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なぜ5世紀の古墳からは鉄製の武器・武具が多く出るのでしょう?みなさんはどう思いますか?コメントで教えてください(スタッフのクヌム)
ちょうど藤原氏に消された歴史部分の四道将軍が設置されていた時代にかかる辺りですから残念ながら、中央側からの視点である今回の博物館の学芸員の先生とは私の意見は異なります。当時は戦乱期だったと思いますよ。だから権威の象徴は農業=太陽暦と密接な鏡よりも武具に変移した時期だと思います。この学芸員の先生は当時の首都圏の畿内の価値観で語られているとおもいます。が、関東人の私から見ると違和感があります。当時は朝鮮半島南部の南端は現代風に言うと日本領でしたし、古墳時代直後の飛鳥時代も防人が全国から招集されてますから貨幣経済以前に既に金属=富の価値観は金属=武具としてあったと思います。まぁ、日本と言う国号登場以前に中国語の指す日本国名の扶桑は中国語の発音で扶桑(FuSan)で釜山(FuShan)で言語学的には同義語だったりしますし、釜山は古代の鉄の産地でした。巨大古墳造成については経済的な統治と権威を示す2つの意味で示威的な存在だと考えます。かならず往来の要所に作らせましたし、地方豪族の武具を作る富を貯めさせず統治する為に大規模事業に従事させる例は幾らも何時の時代も有りましたから。奈良の大仏も地方から財力を奪う為の事業だったと思いますし、中世終り頃ですと豊臣秀吉による京都の大仏建立、近世の徳川家康公の全国での築城が正に具体例でしょう。横浜市青葉区の稲荷前古墳群は一般的に皇族に関わったか皇族の関係者の古墳群と言われていますが、地名に鐵(くろがね)町、なんてのも残っていて近くにも郡衙跡があります。武蔵国の古代からの国府祭に参加する延喜式内で武蔵国六之宮の杉山神社も昔は青葉区と一緒の区だった隣の緑区にあります。当時は前線に皇族や臣籍降下した王族の将軍を送り込み地方豪族を統治させてた様なので武具は正に権威であり、司令官として反乱を鎮圧する役割は頻繁に地方ではあったと思います。あと内房は木更津はヤマトタケル伝説の地域の1つで、外房の一宮界隈は藤原氏の再編させた歴史観と異なり天皇家の祖先の玉依姫と鵜茅葺不合の居住地域で縄文海進の海岸線と神話が整合したりもしている上に、皇族しか国守に成れない親王赴任国と言う特別な地域でした。その名残が皇族以外を国主代にする為に作った上総守の代わりの上総介の官職ですね。これを踏まえると金メッキ鎧が千葉県木更津に有るのは皇族もしくは臣籍降下した古代王族が被葬されていたのだと思います。逆説的に考えると仁徳天皇陵の金メッキ鎧は本当は前方部ではなく、後円部で盗掘された物だと思います。何故かアメリカに出土した剣が寄贈されてますが。そもそも盗掘者が罪が重くなる「中心掘りました」なんて申告する訳無いので、前方部に石室云々自体嘘でしょ。仁徳天皇の実弟の菟道稚郎子にしても藤原氏の再編史観と異なり、神奈川県平塚市の前鳥神社は邸址と伝わりますし平塚市の地名由来の古代砂丘跡に真土大塚山古墳と呼ばれた大規模古墳が昭和期まで前鳥神社近くにありました。この前鳥神社は古墳時代には相模湾に突き出した段丘や半島だった可能性が指摘されています。正に古代には典型的な古代聖地化されそうな地形で、立地的にはヤマトタケルと弟橘姫(おとたちばなひめ)伝説の三浦半島横須賀市走水神社前の御所ヶ崎(明治に御所ヶ崎の神社は廃社され走水神社に習合→同地は走水低砲台の要塞が陸軍に築かれ消滅)や千葉県一宮市の玉前神社や木更津の直ぐ近くの姉ヶ崎にある姉崎神社と同じ様な地形です。平塚市の前鳥神社近くの真土大塚山古墳は不可解に現代に宅地造成で消滅させられ出土品は国立博物館に持ち去られましたが、皇族級の豪族しか持ち得ない鏡などが出土してます。更に佐賀武国造と関わり有りそうな国府級史跡が平塚市内に有りましたから。この方の子孫が熊本の阿蘇君に養子に入ったらしい宇治氏や、神奈川県東部、古代佐賀武国を治めたらしい鎌倉国造や横浜市戸塚区地名由来の冨塚古墳の被葬者の冨属比古(とつぎひこ)、川崎市〜横浜市緑区〜青葉区〜都筑区〜多摩市〜町田市〜稲城市〜八王子市〜の古代都築郡の郡衙を治めたらしい横浜市青葉区の稲荷前古墳群の被葬者達、伊勢原市〜厚木市〜相模原市〜綾瀬市〜大和市辺りを治めたらしいヤマトタケルを裏切った小野氏一族の子孫の横山党豪族達や大伴氏と穂積氏や橘氏や丸子(和邇?)宿禰等の存在でしょうか。川崎市の橘樹郡衙跡近くにはヤマトタケルの后の一人で東京湾に身投げした弟橘姫の装具を安置して作られたと伝わる富士見台古墳が有りましたが、宅地開発を名目に明らかに古墳石室を両断する形で道路がひかれており盗掘された物も良く分からなく成っています。その遥拝所にあたる部分には橘樹神社が今もあり明治に成ってから山岡鉄舟が訪れたりしていました。更に言うと、ここも縄文海進で海岸線に当たる地域です。余談ですが私はヤマトタケルは四道将軍設立以前の複数人の各時代の皇族大将軍の官職名で独りの人物として神格化されていると考えてます。菟道稚郎子もヤマトタケルの一人だと考えていますし、その後の雄略天皇=ワカタケルオオキミも正にヤマトタケルだと思います。埼玉の稲荷山古墳群から出た鉄剣にワカタケル大王の名の金象嵌が有るのは、その時期に現在の神奈川県横浜市港北区~神奈川区~緑区~都筑区~川崎市~多摩市~八王子市~埼玉県~群馬県で勃発した武蔵国造の乱の鎮定に倭建(ヤマトタケル=稚長=獲加多支鹵)として雄略天皇が来たと言う証拠なのかなと考えています。ついでにワカ=別(ワケ/ワカ)=稚(ワキ/ワカ)は飛鳥時代以前の天皇家の失われた苗字だとも考えてますいます。最近流行った大河ドラマの人物ですと三浦大介(おおすけ)平朝臣義明の名前の順番を参考にすれば•••菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)菟道=宇治が本貫地で苗字に使用稚 =皇族郎子=男系男子•••と言う意味になろうかと思っています。御曹司の事を「若(わか)様」と言うのはこの名残なんじゃないかな?ちなみに大和市と横浜市瀬谷区の市境の境川河畔にある深見神社は雄略天皇の時代に創建されたと伝わりますが、古墳時代の渡河地点だったようです。同社は昭和の考古学がいい加減だった時代の県史蹟調査員・石野瑛が海だったから深見=深水等と言っていますが現代の貝塚分布を元にした縄文海進海岸線研究結果と同地の標高が80mで縄文海進海岸線は最大でも今の陸地の標高15mの高さの位置と判明しているので明らかなデマと現代では昭和の説は断言出来ます。どうも東京の古代の発掘調査や平安時代の醍醐天皇が制定した延喜式で当時の人から見て古い古社と認定された神社の一覧表である延喜式神名帳掲載の神社の位置を、GoogleEarthに表示して縄文海進の海岸線と比較すると完全に合致するので、古墳時代にも現代の様に急激的に温暖化して縄文時代の海岸線に近づいたか、まだ古墳時代には古代の名残で湿地や入海ばかりで人の住めない地域には神社化された古代人の集落や聖地が存在しないようです。大阪も住吉大社の辺りまで実際に海でしたし大阪府東側の旧河内国域も河内湖と呼称される大きな湖でしたしね~。まぁ、河内国の国名の地名からして河内=入江と言う意味ですからね。
勝利と統合の象徴だったと思います!
