【ゆっくり歴史解説】江戸時代 大名の引越しで大失敗! 幕府の権威失墜へ!
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- เผยแพร่เมื่อ 6 มิ.ย. 2021
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/ @user-bb1oy3gk1m
毎度ご視聴いただき有難うございます。
今回は予告通り、先週に続き大名の引っ越し事情です。
しかし今回は大失敗パターン(;´∀`)
これにより幕府の威信は失われ、衰退の原因になったと言われています。
お引越しは怖いですね・・・
前回のお引越し動画
• 江戸時代 大名たちのお引越し
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#偉人はつらいよ #ゆっくり歴史解説 #引っ越し大名 #江戸の生活 - บันเทิง
すみません。訂正です。
動画内のテロップで徳川家慶は11代将軍と書いてしまっていますが、正しくは12代将軍です。
お気を付けください。
どうでもいーよ!いつも面白い動画をありがとうございます!
10代将軍が11代将軍の家斉もですよね?
普通直訴は死罪だったが、直訴された役人も百姓に同情したり松平家のやり方が気に食わなかったりで、歓待した上に無罪放免だったとか。で、この主従の結びつきの強さが幕末の庄内藩最強伝説につながると。
庄内藩は映画釣りバカ日誌の時代劇編で出で来たが庄内藩では釣りを武芸の一環していたが釣りによって山地を駆け回り鍛練や地形掌握に成り戊辰戦争でゲリラ戦で官軍を苦しめた程善戦した。
@@73moto ?。
庄内藩は内心嬉しかったろうね
領民にこれだけ支持されてるんだから
@@73moto 釣りと鳥刺もじゃなかったでしょうか。
それで、他藩の藩士に比べて、身体が鍛えられていた。
藩財政も、他藩と違って、江戸大阪の大商人ではなく、地元の本間家に頼って、ということは、同家に利を与えることになるのだけれど、結局、これがうまくいって、幕末には同家の財力により、銃器等兵器の近代化を果たしており、新政府軍によく対抗し得る存在となっていたようです。
本間家も大したもので、利益を貪るのではなく、富をよく地域に還元していたそうです。
江戸時代の人は、一般に倫理意識が高かったようです。
庄内藩、酒井家はこの後の明治維新では賊軍となるけど本間家を中心に領民たちが協力してくれたおかげで最新鋭の武器を大量に揃えることが出来て新政府軍を撃退することが出来て庄内の地は戦の被害を最小限に抑えられたほか、朝敵、賊軍として処罰される事となった酒井家を助けるためにまたも本間家を中心に領民たちが立ち上がり新政府に嘆願を続けた結果遂に主君である酒井家を庄内の地に取り戻しています。
ここまで領民たちに慕われた上に助けられる殿様というのはかなり稀有な存在だと思う…
ご感想をいただき有難うございます。
一口に殿様といってもの本当に色々ですね。
とても興味深いです。
藤沢周平の「義民が駆ける」はこの騒動を庄内の庶民の立場で描いた名作ですね。庄内藩に金を貸した商人がスポンサーになり,「酒井の殿様をお慕い申し上げますので,反対」という論理は幕府として撥ねつけにくい。いいところを突いた頭脳的作戦成功という面もあったようですね。庶民のインテリジェンスの高さと強かさを感じさせる作品でした。
ご感想をいただき有難うございます。
そのような作品があるのですね。
機会があれば見てみたいものです。
7:47 さらっと庄屋さんって言われてますが、
「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」
って言われてる大庄屋・豪商の酒田本間家です
贅沢三昧のせいで財政危機に陥った酒井家や米沢の上杉家の借金を肩代わりした上に財政改革に奔走して財政を好転させたり…
明治維新の際には朝敵とされ賊軍になってしまった酒井家のために最新式の兵器を買い集めて献上し、お陰で酒井家は新政府軍から領地と領民を守り抜けた…
そして朝敵としてお取り潰し、処罰のピンチを迎えた酒井家を救うために他の領民たちと一緒に新政府に対して直訴、嘆願を繰り返したおかげで酒井家は厳しい処罰を免れ領民たちの下に戻ることが出来た。
