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礼儀を重んじる国際プロレス。それがこんばんはに繋がったようだ。
何で東京12チャンネルはあんな無茶な放送時間移動をしたんだろう?🤔
無茶苦茶だよね。一番プロレスが放映してはいけない時間帯と曜日だよ。平日の9時とか10時でよかったんじゃないの?国際プロレスて、子供よりも、大人の男に人気あったみたいだから。
国際プロレスの時間が土曜夜8時って……。TBSの強力なコンテンツ(全員集合)が放映されている時間になぜ?こんな時間に放映するって誰が決めたんだろう?しかも、今でいうテレ東!(当時のテレ東系列って、ほぼ皆無状態だったと思うが)
本当に惜しまれる。これほど当初からのカラーが目まぐるしく変化した団体もない。よく昭和のFMWと表現されるが、それは国際プロレスのほんの一部の姿。吉原氏が目指した反則無しの本格レスリング魂が国際プロレスの根底にある。
吉原社長が「新日にくらべ練習量が少ない」と言っているのは興味深い。当時小学生だったが国際の選手はみんな腹が出ているのはなぜだろうと思ってた
新日本はやっぱり鬼軍曹の山本小鉄の功績だろう。国際にはそういう人物が見当たらない。
国際崩壊の先般は10人いる、と言う書き込みを見た。そうかなと思い自分なりにチェックすると内外で確かに10人に上る。国際はいつも四面楚歌だった。
草津を切れなかった…それが、全て…
20年前会社の倒産を経験しました😔そこも家族的な雰囲気の良い職場で、国プロも似てるなぁと思いました。やはり世間の荒波を超えていくには非情とも思える厳しさが必要なんでしょうね…
アメリカのビジネス界の格言で「会社を潰すのは簡単だ。それは誰からも好かれる社長になることだ。」というのがありますが、吉原さんはその真逆の人だったんでしょうね。僕はそんな吉原さんが好きです。
関西だと国際プロレスの放送はサンテレビでやってたように覚えてます。
まだテレビ大阪の開局前(1982年3月開局)でしたからね。
国際プロレスは…TBS時代の全盛期のエースだったストロング小林やビルロビンソンが新日本のアントニオ猪木と対戦するときは…当時たいへんな騒ぎでした!!あの騒ぎは凄かった!!…いずれにしろ…ラッシャー木村は、やや国際プロレスの落ち目になった頃のエース…ある意味…残念…!あたしは当時国際プロレスも好きだったので…昭和50年頃開催ざれた…全日とのオープン選手権…当時の全日の新人鶴田と同格に…又、誇大評価のグレート草津と同格に扱われる木村選手が当時滅茶苦茶不憫だった…その後…新日本のマットで…国際軍団って色物扱い…本当に残念…失礼ですが…絶頂期のTBS時代の国際プロレスは決して地味な団体ではなかったですよ!!長文すいません。以上
木村&小林さんは、レコード大賞にも招待されていましたね!
