【歴史解説】ゆっくり大江戸㊻伊達政宗~江戸時代編~独眼竜は江戸時代何をやっていたのか⁈遅れて来た戦国の雄最後の野望とは?【江戸時代】
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- เผยแพร่เมื่อ 11 ม.ค. 2020
- 仙台藩初代藩主独眼竜こと伊達政宗公の解説の第二弾、江戸時代編です。
前回の続き関ケ原~仙台藩主時代まで、独眼竜の生き様を解説します。
前回 • 【歴史解説】ゆっくり大江戸㊺伊達政宗~戦国大...
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鷹狩りに没頭して頻繁に下宿(城外泊)をする将軍家光を諫める政宗の言葉が秀逸。
「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」
以後、家光は下宿を止めたそうです。
家康公の威に脅えた政宗の虚勢ですねそれ。水戸光圀が隠居した常陸太田市の佐竹氏の末裔なんか、私たちは徳川さんの家来ですと言っていてびっくりしました。政宗の性格からして笑うと本当にやりかねないし政宗みたいな馬鹿者を教導するのも役目だから家光公がより大人ということでしょう
老年の政宗のエピソードってけっこう笑えるんだよね。縁側で高価な茶碗を磨いていた政宗、つい手を滑らせてしまいなんとか茶碗を確保したんだけど、我に返って「俺を慌てさせるとは何事だ」とぶち切れて自分でたたき壊してしまったという……
政宗は、真田信之と同じように「父ちゃんの嫌いなものは大好き」な家光君のオキニだった面もあるからなぁ
徳川一門として家康に臣従したわけでもなく、外様として第2位の石高を持って、参勤交代も比較的楽な仙台に落ち着いた政宗は戦国トップクラスの勝ち組だったのではないだろうか
独眼竜・伊達政宗の夢の跡・・・。
伊達政宗が野心家でなければ、真田幸村の子孫は歴史の彼方に消え去り、
仙台という日本有数の都市も文化も生まれなかった。
あの大震災の前ですが、仙台市博物館(仙台市青葉区)を訪問したことがありました。
動画に紹介された支倉常長の肖像画が展示され、私自身が長年疑問に思っていた肖像画中央の縦に走る損傷個所についての解説文も添えられており、たいへん興味深く拝観したことを昨日のことのように覚えています。
(損傷の原因は、肖像画が御法度となったキリスト教に直接関わるものであるが、貴重な渡来品であるがため破棄できず、二つ折りにして巻き込んで仕舞い込まれてしまった為だそうです。)
他にも、政宗を初め伊達家累代の甲冑や茶器などの宝物、伊達騒動にまつわる資料など、見どころ満載です。
一大名家を扱った資料展示としては、おそらく徳川美術館(名古屋市東区)に匹敵すると思われます。
皆様にも、一度は見学されることをお勧めします。
常長さん、仕事に失敗してからの帰路はどんな思いだったんだろう。現代なら電話もあるし飛行機で数日で戻って来られるけど、帰路の5年ずっと失敗を心に抱えた事を考えると、想像しただけでストレスで死にそう。
手紙はまめに送り、野望あれど上司先輩からのウケが良く、酒宴を好み、芸術の才能と美的センス、教養の高さがあるって現代風に言えば出世街道まっしぐらのエリート商社マンよな笑
真田信之もそうだったけど江戸時代まで長生きした戦国武将は戦を知らない江戸時代の若い武士からはめちゃくちゃ尊敬された。信之は水戸頼宣から、政宗は家光から武辺話を何度もせがまれたのは有名な話だな。なお佐竹義宣君は以下略
確か政宗がよく家光とか若い侍に話した一世一代の大勝利の合戦って佐竹家から来た養子の芦名を潰した戦いだった=佐竹からしたら弟を助けられなかった恥
歴史が大好きで伊達政宗が1番大好きです❤
幼少期は、病気で内向的な男の子だったと聞きます。
だけど、何度も何度もぶち当たる壁に正面からぶち当たり、
豊臣家からも徳川家からも警戒されて
世界を視野に自らの夢の為に生きたほんとにかっこいい人だと思います!!
