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とても面白かったです!
卑弥弓呼ね。笑13:00初めて聞いたわ。😀😀
投馬国は北九州から南水行20日で、戸数は邪馬台国の7万戸に次ぎ5万戸とあります。人口規模から邪馬台国は筑紫平野あたりにあり、投馬国は宮崎のあたりが昔は古墳が多く人口も多かったようですから、投馬国はつま国と読み宮崎の西都市妻地区ではないでしょうか。邪馬台国は北九州から水行なら10日で陸行なら1月とありますから有明海沿いの筑後山門郡ではないでしょうか。
仮に畿内の人ならヤマト王権がもっと大々的に歴史書に記すはずそれがないという時点で畿内はかなりきつい一応歴史書では卑弥呼と捉えられる人物もいるが、つまりは卑弥呼も先祖の一部ですよと解釈可能な表現にすることで日の本を天皇家が最初からおさめていたとするため
『新唐書 日本伝』(1060年)では「日本、古倭奴也」(「日本は、かつては倭の者どもだった」)とあります。阿蘇山の噴火のことなどの表記でも類推できるように、「倭(国)」は九州にありました。つまり邪馬台国の元は九州で起こりました。(「国」を使っていないので、国家としての形態をなしていなかったかもしれませんし、倭国の一部の人々だったかもしれません)その倭が東方に移動して、畿内に住居を構え、改名したのが日本でしょう。倭国の人は入墨をしていたので、漁業関係者である。すると倭国の巫女 卑弥呼は漁業関係者のために、朝、日が昇る時に神の声を聞き人々に伝えた。朝の太陽の光でライトアップされた彼女は神々しく輝いて見えたでしょう。特に漁業では朝の天候で漁の出来不出来が決まり、波の状態が死に直結するので、これが重要な毎日の儀式だったと考えられる。日が昇る時の太陽は、周りが赤くなり、太陽は金色に光っている。これが平家の日の丸に採用されたと思われる。この太陽を崇拝する風習は、簡略化されていまでも、初日の出、御来光として残っている。
日本では卑弥呼は占いもしていたんじゃなかったかしら?下記引用「西洋占星術は歴史が古く、紀元前2.200年頃のメソポタミアにはすでに簡易的な星占いをしていたと┅」貿易のための占いだとしたら、中国との関わりも深い気がします。ですが妹を助けるために色々していたとも聞いた事も有りますが、どちらにしても卑弥呼の存在は謎に包まれていますね。
邪馬台国の東ではなく、女王国の東で、女王国は糸島にあると倭人伝に書いてあります。奈良平野はもっと後の話です。倭国の東征ではなく、倭国の逃避だと思います。つまり狗奴国から追い出されたと思います。また簡単に近畿を征服したのではなく、日本書紀の記述から推察すると相当長い戦いがあり、おそらく10年くらいかかっているはずです。
卑弥呼は個人名というより各地ごとにいた役職名だと言う説がしっくりくるかな
BGMとのバランス、考慮してください。
茨城県説も面白いよ。伊勢神宮より古い神宮があるのは何故か?文字がないわけがない。日高見国な。
卑弥呼や邪馬台国に金印を与える不思議.
邪馬台国が九州であるという主張には、実は何の考古学的証拠も文献的根拠もないと思います。ある有名な教授は発掘物が多いから邪馬台国は九州という主張ですが、発掘物が多いのはそれが古くからある倭国だからであって、倭人伝には明らかに倭国と邪馬台国は別扱いしてあります。また卑弥呼の女王国は伊都国にあると倭人伝にあり、朝倉などであるはずがありません。しかしどういうわけか多くが影響を受け、もはやムチャクチャです。
金印くれた中国の帝王から邪馬台国の場所の大学先生たち集まり検討していますが、九州から外れると大論議に沸騰した。だから日本に当てはまらないなど説がいろいろ関東だ、とか徳島県とか大坂とか仁徳天皇古墳が、卑弥呼の墓としている先生もいる。
偉い先生方が根拠のないことを言いすぎるんですね。ある大物教授は、発掘物が多いから邪馬台国は九州である、卑弥呼の居住地は朝倉であるなどムチャクチャですが、大量のウンチクが提示され、多くがこれに影響を受けています。
@@岡田ヒロキ-t5p そうなんです、論議や自分の研究を大学を背負ってウンチクが段々膨張して仮説で、議論が加熱して番組の時間目一杯使って確信のないまま終わって,謎の問題は次回など仮説の世界の自分が思う事の仮説大会です
いろいろ見てきましたが、こちらは「至って普通」「一般的」でした。
これ、自主映画なのかなあ? 配給決まっていたら、もっと有名映画会社で宣伝流しますよね。宣伝、きついなあ・・・。登録者500人って辛いですね。設定がありきたりで、泣く・・・。
専門家ですら議論してるのに適当な意見言ってる人達が多くてwww
今川焼きの呼び名レベルで、論争が起きそうな話。
卑弥呼は日髙見国の高天原にいました
魔法少女 卑弥呼
卑弥呼は日暦、邪馬台国は大和国。冬至の日の出の場所が、日立。
十二月八日でした。
火🔥の巫女です
「少女H」
知る事の出来ない歴史などありません。空白の150年と言うが古代を治めていた村、村に豪族が暮らし治められていた。それぞれに富士王朝や出雲側にも国があったし仙台あたりまでと新潟、石川、富山にもあった。全然空白じゃないし農耕技術の開発や開拓もしている
記紀にはって言ってたけど??って?記紀には卑弥呼出てこない💦それで何を伝えたいの?
