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昭和60年3月ダイヤ改正の動画、ありがとうございます。当時運行終了となる列車に乗りに出かけました。切符とかは自宅にあるので、間違いがあるかもしれませんが、3月9日東京から大垣夜行、翌10日名古屋から急行紀州1号、新宮から急行きのくに28号、京都から山陰号B寝台オハネフ12、11日米子か鳥取で宿泊、大社線と倉吉線にも乗って、上り山陰号で13日朝京都、米原経由で419系や475系普通列車を乗り継いで、富山港線を旧型国電73系で往復、その後直江津から長野へ出て、最終運行となる18時30分中央本線の上り夜行普通電車442M。夜行区間はガラガラでしたが、新宿寄りクモハ115の運転台直後のロングシートで、力行時やトンネル区間のクモニ83ツリカケ音を聞きながら新宿に戻りました。上越線の急行佐渡や東北本線の急行まつしま、なども乗りたかったですが、当時高校生でしたので、難しかったです。
13日の朝の山陰号だと、この写真の時間に近いですね。おそらく321→326→835の写真と思います。京都駅到着後入れ替わりで発車する833レ浜田行きの最終を見送られたということですね!
動画全然関係ありませんが北のキハ40はいつまで残るのでしょうかね。どうやら今年はまだ窓全開で石北本線に乗れそうですね。
H100のハンドル訓練もあるようなので突然置き換えの可能性もありますね。この夏も行く予定にしています
この「国鉄時代」見ました。もしかしたら、旅一郎さんと旅三郎さんが写っていたりして・・・ と思いながらまだ、山陰1,山陰2のホームの情景が出ていましたね。地元の奥羽本線、五能線では前年に旧客が撤退し、東北本線には残っていたのですが、そこまでの想いはなかったです。北海道にはまだ残っていて、61年11月に廃止されるということでいよいよと思った次第です。自分にとっても旧客は心の故郷です。まだ客車列車が残っていたうちは、それほど感じたことはなかったのですが、今は普段客車列車に乗ることはできません。それどころかボックスシートさえも危うい状況で、いつまで「旅」ができるのか・・・
この時代、一年事に旧客の運用が減り、焦り出していた頃ですね。もっと早く危機感持っていれば行けた所も多かったのにと悔やみます。この写真の日、撮影の方は午前で京都を去ってますね。僕は入れ替わるように、大阪駅と京都駅で最後を見送りました。
お疲れ様です。この鉄道雑誌をネットで購入して確認しましたが、P5に、最終日(S60.3.13)の旧客の835レに荷物車等2両が京都駅山陰2番ホームで連結される写真が掲載(これにより、835レについては最後まで荷物車等2両が連結されていたことがより明確になった)されているなど当時の835レについて新たな事実が判明したりして非常に重要な内容だと思いました。また、通常は出雲市行きであった当時の山陰号に関して、最終日は米子行きであったことがこの動画から分かるとともに、動画の9:26あたりの山陰号について、私が捜した限り二条駅における12系5両バージョンの山陰号の画像はこれしかなく非常に貴重だと思いました(山陰号のブログで二次利用させていただこうと思いますのでよろしくお願いします)。また、この動画の1:22あたりの倉吉駅における当時の旧客の833レ及び別動画の京都駅山陰1番ホームにおける旧客の833レの画像は、5両編成の833レで、当時の833レが5両編成で運転される場合も多々?あったことを示す資料として重要だと思いました(私の持っている鉄道雑誌の運用表では当時の旧客の833レは4両、とのこと)(旧客の833レの画像についてもブログで二次利用させていただくかもしれませんのでよろしくお願いします)。
どうぞご利用下さい。そうやって過去を正確に記録することは必要だと思います。
@@user-tabiichiro ありがとうございます。
最近活動が無いようですが18切符シーズンまで乗り鉄しないのですか?
はい、そろそろ始動です。18きっぷが始まれば再び北海道にキハ40運用調査に行きたいと思います
この頃「中学3年」まで鉄ちゃんしてました。懐かしいです。あの時代があって今がある。
いい時代に引退を決意されたと思います。
旅一郎様、お久しぶりです。動画は毎度拝見しています。ご存知かと思いますが、大井川鐵道で定期列車を旧客で運行との事ですが、7月の運転も決まったようです。私は7月6日か7日に乗りに行こうと思います。
定期列車を旧客に置き換えるというのは急行以来ですね。6月は休みが合わなかったので見送っていますが7月は検討の余地ありですね。ありがとうございます
国鉄時代、本屋で見まして買おうかどうしょうかと思案してました。昭和60年3月のダイヤ改正はよく覚えてます。非常に懐かしく当時を思い出しました。15日がちょうど入社式で大阪・中之島へ行かないと・・と前日辺りからバタバタし緊張もしダイヤ改正(旧客運用等等)も気になるし(笑)DD54牽引旧客(播但線、伯備線)風景も好きですが、山陰本線諸寄駅付近からちらっと見える諸寄港の風景が今でも忘れられません。引続き頑張って下さいね。
ありがとうございます。雑誌「国鉄時代」は大きくて高いので普段買いませんが、この号だけは魂に電気が走ったようになり、手元に置いておきたいと思いました。引き続きよろしくお願いします
