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武田信玄は補給部隊を囮にして突出してきた敵部隊を狙うって戦術が良く見られると思う
正面を向き合って戦うと、ほとんど死傷者は出ない。 正面と側面攻撃を同時に受けてはじめて死傷者がで始める。 陣形とはいかに敵の側面を効率よく突けるかが鍵になる。 前から攻撃される分には効果が薄い。 横槍をいかにいれるかが合戦の課題。
戦は高い所から陣取ることが多いから馬乗者は指揮者に限られてるんじゃない?周りの状況みないといけないし突撃や退却のタイミングも判断しないといけないからね騎馬隊もいたと思うけどいっぱいだと高所からは気付きやすいし音で気付かれる当時の馬なんてポニーより大きい程度らしいし
西洋の騎馬は大型で重装備にて職業軍人である騎士がある程度数を揃って平地にて突撃陣形でやって出来る。日本では地形に起伏が激しいし、馬が小型。
いうて戦国時代の合戦や戦法なんてほとんどが後世の創作とは思っているけど、島津家だけは敵の大将クラスを討ち取る確率が異様に高いのでなんかガチ感がある
家久の戦績ばけもん
今回は 『戦国時代の戦術・戦略について騙ろう』 、、、という回ですか
派手な作戦や戦術はだいたい後世の創作って話になっちゃうのよね
島津の釣り野伏せにしても、捨てがまりにしても、「屈強かつ死を恐れない」から強いだけだと思っています。本当の命令のように動かして捨て駒に使う。命を落としてもいい殿。徳川家もそりゃビックリしたでしょ。
釣り野伏せも捨てがまりも実態が怪しいという話もあるそうな
島津の話は江戸後期に急に生えてきたものばっかりだからあんまり間に受けないほうがいいよ。釣りの伏せもステがまりも現実には役に立った記録がなくて、それは「人数差で押し切られたから」ってことになってるけど、なぜか少なかったはずの選抜隊に負けたのすら人数がーって言い訳してるしね。
釣り野伏せはどこも似たようなことはやっているし、捨てがまりは部下への配慮で常套戦術にしてたとは思えないけど、島津家に死を恐れない異様な突撃能力だけはあったように思える。戦果にこれがないと説明がつかない。
@@くるわたろう 沖田畷は間違いなくそれでしょうね
そもそも複雑な戦術を実行するためには訓練と実戦が必要になる。常備軍により訓練の回数を増やし、経済力によって兵力を増やした信長が急速に伸長したのは必然だったのだろう。
手取川の戦いで柴田勝家を上杉謙信が打ち破ったけれど、関東でも北条氏を対象に同じ戦略を練っていた。小田氏治を攻め北条氏に救援を出させ利根川を渡らせて退路を断ち一気に攻めるというもので、北条氏は佐竹義重を坂東太郎(利根川のこと)はおそろしいのうwなどとしからかっていた小田氏治は戦国最弱なんて言われているけど上杉、佐竹と組んで北条氏を誘引しようとたくらんだ結果であり、上杉謙信は唐沢山城で同じことしてるよね佐竹義重は鬼義重とよばれ、北条方の武士を一瞬で数名切り伏せたといわれるがかなり怒りっぽい性格で、これも本拠地から誘引するための挑発かもしれないです挑発して怒らせて利根川を渡らせたうえで、伊達政宗と連携し背後を襲うという戦略でしょう。かめわり柴田は手取川を渡り背水の陣を引いてしまったってことですね。七尾城を上杉謙信が攻めたのは、小田氏治を攻めたときとそっくりです
捨てガマリという戦法は、関ヶ原での島津の退き口でしか資料にないと読んだことがある。長距離を文字通り必死で走って、力尽きた兵士が自発的に居残り、最後の力を振り絞ったという説が有力に思う。