江戸時代に入ってからの伊達政宗の事はあまり詳しくなかったのですが、
とても勉強になりました☺️🧡
ありがとうございます👏👏👏👏
政宗さん、せっかく作った仙台城なのに、段々と登るのが億劫になり、50代には麓の花壇屋敷(花壇て地名です)60代には若林城に移り住んでますね(笑)
もう何回もこの動画を拝見させて頂いてるが、毎回政宗逝去の場面で目頭が熱くなる。
素晴らしい動画をありがとう。
豪快というか、人間らしい野望の持ち主だったのですね。
伊達政宗の話は大好きです。
武士としての意地がカッコいい。
愛姫の父田村清顕の田村家存続の願いは叶わなかったが、田村家は最終的に政宗と愛姫の孫(忠宗の三男)である宗良が田村姓を名乗る形で再興された。
浅野内匠頭が切腹したのが田村家江戸屋敷でした。
大河ドラマ「独眼竜政宗」が放送された年に甲子園で一関商工高校対宇和島東高校が対戦し、正室と側室の戦いと話題になりました。
信長の野望を政宗シナリオから始めるとタイムリミットと人手不足の問題と闘いながらも家臣団は優秀だから、やり慣れたら必ず一回はプレイする。
感動する動画に仕上げてくれてありがとう。
政宗のことは僕はよく知らなかったのですが、この動画を見て政宗が大好きになりました!うp主さんの政宗愛が伝わりました!
待ってました!!!
伊達政宗の後半生って、農地の開拓や治水事業、産業振興などの領土を豊かにさせることに注力していくんだよなあ。江戸中期には実質200万石くらいって言われていたもんな。
仙台藩は米処故に米以外の作物には力を入れておらず豊作なら数年来の借金も返せたが飢饉の際は士分まで餓死者出てたそうです。
また外様3位の石高で藩内には独立的な家臣団多いので地方知行制の為に藩政改革が進まなかった側面がありますよね!
>藩内には独立的な家臣団多いので地方知行制の為に藩政改革が進まなかった側面がありますよね!
そのあたりが戊辰戦争で奥州列藩の盟主でありながら、最新兵器が揃わず、あまりまともな戦いが出来ずにグダグダになった、あの体たらくにつながっていくんですかね。
@@user-pw3rn7qg8q さん
幕末のグダグダ感は確かにありますね!そんな中で個人的には新政府側に会津への寛大処置を仙台・米沢藩で求めてたのが奥州の雄らしく動いてたのが救いですね。
世良以外の参謀なら朝敵になることもなかったかなと?
@@user-pw3rn7qg8q だとしたら、米沢から岩出山に国替になった時が地方知行からの脱却の最初で最後の機会だった。
江戸の米を伊達の米にすれば、幕府は何が合っても伊達藩を潰せない。これをわかっててやったのかしら。
何度見てもこの回、いいですね。
伊達政宗を嫌いって日本人はあまりいない、少なくとも嫌いな人より好きな人の方が多いと思いますが、自分も大好き武将トップ3です(他の全ての武将の功罪や魅力を詳しく知っているわけじゃないので、ミーハーな部分がないとは言えませんが)。
その後幕府に疲弊させられて二度と繁栄を取り戻せなかった、的なコメントが散見されますが、少なくとも江戸に入る前に瀕死となり、江戸に入るにあたって完全に絶命したうちの町よりは長く輝いていたし、今の人々も誇りをもっている。
往生際が悪い部分もあるしカッコつけたいのにつけきれないでダッさくて(もちろん現代の価値観で見るほうがおかしいのでしょうが)、うーん…イメージほどカッコいいだろうか?、と思っていた時期もあったけど、領民への責任を負う一国の主としてはありがたい殿様。
あと、これはこのデザインに決めたお父ちゃんがすごいけど、兜ですよね…誰が見たってカッコいい。
夫婦そろって長生きなのも、珍しくて良い。
政宗好きだからこういった動画は嬉しいです
実家に伊達家の殿様の為に植えたという謂れがある桜があります(隙自語)
近くの道を参勤交代で伊達家ご一行が通っていたらしいですが、子供の頃は何とも思いませんでしたが
大人になってから見ると、同じ景色を歴史上の人物も見たのかとロマンを感じますよね
政宗公は臥龍梅が好みでしたね。自分はお城からは徒歩圏内にいるので、運動がてら行かせてもらってます。あの時代に思いを馳せながら。他県から来ましたがまさか政宗公のお膝元に来るとは夢にも思いませんでしたが、幸運です。
楽しい!このチャンネル!伊達政宗がますます好きになりました!
