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特急「はと 大阪行」→🇯🇵東京🗼→ 🗼横浜 → 熱海🍊→ 🍊静岡 → 浜松🌲→ 🐔名古屋🏯→ 🍚米原⚡️→ 🌲京都 → 🐙大阪 🇯🇵
当時高槻付近にあった療養所を通過するときに上りのつばめとはとではそれぞれつばめガールはとガールが手を振っていたというエピソードも残っています。ところで浜松では以東はEF58型以西はC62型で下りは浜松機関区、上りは宮原機関区が牽引しました。また浜松では機関車の付け替え時間を利用してホームでラジオ体操が行われていた。
恐ろしいのは、この当時の「はと」のダイヤと現在の「青春18きっぷ」で乗り継いだ乗車時間とほぼ差がない事
ちょっと興味あったので、自分なりに調べてみました。普通熱海行東京12:27→熱海14:11(1時間44分)普通静岡行熱海14:13→静岡15:30(1時間17分)普通浜松行静岡15:33→浜松16:44(1時間11分)新快速米原行浜松17:00→米原19:39(2時間39分)新快速網干行米原19:54→大阪21:17(1時間23分)合計8時間14分特急「はと」の乗車時間が8時間00分なので、14分の差しか無いんですね、調べてみて驚きました。
@@快速アクティー-w6h 様へ。電機牽引の客車列車から151系電車に車種変更して6時間30分運転してますから。電車の方が速いんでしょうね。
「はと」は平和の象徴、戦後の列車名に相応しい。
東京PM12:30と遅い出だしで内田百閒先生が愛用し阿房列車執筆のきっかけとなった「はと」号ですね!時期的にもこのダイヤでの運行でしょう
「特別阿房列車」に「12時半に東京駅を出て大阪まで8時間」と書いてあるので、まさしくこのダイヤの「はと」ですね。そして一等車と。いやあ、この時代に乗ってみたかったものです
追い抜き情報たすかる
近江八幡でも大阪行普通列車を追い越していますね。東京発6:00(6時間30分前)
親戚のおじさんが宮原運転区に勤めていて はと つばめ のホーローのサボを所持していました さすがにいただけませんでしたが 関西鉄道開通100周年で走ったSL白鷺のサボをいただきました現在も自宅に大切に保管しています サボには宮の表示があります 運行終了時に職員で分けたみたいです これからも大切にしたいと思います
あなたが亡くなった後どうなるかまできちんと今のうちに決めておいてくださいね。捨てられたり転売ヤーに渡ったら最悪なので
「はと」が実際どうだったのかは不明ですが、参考までに1950年での「つばめ」の2等車は、GHQの一部門であるCTSからの指導を受け、それまでのスロ40のような固定式クロスシート車(「並ロ」と呼ばれていた)から簡易リクライニングシート車(「特ロ」「トクニ」と呼ばれる)に置き換わりましたが、3等車は未だにスハ42/オハ35/スハニ32などのボックスシートのままで、ほとんどは戦時中の生き残りの寄せ集めでした。さすがに特別急行らしく編成内に3等車は3両ぐらいしか連結していなかったそうですが・・・さすがにそれではまずいということになり、翌年に特別急行用3等車(通称「特ハ」)としてスハ44・スハフ43・スハニ35が製造され、リクライニング機能はなかったものの若干傾斜した座席が装備されて多少は改善しました。
この時代簡易リクライニングシートはなくて、転換クロスシートだったのでは?それとスハフ43型は不定期臨時特急さくらと京都・博多間のかもめだけです。つばめと、はとはスハニ35型です。
客車列車で最後尾は展望1等車(三等級時代)で、特ロ(2等車)3等はスハ44の編成で、はとガールが乗車していたとか。10年後の1960年に151系に電車化。その時誕生したのがパーラーカーとか。でも、名古屋まで5時間、今は新幹線で1時間半ほど、技術の進歩を肌で感じます。
特急はとはヨンサントウダイヤ改正からヨンナナサンダイヤ改正まで583系しか使用されていません。2往復ともです。485系が使用されるのはヨンナナサン後のゴールデンウィークから1往復で開始され秋までに181系電車を置き換えられ1往復は特急つばめに改称されて熊本まで延長されています。また年末年始の繁忙期には大分まで延長されて夜行の臨時特急夕月と共通運用になっています。この臨時延長は後に特急みどりになり定期列車へとなっています。ちなみにヨンナナサンダイヤ改正ではスジは4往復だったが、181系の3往復だけで1往復抜けていました。485系の新製が間に合わなかったからです。同じことはつばめでもありました。
2時間前に東京駅を発車した鹿児島行急行に大阪まで逃げ切られているとは...
