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「恣意性がない」という音が「音と意味は結びついてない(恣意性がある)」という意味で理解されてるから2人の間の会話がずっと成立してる。これは言語に恣意性があるからですね。
演出として面白いですよねw(本人たちはおそらく収録時に素で気づいてないと思いますが笑)
恣意性があるとは言えないそれは「恣意性がない」という言葉に恣意性がある可能性が高いだけで、言語全般に恣意性があるとは言えない
@@賢者-z4d 「シーセーガナイ」と言った時2人の間である共通の概念が想起されているが、辞書的な意味では「恣意性がある」と言わねばその概念とは結びつかないはず(音と概念が分かち難く結びついていたらこの会話は成り立たない)ある共通の概念にしがらみなく任意の音を当てていいという公理があるので、この都合のいい言い間違いが生まれている、ということでは
ここのコメントちゃんと読めば意味わかるんだけどぱっと見わかんなすぎて爆笑しました
すごい。こんがらかったから文句書き込もうと思ったらこんなスマートな。。。
ソシュールの話を面白いと感じた方には、ぜひ「メッセージ」という映画を見ていただきたい。人間と宇宙人が対話するんですが、それこそここでいう「線状性」とか「文字を三次元に配列しない」とか結構重要な要素になっているので、この動画を見た後だとより楽しめると思います。
ちょっと話がズレますが、映画「コンタクト」では、ある図形が物語上、解読困難な謎として出ますが、人類は、それを二次元で解こうとして難儀するというエピソードがありました。線状性という考えも我々の二次元世界に紙で表現するという類推をベースにしてるアイデアだなあと思いました。
18:30 あたりですが、「恣意性がないと文だけでは賄いきれなくなって」で正しかった。スーパーインポーズで後から入れた訂正のほうが間違い(他のスーパーは正しい訂正)。「恣意性」とは意味と記号に必然的な結びつきが「無い」という性質を指す言葉なのに、あたかも「恣意性=必然的結びつき」であるかのように思って話しているから間違えたのです。「有る無し」が逆になる。すなわち、恣意性が有る=人が勝手に決められる=結びつきに必然性は無い。
23:54 「標識って並べます?」で鳥肌立ったずっと「標識は言語ではないのか」という疑問が未解決だったけど、ここで理解できた
やったぜ!!ありがとうございます!!!ソシュール回、伏線が回収される喜びがあって最高ですよね。次回も盛り上がりポイントたくさんなのでお楽しみに!!(堀元)
大学一年のときにソシュールを一人で読もうとして、膨大な時間をかけた挙句爆死した記憶が蘇る。今の大学生は才能あるTH-camrのおかげで、30分でエッセンスを理解できるようになってるんだなあ
今まさにその状態です!ゆる言語学ラジオを始めとする学問解説チャンネルには本当にお世話になっています.......😅
ソシュールの凄いポイント②言語学の公理を作った・言語は記号記号 : ある概念とそれを表す何かが結び付いたもの=> 記号の中でも言語は特別シニフィアン : 視覚や聴覚で認知できるもの(文字や音)シニフィエ : それに結び付けられている概念(意味)→ つまり、記号とはシニフィアン(音)とシニフィエ(意味)が結びついたもの○恣意性恣意性 : 意味と音が法則なく(必然性がなく)結びついていること => 「音素」が導き出される *音声と音素は別物。音素とは、ある言語のグループで使われている具体的な音。 => 恣意性があると「単語」は絶対に生まれてくる単語があることで、無限のレパートリーがある文章を作ることができる!○線状性線状性 : 音素も単語も一列に並ぶ
おふたりが「恣意性」という言葉を恣意的に用いて会話する姿に感動しました🤣面白かったです!
とにかく恣意性がある(ない)がむずいw
お二人が、ある ないで間違えてるがむずさに拍車かかってる
ランダム性
撮りなおしてくれ!涙
@@tl7j9948 さすがにこれは無理だよな
彼ら二人の間では ある→ないのラングが成立してるや!
言語学素人側の聞き手が賢すぎてたまに置いていかれる
確かに標識、🦌鹿のマークの野生動物に注意と、追い越し禁止のマークがあっても、「野生動物を追い越すの禁止」にはならないね。
「恣」:勝手気ままに振る舞うこと。「恣意的」:「恣」の定義より、意味が勝手気ままに振る舞う様。転じて、とある事柄の意味を思いのままに捻じ曲げて解釈する様。「恣意性」:意味が勝手気ままに振る舞うこと。転じて音と意味がそれぞれ独立して振る舞うこと。つまり、「恣意性がある」という文の意味は「音と意味に繋がりが無く、本来は独立して存在しているもの」、という意味だと理解すれば私は分かりやすくなりました〜(参考までに)。「恣意性」を定義すること自体が恣意性を知らない人間からすると恣意性があることなので分かりにくいわけです(恣意性が恣意性に内包されてて面白い)。
「恣意性」の意味を恣意的な性質だと勘違いしていたのでなんか逆じゃない?って感じてましたが、あなたのおかげで理解できました。ありがとう!
超助かる
恣意的って自分の中で勝手に「誰かに何かを強い(しい)ること」だと思ってましたなんか似てるし…
歌詞のない音楽(クラシックとか)は、まるでシニフィアンとシニフィエですね。6度の跳躍(「ド」からその上の「ラ」への移動)は「希望」を表すのですが、それと似てます。例えば「見上げてごらん夜の星を」は、「ドーラーララーラシ♭ドー」なのですが、この曲は苦学生だった坂本九が、星を見上げて希望を感じて作ったと言われていますが、世界的に見ても、この6度の跳躍は希望を表すことが多いです。
Johann Mathesson
「線状性」については、音声偏重の欧米語、アルファベット(表音文字)で表記する言語で考える人のバイアスを感じます。また、標識、ピクトグラム、タイポグラフィーなどを作るのを生業としていた元デザイナーとしては、記号の類いも、色彩や形態という単語が(2~3次元の配置により)相互に影響を与えあって意味をなした文という感覚なので、なんだかモヤモヤします。音偏重で考えても、日本語の文章を読んでいて、音読みと訓読みの音が同時に頭の中で鳴ったり、読めない漢字の意味だけ頭に入ってくる現象をどう理解したらいいだろう…
「止まれ」が水平線なのは、重力による垂直落下の動きに対抗する=運動を止めるイメージという人間の生理に基づいたデザインであり、日本語のオノマトピアのように恣意性の薄い表現だと理解しています。実際、「ドアの鍵」や「ガス栓」など、身の回りのプロダクトも「止める・固定する」は水平位置に設定されていることが多い。これは恣意的に決められたものに慣れてしまったのでなく、重力のある環境で進化してきた生物の生理に基づくものだと思うんですが…
『メッセージ (英題:Arrival)』という映画では、言語学者や物理学者が宇宙人の言語の解読を試みるのですが、音素に固執したために、宇宙人が漢字の発展形のような視覚言語を使うことになかなか気付かないという展開があります。その宇宙人の言語って、日本人には白隠の『円相図』にしか見えないような代物なんですけどねww
@@kazuhisanakatani1209 さん、遅いコメントで失礼します。デザイン界でよく言われるアフォーダンス理論ですよね。床に書いた遠近法の線を赤ちゃんでも崖と認識して止まってしまうというとかのやつですね。なので止まれ標識は恣意性がないということかも。
恣意性が低い=音(シニフィアン)と意味(シニフィエ)のつながりのベッタリ度が高いex.擬音語恣意性が高い=音と意味のつながりのベッタリ度が低いex.数学の記号ベッタリ度が高いと音素も単語も導けない。ベッタリ度が低いから音素も単語も導ける。
シーン…という擬音語は恣意性がある事になるのかな? よく考えたら音の無い状態を表す擬音語ってなんかすげぇな(語彙力)
擬態語かなシーンとしてる時耳鳴りみたいな音が鳴る気はするけど。
大人になってホント久しぶりに知る、学ぶ事が楽しいと感じる。
恣意性がある/ない が難しすぎて途中から面白くなってきた(笑)
「恣意性」というのは、「記号」の集合の中から任意に取り出した要素を、「概念」の集合の中の任意の要素と結びつけることができる(記号には任意の意味をつけられる(つけてもかまわない)、という公理ですよね。ペアノの選択公理のようなもの。
「人間は同時に一つの音しか発音できない」んじゃなくて、「同時に鳴ってる全てをひっくるめて一つの音としている」んだと思いますね。もし、beatbox的にバスドラム+裏声とかって発音してもちょうどbaの発音と同じだね、それは二つの音ではなく一つの音だねと類別することになると思います。それも当然で、音自体が大変数多くの音の組み合わせなのに「あ」だと認識していますもんね。
10:26 欧米の人たちは虫の音が聞こえないって言いますもんね。そういうところにも日常から擬音を拾ってくる習慣(?)のようなものの有無が現れている感じがしますね~
ずっと「汎用」を「ぼんよう」って間違って読んでたのに困らなかったのは恣意性によるものだった…?