政宗の後半生はよく知らなかったので、大変勉強になりました。
生まれながらの将軍家光も戦国生き残りの政宗の話を好んで聞いたというけど、僕もぜひ聞いてみたい!
すけりょう 政宗公だけの他にもいたけどね
@@user-wp9jn8fg4l 信之とか?
@@user-wp9jn8fg4l 立花宗茂なんかは御伽衆になったことによって、棚倉で大名への復帰を成し遂げ更に柳川への帰還を許されるに至ったよね。
@@kemuri5216 でも、将軍に気に入られていたから、柳川に帰れなかった。
@@yh6146 自身は柳川に帰れなかったけど、それでもついてきてくれた家臣達を故郷に帰せる状態に出来たことは安堵できたよね…
子孫は柳川で旧柳川藩主邸で御花という料亭旅館をやってて、一度でいいから利用してみたい。
老年の政宗が家光に「思い差しつかまつる!(衆道的な意味合いの強い言い回し)」とかやっちゃったエピソード好き。最期まで傾いてたw
作十郎への恋文が凄い
最高に面白い動画でした。ありがとう。
宮城県黒川郡大郷町という支倉常長の墓近くの出身です。
失意の後に亡くなったとされる常長の墓は山の中にひっそりと佇んでいます。
約20年程前に車で参拝出来る様に綺麗に整備されました。
道の駅では常長使節団のローマ教皇謁見絵図が大きく掲載されています。
また30年前には、サンファンバウティスタ号を形取ったアスレチックが公園に建てられ、子供達の遊び場になっています。
正宗公は宮城県の英雄なので雲の上の存在といった感覚ですが、支倉常長は大郷町民により近い存在となっています。
正宗公✖️
政宗公○
失礼しました。
政宗の晩年、秀忠?を江戸の伊達屋敷でもてなした時に当然政宗が腕を振るって料理をこさえたわけだが、毒味をさせろという秀忠お付きの毒味係にブチギレて
「俺が作った料理を疑うのか!秀忠を毒で殺そうとかそんなせこい事するか!戦で倒すわバカタレ!」と屋敷中に響く大声で怒鳴ったという真偽不明のエピソードが大好き
小さい頃から最高の帝王学と諸々の教育と教養を身に付け、それでも田舎者らしく偏屈な一本の筋が通っていて、派手好きで、面従腹背で油断ならない
秀吉や家康だけでなく、近畿一円で戦ってきた古い武将達に軒並み可愛がられたのは、若い頃の自分と重なる部分があったからなのかもしれない
江戸屋敷に家光を招待して、自分で作った料理を御馳走しようとしたら、家光の家臣に「毒見させろ」と言われて、「毒殺など野暮な事はしない。やるなら正々堂々と戦を挑む」とその家臣を怒鳴り付けたというエピソードもありますよね。
昔ながらの仙台名物に「ずんだ」と「伊達巻」がありますけど、いろいろな説が唱えられていますが、政宗が作った説を押したいです。
あれは家光ではなく秀忠です。側近の内藤外記とのやり取りですね!
@@osaru3574 さん
間違い修正ありがとうございます。
歳を取っても気概溢れる政宗エピソード好きです。
@@osaru3574 大河ドラマの独眼竜政宗でもあった。
伊達政宗は独眼竜の異名を持つ、豪快な人物のような印象だが
彼の生活とか観れば、案外、努力家で繊細で細かい事まで気を遣う人物のようだが
毎日、定められたスケジュールを守って生活していたし
武芸に関しても日々の鍛錬を怠らなかったようだしな
因みに独眼竜という愛称は残念ながら政宗存命中ではなく幕末の儒学者、頼山陽が中国5代の後唐の実力者、李克用が隻眼であり、暴れん坊であり風貌や言動が類似していることから付けた愛称です。そこから徐々に伊達政宗=独眼竜のイメージが定着しました。ただし頼山陽は伊達政宗をとても評価していて、その知略、武勇、冷酷さは三国時代の魏の武皇帝(曹操)に匹敵すると。確かに漢詩を嗜み、酒を造り、料理を振る舞う、プライベートでも曹操そっくりではないか。
前後半といい動画でした。
特に政宗については後半生をほとんど知らなかったので。
興味深く拝見しました😊
ジョン万次郎や大黒屋光太夫の一生とかの動画もいつかお願いいたします🙇♂️
海を渡った日本人ですね(*´・ω・`)b見たい
よく「京から遠いのに・・・」みたいなイメージで語られる田舎大名の跡継ぎへの教育ですが(伊達政宗、長宗我部元親など)普通に考えれば京からの距離と個々人の教養は関係なくて、奥州藤原氏を見ても、結局は個人の資質とそれに伴う情報力と行動力で、戦国時代の上流社会の交流は現代人が考える以上に密であったと考えるのが自然。情報の早さは間違いなく現代だが、上流階級に届く情報の質は当時も今と変わらないかそれ以上。糞田舎のイメージのある飛騨の姉小路氏はその家臣ですら京で流行っていた庭園をもった屋敷をこしらえ、そこを交渉の場に使っていた。