ご感想をいただき有難うございます。
そこまでの大庄屋だったとは、書いていませんでしたね。
漫画、花の慶次で佐渡攻めの最後に直江兼続にブチのめられた本間は佐渡から越後に追放されたが後に子孫は庄屋に成って上杉米沢藩より財力が上回る程に成るとは皮肉な結果に成った。
@@73moto 漫画では本間一族が悪逆非道な描かれ方をしていたけど、原作小説では裏で単に一族同士で戦うふりをしてこぜり合いしていただけ。あんなに領民をひどく扱っていない。しかも慶次はいくさを早期に終わらせる為に敵側を最初から皆殺しにするつもりだった。
@@Mr1988910 贅沢三昧したわけじゃなく、入藩以来一切増税しないお殿様だった上に譜代中の譜代の家柄だったこともあって交際費やらが嵩んでいったのですよ。
入藩以来一切増税しない→土地広げても年貢増えないから土地広げ放題になり本間家等の地主や商人が育つ→いよいよ財政やばくなって藩(役所)が本間家(民間)に財政再建を頼む→本間家が助ける
って流れですのでお互いにWin-Winの関係だったのでしょう。
本間家等の酒田商人は勝手に育ったわけではなく、庄内藩の善政もあって育つことが出来たという一面があります。
また、庄内藩の教育はかなりリベラルなもので、感謝の印として財政再建に奔走した本間家当主は代々酒井家の家臣に取り立てたりしてます。
財政が苦しくなったのであれば藩ができる手っ取り早い解決法は民に重税を課すことですが、安易にそれをせず、必要とあれば民間の商人に助力を乞うような柔軟な対応をとれる藩政だったことが庄内藩の藩と民の結び付きの強さにつながっているのではないでしょうか。
殿を逃がすなと叫ぶ川越領民。殿をお守りしろと立ち上がる庄内領民。方向は真逆だが、凄まじい決意が伝わってきますなw 庄内酒井家・・・忠次の血統ですか。松平家も宝永噴火には同情するけれど。
ご感想をいただき有難うございます。
確かに!庄内藩と川越藩で真逆になっていますね(笑)
いつ聞いてもすいかの声が可愛いです😆
嬉しいご感想を頂き有難うございます👍
up主の言う通りでもう見てる間に「うわぁ」連発でした笑
嬉しいご感想をいただき有難うございます👍
葛飾北斎は引っ越し天才でしたね✨
面白い 話しを どんどん 出して下さい。
ご感想をいただき有難うございます。
葛飾北斎は天才としても変人としても魅力的ですものね。
興味深い本の紹介は毎度有り難いです。それにしてもいくら譜代だし困窮しているからと言って他藩を横取りってひどいですね。しかも借金は踏み倒しって…。
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
400億円以上の借金があれば・・・(;´∀`)
それでもそれを許せるかどうかは別ですけどね。
農民の頭脳プレーという面もありますが、それも結局酒井家が善政していればこそですからね。
今も庄内では酒井家は慕われていて、現当主が重要な地位についています。
藤沢周平の「義民が駆ける」のテーマとなった騒動ですね
ご感想をいただき有難うございます。
私はコメントを見るまで知りませんが、そうらしいですね。
そちらも機会があれば、見てみたいものです。
庄内藩の話だと、大豪農・本間家の話をお願いします。庄内藩の農民が幕府や大大名に直訴出来たのも、本間家が資金提供していたからだし。
思った以上に面白ろかったです。👍
嬉しいご感想をいただき有難うございます👍
とうとう「幕府が大商人・豪商に負けた!!」という実例を天下に示してしまった例ですね。
ご感想をいただき有難うございます。
水野忠邦の予想通り、幕府衰退の大きな原因になってしまうとは・・・
例外を頑なに認めたがらないお役所の気持ちも少しはわかる・・・かな?(;´∀`)
大商人も潰した例はあるけどね
大名引越しの続編、面白かったです。
この後に庄内藩に嫌がらせがあるみたいですけどね・・・
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
結局松平家は色々動いたのに、反感を買っただけに終わってしまったということですか。
莫大な金の掛かる国替を撤回したのに結局印旛沼の工事の御手伝い普請で莫大な出費を強いられた。しかも決めたのは水野忠邦で御手伝い普請の他の大名も水野が嫌った連中だから完全に嫌がらせ。