おもしろいですね。漢字を適当な音で読んだとしても、自分の中で完結している限りは問題ないのですね。ちなみに私は「凡例」を「ぼんれい」と読み間違えていましたw
確かに漢字の読みって規則性あるのに、凡は「ぼん」で汎は“氵”がついているだけなのに、「はん」なんかーいってなりますね。
法律学では、判例と区別するため、あえて「ぼんれい」と呼ぶことがあります。日本語は同音異議が多いから故の工夫です。
【恣意】自分の思うままに振る舞う心。気ままな考え。この意味から考えると「恣意性」というのは、ある概念に人間が勝手気ままに音を当てはめることを指すのかな?概念が人間の言葉を作るのでは無く、人間が概念に言葉を与えた、という理解でいいのかな?なんか、カントの「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだ」みたいな考え方で面白いですね。
学生で言語学を齧ってSEになって今ビートボックスにハマるワタクシ的神回w「恣意性」については「恣意的」に置き換えるとあら不思議で誤用が減ります
線状性の話を伺い、なるほど「熟語」とは言い得て妙なのだなあと思い知らされました。
恣意性がある/無いをひたすら間違えてるけど、二人とも綺麗に入れ替わった意味で会話進めてるから齟齬が出てないのが面白い
脳科学的な言語解析のしくみ研究も知りたくなりました😌
ホーミーは、喉で鳴らした音を口の中で共鳴させて2つ目の音を作り出します。喉の音に含まれる倍音を増幅させているので、2つ目の音の高さは、喉の音の高さに依存します。つまり、それぞれに独立したメッセージを込めるのは難しいと思われます。関係ないですが、言い間違えのせいで分かりにくくなってしまっているので、この回は撮り直したほうが良いと思います!^^;
水野さんが行っているのが背理法ではないのが少しムズムズします、、。「恣意性がなかったら音素が生まれない」から言えるのは「音素があるなら恣意性がある」であって、今公理として設定している恣意性から音素の存在が言えてない気がします。めちゃくちゃ楽しいですし「ゆる」なので全く良いんですけど笑
まさにそう思います笑 そして既にコメントしたのですが、音素の存在を認めた方が自然な気がしますよね。単語から文章が生まれると言った話では、単語の存在を認めればそれを線状性で適切に組み合わせることで文章が生まれるってことで、恣意性は関係ないと思います。(恣意性から単語の存在が導かれるのかはよく分かりません泣)
あー! なんかガバい理論だな?とは思ったけど自力では違和感の正体が掴めなかった。このコメントみてバチっと嵌ったわ。ありがとう
線状性は1次元かなあ。映画『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』では数式と楽譜は2次元に配列する言語だってはなしがあったことを思い出しました。5線のどこに♪があるかで意味が変わるとか、a^2とa_2とa/2はそれぞれ別の意味とか。
恣意性があるなら単語があるという話ですが、翻訳等の機械学習について考えると面白いかもしれませんね。例えば日本語→特徴量→英語とするニューラルネットワークにおいて、ある特徴量の1層を抜き出せば、それは恣意性のある文とみなせるわけですよね。確かに01という音素を持っていますが、一つ一つの特徴量は音素なのか単語なのかという疑問が湧きます。もちろんソシュールの時代はこんな話題あるとは思えないですし、もしソシュールが今の時代にタイムスリップしたらたまげそうですよね。
音声(アナログ)を恣意性という枠組み(アルゴリズム)でデジタル化した(枠組みに当てはめた)ものが音素ですね。面白いです!それと日本語の擬音語・擬態語についても是非お願いします!
失礼します。「言語には恣意性がない」の反例は公理の表現をほんの少しいじるだけでたやすく回避できると思います。すなわち恣意性がないではなく恣意性が不要(あるいは恣意性がない部分が必ず含まれるの方が正確か?)=一部に恣意性があっても構わない。と言う表現に変える、と、いうことです。この公理でも十分に「有限の性能で無限の表現力を獲得すること」を達成可能なのであって恣意性を感じさせる語感や単語が存在することは許容されている、と考えるべき、ということです。バーン、ぽちゃん、などの擬音は、そもそも、物理現象で発生する音をそのまま言語体系内の音素の組み合わせに落とし込んでいるのだから、これをわざわざ必ず別の音に置き換えなければならない、などという無駄な排斥を行う理由はないはずです。また、そういった物理現象由来の音の響きなどの影響で、言語体系の異なる文化間で共通したイメージを誘発する音が存在する、ということが、起こり得ることは容易に想像がつきますし、キキ・ブーバ実験の結果も言語の公理を定義する上での恣意性の議論に何ら影響すると考える必要はないはず、そう考えると上記の公理表現への変更ですべて解決すると思います。自分からすると、ものすごく、当たり前で単純な話なので、むしろこういう結論に向かわないのには、何か理由があるからなのか、ということが気になります。さらに、この議論から想起した、気になったポイントは単語(あるいは文)と概念は一対一対応ではなく多対一対応であっても言語の根本は揺るがないということです。たいていの擬音語は日本語でも、その擬音を表す明らかに恣意性のある別の単語が用意されているように見受けられますし、そうでなくても、恣意性のある単語の組み合わせの文で表現することが可能なはずです。バーンなら”破裂音”ぽちゃんなら”水に小さい物が落ちる音”などです。現実をより近いニュアンスで伝える方法をその都度選択して表現することができるというだけで、これらのどちらが間違っている、ということでもないはずです。そして、これを拡張すると、猫の概念Nekoという単語に紐づけることとCatという単語に紐づけることも同じ多対一対応の例の一種と言えだからこそ両者は言語である、に加えて、「だからこそ多言語を学ぶことが可能なのである」一つの重要そうなという事実にまで到達可能であり、これらはすべて、言語の恣意性に関する公理から論理のみで導き出せるとおもえるので非常に納得感があります。ここまで考えると、ソフトウェアエンジニアとしては、残された排他条件が気になるのででは単語と概念が一対多や多対多で結びついちゃダメなのか、という議論を抑えたくなりますが、議論の筋が外れ、新しい大きなテーマに直面してしまうので止めておきます。
ホーミーとかビートボックスで会話できるようになったら会話の密度が濃くなって会議とか校長先生の話とか短時間で済むかも
でもあいうえお あいうえおとあいうえお あいうえおで意味が違うんですよ~とかなるんだろうからめっちゃむずそう。。。
頭がついていかんのではないですか?
このpodcast、面白すぎでしょwソシュール言語学読んでいた学部時代を思い出しました
仮に人間が伝えたいものを正確に立体的に出現して伝えられる出力機能があったとしたら「犬が走ってる」を伝えたい時は、犬が走ってる光景をそのまま写しちゃえるから、恣意性が無くなるってことかな……?
視覚化できない概念を表現するためには恣意性が必要な気がしますまた「犬が走っている」と「犬が走っていた」を区別するためにも必要かな?
ビートボックスやホーミーが誰でも出来て、言語に組み込まれているものだったなら、全然違う言語体系だったのだろうし、逆に一部の人しか出来なかったり訓練が必要なものだからこそ例外的に取り上げられたりパフォーマンスとして成立しているのだろうな
私はソシュールにもホーミーにも詳しくないが、ビートボックスを全員ができても言語体系は変わらなかったんじゃないかと思います。ビートボックスの「(口の中の)チュクチュク」と「(喉の)フーン」をそれぞれ「明るい」と「おじさん」にしてもこの二つを同時に出しても「明るいおじさん」という一本の直線的な情報にしかなりません。「チュクチュク」→明るい「フーン」→おじさん「チュクチュク(同時)フーン」→明石家さんまという三つの単語を作るのと同じではないかと思います。もし口の中に「プス」「シャカ」を足して、喉の音に「ボーン」「カーン」を足して、「プス」→今日「シャカ」→空「ボーン」→昨日「カーン」→来るとして「プス(同時)ボーン、シャカ(同時)フーン、チュクチュク(同時)カーン」↓「今日空明るい」「昨日おじさん来る」という関係ないことを同時に認識できたら線状性を破れるのではないかと思います。
遅ればせながらハマって追いかけています。大学の時なにかの授業でよくわからず聞いていたシニフィアンとシニフィエにこんなところで出会えるとは……!!!ロシア語の歴史の授業かな、、それすらも忘れてしまいましたが、おふたりのおかげで楽しく学び直せています◯言語を理論立てて考えるという行為がめちゃくちゃ楽しいです!
絵文字のくだりで幼稚園のころ読んだ「おばけとぼく」という絵本を思い出しました。絵本の文章の文字がすべて絵文字になっていて,その絵文字のものの頭文字を読んでいくと読めるという作品です。当時は単純に面白いくらいにしか思っていませんでしたが,今すごく実験的な作品に思えてきました。
「恣意性がない」の意味を、「必然性がある」かどうかで判断してるところが、否定形の否定みたいな活用を起こして話を分かりにくくしてる気がします…
やっぱり恣意性があるない逆だよねwpodcastで聴いてたから混乱したww
単語の発生の根拠として①②③がありましたが、①の恣意性があるはなくても②の人間の記憶は有限と③の覚えたい事がいっぱいあるの二つだけでも導けそうな気がしてなりません...
個々の人の発する言葉は音声的に全く同一であることはあり得ないが、仮にʌ 、ə、 æ 等のような音声を" 恣意的に "「あ」という一つの音素とし、 i 、 j 等のような音声を" 恣意的に "「い」という一つの音素とすることで ʌ i 、əi 、 æi 、ʌ j 、əj 、 æ j のように本来の音声が異なっていても 「あい(愛)」という一つの概念を持った単語が生まれ言語となる… さらに単語を" 恣意的に "並べることで意味を持たせた文が生まれ言語大系が拡がっていく…ってことかな?
おふたりが恣意性あるなしを逆の意味で捉えてたから、もうめちゃくちゃ混乱したよー笑自分はPodcastで聞いてたけど、念の為ここのコメント欄覗いて本当に良かったこの回だけは何回も聞いちゃった笑でもおふたりのこのチャンネルは好きなので、頑張ってください!今は#1から順番に聞いてるので、最新回まで追いつけるようにこれからもちょくちょく聴いていきます!
