵力も大概に おかしい80万騎だとか 700騎で 5万の軍勢を撃破だとか
マジ?項羽が秦の無礼者を20万人石で押し潰したのも?ちなみにナチスの穴掘りうつぶせ射殺重ねの死体積み木みたいなののあれも嘘なの?
つまり百人力は五人力くらいか一騎当千で十人相手くらいか月収8万円で月収100万よって言うようなもんね
ガウガメラでのマケドニア軍4万ペルシア軍20万はペルシア帝国の本国での防衛戦なので実数に近いかと。ペルシア戦争末期のプラタイアでのスパルタ軍はスパルタ市民だけではなくペリオリコイまで入れて一万でペルシア軍は版図のエジプトやインドの兵まで入れて20万ですから古代の兵数は案外実数に近かったのでは。
豊臣~江戸初期の石高と軍役から基本数を計算するのが、まあ実数に近いはず。
そう思いたいけど石高を盛るバカがいるから困る 島原の乱は検地でマシマシにして重税搾り取ってるのが原因江戸時代も検地の数字を表高 実際を実高と呼び分けているぐらいに盛られてたり、減らしてたりする
閑散期のアルバイト兼体の良い口減らしとして戦争ってちょうどいいのかもね。攻められる方はたまったものではないが。
何年も前から軍資金を貯金して動員する場合と毎年大動員している場合と事情は違う。
馬一頭に 兵力5名 騎手(殿様)1名 口取り1名 槍持ち1名 (旗持つ身分ならば)旗持ち1名 葛持ち1名 が建前上の差し出し兵力 しかし 旗持ち葛持ちは非戦闘と思う
うん、三国志よりかはまし'`,、('∀`) '`,、
昔から気になっている内容でした。
だから江戸時代の創作物ではなく一次史料に当たろうねってことかな?
スペインとかの外国勢力が戦国時代の日本侵略諦めてるからまぁまぁの軍はいたと思うがな。
鎌倉時代は確実に盛ってたなってのが分かるが、室町中期までは盛ったり盛らなかったりって感じで段々実数に近づいていってる感じがするそれでも大規模合戦の死傷者〇〇人は多少盛ってるのは常識として見なきゃならん
鎌倉幕府は奥州に80万騎で攻め込んだらしいぞ
その辺「飛騨の関ヶ原」すごいよな。1000対500だっけ。
ビーバップで俺には100万の兵隊がいるというようなもん
畿内は割と集められたんじゃねえかなって思ってる
人が集まるからね。三好とかも六万動員できたとか一次資料にあるし畿内の動員力は高いと思う
@@味噌食いてぇ畠山なんかも支配領域が河内紀伊の一部である割には人数集めて来ますからねえ(まぁ協力勢力がありますが
織田も港での貿易の収入があるのと、交通の要所で流人が集まりやすいので金をばら撒けば結構人員は集められたのでは?という説もありますね
赤壁の曹操軍100万とかな
自分は、公表より10分の1かなぁと思っています。1000人でも大群に見えるし、万なんて一つの町を動かしているのだから非現実、だから万といったら1000人、千と言ったら100人ぐらいだと思う。だいたい、兵糧や武具(この時代、相当高価)が追いつかない。
狭い日本なら、逆に1万人規模の進軍は容易だと思うぞ。
このスレのやり取りは、歴史板?戦国板? 俺も参戦してボコボコにされたい
面白いスレだった。例えば桶狭間時今川は2.5万の大軍を率いていたというが、駿遠三の石高的におそらく誇張されたものだろう。防衛戦ならともかく、遠征なのだから。
東海道の陸路と海路で経済力はあったから、石高以上の国力があった
大規模合戦に最適なのは、今の暦なら10月から11月だな。もう稲刈りも終わってるから。
平野がない日本で万単位で展開できるの?幕末なんて数百単位で戦闘してるし
基本的に薪の問題で山はどこもはげ山で森はない(今の森林のほとんどは明治以降に植林し伐採を禁止した結果により生まれたもの)。平野部は前述の薪の問題と治水の問題で開墾は進んでおらず町も少ない。今よりも開けた場所はそれなりにはあった。
正確な所は分からない、盛ったり、減らしたりしたのは、確実たが、遠征と迎え討つ側では、多少はってのは有るけれども、