旧客といえば本日から大井川鐵道で普通定期列車として運行開始しましたね
そうですね。定期列車というのが素晴らしいですね
余談ですが、今日大阪メトロ中央線に近未来的なデザインの新型400系が運用開始しました。地下鉄車両なら少し奇抜なデザインの車両でも全然構わないのですが(地下鉄は元々近代的なイメージがあるため)、こういった山陰本線のようなローカル列車に関しては、時代の流れにより旧型国鉄車両の置き換えはやむを得ないとはいえ、もう少しシンプルなデザインで旅情味のある新型車両で置き換えて欲しいものですね。
そうですね。特に民営化後は国鉄のイメージを払拭したかったからか、無意味に奇抜なデザイン、色が採用されたように思います。デザイナーのショールームのようですね
今ドンムアン駅から国鉄線乗りました。経済的に勢いあるこの国の旧型客車もパッと消える可能性も現実味ありますね。急速に駅の改良工事進捗を見てそう感じますね
鉄道施設が完全に電車式になっていますね。郷愁の汽車はアジアからも消えてしまう日が近いですね。
旧客に吊り掛け駆動旧電に交流電機とありふれた存在で、EF58やEF15に比較しても「地方だからまだまだ使い倒すだろう」と思っていたら民営化を控えてあっと言う間に消えていきましたね。一般型客車についてはもっと深追いしても良かったかなと悔いは有りますね。
そうですね、60年までは全国区で見られたため危機感はなかったです。同様にEF58も59.2過ぎてもしばらく走っていたので、知識として置き換えはわかっていても、いざ目の前から消えないと、心に落ちない、という感覚でした
雰囲気満点の汽車の旅 もう二度と乗ることの出来ない国鉄 イベント列車は楽しむ方には宜しいでしょう 汽車旅が日常だった私にとって国鉄旅は彼方の郷愁ですね
そうですね。普段使いの汽車であることが重要ですね。僕も現役にこだわっていました。
こういう何気ない光景をもっと撮っていればなと思いますがフィルム時代はそうもいかなかったですからね
そうですね。スーパーの中にDPEができて36枚撮りプリントつきで1500円?くらいになりましたが、当時「安い」と思った値段もデジカメに比べると高いですね。フイルム代と合わせると一枚あたり50円は覚悟しなければならなかったですね。
私にとって昭和60年代は人生において大きな影響を受けた年代でした。この体験が、後になって実社会の仕事をしてる時に役に立ちました。昭和60年3月14日の国鉄北海道時刻表改正は、都市間輸送改善に力を入れて、60-3-14ダイヤ改正の北海道総局で発行された記念入場券をひと通り買いました。内容としては函館本線L特急停車記念は美唄駅と砂川駅で、各一枚130円、全特急停車記念は室蘭本線伊達紋別駅130円、特急増発記念は札幌・千歳空港・追分・新夕張・占冠の各駅130円を札幌駅限定650円、急行天北・宗谷の14系客車化記念は函館本線の札幌・岩見沢・滝川の各駅130円をそれぞれ買いました。中でも函館本線・宗谷本線・天北線の急行宗谷・天北の14系客車化は衝撃的でした。ちょうど古くなったキハ56、キハ27、キロ26を置き換えるためでした。この頃の14系は新車まではいかないものの、それでも気動車時代よりも快適で利用客からも好評を受けて、急行料金で特急列車と変わらない豪華な旅でした。特に線路状態の悪い天北線では、気動車時代には、縦揺れや横揺れが小刻みに揺れてかなり不快でした。14系になってからは気動車時代よりは改善されたものの、気動車に比べたらマシでした。客車の好きな方にとったら嬉しいダイヤ改正でした。私も、昭和60年は大好きな年で、何もかも楽しかったでした。情報をありがとうございました。
この改正の10日後、北海道に行きました。天北が客車になっているのに驚きました。目の前に止まったのが寝台車で、自由席のはずなのに回送車両が止まったと思い、わざわざ別の車両に乗りました。後で寝台車が自由席と知り、名寄?くらいから空席に移動しました。それ以降は寝台車狙いで乗っていました。
@@user-tabiichiro そうなんです。急行宗谷号・天北号は夜行急行利尻号との共通運用なので寝台車が連結されてました。最初には急行券の他にも寝台料金が発生するのかと思い乗らなかったでしたが、自由席だと分かるとお得な席なので乗るようになりました。とても乗ってもお得感がありました。
当時は40系気動車や50系客車が入ってきて地方路線の近代化を感じたのですが、それも今は昔。40系を愛おしむ時代になりましたね。
そうですね。40系、50系とも新時代を思わせました。ただ旧客と時代が被っているので、キハ40に乗っていると旧客と交換しそうにも思えます
確かにそうですね。10年間程度は被ってましたね。
さよならマークを手作りして、客車のいちばん後ろに付けたんですか、すごい❗鉄道関係者ではない一般の利用者が、こういったことできたんですね。しかも、それを見た鉄道員から、写真撮って送ってくれとのリクエストが来たとは…❗今では到底考えられない、おおらかな良い時代だったんですね😊最も、顔のない開放された旧客だからできたんでしょうけれども。
