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皆様コメントありがとうございます。一部の方へお願いですが「一発殴ってから他人に自分の言うことを聞かせる」ようなコメントはやめましょう。他人を傷つけずに持論展開しましょう。誹謗中傷は犯罪ですので削除します。
ごくろうさんです。ずっと疑問があったのですが、ルート以前の疑問です。船に乗ったり陸行したり自由自在に進むようですが、陸を進むときは船は担いで歩くのですか?まさか船を乗り捨てるのではありませんよね? また、船の規模はどのくらいで、また、一行の人員数はどれくらいなのですか? 船には貢物や物資・資材が乗ってるはずですが、それらも担いで行くのでしょうか? 船で進む状況や陸を歩く状況を描いた絵は存在するのでしょうか?
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。 紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、都が京都に遷都されるまでの間長く奈良県には大和政権があり歴代天皇がいらっしゃいました。 また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。😅 因みに二代目邪馬台国女王卑弥呼は第10代崇神天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。 倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。 因みに二代目邪馬台国女王卑弥呼は第10代崇神天皇の皇女の豊鋤入毘売命です。 豊鋤入毘売命は築山古墳に葬られました。 従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
分かりやすい図説で凄く楽しい考察でした☺️♪ところで、「神結ちゃんねる〜かみすちゃんねる」で表先生が、びっくりする情報開示を沢山されていて、邪馬台国についても驚きの内容でした👀是非ともおススメです♪
28:37「天石門別八倉比賣大神御本記」は偽書であると断定されています。詳しくは城福勇 著『わが残照 : 阿波郷土史研究』をご覧ください。また、八倉比売神社1号墳は推定4世紀です。安房国忌部家系において八倉比賣は阿波忌部の祖・天日鷲命の母神とされています。大日靈女命(天照大神)の別名ではありません。徳島の神社は江戸中期から祭神の差し替えや式内社への成りすましが横行していました。
魏志倭人伝には里数がありますが、たぶん実測でしょう。もし、歩測や概念的なものだと近代地図にフィットしないでしょう。ただ短里なるものは制定されていませんが、一寸千里法による距離測定なら、1里が77m位に必然的になります。2箇所の棒の影長の差が、そのまま里数になります。糸島と種子島をシミレーションしてみると陰長差は4寸、つまり4000里を意味します。 12000里はピタゴラス三角形を使っているので、逆算すると沙里院から南9600里が測定緯度、川内河河口となり、5/4倍したのが12000里で、宮崎市の位置になります。なお、これは単なる計算値で実体の無い距離です。一寸千里法は南北だけしか測れません。 なお、9600里を長里に変換する必要がありますが、これが「㑹稽の東」です。恐らく蘇州ですが、㑹稽と同じ緯度を探したら、川内川だったということです。㑹稽と洛陽は長里での距離がわかっているはずです。また狗邪韓国を巨済島南端とすると、これも洛陽と同じ緯度であります。
一大国 一大率の一大は天の字を分解したものです。
邪馬台国は日本のど真ん中の連合国家。女王が3人いるが、卑弥呼⭐の女王は愛知の南端にいた!
