日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/6/24)

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  • เผยแพร่เมื่อ 22 มิ.ย. 2024
  • 2024年6月24日(月)
    【旧約聖書】
    (主よ、)あなたの憐れみが私を訪れ、私を生かしてくださいますように。詩119:77(協)
    【新約聖書】
    私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになりますように。フィリ1:9(協)
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    「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
    日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
    「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
    釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
    ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
    御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
    どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
    使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
    *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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     フランスの哲学者デカルトは『方法序説』のなかで、このように言います。「ゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。」なるほど、走るように前進していく人を見ると、ゆっくりしか歩くことのできない自分自身を不安に思ってしまうものですが、走っていても、目的地への道を間違えていれば、それは大きなロスとなります。デカルトによると、人間には真なるものを偽なるものから分かつ判断は誰にでも備わっていると言います。けれども、その判断力を持っているだけでは不十分で、それをちゃんと用いることが肝心だということです。そのようにして、道を外さないように歩もうとする心がけを貫くところしか、真の道は開けないのです。
     私たちは日々、多くの知識を得ています。最近はネットからの情報が多いかもしれませんが、新聞、ラジオ、テレビ、書籍、様々な媒体から学び、知識を身に着けようとしています。児童、生徒、学生たちも学校で日々勉強に励んでいます。考えたいのは、その知識や、そこから得られる洞察は、何のためなのかということです。使徒パウロはこのように記しています。「私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになりますように」。パウロが言うには、私たちの知識や洞察は、愛を豊かにするためなのです。愛とは、他者に心を向け、憐れみの心をもって接することです。そして、神さまご自身が、私たちに心を向け、憐れみの心で接してくださっているのです。旧約の詩人は歌います。「あなたの憐れみが私を訪れ、私を生かしてくださいますように」。神さまは私たちを憐れんでいてくださる、神さまは私たちを愛してくださっている。その愛を受けて、私たちも他者を愛すのです。私たちが日々得ている知識や洞察は、そのことを豊かに行うことができるようにするためのものなのです。それが私たちキリスト者の歩む道であり、デカルトが言うように、たとえそれがゆっくりとした歩みであっても、愛を豊かにする知識は確実に神さまの方へ導いてくれるのです。もし私たちの知識や洞察が、愛にもとづかないものであれば、例えばお金儲けの知識や、他者を蹴落として自分が出世するための知識、他人を傷つける知識であれば、それは走りながら道をそれてしまうことなのです。それは、決して神さまのもとにたどり着くことのできない道なのです。
     知識を身に着けるのは愛を豊かにするため、他者を大切にするため、神さまを大切にするためです。それは周囲から見れば愚かなことに映るかもしれませんが、それこそがゆっくりと確実に神さまのもとへ歩む道を切り開いていくことなのです。
    日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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