国鉄時代は現場の裁量が大きかったので、車掌に一言言えばOKでしたね。僕の他の動画にありますが車掌室からタブレット収受を撮ったり、気動車の後部ドアを開けての撮影や運転室に入れてもらうなども日常茶飯事でしたね。いまはマニュアル化が進み現場判断はできない(先の雪の山科駅で何時間も閉じ込められても、車掌は司令の命令に従わないと自身が処分される旨の発言があったと思います)そうでなくてもSNSで晒されて、善悪の判断なしに負けそうな側をバッシングする。こんな世の中では鉄道員もサービスで何かしても自信の立場が危うくなるので何もできませんね。
@@user-tabiichiro 私も、もう時効になりましたが、昭和60年代と平成一桁には、国鉄職員には北海道鉄道旅行中には大変お世話になり、旅一郎さんと同じくしてもらいました。国鉄職員は現場次第でいろいろ権限がありましたから、そのおかげで楽しい旅行でした。令和の今では、怒ると怖い国鉄職員はいなくなったものでしたが、駅員も優しくなったのはいいですけど、全て会社のコンプライアンスでがんじがらめて、いかにもマニュアルに沿って仕事をしているのは、令和時代ならではです。こっちまで刑務所みたいにがんじがらめでした。駅での撮影も、昔みたいにできず、おおらかではありません。きっぷの硬券入場券・乗車券、常備軟券は最盛期に比べると米粒程度しか無いです。なので、令和時代は嫌いなので、楽しかった昭和60年代にタイムリープして楽しんでます。令和時代には帰りたくありません。
@@真智子関川 現場の権限があって、ほんとに良くしてもらったことが多かったですね。今の撮り鉄バッシングとか、ローカル線問題への意見とか、見たくないですね。令和に戻りたくないという感覚は本当に共感できます。
@@user-tabiichiro 令和時代嫌いです。JR北海道でも、平成一桁から中頃までは国鉄時代の空気があって良かったでした。今では、廃線と廃駅の合理化問題と撮り鉄の話しはイヤになります。そして、何もかもコンプライアンス重視で、息が詰まりそうです。私も、昭和時代という楽しい時代を生きてきたので旅一浪さんと共感は持てます。
シル・ヘッダーつきの窓が旧客の証でしたね、自分は客車と言えば12系・50系しか乗ったことがないのでうらやましいです。
旧客は見るからに古そうな感じが堪りませんでした。特にリベット付きの丸妻、戦前型35系は映画の世界にいるようでした
当時 受験を控えた高校2年~3年の頃で、鉄道雑誌一冊買えずに福田山線の旧型客車列車が無くなるという噂しか知らなかったです。次に行ったら50系にしばらくして12系に代わり、電化の話が具体化し始め、気が付いたら生瀬~道場間が新線になりドクターイエローみたいな113系が試運転を開始してました。後悔しか残らないですわ。
59.2の頃までは全国どこでも走っており、創刊したばかりのレイルマガジンに「おもかけ色の汽車」として特集があり、そこでは「いまならまだ全国で走る姿が見られる」と書いてありました。それでもピンときていませんでした。59.2の後、鉄道ジャーナルに60.3以降は山陰本線の福知山以遠と函館本線だけになり、車両はスハ40系に統一されるという小さな記事があり、急に焦り出しました。
横入りして申し訳ございません。国鉄としては旧客と旧型国電を置き換えたいとこの20年近く前から思っていたのにも関わらず、かなり長引いて旧客などを残していましたよね。本来なら417系を全国区へ導入し、客車列車の早期撤退を目論んでいた昭和50年代初頭だったはずでしたが、製造コストや101系の老朽化が深刻化しててそれどころではなくなったのか結果昭和60年ぐらいまで旧客は残りましたね。旧客ファンとしては願ったり叶ったりでしたが、やはり見られず後悔残る方もいらっしゃられますよね.......。101系電車の老朽化とかなかったら、てこ入れはまず地方幹線から確実に始まってたでしょうし。
@@asokai2346 特に国鉄末期は新型車両を入れるのに苦労が見えましたね。413系にクハ455を入れたり、419系に至ってはここまでするか?と思いましたね。
@@user-tabiichiro これも全て417系高コスト問題があったと言わざる負えないと思います。これら全て417系を本州全国展開する予定だったのが、交直流両用車だったことと、空気バネ台車を用いるなど国鉄型では類を見ないほどのコストがかかる車両だったらしく、量産化すらされなかった201系電車がまだ可愛くなるレベルだと言われるぐらいですからね。417系が仮に全国展開されていたら、間違いなく419系も生まれなければ475系も普通運用に用いられずに廃車になっていたことでしょう。一番の問題は101系老朽化問題が予想より遥かに早くきてしまったことでしょうけど(これで首都圏や関西圏に201系を投入することになり地方に予算を投入できなくなったきっかけと言っていいでしょう。)
原忠史さん>ドクターイエローではなく、正確には103系が既に採用していたカナリア色に藍色の帯を追加した「初代福知山線色」です(その後1990年には2代目福知山線色、さらに2000年には3代目サンパチカラーとそれぞれ受け継がれました)。
国鉄時代!高額なんでなかなか手が出なかった(^^)ですが、これは買いたいです。アルファベータブックス社の「山陰本線」と言う書籍は買いました♪京都駅山陰線ホームの旧客はもう最高に大好きでした。特に山陰号が停車中の高揚感は忘れられません。あと急行の自由席待ちの長い列と弁当屋の声!ボックス席の窓に並ぶ食べ物!ほんと「旅」でした!