ストロング小林の脱退で終わり草津ががんそれを切れなかった吉原さんの責任小林が可哀想そのままいたら馬場猪木と変わらなかった
いま元国際選手で健在なのは井上、浜口、寺西、大位山、若松、高杉、菅原、秋吉、モロー位か
ラッシャー木村さんの、「こんばんは」は、吉村さんの教えだったんですね。
国際プロレス(吉原社長)は、選手のプロデュースが下手過ぎた。例えば、反体制側に回った鶴見五郎を格上げしないでそのままの格にした事。反体制側に回ったならせめて井上浜口と同等の格にして鶴見を第二の上田馬之助にするべきだった。新日はジョバーだった長州力が噛ませ犬発言で藤波辰爾に噛みついて反体制側に回ったら長州を格上げさせて藤波と同等の格にして長州をスター選手にしたんだよね。あと、全日のチャンピオンカーニバルで全敗したカールファジーを国際ではエース外国人として招聘した事。ファジーは全日参戦時とは風貌が変わってアミーコスチュームを身に付けたヒール系として来日したんだからリングネームを変えて全日に来たファジーとは別人という設定にすべきだったんだよね。全日本は83年最強タッグで白星配給係になった、ザ・モンゴリアンが85年に再来日した時は風貌が変わってリングネームもテキサスレッドになりモンゴリアンとは別人設定でハンセンのパートナーとしてシリーズNo.2外国人としてインタータッグ挑戦までは負けなかった。鶴見五郎を単なる小悪党ヒールにしてしまった事カールファジーを別人設定せずに全日本で全敗したカールファジーとしてシリーズに参加させてしまった事この辺りが、国際の選手プロデュースが下手な所なんだよな
やっぱりこの頃のプロレス団体は、テレビ放送が、無くなったら、潰れてしまうんだな。
いや、平成の時代もそうだよ。リングスだって、WOWOWが放送しなかったら、旗揚げ出来なかった。ノアも日テレが撤退して潰れた。
東海地方に住んでましたが、三重テレビ、岐阜テレビ、テレビ静岡は中継されてたのに、愛知ではネットされてなくて、国際末期の金網プロレスが地元体育館で行われる!とポスター貼ってあったのを、知らない人ばかりと小学生だった自分はスルーしちゃってた。高校の頃、テレビ愛知開局で世界のプロレス見れた時、国際見れなかったのがどれほど悔しいことか。
納得です、僕も観たかったです、ちなみに豊橋で興行された時父がリング設営の手伝いに行った事ありました。
TBS時代は関西では朝日放送。12チャンネル時代はサンテレビ でしたね。日プロ時代や初期新日のワールドプロレスリングは毎日放送でした。
腸捻転時代ですね。
日プロは読売放送(10チャン)ですよ!
猪木吉村大木のNETのワールドプロレスリングは毎日放送でした。
@@辰巳明登司 様2局放送は1969年から始まり、途中までワールドプロレスリングは日本プロレスでした。
失礼しました。早とちりしました🙏
国際の絶対的エースをビル・ロビンソンが担っていた時期があった。しかしいかんせん外人に託すには限界がある。というか時代が早かった。
国際プロレスの崩壊として、考えられる要因として、所属選手を積極的に他団体選手と対戦させてしまったこともあるような気がする。阿修羅原が藤波に負けた後、完全に国際は新日よりレベルが低いと視聴者や観客に映ってしまい、ファンが離れていった気もします。
その前に小林が猪木に剛が藤波に負けてるからな笑
@@capersville あの当時、阿修羅原はキャリアが浅すぎたよ。
草津浜口がヤマハに敗れた事、ナニワブラザーズがキムケン永源相手にああいう試合をやってしまった事が、最も致命的であったと思います
エースの木村が馬場やドリーにあっさり負けてたからな。
ラッシャーはブッチャー、マードックとは引き分け、ジョナサンには勝ってますね、オープン選手権で。オープンタッグでドリーに再度フォール負け、テリー、ロビンソンとは引き分けてます
社長が更なるトレーニングを推奨するなら練習嫌いの草津さんを番頭に据えたままでは行けなかったと思う。毎年所属レスラーだけのトーナメント戦をやってランク付けを明確に意識してもらうことも必要だったと思う。
あるいは所属レスラーだけの軍団抗争。(見た目の印象だけで)ベビーフェイスの小林、井上、寺西、稲妻、原、菅原に、ルードの木村、草津、浜口、鶴見、大位山、冬木。なんだか面白そうだけど、これだと和製ハイフライヤーズが別れちゃうね。