動画配信ありがとうございます。個人的に邪馬台国は北緯約32.5°あたりで、日向市の鵜戸神社(竜宮)も関連していると思っています。ルートではなく、緯度差経度差の位置関係で考えています。周髀算経の一寸千里法が南北距離のみ測量する短里であることと、海洋民族倭人の測量体系の推測をもとにしています。文献については、《漢書》[又名:《前漢》]《傳》《嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳》《嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳下至孝文皇帝,… 時有獻千里馬者,詔曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行二十里,朕乘千里之馬,獨先安之?」於是還馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也,其令四方毋求來獻。」孝文皇帝に至っては、…(中略)…当時、千里馬を献上する者があり、詔して曰く:「鸞旗(らんき)は前にあり、属車(しょくしゃ)は後にあり、吉行(きっこう)は一日に五十里を進み、師行(しこう)は一日に二十里を進む。朕が千里の馬に乗り、独り先に安んずるのか?」と。そこで馬を返し、道里の費用を与え、詔して曰く:「朕は献上を受けない。四方に令して来献を求めることなかれ。」このように1日当たりの共通の距離認識があったようです。明帝紀景初二年春正月司馬懿は公孫淵討伐のときに四千里の軍行を百日としています。軍行日四十里で糧食の見積もりなどをして、明帝に要請する必要があったのでしょうか。その他、師行二十里というものもどこかで見かけました。このように中国古代文献にあることを考慮して、倭人伝の二十日を吉行五十里なり、あるいはその他の割合として陳寿は意識していたのではないかと推量されます。これは現代日本人読解者の常識で1日どれくらい進むかという恣意的な解釈とは異なり、その割合は未明であるけれど、妥当な推理ではないでしょうか。一日五十里なら二十日は千里です。一日四十里なら二十日は八百里です。一日何里とするのが合理的でしょうか。ところで、水行の場合の共通の認識はあるのでしょうか。私は海洋民族の倭人の測量体系が、三十日で天体の子午線角度差30分と推理しています。現代の海洋測量体系でいうとこれは30海里です。1海里は約1.852kmで、この1/1000はほぼ1間に相当します。30海里を古代倭人が30日と表現したであろうと推理する根拠は、月の視直径や太陽の視直径が30分であるからです。30日が30分や30海里に対応します。1.852km×30=55.5kmです。千里76.7kmの短里体系でいうとこれは、55.5÷76.7=約0.72、約720(短)里10日が約240(短)里、20日が約480(短)短里になります。つまり一日水行二十四(短)里ですね。古代中国文献にある一日五十里から一日二十里の範囲に収まっています。妥当な推定値だと思われますがどうでしょうか。東夷伝は海洋民族の測量体系に基づき一部短里で換算もされていると思い。私は里ではなく、1000(短)里=緯度30分をつかいますが、30日も30分なので、緯度換算で読んでいます。
邪馬台国当時の日本の人口は300万で、その内9割は東日本に有ったと言われています。邪馬台国の人口は30万と言われているので、九州・西日本説はあり得ないと思います。
その根拠が知りたい(笑)ありえない
伊都国が現在の糸島として、水行←これ海をいったのではないとしたら?福岡市西部には上山門、下山門と言う地域があります同じく最古の王墓、吉武高木遺跡もありますし、個人的には卑弥呼や邪馬台国があったとするならばここら辺だと個人的に考えます奴国が春日市と言うのもちょっと違うかなと、太宰府と奴国本国は近くに海はありませんし、当時の港は博多、鴻臚館など鴻臚館は福岡城あとにありますし、中央区です鴻臚館には間道があり太宰府に通じていましたし、奴国本国には繫がっていたとはどこにも残っていません邪馬台国や卑弥呼は存在せず、陳述が魏帝に頼まれて架空の国や卑弥呼を呉に対して這ったりででっち上げた説もあるのでは?
宮崎県は一致してますが、個人的には宮崎県西都市あたりではないかとかれこれ40年前から思っています 笑
糸島西部には明確に当時の対中交易における重要な港だった痕跡が在る。そしてそこから脊振山地に沿って東南に進んだ先にも当時栄えていた地であった痕跡が在る。他の事はさておき、国がピンポイントに点として在った訳でもないのに、末廬國だから松浦・伊都國だから糸島と決めつけ、方角も道程の合理性も無視する考え方には納得いかない。普通に大きな港があった糸島の西側に船を着け、そこから東南に歩いた辺りに伊都國があったと考える方が自然じゃないかな。
【水行十日陸行一月 】とは、トータルで、と解釈すべきです。当時、魏では既に天文学は正確に計算されていました。方向音痴はあり得ません。当時の海辺は現在とは違います。
邪馬台国。あの時代は建物も簡素なものです。まさか台風の通り道には作らないでしょうね。なら答えは一つです。
壱岐から松浦まで30kmですよ。千里70kmありません。また、松浦から南東に糸島はありません。松浦から北東20kmですよ。壱岐からの距離と方向が違います。記事通りなら行橋が不祢国になり、阿波の神山は帯方郡から南東方向12000里の930kmで比定地になります。ヤマトは阿波の倭大国魂神社があり倭です。奈良県はオオヤマトで大和です。阿波は倭と出雲があります。奈良県は阿波から遷都された地でヤマトからオオヤマトになった所です。
阿波説のご紹介、ありがとうございます!ご指摘の件、国を点で見るのでなく範囲で見る等、諸々理由・意図はありますが、また改めてコメントいたします!