そして長岡藩は新潟港を没収された
子供の頃から結婚するまで3回。
結婚してから夫が転勤族だったので4回引っ越しました。
個人の引っ越しでもただ住む家を替えるだけではありません。
転勤でも会社から引っ越し代は出ても出費はかさみます。
引っ越し貧乏とはよく言ったものです。
お金だけでなく諸手続き、子供の転校等々、様々な事柄がホントに面倒。
それが藩替えとなると何ヵ月・何年も掛かり、一大事だったことがよく分かりました。
面白かったです☺️
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
引っ越しは現代でも大変ですものね。
それが車も代行業者もいない、荷馬と徒歩のみの江戸時代・・・
みんなが嫌がるのもわかるというものです。
庄内14万石(実高21万石)が、越後長岡7万4千石(実高は15万石近くあったそう)になるんだから、実現してたら、何も悪いことしてないのに減封になる。酒井家にしても溜まったもんじゃないよな。
牧野家にしても、藩祖牧野忠成以来代々築き上げてきた長岡を取り上げられるのは、これも溜まったもんじゃないわな。
ご感想をいただき有難うございます。
そうですね。松平家・・・苦しいのはわかるんですが・・・(;´∀`)
長岡藩は内陸だったけど当時新潟港を領地にしていたから、酒田港を持つ庄内藩と条件は一緒。でも、表高は長岡は庄内の半分くらいだから庄内が損をするか。ちなみに長岡藩はこの後新潟港を幕府に没収されて代替えの領地が600石だったから国替しなくて良かったかも。
長岡藩は新潟港で薩摩藩や中国と密貿易やったのがバレて
転封候補になっていた。
三方領知替えが白紙になった代わりに新潟を没収された。
うわぁ……😰
でも…まぁ…コレで良かった…ですよね😁💦
いゃぁ~😄❗こんな事もあったのデスね😲❗知らない事ばかりでとても面白いです🙌🎵
こんばんゎヽ(´∀`)ノ
いつも有難うございます
江戸の大事件ですね。私も今回初めて知りました。
面白かった♪ 様々な要素が上手く噛み合い、商人・農民が勝ったという結果ですね。皆さんには言葉には出来ないご苦労が有ったでしょう。本当にGJだと思います。なお、前回の動画で紹介して頂いた「引っ越大名!」観ました、面白かったwww
今回は特におもへがったよ〜
酒井家は本当に領民に慕われていたんですね。
幕末の酒井玄蕃や後ろで資金援助をしていた本間家も好きです。
領民がお殿様に〜と忠誠を誓って列藩同盟を戦った背景も今回の事で少し垣間見た気がしました。
岩手(南部藩)出身ですが、会津に一時住みました。会津の人達は自分には馬の合う人達ばかりでしたよ。
列藩同盟の岩手出身なだけで大半の人達はウェルカムでフレンドリーになってくれました。
そそくさと抜け出した藩出身の方が居ましたが
殆ど落ち度が無いにも関わらず、塩対応でした。さすがにこれもどうかなあ、とも思いますが、会津の人達にしてみれば当然なのかも知れないですね。
世が世から会津は交通の要所で県庁所在地にしてもおかしくない場所ですが、明治政府は無理くり県庁も関係ない場所で交通網も換えましたからね。
因みに、会津の没落と戦前の日本の状況は似てます。恐ろしいほど酷似しています。
薩長の何が何でも戦争に引き込もうとする手段に無理難題に殿様の首を差し出す要請と
アメリカのハルノート、天皇差し出し
白虎隊と学徒動員
etc
そして会津の焼け野原と日本の焼け野原
斗南藩移住とシベリア抑留
明治政府の光だけでなく業の深さも会津で感じました🥲
庄内藩の話しから脱線してしまいました。
この動画が面白かったから、ついつい忙しくてこなさなければならない作業があるのに出来心から、こんなに長くなってしまいました。
誘惑のバカぁ〜!
山形の庄内は今でも日本有数の米どころだもんねえ・・・そりゃ喉から手が出るほど欲しいよな
ご感想をいただき有難うございます。
松平家は反感を買っただけで、さぞガッカリでしょうね。
あそこは当時、本間家というATMも居たしー
でも川越藩も関東随一の藩みたいやけどね。
いつもお疲れ様です!
松平家って徳川家の親戚で、ある程度優遇されてた所があったから、最初の引っ越しの我が儘は許されてた面もあるのかな?