動画お疲れ様です戦後復興の象徴的名称として"はと"が使われましたが、個人的にはこの時点で富士にしてれば戦前から特別急行として存在した"富士"の愛称としての格が保たれてたのかなとたまに思ったりします。
「のぞみ」より格上過ぎたので新幹線に転生出来ない「はと」個人的に「富士」と仲良くリニアに転生しないかな、と思います
浜松5分停車ということは、ここで電気機関車から蒸気機関車に交代していたのでしょうか?
間違いありません。
@@TSUYOS185なぜ間違いないと言い切れるんですか?
100%正解です。下りは浜松機関区上りは宮原機関区が担当していました。5分停車の間にホームでラジオ体操をしていたそうですを昭和28年10月には名古屋まで電化が完成してSLは下り名古屋機関区に変わり、昭和30年に米原電化で上下とも宮原機関区のシロクニに変わって昭和31年11月に全線電化に伴い、EF58型牽引になっているけど、上り初列車はEF58型89号機で菱形の記念ヘッドマークを付けていた。ちなみに2号機のつばめマークはたまたま鷹取工場に入場していて冷凍車の廃材ステンレスで作られている。当時から2号機は力はあるが蒸気漏れを起こすなどあまり調子は良くなくて、黒ナンバープレートでした。
停車駅が少ないのでわかりにくいが、浜松、名古屋までは速い。最後尾に展望車を付けた特別急行列車は沿線の子供にはあこがれの存在でした。
C62で運転しているであろう特別急行はと号は速達性では新幹線のぞみ号には敵わないが、豪華さや風格では勝ってると思いますね。
東京駅を出るときは最初はEF55でしたが、後にEF58になりましたね。青大将時代も含めて客車特急としての活躍がたった10年というのが意外でした。
いつもありがとうございます。戦後復興の象徴として、東京と大阪の二大都市を結ぶ特急が新設されたのは自然な流れですね。客車列車として活躍したのは10年だけでしたが、その間に我が国の鉄道技術や接客サービスが大きく改善されました。スピードだけを見れば現在の普通電車の乗り継ぎとあまり変わらないものの、当時としては国鉄の最高級の列車として活躍していた様子が良くわかりました。
特急はとは平和の象徴ダダたので名付けられたのだは?たしかに特急富士はサンロクトウダイヤ改正で名付けられましたが、新幹線新大阪開業で寝台特急みずほの付属編成が独立した形で誕生していて上りはともかく下りは夜間に入り、見れなくなってしまっている。一番良かったのは新幹線の愛称に付けるのもあったかな?ただ新幹線は特に東海道では3文字になっているみたいです。
熱海着の時刻だけ見ると臨時s.v.踊り子のダイヤみたい。
svってなんですか?
追い抜き列車の情報があると、当時の特急がいかに「特別な」列車だったかがよく分かります。東京を「はと」より4時間先に発車した普通列車に名古屋で追いつき、さらにわずか米原までの間で約1時間の差をつけていますね。さらに東京を2時間先に発車した急行も、京都〜大阪間で追い抜いているようですし。また、京都や大阪での乗り換え列車で、所要時間がとんでもないことになっている列車がありますね。青森発大阪行き普通→30時間41分東京発鹿児島行き急行→32時間00分こんな列車があちこちで走っていたんでしょうね。
熱海駅はさすが名だたる温泉地、町の規模は小さいのに主要列車が停まるんだなあ😮🚆ちなみに磐梯熱海も伊豆の熱海が由来とか😊
ロマンだなぁ
特急「はと」 東京 → 横浜 → 熱海 → 静岡 → 浜松 → 名古屋 → 米原 → 京都 → 大阪 🌰
せっかくだから神戸から東京までの臨時特急列車を走らせたらいい。神戸駅1番ホームからならいいと思う。
この列車名は、おそらく「へいわ」よりは速そうで似たようなイメージの鳥だから採用されたのだと推測します。ただ、そんなに速そうなイメージがないので、特急名としては今後復活しないでしょうね。
@@kataakeo7730 さま戦後は鳩は平和の象徴とされていますが、満鉄の初のネームドトレインとして大連~長春を結んでいました。後に我が国の最新技術の粋を集めた特急のあじあ号のサポート列車になりましたが、戦争が激しくなってもお客を運んでいました。ウクライナやガザなど世界各地で紛争が絶えない今こそ平和の象徴として復活させてもいいような気がします。一番良いのが西九州新幹線が完全フルになり広島と長崎を結ぶ列車のような気がします。
特急「はと 大阪行」→🇯🇵東京🗼→ 🗼横浜 → 熱海🍊→ 🍊静岡 → 浜松🌲→ 🐔名古屋🏯→ 🍚米原⚡️→ 🌲京都 → 🐙大阪 🇯🇵