補助兵員(兵糧運びや設営隊など)や領地内での国人衆の派遣数が信用度合いによって増減するし…まぁ、信用得ようと多く出す方もそうでないのもで、250人は中央値なんじゃないの。
それに農期によっては動員数に違いがあるのは有名だよね。家臣団とお抱え侍を増やすには、豊富な資金源が必須。楽市楽座や商業経済活性化を頻繁に行った機内から中京近辺は石高多いのも納得…している脳内w
小早川秀秋の15000人も多すぎるとおもう
三国志なんて何十倍になるぞ
赤壁の戦い曹操軍150万の大軍!←😅孫権軍約5万!←!?!?!?wwwwwww
関ヶ原の時には福島正則とか、他の家の軍勢が半分近くいるのだが。勝手に徳川軍に入れられてるな。
江戸時代の幕府が定めた軍役規定が、知行高1万石について人数235人(藩は1万石につき300人)というもので参勤交代の人員のもとにされていたので、これらを参考にした日本の旧参謀本部が「1万石に付き250人(便宜上の数字)」を出して戦国時代や安土桃山時代においても用いており、現在の歴史学者もこれを利用することが多いんやで。
鉄砲の普及率によって動員兵力が増えていった感じもあるから、扱いやすい武器が広まった事も大きいと思う。
遠征する場合、例えば兵糧にしても自国から全て輸送するわけじゃなくて敵地で略奪するのが前提だから、どれだけ略奪できるかも見込んで動員を決めていたのでしょうね。
8:38戦乱が全国的に常態化すると「田畑を荒らされて営農出来なくなった百姓」や「居住地が荒廃して失業した町人」が多数浮浪化し、勿論彼らは普段は『戦闘員』としてカウントされていないものの、合戦の際には雇われて足軽(戦闘員)に早変わり
太平記の数の盛り方はやべえわ
千早城攻めの幕府方80万、湊川の足利方が50万でしたっけ。
子供の頃これを信じていたので「元寇で10数万」と言われても、「九州だけで武士が50万もいるのに、どうして国家の危機?」と思っていました。
@@竜涎香-g9o 千早城攻めはまさかの幕府方200万です笑笑
その当時の日本全体(蝦夷地、琉球除く)の人口が1000万人程度ですから、一つの城を攻めるために、その5分の1の人口が動員されたことになってしまいます笑
小田原北条氏は本当記録残しすぎ
動員兵数は自国の国力を示すので、政治的外交的にも誇張するのは、当時の大名としては当たり前の事のよう。下手に実数を明かすと味方の士気にも影響及ぼすし、離反する国衆も出てくる。三倍とか、十倍くらい誇張もざららしい。
ただ、戦死者数に関しては実数に近いらしい。だから歴史家や戦史研究家は死者数などを大いに参考にして動員可能数を予想する。実際は、さらに逃亡者なども出てくるからそれでも正確ではないらしいが。
徳川家家臣の松井松平家にある小牧・長久手の戦いの記録では合戦時のルールとして、総大将(この場合は徳川家康)から敵の人数を聞かれてら実際よりも半分の数で答える事になっている。
逆に味方の数を聞かれたら実際の数よりも盛りに盛って報告する事になっている。
これは味方の士気を高める事が目的。総大将はこれを考慮して報告を受ける。
日本の歴史は 嘘ばっかり(笑) 総動員数10万とか20万とか(笑) 誰が数えたんだョ。
領地から戦場までの距離と、農業が忙しい時期か暇な時期かでも大分違うぞ。
食料とか物資が絶対足りないだろって突っ込みたくなるよな
ほんと、それ。
ましてや、現地調達な状態で、10万はおろか、1万でもおいそれと食料が手に入る訳が無い。
守る側も攻める側も実数を盛るに決まっている。
それだって情報戦なんだからね。
兵力といってもみんながみんな戦闘要因ではないとして、兵力が戦に連れて行かれた総数ならあながち間違ってないのかも
長島一向一揆の織田12万一揆軍10万はガチらしい。
遠征ではないので補給線短くて織田軍がガチ動員かければ有り得る数値。
信長軍は兎も角、一揆勢はどうだろ?