そもそも優遇されていたら何度も国替していない。この大名の初代は家康の次男秀康の五男だったけど、生涯に三回国替させられた。その息子は五回国替させられた。しかも親戚のお家騒動の巻添えで一度領地を半分以下させられた。
故郷の川越の幕末は住んでいてもなかなか謎だったのですが初めてよくわかりました。なるほどねー、本丸御殿の安普請も納得。いまとなっては貴重な観光地ですが。
14:13結局、水野忠邦は上知令(あげちれい)による江戸大坂近辺の国替えを断念して天保の改革自体が頓挫してしまい、時代はペリー来航の幕末へと大きく動く。
なるほど、「三方領知替え」はこの上知令に関連した出来事だったんですね。
勉強になりました。
確かに「うわぁ」連発の川越松平家でしたww
嬉しいご感想をいただき有難うございます。
天保の改革と絡んでいただなんて、私も普通に知りませんでした。
しかも、水野は強制隠居後息子が三方領知替えで山形へ左遷させられた。
この後、天狗党鎮圧の功で棚倉城主が川越城、川越城主が白河城、白河城主が棚倉城への三方領地替えが行われるはずが、この松平家が白河に行くのはいやだと再度抵抗があり、前任地の前橋に一部の領地を付けて移ったんじゃなかったっけ
棚倉城主は6万石で川越城主になり8万石になっただけだから、そのうえ、新川越城主になっても他のところに飛び地があったから、前橋に行く松平家にそのまま附けられた領地は多かったよね
で、幕末に白河は無城主になってしまった
お引っ越しはお金がかかりますからね。
庄内の本間家と言えば、かの本間家。確かに酒井家は幕末の動乱期、賊軍として罰せられる所を本間家を始め領民の嘆願で許された藩。裏では大金のやり取りがありましたけど、会津の松平家と比較される所ですね。松平家も領民に過酷な処遇はしていないと思うのですが、酒井家はそれ以上に慕われていたと。
おらが殿様は酒井の殿様だけだ!ってね。
とは言え、この事がきっかけで酒井家は色々と難儀をしたようですが。
大層面白かったです。次回は何かな?楽しみです。
いつも嬉しいご感想を有難うございます。
これだけの大事件ですから、その余波で色々面白いことがありそうです。
また調べられたら紹介しますね。
会津の場合は、実に残念ながら戦争に備えて領民から搾取したので会津松平家の評判はガタガタでした。
容保公が国を出る時に領民は誰も見送りに来なかったそうです。
@@pontarou01 でもこの後会津若松は賊軍扱いが数十年続き、松平家が藩主だった時がましになった。そもそも長州も薩摩も明治になって反乱を起こしたのに会津若松のみが賊軍扱いなのが納得出来ないのだろう。
会津藩はペリー来航以後、幕府から神奈川警備命令で経費が掛かったのに加えて安政の大地震で江戸屋敷崩壊、松平容保の京都守護職による経費及び長州征討による軍事費の増大で会津藩は領民に搾取して戊辰戦争で藩内で戦闘を行い敗れて朝敵されたのだから領民からは反感を買ったが善政をした会津藩初代藩主の保科正之とは大違い。
@@73moto でもこれらの事は正之の将軍家に忠誠を誓うという遺言に従った結果。そもそも搾取でいえば紀州、水戸、薩摩なんか八割の年貢だった。
農民も江戸後期には力つけ、幕府も無視できなくなったのですね
うわぁ...
ご感想をいただき有難うございます。
ホントにうわぁ・・・ですよね。
三方領地替えって確か高校の日本史の教科書に載っていた気が…。確かこれがきっかけで、幕府の威信が大きく低下したとか。
でも、撤回が出された時の将軍家慶の時代といえば、撤回命令の約十年後に起きた日本史の(見方によっては世界史的にも)重要なターニングポイントである黒船来航がありますね。国替えがほとんどなくなったのは、三方領地替えの失敗に伴うトラウマもあるのでしょうが、黒船来航以後の混乱でそれどころじゃなくなったのもあるんじゃないかとも思います。
ご感想をいただき有難うございます。
はい、もちろん国替えが無くなっていったのには色々な要因があったと思います。
今回の事件はその一要因ですね。
いつも楽しみに観させてもらいました‼️遠く離れた領民にも悪評が届いていたなんて、松平藩どんだけ~😬
でもこのあと庄内藩には報復の印旛沼土木工事を庄内藩が費用負担で幕府命令されたのでした。
でもその度に本間家を中心とした領民たちが頑張ってくれたおかげで庄内藩…酒井家は明治維新以後も庄内の地で繫栄することが出来ました。
行田も三方領知替えが行われた土地で忍 桑名 白河の三藩が玉突きで領知替えが行われています。領民が納得していたのか特に騒動などはなかったようです。この三藩は後に有効都市として今年200年記念だそうです。
1651年の由井正雪の乱以後、社会不安を煽るからと外様大名の国替えや取りつぶしをあまりやらなくなった江戸幕府ですが、
それは外様大名の領地が守られる代わりに功を立てても領地が増えることがない(あげる領地がないから)時代になることも意味しました
外様は基本的に幕政に参加できないのでそれで良かったのですが
親藩や譜代は幕政に参加する権利があるので功というものが発生し、功を上げたものに報いるには土地をやらねばならないが
そんな土地はどこにも存在しないので些細な過失でも起こした藩を削ったり転封させたり潰したりで捻出することに…
前回の三方領地替え自体が当時延岡の牧野家当主の出世に相応しい国をあてがうための内藤はいわば犠牲なので…
なお元延岡の牧野は今回の三方領地替えに巻き込まれる牧野家の分家だったり
牧野家は本家より分家の方が石高が高い。元々は分家は旗本だったのに五代将軍に大名に取り立てられた。
初めて見る方は、案内の通り前回の動画から見てね😄
ご感想をいただき有難うございます。
出来れば~前回の動画も見て頂ければとても嬉しいですね。
この時に三方領知替えが実現していたら、戊辰戦争の状況も変わっていたかな?