そもそも「邪馬台国連合」なるものがあったという証拠はありませんよ。また、卑弥呼は倭の女王であって、邪馬台国の女王であったとはどこにも書いてありません。さらに倭人伝に関する限り、卑弥呼は西暦250年より前の人間で、その数百年後の宗像など何の関係もありません。もう一度倭人伝を読んでください。
「空白の歴史浪漫ファンタジー」って概要欄に書いてありますよ。
魏志には邪馬台国の東の海の向こうに別種の倭人の国々があったと、奈良平野の遺跡の東に海がありますか?東は鈴鹿山地では。邪馬台国の南に戦争した狗奴国があったと、奈良平野の南は吉野熊野の険しい山間地しかない。卑弥呼の墓は円墳と書いてあるのに奈良平野の箸墓古墳は前方後円墳では?朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで12000里と書いてあるのに福岡の奴国まですでに10000里、あと2000里なら間違いなく北部九州では?とても畿内まで行けないはず。邪馬台国連合は北部九州の筑後川流域から宇佐地方辺りでは。その中心は朝倉川添遺跡~久留米高良山の祇園山遺跡。戦争した南の狗奴国は熊本の菊池川流域でその中心は山鹿の方保田東原遺跡辺りでは。奈良平野の遺跡群は同時期に存在した銅鐸文化の牧歌的な倭人の国々で、鉄文化中心の邪馬台国連合とは明らかに違う。ゆえに後年九州勢力が東征し簡単に征服できヤマト王権を造った。間違いない。
@@taka3399-n6nもう少し、魏志倭人伝の内容を読んて慎重に解釈した方が良いですね。邪馬台国だけが強国と勘違いしてる内容に見えます。
で?
卑弥呼は倭国の女王と倭人伝に書いてあり、その女王国は福岡の糸島にあると書いてあります。いっぽう邪馬台国は倭国から海を合計30日ほど行ったところにあり、そこを都としたのは卑弥呼ではなく、おそらくトヨです。おそらく大前提が間違っています。
もっと詳しく教えてほしい。
糸島は伊都国ではありません。邪馬台国時代~300年代仲哀天皇が糸島に訪れた頃までは糸島を伊蘇国と言われてました。伊都国はいと国ではなくていつ国と呼び、京都郡みやこ町が伊都(いつ)国で日本書記の天孫降臨の所に記載があります。畿内は奈良が大倭国(オオヤマト)で後の大和国のヤマト政権です。ヤマトは阿倭で後の阿波国で倭の冠神社は日本で阿波に2座(倭大国魂神社、倭大国敷神社)しかありません。また、2座とも延喜式式内社でこの近くには倭京跡が史跡で残ってます。阿波の鳴門には淡海大津宮跡もあります。糸島はわだつみ氏の勢力範囲ですし。唐津や松浦は磐井氏の勢力範囲です。
このころ天皇制はありません。仲哀天皇も実在ではなく、そもそも記紀自他が史実性は極めて低く歴史論議のベースにはなりません。神がおりてきて国を作ったなど大和朝廷のきれいごとですが、ただし、このころ九州倭国は狗奴国に追い出されかけていたころなので混乱した歴史を残したでしょうね。
ちょっとした文献を見つけて、それが真実だと思いこむことはよくあることです。日本書紀は8世紀ですよ、大丈夫ですか?
女王国はみやこ町にある伊都(いつ)国で宗像三女神です。胸肩氏と宗像三女神がヒナモリで対馬、壱岐、宗像、みやこ町(行橋)、中津、豊前が勢力範囲ですよ。
ファンタジー!卑弥呼など存在してない!