マイクアピールで絶妙に盛り上げるレスラー、空中殺法でチビッ子を魅了する覆面レスラー、成長過程が見守れる若手イケメンレスラーとか時代を先取りしてても厳しかったかな。やっぱり盛り返そうとするために、既存のレスラーを一掃してしまうぐらいの改革まではしたくなかったのでしょう。でもレスラーにとっては居心地のいい団体だったのですね。
阿修羅原の育て方に失敗した、パワーファイターにすべきだった。…もし、ストロング小林が阿修羅原の師匠だったら…。
吉原さんが人が良すぎた感がある。もう少しえげつなさを持っていたら違ったろう。そのためか三団体の中でいつもいつも貧乏くじを引かされていた。例えば木村対馬場戦での芳の里レフェリーの疑惑のジャッジによるリングアウト負けとか。芳の里がレフェリーなら鼻から全日有利の最低をするじゃないか、と言ったところでエース木村の負けということが人々の記憶に残りそれが増幅していく。またプロレス以外での不幸や事故も多かったと思う。前座を盛り上げていたスネーク奄美が現役中に病死したり、合宿所にタクシーが突っ込んで全勝したり。吉原さんも仕事への情熱が失われていったのも察せられる。
デスマッチ路線、奇抜な発想、コスプレ社長、大日本小鹿。
「日本に三団体は存在できない」その後ののインディー乱立をどう思うかな。
国際も近年のインディーとクラベレバrippana団体でした。また今のインディーと違って本物のレスラー達で。時代が違うので単純な比較はできませんが。
社長は会社を潰しちゃだめ。国際プロレス解散後にも活躍したレスラーが少なくなかったのだから、吉原社長のやり方の何かが根本的に間違っていた。稀代のアイデアマンだっただけに惜しまれてならない。
レフェリーもルー・テーズ、遠藤光男より阿部修、マンモス鈴木、前溝隆男の方がよかった。疑惑のレフェリングで叩きやすいレフェリーの方が試合が盛り上がる。
テーズベルト、後にUインターで使われるんだよね!
当時の土8は 戦争やったね?🤔 やるなら日9が妥当だよ😐 後 視聴者が 気持ちよく 月曜日を迎えるようにすれば良かった😐 俺が 国際を視ていたのは アニマル浜口が好きやったから😄
それを言ったら金曜日8時も太陽に吠えろ、金八を相手に大変な時間帯。ちゃっかり嫁を裏の金八に出して夫婦で必死に儲けるも、ハイセルでじゃじゃ漏れに。
@@bruuzar それを言うなら 木村健悟先生が金八で、加藤優役で出ていた😃
吉原さんのインタビューがWWF(現WWE)の侵攻で崩壊寸前だった時のAWAバーン・ガニアにそっくり。
これを見ると晩年のルー・テーズ杯、かなりこれでルー・テーズに食い物にされた感があるな。ご存知通り、ルー・テーズは国際プロレス崩壊後は馬場に接近し、全日本プロレスでルー・テーズ杯を開催、鶴田にバックドロップを伝授と全日本プロレスから高額のプロデュース料、コーチ料をせしめた。最後はUWFインターナショナルにまで食らいつく逞しい鉄人の商魂。この時期にテーズと関わりを持った国際プロレスは財布の紐で首を絞められた状態。それにしてもテーズの金に関する嗅覚は鋭い。でも、ストロング小林を引き抜かれた時点で崩壊への道を歩んでいたのだろうな。
ブルーノ・サンマルチノも「あんなカネ、カネ、カネ言う奴は信用できない❗」ジェット・シンも「あの男は、何かと言えば投資先があるんだけど、私と組まないか❓ばかり。あの男はオレを友人と思っているそうだが、オレはあの男を友人と思ってない❗」と酷評してました。
東郷と組んでTBS時代に儲けていましたね!┐('~`;)┌
「忍」とは「にん」と読むべき!「しのび」とは、笑うしかない…。
音声レベルが少し低いです。
その全員集合も、まもなくひょうきん族になられて終わります。
そのひょうきん族も数年後に加トケンのリベンジを喰らう。夏期だったら、ここに巨人戦も入ったからもっと悲惨な視聴率になったかもしれませんね。土曜夜8時は、あまりにもハードルが高過ぎです📺
加トケンはやるならやらねばとマジカル頭脳パワーに敗れ去る事に。しかしやるならやらねばもゲスト出演者の収録中の事故死で打ち切りに。
礼儀を重んじる国際プロレス。それがこんばんはに繋がったようだ。
何で東京12チャンネルはあんな無茶な放送時間移動をしたんだろう?🤔
無茶苦茶だよね。一番プロレスが放映してはいけない時間帯と曜日だよ。
平日の9時とか10時でよかったんじゃないの?