農民って弱い立場ってイメージあったけど別の藩までいってデモしたり強かですね。
この後、水野忠邦は上知令と言う更に大規模な国替え命令を出すんでしょう。
でも対象の藩や旗本が多数いただけで無く、御三家の紀州藩や同じ老中の土井家が対象になっていたから、反対派の勢いが凄かった。
福島から宮崎にお引っ越し命令は今でも辛すぎるよ!!!
でも温かいとこへの転封だから良いかも♪
@@pontarou01 いやー。宮崎ねー冬は福島と変わらんよー。
寒い!!
@@user-do6hk8sz3r
え、巨人軍が冬にキャンプやるから温かいと思ったら寒いの?
@@pontarou01 日本でたしか3番目に寒いはず笑
大泉洋が昔サイコロの旅で真冬の宮崎を南国だからと舐めて素肌にテロテロの衣装で行って死にそうになってる笑
札幌と変わらないと言ってた笑
実際、山間部は雪もすごいし冬の九州は東北に似てるよ笑
@@user-do6hk8sz3r
そいえば、小泉八雲が熊本って南にあるから温かいと思ってたらすげー寒いって文句言ってたらしい。
三方領知替えは江戸時代何度も行われているけど、今回解説で登場した水野忠邦は二度も三方領知替えをしている。一度目は水野が老中になるのに不利だけど実高の高い唐津から老中になるのに有利だけど実高が唐津より低い浜松に国替を狙い幕閣に働きかけた結果、当時の浜松藩主が不祥事をしたから懲罰の国替があったからそれを利用して水野は浜松藩主になった。二度目は天保の改革の失敗の結果で三方領知替えで水野の息子が国替になった。しかも前回左遷された大名の息子が浜松に復帰した。
引っ越し予定先である庄内藩の農民たちが、幕府だけじゃなく御三家や有力大名にまで直訴をするとは…
これで仮に、松平家が強引に引っ越しができたとしても
農民たちは庄内藩を捨てて他藩や江戸に逃げて、松平家が期待したほど年貢が集まったかどうかは怪しいですね
1:41 私は前橋から川越に国替では無く、洪水で前橋城が水浸しになるから領内の川越城に移転したと聞いたけど。そして、幕末に領地の交換で川越城が別の大名の領地になり、前橋城を新たに4年かけて築城した。だから幕末には川越藩から前橋藩に戻ったけど半年後に大政奉還。
前橋→川越→前橋は同じ松平家領内での移動で、最後の前橋移動の後に、領国の再編で川越を手放して、その川越に他の大名が入ったって流れだと思う。
ただお金が無いので川越から前橋(新築)の移動の歳の前橋城は地元住民が費用負担することで誘致したとかw
そういえば、桜田門で、井伊直弼を水戸浪士が、襲撃する時、直訴を装っていました。借金漬けになって、債務不履行状態の武士の権威失墜が、幕府弱体化の大きな要因だつたんですね。
母方の先祖が酒井家の姫の守役だったらしくいろんなめずらしいお菓子もらってきてたらしい
そんなお菓子食べながら傍観してたんかね(
何で最初に姫路希望したんだ?と思ったけど前橋の前に治めてたのが姫路なのね。
ちなみに松平家の受難は姫路から前橋に転封される時に一緒に遷された刑部姫の祟り説があるらしい。
でも姫路は池田家の時代に作った姫路城が巨大なのに、その後の大名が15万石ばかりだから維持管理が大変と聞いたけど。
無事に庄内への引っ越しに失敗した松平斉典ですが、実は農民救済や学問奨励を行った名君としての側面もあるようですね。
財政難は松平斉典が藩主になる前から代々積み重ねた負債であり、それを上手くやりくりしながら一部が現存する川越城を新たに築くなど、引っ越し失敗も何のそのでモリソン号事件などアメリカをお騒がせしながらも幕末を駆け抜けたようです。
4分50秒台
徳川家斉は第11代将軍ですよ
肖像画はあっているけど、テロップとコメントが誤っている
伊達家が話を呑んだら、奥羽越列藩同盟になる様なもんだもんなー笑
薩長同盟並みにヤバイ。もし、このまま命令を続行させたら一戦起きたかもねー。
川越というか前橋の方の松平で思い出したんですが、そういやここ映画/小説「引っ越し大名」の松平大和守の家じゃないですか
すると莫大な借金というのは少なからず星野源が作った(違う)
この松平家は、開国で生糸の輸出で潤った前橋近辺の商人たちが放棄された厩橋城再建に資金を提供し維新直前に再封されてましたよね。
新厩橋城は数年で廃城になりましたが、跡地に群馬県庁を招致したので無駄にはならなかった。
松平家・酒井家・牧野家それぞれ自分たちでなんとかした話?