とても面白かったです!
卑弥弓呼ね。笑
13:00初めて聞いたわ。😀😀
投馬国は北九州から南水行20日で、戸数は邪馬台国の7万戸に次ぎ5万戸とあります。人口規模から邪馬台国は筑紫平野あたりにあり、投馬国は宮崎のあたりが昔は古墳が多く人口も多かったようですから、投馬国はつま国と読み宮崎の西都市妻地区ではないでしょうか。邪馬台国は北九州から水行なら10日で陸行なら1月とありますから有明海沿いの筑後山門郡ではないでしょうか。
仮に畿内の人ならヤマト王権がもっと大々的に歴史書に記すはず
それがないという時点で畿内はかなりきつい
一応歴史書では卑弥呼と捉えられる人物もいるが、つまりは卑弥呼も先祖の一部ですよと解釈可能な表現にすることで日の本を天皇家が最初からおさめていたとするため
『新唐書 日本伝』(1060年)では「日本、古倭奴也」(「日本は、かつては倭の者どもだった」)とあります。阿蘇山の噴火のことなどの表記でも類推できるように、「倭(国)」は九州にありました。つまり邪馬台国の元は九州で起こりました。(「国」を使っていないので、国家としての形態をなしていなかったかもしれませんし、倭国の一部の人々だったかもしれません)
その倭が東方に移動して、畿内に住居を構え、改名したのが日本でしょう。
倭国の人は入墨をしていたので、漁業関係者である。すると倭国の巫女 卑弥呼は漁業関係者のために、朝、日が昇る時に神の声を聞き人々に伝えた。朝の太陽の光でライトアップされた彼女は神々しく輝いて見えたでしょう。特に漁業では朝の天候で漁の出来不出来が決まり、波の状態が死に直結するので、これが重要な毎日の儀式だったと考えられる。
日が昇る時の太陽は、周りが赤くなり、太陽は金色に光っている。これが平家の日の丸に採用されたと思われる。この太陽を崇拝する風習は、簡略化されていまでも、初日の出、御来光として残っている。
日本では卑弥呼は占いもしていたんじゃなかったかしら?
下記引用
「西洋占星術は歴史が古く、紀元前2.200年頃のメソポタミアにはすでに簡易的な星占いをしていたと┅」
貿易のための占いだとしたら、中国との関わりも深い気がします。
ですが妹を助けるために色々していたとも聞いた事も有りますが、どちらにしても卑弥呼の存在は謎に包まれていますね。
邪馬台国の東ではなく、女王国の東で、女王国は糸島にあると倭人伝に書いてあります。奈良平野はもっと後の話です。倭国の東征ではなく、倭国の逃避だと思います。つまり狗奴国から追い出されたと思います。また簡単に近畿を征服したのではなく、日本書紀の記述から推察すると相当長い戦いがあり、おそらく10年くらいかかっているはずです。
卑弥呼は個人名というより各地ごとにいた役職名だと言う説がしっくりくるかな
BGMとのバランス、考慮してください。
茨城県説も面白いよ。伊勢神宮より古い神宮があるのは何故か?文字がないわけがない。日高見国な。
卑弥呼や邪馬台国に金印を与える不思議.
邪馬台国が九州であるという主張には、実は何の考古学的証拠も文献的根拠もないと思います。ある有名な教授は発掘物が多いから邪馬台国は九州という主張ですが、発掘物が多いのはそれが古くからある倭国だからであって、倭人伝には明らかに倭国と邪馬台国は別扱いしてあります。また卑弥呼の女王国は伊都国にあると倭人伝にあり、朝倉などであるはずがありません。しかしどういうわけか多くが影響を受け、もはやムチャクチャです。
金印くれた中国の帝王から邪馬台国の場所の大学先生たち集まり検討していますが、九州から外れると大論議に沸騰した。だから日本に当てはまらないなど説がいろいろ関東だ、とか徳島県とか大坂とか仁徳天皇古墳が、卑弥呼の墓としている先生もいる。
偉い先生方が根拠のないことを言いすぎるんですね。ある大物教授は、発掘物が多いから邪馬台国は九州である、卑弥呼の居住地は朝倉であるなどムチャクチャですが、大量のウンチクが提示され、多くがこれに影響を受けています。
@@岡田ヒロキ-t5p
そうなんです、論議や自分の研究を大学を背負ってウンチクが段々膨張して仮説で、議論が加熱して番組の時間目一杯使って確信のないまま終わって,謎の問題は次回など仮説の世界の自分が思う事の仮説大会です
いろいろ見てきましたが、こちらは「至って普通」「一般的」でした。
これ、自主映画なのかなあ? 配給決まっていたら、もっと有名映画会社で宣伝流しますよね。宣伝、きついなあ・・・。登録者500人って辛いですね。設定がありきたりで、泣く・・・。
専門家ですら議論してるのに適当な意見言ってる人達が多くてwww
今川焼きの呼び名レベルで、論争が起きそうな話。
卑弥呼は日髙見国の高天原にいました
魔法少女 卑弥呼
卑弥呼は日暦、邪馬台国は大和国。冬至の日の出の場所が、日立。
十二月八日でした。
火🔥の巫女です
「少女H」
知る事の出来ない歴史などありません。空白の150年と言うが古代を治めていた村、村に豪族が暮らし治められていた。それぞれに富士王朝や出雲側にも国があったし仙台あたりまでと新潟、石川、富山にもあった。全然空白じゃないし農耕技術の開発や開拓もしている
記紀にはって言ってたけど??って?