国際プロレスて、子供よりも、大人の男に人気あったみたいだから。
国際プロレスの時間が土曜夜8時って……。TBSの強力なコンテンツ(全員集合)が放映されている時間になぜ?こんな時間に放映するって誰が決めたんだろう?しかも、今でいうテレ東!(当時のテレ東系列って、ほぼ皆無状態だったと思うが)
本当に惜しまれる。
これほど当初からのカラーが目まぐるしく変化した団体もない。
よく昭和のFMWと表現されるが、それは国際プロレスのほんの一部の姿。
吉原氏が目指した反則無しの本格レスリング魂が国際プロレスの根底にある。
吉原社長が「新日にくらべ練習量が少ない」と言っているのは興味深い。
当時小学生だったが国際の選手はみんな腹が出ているのはなぜだろうと思ってた
新日本はやっぱり鬼軍曹の山本小鉄の功績だろう。国際にはそういう人物が見当たらない。
国際崩壊の先般は10人いる、と言う書き込みを見た。そうかなと思い自分なりにチェックすると内外で確かに10人に上る。
国際はいつも四面楚歌だった。
草津を切れなかった…
それが、全て…
20年前会社の倒産を経験しました😔そこも家族的な雰囲気の良い職場で、国プロも似てるなぁと思いました。やはり世間の荒波を超えていくには非情とも思える厳しさが必要なんでしょうね…
アメリカのビジネス界の格言で「会社を潰すのは簡単だ。それは誰からも好かれる社長になることだ。」というのがありますが、
吉原さんはその真逆の人だったんでしょうね。僕はそんな吉原さんが好きです。
関西だと国際プロレスの放送はサンテレビでやってたように覚えてます。
まだテレビ大阪の開局前(1982年3月開局)でしたからね。
国際プロレスは…TBS時代の全盛期のエースだったストロング小林やビルロビンソンが新日本のアントニオ猪木と対戦するときは…当時たいへんな騒ぎでした!!あの騒ぎは凄かった!!…いずれにしろ…ラッシャー木村は、やや国際プロレスの落ち目になった頃のエース…ある意味…残念…!あたしは当時国際プロレスも好きだったので…昭和50年頃開催ざれた…全日とのオープン選手権…当時の全日の新人鶴田と同格に…又、誇大評価のグレート草津と同格に扱われる木村選手が当時滅茶苦茶不憫だった…その後…新日本のマットで…国際軍団って色物扱い…本当に残念…失礼ですが…絶頂期のTBS時代の国際プロレスは決して地味な団体ではなかったですよ!!長文すいません。以上
木村&小林さんは、レコード大賞にも招待されていましたね!