面白い動画でした! 本筋とは関係ないけど、外国語をマスターしようとすると10、20万語覚えなきゃいけないのか~
「イルカが喋るのは嘘」の回で、イルカの言語は概念と一対一対応してるようなことを言ってたけどもしかすると人間が言語で会話が出来るのって、言葉の意味と音を切り離すことが出来た動物だったからなのかな?
共時態のラング、とならべた方が、ある時点でのラングとなって理解しようとする時にしっくりくる😂専門用語だからそうあるべき理由があるのでしょうが😂
たぶん、共時態には人が共有するというニュアンスが含まれる一方である時点では人を介するニュアンスが含まれない。だから、ラングに対しては共時態がしっくりくるし、ある時点ならテクストといった人を介さず無機的に存在できる概念に対してしっくりくるんだと思うよ。
@@umakura8102 ありがとうございます!いただいた意見をもとにゆっくり考えてみます!
4:40⛔(シニフィアン)➡️「進入禁止」(シニフィエ)音(シニフィアン)➡️意味(シニフィエ)には恣意性がある
恣意性が「ある」と肯定的に言われると、「関連がある」とイメージしてしまう。「恣意性がある」を「たまたま」「理由はない」、「恣意性がない」を「関連がある」「根拠がある」と雑に言い換えたら、わかりやすいかも。
興味深くて面白い話ですね。数学の公理と並べて話すと、「どんな言語にも主語がある」というのは平行線の公理みたいに思えてきますね。
恣意性がある、ということが直感的には逆の意味っぽく聞こえてややこしい…笑恣意性がない世界だと「川」と「川に行く」と「川に行って洗濯をする」にそれぞれ単語が必要になって、覚えきれないだから山とか行くとか単語を生み出して、その組合わせで対応する、みたいな感じですかね?この理解でいくと、恣意性があるから単語が生まれたというよりは、「恣意性がない世界では単語しかなくて不便、だから文を生み出した、その結果文と対になる概念として単語が生まれた」みたいに思います言っててややこしくなってきました
テッド・チャンの「あなたの人生の物語」(映画化されて「メッセージ」)に出てくるエイリアンの言語は線状性の対極にある言語と言うことですね。そういえば主人公は言語学者でした。
なんだか恣意性と二重分節の関係がよくわかりません。二重分節の話はマルティネですよね。マルティネは「二つ目の分節(音素の分節)はシニフィアンの形式をシニフィエの性質から独立させることができる」と書いていますが、これを読むとむしろ「二重分節があるからシニフィエとシニフィアンの間に恣意性が生まれる」と言っているように思えます。そのため、「恣意性から音素が導き出される」というのは逆だと思いますが、いかがでしょうか?
恣意性があるはランダムってことだから、〜があるって聞くとルールがあるみたいに思うエントロピーの増大と同じ
ここ数日毎日拝見しています。面白い動画をありがとうございます。面白くて眠れません。寝不足です。が、明日(今日!?)は土曜日なので余裕です。
この動画の喋り方では、線状性は人間は同時に2つの音を発声できないという公理から導かれる定理であって、公理ではないような。
①恣意性があるから音素が生まれた一言語の中で恣意性がなかったらネコを表す音がその音以外ではありえないけど、事実上それは無理だから、ネコって聞こえる音みたいなのを作る必要があったって感じですかね。ネコに音声を当てはめるって意味では恣意性はあるような気もするけど、、、というか音に当てはめようとした時点で音素は必要になりそうですね②危ないをバガーってしてる時点で恣意性があって、でもそういう文を対応させてると記憶のメモリ的に不便だから単語が生まれた
10:48 BOMB は語源を辿ると擬音語だよね…
SMASH!!とかが良い例なのかな
恣意性がある → 音素があるの命題が真であることを背理法で証明するには、音素が無い → 恣意性が無い (対偶)が真であることを示さなければなりませんが、動画では恣意性がない → 音素がない の証明しかしてないように思います。これでは 音素がある → 恣意性がある の証明になります。そして正直音素の存在の方を認めて公理にした方がスッキリすると感じました。(人間は特徴量でクラスタリングする能力が備わっているので。)また、「音素の区分けに恣意性があるのか」という命題は全くの別問題であり、これは上の公理からは導けないと思うのですが、どうでしょうか…?
くっそむずい。あと少しでわかりそうなのに…
絵画(?も色々ですが、恣意性がない)と、文字(恣意性がある)の分岐点として、エジプトの象形文字を思い出しました。鷹や斧が文字になっていますが、元の絵としての意味は保存されておらず、アルファベットとしてのみ機能している。自分には絵に見えるので不思議です。
恣意性(音素)で言語とは関係ない事を思った。人類の大半は相対音感で絶対音感を持たない。絶対音感は生まれた時は持ってるのに徐々に衰退していくので、だから子供の頃の訓練で習得可能、というよりは衰退を遅らせてる。しかし、会話においては絶対音よりも相対音(音素)のほうが重要だから、汎用性のために絶対音感を捨ててるのだろう。絶対音感は言語野と強く結びついてるのがわかってるし、ドという言葉でド以外の音程を発音すると気持ち悪いとか有名な話で、毎日そんな事を感じてたら生きづらいから相対音感を選んだのかな。
記号が成す大きな体系は「言語」それから「貨幣」もそれにあたるとすれば「ゆる経済学ラジオ」も聴いてみたいものです。それとウィトゲンシュタイン先生も取り上げて欲ちい
23:22 「人って同時に2つの音を発音することはできないから…」モンゴル人「俺、人じゃなかった…」ホーミーシンガー涙目😭(言語学関係なかった)と思ってたら動画内でホーミー触れられてた。
同時に複数の音を鳴らした場合はそのような1つの音素として捉えられることが多いです。例えば、日本語のtsやドイツ語のpfがそうです。
日本語の擬音語表現はある程度自由に使う事が許されるってのが私の直感です。宮沢賢治さんは独特の擬音語、擬態語を使いますが、それでも読む側は「こんな単語知らない」とは言わないわけで日本語はある程度、擬音語に対する共通認識があると言うことなのでしょうか?
標識には「線状性」がない、という話に関してですが、日本の交通標識の中には、他の標識と組み合わせて意味をなすものがあります。「~終わり」を表す「 ⇔ 」というやつです。そのほかには(ある標識が)有効な時間帯を表すものもあります。
23:54 「進入禁止」のプレートと「○○時から××時まで」のプレートを一つの柱に同時にくっつけて「○○時から××時まで進入禁止」の意味を作ってる標識は見たことあるかも
途中の言い間違えラッシュwwwすき
恣意性があるとかいうと分からなくなるので、音と意味を勝手に結び付けてよいというのが恣意性であり、勝手にではなく法則に基づくものであるというのか「規則性」=「非恣意性」ということである。日本語の擬音語は日本人にはその法則性が感じられるので、「非恣意性である」つまり「恣意性がない」ということになるのである。これまで理解できてない人や間違って理解していた人はこれで分かると思います。
言語に線状性がある、に対して、ビートボックス等の例を挙げられていましたが、ビートボックスも2列や3列の線なので線状性があると言えるのかもしれません。線状性が無いとは、1度に複数の音を鳴らす(または一斉に複数の単語を発言する)事でも、ただの足し算ではない意味を持たせる事ができる事だと考えると、音楽、特にオーケストラ等の、一度に鳴らす楽器の組み合わせで異なる意味を持たせることなどが、線状性の無い表現と言えるのでは無いでしょうか。
論証できてそうだけど後付けだよね。でも自然科学って自然から「発見」してくるものだからそれも「分かる」いや「分くある」。
難解な内容ですので、専門用語の誤用を字幕を読み読み訂正しながら聞くのは難しいです。
恣意性があるって日本語?でいうと「夜露死苦」ってことですよね、実際にやべーやつが使ってますね。ひらがなだって、もとを辿れば「与呂之久」でしたよね。
認知症の勉強した時に、段々と記憶が消えていって、言葉の意味もあやふやになっていくと、他人の言葉が分からなくなるし、自分が思う事も正確に伝えられない。言語ってのは言葉(音)と意味が一致してないと使えない。って考えた事を思い出しました。
シニフィアンとシニフィエがごっちゃになるのは文学研究の理論書読んでいた時にあるあるだなあと思ってなんか変に共感してしまった
動物の鳴き声で言えば、犬は日本語だと「ワンワン」で英語だと「bow-Wow」、ニワトリは「コケコッコー」(日)「cock-a-doodle-doo」(英)、猫は「ニャー」(日)「meow」(英)と似通った表現をしてるのに、豚は「ブーブー」(日)「oink」(英)、ネズミは「チューチュー」(日)「squeak」(英)と全く違うので、動物の鳴き声のような擬音語でも日本語よりも英語の方が恣意性が低い(音と意味の結びつきが強い)ような気がする。間違っているかもしれないが。
お茶はどの言語でも「チャ」か「テー」の2パターンに近い呼ばれ方をしているのもsushi的なことなんでしょうかね
広東語で「チャ」福建語で「ティー」と呼ばれていて、どちらから伝わったかで大まかに発音が決まったというのが定説のようです。それが正しければ、sushiと同じですね。
ホーミーが量子論で線状性が超弦理論のような感覚を受けました。
26:19 ホーミーもヒューマンビートボクサーもラングの共時態じゃないから違うんだろうなぁ
恣意性がある「この物にはこの意味と定義される」恣意性がない「どんな物にもこの意味を感じる」意味が複雑になるほどポチャンみたいに簡単に表せないから、恣意性が生まれてくるんですかねすごく面白い
音素の定義は音じゃなくて、単位ではないですか?一つの単語を他の単語と区別するための音韻的の最小単位?例えば意味が異なる2つの単語catとdogの最小単位はcatとdog、catとcapの最小単位は t と p 。
ラーメンズの「名は体を表す」ってネタで、道路とロードは音が似ていて同じ意味だとか、アストンマーチンとボルボとベンツは多分車しらない人でも音だけで当てられるとかいう話が出てきたなー
線状性という観点からすると、言語と音楽ってすごく似てるんだな、と思う。どちらも連続した時間の流れに沿って、決まった順番で音が流れて来るからこそ、理解が出来る。スコアの音を同時に全て奏でても音楽にはならないし、バラバラの時空間に配置された音素を集めて言葉にすることも出来ない。
ホーミーもビートボックスも一部だし、言語という枠組みではなさそうだから、結局線状性というものは成り立つと思います
手話も言語だとすると、右手と左手で違う概念の同時発話ができますし、3次元で表現されるものだから線状性の概念の例外になるように思いましたがいかがなものでしょうか?