最後に泣いた
馳走とは…。旬の品をさりげなく出し、主人自ら調理して、もてなすことである。
江戸末期だったかに、横浜港よりも先に野蒜築港という一代事業を
行っていたが、完成直前に台風で駄目なってしまった。
完成してれば海上物流の大部分を仙台が担うことになり、
今のような東京一局集中な感じにはならなかったかもと言われています。脈々と正宗の野心的な血は受け継がれていたと考えます。
manenon usijima 政宗
実際の政宗は独眼竜政宗の渡辺謙さんも格好良いが葵徳川三代 の惚けるような演技は、すまけいさんの方がリアルそう松田龍平も格好良かったけどね!
断然、家康役は津川雅彦さんの重厚な演技だね!
酔余口号の漢詩は意味深だし
津川雅彦さん、独眼竜政宗と徳川葵3代で家康を演じていますがキャラクターは対照的。葵のときは権力に取り憑かれたギラギラした感じ。独眼竜政宗ではどちらかというと温厚で組織内のナンバー2に徹するキャラクター。どちらも好きでした。
警戒されるはされるんだが野望が見え見え過ぎてがち冷遇されるほどではないという
せるじい
よく秀忠に粛清改易されなかったのが不思議だな前科的に警戒されてるのに
大河徳川三代だと多分家康が豊臣の次に潰そうか考えてたような気がする
晩年に能楽には莫大な金額をつぎ込んだって言うのは能楽が好きだった事もあるが、幕府の警戒心を解く意味も合ったんだと思うよ!
漫画義風堂々では
秀吉の謁見の前に政宗の野望見え見えの態度に頭抱えてた片倉小十郎に対して直江兼続がにそれを逆手に取って秀吉の信頼を得るようにアドバイス→それを実践して許されるというシーンがありますね
家光は、戦国時代を現役で知っている最後の世代伊達政宗を、祖父の家康に次いであがめていたとか。だから将軍の前で酒で粗相をしても笑って許してくれたらしい。他の藩には冷酷だったのにね。
父のように慕っていましたからね、政宗公死後には成実を御前に呼び戦話をさせたという話もあります。戦乱を知らずに将軍になった家光としてはロマンを駆り立てられるものだったろう。
すごく面白かったです。政宗は太平の世になり米経済になると米の品種改良に着手し新しい品種ができると将軍に献上するなど目の付け所が違いますね。取り扱って欲しい人物リクエストで紀伊国屋文左衛門を希望します
慶長使節が単なる友好使節に終わった辺りがドラマと同様、政宗の野望の終わりだったんでしょうね。以降は幕府にスリ寄り保身第一に切り変わっていきますが、それもまた政宗なりの信念に思えます。
ちなみにサンファン・バウティスタ号は太平洋を横断した最初の日本船のはずですが、なぜか幕末の咸臨丸が日本最初だなどと紹介される事が多いですね。スペイン人が船長で往復はしていないからかもですが。
今の杜の都と称される仙台の街を政宗公が見たら、どのように思うのでしょうか。
武将としてはもちろん、文化人としてもハイスペックだった人物は数少ないかと思います。
東日本大震災以降の東北の復興を草葉の陰から静かに見守り、励ましているに違いない。
グルメ、酒好き、相当な教養を持ち三国志の曹操孟徳に通ずるところがあります。
隻眼の雄々しい武将のイメージで見るから正宗の実像に落胆するんだ。
智謀に長けた名将であり、野心に燃えた姿は東北の黒田如水だよ。とはいえ、黒田家とは違うそのサッパリとした気質が将軍家からも気に入られたんだろうが。
サッパリねえ、そうは思えないけど。良くも悪くも悪あがきをしていて潔くない(むろんその政宗公が魅力的なんですが)小田厚で臣従した後や上杉との戦いで裏で一揆を扇動していなければ岩出山への減転封やら、米沢の返還もあり得た。むしろ黒田如水の方がスパッと身を引いた。漢学の素養のある如水ならば古代中国の范蠡や秦の范雎の身の施し方を学び災難から逃れたんだと思う。無論政宗公も教養の塊だから彼なりの身の施し方、特に泰平の御代になってからの潔さはとてもかっこいいと感じる
政宗は、「伊達者」だっただけではなく、書道、漢詩、能、それに料理など、多趣味でセンスの良い人物だったのですね。
疱瘡に掛かって右目が失明したから、僧侶に師事させて、もしかしたら出家させて家督は弟に継がせようという思惑もあったのかもしれませんが、さすがです。
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慶長遣欧使節の意図については、当時でも、中南米、アジア諸国などを植民地にする際には、欧州から然るべき国王を贈っていたわけで、現地の大名を国王として立てることはなかったわけでしょう?
