日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/6/23)

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  • เผยแพร่เมื่อ 21 มิ.ย. 2024
  • 2024年6月23日(日)
    【旧約聖書】
    私は兄弟たちにあなたの名を語り伝えよう。詩22:23(協)
    【新約聖書】
    (パウロの手紙)きょうだいたち、どうか知っておいて欲しい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。ガラ1:11(協)
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    「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
    日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
    「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
    釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
    ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
    御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
    どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
    使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
    *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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     「エンゼルケア」という言葉があります。以前は「死後処理」と呼ばれたものですが、亡くなられた方に対して、その人らしい容貌、装いを整えるケア全般のことを言うそうです。なかには、ご遺体に存命中と変わりなく、「お背中を流しますね~」と声をかけることもあるといいます。ご遺体をモノとして捉えるのではなく、息を引き取られたけれども、それでも人であるということでしょう。しかし、その一連の処置が終わると、白い布を被せて死者として扱われることになります。そして、遠ざけられるのです。これについて、ある看護師さんは、それがどうしても馴染めず、「みんな必ず死ぬのに死んではいけない感じ」と言います。「死んではいけない感じ」という表現には、気づきを与えられます。人間の作り上げた都市は、死の臭いを消していきます。死を覆い隠していくのです。動物の死骸もほとんど見ませんし、見たとしても数時間後にはきれいに片付けられています。このように死を遠ざけてきた結果、私たちは死を見ずに済むようになり、死を見ないようにして、そして死に対する準備をしにくくなってきました。ご遺体に「お背中を流しますね~」と言うのは、ご遺体に対する敬意ですけれども、同時に死を受け入れられない人間の姿も現れているように感じます。
     「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」イエスが私たちに伝えてくださった「福音」とは何なのかというと、死で終わりではないということです。人間は最初の人間アダムが神さまに背いたことにより罪が入り、そして死ぬ者となりました。しかしイエスが十字架で贖いの死をとげることによって私たちの罪が赦され、私たちは永遠に生きるものとなったのです。そのことをイエスは地上の歩みにおいて私たちに示して下さったのです。これを信じるか、ということです。「そんなこと、ありえないわ」と、多くの人には鼻で笑われるかもしれませんが、人間がとても思いつかない知らせだからこそ、人ではなく神さまからの良い知らせ、福音なのです。使徒パウロは「きょうだいたち、どうか知っておいて欲しい。私が告げ知らせた福音は人によるものではありません。」と記します。福音は人によるのではないのです。神さまによるのです。死を遠ざけ、なるべく死を見ないようにしている私たちに、死が終わりでないという福音を、神さまご自身が伝えてくださったのです。それを私たちキリスト者は信じ、またそれを多くの人に、パウロと同じように伝えていくのです。それが宣教です。今、私たちは死を敗北だと思っています。だから、死は怖いものですし、死を遠ざけ、死と向き合うことができないのです。人間は必ず死ぬのですから、死が敗北であれは、人間は全員が敗北に向かって進んでいることになります。そこに希望はあるのでしょうか。死の先に永遠の命の道が開かれている。そのように信じることで、私たちは苦しい日々のなかでも希望をもって生きて行くことができるのです。旧約の詩人は歌います。「私は兄弟たちにあなたの名を語り伝えよう。」神さまは、死を滅ぼして下さった。永遠の命に繋がる道を共に歩もうと宣べ伝える。それが神さまの名を語り伝えることなのです。
    日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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