@@yoshikurakino 大変詳細で興味深いご考察ですね。
好太王碑によれば、倭国は4世紀後期に朝鮮半島に侵入して百済、新羅、任那を服属させて高句麗と戦い、高句麗はこれを撃退したとあるので、その時に馬や馬具や武具の重要性に着目して導入したのではないでしょうか
このころから南朝鮮や漢などからの渡来人の交流が始まったんでしょうね。
この動画がきっかけで仁徳天皇陵、博物館へ最近行ってきました。博物館のボランティアさんがどんな質問にも答えてくださって、展示室にはいってすぐの上空からの写真を見ながらいろんなことを教えてくださってすごく面白かったです!!歴史って本当に奥が深くて楽しい😊
知識を持った人同士の議論を聞くのはとても勉強になるなぁ
ノーカットで全然詰まらず話せるのすごすぎる…。しゃべり慣れてる。
すべてがガヤの遺物だ。日本を設立したのはガヤ人です。
エジプトのようにきちんとした記録がない中研究していくご苦労がよくわかりました🙏
面白いです。日本の遺跡も分からないことだらけなんでさらに楽しくなってきます。
途中で寝落ちしちゃうかと思ってたら見入ってしまいました。歴史に想いを馳せる熱量が素晴らしいですね。石棺の説明な「めっちゃイレギュラー」で思わず笑ってしまった
全くの無知識なのですが、見ていて惹かれるというか、見入ってしまいます。古墳群が身近にある環境なので、余計に面白く興味深々に見させていただきました❗️色んな意味でエジプト考古学にも通じるところもありそうで、次の動画も楽しみです❗️
第二弾、待ってました!河江先生と仁徳天皇陵、ワクワクしない筈が無い。学芸員の白神典之先生のご説明も分かりやすくて楽しみにしてました。鉄が朝鮮半島南部からと仰ってましたが、朝鮮半島にも前方後円墳が十数基発見されていますが、どれも五世紀後半〜六世紀前半とされてて、日本の前方後円墳より時代が新しいのはどういう理由なのかを知りたかったです。
百済の使者だったか皇子が、倭国の朝廷を訪れており(援軍要請懇願)、帰国する際に、倭国の軍人も百済を支援する為に共に海を渡ったことが日本書紀に記されています。彼等は、百済を軍事支援する為に半島の地に残り、高句麗や新羅と戦い散っていった。彼等を称えるために造られた(前方後円墳)とみられています。半島にある、前方後円墳からは倭式の鎧や太刀、百済の王族から贈られたと考えられる青銅に金メッキした金属製の装飾靴が出土しています。
河江先生のお話もそうですけど、こういう先生に解説してもらいながら見学すると面白いだろうなぁ❤
学芸員の方のお話がものすごく面白いですね
この先生しゃべり上手い!
楽しかったです!TH-camでここまで見れるとは思いませんでした。凄いですね😊
自分も生まれて初めて5月9日に、仁徳天皇陵に行ってまいりました!仁徳を一周し、その後に大仙公園を散策しましたが公園の方が楽しめましたw 仁徳天皇陵はグールアースで確かめることにw 博物館は行かなかったため、今観ましたが面白いお話が知ることができ歴史はロマンがあって楽しいですね。
モザイクが気になる
古墳時代→火縄銃→包丁、自転車堺やっぱすごいわ
ぶっちゃけ大仙古墳あたりはとんでもないものが埋もれてると思う。古墳周辺も大規模な集落があっただろうし
以前こちらの博物館で甲冑と兜のレプリカを着させてもらったことがあります。その時の写真をLINEのアイコンにしてます。ここの博物館はとても楽しかったです。
続き早く見せて…!!!!めちゃくちゃおもしろかった
石棺が神輿に見えるから凄い。
昔子供の時、京都のならびがおか古墳に、父と忍び込んだ事があります。何も、見れませんでしたが、今でも、鮮明に覚えてます。今なら、捕まるかな?
ピラミッドと古墳の専門家の会話ってyoutube初では。
先生が日本の遺跡に興味を持ってくれるのは嬉しいです。日本の遺跡で掘りたい地域などありますか?大切な歴史たずさわって頂きたいです!
とてもわかりやすく大変勉強になりました。
河江先生に発掘調査してほしい。
コール&レスポンスが徐々にヒートアップしていくのが、いい。
続き待ってました!!😁
他の動画で昔の鏡は渡来人が持ち込んだ手旗信号とか狼煙にみたいに利用する通信手段だったのではとの事高い山の頂上から鏡で太陽の光を反射させつつ位置情報等を海上の船や他の山頂拠点へ伝達したみたいな?
博物館展示品の中に一部モザイクをかけていましたが、どういった理由ででしょうか?
待っていました。興味深く拝見しました。
私もモザイクがかかった遺物が気になります。堺市博物館に行くしかないな。
銅鏡の事が詳しく知りたいなら福岡県の伊都国歴史博物館へ行って下さい。日本で一番銅鏡が発見されたエリアにある博物館です。
武器武具の存在は、作れる事、現物を見せる事で、力を見せる事が大事な時代だったんじゃ無いかなと思うので、古墳も、時代を変えて城や、寺社仏閣なども同じと思います。
展示品に一部モザイクがかかっているのは何故なんだろ?
とても見応えがある動画をありがとうございます😊
一つの古墳に幾人もの棺が埋葬されている事を始めて知りました。とても面白いですね。昔田舎に行くと田園の真ん中に一族代々のお墓が纏まってあって、その大規模な物が当時の古墳だったりするのでしょうか?誰か特定の人物の為のピラミッドと言うより田園を広げた人達の王家の谷的物だったのかもしれませんね。
そうですねー。私の考察ですが、天皇の王権を象徴する物で、三種の神器があります。その中で草薙剣と言う物がありますが、それと同じ意味合いで、武器を埋葬したのだと思います。古墳も学術調査できるようになるといいなあ、と思っております。
いつも楽しく拝見しております。話がそれてしまいますが、先日から吉野ケ里遺跡が賑やかになっているので、地元民としてはぜひ行ってみてほしいです。
発掘調査してほしいですね。新しい事が発見されたらと思うとロマンがあります。
ロマンチックなお話です。
仁徳天皇陵の1番格式の高い石棺には、意外と何にも入ってなかったりして。なんか天皇というと、臣下それぞれに役割をキチンと任せてるイメージ。なのでそれぞれの石棺には役職に因んだものが入れられてるんだと思う。逆に天皇の物って重要なものは次代の天皇に継承されるんだろうから、身につけていたモノや、好きなモノあたりが入ってるんじゃないかな?まぁ、1番のお宝のその石棺に入ってる人の由来が刻まれた石板なんか出てきてくれたらサイコーですね。
天皇陵は実在している天皇家(他家)のお墓だから掘り起こしたり出来ないと聞きました。確かに他人のお墓なんですよね。
マッカーサー氏は、何を見たんだろう?