ですから、これは、政宗とスペイン国王との間で、倒幕してカトリック王国を日本に建設する企てがあったというより、やはり、宣教師の独走であるような気がします。
伊達政宗は「 欧州の覇者 」!?
仕事のBGMで聞いていたので、奥州を空耳してしまいましたw
ありがとうございます。両親の生まれが北海道の伊達市でして。私のルーツを取りあげていただいて、嬉しいです。
有力大名との縁固め、、、、。
葵徳川三代では前田家に嫁いだ娘の死を聞いてお江が「東照大権現様は鬼じゃぁああああ!」とブチ切れ、秀忠に必死で抑えられるシーンとかあったなぁ。
米沢に上杉を残したのも、対伊達政宗対策の一環だたっんでしょうね。伊達の本願地の米沢に因縁ある上杉を置いておくことで強力な伊達への牽制としておく感じで。
家光にそんなに頼られてたのか。関ケ原を知ってる武将は尊敬されてたのかな。真田信之も長生きしてかなり尊敬されてたみたいだし。
支倉常長の一行はメキシコで一部別れたり、日本に帰らずそこに土着した人らがいて、
その末裔が今でも生きてるって聞いたが本当だろうか?
なんか子孫が結構な人数になっていて、ハポンだったかという
現地で日本人を表す姓を名乗って、侍の子孫と言うことで
一目置かれているとかいないとか。
数年前に交流イベントで日本に来てましたね。
面白かった。家光と仲良しだったのかな。最後の漢詩はなかなかいい感じですね
2年近く前に公開された動画にコメントするのもなんですが、30:37の部分 伊達政宗の没年が寛永13年ではなくて慶応13年になってます。
西に反転する時に結城弾正を置いてったのを書かないとは
そういえば、昔読んだ伊達政宗のマンガ伝記で「秀吉には減俸まくりで恩がない」と言ってたが、自分のせいではと思う部分がいくつか…。
文献や手紙見てると秀吉公には寧ろ好感持ってたような感じで
@@user-tk3dt6zn3t そこが面白く不思議なところであります。
「関係御座候」だと関係あるみたいになっちゃうから「関係無御座候」だよね
田村家のその後が知りたい
馳走とは……も組み込んで欲しかった(´TωT`)
服部調理学校の校訓で、世界中の料理人が心に刻んでいる名文句を✨
70歳とは、当時としては長生きですね。
酒癖が悪いというのも意外だった。
ヘビースモーカーで口頭噴門癌でした。でも70は凄い、野外で戦(スポーツのように)で体を鍛えていたから長生きできたんでしょうね。
戦国の政宗しか知らないから面白かった
サン・フアン・バウティスタ号の復元船は震災で破損して日本では修理できなくなってこのままでは来年取り壊されるという話だったけど、クラウドファウンディングどうなったのだろう?
震災前に一度立ち寄ったけど乗船できなかったのが心底悔やまれる...
幼少期から仙台に住んでいる者です。震災後海外からの支援などもあり、復旧しましたが、老朽化に伴い、解体作業が始まったようです。2022年3月中に解体作業が終了する模様です。長年仙台に住んでいますが、外から見たことがあるだけで、中に入ったことがなかったので、私も、見ておけば良かったなと今後悔しているところです(悲)
@@user-gy9fb3ew2k 続報ありがとうございます。
震災前に立ち寄った時、入場時間を過ぎてたんですが「神戸から見に来た」と事情話したら「せっかく遠いところ来てくれたんだし乗船はできないけど外から見るだけなら」と拝観させていただきました。暖かくなったらもう一度行こうと思った矢先震災に…
本当に悔やまれます...
