東郷は英国海軍士官学校で学んだと一般的に誤解されているが、実際には海軍士官学校へ入学するための予科として Thames Nautical Training College(テムズ海員学校:商船の航海士養成機関)に入って勉学に励んだものの、結局海軍士官学校への入学は最期まで許可されなかった。事ほど左様に「軍神」に祭り上げられた東郷については話が誇張されていることを知るべきだ。
まさにタイトルの通りだと思います。彼は以前アメリカで新聞記者のぶら下がり取材を受けた際、「アメリカと日本が戦争になったら、あなたはどうしますか?」との質問に対し「I will ran away.」と答えたそうです。むろん記者たちはナイスジョークだと笑いましたが、東郷は日露戦争で負けずに済んだのはアメリカがその経済力で破綻寸前の日本を支えてくれたからであり、そのアメリカと戦うことは日本の自殺行為だとよくわかっていたのです。本当は「冗談じゃない」と言いたかったのでしょう。老年期の彼がどうしてあのような分からず屋になったのかわかりませんが、やはり伏見宮の陰を感じます。本来ならむしろ加藤友三郎やその後輩たちの条約派に近い考え方を持っていたはずです そして本当に東郷の資質を受け継いだ提督は、皮肉にも「自分は東郷の弟子である」と言い続けたアメリカのニミッツでした 東郷は本当にネルソンを尊崇していました。対馬海戦の時も「ネルソンのごつ戦のさなかに死ねたら本望でごわす」と言って露天艦橋で指揮を執り続けました。「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」はネルソンの「England expects that every man will do his duty」をみごとに日本語にしたもののように思えます。「duty」は日本語でそれに対応する言葉のないものだと思います
訓練には制限がない。この言葉は私の座右の銘。人生は困難や理不尽が付き物。ただし、がむしゃらではなく、合理的な導き、コーチングがあっての努力。
今回も、濃い内容で勉強になりました。
明治の軍人は、本当に重みがありますね。
東郷自身は国防を考えての軍縮反対だったんだろうけど、軍拡競争になったら米英に勝てないことは残念ながら第二次大戦で明らかになりましたね…艦隊派に担がれた事が晩節を汚すことになったのは残念であります。
人間、加齢と共に新しい情報を吸収する能力は衰えます。
あのアインシュタインでさえ晩年は他の学者の論文に目もくれず、自分の理論の追求に没頭したそうです。
軍縮を求める国際社会の流れを知らず、艦隊を毀損するとは何事ぞ、と思ってしまったのでしょう。
自戒も込めて老いては口を慎めということですね。
東郷は英国海軍士官学校で学んだと一般的に誤解されているが、実際には海軍士官学校へ入学するための予科として Thames Nautical Training College(テムズ海員学校:商船の航海士養成機関)に入って勉学に励んだものの、結局海軍士官学校への入学は最期まで許可されなかった。事ほど左様に「軍神」に祭り上げられた東郷については話が誇張されていることを知るべきだ。
東郷平八郎元帥
今から20数年前に東郷平八郎の曾孫が京都舞鶴の海上自衛隊に赴任したとか。
こぼれ話
東郷平八郎は囲碁が好きだったけど腕前はあまり無かったとか。
ナポレオンもチェスで部下にやられまくったって言うしボードゲームの強さと指揮官としての強さは思ったより比例しませんね
秀吉の将棋も、大して強くなかったしな。
ちなみに、東郷平八郎の息子は海軍兵学校40期で、少将で予備役編入されたそうです。
西郷と東郷って名前なんかいいね
老いによる性格変化は本人にはどうしようもない所もあるといいますが、そういう人を権力闘争の道具に担ぎ出す周りの責任も重いですよね。
担ぎ上げた連中が本当にろくでもない
加藤寛治、小笠原長生あたりですね
小笠原長生の著書に「聖将東郷と霊艦三笠」というのがあるのを見たとき、冗談かと思った。
@@境亮-p1r
自分が無能だと、上司にすり寄るしかないからな。華族様のくせにゴマすりが上手いな。
@@境亮-p1r さん
よくもあんな本が書けましたよねぇ…
東郷元帥の凄さは一番弾を被る船頭に立ち続けたこと。運も強いが根性が凄い。勝って兜の緒を締めよ、船で勝っても白兵戦がある。欧米の海賊根性を理解していたと思う。
そしてあくまで欧米に負けることなかれ、日本海海戦もちょっとしたボタンの掛け違いで大敗もありえたし、肩透かしもあり得た。それを考えたら7割以下はあり得んわな。
国難を救った英雄
北条時宗
東郷平八郎
樋口季一郎