手話は障害がなくても使える言語ですから、右手と左手と発声とで同時に何かを表現したときに生み出される合成語みたいなものは存立し得るかなと、コメントを読んで思いました。どうせなら右足と左足と顔の表情なんかも足し合わせたらいい。顔に関しては言葉と表情を「不一致」させることで違う意味を生み出すみたいなことを普段からやっているので、線状性の概念の例外はここそこにあるかもと考えさせられました。学問的にはどこかで切り分けないとキリがないってことでその辺は別研究でってことになるのかもしれませんし、あと現実的にどこまで使えるのか、使われているのか、普遍性は持ちうるのかとか、の要素もあるような気がします。このあたりを有効活用できればもしかしたらもっと会話の濃度が濃く短く済むはずですので、「時短」につながるかもしれませんね。でもそこまで来ると今の人類では難しすぎて出来ないような気もします。全人類が一流のアスリートかつ一流のボーカリストレベルで体と声を統合できれば、そういう未来も予見できるかもしれません。ダンサーの動きを概念化して共通言語として用いることができればまさしく全身で意思を正確に伝えられるかもしれませんね。でもどの分野でも一流と呼ばれる人間っていうのはそのことが可能だからこそ、「人間離れした」ことを、やってのけているのかもしれません。それは今の人類が絶滅してより高次元の人類(ヒト型かどうかは疑問ですが)が誕生して現代の一流のあらゆる分野のアーチストが「標準の水準」みたいな時の、超効率的な生命体かもしれません。あるいはそんな奴らが地球外からやってくるかも。なんか、マリアコルネリアさんのコメントを見て、すごく面白いと思ったので長文失礼しました。線状性の概念の例外って想像したら、私個人としてちょっとワクワクしたってだけですので気を悪くしないでください。
@@francescogatti3002 そうか。健常者なら手話と発話の同時性を実現出来るんだ!目から鱗のご指摘、参考になります。手話は聾唖者のものって思い込みで発想の自由を勝手に狭めてしまってました。モンゴルのホーミーの話も出てきましたが、ピアノの弾き語りみたいなもので、発音機構が声帯ひとつに限定されるという制約が無ければ線状性の概念も大きく変わりそうですね。
「右手と左手で違う概念の同時発話ができます」というのは偽です。なぜなら、手話で話す時に、左手と右手の手指動作(これも音素と呼ぶ)を合わせて初めて一つの語となっているわけで、左手と右手が同時に別の概念を表すことがありません。しかし例えば日本手話では、日付を表すときに、確かに非利き手で月を表し、利き手で日を表しています。ただこのような表現であっても、例えば〈5月1日〉という単語は、まず非利き手で数字の〈5〉、それから利き手で〈月〉(親指と人差し指で三日月をなぞる)、最後に〈1〉を表すわけで、線状性を持っています。これは、〈5〉〈月〉〈1〉という三つの形態素によって構成される一つの単語と言えます。手話の文も、単語と単語が連なって時間の次元で線状性を呈しています。手話という視覚言語は音声言語と比べれば、確かにより簡単に音素を同時に表すことができるかもしれませんが、それでも時間という軸で展開して発話しているわけですので、線状性があることの例外にはなりません。実は音声言語の同時調音というものも似ているのではないでしょうか。例えば [z] という音を発する時、声門の振動(有声音)及び舌先を [s] の位置にする(歯茎摩擦音)という二つのことが同時に行われていても、これも合わせて初めて一つの単位となっているわけで、ただこうであるのにもかかわらず、音素を組み合わせた形態素でも、形態素を組み合わせた単語も、単語を組み合わせた文でも、時間という軸に展開していることは間違いなく線条的です。仮に線状性がないものとは何かと言いますと、絵です。確かに、絵を鑑賞することによって、何かしらの情報の伝達は可能です。ただし絵は二次元であって、時間において展開することができないため、線状性があるとは言えません。
「恣意性がある」だから判りにくい&焦点しぼりにくいんであって、「恣意性しか無い(それ以外は無い)」だったらきっとより明確だし言い間違いも起きなかったんだろうな。MECE問題というか。
観てると「恣意性」がゲシュタルト崩壊しますw
めっちゃおもろい
閄(ものかげからきゅうにとびだしてひとをおどろかせるときにはっするこえ)中国はわけのわからないものにまで漢字作ってるよな
恣意性の有無の話してるとき所々言い間違えてるからテロップなしだと混乱しそう。というかラジオ感覚で聴いてた時は混乱したけどテロップありきで見ると理解しやすかった
動物のコミュニケーションは恣意性がないから単語ができないってことですよね
未開の部族の謎の言語(あるのか知らんけど)は恣意性があるのか。恣意性がない人類はいるのか気になる
ホーミーって動物のコミュニケーションに近いから言語とは別枠になるのかな…?
赤ちゃん言葉は音で概念を表そうとするから恣意性がないのか。簡単な単語を覚えて初めて言語になるのか
25:48 突然のシンセ(水野さん)
英語に擬音語が少ないのは単にローマ字の組み合わせが少ないから(単語としてすでに使用されてる並びが多いから)じゃないかって勝手に思ってた
低次元な話で申し訳ないですが音素で思い出しました。英語の授業でappleの発音をアとエの間と教わった時のこと。言われた通りアとエの間でチューニングしながら発音練習をしていましたが、内心苛立ってました。「限りなくアに近いエ(またその逆)を目指すとある一点を超えたところでエ(ア)になってしまう。ピッタリ五分の境界に新しい母音をくれ。」
グルーピングのことをデータ分野ではクラスタリングと言います音声・音素で言うと、音声は点ですが音素は線や面で表現できるんじゃないでしょうかクラスタリングで調べてみるとイメージしやすいかも知れません
中盤何いってるかわからなかった笑最後でギリついていけるレベル笑
17:51 ここ少し気になったのですが、仮定として「人間の記憶力が有限」っていうことを使っているのなら、これも公理に含まなければならないということにならないのですか?
仕事で最近の自然言語処理すげぇと思ってるけど,あれは概念に文ベクトル(分散表現)を対応させているので,単語必要ない.「後ろが危険だよ→バーガー」という世界考えてみると,世界が誕生してからこのかた,人間の全人口1000億人,100年生きるとして毎日10000文生成するとしても,概念数は10^20を超えないから,符号にしか意味ないとしても65次元もあれば十分表現できる.
素敵な対談を発信していただきありがとうございます。毎回話が面白くて興味が尽きないです。ただ、恣意性があることと単語の誕生の必然性がいまいち分かりませんでした。。。動画内での、①恣意性がある ②人間の記憶力は有限 ③表現したいことがたくさん→だから単語が誕生したし恣意性があるんだという理屈に違和感を覚えてしまいます。概念を切り分けた最小単位が単語であるという先入観に囚われて、論理的な正しさが無視されている気がします。というのも、私たちが単語としてみなしているものを、文とする言語を作ることはできそうだからです。また、私たちが文として表現するものを、単語とする言語も作れるでしょう。あくまで単語は、ちょうど良く細かい概念であって、本質的には動画内でいっている文と同じなんじゃないかという直観があります。上記の②と③から、無限の組み合わせで概念を表現できる「単語」と今呼んでいるものが必要だという事は分かりますが、①の真偽は無関係なのでは、と単純に疑問に思いました。ぴったり1対1対応ではないにしても、ある程度「緩い」恣意性のなさは考えられるんじゃないかな、と。。。門外漢なので頓珍漢なことを言っているかもしれませんが、もう少し詳しい説明が欲しいです!