th-cam.com/video/yl-W6ZHt0Cs/w-d-xo.htmlsi=9qfIUPWVCA74qoX_
進撃の歴史旅見て下さい。阿波は揃ってます。史跡や伝承や地名全て揃ってます。
@@seiji5431阿波に七万戸もの国なんてとても無理な話、それに魏志倭人伝にも隋書倭国伝にもうず潮の記述もありませんからね。一番の土地の特徴の記述がないですから阿波は無関係ですね。邪馬台国とは元々畿内地方にある国で何の問題もありません。
ヤマトは山人だと考えています。
行程だけ見てもダメですね、奴国二万戸もありますから、これだけで北部九州が埋まる規模なんですよ。魏志倭人伝だけではなく同時代の魏志韓伝を見れば判る話です。方角もこの時点で済州島の位置を90度間違えていますから、方角なんて間違える訳がない、という主張も既に通用しないのですよ。
不弥国が海に面した港湾都市だとの魏志倭人伝の記述は何処でしょう?普通に考えれば、御笠川と宝満川との連絡拠点である不弥国から、宝満川を南に水行すれば良いだけでしょう。そしてそこには築年、西暦240年±の太宰府羅城があります。魏志倭人伝の行程は不弥国まで里数です。詰まり、不弥国の勢力圏か、その近辺まで、魏の使者が来たのでしょう。太宰府羅城の壁を、版筑で建造する為に。
邪馬壹国は、越前説もあります。
へえぇ~
壱岐島の南北距離は約17km。魏志倭人伝の一大国方可三百里から千里を求めると17km÷0.3=56.6…kmこれは一寸千里法から得られる千里76.7kwより、緯度差30分が55.5…kmである体系から換算する方に近い。そこで30海里(30×1.852km=55.5km)を千里とする体系を考える。海洋民族の倭人ならあり得る。そうすると、「夷人(倭人)は里を知らず日をもってこれを計る」と隋書で判明したことから、測量体系は30海里=三十日と解釈してもいいでしょう。水行二十日や水行十日は時間の単位をなかだちにせず直接に空間の変位を表現しているのです。日、月の視直径は約30分です。その大きさを三十日と言ってもおかしくないと思います。この測量体系で考えると邪馬台国の緯度は32.5度あたりになります。日向市日知屋の大御(おおみ)神社は北緯32°24'39"です。
茨城、千葉北部説もあります。
@@クーちゃん-m8r それは邪馬台国とは別種です、お勉強しましょうね
邪馬台国で辰砂が採れたとされていますが、そこを考慮すると阿波説になるのでは?
辰砂は阿波以外にも普通に出てる。そもそも奈良県に鉱脈が縄文期が採れるような場所で出てると、山口大学の資料にもなってる。辰砂だけではそれくらい不安定なもの。
その通りですね。阿波説以外を支持する人たちは徳島の若杉山遺跡を故意に過小評価したがりますが、もし自分達が支持する説の比定地に徳島の若杉山遺跡のような大規模な水銀朱遺跡が発見されようものなら、それまで 水銀朱なんて大した証拠にならない! なんて言ってた人達が一転して これぞ邪馬台国であった証拠だ! と狂喜して触れ回るでしょうね😂 彼らは水銀朱など何処にでもある! なんて言ってますが具体的な採掘場所を尋ねた時は何一つ答えらえなくなります🤣まあ、それだけ彼らにとって阿波の若杉山遺跡は厄介で無視したい存在だという事なんでしょう。
阿波説では、すぐ、辰砂で決定!とするが、、、大村湾と、その近辺の虚空蔵山や、そこを水源とする丹生川なりで、真珠・辰砂・翡翠そして北部九州にほぼ限定される絹もすべて用意できるが?そしたら、肥前説に趣旨替えするのかな?まあ、しないと思うけど、最初から阿波ありきだからね
そもそも邪馬台国に辰砂が採れるとは書かれてないからね。倭の産物ですよ。しかも丹生の神社が古くから集中するのは紀伊半島だよ。
@@トミヤマサキオ 何説押しなのかは知らないが、もし自分が信望している説のご当地に徳島の若杉山遺跡のような大規模水銀朱採掘遺跡が見つかれば打って変わって邪馬台国がそこにあった証拠だと言い出すんだろう😂
記紀と三国志では時代が違い過ぎる。現代と戦国時代くらいの差がある。対馬からが違っていて、カン海に出てから南。長里でいくと、出雲がある。江戸時代から議論してきて、結局、分からない無限ループに陥る。郡の東南にある。なら常陸国が邪馬台国。日高見国ではない。日高見国はヤマト政権からの呼び名。ヤマト政権が狗奴国。倭面土国は鹿児島。極南界だから。極南界を認識する為には日本列島をある程度分かっていないと言えない。九州は勢力範囲が狭すぎるし、郡の南だから。ヒミコって読み方は現代日本語。
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、宇佐を中心とする大分になりますが?理由は下記です。道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。詳細を記述したホームページは「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
ももそ姫でええんやでw
四国説は妄想説。幸せですね。
壱岐に3万人住んでるとこから疑問に持とうよ。あと短里自体がこじ付け何だけど…?