当時高槻付近にあった療養所を通過するときに上りのつばめとはとではそれぞれつばめガールはとガールが手を振っていたというエピソードも残っています。ところで浜松では以東はEF58型以西はC62型で下りは浜松機関区、上りは宮原機関区が牽引しました。また浜松では機関車の付け替え時間を利用してホームでラジオ体操が行われていた。
恐ろしいのは、この当時の「はと」のダイヤと現在の「青春18きっぷ」で乗り継いだ乗車時間とほぼ差がない事
ちょっと興味あったので、自分なりに調べてみました。
普通熱海行
東京12:27→熱海14:11(1時間44分)
普通静岡行
熱海14:13→静岡15:30(1時間17分)
普通浜松行
静岡15:33→浜松16:44(1時間11分)
新快速米原行
浜松17:00→米原19:39(2時間39分)
新快速網干行
米原19:54→大阪21:17(1時間23分)
合計8時間14分
特急「はと」の乗車時間が8時間00分なので、14分の差しか無いんですね、調べてみて驚きました。
@@快速アクティー-w6h 様へ。
電機牽引の客車列車から151系電車に車種変更して6時間30分運転してますから。
電車の方が速いんでしょうね。
「はと」は平和の象徴、戦後の列車名に相応しい。
東京PM12:30と遅い出だしで内田百閒先生が愛用し阿房列車執筆のきっかけとなった「はと」号ですね!
時期的にもこのダイヤでの運行でしょう
「特別阿房列車」に「12時半に東京駅を出て大阪まで8時間」と書いてあるので、まさしくこのダイヤの「はと」ですね。そして一等車と。いやあ、この時代に乗ってみたかったものです
追い抜き情報たすかる
近江八幡でも大阪行普通列車を追い越していますね。
東京発6:00(6時間30分前)
親戚のおじさんが宮原運転区に勤めていて はと つばめ のホーローのサボを所持していました さすがにいただけませんでしたが 関西鉄道開通100周年で走ったSL白鷺のサボをいただきました現在も自宅に大切に保管しています サボには宮の表示があります 運行終了時に職員で分けたみたいです これからも大切にしたいと思います
あなたが亡くなった後どうなるかまできちんと今のうちに決めておいてくださいね。捨てられたり転売ヤーに渡ったら最悪なので
「はと」が実際どうだったのかは不明ですが、参考までに1950年での「つばめ」の2等車は、GHQの一部門であるCTSからの指導を受け、それまでのスロ40のような固定式クロスシート車(「並ロ」と呼ばれていた)から簡易リクライニングシート車(「特ロ」「トクニ」と呼ばれる)に置き換わりましたが、3等車は未だにスハ42/オハ35/スハニ32などのボックスシートのままで、ほとんどは戦時中の生き残りの寄せ集めでした。さすがに特別急行らしく編成内に3等車は3両ぐらいしか連結していなかったそうですが・・・
さすがにそれではまずいということになり、翌年に特別急行用3等車(通称「特ハ」)としてスハ44・スハフ43・スハニ35が製造され、リクライニング機能はなかったものの若干傾斜した座席が装備されて多少は改善しました。
この時代簡易リクライニングシートはなくて、転換クロスシートだったのでは?それとスハフ43型は不定期臨時特急さくらと京都・博多間のかもめだけです。つばめと、はとはスハニ35型です。
客車列車で最後尾は展望1等車(三等級時代)で、特ロ(2等車)3等はスハ44の編成で、はとガールが乗車していたとか。10年後の1960年に151系に電車化。その時誕生したのがパーラーカーとか。
でも、名古屋まで5時間、今は新幹線で1時間半ほど、技術の進歩を肌で感じます。
特急はとはヨンサントウダイヤ改正からヨンナナサンダイヤ改正まで583系しか使用されていません。2往復ともです。485系が使用されるのはヨンナナサン後のゴールデンウィークから1往復で開始され秋までに181系電車を置き換えられ1往復は特急つばめに改称されて熊本まで延長されています。また年末年始の繁忙期には大分まで延長されて夜行の臨時特急夕月と共通運用になっています。この臨時延長は後に特急みどりになり定期列車へとなっています。ちなみにヨンナナサンダイヤ改正ではスジは4往復だったが、181系の3往復だけで1往復抜けていました。485系の新製が間に合わなかったからです。同じことはつばめでもありました。
2時間前に東京駅を発車した鹿児島行急行に大阪まで逃げ切られているとは...