東郷氏がいなければ日露戦争には絶対に勝てなかった。負ければ日本は終わってた。彼がいたから勝てたという国際的には評価されてる、人は誰でも老いる…年を取っても周りから頼られたのが悲劇、本人は退きたかったとのこと。
数十年前はチャンバラやってた国が世界中から賞賛される人物を生み出したんだからすごいよな
この人自体薩英戦争で砲弾運んでたお侍さんだもんな
@@ラバウル丙提督
焼け野原になったカゴシマの町を見て
「海より来たる敵は海にて防がざるべからず」
と言ったのだとか。
ただ、明治維新直後には鉄道技師になろうとしたこともあったというから、この感想がそのまんま海軍入りに繋がったのかどうかには疑問もあります。
薩英戦争の鹿児島は数日前から大雨だったそうですが、その大雨の中を領内各所から続々と藩士郷士らが鹿児島に集まって来た為、街道筋がどこも大賑わいだったのだと言われます。
異人相手に事故ったばっかりにこんな騒ぎになっちまって‥‥どころか、今度は鹿児島で異人の首を取るのだと勇んでいたと言いますから、薩摩のサムライというのもスゴイものです。
東郷も母親からの「負けるな!」との声に送られて配置についたのだとか。
はるか後の昭和初期に、鹿児島の旧制中学で、英国人教師と「薩英戦争はどっちの勝ちか」との論争となって譲らず、退学にされた学生がいたとも聞きます。
元寇が大河ドラマになるのなら、薩英戦争だってドラマにしてほしいものだと個人的にはそう思っています。
チャンバラ以前に知的エリートだからな武士って。
最先端の学問学んで技術を取り込むだけの下地は十分にあった。
西郷隆盛のなんと確かな人物眼よ
山本権兵衛の先見の明は政治家として大切な資質です
東郷平八郎は指揮官としては唯一無二だが政治家としては山本権兵衛に遠く及ばないと思う
山本権兵衛に比肩する軍人政治家は
桂太郎だと思う
物語などでは「日本海海戦」の超有名なエピソードで話が終わっているパターンが多いので、正直「昭和も生きていたんかい!?」と思った。(いや、年齢的に別に不思議じゃないが・・・)
西郷さんといい、東郷さんといい、一生を、通じて、正しい判断は 出来ない
まさにタイトルの通りだと思います。彼は以前アメリカで新聞記者のぶら下がり取材を受けた際、「アメリカと日本が戦争になったら、あなたはどうしますか?」との質問に対し「I will ran away.」と答えたそうです。むろん記者たちはナイスジョークだと笑いましたが、東郷は日露戦争で負けずに済んだのはアメリカがその経済力で破綻寸前の日本を支えてくれたからであり、そのアメリカと戦うことは日本の自殺行為だとよくわかっていたのです。本当は「冗談じゃない」と言いたかったのでしょう。老年期の彼がどうしてあのような分からず屋になったのかわかりませんが、やはり伏見宮の陰を感じます。本来ならむしろ加藤友三郎やその後輩たちの条約派に近い考え方を持っていたはずです
そして本当に東郷の資質を受け継いだ提督は、皮肉にも「自分は東郷の弟子である」と言い続けたアメリカのニミッツでした
東郷は本当にネルソンを尊崇していました。対馬海戦の時も「ネルソンのごつ戦のさなかに死ねたら本望でごわす」と言って露天艦橋で指揮を執り続けました。「皇国興廃在此一戦 各員一層奮励努力」はネルソンの「England expects that every man will do his duty」をみごとに日本語にしたもののように思えます。「duty」は日本語でそれに対応する言葉のないものだと思います
訓練には制限が無い。
だから、月月火水木金金が押し付けられた。
でも列強に追いつくにはそれが1番手っ取り早かったんだろうな
@@嗚呼-e4f
アメリカとイギリスにね。
@@嗚呼-e4f
対米英の戦力に対し6割では、日本を守れないって考えから。
@@嗚呼-e4f
同感。
カネも資源も生産力もなければ、テはそれしかあるまい。
本当に悪いのはボケた老人の言を錦の御旗に使うヤツらだ。
石川県白山市にある白山比咩神社の表参道側には東郷平八郎が揮毫された石柱があります。
@user様へ私は、35年前滋賀県彦根市河原1丁目の飲み屋街の中に自警団有り稲荷講話祭ておられる中にその方はかれこれ32年前なります!その方がお前良い物を見せてやるて2階に行き持って来られた物がなんと、東郷平八郎直筆の教育勅語で有りませんか!文章難しく解読出来ず最後に名前と花押有りました!これは、正しく本物と思いその方に貴重な物をお見せ下さり有り難う御座いましたと会釈し帰りましたが実際東郷平八郎元帥が勅語書かれたか少し疑問も有りました!それからその方とは、その前を通る事が合ってもその人に会うことは有りませんでした!今から考えればおかしい話だと思うんですが!