おそらく最初は最大で5万くらい居たんじゃなかろうか
そんで持って織田との戦いで徐々にすり潰されていって、最後は生き残ってた3万人を焼き討ち根切りやで
10万も居たなら残りの7万の一揆勢は煙の如く何処かに消えた事になっちゃうぜ
逃亡したり餓◯したりキャンプファイヤーの薪になったんでしょ、知らんけど
長篠の戦の鉄砲三千丁って、「千丁」の上に「三」を付け足したって何かで見た・・・小瀬甫庵だったかな?
まぁ、面白くするとかいろいろな理由で兵数だの色々と改ざんしちゃうんだろうな
戦に勝つと自分たちの兵数は家中の者だけカウント
敵は非戦闘員の輸送部隊までカウントし
○倍の敵に勝利したと後世に大見得。
というか、戦国時代は虐○した非戦闘員の首を
敵兵の首と偽って提出する偽首が横行してたから
提出された首の数が実際の敵軍の数より多い
なんて事もあったんじゃないの。
戦国時代と同時期におけるウィーン包囲戦におけるオスマン軍10万とかカザン包囲戦におけるロシア軍15万、テノチティトラン包囲戦におけるスペイン連合軍20万ってのは妥当なのか誇張なのか?
ヨーロッパは前線に出ない後方部隊(炊事や設営などの補給部隊)を含めての事が多いから実際に前線で戦った兵力は少ないらしいね。当時の人口比率を考えれば、ヨーロッパも嘘八百は明白。
当時のオスマン帝国の版図を考えるとウイーン包囲における。オスマン帝国軍10万、神聖同盟軍五万は実数に近いのでは?スペインは怪しいけど。ロシアはウズベク汗時代のジョチウルスの総兵力が20万なんで雷帝時代のモスクワの質を問わずに総力を上げて集めたらそれぐらいは集められるかも?
南米はわからん。
麦は化学肥料無いと反収が少ないから人口はそこまで居ない筈 かなり盛ってる
中国の歴史書は兵力を10倍に盛るのがデフォだったらしいですから日本も盛っていたんじゃないかなと思います。
ヨーロッパとかもだよねペルシア軍30万人にギリシア都市国家は勝ちました!
アレキサンダーもスパルタも絶対盛ってる
日本の太平記の兵力も大概に おかしい
80万騎だとか 700騎で 5万の軍勢を撃破だとか
マジ?
項羽が秦の無礼者を20万人石で押し潰したのも?
ちなみにナチスの
穴掘りうつぶせ射殺重ねの死体積み木みたいなののあれも
嘘なの?
つまり百人力は
五人力くらいか
一騎当千で十人相手くらいか
月収8万円で
月収100万よって言うようなもんね
ガウガメラでのマケドニア軍4万ペルシア軍20万はペルシア帝国の本国での防衛戦なので実数に近いかと。
ペルシア戦争末期のプラタイアでのスパルタ軍はスパルタ市民だけではなくペリオリコイまで入れて一万でペルシア軍は版図のエジプトやインドの兵まで入れて20万ですから古代の兵数は案外実数に近かったのでは。
豊臣~江戸初期の石高と軍役から基本数を計算するのが、まあ実数に近いはず。
そう思いたいけど石高を盛るバカがいるから困る 島原の乱は検地でマシマシにして重税搾り取ってるのが原因
江戸時代も検地の数字を表高 実際を実高と呼び分けているぐらいに盛られてたり、減らしてたりする
閑散期のアルバイト兼体の良い口減らしとして戦争ってちょうどいいのかもね。
攻められる方はたまったものではないが。
何年も前から軍資金を貯金して動員する場合と毎年大動員している場合と事情は違う。
馬一頭に 兵力5名 騎手(殿様)1名 口取り1名 槍持ち1名 (旗持つ身分ならば)旗持ち1名 葛持ち1名 が建前上の差し出し兵力 しかし 旗持ち葛持ちは非戦闘と思う
うん、三国志よりかはまし'`,、('∀`) '`,、
昔から気になっている内容でした。
だから江戸時代の創作物ではなく一次史料に当たろうねってことかな?