何か掘り出してアメリカに持ち帰ったんですかねぇ
@@user-zo5us2an7n有力な説としてマッカーサーさんが回収した物には何も入っていない説
古代宇宙飛行士の死骸を見つけました。
何故か日本人が仁徳天皇陵のなかを見れないのは不思議ではある
私の お墓の中も 覗かないでね。
@@ジョージアS 誰も興味ねーから。
大山人、海幸彦の系列ですね。大仙陵古墳。今現在よりも大きな人類の痕跡。山程の丈のムツメ。物品から得られる情報は記紀と繋がります。
白神さんの話がとてもわかりやすくて、興味をそそられました。私は日本史では卑弥呼の後の時代、謎の4世紀に興味があるのですが、ちょろっと調べてみたら、5世紀の日本のヤマト朝廷は、朝鮮半島の紛争の武力介入を行っていたようなので、それで武器として鉄と製鉄の方法が日本に入って来たのかなって、素人の頭では思います。とにかくまだ、エジプトと違って、古墳時代の日本はまだ文字を持たなかったから、記録とかがあまりないので、古墳ひとつとっても謎が多いですね。でも、それが想像力をかきたてられます。
陳寿の三国志によれば朝鮮半島の南部が倭の領土となっているのですし、57年には後漢に使者を送っているので、朝鮮半島の紛争に関しては1世紀に入った頃には既に介入していたでしょうね。大陸への橋頭保となる朝鮮半島は重要な拠点として維持に躍起になった筈です。
白神さん当時の朝鮮半島南部は日本ですよ。
たしか、朝鮮南部では日本と同じような古墳が見つかっていましたね。
韓国の朴天秀教授の倭系百済官僚説とか面白いですよ
堺市博物館に行ったことがありますが、古代以外もqものすごい展示物が多いので、おすすめです。この家型?石棺やグラスも、ケルンの古代ローマ博物館で似たようなものを見ました。(私は素人の歴史好きです)河江さんのような古代エジプト専門家が、日本の古代発掘物をみると、どう思われるのか、聞いてみたいです。次回も楽しみにしています。
やっぱり古墳の大規模調査をして欲しいよね。少しはわかることがありそうだし。
白神先生の話は、分かりやすくて聞き入ってしまいます。ところで先日、佐賀県・吉野ケ里遺跡の街を一望できる小高い丘の「謎エリア」に埋葬されていた石棺の蓋が開けられ来週中にも石棺内部が明らかになるだろうとの事ですが白神先生・河江先生も物凄く楽しみにしてるでしょうね。伝説の卑弥呼に関わる超ド級の埋葬品が出土すると嬉しいですね。
地元なので、ぜひ河江さんと白神さんにもいらっしゃって欲しいです。河江先生のファンで大変なことになりそう😅
淡路市の山の上に一世紀前半から半ば頃に突然出現した五斗長垣内遺跡という国内最大規模の製鉄跡があります鉄斧や大量の矢じりが100点超えで出てきてて、多数の石製鍛冶工具類、水銀朱用の石杵、石棒跡も出てきてます最盛期は二世紀後半で瀬戸内海を介して海の民が関わったとされるようです
古墳はそもそも水田作りのために平地にするときに出た土砂を水路を使って集めたものですよね。土砂が流れ出ないように形を作り、周囲に水をため流れ出ないように工夫されていて、その時代の尽力されたひとの霊を祀る場所にもしていると言われてます。古墳の周囲の土地環境は、ほぼほぼ平坦で水路が有ります。
近くには戦後のどさくさに埋め立てられて住宅になってしまった古墳もあります 天皇の存在が薄れていた時代には盗掘されたとかいう話もあり、恐らく仁徳さんもその対象になっていたと思いますし、忍び込んだなんて方も聞いた事があります宮内庁が音頭を取って発掘作業を行って頂きたいと共に、堺市も仁徳さんを周遊して周りに来訪者の為の店舗を奨励して盛り上げて欲しいと思いますピラミッドと比較して寂しい周辺なんで悲しいですね
自分が当時の人だったら古墳を取り巻く円筒埴輪は松明や薪を刺して火をつけるだろうな。
仁徳天皇陵古墳後半‼ ありがとうございます✨
会津若松市大塚山古墳(前方後円墳)からは、三角縁神獣鏡も出土されてます。
何でモザイクなんだろう??
こんなかっこいい甲冑作ってたんか
熊本の山鹿で、子供の頃、古墳中に入って、壁画の見た記憶ありました。今は見る事できないでしょう?
受験生時代に見たかったなぁぁ
鉄器の話は他の方に任せるとして、古墳について考察します。古墳の形状は、古代中国の蓬莱山に仙人が住むという、蓬莱神仙思想の原始道教の影響を感じます。前方後円墳が蓬莱を表していると考えると、海と見立てた周濠に水を溜めて彼岸の境界とし、被葬者が仙人に生まれ変わるよう願いを込めて、壺の形を模した島の墳丘内部へ葬ったのだと思います。鏡や円筒埴輪は境界であり、彼岸への通り道だと考えます。。。大仙古墳も壺の形と見れば、出口とされる口部に武神のような人物を配置して被葬者の大王を護衛したと考えられるのでは。。。
神仙思想に彼岸があるわけ無い笑
@@HIROSAWA. 前方後円墳の原型は2世紀後半〜3世紀の古墳の始まりとされる、吉備の楯築古墳が最初の神仙思想の影響を形とした古墳だと個人的に考えています。墓の形状は、同じ死生観を持つ集団が死後の世界との繋がりを現世に作り出したものだと思うので、時代や地域によって異なる死生観を持った墓は色々あると思います。。。
地元民の呼び方に「仁徳さん」というのもある。基本関西では「神さん」「おっさん(和尚さんが詰まった)」など様がさんになります。ちなみに今上天皇陛下を昔は当今さん(とうぎんさん当代の今上陛下の意味)なんて言ってたりもしました。
弥生時代の開始が昔の歴史よりはるかに古くなった結果、鉄が朝鮮半島から入って来たは矛盾が出てくる気がする当時、本当に日本に鉄鉱山が無かったのか?
弥生時代からは炉に空気を送り込む羽口(所謂吹子)が発見されて居らず研究者の間では殆どは輸入に頼って居たと考えられて居り研いだり短くしたり簡単な加工のみ日本で行われて居た様です一方で古墳時代からは羽口が発見され登場したのも其頃と考えられて居ります 鉄の高温処理が可能に成った事で製品の供給率は飛躍的に上がりました
仁徳天皇の『民のかまど』の逸話は有名ですが、それが起こった原因は?と白鳥庫吉先生が生徒に問うた時に、生徒が『三韓征伐』と応えました。その前にはクマソとの戦い。4世紀後半くらいの話なので、武具が必要ではないかな?と思いながら観てました。神功皇后は初の摂政ですし、夫は仲哀天皇で、天皇のお父さんはヤマトタケルですので、なんか『武』を連想します。個人的には鉄=武具になっているのがつまんない世の中ですが、銅より遥かに硬く強いのでそうなるのかな、と。農具建築は大変捗りそうで、そちらの文化が後に華開いていく感じが好きです。
クラカタウの噴火に伴う、冷害飢饉が原因だと思いますよ。
全く同意。
古墳の考え方の可能性も多様だということが説明の中きらわかりました。後半も楽しみにしています。
地元の学芸員の先生の説明、埴輪が結界のような意味を持っていたのかもしれないというお話は興味深いです。鏡や勾玉からは卑弥呼のような祭祀をつかさどった人物像が、武具や馬具からは世俗の権力を持っていた人物像が思い浮かびます。今では大きな森のように見えますが、築造当時は白い葺石と赤い埴輪でコンテンポラリーな造形美を形作ったのでしょうか。百舌鳥と古市と二か所に分かれて大きな古墳群があるのも謎ですね。
円筒埴輪の列は遠目からみると、古墳を縁取るような役割があったのかな。古墳の形がくっきりしますね。
良い御説明で勉強になります。一度、訪ねてみたいです。
特定の副葬品が映った時にモザイクがかかってるのはどういう理由からですかね発掘された副葬品にも何らか権利が発生しているんでしょうか
24:00 この辺りの対が存在する銅製金メッキの武具の話がおもしろい!
