日本キリスト教団六ツ川教会 ローズンゲン釈義黙想(2024/7/1)

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  • เผยแพร่เมื่อ 29 มิ.ย. 2024
  • 2024年7月1日(月)
    【旧約聖書】
    恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。詩106:1(協)
    【新約聖書】
    何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、父である神に感謝しなさい。コロ3:17(協)
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    「ローズンゲン釈義黙想」は、日本キリスト教団六ツ川教会の会員向けのメッセージです。
    日々、御言葉を聞くことができるように毎朝5時に更新します。
    「公開」設定にしていますので、六ツ川教会の教会員でない方も、ご関心のある方はどうぞ自由にご活用ください。
    釈義黙想の後に、呼吸と沈黙の時間があります。
    ヨガのトレーニングから学んだ呼吸法のごく基本的な方法を取り入れています。
    御言葉を聞き、呼吸と姿勢を整えて、良い一日の始まりとなりますように。
    どうぞ今日も笑顔でお過ごしください。
    使用しているテキストは『日々の聖句 Losungen2024』(ベテスダ奉仕女母の家出版部、2023年)です。全国のキリスト教書店でお求めいただくことができます。税込み1,400円です。
    *ローズンゲンで指定された場所以外は、聖書協会共同訳聖書のテキストを用いています。
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     劇作家の倉本聰さんは、『ドラマへの遺言』という書籍において、このように言います。「高倉健さんの映画は必ず上に人がいることで成立している。」権力者であれ、反逆児であれ、「上に立つ人」がいないと、その人はただのお山の大将です。それによって駄目になっていくのです。自分の不完全を知り、自分に勝る者の方から自分を量る。そういった「重し」となる人が、人には必要なのです。それを倉本さんは、「尊敬できる人間を持ってる人間が光るんです。尊敬される人間は別に光らない。」私たちはついつい、自分自身が尊敬される人間になろうと考えるものですが、その必要はないのです。自分が尊敬される人間になる必要はない。そうではなくて、私たちが尊敬できる人を持つ。それによって私たちは輝くことができるのです。
     今朝は新約聖書からコロサイの信徒への手紙3章17節が与えられました。「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、父である神に感謝しなさい。」私たちが何を語るのか、何を行うのか、すべてを主イエスの名によって行いなさいということです。それは言い換えれば、イエスを模範としなさいということです。イエスがとてもなさらないことを、イエスの名によって行うことをできるはずがないからです。イエスを模範とすることで、イエスの名によって語り、行うことができるのです。イエスであれば、この場合、なんとおっしゃるだろうか、イエスであれば、この場合、どのように行動されるだろうか、それを知る手がかりが福音書に記されています。イエスは貧しい人、社会的に差別されている人、病気の人と共に生き、そしてそのような人々を生かす言葉を語っておられました。逆に、律法を自分たちの都合のよいように解釈し、それによって自分たちの立場を守ろうとしている律法学者やファリサイ派たちには、「偽善者」という厳しい言葉で批判をされていました。福音書に描かれるイエスの言動が、私たちの模範となるのです。
     旧約の詩人は歌います。「恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。」正直なところ、神さまから与えられた戒めや、イエスという模範になる人がいるということは、自分の好きなようには生きられないということです。制約が生まれるのです。ところがその制約は私たちに自由を与えてくれます。「肘、外に曲がらず」という言葉があります。肘は外に曲がらない、外に曲がらないという制約があるから、私たちは物を持ったり、体を支えたり、様々な行為を行うことができるのです。もし肘が360度自由に曲がったとしたら、何の役にも立ちません。制約が自由を生み出すのです。神さまが与えてくださった戒め、模範となるイエスの言動、それは私たちに制約をもたらしますが、その制約によって私たちは自由を得ることができるのです。尊敬できる人間を持っている人間が光る。そのように尊敬できる人、模範となる人、イエスという人を持つことができる私たちは、恵まれているのであり、そのことに共に神さまに感謝したいと思います。
    日本キリスト教団六ツ川教会牧師  桐藤 薫

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