京都駅、新幹線も地下鉄もあるのに、あの一角はC57が来ても違和感なかったですね。山陰ホームと優等列車が発着する一番ホームどちらも好きでした
昭和53年に旅に出れる様になり長距離客車鈍行に異常に執着して始発駅から終着駅まで全区間乗る事を基本にしてましたが山陰本線は6時間以上どころか10時間越えの客車列車が相当な本数が運行されてましたから全区間乗車にこだわらず明るい時間帯の列車を効率的に乗り換えてました、だから最長距離の門司発福知山行き824列車は全区間乗り通しは無く最長は門司→出雲市で他は島根県と鳥取県の区間乗車ばかりでした、姉妹列車の豊岡発門司行きは区間乗車すら有りません、愛した京都907発837(のちの835)列車も大半が福知山までで最長でも倉吉まででした、山陰号の上りは全区間乗車でしたが下りは倉吉線関金行き混合列車に乗り換えるから倉吉までの乗車が多かったです、上りで好んで愛した列車は820列車と544列車ですが浜田発東舞鶴行き544列車も最長は江南→綾部の乗車でした、寝台連結夜行鈍行4本で唯一必ずニス塗り内装オハフ33やオハ35が編成に入る山陰号も好きな列車でしたね。何十と組み合わせパターンが組める福知山線と山陰本線の客車は本当に素晴らしい思い出を作ってくれたと感謝しています、上り820列車は830列車だったかも知れません駄目ですね…時間経過で記憶が薄れてしまってる事が本当に悲しい。だからこそ今の福知山を見たく無いんですよね。長文失礼しました。
ありがとうございます。53.10の時代と59.2体制では山陰本線京都口の列車番号が一つずれているので、どうだったかな?と思い53.10前と、59.2後の時刻表で比べてみました。すると僕が乗った京都発浜田行き833レは昔835レ、にも関わず豊岡発831レは昔から831レでした。833は?と思い探すと、出雲市15時前に出る長門市行きが833レから531レに改番されているのに気づきました。そのため833の番号が繰り上がったんですね。上りは824レをはじめとし、820レ、726レ、544レと有名どころは番号が変わっていなかったのでずっと感情移入できました。どうしても自分が乗っていた頃の番号がしっくりくるので、浜田行きは833、米子行きは835、山陰は829と言ってしまいますね。大垣夜行は345Mです。347Mという人もあれば375Mという人もありますが。山陰本線の列車番号は800番台を基本として、下り下関に早く到着するものから順に821、823、825となっていましたので、京都から出る列車で800番台ものははるか下関を意識した「ザ・山陰本線の列車」という感じがしましたね。
旧客時代も乗ったことがありますが、早朝の大阪発出雲市行の12系客車に私も乗ったこともあります。今走っていたら、超お宝列車ですね。京都から園部行の7両か8両編成の50系客車に乗ったことも良い思い出です。鳥取駅には今は使っているか分かりませんが、真ん中に機回し線がありますね。それと、私も1986年の時刻表を大事に持っています。
皮肉にも福知山線が12系になった後、始発の出雲市行き721レに山崎からの始発の国電でも間に合うようになりました。それで60年の12月に出雲市まで乗りました。それまでは京都始発浜田行きも間に合わず、前日から駅ネして乗っていました。
兄弟誌でしょうか、「わが国鉄時代」って本数冊持っています。蒸気機関車の写真が多くてちょっと残念(S38年生まれだから知らない)ですが、懐かしい写真が満載です。私も国鉄時代の山陰本線大好きです。福知山線も、播但線も。
同じ系統ですかね。やはり自分が生きていた時代が懐かしいですね。京都駅や姫路駅の着回し線付き行き止まりホーム、大阪駅の都会から発着する旧客。どちらも素晴らしく、これ以上感動を与えてくれる列車はありませんね。
もう30年位まえですが、在来線で東京から大阪へ向かってる時、名古屋でたまたま長野から来た宮原の165系と167系混結の臨時急行ちくまで大阪まで乗車しましたもちろん、元、修学旅行専用の167系に乗りました。😮
くろよん、ちくまは周遊券で北海道に行く時や北陸ワイドなどで乗っていました。東海道区間は急行「比叡」に乗っているようで懐かしい感じでしたね。ガラガラなのも良かったです。
長距離列車、憧れますね〜😊
やはり大阪、京都とという大ターミナルから出てこその長距離列車ですね。浜田から大阪行きの726レで、淀川鉄橋を渡り左に大きくカーブして大阪駅に進入する様子は素晴らしかったです。
サセボニアンさん>特に京都を始発・終着とする普通列車は客車であろうと気動車であろうと贅沢づくし。約20分近くで一等地ともいえる保津川沿いの景勝地に巡り合えたり、嵯峨(現在の嵯峨嵐山:正確には現在の「野々宮踏切」あたり)~綾部間で大自然を思いっきり満喫できたりと、まさに「※心の贅沢を知るこの一時」。※元ネタは1980~81年にオンエアされ、故カーク・ダグラス氏が出演していたAGFインスタントコーヒー「マキシム」CM内における「心の贅沢を知るこの一杯」で、ナレーションは故城達也氏が担当(この懐かしいCMの存在を知る人達はすべて40代以上、覚えている人達はいないかな?)。熱湯が入った超小型の魔法瓶に紙コップとスティックコーヒーの3点さえ出揃っていれば、さらなる贅沢感が味わえたにと残念でなりません。
@@rhscm989 返信ありがとうございます😊実は私、平成生まれなもので😅おそらく皆様の世代より若いかと思います。客車列車や気動車急行に憧れるのでした🙇♂️
ちょうど北陸本線・富山港線も旧型国電や旧型客車列車から急行運用から外された475系が抜擢され、北陸本線の普通列車のダイヤも客車列車から本数が多くなったように感じました。475系の普通列車運用とのことで、旧客の乗客転落防止の意味で手動ドアから自動ドアに変わったのは大きな進歩だったようですが、いくら475系であろうと急行運用してなければただの電車ですので、面白みは半減しましたね。その代わり1時間に一本来るようになったのは凄いと思いましたよ。余剰に余りまくってたんでしょうねここまで高頻度で運行できるってことは
北陸旧客は末期の米原に2往復だけになった頃に乗っただけでした。その頃の475系普通運用は6両編成くらいで快適でしたが、民営化後3両になりいつ乗っても混むなあと感じました。
旧型客車とキハ26やキハ58、キハ181までが「鉄道の醍醐味」でした。電車には、165系とて醍醐味は一切感じませんでした。今や旧型客車は、高崎と大井川だけですが、嵯峨野観光鉄道に梅小路保管のオハ46−13の連結活用を提案してますが好意的な反応はありましたよ。
電車に魅力を感じないというのはその通りでした。旧客がある頃はキハ58も見向きもしませんでした。12系や50系になって、ほんとに物足りないと感じながらズルズル続けています。嵯峨野観光鉄道に連結されたら1両でも現役時代を思い出すでしょうね。
457系が普通列車に変わった時、せっかくの3電源対応がちゃんと使えてなく普通運用に回されたのが残念でなりませんね。
@@asokai2346 北陸の475系が50Hzの乗り入れる運用ってありました?