福岡のほうで庚寅名太刀が発掘された動画観たことあるし長岡のほうでもたたら遺跡の発掘調査の現場観ました🙄
そこにあるのに許可出なくて研究出来ないって辛い。
人類最大規模の秘密がバレるから?かな。戦後すぐGHQが調査してます。彼らは日本の秘密を知ってる。
マジレスしたら、調査しても大したものが出ないから予算が出ないんだと思う 大山古墳とか今城塚古墳からも面白い物は出てないからなぁ そもそも古代日本には、古代中国のような墓碑文化が無いから、結局何か出てもほとんど情報が得られないのが実情
5世紀に『冥界の入り口』ができたから、鉄製の武器・武具が多く出るんだと思います。仁徳天皇陵古墳でエジプトのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵にも触れられているのが日本史のみならず世界史に通じるものがあると感動いたしました。
無駄に掘り起こさないよう、エジプト学のようにLiDARのような最新技術を使って地下の状況を調べていただきたいですね
んー!面白い。丁寧な編集おつかれさまです!!
鉄の文化もまだ不明な点が多いですし 歴史を正確に解明するのは難しいですね
家の亡くなった祖父は、筑波山麓の縄文時代から続く豪族の出身だったそうです。とても血筋を大切にしていて、家の両親はお見合い結婚なんですが、母方は群馬県藤岡市山間部の氏族の出身で、その地区には、羊大夫とゆう、中近東から、シルクロードをどうって、
伝承では古墳にはかつて殉死者を生きたまま埋めたとされ第十一代垂仁天皇の時代から殉死者を埴輪に代えたとも言われております。大王が身罷ると臣下には後を追おうととする者が出るため古墳の外周部にも棺が埋まっているのではないでしょうか。
鳥の糞で汚れるから掃除させて欲しいというのは、確かに不自然な感じがしますね。古墳が鳥の糞で汚れたら、何か生活に支障が出るんだろうかと思います。
ちょうど日本での製鉄の始まりは3世紀説もありますが、これはあったとしてもごく局所的なものだったと思いますし、それなりの規模でたたら製鉄が始まったのが5世紀から6世紀と言われていますから、需要が上がって輸入品では効果になるので自分たちでどうにか生産できないかという動きが始まったんてしょうね
待ってました
出雲族が諏訪で鉄生産をしていたと思いますが。。
副葬品からはいろんな事が分かりますね。
ベトナムに行った時に偉人?大王?の墓を訪ねたのですがいま考えると前方後円墳の形をしてましたが関係あるのでしょうか?
国内での製鉄が始まったのは日本史では5世紀から6世紀。最先端の技術で作られたものと言うのはいつの時代でも最高レベルの価値のつく宝物なわけです。とくにこの時代は日本の国体の基が作られた時代。武力によって抵抗勢力を抑えて支配下に置く時代では、武器や武具というのは権力の象徴(=レガリア)なのです。古代中国であれば玉璽、ヨーロッパなら王冠、エジプトなら套や錫杖となるのです。そういったレガリアを作るのであれば最高の素材を使って作るのです。現代に置き換えて例えると、半導体の材料などではグラム単価がダイヤモンドを超えるものだってあります。他所では作れない最先端の技術で作られたものにはそれだけの価値を生み出すのです。当時の日本はまだまだ神代の時代だから、最先端技術というのは神の御業で作られたものに等しい。死して神と同等の扱いとなる被葬者の副葬品としては神器ともいうべきその時代の最高のものを用いるのが最も最適と考えたから。
「神代」というのは神武天皇即位以前の神々が地上を直接治めていた時代を指す言葉で、神話を丸々鵜呑みにしたとしても古墳時代のことを神代とは言いませんよ
動画有難うございます
やっぱり仁徳陵の話になると「宮内庁、発掘させて~」ってなりますね。まあ、江戸時代に盗掘穴がボコボコ開いた絵図があるので、副葬品は残って無さそうですが。エジプトしかり、中国しかり、お墓の宿命でしょうか。明治のお掃除(笑)の時に見つかったのは、イレギュラーで端っこだったから盗掘に合わなかったんでしょうね。明治期、前方のこの辺が崩れてたから直したっていうのは知ってたんですが、石棺が見つかってたのは知らなかったです。
歴史は国々によって編み出されるストーリー
前方後円墳...⬛︎が前で●が後ろなの?と子供の頃から今迄不思議
江戸時代の蒲生君平という学者が適当に決めただけなので気にしなくていいです。
私自身興味は尽きませんが、発掘調査でも埋葬品を別の場所に移動させれば、盗掘と何ら変わらない様な気持ちになります。私達の何世代か後には掘り返さなくても内部構造も透視出来る技術が開発されると思います。自分たちが今、興味本位で傷つけて良いものかどうか葛藤もあります。先生もエジプトで経験されているでしょうが、傷付き壊された遺物を見て後の世代の研究者達も「何故待っていてくれなかったのかと」残念に思うのではないかと心が痛みます。逆に、待てなかった気持ちも理解出来るのかな。それでも「新発見」という言葉に心躍る自分もいて、困ったものです。
同じ感覚の人がいてくれてほっとしました。私もどうしてもお墓を暴くという気がして古墳の発掘調査には抵抗があります。古代の人が大切な方を大切に葬り祀った神聖な場です。私はその遠い先祖の思いを大事にしたい。学術的なものとはいえ好奇心で掘り起こすなどするべきでないと思います。エジプトの王家の墓が外国人であるイギリス人に長年好きなように掘り返され、ご遺体さえ持ち出されて展示されてきたことを考えると日本の天皇陵をあんな目には遭わせられないとつくづく思います。
鉄は大陸よりも日本列島と朝鮮半島南端(倭人の地域)のほうが先じゃなかったか? 考古学は発見によりがらりと変わりますね。
田舎の島国が大陸より先はあり得ない。シルクロード舐めすぎ
金メッキの鎧 同鎧の真ん中は、何と[中]という字が刻まれているのが凄い。天御中主尊 の系列なのか?どう思いますか?全くの偶然とは思えないですよね!
何も過去のことがわからずに、朽ちて無くなっていくより、発掘して当時の貴重な文化伝統を再認識するほうが価値があるのではないか?
蓋の埴輪は、傘と言うより宇宙船に見えました。横や、逆さにするとロケットと炎🔥みたいです。遮光器土偶もそうですが、日本の超古代って、地球外生命と繋がっていたんじゃないですかね。
今日BSプレミアム観ますよ!!
縄掛突起は分からんでも無いが ミミズク土偶とか遮光器とか勝手に先入観与える名称を付けるのはイカンと言うか アホかと思う。この動画とは関係無いけど。
仁徳天皇陵、手入れをせずに樹々が森のように生い茂っていますが、このまま放置されると木の根の力でどんどん劣化していきます。
本当にそうだ!
戦国時代には三好氏に国見城として利用されたので、往時の原型は留めていないでしょうね。宮内庁の調査でも堀が掘られた跡が複数見られるようですし。
誰がわからない、のではなく今の日本の歴史の設定が変わるから誰か明らかに出来ないのだろう。
後半も楽しみです。渡来人による鉄の技術ですかね?面白過ぎるww
早く惚れ惚れワンワン
なぜ5世紀の古墳からは鉄製の武器・武具が多く出るのでしょう?