「勝って兜の緒を締めよ」は、東郷の言葉ではなく北条氏綱が嫡男の北条氏康に遺した遺訓だということを知ってほしい。
氏康「遺言をきちんと聞いていたので、勝ったつもりで兜の緒を解いたボンクラどもの首を河越で刈りまくりました」。
東郷自身は神格化に否定的で神社建立などもやめてくれと言ってたな😮
東郷から「捨てておけ」とフンドシを渡された宿の番頭が、洗濯して「元帥記念品」として保管していたという。
これじゃ誰のもんだか分からんではないかと言われ、同行していた小笠原長生(海軍少将である)に後日相談したところ、小笠原は大乗り気で箱書を書いた上、
「敵艦をぐるぐる巻きに斯くは断ち布」
との戯作まで添えた為、件の番頭は周囲に自慢したという。
救国の英雄の持ち物を手に入れて喜ぶのはいかにも明治の庶民の感覚と言えば言えるのかもしれないが、フンドシに箱書まで書く小笠原の振る舞いというのは、いかにも太鼓持ち感覚でイヤらしい。
捨てた筈のフンドシに箱書まで付けられていたら、東郷も堪ったものではなかったろう。
小笠原の言によると
「以後、元帥は用心なさって旅先ではフンドシをお捨てにならなくなった」
のだそうである。
笑う話なんかね、これ。
あれだけの大戦争で、あれ程の戦功を挙げたのだから、国民から敬慕されたのなんか当たり前だろうが、これをトコトン利用したのが日露戦後の海軍だろう。
陸軍の乃木神社への対抗として東郷神社創建の話が出た時、生前の東郷は激怒したという。
本人の意に反して神社創建からフンドシまで持ち上げたりして政治利用したのは、海軍そのものだった。
持ち上げるだけ持ち上げたから、内部の意見抗争で引っ込みがつかない状態になっただけの話。
担がれたから悪い云々言うくらいなら、担いだヤツラが数倍批判されるべきだろう。
東郷自身は、亡くなるまで地道な勉強家だった。
筋の通った思考を好む人だったとの証言は多い。
小笠原長生なども、
「ああいう者(小笠原)を枢機に近づけるな」
と東郷本人からキツいことを言われている。
ヒンデンブルクの様に偉勲と名声をネタに政界に関与する様なこともなかった。
東郷を超える実績を挙げたとでも言うならともかく、負けて海軍そのものを潰した昭和の無能軍人が東郷批判するなんぞ、会社を潰した無能な二代目が
「創業者のオヤジがいけなかったのだ〜」
と泣き言をたれているのとメンタリティーは全く変わらないのだ。
0:24 この言葉はもともとは戦国時代の北条氏綱の名言だったはず
東郷平八郎のは正しくは「故人曰く、勝って兜の緖を締めよ」ですよね
この人、国際法上の筋が通れば米英との対立や摩擦も辞さない、という意味では高陞号事件に携わった若い頃から一貫しているし、海軍軍縮条約の問題は東郷が耄碌したんじゃなくて米英の日本に対する態度が変わっただけでは?
大体「条約派を排除したから大角人事は悪だ」とか「東郷元帥悪玉論」とか阿川弘之の海軍善玉史観に毒された言説で定説でも何でもない
海軍反省会だとこれに伏見宮悪玉論が加わる
米内光政も井上成美も伏見宮が引っ張て来た人材だし、米内海相実現に貢献した高橋三吉もバリバリの艦隊派で艦隊派と三国同盟推進論や主戦論は根本的に違う
晩年、老いてからは、なまじ元帥であったばかりに、害でしかなかった
一系問題についても、(将官含む)機関科士官に対して、この釜炊きどもって物言いしてますよね
機関科別系統は英国海軍譲りだしな。
技術系士官をどこまで一系科するかなんて、当時の世界各国の海軍では大概あった話なのだ。
ロシアなんぞでは通信科は軍属技師の担当だった。
機関科一系が日本であれだけ騒がれたのは、
「試験日程と採用人数の関係で、機関学校に落ちた後で兵学校を受けた者が受かった」
というケースが非常に多かったので、自分よりアタマの悪い兵学校出に命がけの場で生殺与奪を握られる(なにしろ脱出困難な配置)ことへの不満が非常に大きかったからなので、東郷ひとりどうこう言っても始まらない話なのだ。
兵学校出の既得権益確保がそれだけ強かったのだろう。
主計科、軍医科、法務科あたりも別系統で、主計科あたりの不満は結構大きかったが、これは一系化せんでもよかったんかね?
東郷批判のロジックでことさら機関科のみ取り上げられている傾向は否めないのだが。
そうですね。機関科士官たちから、兵科将校と機関科士官と合併問題が起きた時、機関士共は、まだ、そんなことを言っているのか?と言って激怒した見たいですね。
4:08ごろ
誤:1904年5月
正:1905年5月
昭和初期に海軍省の軍官僚が、海軍軍装を英米型の開襟型へ改める際に、東郷元帥の御墨付きを貰おうとしたが、元帥は「日本海海戦で我らの海軍が大勝利したのは、詰襟に5つボタンで交戦に従事したからロシアに大勝利が出来た。」と陸軍将官の様な言葉を発して、海軍の幕僚や上士官のみならず、下士官からも大顰蹙をかった。
それ、グラウンドに右足から入ったから勝てた並みに関係ないな。
「詰め襟に5つボタンで交戦に従事」なんて東郷が言うものか(笑)
サムネの画像でも見るがよい。
海軍の第一種軍装はホック止めで5つボタンなんぞ元々ついてねぇよ(笑)
詰め襟にボタン5つは夏服の第二種だ。
当時の海軍軍人の制服も知らんで作り話をするもんじゃないぜ(笑)
それとも、悪く言うならどんな作り話しても平気な趣味の人間なんか、アナタは?
上士官(という表現にも笑ったが)やら下士官やらから顰蹙買ったというのは、ナンの話だ?