騎馬関連で西洋ではどうの言ってるのがいたが、西洋でもこの時代にはもう馬首揃えての突撃は既に廃れてる騎馬民族の侵出が昔から多いのでその対策として長柄(ハルバート)での馬の脚刈り戦術が確立している事やそもそも西洋でも騎馬兵になるのは指揮官クラスだし、馬は重要な財産だしで失うリスクが大きすぎる事そもそもアジアと違って合戦の参加人数がそもそも少ないこと等で実戦での騎馬突撃は廃れ代わりに騎士同士での競技としての騎馬突撃(トーナメント)に変わって行った更にこの頃になるとアラブ馬等の大型品種が入ってきて、その改良も行われ始めているため馬自体も日本とはだいぶ違うその状況で西洋はこうだから、は通じないんだよな
車掛りの陣も甲陽軍鑑にしか出てないんじゃなかったっけ?行軍隊形のまま霧の中から次々に出てくる上杉軍を見て、武田軍が「あれが噂に聞く車掛りの陣だ」と勘違いしたものかと。
鉄砲騎馬隊。銃声で騎乗してる馬がパニクリそうだな。
仔馬の頃から何度も銃声を効かせて、ある程度慣らすことは出来たようです。
長篠の戦いで討ち死にした武将って脳筋かつ信玄信者の古参ばかりなので取った戦法も古かったんじゃないの?
戦略面でも戦術面でも必敗の状態で開戦してるから、古参が信玄の基本思想の「戦う前に勝て」を守ってないぞ。どう考えてもボコボコにされるはずなのにそれなりに織田側に被害出てるあたり、実際強かったのだろう。
長篠は戦わなくともジリ貧だから野戦に勝利して血路を切り開くしかなかったんやろなぁ
@@matukawatositaneせやなそもそも野戦築城、そして守備主体の戦場で相手に攻撃をさせるように誘引した織田、徳川軍を褒めるべきだと思う
その時代の馬っポニーぐらいの大きさだっけ?
車がかりって、テーベ軍の斜線陣みたいなもんか?
武田信玄は補給部隊を囮にして突出してきた敵部隊を狙うって戦術が良く見られると思う
正面を向き合って戦うと、ほとんど死傷者は出ない。 正面と側面攻撃を同時に受けてはじめて死傷者がで始める。 陣形とはいかに敵の側面を効率よく突けるかが鍵になる。 前から攻撃される分には効果が薄い。 横槍をいかにいれるかが合戦の課題。
戦は高い所から陣取ることが多いから
馬乗者は指揮者に限られてるんじゃない?
周りの状況みないといけないし
突撃や退却のタイミングも判断しないといけないからね
騎馬隊もいたと思うけどいっぱいだと
高所からは気付きやすいし音で気付かれる
当時の馬なんてポニーより大きい程度らしいし
西洋の騎馬は大型で重装備にて職業軍人である騎士がある程度数を揃って平地にて突撃陣形でやって出来る。日本では地形に起伏が激しいし、馬が小型。
いうて戦国時代の合戦や戦法なんてほとんどが後世の創作とは思っているけど、
島津家だけは敵の大将クラスを討ち取る確率が異様に高いのでなんかガチ感がある
家久の戦績ばけもん
今回は 『戦国時代の戦術・戦略について騙ろう』 、、、という回ですか
派手な作戦や戦術はだいたい後世の創作って話になっちゃうのよね
島津の釣り野伏せにしても、捨てがまりにしても、「屈強かつ死を恐れない」から強いだけだと思っています。
本当の命令のように動かして捨て駒に使う。命を落としてもいい殿。徳川家もそりゃビックリしたでしょ。
釣り野伏せも捨てがまりも実態が怪しいという話もあるそうな
島津の話は江戸後期に急に生えてきたものばっかりだからあんまり間に受けないほうがいいよ。
釣りの伏せもステがまりも現実には役に立った記録がなくて、それは「人数差で押し切られたから」ってことになってるけど、なぜか少なかったはずの選抜隊に負けたのすら人数がーって言い訳してるしね。