虎哉宗乙を取り上げらますか
22:20
南無三…身籠(みまかる、亡くなること)られましたか……ドラマ見たくなりました。
尊敬する政宗公の戒名
法名 瑞巌寺殿貞山禅利大居士
(ずいがんじでん ていざんぜんりだいこじ)
戒名 瑞巌寺殿前黄門貞山利公禅利大居士
(ずいがんじでん ぜんこうもん
ていざん りこうぜんり だいこじ)
黄門とは朝廷の従三位 権中納言
(ごんのちゅうなごん)のこと。
後に従二位を贈られ、叙せられる。
あのドラマ、長台詞と名台詞ありますね。自分は小十郎の猪突を諌める場面や小田原参陣前の台詞が大好きです。
ドラマ、死の直前の夢幻で、子供の頃の自分が現れたり、愛されなかった(はずの)母親が優しく呼んで迎えてくれたりするシーンには泣きました。
それにしても、武士は死を迎えるとき、けして背をつけず前向きで死を迎えるのを座して実行した場面は流石、戦国大名と感心しました。
@@user-ij9wd5py8s
成算もなく猪突猛進するは、匹夫の勇にあらずして、なんぞや!
朝廷を恐れざるは、不忠の罪なり!
関白の命に背くは、不義の罪なり!
先祖伝来のお家を滅ぼすのは、
不孝の罪なり!
不忠・不義・不孝の罪を犯しては、
天の助けもあるべからず!
天の助けは最早望むべくもない!
参陣の時は既に逸したのだ!
逸しておるとは限らん。
もし関白殿が、小田原参着の早い遅いを以て忠節をお計りなされるのならば、
笑止千万。ご政道正しからず!
左様。身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ。
殿。ご裁断を。
ご裁断は終わっておる。
滅亡の覚悟を示されたではないか。
奥州にて滅亡致せば逆臣!
小田原にて滅亡致せば義に叶いませぬ。
女々しいぞ、小十郎!
二人とも静まれ!
評定を何と心得る!
@@user-mo9zi9sb1t
最期の時は、愛する妻や子供たちにも見せなかったと言います。
痩せほそった姿を見せたくなかったそうです。
この世のことは、全て夢でござる。
そなたは我が子じゃ。愛しい我が子じゃ┉政宗。
梵天丸。藤次郎。┉いざ!
村田雄浩のセリフですね(笑)
やっぱり政宗ネタはいいな(๑•̀ㅂ•́)b
将軍家光と飲んでる時に泥酔して寝入ってしまった政宗の刀を見てみたら竹光だったって話が大好きです(*´∇`*)
この人は戦にはそんなに強くないけど蒲生氏郷を心労死に追い込んだなんて冗談を言われるくらいのパフォーマーだから、本当に泥酔して寝入ったとは思えないのですが、それでも実際に竹光を見た家光は嬉しかったでしょうね~
正宗の奥州統一過程の主な戦の勝敗を見ると16戦10勝1敗5引き分け。むしろ無類の戦人ってイメージが強いなぁ。
@@sukeyu-5194 頼山陽が伊達政宗は本朝の曹操孟徳なりと言わしめる、戦の強さと美的センス、教養の高さは引けを取らない、ただ産まれた時代が間違った。伊達政宗は治世も乱世も共に覇者(善政を見るに奸雄ではない)そう、中国ならば武勇ら知略は項羽、孫策に匹敵する。
やっぱり政宗が一番好きな武将だなぁ~(* ̄∇ ̄*)
渡辺謙…
伊達政宗my先祖
30:37 慶応→寛永 だよね?
幕末にいたら、どんな活躍を下であろうか?