横須賀にある戦艦三笠と江田島の元海軍兵学校の記念館にある東郷平八郎の遺髪が保管されている部屋に入ったことあります
海軍修行と言っても行ったのは商船学校だったはず
同じ日本海海戦に参謀長として従軍した加藤友三郎と国防と国家に対する考え方が違っていた思う。
おそらく東郷は軍人として国防の思考であり、加藤は国家・国力も考慮した国防を考えていたと思う。事実ワシントン軍縮条約を批准している。
東郷もワシントン軍縮条約には否定的であったが、加藤が批准した事もあり表立っての反対運動はしなかった。だから「訓練には制限はない」と語った。
しかしロンドン軍縮条約では艦隊派にも押され、条約破棄への意志へとなってしまった。あくまでも純粋に私心の無い軍人であったのであろうけど。
結局、艦隊派にとっての「葵の印籠」になってしまった事は確かであろう。
割に同感。
あくまで国防の見地から物事を考えたのであり、それを納得させる戦略戦術を呈示し得ずに条約賛成していた「条約派」の連中がむしろ無能と言われるべきなのだ。
ワシントンでは日英同盟も廃棄された。
これを容れてなお生産力の懸絶した米英にどう対抗していくかを示すのは、条約受け入れを是(これ自体は俺も同感)とする以上、国防の担当者としては当たり前の話だろう。
外交官よろしく「条約受け入れ」しか語れなかった条約派は無能だと思う。
山本五十六は「東郷さんを神にしちゃいけない」と言ってましたね…
軍神ではなく名将であるべきであった人。
東郷自身は東郷神社創建の話が持ち込まれた際に激怒したという。
本人の意に反して政治利用だけはチャンとした昭和の海軍人の退廃というべきだろう。
山本は日米戦争を始めた人物。こいつが日本を滅ぼした。
東郷が、老いて発想の柔軟性を欠いていったことは、晩年の思考と、東郷ターンとを比較しても判る。東郷ターンは、日本海海戦前に起きたロシア旅順艦隊の取り逃がしを省みて、即、取り入れた戦法で、東郷ターンそのものよりも、この、君子豹変す!にこそ、東郷の優秀さが表れていた。
山本権兵衛や加藤友三郎が長生きしていた方が、海軍のためになったな。
日露戦争の日本海開戦では、確かに大英雄であったのは、間違いない事実。
しかし晩年は、伏見宮・加藤寬治・末次などのいわゆる艦隊派に担がれ、当時の海軍人事に口を出したのは、晩節を汚したのもまた事実である。
東郷がミッドウェイ海戦で指揮をとったらどうだったかな?
若かったら結果が違っていたかも?
@@平安興業 結果論ですがミッドウェイで勝っていれば戦況はかなり変わりますからね
ミッドウェーは、あくまでも戦局、もっと大局的な戦略でアメリカを敵にした時点でアウトだった
@@susierock8341 アメリカは本土決戦は絶対に避けたからミッドウェイ海戦は両国にとって大きなターニングポイントだと思いますがどう思いますか?
明治期最大とも言える国難を救ったのは間違いなく東郷平八郎でしたが、その功績によって半ば神格化されてから錦の御旗のように都合よく利用されてしまったのは残念でなりません
同感。
真剣に国防に取り組んだ者に「担がれたのがけしからん」というより、担いだ者がけしからんというのが、当たり前の話だろう。
神格化の例とされる東郷神社にしても、生前の東郷は激怒して反対していた。
死後に利用されるのまで本人の責任だとでも言うのかと言いたい。
海軍の軍人社会とは割に閉鎖的な雰囲気がある様で、士官の仲良しクラブよろしく身内の不始末は互いに触れない様なところが強くある。
特攻作戦開始は(自決した)大西瀧治郎の発案。
大和の水上特攻は(死亡した)神重徳がやった。
海軍乙事件の福留繁は生きているからノータッチ。
レイテ沖の大反転も栗田が生きているからノータッチ。
クェゼリン事件は黙って死んだ阿部孝壮エライ(井上成美ノータッチ)。
等々等。
死んだ東郷を祭り上げて、生きている加藤寛治や末次信正らの「担いで利用した張本人」(←本来こいつらが最も悪なのだが)らに触れない方が、役人渡世として賢かったということだろう。
従来ハチハチ艦隊案を推進し、かつ日英同盟なんてものまであったのが、軍縮条約で共に外された以上どうやって国防を貫徹するのか。
責任感ある軍人なら当たり前の懸念だろう。
東郷ひとり説得し得る軍略を描けなかった「条約派」が無能なのだ。
制服改定反対の機関科への冷遇のと、ナニも東郷に限った話ではない。
機関科一系なんぞ、東郷の死後さえ中々実現しなかった。
兵学校出の既得権益が侵されるから反対が強かったと聞く。
こんなものまで「東郷」になする小役人根性なればこそ、現場の奮闘にも関わらずあれだけ悲惨に負けたのだと思っている。
艦隊派が東郷を利用して老害にさせてしまったと思うけど、日露戦争の功績は消えることはないし、東郷が自らの権威や名声を利用し政府高官などの政治家になって権力を握ろうとしなかったのはさすがだと思う。
わしのご近所さんに、東郷様の拝領地と御子孫がいるのが自慢🤣
自分が神様になる…なんてことは望んでいなかったと思います。
それどころか、生前の大正期に
「(陸軍じゃ)乃木神社が創建されたのだから、(海軍では)今度は東郷神社ですな」
と言ってきたものを相手に激怒したと言われている。
「運がいい男……」というのは、たしか、ナポレオンの故事ですね。ナポレオンが新たに司令官を選任するとき、参謀総長にまず、「そいつは運がいい奴か」と下問したという。山本権兵衛が明治天皇に、「東郷は運がいい男でございます。」と奉答したのは、ナポレオンの故事を知っていたのではないかと思います。実際、司令長官が戦死したロシア海軍や第二次大戦中の日本海軍は、そのことがやはり士気や遂行力に大きく影響したと思います。ナポレオンも山本権兵衛もそこにこだわったのではないかと思います。
偉大な方ではあるが、連合艦隊を滅ぼした一翼を担ってしまったね。大艦巨砲主義者として担がれてしまったのだから。
日本海海戦の英雄も、航空機の発達と運用に関しては、懐疑的だったのは、残念!