昭和60年3月ダイヤ改正の動画、ありがとうございます。
当時運行終了となる列車に乗りに出かけました。
切符とかは自宅にあるので、間違いがあるかもしれませんが、
3月9日東京から大垣夜行、翌10日名古屋から急行紀州1号、新宮から急行きのくに28号、
京都から山陰号B寝台オハネフ12、11日米子か鳥取で宿泊、大社線と倉吉線にも乗って、
上り山陰号で13日朝京都、米原経由で419系や475系普通列車を乗り継いで、
富山港線を旧型国電73系で往復、その後直江津から長野へ出て、
最終運行となる18時30分中央本線の上り夜行普通電車442M。
夜行区間はガラガラでしたが、新宿寄りクモハ115の運転台直後のロングシートで、
力行時やトンネル区間のクモニ83ツリカケ音を聞きながら新宿に戻りました。
上越線の急行佐渡や東北本線の急行まつしま、なども乗りたかったですが、
当時高校生でしたので、難しかったです。
13日の朝の山陰号だと、この写真の時間に近いですね。
おそらく321→326→835の写真と思います。京都駅到着後入れ替わりで発車する833レ浜田行きの最終を見送られたということですね!
動画全然関係ありませんが北のキハ40はいつまで残るのでしょうかね。どうやら今年はまだ窓全開で石北本線に乗れそうですね。
H100のハンドル訓練もあるようなので突然置き換えの可能性もありますね。
この夏も行く予定にしています
この「国鉄時代」見ました。
もしかしたら、旅一郎さんと旅三郎さんが写っていたりして・・・ と思いながら
まだ、山陰1,山陰2のホームの情景が出ていましたね。
地元の奥羽本線、五能線では前年に旧客が撤退し、東北本線には残っていたのですが、そこまでの想いはなかったです。
北海道にはまだ残っていて、61年11月に廃止されるということでいよいよと思った次第です。
自分にとっても旧客は心の故郷です。
まだ客車列車が残っていたうちは、それほど感じたことはなかったのですが、今は普段客車列車に乗ることはできません。それどころかボックスシートさえも危うい状況で、いつまで「旅」ができるのか・・・
この時代、一年事に旧客の運用が減り、焦り出していた頃ですね。
もっと早く危機感持っていれば行けた所も多かったのにと悔やみます。
この写真の日、撮影の方は午前で京都を去ってますね。
僕は入れ替わるように、大阪駅と京都駅で最後を見送りました。
お疲れ様です。この鉄道雑誌をネットで購入して確認しましたが、P5に、最終日(S60.3.13)の旧客の835レに荷物車等2両が京都駅山陰2番ホームで連結される写真が掲載(これにより、835レについては最後まで荷物車等2両が連結されていたことがより明確になった)されているなど当時の835レについて新たな事実が判明したりして非常に重要な内容だと思いました。また、通常は出雲市行きであった当時の山陰号に関して、最終日は米子行きであったことがこの動画から分かるとともに、動画の9:26あたりの山陰号について、私が捜した限り二条駅における12系5両バージョンの山陰号の画像はこれしかなく非常に貴重だと思いました(山陰号のブログで二次利用させていただこうと思いますのでよろしくお願いします)。また、この動画の1:22あたりの倉吉駅における当時の旧客の833レ及び別動画の京都駅山陰1番ホームにおける旧客の833レの画像は、5両編成の833レで、当時の833レが5両編成で運転される場合も多々?あったことを示す資料として重要だと思いました(私の持っている鉄道雑誌の運用表では当時の旧客の833レは4両、とのこと)(旧客の833レの画像についてもブログで二次利用させていただくかもしれませんのでよろしくお願いします)。
どうぞご利用下さい。そうやって過去を正確に記録することは必要だと思います。
@@user-tabiichiro ありがとうございます。
最近活動が無いようですが18切符シーズンまで乗り鉄しないのですか?
はい、そろそろ始動です。18きっぷが始まれば再び北海道にキハ40運用調査に行きたいと思います
この頃「中学3年」まで鉄ちゃんしてました。懐かしいです。あの時代があって今がある。
いい時代に引退を決意されたと思います。
旅一郎様、お久しぶりです。
動画は毎度拝見しています。
ご存知かと思いますが、大井川鐵道で定期列車を旧客で運行との事ですが、7月の運転も決まったようです。
私は7月6日か7日に乗りに行こうと思います。
定期列車を旧客に置き換えるというのは急行以来ですね。
6月は休みが合わなかったので見送っていますが7月は検討の余地ありですね。ありがとうございます
国鉄時代、本屋で見まして買おうかどうしょうかと思案してました。昭和60年3月のダイヤ改正はよく覚えてます。非常に懐かしく当時を思い出しました。
15日がちょうど入社式で大阪・中之島へ行かないと・・と前日辺りからバタバタし緊張もしダイヤ改正(旧客運用等等)も気になるし(笑)
DD54牽引旧客(播但線、伯備線)風景も好きですが、山陰本線諸寄駅付近からちらっと見える諸寄港の風景が今でも忘れられません。
引続き頑張って下さいね。
ありがとうございます。
雑誌「国鉄時代」は大きくて高いので普段買いませんが、この号だけは魂に電気が走ったようになり、手元に置いておきたいと思いました。
引き続きよろしくお願いします