せっかくだから庄内本間家も特集して欲しい。
個人的に家慶はもっと評価されてよいと思うんですがね。”そうせい候”などといわれてしまってますが、実父ながら欲深かった(仲もよくない)家斉が大御所として君臨していた最中はおとなしくしていないといけなかったでしょうし。父がなくなるや奸臣を罷免して、阿部正弘を抜擢したり、水野忠邦に改革をやらせたり、甥の慶喜(正室と慶喜の母が姉妹)を13代将軍にしたがったりと有能な人材を見抜く力は高かったんじゃないかと思います。慶喜が13代になっていたら井伊直弼とタッグを組んだりしたかもしれませんね。
19世紀になって高田藩榊原家は財政難で野営草鞋履きで参勤交代して周囲愕然したという記録があるがこれ特集して欲しい。
解説では川越藩が大御所徳川家斉の息子を養子にしていたから、国替の工作を養子の生母や大御所に行ったのが無かった。
ウワァー!
水野越中「せや、ワイの地元の領地含めて大名の領地替えしたろ」
家臣や領民
巻き込まれた大名家の猛反対で頓挫
1700年代で浅間山の噴火となると天明の大飢饉とフランス革命の遠因となった時期かと思ったら
天保の大飢饉(八丁堀与力の7代目仁杉五郎左衛門が投獄されて獄死する事件)と天保騒動が起きた頃か
ご感想をいただき有難うございます。
調べてみたら浅間山って結構な頻度で噴火するんですね。
恐ろしや・・・
庄内藩( ´∀`)本間様の反発だったか。酒井の殿様より力があるからね🐸
川越の松平家は引っ越しで400万両の借金を踏み倒しをしようとして失敗したが、莫大な借金をした薩摩藩と長州藩は藩内改革で財源確保と利息無しの超長期返済期間での返済(薩摩藩と長州藩は版籍奉還までは借金返済をしていた)をして借金問題を解決した。
うわー
ご感想をいただき有難うございます。
うわぁ・・・ですね👍
徳川家慶は12代将軍ですね。
ご指摘ありがとうございます。
本当ですね。訂正いたします。
一番乗り、やった
一番目のコメント有難うございます
庄内藩は本間様に財政管理や領地の年貢収納など委託していたから国替えと言われても
おいそれとは応じられなかった。
だから農民から国替え反対運動が起こった裏では本間様と折衝する役人層からの直訴に
関するそれとない示唆があったように思う。
幕閣だけでなく御三家や果ては伊達家にまで直訴するなんて当時の農民が考え出せるとは思えない。
まあ、こういう武士と農民の良好な関係があったからこそ幕末の庄内藩最強伝説が生まれた
のかもしれないな。
領主と領民が結束すると国替は防げるということか
いらすとやさんウィッシュまで有るのか…。
庄内藩の本間様。[本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に]という位の、豪農で豪商の本間様。その本間様が庄内酒井藩を応援したのだから、お国替え中止も止むなし。まずは本間様に川越藩松平氏は、ご挨拶に行かないといけなかったよね。こちらが本当のお殿様。
…日本にだって自然災害が多く統治するのが非常に難しい地もあって当然で、そこを担当する松平家が全うでない手段で他の大名に押しつけようと計画したのが大問題でしたね! 幕府も非常に過酷な所をどんな大名に任せるか冷静に考える必要があって、思慮不足が響きましたか。それ以上に、民の悲鳴に耳を貸さなかったり何か苦しい事があるたびに民を締めつける大名や幕府も先が長くなかったということですね! まともな伊達家は、苦労人なスタンスでお疲れ様です。あと水野忠邦は、『幕府財政が悪いの、お前ら民にも責任あり』と天保の改革やっちまいまして、幕府は破滅フラグ立ててしまいましたか…家康や敵味方の戦国武将たちが泣くな…今日もありがとうございました!