みなさんはどう思いますか?コメントで教えてください
(スタッフのクヌム)
ちょうど藤原氏に消された歴史部分の四道将軍が設置されていた時代にかかる辺りですから残念ながら、中央側からの視点である今回の博物館の学芸員の先生とは私の意見は異なります。
当時は戦乱期だったと思いますよ。
だから権威の象徴は農業=太陽暦と密接な鏡よりも武具に変移した時期だと思います。
この学芸員の先生は当時の首都圏の畿内の価値観で語られているとおもいます。
が、関東人の私から見ると違和感があります。
当時は朝鮮半島南部の南端は現代風に言うと日本領でしたし、古墳時代直後の飛鳥時代も防人が全国から招集されてますから貨幣経済以前に既に金属=富の価値観は金属=武具としてあったと思います。
まぁ、日本と言う国号登場以前に中国語の指す日本国名の扶桑は中国語の発音で扶桑(FuSan)で釜山(FuShan)で言語学的には同義語だったりしますし、釜山は古代の鉄の産地でした。
巨大古墳造成については経済的な統治と権威を示す2つの意味で示威的な存在だと考えます。
かならず往来の要所に作らせましたし、地方豪族の武具を作る富を貯めさせず統治する為に大規模事業に従事させる例は幾らも何時の時代も有りましたから。
奈良の大仏も地方から財力を奪う為の事業だったと思いますし、中世終り頃ですと豊臣秀吉による京都の大仏建立、近世の徳川家康公の全国での築城が正に具体例でしょう。
横浜市青葉区の稲荷前古墳群は一般的に皇族に関わったか皇族の関係者の古墳群と言われていますが、地名に鐵(くろがね)町、なんてのも残っていて近くにも郡衙跡があります。武蔵国の古代からの国府祭に参加する延喜式内で武蔵国六之宮の杉山神社も昔は青葉区と一緒の区だった隣の緑区にあります。
当時は前線に皇族や臣籍降下した王族の将軍を送り込み地方豪族を統治させてた様なので武具は正に権威であり、司令官として反乱を鎮圧する役割は頻繁に地方ではあったと思います。
あと内房は木更津はヤマトタケル伝説の地域の1つで、外房の一宮界隈は藤原氏の再編させた歴史観と異なり天皇家の祖先の玉依姫と鵜茅葺不合の居住地域で縄文海進の海岸線と神話が整合したりもしている上に、皇族しか国守に成れない親王赴任国と言う特別な地域でした。
その名残が皇族以外を国主代にする為に作った上総守の代わりの上総介の官職ですね。
これを踏まえると金メッキ鎧が千葉県木更津に有るのは皇族もしくは臣籍降下した古代王族が被葬されていたのだと思います。
逆説的に考えると仁徳天皇陵の金メッキ鎧は本当は前方部ではなく、後円部で盗掘された物だと思います。何故かアメリカに出土した剣が寄贈されてますが。
そもそも盗掘者が罪が重くなる「中心掘りました」なんて申告する訳無いので、前方部に石室云々自体嘘でしょ。
仁徳天皇の実弟の菟道稚郎子にしても藤原氏の再編史観と異なり、神奈川県平塚市の前鳥神社は邸址と伝わりますし平塚市の地名由来の古代砂丘跡に真土大塚山古墳と呼ばれた大規模古墳が昭和期まで前鳥神社近くにありました。
この前鳥神社は古墳時代には相模湾に突き出した段丘や半島だった可能性が指摘されています。
正に古代には典型的な古代聖地化されそうな地形で、立地的にはヤマトタケルと弟橘姫(おとたちばなひめ)伝説の三浦半島横須賀市走水神社前の御所ヶ崎(明治に御所ヶ崎の神社は廃社され走水神社に習合→同地は走水低砲台の要塞が陸軍に築かれ消滅)や千葉県一宮市の玉前神社や木更津の直ぐ近くの姉ヶ崎にある姉崎神社と同じ様な地形です。
平塚市の前鳥神社近くの真土大塚山古墳は不可解に現代に宅地造成で消滅させられ出土品は国立博物館に持ち去られましたが、皇族級の豪族しか持ち得ない鏡などが出土してます。
更に佐賀武国造と関わり有りそうな国府級史跡が平塚市内に有りましたから。
この方の子孫が熊本の阿蘇君に養子に入ったらしい宇治氏や、神奈川県東部、古代佐賀武国を治めたらしい鎌倉国造や横浜市戸塚区地名由来の冨塚古墳の被葬者の冨属比古(とつぎひこ)、川崎市〜横浜市緑区〜青葉区〜都筑区〜多摩市〜町田市〜稲城市〜八王子市〜の古代都築郡の郡衙を治めたらしい横浜市青葉区の稲荷前古墳群の被葬者達、伊勢原市〜厚木市〜相模原市〜綾瀬市〜大和市辺りを治めたらしいヤマトタケルを裏切った小野氏一族の子孫の横山党豪族達や大伴氏と穂積氏や橘氏や丸子(和邇?)宿禰等の存在でしょうか。
川崎市の橘樹郡衙跡近くにはヤマトタケルの后の一人で東京湾に身投げした弟橘姫の装具を安置して作られたと伝わる富士見台古墳が有りましたが、宅地開発を名目に明らかに古墳石室を両断する形で道路がひかれており盗掘された物も良く分からなく成っています。
その遥拝所にあたる部分には橘樹神社が今もあり明治に成ってから山岡鉄舟が訪れたりしていました。
更に言うと、ここも縄文海進で海岸線に当たる地域です。
余談ですが私はヤマトタケルは四道将軍設立以前の複数人の各時代の皇族大将軍の官職名で独りの人物として神格化されていると考えてます。
菟道稚郎子もヤマトタケルの一人だと考えていますし、その後の雄略天皇=ワカタケルオオキミも正にヤマトタケルだと思います。
埼玉の稲荷山古墳群から出た鉄剣にワカタケル大王の名の金象嵌が有るのは、その時期に現在の神奈川県横浜市港北区~神奈川区~緑区~都筑区~川崎市~多摩市~八王子市~埼玉県~群馬県で勃発した武蔵国造の乱の鎮定に倭建(ヤマトタケル=稚長=獲加多支鹵)として雄略天皇が来たと言う証拠なのかなと考えています。
ついでにワカ=別(ワケ/ワカ)=稚(ワキ/ワカ)は飛鳥時代以前の天皇家の失われた苗字だとも考えてますいます。
最近流行った大河ドラマの人物ですと
三浦大介(おおすけ)平朝臣義明の名前の順番を参考にすれば•••
菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)
菟道=宇治が本貫地で苗字に使用
稚 =皇族
郎子=男系男子
•••と言う意味になろうかと思っています。
御曹司の事を「若(わか)様」と言うのはこの名残なんじゃないかな?
ちなみに大和市と横浜市瀬谷区の市境の境川河畔にある深見神社は雄略天皇の時代に創建されたと伝わりますが、古墳時代の渡河地点だったようです。同社は昭和の考古学がいい加減だった時代の県史蹟調査員・石野瑛が海だったから深見=深水等と言っていますが現代の貝塚分布を元にした縄文海進海岸線研究結果と同地の標高が80mで縄文海進海岸線は最大でも今の陸地の標高15mの高さの位置と判明しているので明らかなデマと現代では昭和の説は断言出来ます。
どうも東京の古代の発掘調査や平安時代の醍醐天皇が制定した延喜式で当時の人から見て古い古社と認定された神社の一覧表である延喜式神名帳掲載の神社の位置を、GoogleEarthに表示して縄文海進の海岸線と比較すると完全に合致するので、古墳時代にも現代の様に急激的に温暖化して縄文時代の海岸線に近づいたか、まだ古墳時代には古代の名残で湿地や入海ばかりで人の住めない地域には神社化された古代人の集落や聖地が存在しないようです。
大阪も住吉大社の辺りまで実際に海でしたし大阪府東側の旧河内国域も河内湖と呼称される大きな湖でしたしね~。
まぁ、河内国の国名の地名からして河内=入江と言う意味ですからね。
勝利と統合の象徴だったと思います!