もし、東郷元帥が条約派だったら、日米開戦はなかったのでは?
米国及び英国の応援により戦うことができました!
大山巌司令官は、割りとスッパリ引退したから晩節をどうこう言われなくてすんで幸せだな。
元帥は終身官だからな。
引退の仕様がないのだ。
@@草莽-b6d
部下からヨイショされてホイホイ顔を出す間抜けと違って、かかわり合いにならなければ実質引退だ。
@@戸田賢司
よいしょされてホイホイ出てきた?
取り巻きの小笠原長生なんぞは
「ああいう者を枢機に近づけてはならない」
とかなりキツいことを言われている。
東郷神社創建の話なんぞも、生前に聞いた本人は激怒したという。
本人の意に反して死後に担ぎ上げたのは昭和の海軍人。
これもホイホイ出てきたことになるのか、お前的には(笑)
終身官としての責務を真剣に果たそうとした東郷の姿が
「ヨイショされてホイホイ出てくる」
と見えるのなら、お前のメンタリティーと品性がその程度というだけのことだ。
日英同盟を廃棄した上で、主力艦五五三、更に補助艦艇まで削減されたらどうやって国防を成立させるのか。
東郷のこの疑問は至当なものだ。
外交官ならともかく、所与の条件下で国防を策定するのは、軍人の任務だろう。
東郷ひとり納得させ得ずに軍縮条約成立までしか論究できなかった条約派の連中が軍人として無能なのだ。
それだけの話だ。
@@asakiyumemisi
年取ってからの口出しなんて、結婚できないやつの見合い相手探しぐらいでいいのよ。公的な事に口出しした結果が、こうやって何十年も老害と言われる恥さらしになる。
@@戸田賢司
現実に偉功を立てた実績ある軍人に対し
「功績はわかったから、後は若いもんに任せてすっこんでろ」
とでも?
そんな根性なればこそ、東郷ひとり納得させ得る様な「条約下での国防方針」を策定することが出来ないという無能さを発揮していたのが「条約派」ということだ。
恥晒しなのはむしろそんな「条約派」連中だろう。
「条約によりトン数の制限は受けるが、近海にコレコレの設備を設けて運用効率を上げる」
「日英同盟は廃棄されるが逆に米国とこの様に協調するから、対米英同時開戦はあり得まい」
「米英側の貯炭場、補給施設に対しコレコレの制約を加える様に戦備を改める」
「よって、この条約下でも国防は貫徹できる」
等々等の何らかのグランドデザインを描ければ、まだしも話は違ったろう。
それが出来ずに「条約受け入れ前提」の話しかできないのなら、無能な外交官と変わらない。
「全く前提条件を変えるこの制限下で国防が成り立つのか」
との懸念は軍人として当たり前なのだ。
この程度の「当たり前の話」を弁えず
「年取ってからの口出し」「老害」
云々と言うなら、無能なヤツの言い草なんぞ所詮はその程度ということだ。
「この様な新戦略を立てたが東郷老人には理解されなかった」
とはよう言えず、オノレの任務(所与の条件下での国防方針の策定)も弁えず、年齢の話にすり替える程度のアホ、ってな。
麒麟も老いては駑馬に劣る
意味が分からないのかな?可哀そうに。
この人は、おそらく、年をとっても、一生懸命だった。潜水艦の研究もしていたらしい。何も、ただの頑固爺ではなかったと思う。小笠原長生のような取り巻きが、彼を唆していたという説もあります。日本海海戦の大勝利は、彼自身の功績だから、元帥大将になるのも当たり前のような気がする。やはり、古い考えの持ち主であるから、近代的な考えでなければならない時には役に立たない面があるのも事実ですね。海軍の兵科と期間科の問題なんかには対応が古すぎる感じがする。彼は軍拡主義者だと言いますが、欧米列強が軍拡を始めたら、日本はまだ近代化して70年位なんだから、工業生産力に劣っているのだから、最終的には息詰まるのは、理解できなかったんですね。ちなみに山梨勝之進なんて、海相候補の筆頭に挙げられる人ですよ。
それは話が逆なので、国力が違うからこそ艦艇比率を極力上げてほしいという現場レベルでの議論があったわけなのだ。
東郷自身、ワシントン条約(主力艦)の折には、
「訓練に比率も制限もない」
との鶴の一声で、部内の不満を抑えている。
ロンドン条約(補助艦艇)の折に反対したのは
「主力艦に加えて補助艦艇まで削り、これでどうやって国を守るか」
との意見なのであって、現場レベルでの議論としては当たり前の意見なのだ。
条約受け入れまででストップして、その上での説得力ある国防方針を示すことができなかった「条約派」(山梨勝之進、谷口尚美ら)が無能だったということだ。
機関科一系云々というが、そもそも英国海軍譲りの制度であり、諸国の海軍で機関科を一系化(つまり実兵への指揮を認める)している方が珍しかった。
(アメリカとドイツくらいか)
日本であれだけ機関科一系化が問題にされたのは、試験日程と採用人数の関係で
「機関学校に落ちたヤツが兵学校に受かった」
「自分よりアタマの悪い兵学校出に生殺与奪を握られる」
という機関科サイドの不満が大きかったという、割に日本的な事情なので、兵学校出のエリート意識と既得権益確保姿勢は責められるべきだが、ナニも東郷が特段遅れていたわけでもなんでもない。
そもそも日露戦争時分には「一等機関士、二等機関士」だったのが、将校担当官になっているのである、
これに東郷が反対したとも聞かぬ。
むしろ当時の列強で機関科一系化していた国を挙げてみるがよかろう。
主計科、軍医科、法務科あたりの一系化はどうなるのか。
東郷に関係ないから話題にならないのか?(笑)
小笠原長生については同感。
将官(しかも大名家の当主)になってなお「東郷の太鼓持ち」「副官」と蔑称されたというが、ロンドン条約反対の議論の折にも、東郷から加藤寛治へ
「国防の議論をしている場に、ああいう人(能もないのに取り巻きになっている者)を参加させるのは不可である」
とのキツい申し渡しがあったという。
担がれてエヘラエヘラしていたわけでは全く無く、真剣に国防を考えていた人物なのだ。
これを納得させられなかった「条約派」(←という色分けはあんまり意味がない気がするが)が無能だったということなのだろう。
勝って兜の緒をほどいちゃいました!