旧客といえば本日から大井川鐵道で普通定期列車として運行開始しましたね
そうですね。
定期列車というのが素晴らしいですね
余談ですが、今日大阪メトロ中央線に近未来的なデザインの新型400系が運用開始しました。地下鉄車両なら少し奇抜なデザインの車両でも全然構わないのですが(地下鉄は元々近代的なイメージがあるため)、こういった山陰本線のようなローカル列車に関しては、時代の流れにより旧型国鉄車両の置き換えはやむを得ないとはいえ、もう少しシンプルなデザインで旅情味のある新型車両で置き換えて欲しいものですね。
そうですね。
特に民営化後は国鉄のイメージを払拭したかったからか、無意味に奇抜なデザイン、色が採用されたように思います。デザイナーのショールームのようですね
今ドンムアン駅から国鉄線乗りました。経済的に勢いあるこの国の旧型客車もパッと消える可能性も現実味ありますね。急速に駅の改良工事進捗を見てそう感じますね
鉄道施設が完全に電車式になっていますね。
郷愁の汽車はアジアからも消えてしまう日が近いですね。
旧客に吊り掛け駆動旧電に交流電機とありふれた存在で、
EF58やEF15に比較しても「地方だからまだまだ使い倒すだろう」と思っていたら民営化を控えてあっと言う間に消えていきましたね。
一般型客車についてはもっと深追いしても良かったかなと悔いは有りますね。
そうですね、
60年までは全国区で見られたため危機感はなかったです。同様にEF58も59.2過ぎてもしばらく走っていたので、知識として置き換えはわかっていても、いざ目の前から消えないと、心に落ちない、という感覚でした
雰囲気満点の汽車の旅 もう二度と乗ることの出来ない国鉄 イベント列車は楽しむ方には宜しいでしょう 汽車旅が日常だった私にとって国鉄旅は彼方の郷愁ですね
そうですね。普段使いの汽車であることが重要ですね。
僕も現役にこだわっていました。
こういう何気ない光景をもっと撮っていればなと思いますが
フィルム時代はそうもいかなかったですからね
そうですね。スーパーの中にDPEができて36枚撮りプリントつきで1500円?くらいになりましたが、当時「安い」と思った値段もデジカメに比べると高いですね。
フイルム代と合わせると一枚あたり50円は覚悟しなければならなかったですね。
私にとって昭和60年代は人生において大きな影響を受けた年代でした。この体験が、後になって実社会の仕事をしてる時に役に立ちました。昭和60年3月14日の国鉄北海道時刻表改正は、都市間輸送改善に力を入れて、60-3-14ダイヤ改正の北海道総局で発行された記念入場券をひと通り買いました。内容としては函館本線L特急停車記念は美唄駅と砂川駅で、各一枚130円、全特急停車記念は室蘭本線伊達紋別駅130円、特急増発記念は札幌・千歳空港・追分・新夕張・占冠の各駅130円を札幌駅限定650円、急行天北・宗谷の14系客車化記念は函館本線の札幌・岩見沢・滝川の各駅130円をそれぞれ買いました。中でも函館本線・宗谷本線・天北線の急行宗谷・天北の14系客車化は衝撃的でした。ちょうど古くなったキハ56、キハ27、キロ26を置き換えるためでした。この頃の14系は新車まではいかないものの、それでも気動車時代よりも快適で利用客からも好評を受けて、急行料金で特急列車と変わらない豪華な旅でした。特に線路状態の悪い天北線では、気動車時代には、縦揺れや横揺れが小刻みに揺れてかなり不快でした。14系になってからは気動車時代よりは改善されたものの、気動車に比べたらマシでした。客車の好きな方にとったら嬉しいダイヤ改正でした。私も、昭和60年は大好きな年で、何もかも楽しかったでした。情報をありがとうございました。
この改正の10日後、北海道に行きました。
天北が客車になっているのに驚きました。
目の前に止まったのが寝台車で、自由席のはずなのに回送車両が止まったと思い、わざわざ別の車両に乗りました。
後で寝台車が自由席と知り、名寄?くらいから空席に移動しました。
それ以降は寝台車狙いで乗っていました。
@@user-tabiichiro そうなんです。急行宗谷号・天北号は夜行急行利尻号との共通運用なので寝台車が連結されてました。最初には急行券の他にも寝台料金が発生するのかと思い乗らなかったでしたが、自由席だと分かるとお得な席なので乗るようになりました。とても乗ってもお得感がありました。
当時は40系気動車や50系客車が入ってきて地方路線の近代化を感じたのですが、それも今は昔。
40系を愛おしむ時代になりましたね。
そうですね。40系、50系とも新時代を思わせました。ただ旧客と時代が被っているので、キハ40に乗っていると旧客と交換しそうにも思えます
確かにそうですね。10年間程度は被ってましたね。
さよならマークを手作りして、客車のいちばん後ろに付けたんですか、すごい❗鉄道関係者ではない一般の利用者が、こういったことできたんですね。しかも、それを見た鉄道員から、写真撮って送ってくれとのリクエストが来たとは…❗今では到底考えられない、おおらかな良い時代だったんですね😊最も、顔のない開放された旧客だからできたんでしょうけれども。
国鉄時代は現場の裁量が大きかったので、車掌に一言言えばOKでしたね。
僕の他の動画にありますが車掌室からタブレット収受を撮ったり、気動車の後部ドアを開けての撮影や運転室に入れてもらうなども日常茶飯事でしたね。