スペインとかの外国勢力が戦国時代の日本侵略諦めてるからまぁまぁの軍はいたと思うがな。
鎌倉時代は確実に盛ってたなってのが分かるが、室町中期までは盛ったり盛らなかったりって感じで段々実数に近づいていってる感じがする
それでも大規模合戦の死傷者〇〇人は多少盛ってるのは常識として見なきゃならん
鎌倉幕府は奥州に80万騎で攻め込んだらしいぞ
その辺「飛騨の関ヶ原」すごいよな。1000対500だっけ。
ビーバップで俺には100万の兵隊がいるというようなもん
畿内は割と集められたんじゃねえかなって思ってる
人が集まるからね。三好とかも六万動員できたとか一次資料にあるし畿内の動員力は高いと思う
@@味噌食いてぇ畠山なんかも支配領域が河内紀伊の一部である割には人数集めて来ますからねえ(まぁ協力勢力がありますが
織田も港での貿易の収入があるのと、交通の要所で流人が集まりやすいので
金をばら撒けば結構人員は集められたのでは?という説もありますね
赤壁の曹操軍100万とかな
自分は、公表より10分の1かなぁと思っています。1000人でも大群に見えるし、万なんて一つの町を動かしているのだから非現実、だから万といったら1000人、千と言ったら100人ぐらいだと思う。だいたい、兵糧や武具(この時代、相当高価)が追いつかない。
狭い日本なら、逆に1万人規模の進軍は容易だと思うぞ。
このスレのやり取りは、歴史板?戦国板? 俺も参戦してボコボコにされたい
面白いスレだった。
例えば桶狭間時今川は2.5万の大軍を率いていたというが、駿遠三の石高的におそらく誇張されたものだろう。
防衛戦ならともかく、遠征なのだから。
東海道の陸路と海路で経済力はあったから、石高以上の国力があった
大規模合戦に最適なのは、今の暦なら10月から11月だな。もう稲刈りも終わってるから。
平野がない日本で万単位で展開できるの?
幕末なんて数百単位で戦闘してるし
基本的に薪の問題で山はどこもはげ山で森はない(今の森林のほとんどは明治以降に植林し伐採を禁止した結果により生まれたもの)。平野部は前述の薪の問題と治水の問題で開墾は進んでおらず町も少ない。
今よりも開けた場所はそれなりにはあった。
正確な所は分からない、盛ったり、減らしたりしたのは、確実たが、遠征と迎え討つ側では、多少はってのは有るけれども、
補助兵員(兵糧運びや設営隊など)や領地内での国人衆の派遣数が信用度合いによって増減するし…まぁ、信用得ようと多く出す方もそうでないのもで、250人は中央値なんじゃないの。
それに農期によっては動員数に違いがあるのは有名だよね。
家臣団とお抱え侍を増やすには、豊富な資金源が必須。
楽市楽座や商業経済活性化を頻繁に行った機内から中京近辺は石高多いのも納得…している脳内w
小早川秀秋の15000人も多すぎるとおもう
三国志なんて何十倍になるぞ
赤壁の戦い
曹操軍150万の大軍!←😅
孫権軍約5万!←!?!?!?wwwwwww
関ヶ原の時には福島正則とか、他の家の軍勢が半分近くいるのだが。勝手に徳川軍に入れられてるな。