殉死した乃木希典は偉いよ。
にしても、バ艦隊って…😅
この回は昔のナレーション声でやってほしかった。。。
イヤイヤ、大東亜戦争の敗北まで東郷平八郎のせいにしたら駄目だろ!!😂
全く同感。
大東亜戦争の敗北は、昭和の無能な海軍軍人らによるものだ。
敵将ニミッツはタッタ1度会っただけの東郷平八郎を終生尊敬していた。
それに比べて、負けた側の無能なる昭和の海軍高級軍人らが、負けた原因アレもコレもすべて東郷のせい、と主張するザマは誠にミットもなく見苦しいものだ。
成長企業をぶっ潰した無能な二代目が
「あの時親父があんなことやっていたから潰れたんだぁ〜」
「親が悪い、周りが悪い、世間が悪い、オレ悪くない」
と言い張っているのと本質的に変わらないのだ。
「東郷はじめ明治の先達らが築き上げた栄光を泥に塗れさせて誠に申し訳ありません」
というのが本来当たり前なのであって、そういう当然の現実認識も出来ぬ言い訳達者なお役人ばかりだったからこそ、
「国力差が大きいんだから仕方無い」
で思考停止し、昭和海軍は負けたのだ。
31歳、消防士です。
明治から昭和に掛けて日本が歩んだ軍国としての日々に大変興味があります。
結局、東郷は日本にとって良い影響を与えたのか、悪い影響を与えたのかどちらなのでしょうか?
東郷の場合、ワシントン軍縮条約への関与から将来、想定されていた対米戦争には大反対していたんですよ。
しかし、それらの史実に関して研究が全然されてませんね。
人間に100点も0点もありませんから、良いだけでもないし、悪いだけでもないと解した方が良いのではないですかね。
歴史上稀に見る大武勲を上げたのも事実ですし、艦隊派に担がれてしまったのも事実です。
ただ日本海海戦の大勝利がなければその前に日本が潰れていた可能性がたかいですから、私は90点つけても良いと思いますけどね。
@@j88pm
強く同感。
生前の本人は、東郷神社創建(陸軍の乃木神社への海軍の対抗)の話を持ち込まれた際に激怒したと言われる。
それでもなお、死後は海軍主導で神社創建の運びとなり、それをまた
「神格化はもってのほか」
と本人への批判にすり替えているのが無能な昭和軍人(例えば井上成美)。
勝てもしなかった連中のイイワケや言い逃れのネタにされるのも大変な人生だよなあとは思う。
戦艦でなく潜水艦を多く作っていれば
ロンドン軍縮で。
4:09~のクラシック曲、タイトルが思い出せぬ!教えてくだされ!
「大企業崩壊のテーマ」‥‥‥じゃなくて、「甘茶の音楽工房」さんの「ブリキの戦争」という曲ですね。(TH-camでのこの曲は、「大企業が崩壊するときの曲」のイメージが強すぎますねw)
甘茶さんのサイトでMP3形式でダウンロードもできるので、気に入ったらサイトの方にも行ってみましょう。
題名は分からないけど、クラシックじゃなくてフリーBGMだと思うで
言える事は明治のやり方は,昭和のやり方にはならないだなぁ.
そもそも明治に戦車も戦闘機も無い...。
大東亜戦争は明治の頭で、昭和の戦をしたって言われてますよね
井上成美も同じ事を言ってました。
なまじロシアに勝ったことも慢心の一因になったよね
どうしてそのやり方をしたのかが抜けてるだけ。
形だけ真似るから失敗する。
日露戦争で日本がロシアに負けていたら、その後の歴史はどうなっていたのだろうか?