邪馬台国は沖縄県です
悪い事は言わんから阿波説にしときなさい。
@@elelsse 阿波説は100%ありえないですよ。戸数と鬼道の説明で邪馬台国の条件には合致しませんから。
@@トミヤマサキオ 阿波説が100%ありえないなら他説は300%ありえませんよ😄ちなみにそちらはどの説の方?
@@elelsse 私は畿内説ですよ、というより邪馬台国の位置論なら既に畿内周辺しか可能性はないです。特に〇〇遺跡こそ邪馬台国だ、という説は纏向遺跡を含めて全て否定してます。魏志東夷伝での7万戸の意味判ってますか?馬韓国の広さで10万戸ですからね。これは正直紀伊半島全てでも足りません、阿波なんて話にならないレベルです。
@@トミヤマサキオ まあお互いがんばりましょう。
@@トミヤマサキオ 学者のいう数値なんてコロコロ変わりますからね。そういう物よりは人為的な改竄の効かない地理条件や辰砂などの倭人伝に記載された天然資源の有無を重要視してます。まあ、お互い頑張りましょう。
皆様コメントありがとうございます。
一部の方へお願いですが「一発殴ってから他人に自分の言うことを聞かせる」ようなコメントはやめましょう。
他人を傷つけずに持論展開しましょう。誹謗中傷は犯罪ですので削除します。
ごくろうさんです。ずっと疑問があったのですが、ルート以前の疑問です。船に乗ったり陸行したり自由自在に進むようですが、陸を進むときは船は担いで歩くのですか?まさか船を乗り捨てるのではありませんよね? また、船の規模はどのくらいで、また、一行の人員数はどれくらいなのですか? 船には貢物や物資・資材が乗ってるはずですが、それらも担いで行くのでしょうか? 船で進む状況や陸を歩く状況を描いた絵は存在するのでしょうか?
邪馬台国はヤマト国と発音して現在の奈良県を指しています。
紀元前60年に初代神武天皇が橿原神宮で即位されて以来、都が京都に遷都されるまでの間長く奈良県には大和政権があり歴代天皇がいらっしゃいました。
また、邪馬台国初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。😅
因みに二代目邪馬台国女王卑弥呼は第10代崇神天皇の皇女の倭母母曽毘売命です。
倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
因みに二代目邪馬台国女王卑弥呼は第10代崇神天皇の皇女の豊鋤入毘売命です。
豊鋤入毘売命は築山古墳に葬られました。
従って邪馬台国は奈良県にほかなりません。
分かりやすい図説で凄く楽しい考察でした☺️♪
ところで、「神結ちゃんねる〜かみすちゃんねる」で表先生が、びっくりする情報開示を沢山されていて、邪馬台国についても驚きの内容でした👀
是非ともおススメです♪
28:37「天石門別八倉比賣大神御本記」は偽書であると断定されています。詳しくは城福勇 著『わが残照 : 阿波郷土史研究』をご覧ください。また、八倉比売神社1号墳は推定4世紀です。安房国忌部家系において八倉比賣は阿波忌部の祖・天日鷲命の母神とされています。大日靈女命(天照大神)の別名ではありません。徳島の神社は江戸中期から祭神の差し替えや式内社への成りすましが横行していました。
魏志倭人伝には里数がありますが、たぶん実測でしょう。もし、歩測や概念的なものだと近代地図にフィットしないでしょう。ただ短里なるものは制定されていませんが、一寸千里法による距離測定なら、1里が77m位に必然的になります。2箇所の棒の影長の差が、そのまま里数になります。糸島と種子島をシミレーションしてみると陰長差は4寸、つまり4000里を意味します。
12000里はピタゴラス三角形を使っているので、逆算すると沙里院から南9600里が測定緯度、川内河河口となり、5/4倍したのが12000里で、宮崎市の位置になります。なお、これは単なる計算値で実体の無い距離です。一寸千里法は南北だけしか測れません。
なお、9600里を長里に変換する必要がありますが、これが「㑹稽の東」です。恐らく蘇州ですが、㑹稽と同じ緯度を探したら、川内川だったということです。㑹稽と洛陽は長里での距離がわかっているはずです。また狗邪韓国を巨済島南端とすると、これも洛陽と同じ緯度であります。
一大国 一大率の一大は天の字を分解したものです。
邪馬台国は日本のど真ん中の連合国家。女王が3人いるが、卑弥呼⭐の女王は愛知の南端にいた!