ストロング小林の脱退で終わり草津ががんそれを切れなかった吉原さんの責任小林が可哀想そのままいたら馬場猪木と変わらなかった
いま元国際選手で健在なのは井上、浜口、寺西、大位山、若松、高杉、菅原、秋吉、モロー位か
ラッシャー木村さんの、「こんばんは」は、吉村さんの教えだったんですね。
国際プロレス(吉原社長)は、選手のプロデュースが下手過ぎた。
例えば、反体制側に回った鶴見五郎を格上げしないでそのままの格にした事。
反体制側に回ったならせめて井上浜口と同等の格にして鶴見を第二の上田馬之助にするべきだった。
新日はジョバーだった長州力が噛ませ犬発言で藤波辰爾に噛みついて反体制側に回ったら
長州を格上げさせて藤波と同等の格にして長州をスター選手にしたんだよね。
あと、全日のチャンピオンカーニバルで全敗したカールファジーを国際ではエース外国人として招聘した事。
ファジーは全日参戦時とは風貌が変わってアミーコスチュームを身に付けたヒール系として来日したんだから
リングネームを変えて全日に来たファジーとは別人という設定にすべきだったんだよね。
全日本は83年最強タッグで白星配給係になった、ザ・モンゴリアンが
85年に再来日した時は風貌が変わってリングネームもテキサスレッドになりモンゴリアンとは別人設定で
ハンセンのパートナーとしてシリーズNo.2外国人としてインタータッグ挑戦までは負けなかった。
鶴見五郎を単なる小悪党ヒールにしてしまった事
カールファジーを別人設定せずに全日本で全敗したカールファジーとしてシリーズに参加させてしまった事
この辺りが、国際の選手プロデュースが下手な所なんだよな
やっぱりこの頃のプロレス団体は、テレビ放送が、無くなったら、潰れてしまうんだな。
いや、平成の時代もそうだよ。
リングスだって、WOWOWが放送しなかったら、旗揚げ出来なかった。
ノアも日テレが撤退して潰れた。
東海地方に住んでましたが、三重テレビ、岐阜テレビ、テレビ静岡は中継されてたのに、愛知ではネットされてなくて、国際末期の金網プロレスが地元体育館で行われる!とポスター貼ってあったのを、知らない人ばかりと小学生だった自分はスルーしちゃってた。高校の頃、テレビ愛知開局で世界のプロレス見れた時、国際見れなかったのがどれほど悔しいことか。
納得です、僕も観たかったです、
ちなみに豊橋で興行された時
父がリング設営の手伝いに行った事ありました。
TBS時代は関西では朝日放送。12チャンネル時代はサンテレビ でしたね。
日プロ時代や初期新日のワールドプロレスリングは毎日放送でした。
腸捻転時代ですね。
日プロは読売放送(10チャン)ですよ!
猪木吉村大木のNETのワールドプロレスリングは毎日放送でした。
@@辰巳明登司 様
2局放送は1969年から始まり、途中までワールドプロレスリングは日本プロレスでした。
失礼しました。早とちりしました🙏
国際の絶対的エースをビル・ロビンソンが担っていた時期があった。しかしいかんせん外人に託すには限界がある。というか時代が早かった。
国際プロレスの崩壊として、考えられる要因として、所属選手を積極的に他団体選手と対戦させてしまったこともあるような気がする。阿修羅原が藤波に負けた後、完全に国際は新日よりレベルが低いと視聴者や観客に映ってしまい、ファンが離れていった気もします。
その前に小林が猪木に剛が藤波に負けてるからな笑
@@capersville あの当時、阿修羅原はキャリアが浅すぎたよ。
草津浜口がヤマハに敗れた事、ナニワブラザーズがキムケン永源相手にああいう試合をやってしまった事が、最も致命的であったと思います
エースの木村が馬場やドリーにあっさり負けてたからな。
ラッシャーはブッチャー、マードックとは引き分け、ジョナサンには勝ってますね、オープン選手権で。オープンタッグでドリーに再度フォール負け、テリー、ロビンソンとは引き分けてます
社長が更なるトレーニングを推奨するなら練習嫌いの草津さんを番頭に据えたままでは行けなかったと思う。毎年所属レスラーだけのトーナメント戦をやってランク付けを明確に意識してもらうことも必要だったと思う。