いまはマニュアル化が進み現場判断はできない(先の雪の山科駅で何時間も閉じ込められても、車掌は司令の命令に従わないと自身が処分される旨の発言があったと思います)
そうでなくてもSNSで晒されて、善悪の判断なしに負けそうな側をバッシングする。
こんな世の中では鉄道員もサービスで何かしても自信の立場が危うくなるので何もできませんね。
@@user-tabiichiro 私も、もう時効になりましたが、昭和60年代と平成一桁には、国鉄職員には北海道鉄道旅行中には大変お世話になり、旅一郎さんと同じくしてもらいました。国鉄職員は現場次第でいろいろ権限がありましたから、そのおかげで楽しい旅行でした。令和の今では、怒ると怖い国鉄職員はいなくなったものでしたが、駅員も優しくなったのはいいですけど、全て会社のコンプライアンスでがんじがらめて、いかにもマニュアルに沿って仕事をしているのは、令和時代ならではです。こっちまで刑務所みたいにがんじがらめでした。駅での撮影も、昔みたいにできず、おおらかではありません。きっぷの硬券入場券・乗車券、常備軟券は最盛期に比べると米粒程度しか無いです。なので、令和時代は嫌いなので、楽しかった昭和60年代にタイムリープして楽しんでます。令和時代には帰りたくありません。
@@真智子関川 現場の権限があって、ほんとに良くしてもらったことが多かったですね。
今の撮り鉄バッシングとか、ローカル線問題への意見とか、見たくないですね。
令和に戻りたくないという感覚は本当に共感できます。
@@user-tabiichiro 令和時代嫌いです。JR北海道でも、平成一桁から中頃までは国鉄時代の空気があって良かったでした。今では、廃線と廃駅の合理化問題と撮り鉄の話しはイヤになります。そして、何もかもコンプライアンス重視で、息が詰まりそうです。私も、昭和時代という楽しい時代を生きてきたので旅一浪さんと共感は持てます。
シル・ヘッダーつきの窓が旧客の証でしたね、自分は客車と言えば12系・50系しか乗ったことがないのでうらやましいです。
旧客は見るからに古そうな感じが堪りませんでした。特にリベット付きの丸妻、戦前型35系は映画の世界にいるようでした
当時 受験を控えた高校2年~3年の頃で、鉄道雑誌一冊買えずに福田山線の旧型客車列車が無くなるという噂しか知らなかったです。次に行ったら50系にしばらくして12系に代わり、電化の話が具体化し始め、気が付いたら生瀬~道場間が新線になりドクターイエローみたいな113系が試運転を開始してました。後悔しか残らないですわ。
59.2の頃までは全国どこでも走っており、創刊したばかりのレイルマガジンに「おもかけ色の汽車」として特集があり、そこでは「いまならまだ全国で走る姿が見られる」と書いてありました。
それでもピンときていませんでした。
59.2の後、鉄道ジャーナルに60.3以降は山陰本線の福知山以遠と函館本線だけになり、車両はスハ40系に統一されるという小さな記事があり、急に焦り出しました。
横入りして申し訳ございません。国鉄としては旧客と旧型国電を置き換えたいとこの20年近く前から思っていたのにも関わらず、かなり長引いて旧客などを残していましたよね。本来なら417系を全国区へ導入し、客車列車の早期撤退を目論んでいた昭和50年代初頭だったはずでしたが、製造コストや101系の老朽化が深刻化しててそれどころではなくなったのか結果昭和60年ぐらいまで旧客は残りましたね。旧客ファンとしては願ったり叶ったりでしたが、やはり見られず後悔残る方もいらっしゃられますよね.......。101系電車の老朽化とかなかったら、てこ入れはまず地方幹線から確実に始まってたでしょうし。
@@asokai2346 特に国鉄末期は新型車両を入れるのに苦労が見えましたね。413系にクハ455を入れたり、419系に至ってはここまでするか?と思いましたね。
@@user-tabiichiro これも全て417系高コスト問題があったと言わざる負えないと思います。これら全て417系を本州全国展開する予定だったのが、交直流両用車だったことと、空気バネ台車を用いるなど国鉄型では類を見ないほどのコストがかかる車両だったらしく、量産化すらされなかった201系電車がまだ可愛くなるレベルだと言われるぐらいですからね。417系が仮に全国展開されていたら、間違いなく419系も生まれなければ475系も普通運用に用いられずに廃車になっていたことでしょう。一番の問題は101系老朽化問題が予想より遥かに早くきてしまったことでしょうけど(これで首都圏や関西圏に201系を投入することになり地方に予算を投入できなくなったきっかけと言っていいでしょう。)
原忠史さん>
ドクターイエローではなく、正確には103系が既に採用していたカナリア色に藍色の帯を追加した「初代福知山線色」です(その後1990年には2代目福知山線色、さらに2000年には3代目サンパチカラーとそれぞれ受け継がれました)。
国鉄時代!高額なんでなかなか手が出なかった(^^)ですが、これは買いたいです。アルファベータブックス社の「山陰本線」と言う書籍は買いました♪京都駅山陰線ホームの旧客はもう最高に大好きでした。特に山陰号が停車中の高揚感は忘れられません。あと急行の自由席待ちの長い列と弁当屋の声!ボックス席の窓に並ぶ食べ物!ほんと「旅」でした!