戊辰戦争で庄内は最後まで戦ったし、長岡も継之助さまの奮戦があったね。領地替えとりやめた幕府に義理を果たしたかな?😄
長岡が戦う事になったのは交渉した官軍の指揮官が無能で戦わざるを得なかったから。しかもそんな無能でも明治政府では要職についた。
@@yh6146 新政府軍の指揮官級に下衆も沢山いた。他方、旧幕軍がわにも優秀な人材も沢山いた。
日本が幸運だったのは、新政府のトップの人々が旧幕府軍出身者でも有能な人物を登用する度量と眼力を持っていたことでしょうね。
水野忠邦は天保の改革で上地例を進めたが水野忠邦の藩は浜松藩主だが元は九州の唐津藩主で水野は老中に成りたかったが唐津藩は収入が石高より上な裕福な藩で長崎警備の任務がメインだったので老中に成る為に家臣の大反対を押し切り石高が低い国替を規模して浜松藩主に成って老中に出世したが自分の感覚で他の藩主が自分と同じと思って国替を進めた。
ちなみにこの国替も三方領知替えだった。
実質24万石の唐津藩を捨ててまで老中になりたかったのか?
幕府にも是正されるべき奢りや横暴はあったのかもしれないが、それでも幕府が権威を保つ事はなにより優先されるべき重大事だと思う。江戸時代が再び乱世に戻る事なく栄えたのは、幕府が強大な権威で諸大名を抑えつけていたからこそなのでは。
ご感想をいただき有難うございます。
はい、まさに徳川家康が築いた、争いを起こさせない江戸の政策として幕府の威光というのは極めて重要だったと思います。
今回のお話は「うわぁ、あばばば、うわぁ」の連続w
しかし、笑ってはいけない。当時の人々には切実な問題だったのだ。
令和時代の我々も後世の人々から、
「うわぁ、あばばば、うわぁ」の連続wと笑われるのかもしれないw
追記
ところで、長岡・牧野家は戊辰戦争で朝敵の烙印を押されてしまう。
もしも、この三方領地替えが実現していれば、牧野家は川越藩主となっていた。
河合継之助(1827~1868)や山本五十六(1884~1943)の生涯も、また違ったものになったかもしれない。
まあ他人の責任を取るのは比較的簡単だよな。
「前将軍が悪かった」で中止命令は出しやすかった。と思うよ。
仁政って要は相手、特に領地民の立場や事情に配慮した統治をすることで、領地の民が進んで君に従おうと思わせる徳の政治。たぶん酒井藩はそれができてたからここまで慕われていたんだな。
それで、その貧しい川越の松平家はどうなったんですか?
幕府が補填したんですか?
2万石の加増があった。そして川越城と周辺の領地を別の大名と交換して元の前橋に戻り新たに前橋城を築城して入城したのが慶応3年3月。大政奉還まで半年。
川越藩が欲を出して庄内藩に転封希望しなかったら
長岡藩相手だったら成立していただろう。
長岡藩は新潟港で薩摩藩や清国と密貿易してたのがバレて
転封候補だったので、川越藩が長岡藩を希望していれば成立してただろう
この前橋城は利根川の氾濫による河岸浸食で最終的に本丸まで侵食されるはめになった
国替えで思うのは、藩主とそのお付き以外はいいだろって思うんだけど‥‥やっぱそんなわけにもいかないんだろねぇ。
こればかりは相手が悪い
酒田本間家が強過ぎる
大名に頭を垂れさせる商人なんてまずいないからね
享保の改革の時に南会津の庄屋達が幕府に直訴。役所が「この幕政を非難する文面は削除して出してね」って忠告したけど言う事聞かないでそのまま出したら首謀者数人が斬首になった。税は減免されたけど。
個人的な考察で何の証拠も資料も無いんですが、庄内藩には隠し石高と隠し金山があったんじゃないかと思ってます。
幕末の庄内藩の軍の装備は新政府軍を遥かに凌ぐ最新式の装備が揃ってました。
表向き庄内藩に金山銀山はありませんでした。
日本一の金持ちとされた本間家のバックアップがあったとしても不自然です。
隠し石高も当然あったでしょう、それでも不自然です。
そもそも本間家が北前ルートの米の流通を牛耳っていたとしても日本一の金持ちにどうやってなったというのでしょうか?
実は最上川が内陸から庄内藩へと差し掛かるところに立谷沢川という支流が合流する清川口がありまして、立谷沢川沿いには集落が沢山あるのですが、もっとも奥に瀬場という集落があります。
その辺りの立谷沢川では現在でも簡単に砂金が採れます。
瀬場の奥にはまだまだ月山の麓まで立谷沢川も道も盆地もあるのに、集落が無いんですよ。
江戸時代どころか平安時代から月山の神域で禁足地ではあったんですけど、なら何故、道がある?
水がある、道がある、盆地がある、砂金が採れる。
でも集落は無い!
おかしいでしょう?