本は線状性がなかったら安く買えるかな。一文字のサイズしか必要としないから。
恣意性の話、ネコと発音したときに、発音する人100人いたら100人とも違うネコという音になってるけど、人間は同じ様に聞こえるという話ですよね。この特性は、言語に限らず、実際には同じ猫はいないにもかかわらず、ねこと認識することができる。人が手書きでCATと書いた時、同じ形の文字がないにもかかわらず、CATと読むことができる。これは人間だけができることらしいです。
擬音語は、音の表現をその音そのものと受け取るということかな。つまり、結びつく意味?や概念が介在しない…。例えば文字の恣意性について言うなら、英語は“A”はそれ以上でもそれ以下でもないけど、漢字(ひらがな、カタカナ)は象形文字だから“阿(あ、ア)”は元になった“もの”があってそれだけで意味を持つ…ってことでしょうか?と思いましたが、英語の起源も“もの”から来ているようなのでよく分からなくなりました。
「恣意性がない」という音が「音と意味は結びついてない(恣意性がある)」という意味で理解されてるから2人の間の会話がずっと成立してる。これは言語に恣意性があるからですね。
演出として面白いですよねw(本人たちはおそらく収録時に素で気づいてないと思いますが笑)
恣意性があるとは言えない
それは「恣意性がない」という言葉に恣意性がある可能性が高いだけで、言語全般に恣意性があるとは言えない
@@賢者-z4d 「シーセーガナイ」と言った時2人の間である共通の概念が想起されているが、辞書的な意味では「恣意性がある」と言わねばその概念とは結びつかないはず(音と概念が分かち難く結びついていたらこの会話は成り立たない)
ある共通の概念にしがらみなく任意の音を当てていいという公理があるので、この都合のいい言い間違いが生まれている、ということでは
ここのコメントちゃんと読めば意味わかるんだけどぱっと見わかんなすぎて爆笑しました
すごい。こんがらかったから文句書き込もうと思ったらこんなスマートな。。。
ソシュールの話を面白いと感じた方には、ぜひ「メッセージ」という映画を見ていただきたい。
人間と宇宙人が対話するんですが、それこそここでいう「線状性」とか「文字を三次元に配列しない」とか結構重要な要素になっているので、この動画を見た後だとより楽しめると思います。
ちょっと話がズレますが、映画「コンタクト」では、ある図形が物語上、解読困難な謎として出ますが、人類は、それを二次元で解こうとして難儀するというエピソードがありました。線状性という考えも我々の二次元世界に紙で表現するという類推をベースにしてるアイデアだなあと思いました。
18:30 あたりですが、「恣意性がないと文だけでは賄いきれなくなって」で正しかった。スーパーインポーズで後から入れた訂正のほうが間違い(他のスーパーは正しい訂正)。
「恣意性」とは意味と記号に必然的な結びつきが「無い」という性質を指す言葉なのに、あたかも「恣意性=必然的結びつき」であるかのように思って話しているから間違えたのです。「有る無し」が逆になる。すなわち、恣意性が有る=人が勝手に決められる=結びつきに必然性は無い。
23:54 「標識って並べます?」で鳥肌立った
ずっと「標識は言語ではないのか」という疑問が未解決だったけど、ここで理解できた
やったぜ!!ありがとうございます!!!
ソシュール回、伏線が回収される喜びがあって最高ですよね。次回も盛り上がりポイントたくさんなのでお楽しみに!!(堀元)
大学一年のときにソシュールを一人で読もうとして、膨大な時間をかけた挙句爆死した記憶が蘇る。今の大学生は才能あるTH-camrのおかげで、30分でエッセンスを理解できるようになってるんだなあ
今まさにその状態です!ゆる言語学ラジオを始めとする学問解説チャンネルには本当にお世話になっています.......😅
ソシュールの凄いポイント②
言語学の公理を作った
・言語は記号
記号 : ある概念とそれを表す何かが結び付いたもの
=> 記号の中でも言語は特別
シニフィアン : 視覚や聴覚で認知できるもの(文字や音)
シニフィエ : それに結び付けられている概念(意味)
→ つまり、記号とはシニフィアン(音)とシニフィエ(意味)が結びついたもの
○恣意性
恣意性 : 意味と音が法則なく(必然性がなく)結びついていること
=> 「音素」が導き出される
*音声と音素は別物。音素とは、ある言語のグループで使われている具体的な音。
=> 恣意性があると「単語」は絶対に生まれてくる
単語があることで、無限のレパートリーがある文章を作ることができる!
○線状性
線状性 : 音素も単語も一列に並ぶ
おふたりが「恣意性」という言葉を恣意的に用いて会話する姿に感動しました🤣面白かったです!
とにかく恣意性がある(ない)がむずいw
お二人が、ある ないで間違えてるがむずさに拍車かかってる
ランダム性
撮りなおしてくれ!涙
@@tl7j9948 さすがにこれは無理だよな
彼ら二人の間では ある→ないのラングが成立してるや!
言語学素人側の聞き手が賢すぎてたまに置いていかれる
確かに標識、🦌鹿のマークの野生動物に注意と、追い越し禁止のマークがあっても、「野生動物を追い越すの禁止」にはならないね。
「恣」:勝手気ままに振る舞うこと。
「恣意的」:「恣」の定義より、意味が勝手気ままに振る舞う様。転じて、とある事柄の意味を思いのままに捻じ曲げて解釈する様。
「恣意性」:意味が勝手気ままに振る舞うこと。転じて音と意味がそれぞれ独立して振る舞うこと。
つまり、「恣意性がある」という文の意味は「音と意味に繋がりが無く、本来は独立して存在しているもの」、という意味だと理解すれば私は分かりやすくなりました〜(参考までに)。
「恣意性」を定義すること自体が恣意性を知らない人間からすると恣意性があることなので分かりにくいわけです(恣意性が恣意性に内包されてて面白い)。
「恣意性」の意味を恣意的な性質だと勘違いしていたのでなんか逆じゃない?って感じてましたが、あなたのおかげで理解できました。ありがとう!
超助かる
恣意的って自分の中で勝手に「誰かに何かを強い(しい)ること」だと思ってました
なんか似てるし…
歌詞のない音楽(クラシックとか)は、まるでシニフィアンとシニフィエですね。
6度の跳躍(「ド」からその上の「ラ」への移動)は「希望」を表すのですが、それと似てます。
例えば「見上げてごらん夜の星を」は、「ドーラーララーラシ♭ドー」なのですが、この曲は苦学生だった坂本九が、星を見上げて希望を感じて作ったと言われていますが、世界的に見ても、この6度の跳躍は希望を表すことが多いです。
Johann Mathesson
「線状性」については、音声偏重の欧米語、アルファベット(表音文字)で表記する言語で考える人のバイアスを感じます。
また、標識、ピクトグラム、タイポグラフィーなどを作るのを生業としていた元デザイナーとしては、記号の類いも、色彩や形態という単語が(2~3次元の配置により)相互に影響を与えあって意味をなした文という感覚なので、なんだかモヤモヤします。
音偏重で考えても、日本語の文章を読んでいて、音読みと訓読みの音が同時に頭の中で鳴ったり、読めない漢字の意味だけ頭に入ってくる現象をどう理解したらいいだろう…
「止まれ」が水平線なのは、重力による垂直落下の動きに対抗する=運動を止めるイメージという人間の生理に基づいたデザインであり、日本語のオノマトピアのように恣意性の薄い表現だと理解しています。
実際、「ドアの鍵」や「ガス栓」など、身の回りのプロダクトも「止める・固定する」は水平位置に設定されていることが多い。これは恣意的に決められたものに慣れてしまったのでなく、重力のある環境で進化してきた生物の生理に基づくものだと思うんですが…
『メッセージ (英題:Arrival)』という映画では、言語学者や物理学者が宇宙人の言語の解読を試みるのですが、音素に固執したために、宇宙人が漢字の発展形のような視覚言語を使うことになかなか気付かないという展開があります。
その宇宙人の言語って、日本人には白隠の『円相図』にしか見えないような代物なんですけどねww
@@kazuhisanakatani1209 さん、遅いコメントで失礼します。デザイン界でよく言われるアフォーダンス理論ですよね。床に書いた遠近法の線を赤ちゃんでも崖と認識して止まってしまうというとかのやつですね。なので止まれ標識は恣意性がないということかも。
恣意性が低い
=音(シニフィアン)と意味(シニフィエ)のつながりのベッタリ度が高い
ex.擬音語
恣意性が高い
=音と意味のつながりのベッタリ度が低い
ex.数学の記号
ベッタリ度が高いと音素も単語も導けない。
ベッタリ度が低いから音素も単語も導ける。
シーン…という擬音語は恣意性がある事になるのかな?
よく考えたら音の無い状態を表す擬音語ってなんかすげぇな(語彙力)
擬態語かな
シーンとしてる時耳鳴りみたいな音が鳴る気はするけど。
大人になってホント久しぶりに知る、学ぶ事が楽しいと感じる。
恣意性がある/ない が難しすぎて途中から面白くなってきた(笑)
「恣意性」というのは、「記号」の集合の中から任意に取り出した要素を、「概念」の集合の中の任意の要素と結びつけることができる(記号には任意の意味をつけられる(つけてもかまわない)、という公理ですよね。ペアノの選択公理のようなもの。
「人間は同時に一つの音しか発音できない」んじゃなくて、「同時に鳴ってる全てをひっくるめて一つの音としている」んだと思いますね。
もし、beatbox的にバスドラム+裏声とかって発音してもちょうどbaの発音と同じだね、それは二つの音ではなく一つの音だねと類別することになると思います。
それも当然で、音自体が大変数多くの音の組み合わせなのに「あ」だと認識していますもんね。
10:26 欧米の人たちは虫の音が聞こえないって言いますもんね。そういうところにも日常から擬音を拾ってくる習慣(?)のようなものの有無が現れている感じがしますね~
ずっと「汎用」を「ぼんよう」って間違って読んでたのに困らなかったのは恣意性によるものだった…?
おもしろいですね。漢字を適当な音で読んだとしても、自分の中で完結している限りは問題ないのですね。ちなみに私は「凡例」を「ぼんれい」と読み間違えていましたw
確かに漢字の読みって規則性あるのに、凡は「ぼん」で汎は“氵”がついているだけなのに、「はん」なんかーいってなりますね。
法律学では、判例と区別するため、あえて「ぼんれい」と呼ぶことがあります。日本語は同音異議が多いから故の工夫です。
【恣意】自分の思うままに振る舞う心。気ままな考え。
この意味から考えると「恣意性」というのは、ある概念に人間が勝手気ままに音を当てはめることを指すのかな?
概念が人間の言葉を作るのでは無く、人間が概念に言葉を与えた、という理解でいいのかな?