釣り野伏せはどこも似たようなことはやっているし、捨てがまりは部下への配慮で常套戦術にしてたとは思えないけど、島津家に死を恐れない異様な突撃能力だけはあったように思える。戦果にこれがないと説明がつかない。
@@くるわたろう 沖田畷は間違いなくそれでしょうね
そもそも複雑な戦術を実行するためには訓練と実戦が必要になる。常備軍により訓練の回数を増やし、経済力によって兵力を増やした信長が急速に伸長したのは必然だったのだろう。
手取川の戦いで柴田勝家を上杉謙信が打ち破ったけれど、関東でも北条氏を対象に同じ戦略を練っていた。小田氏治を攻め北条氏に救援を出させ利根川を渡らせて退路を断ち一気に攻めるというもので、北条氏は佐竹義重を坂東太郎(利根川のこと)はおそろしいのうwなどとしからかっていた
小田氏治は戦国最弱なんて言われているけど上杉、佐竹と組んで北条氏を誘引しようとたくらんだ結果であり、上杉謙信は唐沢山城で同じことしてるよね
佐竹義重は鬼義重とよばれ、北条方の武士を一瞬で数名切り伏せたといわれるがかなり怒りっぽい性格で、これも本拠地から誘引するための挑発かもしれないです
挑発して怒らせて利根川を渡らせたうえで、伊達政宗と連携し背後を襲うという戦略でしょう。
かめわり柴田は手取川を渡り背水の陣を引いてしまったってことですね。七尾城を上杉謙信が攻めたのは、小田氏治を攻めたときとそっくりです
捨てガマリという戦法は、関ヶ原での島津の退き口でしか資料にないと読んだことがある。
長距離を文字通り必死で走って、力尽きた兵士が自発的に居残り、最後の力を振り絞ったという説が有力に思う。
騎馬関連で西洋ではどうの言ってるのがいたが、西洋でもこの時代にはもう馬首揃えての突撃は既に廃れてる
騎馬民族の侵出が昔から多いのでその対策として長柄(ハルバート)での馬の脚刈り戦術が確立している事や
そもそも西洋でも騎馬兵になるのは指揮官クラスだし、馬は重要な財産だしで失うリスクが大きすぎる事
そもそもアジアと違って合戦の参加人数がそもそも少ないこと等で実戦での騎馬突撃は廃れ
代わりに騎士同士での競技としての騎馬突撃(トーナメント)に変わって行った
更にこの頃になるとアラブ馬等の大型品種が入ってきて、その改良も行われ始めているため馬自体も日本とはだいぶ違う
その状況で西洋はこうだから、は通じないんだよな
車掛りの陣も甲陽軍鑑にしか出てないんじゃなかったっけ?
行軍隊形のまま霧の中から次々に出てくる上杉軍を見て、武田軍が「あれが噂に聞く車掛りの陣だ」と勘違いしたものかと。
鉄砲騎馬隊。銃声で騎乗してる馬がパニクリそうだな。
仔馬の頃から何度も銃声を効かせて、ある程度慣らすことは出来たようです。
長篠の戦いで討ち死にした武将って脳筋かつ信玄信者の古参ばかりなので取った戦法も古かったんじゃないの?
戦略面でも戦術面でも必敗の状態で開戦してるから、古参が信玄の基本思想の「戦う前に勝て」を守ってないぞ。
どう考えてもボコボコにされるはずなのにそれなりに織田側に被害出てるあたり、実際強かったのだろう。
長篠は戦わなくともジリ貧だから野戦に勝利して血路を切り開くしかなかったんやろなぁ
@@matukawatositane
せやな
そもそも野戦築城、そして守備主体の戦場で相手に攻撃をさせるように誘引した織田、徳川軍を褒めるべきだと思う
その時代の馬っポニーぐらいの大きさだっけ?
車がかりって、テーベ軍の斜線陣みたいなもんか?