@@yoshikurakino 大変詳細で興味深いご考察ですね。
好太王碑によれば、倭国は4世紀後期に朝鮮半島に侵入して百済、新羅、任那を服属させて高句麗と戦い、高句麗はこれを撃退したとあるので、その時に馬や馬具や武具の重要性に着目して導入したのではないでしょうか
このころから南朝鮮や漢などからの渡来人の交流が始まったんでしょうね。
この動画がきっかけで仁徳天皇陵、博物館へ最近行ってきました。博物館のボランティアさんがどんな質問にも答えてくださって、展示室にはいってすぐの上空からの写真を見ながらいろんなことを教えてくださってすごく面白かったです!!歴史って本当に奥が深くて楽しい😊
知識を持った人同士の議論を聞くのはとても勉強になるなぁ
ノーカットで全然詰まらず話せるのすごすぎる…。しゃべり慣れてる。
すべてがガヤの遺物だ。日本を設立したのはガヤ人です。
エジプトのようにきちんとした記録がない中研究していくご苦労がよくわかりました🙏
面白いです。日本の遺跡も分からないことだらけなんでさらに楽しくなってきます。
途中で寝落ちしちゃうかと思ってたら見入ってしまいました。歴史に想いを馳せる熱量が素晴らしいですね。石棺の説明な「めっちゃイレギュラー」で思わず笑ってしまった
全くの無知識なのですが、
見ていて惹かれるというか、
見入ってしまいます。
古墳群が身近にある環境なので、
余計に面白く興味深々に見させていただきました❗️
色んな意味でエジプト考古学にも通じるところもありそうで、次の動画も楽しみです❗️
第二弾、待ってました!
河江先生と仁徳天皇陵、ワクワクしない筈が無い。
学芸員の白神典之先生のご説明も分かりやすくて楽しみにしてました。
鉄が朝鮮半島南部からと仰ってましたが、朝鮮半島にも前方後円墳が十数基発見されていますが、どれも五世紀後半〜六世紀前半とされてて、日本の前方後円墳より時代が新しいのはどういう理由なのかを知りたかったです。
百済の使者だったか皇子が、倭国の朝廷を訪れており(援軍要請懇願)、帰国する際に、倭国の軍人も百済を支援する為に共に海を渡ったことが日本書紀に記されています。
彼等は、百済を軍事支援する為に半島の地に残り、高句麗や新羅と戦い散っていった。彼等を称えるために造られた(前方後円墳)とみられています。
半島にある、前方後円墳からは倭式の鎧や太刀、百済の王族から贈られたと考えられる青銅に金メッキした金属製の装飾靴が出土しています。
河江先生のお話もそうですけど、こういう先生に解説してもらいながら見学すると面白いだろうなぁ❤
学芸員の方のお話がものすごく面白いですね
この先生しゃべり上手い!
楽しかったです!
TH-camでここまで見れるとは思いませんでした。
凄いですね😊
自分も生まれて初めて5月9日に、仁徳天皇陵に行ってまいりました!仁徳を一周し、その後に大仙公園を散策しましたが公園の方が楽しめましたw 仁徳天皇陵はグールアースで確かめることにw 博物館は行かなかったため、今観ましたが面白いお話が知ることができ歴史はロマンがあって楽しいですね。
モザイクが気になる
古墳時代→火縄銃→包丁、自転車
堺やっぱすごいわ
ぶっちゃけ大仙古墳あたりはとんでもないものが埋もれてると思う。
古墳周辺も大規模な集落があっただろうし
すべてがガヤの遺物だ。日本を設立したのはガヤ人です。
以前こちらの博物館で甲冑と兜のレプリカを着させてもらったことがあります。その時の写真をLINEのアイコンにしてます。ここの博物館はとても楽しかったです。
続き早く見せて…!!!!
めちゃくちゃおもしろかった
石棺が神輿に見えるから凄い。
昔子供の時、京都のならびがおか古墳に、父と忍び込んだ事があります。何も、見れませんでしたが、今でも、鮮明に覚えてます。今なら、捕まるかな?
ピラミッドと古墳の専門家の会話ってyoutube初では。
先生が日本の遺跡に興味を持ってくれるのは嬉しいです。日本の遺跡で掘りたい地域などありますか?大切な歴史たずさわって頂きたいです!
とてもわかりやすく大変勉強になりました。
河江先生に発掘調査してほしい。
コール&レスポンスが徐々にヒートアップしていくのが、いい。
続き待ってました!!😁
他の動画で昔の鏡は渡来人が持ち込んだ手旗信号とか狼煙にみたいに利用する
通信手段だったのではとの事
高い山の頂上から鏡で太陽の光を反射させつつ位置情報等を海上の船や
他の山頂拠点へ伝達したみたいな?
博物館展示品の中に一部モザイクをかけていましたが、どういった理由ででしょうか?
待っていました。興味深く拝見しました。
私もモザイクがかかった遺物が気になります。堺市博物館に行くしかないな。
銅鏡の事が詳しく知りたいなら福岡県の伊都国歴史博物館へ行って下さい。
日本で一番銅鏡が発見されたエリアにある博物館です。
武器武具の存在は、作れる事、現物を見せる事で、
力を見せる事が大事な時代だったんじゃ無いかなと思うので、
古墳も、時代を変えて城や、寺社仏閣なども同じと思います。
展示品に一部モザイクがかかっているのは何故なんだろ?
とても見応えがある動画をありがとうございます😊
一つの古墳に幾人もの棺が埋葬されている事を始めて知りました。とても面白いですね。昔田舎に行くと田園の真ん中に一族代々のお墓が纏まってあって、その大規模な物が当時の古墳だったりするのでしょうか?誰か特定の人物の為のピラミッドと言うより田園を広げた人達の王家の谷的物だったのかもしれませんね。
そうですねー。
私の考察ですが、天皇の王権を象徴する物で、三種の神器があります。その中で草薙剣と言う物がありますが、それと同じ意味合いで、武器を埋葬したのだと思います。
古墳も学術調査できるようになるといいなあ、と思っております。
いつも楽しく拝見しております。
話がそれてしまいますが、先日から吉野ケ里遺跡が賑やかになっているので、地元民としてはぜひ行ってみてほしいです。
発掘調査してほしいですね。
新しい事が発見されたらと思うとロマンがあります。
ロマンチックなお話です。
仁徳天皇陵の1番格式の高い石棺には、意外と何にも入ってなかったりして。
なんか天皇というと、臣下それぞれに役割をキチンと任せてるイメージ。なのでそれぞれの石棺には役職に因んだものが入れられてるんだと思う。
逆に天皇の物って重要なものは次代の天皇に継承されるんだろうから、身につけていたモノや、好きなモノあたりが入ってるんじゃないかな?
まぁ、1番のお宝のその石棺に入ってる人の由来が刻まれた石板なんか出てきてくれたらサイコーですね。
天皇陵は実在している天皇家(他家)のお墓だから掘り起こしたり出来ないと聞きました。確かに他人のお墓なんですよね。
マッカーサー氏は、何を見たんだろう?