動画お疲れ様です
戦後復興の象徴的名称として"はと"が使われましたが、個人的にはこの時点で富士にしてれば戦前から特別急行として存在した"富士"の愛称としての格が保たれてたのかなとたまに思ったりします。
「のぞみ」より格上過ぎたので新幹線に転生出来ない「はと」
個人的に「富士」と仲良くリニアに転生しないかな、と思います
浜松5分停車ということは、ここで電気機関車から蒸気機関車に交代していたのでしょうか?
間違いありません。
@@TSUYOS185
なぜ間違いないと言い切れるんですか?
100%正解です。下りは浜松機関区上りは宮原機関区が担当していました。5分停車の間にホームでラジオ体操をしていたそうですを昭和28年10月には名古屋まで電化が完成してSLは下り名古屋機関区に変わり、昭和30年に米原電化で上下とも宮原機関区のシロクニに変わって昭和31年11月に全線電化に伴い、EF58型牽引になっているけど、上り初列車はEF58型89号機で菱形の記念ヘッドマークを付けていた。ちなみに2号機のつばめマークはたまたま鷹取工場に入場していて冷凍車の廃材ステンレスで作られている。当時から2号機は力はあるが蒸気漏れを起こすなどあまり調子は良くなくて、黒ナンバープレートでした。
停車駅が少ないのでわかりにくいが、浜松、名古屋までは速い。
最後尾に展望車を付けた特別急行列車は沿線の子供にはあこがれの存在でした。
C62で運転しているであろう特別急行はと号は速達性では新幹線のぞみ号には敵わないが、豪華さや風格では勝ってると思いますね。
東京駅を出るときは最初はEF55でしたが、後にEF58になりましたね。
青大将時代も含めて客車特急としての活躍がたった10年というのが意外でした。
いつもありがとうございます。
戦後復興の象徴として、東京と大阪の二大都市を結ぶ特急が新設されたのは自然な流れですね。
客車列車として活躍したのは10年だけでしたが、その間に我が国の鉄道技術や接客サービスが大きく改善されました。
スピードだけを見れば現在の普通電車の乗り継ぎとあまり変わらないものの、当時としては国鉄の最高級の列車として活躍していた様子が良くわかりました。
特急はとは平和の象徴ダダたので名付けられたのだは?たしかに特急富士はサンロクトウダイヤ改正で名付けられましたが、新幹線新大阪開業で寝台特急みずほの付属編成が独立した形で誕生していて上りはともかく下りは夜間に入り、見れなくなってしまっている。一番良かったのは新幹線の愛称に付けるのもあったかな?ただ新幹線は特に東海道では3文字になっているみたいです。
熱海着の時刻だけ見ると臨時s.v.踊り子のダイヤみたい。
svってなんですか?
追い抜き列車の情報があると、当時の特急がいかに「特別な」列車だったかがよく分かります。
東京を「はと」より4時間先に発車した普通列車に名古屋で追いつき、さらにわずか米原までの間で約1時間の差をつけていますね。さらに東京を2時間先に発車した急行も、京都〜大阪間で追い抜いているようですし。
また、京都や大阪での乗り換え列車で、所要時間がとんでもないことになっている列車がありますね。
青森発大阪行き普通→30時間41分
東京発鹿児島行き急行→32時間00分
こんな列車があちこちで走っていたんでしょうね。
熱海駅はさすが名だたる温泉地、町の規模は小さいのに主要列車が停まるんだなあ😮🚆
ちなみに磐梯熱海も伊豆の熱海が由来とか😊
ロマンだなぁ
特急「はと」 東京 → 横浜 → 熱海 → 静岡 → 浜松 → 名古屋 → 米原 → 京都 → 大阪 🌰
せっかくだから神戸から東京までの臨時特急列車を走らせたらいい。神戸駅1番ホームからならいいと思う。
この列車名は、おそらく「へいわ」よりは速そうで似たようなイメージの鳥だから採用されたのだと推測します。
ただ、そんなに速そうなイメージがないので、特急名としては今後復活しないでしょうね。
@@kataakeo7730 さま
戦後は鳩は平和の象徴とされていますが、満鉄の初のネームドトレインとして大連~長春を結んでいました。
後に我が国の最新技術の粋を集めた特急のあじあ号のサポート列車になりましたが、戦争が激しくなってもお客を運んでいました。
ウクライナやガザなど世界各地で紛争が絶えない今こそ平和の象徴として復活させてもいいような気がします。
一番良いのが西九州新幹線が完全フルになり広島と長崎を結ぶ列車のような気がします。