動画配信ありがとうございます。個人的に邪馬台国は北緯約32.5°あたりで、日向市の鵜戸神社(竜宮)も関連していると思っています。ルートではなく、緯度差経度差の位置関係で考えています。周髀算経の一寸千里法が南北距離のみ測量する短里であることと、海洋民族倭人の測量体系の推測をもとにしています。
文献については、
《漢書》[又名:《前漢》]
《傳》
《嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳》
《嚴朱吾丘主父徐嚴終王賈傳下
至孝文皇帝,… 時有獻千里馬者,詔曰:「鸞旗在前,屬車在後,吉行日五十里,師行二十里,朕乘千里之馬,獨先安之?」於是還馬,與道里費,而下詔曰:「朕不受獻也,其令四方毋求來獻。」
孝文皇帝に至っては、…(中略)…当時、千里馬を献上する者があり、詔して曰く:「鸞旗(らんき)は前にあり、属車(しょくしゃ)は後にあり、吉行(きっこう)は一日に五十里を進み、師行(しこう)は一日に二十里を進む。朕が千里の馬に乗り、独り先に安んずるのか?」と。そこで馬を返し、道里の費用を与え、詔して曰く:「朕は献上を受けない。四方に令して来献を求めることなかれ。」このように1日当たりの共通の距離認識があったようです。
明帝紀景初二年春正月
司馬懿は公孫淵討伐のときに四千里の軍行を百日としています。軍行日四十里で糧食の見積もりなどをして、明帝に要請する必要があったのでしょうか。
その他、師行二十里というものもどこかで見かけました。
このように中国古代文献にあることを考慮して、倭人伝の二十日を吉行五十里なり、あるいはその他の割合として陳寿は意識していたのではないかと推量されます。これは現代日本人読解者の常識で1日どれくらい進むかという恣意的な解釈とは異なり、その割合は未明であるけれど、妥当な推理ではないでしょうか。
一日五十里なら二十日は千里です。一日四十里なら二十日は八百里です。一日何里とするのが合理的でしょうか。
ところで、水行の場合の共通の認識はあるのでしょうか。私は海洋民族の倭人の測量体系が、三十日で天体の子午線角度差30分と推理しています。現代の海洋測量体系でいうとこれは30海里です。1海里は約1.852kmで、この1/1000はほぼ1間に相当します。
30海里を古代倭人が30日と表現したであろうと推理する根拠は、月の視直径や太陽の視直径が30分であるからです。30日が30分や30海里に対応します。1.852km×30=55.5kmです。千里76.7kmの短里体系でいうとこれは、55.5÷76.7=約0.72、約720(短)里
10日が約240(短)里、20日が約480(短)短里になります。
つまり一日水行二十四(短)里ですね。古代中国文献にある一日五十里から一日二十里の範囲に収まっています。妥当な推定値だと思われますがどうでしょうか。
東夷伝は海洋民族の測量体系に基づき一部短里で換算もされていると思い。私は里ではなく、1000(短)里=緯度30分をつかいますが、30日も30分なので、緯度換算で読んでいます。
邪馬台国当時の日本の人口は300万で、その内9割は東日本に有ったと言われています。
邪馬台国の人口は30万と言われているので、九州・西日本説はあり得ないと思います。
その根拠が知りたい(笑)
ありえない
伊都国が現在の糸島として、水行←これ海をいったのではないとしたら?福岡市西部には上山門、下山門と言う地域があります
同じく最古の王墓、吉武高木遺跡もありますし、個人的には卑弥呼や邪馬台国があったとするならばここら辺だと個人的に考えます
奴国が春日市と言うのもちょっと違うかなと、太宰府と奴国本国は近くに海はありませんし、当時の港は博多、鴻臚館など鴻臚館は福岡城あとにありますし、中央区です
鴻臚館には間道があり太宰府に通じていましたし、奴国本国には繫がっていたとはどこにも残っていません
邪馬台国や卑弥呼は存在せず、陳述が魏帝に頼まれて架空の国や卑弥呼を呉に対して這ったりででっち上げた説もあるのでは?