何か掘り出してアメリカに持ち帰ったんですかねぇ
@@user-zo5us2an7n有力な説として
マッカーサーさんが回収した物には
何も入っていない説
古代宇宙飛行士の死骸を見つけました。
何故か日本人が仁徳天皇陵のなかを見れないのは不思議ではある
私の お墓の中も 覗かないでね。
@@ジョージアS
誰も興味ねーから。
大山人、海幸彦の系列ですね。大仙陵古墳。今現在よりも大きな人類の痕跡。山程の丈のムツメ。物品から得られる情報は記紀と繋がります。
白神さんの話がとてもわかりやすくて、興味をそそられました。私は日本史では卑弥呼の後の時代、謎の4世紀に興味があるのですが、
ちょろっと調べてみたら、5世紀の日本のヤマト朝廷は、朝鮮半島の紛争の武力介入を行っていたようなので、それで武器として鉄と
製鉄の方法が日本に入って来たのかなって、素人の頭では思います。とにかくまだ、エジプトと違って、古墳時代の日本はまだ文字を
持たなかったから、記録とかがあまりないので、古墳ひとつとっても謎が多いですね。でも、それが想像力をかきたてられます。
陳寿の三国志によれば朝鮮半島の南部が倭の領土となっているのですし、57年には後漢に使者を送っているので、朝鮮半島の紛争に関しては1世紀に入った頃には既に介入していたでしょうね。
大陸への橋頭保となる朝鮮半島は重要な拠点として維持に躍起になった筈です。
白神さん
当時の朝鮮半島南部は日本ですよ。
たしか、朝鮮南部では日本と同じような古墳が見つかっていましたね。
韓国の朴天秀教授の倭系百済官僚説とか面白いですよ
堺市博物館に行ったことがありますが、古代以外もqものすごい展示物が多いので、おすすめです。この家型?石棺やグラスも、ケルンの古代ローマ博物館で似たようなものを見ました。(私は素人の歴史好きです)河江さんのような古代エジプト専門家が、日本の古代発掘物をみると、どう思われるのか、聞いてみたいです。次回も楽しみにしています。
やっぱり古墳の大規模調査をして欲しいよね。少しはわかることがありそうだし。
白神先生の話は、分かりやすくて聞き入ってしまいます。
ところで先日、佐賀県・吉野ケ里遺跡の街を一望できる小高い丘の「謎エリア」に埋葬されていた石棺の蓋が開けられ
来週中にも石棺内部が明らかになるだろうとの事ですが
白神先生・河江先生も物凄く楽しみにしてるでしょうね。
伝説の卑弥呼に関わる超ド級の埋葬品が出土すると嬉しいですね。
地元なので、ぜひ河江さんと白神さんにもいらっしゃって欲しいです。
河江先生のファンで大変なことになりそう😅
淡路市の山の上に一世紀前半から半ば頃に突然出現した五斗長垣内遺跡という国内最大規模の製鉄跡があります
鉄斧や大量の矢じりが100点超えで出てきてて、多数の石製鍛冶工具類、水銀朱用の石杵、石棒跡も出てきてます
最盛期は二世紀後半で瀬戸内海を介して海の民が関わったとされるようです
古墳はそもそも水田作りのために平地にするときに出た土砂を水路を使って集めたものですよね。
土砂が流れ出ないように形を作り、周囲に水をため流れ出ないように工夫されていて、その時代の尽力されたひとの霊を祀る場所にもしていると言われてます。
古墳の周囲の土地環境は、ほぼほぼ平坦で水路が有ります。
近くには戦後のどさくさに埋め立てられて住宅になってしまった古墳もあります 天皇の存在が薄れていた時代には盗掘されたとかいう話もあり、恐らく仁徳さんもその対象になっていたと思いますし、忍び込んだなんて方も聞いた事があります
宮内庁が音頭を取って発掘作業を行って頂きたいと共に、堺市も仁徳さんを周遊して周りに来訪者の為の店舗を奨励して盛り上げて欲しいと思います
ピラミッドと比較して寂しい周辺なんで悲しいですね
自分が当時の人だったら古墳を取り巻く円筒埴輪は松明や薪を刺して火をつけるだろうな。
仁徳天皇陵古墳後半‼ ありがとうございます✨
会津若松市大塚山古墳(前方後円墳)からは、三角縁神獣鏡も出土されてます。
何でモザイクなんだろう??
こんなかっこいい甲冑作ってたんか
熊本の山鹿で、子供の頃、古墳中に入って、壁画の見た記憶ありました。今は見る事できないでしょう?
受験生時代に見たかったなぁぁ
鉄器の話は他の方に任せるとして、古墳について考察します。
古墳の形状は、古代中国の蓬莱山に仙人が住むという、蓬莱神仙思想の原始道教の影響を感じます。
前方後円墳が蓬莱を表していると考えると、海と見立てた周濠に水を溜めて彼岸の境界とし、被葬者が仙人に生まれ変わるよう願いを込めて、壺の形を模した島の墳丘内部へ葬ったのだと思います。鏡や円筒埴輪は境界であり、彼岸への通り道だと考えます。。。
大仙古墳も壺の形と見れば、出口とされる口部に武神のような人物を配置して被葬者の大王を護衛したと考えられるのでは。。。
神仙思想に彼岸があるわけ無い笑
@@HIROSAWA.
前方後円墳の原型は2世紀後半〜3世紀の古墳の始まりとされる、吉備の楯築古墳が最初の神仙思想の影響を形とした古墳だと個人的に考えています。
墓の形状は、同じ死生観を持つ集団が死後の世界との繋がりを現世に作り出したものだと思うので、時代や地域によって異なる死生観を持った墓は色々あると思います。。。
地元民の呼び方に「仁徳さん」というのもある。
基本関西では「神さん」「おっさん(和尚さんが詰まった)」など様がさんになります。ちなみに今上天皇陛下を昔は当今さん(とうぎんさん当代の今上陛下の意味)なんて言ってたりもしました。
弥生時代の開始が昔の歴史よりはるかに古くなった結果、鉄が朝鮮半島から入って来たは矛盾が出てくる気がする
当時、本当に日本に鉄鉱山が無かったのか?
弥生時代からは炉に空気を送り込む羽口(所謂吹子)が発見されて居らず研究者の間では殆どは輸入に頼って居たと考えられて居り研いだり短くしたり簡単な加工のみ日本で行われて居た様です
一方で古墳時代からは羽口が発見され登場したのも其頃と考えられて居ります 鉄の高温処理が可能に成った事で製品の供給率は飛躍的に上がりました
仁徳天皇の『民のかまど』の逸話は有名ですが、それが起こった原因は?と白鳥庫吉先生が生徒に問うた時に、生徒が『三韓征伐』と応えました。その前にはクマソとの戦い。4世紀後半くらいの話なので、武具が必要ではないかな?と思いながら観てました。神功皇后は初の摂政ですし、夫は仲哀天皇で、天皇のお父さんはヤマトタケルですので、なんか『武』を連想します。個人的には鉄=武具になっているのがつまんない世の中ですが、銅より遥かに硬く強いのでそうなるのかな、と。農具建築は大変捗りそうで、そちらの文化が後に華開いていく感じが好きです。
クラカタウの噴火に伴う、冷害飢饉が原因だと思いますよ。
全く同意。
古墳の考え方の可能性も多様だということが説明の中きらわかりました。後半も楽しみにしています。
地元の学芸員の先生の説明、埴輪が結界のような意味を持っていたのかもしれないというお話は興味深いです。
鏡や勾玉からは卑弥呼のような祭祀をつかさどった人物像が、武具や馬具からは世俗の権力を持っていた人物像が思い浮かびます。
今では大きな森のように見えますが、築造当時は白い葺石と赤い埴輪でコンテンポラリーな造形美を形作ったのでしょうか。
百舌鳥と古市と二か所に分かれて大きな古墳群があるのも謎ですね。
円筒埴輪の列は遠目からみると、古墳を縁取るような役割があったのかな。古墳の形がくっきりしますね。
良い御説明で勉強になります。一度、訪ねてみたいです。
特定の副葬品が映った時にモザイクがかかってるのはどういう理由からですかね
発掘された副葬品にも何らか権利が発生しているんでしょうか
24:00 この辺りの対が存在する銅製金メッキの武具の話がおもしろい!