京都駅、新幹線も地下鉄もあるのに、あの一角はC57が来ても違和感なかったですね。
山陰ホームと優等列車が発着する一番ホームどちらも好きでした
昭和53年に旅に出れる様になり長距離客車鈍行に異常に執着して始発駅から終着駅まで全区間乗る事を基本にしてましたが山陰本線は6時間以上どころか10時間越えの客車列車が相当な本数が運行されてましたから全区間乗車にこだわらず明るい時間帯の列車を効率的に乗り換えてました、だから最長距離の門司発福知山行き824列車は全区間乗り通しは無く最長は門司→出雲市で他は島根県と鳥取県の区間乗車ばかりでした、姉妹列車の豊岡発門司行きは区間乗車すら有りません、愛した京都907発837(のちの835)列車も大半が福知山までで最長でも倉吉まででした、山陰号の上りは全区間乗車でしたが下りは倉吉線関金行き混合列車に乗り換えるから倉吉までの乗車が多かったです、上りで好んで愛した列車は820列車と544列車ですが浜田発東舞鶴行き544列車も
最長は江南→綾部の乗車でした、寝台連結夜行鈍行4本で唯一必ずニス塗り内装オハフ33やオハ35が編成に入る山陰号も好きな列車でしたね。何十と組み合わせパターンが組める福知山線と山陰本線の客車は本当に素晴らしい思い出を作ってくれたと感謝しています、上り820列車は830列車だったかも知れません
駄目ですね…時間経過で記憶が薄れてしまってる事が本当に悲しい。
だからこそ今の福知山を見たく無いんですよね。長文失礼しました。
ありがとうございます。
53.10の時代と59.2体制では山陰本線京都口の列車番号が一つずれているので、どうだったかな?と思い53.10前と、59.2後の時刻表で比べてみました。
すると僕が乗った京都発浜田行き833レは昔835レ、にも関わず豊岡発831レは昔から831レでした。
833は?と思い探すと、出雲市15時前に出る長門市行きが833レから531レに改番されているのに気づきました。そのため833の番号が繰り上がったんですね。
上りは824レをはじめとし、820レ、726レ、544レと有名どころは番号が変わっていなかったのでずっと感情移入できました。
どうしても自分が乗っていた頃の番号がしっくりくるので、浜田行きは833、米子行きは835、山陰は829と言ってしまいますね。
大垣夜行は345Mです。347Mという人もあれば375Mという人もありますが。
山陰本線の列車番号は800番台を基本として、下り下関に早く到着するものから順に821、823、825となっていましたので、京都から出る列車で800番台ものははるか下関を意識した「ザ・山陰本線の列車」という感じがしましたね。
旧客時代も乗ったことがありますが、早朝の大阪発出雲市行の12系客車に私も乗ったこともあります。今走っていたら、超お宝列車ですね。京都から園部行の7両か8両編成の50系客車に乗ったことも良い思い出です。
鳥取駅には今は使っているか分かりませんが、真ん中に機回し線がありますね。
それと、私も1986年の時刻表を大事に持っています。
皮肉にも福知山線が12系になった後、始発の出雲市行き721レに山崎からの始発の国電でも間に合うようになりました。それで60年の12月に出雲市まで乗りました。
それまでは京都始発浜田行きも間に合わず、前日から駅ネして乗っていました。
兄弟誌でしょうか、「わが国鉄時代」って本数冊持っています。蒸気機関車の写真が多くてちょっと残念(S38年生まれだから知らない)ですが、懐かしい写真が満載です。私も国鉄時代の山陰本線大好きです。福知山線も、播但線も。
同じ系統ですかね。
やはり自分が生きていた時代が懐かしいですね。京都駅や姫路駅の着回し線付き行き止まりホーム、大阪駅の都会から発着する旧客。どちらも素晴らしく、これ以上感動を与えてくれる列車はありませんね。
もう30年位まえですが、在来線で東京から大阪へ向かってる時、名古屋でたまたま長野から来た宮原の165系と167系混結の臨時急行ちくまで大阪まで乗車しましたもちろん、元、修学旅行専用の167系に乗りました。😮
くろよん、ちくまは周遊券で北海道に行く時や北陸ワイドなどで乗っていました。
東海道区間は急行「比叡」に乗っているようで懐かしい感じでしたね。
ガラガラなのも良かったです。
長距離列車、憧れますね〜😊
やはり大阪、京都とという大ターミナルから出てこその長距離列車ですね。
浜田から大阪行きの726レで、淀川鉄橋を渡り左に大きくカーブして大阪駅に進入する様子は素晴らしかったです。
サセボニアンさん>
特に京都を始発・終着とする普通列車は客車であろうと気動車であろうと贅沢づくし。約20分近くで一等地ともいえる保津川沿いの景勝地に巡り合えたり、嵯峨(現在の嵯峨嵐山:正確には現在の「野々宮踏切」あたり)~綾部間で大自然を思いっきり満喫できたりと、まさに「※心の贅沢を知るこの一時」。
※元ネタは1980~81年にオンエアされ、故カーク・ダグラス氏が出演していたAGFインスタントコーヒー「マキシム」CM内における「心の贅沢を知るこの一杯」で、ナレーションは故城達也氏が担当(この懐かしいCMの存在を知る人達はすべて40代以上、覚えている人達はいないかな?)。
熱湯が入った超小型の魔法瓶に紙コップとスティックコーヒーの3点さえ出揃っていれば、さらなる贅沢感が味わえたにと残念でなりません。
@@rhscm989 返信ありがとうございます😊
実は私、平成生まれなもので😅おそらく皆様の世代より若いかと思います。
客車列車や気動車急行に憧れるのでした🙇♂️
ちょうど北陸本線・富山港線も旧型国電や旧型客車列車から急行運用から外された475系が抜擢され、北陸本線の普通列車のダイヤも客車列車から本数が多くなったように感じました。475系の普通列車運用とのことで、旧客の乗客転落防止の意味で手動ドアから自動ドアに変わったのは大きな進歩だったようですが、いくら475系であろうと急行運用してなければただの電車ですので、面白みは半減しましたね。その代わり1時間に一本来るようになったのは凄いと思いましたよ。余剰に余りまくってたんでしょうねここまで高頻度で運行できるってことは
北陸旧客は末期の米原に2往復だけになった頃に乗っただけでした。
その頃の475系普通運用は6両編成くらいで快適でしたが、民営化後3両になりいつ乗っても混むなあと感じました。
旧型客車とキハ26やキハ58、キハ181までが「鉄道の醍醐味」でした。
電車には、165系とて醍醐味は一切感じませんでした。
今や旧型客車は、高崎と大井川だけですが、嵯峨野観光鉄道に梅小路保管のオハ46−13の連結活用を提案してますが好意的な反応はありましたよ。
電車に魅力を感じないというのはその通りでした。
旧客がある頃はキハ58も見向きもしませんでした。
12系や50系になって、ほんとに物足りないと感じながらズルズル続けています。
嵯峨野観光鉄道に連結されたら1両でも現役時代を思い出すでしょうね。
457系が普通列車に変わった時、せっかくの3電源対応がちゃんと使えてなく普通運用に回されたのが残念でなりませんね。
@@asokai2346 北陸の475系が50Hzの乗り入れる運用ってありました?