膨大な賠償金でも取られて、産業は昭和の末くらいまで停滞したろう。
千島全島、対馬あたりは完全に奪われていたろう。
日露戦争以前よりロシア利権が進圧していた朝鮮半島は「シベリアの地続き」になったろう。
北満州はそのままロシア領化していたろう。
ロシアに対抗できない/できなかった日本なんて、英国あたりにとって何の魅力も無かろうから、外交的にも二流三流として見捨てられていたろう。
(先の敗戦後の日本の様なものか)。
関税条項は「不平等条約」の名残として残っていたから、産業の停滞と併せ、工業の発展は相当遅れたろう。
大正期デモクラシーなども結局、
「日露戦では国民全般命がけで戦ったのだ」
との圧と、大戦好景気があったからだ。
日露戦争に負けていればどちらも条件が外れるから、デモクラシーや国民意識の普及は相当遅れたろう。
お国よりも旧藩やら村やら一族やらが強いしばりを持つ社会が更に長期間続いたろう。
欧米列強の食いモノになっていた
インドやインドシナみたいに搾取されていたね
駿馬も老いて駄馬となる…
いいね。
最後はみんな駄馬に成るんだよ。
ただ、駿馬は必ず駄馬を見下すんだよな…
それが「かつての駿馬の」駄馬からしたら屈辱だ。
同じく日露戦争の大英雄の乃木元帥は殉死しましたが、乃木元帥なら老いてもこのようにはならなかったように思う。
鈴木貫太郎は当てはまらないけどね。ずっと「軍人は政治に関わるべからず」を守り続けながら、八十近くになって昭和天皇からのたっての願いで引き受けた首相という役割を見事にこなし、あの時点での終戦まで持っていった功労はもっと称賛されるべき。
@@あらまたびっくり
よくも悪くも、陸軍のOB枠には山県さんという長老がいたからな。
遠洋航海で疲労困憊だった相手に勝利しただけなのに、何故か神格化された不思議な将軍。
運も実力の内
しただけとは聞き捨てならないな
神格化はやり過ぎかもしれないが、相手が疲労困憊しただけっていうのは無理がある。並の司令官だったら勝てなかった海戦。
ロシアがアホすぎた
しかし、この海戦で勝利していなければ、日本は消滅していた。
将軍でなく海軍だから提督。
東郷元帥の凄いところは国際法に精通しており、バルチック艦隊がイギリスの漁船を攻撃する事件を起こしたことを知るや、イギリス世論が反ロシアになると踏んで、スエズ運河を通れなくなることで生じるタイムロス、寄港地でイギリス製の石炭燃料が買えなくなることで生じる敵艦のダメージや物資の消耗などを計算していたこと。
いくら疲労消耗していたとしても、敵艦隊の9割5分の艦船を撃沈拿捕する戦果は中々できることでなかった。
日本海海戦で勝ったのは事実で、もし負ければロシアの属国化もあったわけだから、そこは素直に評価するべき、その後の海軍の敗北なんてのは国力から見て当然で負けるべくして負けただけ、元帥がどうこうってレベルじゃないよ。
日本の生き残りに貢献した英雄を現代日本と言うぬるま湯に浸つかる我々が悪く言うのはどうだろう?✨🌸🇯🇵⛩️🙌✨
同感。
じゃあ、お前はドラマやアニメの人物にしかどうこう言えないな。政治家になんて一言も言うなよ。
秋山参謀も後年はおかしくなるし、日本海海戦に関わって晩年もまともなのは大加藤しかいないのかよ。
島村速雄を忘れてもらっては困るな。
@@鷂よめないとり
日本海海戦の頃には、もう艦隊にはいなかったはずだが。
第二戦隊司令官として磐手に乗っておりましたが。
まあ1か0かに拘る必要なんてないしな…。
戦時中に海軍兵学校校長になった井上成美は兵学校内の東郷平八郎の肖像画を外させたと聞くが…。
外したのは「歴代海軍大将の写真」。
井上成美自身が嫌っていた永野修身の肖像を外す為に
「この決戦下、立身出世を夢見る生徒が出てはいかん」
との理屈をつけて全部外したのだと言われる。
お国の為に尽くして高位についた(ことになっている)大将らの写真を外すとどの程度戦力が増強されるのか知らないが、いかにも小役人じみた下らぬイヤガラセではある。
井上本人は、珊瑚海海戦で下手を打った時
「東郷元帥ナラバイカニナサレシヤヲ思フ」
などと泣き言をもらしている。
東郷の肖像画と遺髪は、当時から今に至るまで「教育参考館」にて最上位にて顕彰されている。
一般人でも見学可能である。
井上さんは、厳しい方で東条首相の○玉持ちをしていた、海軍大臣の嶋田搬太郎大将何かを「あの上等兵曹」なんて公言していたそうです
機関部は機関専任とほざいてから、海軍兵学校、海軍主計学校、海軍機関学校とナンバー付けられた。
海軍機関学校卒業生全員は、死んでも東郷神社には参拝してない。それはそうだろ、戦艦で艦橋吹っ飛ばされて幹部が全員戦死して、残ったのは機関少佐と甲板少尉のみでも
戦艦の指揮権は甲板少尉にあると言うのだからな。
それは怒髪天を衝くだろ。
こういう「薄っぺらい脳内世界」を吐露するやつって、多いよな。
「機関学校卒業生全員は死んでも東郷神社には参拝してない」
ふ〜ん、そういうことになっとるのか、キミの脳内世界では(笑)
せめて上村嵐(機関学校47期)氏の著作でも読んでいたら、こんなアホな出まかせも言わないで済んだろうに(笑)
第一、別に東郷が「機関部は機関専任」と言ったから兵学校との序列がつけられたというわけでもあるまい。
導入期の英国でさえ機関科は兵科とは別系統だった。
(一次大戦中に一系化したが、戦後にわざわざ再び分離している)