普通は人が住むでしょう?
これだけ好条件があれば。
庄内藩は金持ち!
転封の危機を回避!
庄内の領民を煽動。
川越の領民も煽動。
幕府に内緒の隠し金山があったから。
採れた金は、本間家が北前ルートで直江津、金沢、米子、長崎、博多津、大阪、名古屋、江戸でロンダリングしてたんだろうと考えられます。
当事者の松平斉典はかなり名君だったというのは本当?早世してしまったけど、将軍家斉の子供まで養子にもらい受けていたとか…。
貰い受けたではなく家斉から押し付けられた。何しろ53人も子供を産ませた(と言うか励んだ)。成人したのは約半数とは言え養子に迎える方は大変。どこの大名家でも殿様のお仕事第一義は後継者作り。義務に為ったら夜のお仕事は・・・。男の養子は婿とは言え男尊女卑の時代、しかも将軍の息子。姫の場合は嫁ぎ先は戦々恐々だったと言われてた。先妻に男児が居ても押し付け姫に男子が生まれれば相続でひと波乱、生まれなければ不仲を疑われて・・。則妾も「あんな娘がいいな」と簡単にはいかなかった。高校の時の日本史で一番笑いが多かった授業時間。
ご感想をいただき有難うございます。
今回の本に松平斉典を詳しくというのはありませんでしたが、家斉の子供を養子にしたのは、国替えを通しやすくするための策略だったとは載っていました。
@@user-eh8ni6nv5m 押し付けでは無く、
領地の加増や有利な領地への国替狙いでは?実際に親戚の福井藩は家斉の娘と結婚して嫁の弟を養子にして2万石の加増、津山藩は5万石の加増、明石藩は2万石の加増。だからそういう事例を見たら長男廃嫡して家斉の息子を養子にしたくなる。まあ、結局養子が亡くなり廃嫡した長男も亡くなったから、養子を迎えた後生まれた4男が跡を継いだけど。
今のだ埼玉の遠因かも
どうも!
ウィキ見ると、前橋から川越に
移ったのは確かやけど、前橋と
川越を所領してたとあるよ。
で、前橋藩を残して川越藩を
廃止してるみたいよ。
居城が川越城だったのは書いてるね。引越し騒動も本当みたいね
国家公務員も引越し貧乏!w
あれ?前橋の城って
ペリー来日、開国で貿易収支が黒字で150年の悲願叶って改修して、幕末を迎えてなかったかな?
ご感想をいただき有難うございます。
ちょっと調べてみたら、一度廃城になり、しばらくほったらかしになった後、また再興されたようですね。
しかも殿様が前橋城に住んだのが慶応3年3月。大政奉還の半年前。
なんで ツノが生えてるんですか?
たから川越は暗いのか
江戸幕府も職務怠慢が積もってきて、もう直ぐ明治維新と言う様な時代ですね。
04:47 家斉の母親は1817年つまり20年以上前に亡くなった。これは養子にした斉省の母親の間違いかな?
そもそもなんで、三方引越しなんだろな
普通に、直轄地か、ニ藩の引越しじゃダメだったんだろか。
川越松平って人徳ゼロ(*゚▽゚)ノ
ご感想をいただき有難うございます。
苦しいから何とかしようと厳しくする➡さらに嫌われる➡だれもが非協力的になり効率が悪くなる➡さらに収入が減る➡最初に戻る
嫌なループですね・・・
そもそも幕府が国替させすぎ。
徳川幕府は恨まれて当然
トクセンハクビオイテケェ
借金40万両って薩摩藩に比べたら大したこと無い。あっちは500万両。
動画ありがとうございます。
今でこそ小江戸川越なんて言って、川越は歴史と文化の趣きのある街ですけど、松平家の政治が不評だったのですね。
しかし、一度決めたことを撤回できる辺り近世のほうがまだマシですね。近代では昭和の十五年戦争、そして(以下略)
行政の権威主義はいつの世も続きます。少し古くなるけれど二題。1)癩病。伝染性が弱く治療薬も開発されたのに隔離を続け訴訟で国側敗訴になったのはご存じだと思います。厚生省が世界の治療の流れを無視し決定事項の取り消しをしなかった。2)水俣病。原因は当初不明なるものの原因が解明されてからも治療費負担と賠償責任を認めたくない為いたずらに訴訟を長引かせた。特に熊本県が費用負担を嫌ったことは当時の県会議員らが後日認めた。
いつも嬉しいご感想を有難うございます。
絶対に命令を撤回できないと聞いて、私はどこぞの国の指導者を思い浮かべました(;´∀`)
日本一の地主だった本間家は莫大な工作金を使いましたとさ❗