福岡のほうで庚寅名太刀が発掘された動画観たことあるし長岡のほうでもたたら遺跡の発掘調査の現場観ました🙄
そこにあるのに許可出なくて
研究出来ないって辛い。
人類最大規模の秘密がバレるから?かな。戦後すぐGHQが調査してます。彼らは日本の秘密を知ってる。
マジレスしたら、調査しても大したものが出ないから予算が出ないんだと思う 大山古墳とか今城塚古墳からも面白い物は出てないからなぁ そもそも古代日本には、古代中国のような墓碑文化が無いから、結局何か出てもほとんど情報が得られないのが実情
5世紀に『冥界の入り口』ができたから、鉄製の武器・武具が多く出るんだと思います。
仁徳天皇陵古墳でエジプトのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵にも触れられているのが
日本史のみならず世界史に通じるものがあると感動いたしました。
無駄に掘り起こさないよう、エジプト学のようにLiDARのような最新技術を使って地下の状況を調べていただきたいですね
んー!面白い。丁寧な編集おつかれさまです!!
鉄の文化もまだ不明な点が多いですし 歴史を正確に解明するのは難しいですね
家の亡くなった祖父は、筑波山麓の縄文時代から続く豪族の出身だったそうです。
とても血筋を大切にしていて、家の両親はお見合い結婚なんですが、母方は群馬県藤岡市山間部の氏族の出身で、その地区には、羊大夫とゆう、中近東から、シルクロードをどうって、
伝承では古墳にはかつて殉死者を生きたまま埋めたとされ第十一代垂仁天皇の時代から殉死者を埴輪に代えたとも言われております。大王が身罷ると臣下には後を追おうととする者が出るため古墳の外周部にも棺が埋まっているのではないでしょうか。
鳥の糞で汚れるから掃除させて欲しいというのは、確かに不自然な感じがしますね。
古墳が鳥の糞で汚れたら、何か生活に支障が出るんだろうかと思います。
ちょうど日本での製鉄の始まりは3世紀説もありますが、これはあったとしてもごく局所的なものだったと思いますし、それなりの規模でたたら製鉄が始まったのが5世紀から6世紀と言われていますから、需要が上がって輸入品では効果になるので自分たちでどうにか生産できないかという動きが始まったんてしょうね
待ってました
出雲族が諏訪で鉄生産をしていたと思いますが。。
副葬品からはいろんな事が分かりますね。
ベトナムに行った時に偉人?大王?の墓を訪ねたのですがいま考えると前方後円墳の形をしてましたが関係あるのでしょうか?
国内での製鉄が始まったのは日本史では5世紀から6世紀。最先端の技術で作られたものと言うのはいつの時代でも最高レベルの価値のつく宝物なわけです。とくにこの時代は日本の国体の基が作られた時代。武力によって抵抗勢力を抑えて支配下に置く時代では、武器や武具というのは権力の象徴(=レガリア)なのです。古代中国であれば玉璽、ヨーロッパなら王冠、エジプトなら套や錫杖となるのです。そういったレガリアを作るのであれば最高の素材を使って作るのです。
現代に置き換えて例えると、半導体の材料などではグラム単価がダイヤモンドを超えるものだってあります。他所では作れない最先端の技術で作られたものにはそれだけの価値を生み出すのです。
当時の日本はまだまだ神代の時代だから、最先端技術というのは神の御業で作られたものに等しい。死して神と同等の扱いとなる被葬者の副葬品としては神器ともいうべきその時代の最高のものを用いるのが最も最適と考えたから。
「神代」というのは神武天皇即位以前の神々が地上を直接治めていた時代を指す言葉で、神話を丸々鵜呑みにしたとしても古墳時代のことを神代とは言いませんよ
動画有難うございます
やっぱり仁徳陵の話になると「宮内庁、発掘させて~」ってなりますね。
まあ、江戸時代に盗掘穴がボコボコ開いた絵図があるので、副葬品は残って無さそうですが。エジプトしかり、中国しかり、お墓の宿命でしょうか。
明治のお掃除(笑)の時に見つかったのは、イレギュラーで端っこだったから盗掘に合わなかったんでしょうね。
明治期、前方のこの辺が崩れてたから直したっていうのは知ってたんですが、石棺が見つかってたのは知らなかったです。
歴史は国々によって編み出されるストーリー
前方後円墳...⬛︎が前で●が後ろなの?と子供の頃から今迄不思議
江戸時代の蒲生君平という学者が適当に決めただけなので気にしなくていいです。
私自身興味は尽きませんが、発掘調査でも埋葬品を別の場所に移動させれば、盗掘と何ら変わらない様な気持ちになります。私達の何世代か後には掘り返さなくても内部構造も透視出来る技術が開発されると思います。自分たちが今、興味本位で傷つけて良いものかどうか葛藤もあります。先生もエジプトで経験されているでしょうが、傷付き壊された遺物を見て後の世代の研究者達も「何故待っていてくれなかったのかと」残念に思うのではないかと心が痛みます。逆に、待てなかった気持ちも理解出来るのかな。それでも「新発見」という言葉に心躍る自分もいて、困ったものです。
同じ感覚の人がいてくれてほっとしました。
私もどうしてもお墓を暴くという気がして古墳の発掘調査には抵抗があります。
古代の人が大切な方を大切に葬り祀った神聖な場です。
私はその遠い先祖の思いを大事にしたい。
学術的なものとはいえ好奇心で掘り起こすなどするべきでないと思います。
エジプトの王家の墓が外国人であるイギリス人に長年好きなように掘り返され、ご遺体さえ持ち出されて展示されてきたことを考えると日本の天皇陵をあんな目には遭わせられないとつくづく思います。
鉄は大陸よりも日本列島と朝鮮半島南端(倭人の地域)のほうが先じゃなかったか? 考古学は発見によりがらりと変わりますね。
田舎の島国が大陸より先はあり得ない。
シルクロード舐めすぎ
金メッキの鎧 同鎧の真ん中は、何と[中]という字が刻まれているのが凄い。
天御中主尊 の系列なのか?どう思いますか?全くの偶然とは思えないですよね!
何も過去のことがわからずに、朽ちて無くなっていくより、発掘して当時の貴重な文化伝統を再認識するほうが価値があるのではないか?
蓋の埴輪は、傘と言うより
宇宙船に見えました。
横や、逆さにすると
ロケットと炎🔥みたいです。
遮光器土偶もそうですが、日本の超古代って、地球外生命と繋がっていたんじゃないですかね。
今日BSプレミアム観ますよ!!
縄掛突起は分からんでも無いが ミミズク土偶とか遮光器とか勝手に先入観与える名称を付けるのは
イカンと言うか アホかと思う。
この動画とは関係無いけど。
仁徳天皇陵、手入れをせずに樹々が森のように生い茂っていますが、このまま放置されると木の根の力でどんどん劣化していきます。
本当にそうだ!
戦国時代には三好氏に国見城として利用されたので、往時の原型は留めていないでしょうね。
宮内庁の調査でも堀が掘られた跡が複数見られるようですし。
誰がわからない、のではなく今の日本の歴史の設定が変わるから誰か明らかに出来ないのだろう。
後半も楽しみです。渡来人による鉄の技術ですかね?面白過ぎるww
早く惚れ惚れワンワン