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この動画は何回も見ちゃう。すさまじく憧憬が深い。本買って読もう
久しぶりに他人と対話しているような充足感を得られました。昔は音楽を聴きお酒を嗜みながらこういう話が出来たのに、今はほぼ不可能ですね。大人向けの有意義な動画、貴重です。ありがとうございます!
日常的に対話ができたら、心が満たされる人はとても増えるのではと思いました。結果、心を病む人も減り、働ける人が増えたり、社内のコミュニケーションがうまくいって生産性が上がったりしていくことに繋がったり、活力ある国になりそう✨️飲み込むくせは、子どもの頃から植え付けられてしまっているものなので、そこを変えていく必要があると思います。多くの「先生」と呼ばれる方々には、「対話」をぜひ意識していただきたいと思いました。
1から3は納得したけど、4「変わろうとする」ってのはちょっと難しいな。その人の話を聞いてみて「あっ、自分もちょっと変わりたい」って思えたらそれはあってもいいかもしれないけど。他者との対話を介した「変わろうとする」ってそんな簡単にできることではないと思う。多少できても少しづつ時間をかけて醸成されていくものだし、あくまでも自発的かつ内向的なものだと思う。もし4のようなものがあったとしたら、相手の話していることをいったん受け止めて吟味して…そういえばあの時話したあの事なんだけど俺はこう思うみたいに何日かあるいは何年か越しの遠い残響ようなものかもしれない。
まず自分自身と対話できないと、他人とそうするのは難しい。必要を感じないので。
無意識にずっとやってた事だ😮単純にその人の人生に有った昔の話が好きで聞いていただけなんだけど、こういうのが対話になるのかな?
普段、他人を知りたいと思って話してないかもなあ、対話はしていない。でもそれは知りたいと思う他人がいないだけなのか、自分が他人に興味がないだけなのか
素人と玄人の水平的な議論ができるように心がけておられるとのことなのですが、近代の理論構造空間での理論的な確信や正しさは、玄人であれば二種類の方向から得ていると私は今思いついたのですが、一つは実技的な経験的に、一つは学習的な反復によって、その確信、正しさを得ているわけですが、素人の場合はその正しさが形成されていないということが言え、その正しさが形成されている玄人とされていない素人が水平に話し合う時に、前提となっている正しさを排除して素人との対話に向き合うというようなお話であったかと思うのですが、その対話をする以前に何を目的としているのかが問われるべきで、例えば素人の場合は、その対話する議題の現在の到達点や学術経験的なものを求めてきているのに、それらを放棄して素人目線で対話をした場合、素人から見たらその対話には魅力が無いということになりますよね。村であろうムラであろうと欧米であろうと日本であろうと、マナーと権力の行使など、一定の境界が前提として成り立っているのが集合体で、その範囲を逸脱したと決定するのは個々人の感性に寄りますが、国家権力などを行使するかどうかは公的なプロセスを踏ん出からのはずであって、その公的なプロセスが一部のムラなりに依存した形で行使されるような社会では、対話は意味を持たなくなりますよね。いざとなれば対話を放棄して権力を行使するのだから、対話の前提となる魅力が失われるということだからです。この配信とあまり関係がない話になりましたが、対話自体が目的なのだとしてすらも、対話そのものの魅力や価値のようなものが失われる状態は当然、対話が減る状態であろうという話をしてみましたが、なんか、統制社会が衰退する状態に似ているなど見えてきてとても面白いお話でした。
暴投してますね。
対話と言う形だと思考が働くような気がするんですが?日本人はユングタイプ論では論理的思考が下手のようですが対話と言う形なら思考的に考えるようになると思うのですが?
この動画は何回も見ちゃう。すさまじく憧憬が深い。本買って読もう
久しぶりに他人と対話しているような充足感を得られました。昔は音楽を聴きお酒を嗜みながらこういう話が出来たのに、今はほぼ不可能ですね。
大人向けの有意義な動画、貴重です。ありがとうございます!
日常的に対話ができたら、心が満たされる人はとても増えるのではと思いました。
結果、心を病む人も減り、働ける人が増えたり、社内のコミュニケーションがうまくいって生産性が上がったりしていくことに繋がったり、活力ある国になりそう✨️
飲み込むくせは、子どもの頃から植え付けられてしまっているものなので、そこを変えていく必要があると思います。
多くの「先生」と呼ばれる方々には、「対話」をぜひ意識していただきたいと思いました。
1から3は納得したけど、4「変わろうとする」ってのはちょっと難しいな。その人の話を聞いてみて「あっ、自分もちょっと変わりたい」って思えたらそれはあってもいいかもしれないけど。他者との対話を介した「変わろうとする」ってそんな簡単にできることではないと思う。多少できても少しづつ時間をかけて醸成されていくものだし、あくまでも自発的かつ内向的なものだと思う。もし4のようなものがあったとしたら、相手の話していることをいったん受け止めて吟味して…そういえばあの時話したあの事なんだけど俺はこう思うみたいに何日かあるいは何年か越しの遠い残響ようなものかもしれない。
まず自分自身と対話できないと、他人とそうするのは難しい。必要を感じないので。
無意識にずっとやってた事だ😮
単純にその人の人生に有った昔の話が好きで聞いていただけなんだけど、こういうのが対話になるのかな?
普段、他人を知りたいと思って話してないかもなあ、対話はしていない。
でもそれは知りたいと思う他人がいないだけなのか、自分が他人に興味がないだけなのか
素人と玄人の水平的な議論ができるように心がけておられるとのことなのですが、近代の理論構造空間での理論的な確信や正しさは、玄人であれば二種類の方向から得ていると私は今思いついたのですが、一つは実技的な経験的に、一つは学習的な反復によって、その確信、正しさを得ているわけですが、素人の場合はその正しさが形成されていないということが言え、その正しさが形成されている玄人とされていない素人が水平に話し合う時に、前提となっている正しさを排除して素人との対話に向き合うというようなお話であったかと思うのですが、その対話をする以前に何を目的としているのかが問われるべきで、例えば素人の場合は、その対話する議題の現在の到達点や学術経験的なものを求めてきているのに、それらを放棄して素人目線で対話をした場合、素人から見たらその対話には魅力が無いということになりますよね。
村であろうムラであろうと欧米であろうと日本であろうと、マナーと権力の行使など、一定の境界が前提として成り立っているのが集合体で、その範囲を逸脱したと決定するのは個々人の感性に寄りますが、国家権力などを行使するかどうかは公的なプロセスを踏ん出からのはずであって、その公的なプロセスが一部のムラなりに依存した形で行使されるような社会では、対話は意味を持たなくなりますよね。いざとなれば対話を放棄して権力を行使するのだから、対話の前提となる魅力が失われるということだからです。
この配信とあまり関係がない話になりましたが、対話自体が目的なのだとしてすらも、対話そのものの魅力や価値のようなものが失われる状態は当然、対話が減る状態であろうという話をしてみましたが、なんか、統制社会が衰退する状態に似ているなど見えてきてとても面白いお話でした。
暴投してますね。
対話と言う形だと思考が働くような気がするんですが?日本人はユングタイプ論では論理的思考が下手のようですが対話と言う形なら思考的に考えるようになると思うのですが?