記紀には卑弥呼出てこない💦
それで何を伝えたいの?
そもそも「邪馬台国連合」なるものがあったという証拠はありませんよ。また、卑弥呼は倭の女王であって、邪馬台国の女王であったとはどこにも書いてありません。さらに倭人伝に関する限り、卑弥呼は西暦250年より前の人間で、その数百年後の宗像など何の関係もありません。もう一度倭人伝を読んでください。
「空白の歴史浪漫ファンタジー」って概要欄に書いてありますよ。
魏志には邪馬台国の東の海の向こうに別種の倭人の国々があったと、奈良平野の遺跡の東に海がありますか?東は鈴鹿山地では。邪馬台国の南に戦争した狗奴国があったと、奈良平野の南は吉野熊野の険しい山間地しかない。卑弥呼の墓は円墳と書いてあるのに奈良平野の箸墓古墳は前方後円墳では?朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで12000里と書いてあるのに福岡の奴国まですでに10000里、あと2000里なら間違いなく北部九州では?とても畿内まで行けないはず。邪馬台国連合は北部九州の筑後川流域から宇佐地方辺りでは。その中心は朝倉川添遺跡~久留米高良山の祇園山遺跡。戦争した南の狗奴国は熊本の菊池川流域でその中心は山鹿の方保田東原遺跡辺りでは。奈良平野の遺跡群は同時期に存在した銅鐸文化の牧歌的な倭人の国々で、鉄文化中心の邪馬台国連合とは明らかに違う。ゆえに後年九州勢力が東征し簡単に征服できヤマト王権を造った。間違いない。
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邪馬台国だけが強国と勘違いしてる内容に見えます。
で?
卑弥呼は倭国の女王と倭人伝に書いてあり、その女王国は福岡の糸島にあると書いてあります。いっぽう邪馬台国は倭国から海を合計30日ほど行ったところにあり、そこを都としたのは卑弥呼ではなく、おそらくトヨです。おそらく大前提が間違っています。
もっと詳しく教えてほしい。
糸島は伊都国ではありません。邪馬台国時代~300年代仲哀天皇が糸島に訪れた頃までは糸島を伊蘇国と言われてました。伊都国はいと国ではなくていつ国と呼び、京都郡みやこ町が伊都(いつ)国で日本書記の天孫降臨の所に記載があります。畿内は奈良が大倭国(オオヤマト)で後の大和国のヤマト政権です。ヤマトは阿倭で後の阿波国で倭の冠神社は日本で阿波に2座(倭大国魂神社、倭大国敷神社)しかありません。また、2座とも延喜式式内社でこの近くには倭京跡が史跡で残ってます。阿波の鳴門には淡海大津宮跡もあります。糸島はわだつみ氏の勢力範囲ですし。唐津や松浦は磐井氏の勢力範囲です。
このころ天皇制はありません。仲哀天皇も実在ではなく、そもそも記紀自他が史実性は極めて低く歴史論議のベースにはなりません。神がおりてきて国を作ったなど大和朝廷のきれいごとですが、ただし、このころ九州倭国は狗奴国に追い出されかけていたころなので混乱した歴史を残したでしょうね。
ちょっとした文献を見つけて、それが真実だと思いこむことはよくあることです。日本書紀は8世紀ですよ、大丈夫ですか?
女王国はみやこ町にある伊都(いつ)国で宗像三女神です。胸肩氏と宗像三女神がヒナモリで対馬、壱岐、宗像、みやこ町(行橋)、中津、豊前が勢力範囲ですよ。
ファンタジー!卑弥呼など存在してない!