あるいは所属レスラーだけの軍団抗争。(見た目の印象だけで)ベビーフェイスの小林、井上、寺西、稲妻、原、菅原に、ルードの木村、草津、浜口、鶴見、大位山、冬木。なんだか面白そうだけど、これだと和製ハイフライヤーズが別れちゃうね。
マイクアピールで絶妙に盛り上げるレスラー、空中殺法でチビッ子を魅了する覆面レスラー、成長過程が見守れる若手イケメンレスラーとか時代を先取りしてても厳しかったかな。
やっぱり盛り返そうとするために、既存のレスラーを一掃してしまうぐらいの改革まではしたくなかったのでしょう。
でもレスラーにとっては居心地のいい団体だったのですね。
阿修羅原の育て方に失敗した、パワーファイターにすべきだった。
…もし、ストロング小林が阿修羅原の師匠だったら…。
吉原さんが人が良すぎた感がある。もう少しえげつなさを持っていたら違ったろう。
そのためか三団体の中でいつもいつも貧乏くじを引かされていた。例えば木村対馬場戦での芳の里レフェリーの疑惑のジャッジによるリングアウト負けとか。芳の里がレフェリーなら鼻から全日有利の最低をするじゃないか、と言ったところでエース木村の負けということが人々の記憶に残りそれが増幅していく。
またプロレス以外での不幸や事故も多かったと思う。前座を盛り上げていたスネーク奄美が現役中に病死したり、合宿所にタクシーが突っ込んで全勝したり。
吉原さんも仕事への情熱が失われていったのも察せられる。
デスマッチ路線、奇抜な発想、コスプレ社長、大日本小鹿。
「日本に三団体は存在できない」
その後ののインディー乱立をどう思うかな。
国際も近年のインディーとクラベレバrippana団体でした。
また今のインディーと違って本物のレスラー達で。
時代が違うので単純な比較はできませんが。
社長は会社を潰しちゃだめ。国際プロレス解散後にも活躍したレスラーが少なくなかったのだから、吉原社長のやり方の何かが根本的に間違っていた。稀代のアイデアマンだっただけに惜しまれてならない。
レフェリーもルー・テーズ、遠藤光男より阿部修、マンモス鈴木、前溝隆男の方がよかった。疑惑のレフェリングで叩きやすいレフェリーの方が試合が盛り上がる。
テーズベルト、後にUインターで使われるんだよね!
当時の土8は 戦争やったね?🤔 やるなら日9が妥当だよ😐 後 視聴者が 気持ちよく 月曜日を迎えるようにすれば良かった😐 俺が 国際を視ていたのは アニマル浜口が好きやったから😄
それを言ったら金曜日8時も太陽に吠えろ、金八を相手に大変な時間帯。
ちゃっかり嫁を裏の金八に出して夫婦で必死に儲けるも、ハイセルでじゃじゃ漏れに。
@@bruuzar それを言うなら 木村健悟先生が金八で、加藤優役で出ていた😃
吉原さんのインタビューがWWF(現WWE)の侵攻で崩壊寸前だった時のAWAバーン・ガニアにそっくり。
これを見ると晩年のルー・テーズ杯、かなりこれでルー・テーズに食い物にされた感があるな。ご存知通り、ルー・テーズは国際プロレス崩壊後は馬場に接近し、全日本プロレスでルー・テーズ杯を開催、鶴田にバックドロップを伝授と全日本プロレスから高額のプロデュース料、コーチ料をせしめた。最後はUWFインターナショナルにまで食らいつく逞しい鉄人の商魂。
この時期にテーズと関わりを持った国際プロレスは財布の紐で首を絞められた状態。
それにしてもテーズの金に関する嗅覚は鋭い。
でも、ストロング小林を引き抜かれた時点で崩壊への道を歩んでいたのだろうな。
ブルーノ・サンマルチノも「あんなカネ、カネ、カネ言う奴は信用できない❗」
ジェット・シンも「あの男は、何かと言えば投資先があるんだけど、私と組まないか❓ばかり。あの男はオレを友人と思っているそうだが、オレはあの男を友人と思ってない❗」と酷評してました。
東郷と組んでTBS時代に儲けていましたね!┐('~`;)┌
「忍」とは「にん」と読むべき!「しのび」とは、笑うしかない…。
音声レベルが少し低いです。
その全員集合も、まもなくひょうきん族になられて終わります。
そのひょうきん族も数年後に加トケンのリベンジを喰らう。
夏期だったら、ここに巨人戦も入ったからもっと悲惨な視聴率になったかもしれませんね。
土曜夜8時は、あまりにもハードルが高過ぎです📺
加トケンはやるならやらねばとマジカル頭脳パワーに敗れ去る事に。しかしやるならやらねばもゲスト出演者の収録中の事故死で打ち切りに。