なんか、カントの「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだ」みたいな考え方で面白いですね。
学生で言語学を齧ってSEになって今ビートボックスにハマるワタクシ的神回w
「恣意性」については「恣意的」に置き換えるとあら不思議で誤用が減ります
線状性の話を伺い、なるほど「熟語」とは言い得て妙なのだなあと思い知らされました。
恣意性がある/無いをひたすら間違えてるけど、二人とも綺麗に入れ替わった意味で会話進めてるから齟齬が出てないのが面白い
脳科学的な言語解析のしくみ研究も知りたくなりました😌
ホーミーは、喉で鳴らした音を口の中で共鳴させて2つ目の音を作り出します。喉の音に含まれる倍音を増幅させているので、2つ目の音の高さは、喉の音の高さに依存します。つまり、それぞれに独立したメッセージを込めるのは難しいと思われます。
関係ないですが、言い間違えのせいで分かりにくくなってしまっているので、この回は撮り直したほうが良いと思います!^^;
水野さんが行っているのが背理法ではないのが少しムズムズします、、。
「恣意性がなかったら音素が生まれない」から言えるのは「音素があるなら恣意性がある」であって、今公理として設定している恣意性から音素の存在が言えてない気がします。めちゃくちゃ楽しいですし「ゆる」なので全く良いんですけど笑
まさにそう思います笑 そして既にコメントしたのですが、音素の存在を認めた方が自然な気がしますよね。
単語から文章が生まれると言った話では、単語の存在を認めればそれを線状性で適切に組み合わせることで文章が生まれるってことで、恣意性は関係ないと思います。(恣意性から単語の存在が導かれるのかはよく分かりません泣)
あー! なんかガバい理論だな?とは思ったけど自力では違和感の正体が掴めなかった。
このコメントみてバチっと嵌ったわ。ありがとう
線状性は1次元かなあ。
映画『メッセージ』の原作『あなたの人生の物語』では数式と楽譜は2次元に配列する言語だってはなしがあったことを思い出しました。
5線のどこに♪があるかで意味が変わるとか、a^2とa_2とa/2はそれぞれ別の意味とか。
恣意性があるなら単語があるという話ですが、翻訳等の機械学習について考えると面白いかもしれませんね。例えば日本語→特徴量→英語とするニューラルネットワークにおいて、ある特徴量の1層を抜き出せば、それは恣意性のある文とみなせるわけですよね。確かに01という音素を持っていますが、一つ一つの特徴量は音素なのか単語なのかという疑問が湧きます。もちろんソシュールの時代はこんな話題あるとは思えないですし、もしソシュールが今の時代にタイムスリップしたらたまげそうですよね。
音声(アナログ)を恣意性という枠組み(アルゴリズム)でデジタル化した(枠組みに当てはめた)ものが音素ですね。面白いです!
それと日本語の擬音語・擬態語についても是非お願いします!
失礼します。
「言語には恣意性がない」の反例は公理の表現をほんの少しいじるだけで
たやすく回避できると思います。
すなわち
恣意性がない
ではなく
恣意性が不要(あるいは恣意性がない部分が必ず含まれるの方が正確か?)
=一部に恣意性があっても構わない。
と言う表現に変える、と、いうことです。
この公理でも十分に「有限の性能で無限の表現力を獲得すること」を達成可能なのであって
恣意性を感じさせる語感や単語が存在することは許容されている、と考えるべき、ということです。
バーン、ぽちゃん、などの擬音は、そもそも、物理現象で発生する音を
そのまま言語体系内の音素の組み合わせに落とし込んでいるのだから、これをわざわざ
必ず別の音に置き換えなければならない、などという無駄な排斥を行う理由はないはずです。
また、そういった物理現象由来の音の響きなどの影響で、言語体系の異なる文化間で
共通したイメージを誘発する音が存在する、ということが、起こり得ることは容易に想像がつきますし、
キキ・ブーバ実験の結果も言語の公理を定義する上での恣意性の議論に何ら影響すると考える必要はないはず、そう考えると
上記の公理表現への変更ですべて解決すると思います。
自分からすると、ものすごく、当たり前で単純な話なので、
むしろこういう結論に向かわないのには、何か理由があるからなのか、
ということが気になります。
さらに、この議論から想起した、気になったポイントは
単語(あるいは文)と概念は一対一対応ではなく多対一対応であっても言語の根本は揺るがない
ということです。
たいていの擬音語は日本語でも、
その擬音を表す明らかに恣意性のある別の単語が用意されているように見受けられますし、
そうでなくても、恣意性のある単語の組み合わせの文で表現することが可能なはずです。
バーンなら”破裂音”
ぽちゃんなら”水に小さい物が落ちる音”
などです。
現実をより近いニュアンスで伝える方法をその都度選択して表現することができる
というだけで、これらのどちらが間違っている、ということでもないはずです。
そして、これを拡張すると、猫の概念Nekoという単語に紐づけることと
Catという単語に紐づけることも同じ多対一対応の例の一種と言え
だからこそ両者は言語である、に加えて、
「だからこそ多言語を学ぶことが可能なのである」
一つの重要そうなという事実にまで到達可能であり、
これらはすべて、言語の恣意性に関する公理から論理のみで導き出せるとおもえるので
非常に納得感があります。
ここまで考えると、ソフトウェアエンジニアとしては、残された排他条件が気になるので
では単語と概念が一対多や多対多で結びついちゃダメなのか、という議論を抑えたくなりますが、議論の筋が外れ、新しい大きなテーマに直面してしまうので止めておきます。
ホーミーとかビートボックスで会話できるようになったら会話の密度が濃くなって会議とか校長先生の話とか短時間で済むかも
でも
あいうえお
あいうえお
と
あいうえお
あいうえお
で意味が違うんですよ~とかなるんだろうからめっちゃむずそう。。。
頭がついていかんのではないですか?
このpodcast、面白すぎでしょw
ソシュール言語学読んでいた学部時代を思い出しました
仮に人間が伝えたいものを正確に立体的に出現して伝えられる出力機能があったとしたら
「犬が走ってる」を伝えたい時は、犬が走ってる光景をそのまま写しちゃえるから、恣意性が無くなるってことかな……?
視覚化できない概念を表現するためには恣意性が必要な気がします
また「犬が走っている」と「犬が走っていた」を区別するためにも必要かな?
ビートボックスやホーミーが誰でも出来て、言語に組み込まれているものだったなら、全然違う言語体系だったのだろうし、逆に一部の人しか出来なかったり訓練が必要なものだからこそ例外的に取り上げられたりパフォーマンスとして成立しているのだろうな
私はソシュールにもホーミーにも詳しくないが、ビートボックスを全員ができても言語体系は変わらなかったんじゃないかと思います。
ビートボックスの「(口の中の)チュクチュク」と「(喉の)フーン」をそれぞれ「明るい」と「おじさん」にしてもこの二つを同時に出しても「明るいおじさん」という一本の直線的な情報にしかなりません。
「チュクチュク」→明るい
「フーン」→おじさん
「チュクチュク(同時)フーン」→明石家さんま
という三つの単語を作るのと同じではないかと思います。
もし口の中に「プス」「シャカ」を足して、喉の音に「ボーン」「カーン」を足して、
「プス」→今日
「シャカ」→空
「ボーン」→昨日
「カーン」→来る
として
「プス(同時)ボーン、シャカ(同時)フーン、チュクチュク(同時)カーン」
↓
「今日空明るい」「昨日おじさん来る」という関係ないことを同時に認識できたら線状性を破れるのではないかと思います。
遅ればせながらハマって追いかけています。
大学の時なにかの授業でよくわからず聞いていたシニフィアンとシニフィエにこんなところで出会えるとは……!!!
ロシア語の歴史の授業かな、、それすらも忘れてしまいましたが、おふたりのおかげで楽しく学び直せています◯
言語を理論立てて考えるという行為がめちゃくちゃ楽しいです!
絵文字のくだりで幼稚園のころ読んだ「おばけとぼく」という絵本を思い出しました。絵本の文章の文字がすべて絵文字になっていて,その絵文字のものの頭文字を読んでいくと読めるという作品です。当時は単純に面白いくらいにしか思っていませんでしたが,今すごく実験的な作品に思えてきました。
「恣意性がない」の意味を、「必然性がある」かどうかで判断してるところが、否定形の否定みたいな活用を起こして話を分かりにくくしてる気がします…
やっぱり恣意性があるない逆だよねw
podcastで聴いてたから混乱したww
単語の発生の根拠として①②③がありましたが、①の恣意性があるはなくても②の人間の記憶は有限と③の覚えたい事がいっぱいあるの二つだけでも導けそうな気がしてなりません...
個々の人の発する言葉は音声的に全く同一であることはあり得ないが、仮に
ʌ 、ə、 æ 等のような音声を" 恣意的に "「あ」という一つの音素とし、
i 、 j 等のような音声を" 恣意的に "「い」という一つの音素とすることで
ʌ i 、əi 、 æi 、ʌ j 、əj 、 æ j のように本来の音声が異なっていても
「あい(愛)」という一つの概念を持った単語が生まれ言語となる…
さらに単語を" 恣意的に "並べることで意味を持たせた文が生まれ言語大系が拡がっていく…
ってことかな?
おふたりが恣意性あるなしを逆の意味で捉えてたから、もうめちゃくちゃ混乱したよー笑
自分はPodcastで聞いてたけど、念の為ここのコメント欄覗いて本当に良かった
この回だけは何回も聞いちゃった笑
でもおふたりのこのチャンネルは好きなので、頑張ってください!
今は#1から順番に聞いてるので、最新回まで追いつけるようにこれからもちょくちょく聴いていきます!