東郷が活躍した日露戦争期では「機関部は機関専任」で、機関科は「機関士」だった。
大正期から昭和の始めまで、機関科からの一系化要求は激しかったが、そのつど兵学校卒に潰されていたのだ。
「一系化不可」の答申が出されたりもしたが、これを不服として井上成美に研究を命じたのは永野修身(艦隊派)だから、東郷を悪く言うなら永野修身に感謝するが良い。
また、太平洋戦争開戦直前に
「兵機一系の如き改革をこの時期にやって混乱招くのは不可」
として一系化の動きを直接ぶっ壊したのは聯合艦隊司令長官山本五十六だから、東郷に言う以上の文句を山本五十六にぶっつけるがよかろう。
実戦であれだけの功績を上げた軍人(東郷平八郎)を、人事制度への意見でで結果をハズしたからケナすというのは、やはりモノゴトの軽重判断もつかぬ阿呆という事なんだろう。
また、兵学校卒がその権益確保の為に潰していた「一系化」を、負けたあとには「これも東郷が悪い」となすりつけて済ませているというのも、大変見苦しい。
「戦艦で艦橋全員吹っ飛ばされて幹部が全員戦死して云々」
これも笑った。
戦艦イッパイに兵科士官が何人くらい乗っているもんだと思っているのか知らないが、戦艦で甲板少尉(←これなんなの? 甲板士官とでもいいたいのか?)と機関科佐官のみが生き残ったなんて事例があるなら是非示して見せてほしい。
そう、怒髪天とやらの「実例」をな、
ソロモンの前線で艦橋に命中弾を食らって敵前で回頭を始めた駆逐艦で、ひとり生き残った航海士の中尉が機関科の大尉に伝声管で状況を伝えたところ、上がってくるなり
「ずっと艦底にいて、どっちに回せったって分からんよ。航海なんとかせい。出力は出すから」
と叱りつけて艦底に戻ったので、結局陸岸にのしあげたという回想なら読んだことがある。
例えばなしで言ったんだとは思うが、数学的には明らかに百発百中の一門は、百発一中の百門に負けるんだがな。
確かに確立論から言えばそうですよね。それに、近代戦はN二乗が原則ですから、100対1が
変じて10000対1ですから闘いになりませんよね。
訓練で百発百中百中の練度があっても、実戦になれば、一発しか命中しないというのはあり得ますがね。
1905年・・・はぁ~・・・
1905年5月な
崩壊寸前のロシア帝国、ロシア艦隊が長旅でヨレヨレ、直後にポチョムキン事件が起こるほど士気綱紀の乱れなど、日本海海戦の勝利は大分割り引いて考える必要があるだろう。
この辺の評価の甘さが、
後の太平洋戦争の失敗につながったと思う。
やっぱ長州、薩摩時代の日本は良かった。昭和の時代になってから日本は奈落の底よ。長州人が作った大日本帝国を滅ぼしやがった。欧米の植民地にならない様に幕末からの努力や日清日露戦争などの勝利した努力が水の泡。おう?ヨシ
この人、軍政家ではないからねぇ
艦隊派に名声だけ利用された感じだね。
まあ省益というか海軍の利益の為に行動するあたり、今の日本も変わらんw
同感。
担いだのは「海軍」全体なのであって、その中での人事抗争に負けた側(所謂「条約派」)の生き残りが相手に取られた錦の御旗として東郷に恨みをぶつけているに過ぎぬ。
女中根性の八つ当たりみたいなものだ。
本来なら「条約下でこう対応する、国防に不安なし」との純戦略理論の構築で説伏できればそれで済んだ話を、それができずに没落したのが「条約派」だというだけの話。
あれだけの戦功を立てても政治には全く色気を見せなかった点だけでも、立派な軍人だったと思う。
この人と真逆の位置にいるのが山本五十六と思う。
戦術、短距離(短期)戦略までなら東郷元帥の方がずっと上だけど、地政学、軍政、長距離(長期)戦略なら山本元帥の方が上。
だから昭和に入って立場が艦橋の上だけでは無理になって疎んじられたんだと思う。
あと、作ってきた生真面目さだけに運がなければ明智光秀か石田三成のようになっただろうから、山本権兵衛のコメントはある意味正しいw
逆に山本元帥の場合、あの時期に軍政畑に持って行きたいのに連合艦隊司令長官職につけざるを得なかった国情がマズかったと思う。
マスコミと当時の国民が、海軍と言う国防の戦術トップに不適格者を据えさせる環境にした事で自分の首を一部絞めたんだね。
それに比べると、この人は連合艦隊司令長官は適職中の適職。
そんな中からの言葉や行動だからこそ、テオドア・ルーズベルトをして自国海軍の戒めに使えたし、チェスター・ニミッツと言う他国の弟子までできたんだねw
(それが後年に自国に襲い掛かる皮肉・・・)
機関兵の軽視、実績のある退役軍人が口出すことの危険性を理解できない、軍備に制限を加えられても訓練に制限はないという近代戦の基本がわかっていない妄言、この人が日本海軍にいたことは日本にとって最悪だった。
かつて大久保卿が評した通りの薩摩武士だと思う。
「戦には強いが政治はてんでダメ」
東郷は大勝利と引き換えに三笠の艦上にて戦死、くらいが丁度だった。
東郷ターンは戦法では無い❗❗
丁字戦法の為のターンである
東郷がボケ老人かしたことより、海軍大臣が連合艦隊司令長官を任命できたことこそ、明治憲法が健全に運営されていたことでは。
別にボケてはいなかったんだろうが、自分の何気ない発言がどんな影響を与えるかの思慮は足りなかったな。
アブキール湾海戦の方が一方的な結果だったと思うんだが。
晩節を汚しましたね… 。😢
李舜臣の水軍こそ最強!
人を殺した数で罪人か判断すべきと思います❤