宮崎県は一致してますが、個人的には宮崎県西都市あたりではないかとかれこれ40年前から思っています 笑
糸島西部には明確に当時の対中交易における重要な港だった痕跡が在る。そしてそこから脊振山地に沿って東南に進んだ先にも当時栄えていた地であった痕跡が在る。
他の事はさておき、国がピンポイントに点として在った訳でもないのに、末廬國だから松浦・伊都國だから糸島と決めつけ、方角も道程の合理性も無視する考え方には納得いかない。
普通に大きな港があった糸島の西側に船を着け、そこから東南に歩いた辺りに伊都國があったと考える方が自然じゃないかな。
【水行十日陸行一月 】とは、
トータルで、と解釈すべきです。
当時、魏では既に天文学は正確に計算されていました。方向音痴はあり得ません。
当時の海辺は現在とは違います。
邪馬台国。あの時代は建物も簡素なものです。まさか台風の通り道には作らないでしょうね。なら答えは一つです。
壱岐から松浦まで30kmですよ。千里70kmありません。また、松浦から南東に糸島はありません。松浦から北東20kmですよ。壱岐からの距離と方向が違います。記事通りなら行橋が不祢国になり、阿波の神山は帯方郡から南東方向12000里の930kmで比定地になります。ヤマトは阿波の倭大国魂神社があり倭です。奈良県はオオヤマトで大和です。阿波は倭と出雲があります。奈良県は阿波から遷都された地でヤマトからオオヤマトになった所です。
阿波説のご紹介、ありがとうございます!
ご指摘の件、国を点で見るのでなく範囲で見る等、諸々理由・意図はありますが、また改めてコメントいたします!
th-cam.com/video/yl-W6ZHt0Cs/w-d-xo.htmlsi=9qfIUPWVCA74qoX_
進撃の歴史旅見て下さい。阿波は揃ってます。史跡や伝承や地名全て揃ってます。
@@seiji5431阿波に七万戸もの国なんてとても無理な話、それに魏志倭人伝にも隋書倭国伝にもうず潮の記述もありませんからね。
一番の土地の特徴の記述がないですから阿波は無関係ですね。邪馬台国とは元々畿内地方にある国で何の問題もありません。
ヤマトは山人だと考えています。
行程だけ見てもダメですね、奴国二万戸もありますから、これだけで北部九州が埋まる規模なんですよ。
魏志倭人伝だけではなく同時代の魏志韓伝を見れば判る話です。
方角もこの時点で済州島の位置を90度間違えていますから、方角なんて間違える訳がない、という主張も既に通用しないのですよ。
不弥国が海に面した港湾都市だとの魏志倭人伝の記述は何処でしょう?
普通に考えれば、
御笠川と宝満川との連絡拠点である不弥国から、宝満川を南に水行すれば良いだけでしょう。
そしてそこには築年、西暦240年±の
太宰府羅城があります。
魏志倭人伝の行程は不弥国まで里数です。
詰まり、不弥国の勢力圏か、その近辺まで、魏の使者が来たのでしょう。
太宰府羅城の壁を、
版筑で建造する為に。
邪馬壹国は、越前説もあります。
へえぇ~
壱岐島の南北距離は約17km。魏志倭人伝の一大国方可三百里から千里を求めると17km÷0.3=56.6…km
これは一寸千里法から得られる千里76.7kwより、緯度差30分が55.5…kmである体系から換算する方に近い。
そこで30海里(30×1.852km=55.5km)を千里とする体系を考える。海洋民族の倭人ならあり得る。そうすると、「夷人(倭人)は里を知らず日をもってこれを計る」と隋書で判明したことから、測量体系は30海里=三十日と解釈してもいいでしょう。
水行二十日や水行十日は時間の単位をなかだちにせず直接に空間の変位を表現しているのです。日、月の視直径は約30分です。その大きさを三十日と言ってもおかしくないと思います。この測量体系で考えると邪馬台国の緯度は32.5度あたりになります。日向市日知屋の大御(おおみ)神社は北緯32°24'39"です。
茨城、千葉北部説もあります。
@@クーちゃん-m8r それは邪馬台国とは別種です、お勉強しましょうね
邪馬台国で辰砂が採れたとされていますが、そこを考慮すると阿波説になるのでは?