面白い動画でした! 本筋とは関係ないけど、外国語をマスターしようとすると10、20万語覚えなきゃいけないのか~
「イルカが喋るのは嘘」の回で、イルカの言語は概念と一対一対応してるようなことを言ってたけど
もしかすると人間が言語で会話が出来るのって、言葉の意味と音を切り離すことが出来た動物だったからなのかな?
共時態のラング、とならべた方が、ある時点でのラングとなって理解しようとする時にしっくりくる😂専門用語だからそうあるべき理由があるのでしょうが😂
たぶん、共時態には人が共有するというニュアンスが含まれる一方である時点では人を介するニュアンスが含まれない。だから、ラングに対しては共時態がしっくりくるし、ある時点ならテクストといった人を介さず無機的に存在できる概念に対してしっくりくるんだと思うよ。
@@umakura8102 ありがとうございます!いただいた意見をもとにゆっくり考えてみます!
4:40
⛔(シニフィアン)➡️「進入禁止」(シニフィエ)
音(シニフィアン)➡️意味(シニフィエ)には恣意性がある
恣意性が「ある」と肯定的に言われると、「関連がある」とイメージしてしまう。
「恣意性がある」を「たまたま」「理由はない」、「恣意性がない」を「関連がある」「根拠がある」と雑に言い換えたら、わかりやすいかも。
興味深くて面白い話ですね。
数学の公理と並べて話すと、「どんな言語にも主語がある」というのは平行線の公理みたいに思えてきますね。
恣意性がある、ということが直感的には逆の意味っぽく聞こえてややこしい…笑
恣意性がない世界だと「川」と「川に行く」と「川に行って洗濯をする」にそれぞれ単語が必要になって、覚えきれない
だから山とか行くとか単語を生み出して、その組合わせで対応する、みたいな感じですかね?
この理解でいくと、恣意性があるから単語が生まれたというよりは、「恣意性がない世界では単語しかなくて不便、だから文を生み出した、その結果文と対になる概念として単語が生まれた」みたいに思います
言っててややこしくなってきました
テッド・チャンの「あなたの人生の物語」(映画化されて「メッセージ」)に出てくるエイリアンの言語は線状性の対極にある言語と言うことですね。そういえば主人公は言語学者でした。
なんだか恣意性と二重分節の関係がよくわかりません。
二重分節の話はマルティネですよね。マルティネは「二つ目の分節(音素の分節)はシニフィアンの形式をシニフィエの性質から独立させることができる」と書いていますが、これを読むとむしろ「二重分節があるからシニフィエとシニフィアンの間に恣意性が生まれる」と言っているように思えます。そのため、「恣意性から音素が導き出される」というのは逆だと思いますが、いかがでしょうか?
恣意性があるはランダムってことだから、〜があるって聞くとルールがあるみたいに思う
エントロピーの増大と同じ
ここ数日毎日拝見しています。
面白い動画をありがとうございます。
面白くて眠れません。
寝不足です。が、明日(今日!?)は土曜日なので余裕です。
この動画の喋り方では、線状性は人間は同時に2つの音を発声できないという公理から導かれる定理であって、公理ではないような。
①恣意性があるから音素が生まれた
一言語の中で恣意性がなかったらネコを表す音がその音以外ではありえないけど、事実上それは無理だから、ネコって聞こえる音みたいなのを作る必要があったって感じですかね。
ネコに音声を当てはめるって意味では恣意性はあるような気もするけど、、、
というか音に当てはめようとした時点で音素は必要になりそうですね
②危ないをバガーってしてる時点で恣意性があって、でもそういう文を対応させてると記憶のメモリ的に不便だから単語が生まれた
10:48 BOMB は語源を辿ると擬音語だよね…
SMASH!!とかが良い例なのかな
恣意性がある → 音素がある
の命題が真であることを背理法で証明するには、
音素が無い → 恣意性が無い (対偶)
が真であることを示さなければなりませんが、動画では
恣意性がない → 音素がない の証明しかしてないように思います。これでは 音素がある → 恣意性がある の証明になります。そして正直音素の存在の方を認めて公理にした方がスッキリすると感じました。(人間は特徴量でクラスタリングする能力が備わっているので。)また、
「音素の区分けに恣意性があるのか」という命題は全くの別問題であり、これは上の公理からは導けないと思うのですが、どうでしょうか…?
くっそむずい。
あと少しでわかりそうなのに…
絵画(?も色々ですが、恣意性がない)と、文字(恣意性がある)の分岐点として、エジプトの象形文字を思い出しました。
鷹や斧が文字になっていますが、元の絵としての意味は保存されておらず、アルファベットとしてのみ機能している。
自分には絵に見えるので不思議です。
恣意性(音素)で言語とは関係ない事を思った。
人類の大半は相対音感で絶対音感を持たない。
絶対音感は生まれた時は持ってるのに徐々に衰退していくので、だから子供の頃の訓練で習得可能、というよりは衰退を遅らせてる。
しかし、会話においては絶対音よりも相対音(音素)のほうが重要だから、汎用性のために絶対音感を捨ててるのだろう。
絶対音感は言語野と強く結びついてるのがわかってるし、ドという言葉でド以外の音程を発音すると気持ち悪いとか有名な話で、毎日そんな事を感じてたら生きづらいから相対音感を選んだのかな。
記号が成す大きな体系は「言語」それから「貨幣」もそれにあたるとすれば「ゆる経済学ラジオ」も聴いてみたいものです。それとウィトゲンシュタイン先生も取り上げて欲ちい
23:22 「人って同時に2つの音を発音することはできないから…」
モンゴル人「俺、人じゃなかった…」ホーミーシンガー涙目😭
(言語学関係なかった)
と思ってたら動画内でホーミー触れられてた。
同時に複数の音を鳴らした場合はそのような1つの音素として捉えられることが多いです。
例えば、日本語のtsやドイツ語のpfがそうです。
日本語の擬音語表現はある程度自由に使う事が許されるってのが私の直感です。宮沢賢治さんは独特の擬音語、擬態語を使いますが、それでも読む側は「こんな単語知らない」とは言わないわけで日本語はある程度、擬音語に対する共通認識があると言うことなのでしょうか?
標識には「線状性」がない、という話に関してですが、日本の交通標識の中には、他の標識と組み合わせて意味をなすものがあります。「~終わり」を表す「 ⇔ 」というやつです。そのほかには(ある標識が)有効な時間帯を表すものもあります。
23:54
「進入禁止」のプレートと「○○時から××時まで」のプレートを
一つの柱に同時にくっつけて「○○時から××時まで進入禁止」の意味を作ってる標識は見たことあるかも
途中の言い間違えラッシュwwwすき
恣意性があるとかいうと分からなくなるので、音と意味を勝手に結び付けてよいというのが恣意性であり、勝手にではなく法則に基づくものであるというのか「規則性」=「非恣意性」ということである。日本語の擬音語は日本人にはその法則性が感じられるので、「非恣意性である」つまり「恣意性がない」ということになるのである。これまで理解できてない人や間違って理解していた人はこれで分かると思います。
言語に線状性がある、に対して、ビートボックス等の例を挙げられていましたが、ビートボックスも2列や3列の線なので線状性があると言えるのかもしれません。
線状性が無いとは、1度に複数の音を鳴らす(または一斉に複数の単語を発言する)事でも、ただの足し算ではない意味を持たせる事ができる事だと考えると、
音楽、特にオーケストラ等の、一度に鳴らす楽器の組み合わせで異なる意味を持たせることなどが、線状性の無い表現と言えるのでは無いでしょうか。
論証できてそうだけど後付けだよね。でも自然科学って自然から「発見」してくるものだからそれも「分かる」いや「分くある」。
難解な内容ですので、専門用語の誤用を字幕を読み読み訂正しながら聞くのは難しいです。
恣意性があるって日本語?でいうと
「夜露死苦」ってことですよね、実際にやべーやつが使ってますね。
ひらがなだって、もとを辿れば「与呂之久」でしたよね。
認知症の勉強した時に、段々と記憶が消えていって、言葉の意味もあやふやになっていくと、他人の言葉が分からなくなるし、自分が思う事も正確に伝えられない。言語ってのは言葉(音)と意味が一致してないと使えない。って考えた事を思い出しました。
シニフィアンとシニフィエがごっちゃになるのは文学研究の理論書読んでいた時にあるあるだなあと思ってなんか変に共感してしまった
動物の鳴き声で言えば、犬は日本語だと「ワンワン」で英語だと「bow-Wow」、ニワトリは「コケコッコー」(日)「cock-a-doodle-doo」(英)、猫は「ニャー」(日)「meow」(英)と似通った表現をしてるのに、豚は「ブーブー」(日)「oink」(英)、ネズミは「チューチュー」(日)「squeak」(英)と全く違うので、動物の鳴き声のような擬音語でも日本語よりも英語の方が恣意性が低い(音と意味の結びつきが強い)ような気がする。間違っているかもしれないが。
お茶はどの言語でも「チャ」か「テー」の2パターンに近い呼ばれ方をしているのもsushi的なことなんでしょうかね
広東語で「チャ」福建語で「ティー」と呼ばれていて、どちらから伝わったかで大まかに発音が決まったというのが定説のようです。それが正しければ、sushiと同じですね。
ホーミーが量子論で線状性が超弦理論のような感覚を受けました。
26:19 ホーミーも
ヒューマンビートボクサーも
ラングの共時態じゃないから
違うんだろうなぁ
恣意性がある
「この物にはこの意味と定義される」
恣意性がない
「どんな物にもこの意味を感じる」
意味が複雑になるほどポチャンみたいに簡単に表せないから、恣意性が生まれてくるんですかね
すごく面白い
音素の定義は音じゃなくて、単位ではないですか?一つの単語を他の単語と区別するための音韻的の最小単位?