※白石城【しろいしじょう】
です。
ここまで政宗が野心家になれたのも、片倉小十郎景綱の存在が大きい。関ケ原の戦い時に隣国・山形の長谷堂城で最上vs上杉の死闘があったが、ここで小十郎が「まずは傍観して、両者が長期戦で疲弊した時点で大軍をもって山形に攻め込み最上領を奪いましょう」と提案した。しかし政宗は「山形には母上がいる」という理由でこれを却下し、伯父の留守政景を名代として援軍を送ったという。政宗の晩年が野心家でなくなったのは、小十郎景綱の死(1615年)が少なからず影響していると思う。
最上には援軍どころか、政宗自身が出陣していますよ❗
@@user-ks6cm8jt4j 政宗自身が関ケ原前後で出陣したのは、慶長5年7月の刈田郡白石城攻めおよび10月以降翌年春ごろまでの伊達・信夫郡への侵攻のみです。最上領への政宗自身の出陣の事実はありません。
仙台に住んでいます。小十郎といえば白石城ですが、仙台城の入口には片倉小十郎景綱屋敷跡という看板もあります。皆すーっとスルーする場所ですが、自分は何故か独眼竜政宗の西郷輝彦さんの顔が浮かびその場でしばらく佇んでしまいます。
高山右近の領地の摂津では寺社仏閣の打ち壊しがあったことを忘れてるぞ!
この時代のキリシタン大名皆に言えるけど、キリスト教以外の神社仏閣をとにかく潰すってのは日本精神ではないと思う。だから未だにキリスト教信者が極端に少ないのも納得。
久保田藩 高松藩 狭山藩をお願いします🙇♂️
いやいや、幕末漫画の風雲児達もその基礎は関が原にありとしてやっていますから、伊達政宗を説明するのにその前半生はあってもおかしくないですよ!
政宗も好きだけど俺は加藤清正が1番好き。
♪やっぱり~ 俺はぁぁぁぁ~ 伊達政宗ぇ~
家康の次男結城秀康が小山に居たのを忘れてるぞ!
結城秀康が居たのは一緒に上杉の抑えとして残った蒲生秀行の居城宇都宮城じゃなかったっけ?
魔理沙の兜がすごくいい。魔理沙は男かも!
掛け軸がちゃんと政宗の漢詩にw
まぁねぇ
曹植.杜甫.李白.白楽天は呑んだくれだからねぇ、
呑んだくれでないと詩人になれないんですよ(笑)
そうか、皆詩人でしたね(笑)
神保相茂「大坂で武勲…ねえ」
「伊達の軍法には敵味方の区別はない!」と一蹴
戦国からの、日本の戦力は、世界最強だからね‼️
アッハッハ!
バール・ゼベール
=デーヴァ・ヴァッカ
=牛頭天王
に対する、
異端審問
=魔女狩り
の厳しさを思い出して下さい。
片岡景綱が倒れた時点で政宗も無力。その後は
大津波の大災害で幕府に歯向かう財力もなくなった。
再生リストから通しで見る場合にはいらないかなって人いらっしゃるかもですね
上杉を領国に釘付けって書いてあるけど、上杉はもともと会津に籠るつもりだから別に重要でもなんでもない
策を弄しては裏目に出て、往生際の悪さ、反骨精神だけは天下一品。ドラマ見て何がすごい人なのかよくわからなかった
なのに許される、好かれるというところが面白く感じるのでは。
度量あるよなあ。自分はアホらしくて政宗につきあえないし嫌悪感から礼遇するなんて絶対にできないです
慶應って?
に
いち
「すべからく」の典型的な誤った使い方です。
伊達か相馬地方の生まれのワイからしたら
あんまり、誉めたくない
関ケ原の前日、相馬は家康か上杉に付くか迷っていた。
そこに江戸から仙台に戻る途中の政宗が立ち寄り、一宿一飯を希望した。
家臣は政宗討つべしと騒ぐが、相馬は仙台に送り出す。
結局は家康が勝つのだが、味方しなかった相馬を叱責する。
そこで政宗は無事に泊めてくれたから、結果的に徳川に味方したのだと相馬をかばう。
結果、相馬は改易を免れ、相馬は政宗に頭が上がらなくなった。
まぁ会津の人にも良いイメージがないとの事。サンドの伊達ちゃんもサラリーマン時代に営業で伊達姓で苦労したとかの話も相馬と伊達は戦もしてますが親戚なんですよね!
叱責されて無いし、
利胤殿が取り消す様にと本多正信に
直下談判したんだよなぁ、
政宗が家康に相馬家の本領安堵の嘆願をしてそれが本領安堵の決め手となったのもまた事実ですが
俗説多すぎ
それだけ魅力的ということでしょう。でなければ三国志演義の立場がないよ(笑)