辰砂は阿波以外にも普通に出てる。
そもそも奈良県に鉱脈が縄文期が採れるような場所で出てると、山口大学の資料にもなってる。
辰砂だけではそれくらい不安定なもの。
その通りですね。阿波説以外を支持する人たちは徳島の若杉山遺跡を故意に過小評価したがりますが、
もし自分達が支持する説の比定地に徳島の若杉山遺跡のような大規模な水銀朱遺跡が発見されようものなら、それまで 水銀朱なんて大した証拠にならない!
なんて言ってた人達が一転して これぞ邪馬台国であった証拠だ! と狂喜して触れ回るでしょうね😂
彼らは水銀朱など何処にでもある! なんて言ってますが具体的な採掘場所を尋ねた時は何一つ答えらえなくなります🤣
まあ、それだけ彼らにとって阿波の若杉山遺跡は厄介で無視したい存在だという事なんでしょう。
阿波説では、すぐ、辰砂で決定!
とするが、、、
大村湾と、その近辺の虚空蔵山や、そこを水源とする丹生川なりで、
真珠・辰砂・翡翠そして北部九州にほぼ限定される絹もすべて用意できるが?
そしたら、肥前説に趣旨替えするのかな?
まあ、しないと思うけど、
最初から阿波ありきだからね
そもそも邪馬台国に辰砂が採れるとは書かれてないからね。倭の産物ですよ。しかも丹生の神社が古くから集中するのは紀伊半島だよ。
@@トミヤマサキオ
何説押しなのかは知らないが、もし自分が信望している説のご当地に徳島の若杉山遺跡のような大規模水銀朱採掘遺跡が見つかれば
打って変わって邪馬台国がそこにあった証拠だと言い出すんだろう😂
記紀と三国志では時代が違い過ぎる。現代と戦国時代くらいの差がある。対馬からが違っていて、カン海に出てから南。長里でいくと、出雲がある。江戸時代から議論してきて、結局、分からない無限ループに陥る。
郡の東南にある。なら常陸国が邪馬台国。日高見国ではない。日高見国はヤマト政権からの呼び名。ヤマト政権が狗奴国。
倭面土国は鹿児島。極南界だから。極南界を認識する為には日本列島をある程度分かっていないと言えない。
九州は勢力範囲が狭すぎるし、郡の南だから。
ヒミコって読み方は現代日本語。
邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで地名を中国語発音で読めば、宇佐を中心とする大分になりますが?
理由は下記です。
道案内の基本は、距離と方角を言い、そのあと、そこまでの行程でかかる時間を言います。
よって不彌國到着で終わりであり、何日かかるは帯方郡からの行程です。
また、魏志は中国の書物であり、国名を日本語漢字読みではなく中国語発音で読むはずです。
末盧國をマツラなどと絶対読みません。ムリュに近い音になります。
詳細を記述したホームページは「5チャンネル 大分に邪馬台国があったらしいけど」の7番に乗せてあります。
ももそ姫でええんやでw
四国説は妄想説。幸せですね。
壱岐に3万人住んでるとこから疑問に持とうよ。あと短里自体がこじ付け何だけど…?
邪馬台国は沖縄県です
悪い事は言わんから阿波説にしときなさい。
@@elelsse 阿波説は100%ありえないですよ。戸数と鬼道の説明で邪馬台国の条件には合致しませんから。
@@トミヤマサキオ
阿波説が100%ありえないなら他説は300%ありえませんよ😄
ちなみにそちらはどの説の方?
@@elelsse 私は畿内説ですよ、というより邪馬台国の位置論なら既に畿内周辺しか可能性はないです。
特に〇〇遺跡こそ邪馬台国だ、という説は纏向遺跡を含めて全て否定してます。魏志東夷伝での7万戸の意味判ってますか?馬韓国の広さで10万戸ですからね。これは正直紀伊半島全てでも足りません、阿波なんて話にならないレベルです。
@@トミヤマサキオ
まあお互いがんばりましょう。
@@トミヤマサキオ
学者のいう数値なんてコロコロ変わりますからね。
そういう物よりは人為的な改竄の効かない地理条件や辰砂などの倭人伝に記載された天然資源の有無を重要視してます。
まあ、お互い頑張りましょう。