例えば意味が異なる2つの単語catとdogの最小単位はcatとdog、catとcapの最小単位は t と p 。
ラーメンズの「名は体を表す」ってネタで、道路とロードは音が似ていて同じ意味だとか、アストンマーチンとボルボとベンツは多分車しらない人でも音だけで当てられるとかいう話が出てきたなー
線状性という観点からすると、言語と音楽ってすごく似てるんだな、と思う。
どちらも連続した時間の流れに沿って、決まった順番で音が流れて来るからこそ、理解が出来る。
スコアの音を同時に全て奏でても音楽にはならないし、バラバラの時空間に配置された音素を集めて言葉にすることも出来ない。
ホーミーもビートボックスも一部だし、言語という枠組みではなさそうだから、結局線状性というものは成り立つと思います
手話も言語だとすると、右手と左手で違う概念の同時発話ができますし、3次元で表現されるものだから線状性の概念の例外になるように思いましたがいかがなものでしょうか?
手話は障害がなくても使える言語ですから、右手と左手と発声とで同時に何かを表現したときに生み出される合成語みたいなものは存立し得るかなと、コメントを読んで思いました。どうせなら右足と左足と顔の表情なんかも足し合わせたらいい。顔に関しては言葉と表情を「不一致」させることで違う意味を生み出すみたいなことを普段からやっているので、線状性の概念の例外はここそこにあるかもと考えさせられました。
学問的にはどこかで切り分けないとキリがないってことでその辺は別研究でってことになるのかもしれませんし、あと現実的にどこまで使えるのか、使われているのか、普遍性は持ちうるのかとか、の要素もあるような気がします。このあたりを有効活用できればもしかしたらもっと会話の濃度が濃く短く済むはずですので、「時短」につながるかもしれませんね。
でもそこまで来ると今の人類では難しすぎて出来ないような気もします。全人類が一流のアスリートかつ一流のボーカリストレベルで体と声を統合できれば、そういう未来も予見できるかもしれません。ダンサーの動きを概念化して共通言語として用いることができればまさしく全身で意思を正確に伝えられるかもしれませんね。でもどの分野でも一流と呼ばれる人間っていうのはそのことが可能だからこそ、「人間離れした」ことを、やってのけているのかもしれません。
それは今の人類が絶滅してより高次元の人類(ヒト型かどうかは疑問ですが)が誕生して現代の一流のあらゆる分野のアーチストが「標準の水準」みたいな時の、超効率的な生命体かもしれません。あるいはそんな奴らが地球外からやってくるかも。
なんか、マリアコルネリアさんのコメントを見て、すごく面白いと思ったので長文失礼しました。線状性の概念の例外って想像したら、私個人としてちょっとワクワクしたってだけですので気を悪くしないでください。
@@francescogatti3002 そうか。健常者なら手話と発話の同時性を実現出来るんだ!
目から鱗のご指摘、参考になります。手話は聾唖者のものって思い込みで発想の自由を勝手に狭めてしまってました。
モンゴルのホーミーの話も出てきましたが、ピアノの弾き語りみたいなもので、発音機構が声帯ひとつに限定されるという制約が無ければ線状性の概念も大きく変わりそうですね。
「右手と左手で違う概念の同時発話ができます」というのは偽です。なぜなら、手話で話す時に、左手と右手の手指動作(これも音素と呼ぶ)を合わせて初めて一つの語となっているわけで、左手と右手が同時に別の概念を表すことがありません。
しかし例えば日本手話では、日付を表すときに、確かに非利き手で月を表し、利き手で日を表しています。ただこのような表現であっても、例えば〈5月1日〉という単語は、まず非利き手で数字の〈5〉、それから利き手で〈月〉(
親指と人差し指で三日月をなぞる)、最後に〈1〉を表すわけで、線状性を持っています。
これは、〈5〉〈月〉〈1〉という三つの形態素によって構成される一つの単語と言えます。手話の文も、単語と単語が連なって時間の次元で線状性を呈しています。
手話という視覚言語は音声言語と比べれば、確かにより簡単に音素を同時に表すことができるかもしれませんが、それでも時間という軸で展開して発話しているわけですので、線状性があることの例外にはなりません。
実は音声言語の同時調音というものも似ているのではないでしょうか。例えば [z] という音を発する時、声門の振動(有声音)及び舌先を [s] の位置にする(歯茎摩擦音)という二つのことが同時に行われていても、これも合わせて初めて一つの単位となっているわけで、ただこうであるのにもかかわらず、音素を組み合わせた形態素でも、形態素を組み合わせた単語も、単語を組み合わせた文でも、時間という軸に展開していることは間違いなく線条的です。
仮に線状性がないものとは何かと言いますと、絵です。確かに、絵を鑑賞することによって、何かしらの情報の伝達は可能です。ただし絵は二次元であって、時間において展開することができないため、線状性があるとは言えません。
「恣意性がある」だから判りにくい&焦点しぼりにくいんであって、「恣意性しか無い(それ以外は無い)」だったらきっとより明確だし言い間違いも起きなかったんだろうな。MECE問題というか。
観てると「恣意性」がゲシュタルト崩壊しますw
めっちゃおもろい
閄(ものかげからきゅうにとびだしてひとをおどろかせるときにはっするこえ)
中国はわけのわからないものにまで漢字作ってるよな
恣意性の有無の話してるとき所々言い間違えてるからテロップなしだと混乱しそう。というかラジオ感覚で聴いてた時は混乱したけどテロップありきで見ると理解しやすかった
動物のコミュニケーションは恣意性がないから単語ができないってことですよね
未開の部族の謎の言語(あるのか知らんけど)は恣意性があるのか。恣意性がない人類はいるのか気になる
ホーミーって動物のコミュニケーションに近いから言語とは別枠になるのかな…?
赤ちゃん言葉は音で概念を表そうとするから恣意性がないのか。簡単な単語を覚えて初めて言語になるのか
25:48 突然のシンセ(水野さん)
英語に擬音語が少ないのは単にローマ字の組み合わせが少ないから(単語としてすでに使用されてる並びが多いから)じゃないかって勝手に思ってた
低次元な話で申し訳ないですが音素で思い出しました。
英語の授業でappleの発音をアとエの間と教わった時のこと。言われた通りアとエの間でチューニングしながら発音練習をしていましたが、内心苛立ってました。「限りなくアに近いエ(またその逆)を目指すとある一点を超えたところでエ(ア)になってしまう。ピッタリ五分の境界に新しい母音をくれ。」
グルーピングのことをデータ分野ではクラスタリングと言います
音声・音素で言うと、音声は点ですが音素は線や面で表現できるんじゃないでしょうか
クラスタリングで調べてみるとイメージしやすいかも知れません
中盤何いってるかわからなかった笑
最後でギリついていけるレベル笑
17:51 ここ少し気になったのですが、仮定として「人間の記憶力が有限」っていうことを使っているのなら、これも公理に含まなければならないということにならないのですか?
仕事で最近の自然言語処理すげぇと思ってるけど,
あれは概念に文ベクトル(分散表現)を対応させているので,単語必要ない.
「後ろが危険だよ→バーガー」という世界
考えてみると,世界が誕生してからこのかた,人間の全人口1000億人,100年生きるとして毎日10000文生成するとしても,概念数は10^20を超えないから,符号にしか意味ないとしても65次元もあれば十分表現できる.
素敵な対談を発信していただきありがとうございます。
毎回話が面白くて興味が尽きないです。
ただ、恣意性があることと単語の誕生の必然性がいまいち分かりませんでした。。。
動画内での、①恣意性がある ②人間の記憶力は有限 ③表現したいことがたくさん
→だから単語が誕生したし恣意性があるんだという理屈に違和感を覚えてしまいます。
概念を切り分けた最小単位が単語であるという先入観に囚われて、論理的な正しさが無視されている気がします。
というのも、私たちが単語としてみなしているものを、文とする言語を作ることはできそうだからです。
また、私たちが文として表現するものを、単語とする言語も作れるでしょう。
あくまで単語は、ちょうど良く細かい概念であって、本質的には動画内でいっている文と同じなんじゃないかという直観があります。
上記の②と③から、無限の組み合わせで概念を表現できる「単語」と今呼んでいるものが必要だという事は分かりますが、
①の真偽は無関係なのでは、と単純に疑問に思いました。
ぴったり1対1対応ではないにしても、ある程度「緩い」恣意性のなさは考えられるんじゃないかな、と。。。
門外漢なので頓珍漢なことを言っているかもしれませんが、もう少し詳しい説明が欲しいです!
本は線状性がなかったら安く買えるかな。一文字のサイズしか必要としないから。
恣意性の話、
ネコと発音したときに、発音する人100人いたら100人とも違うネコという音になってるけど、人間は同じ様に聞こえるという話ですよね。
この特性は、言語に限らず、実際には同じ猫はいないにもかかわらず、ねこと認識することができる。
人が手書きでCATと書いた時、同じ形の文字がないにもかかわらず、CATと読むことができる。
これは人間だけができることらしいです。
擬音語は、音の表現をその音そのものと受け取るということかな。つまり、結びつく意味?や概念が介在しない…。
例えば文字の恣意性について言うなら、英語は“A”はそれ以上でもそれ以下でもないけど、漢字(ひらがな、カタカナ)は象形文字だから“阿(あ、ア)”は元になった“もの”があってそれだけで意味を持つ…ってことでしょうか?
と思いましたが、英語の起源も“もの”から来ているようなのでよく分からなくなりました。