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今回のテーマの中でも遺言部分は気になっていましたが自分も同意です。劉家の者が継いでこその季漢、加えて禅譲を受けた曹丕との比較も意味深に思えます。また自らを自らを管仲・楽毅に比していた諸葛亮からしたら簒奪など、露にも思ってないだけに涙するのも無理ないですね。
法正と黄権がいなくなったのが色々な意味で痛いよね
法正&魏延で北伐、成都で政務を総覧するは諸葛亮。戦略政略に幅がでますね。
本当にいがみ合ってたら国力削ってまで5回も北伐せんと思う
自身の寿命までも削って😭
国是としてるからやらなかったら謀反の疑いかけられる恐れもあったんやで
仮に諸葛亮が劉備の死後に権力を手に入れたかったのだとしても、メリットがあまりにも薄すぎるのよな。荊州失って斜陽の蜀漢に何らかの欲を満たすような魅力があるようにも思えんし。少なくとも「曹魏に対抗する」という信念がお互いに一致していた以上、政治的機械的な繋がりだけでは説明できないかな。
いや、遠征は孔明の名誉心やから
思うに、北伐はそれ自体が内政の一部だったんじゃなかろうか。魏を打ち倒すのは蜀の国の存在意義なので、魏を倒すための活動を何かしらしてないと、国民は「俺達、魏をやっつけるために納税や徴兵に耐えてるのに、なんで何もしないの?」と文句を言われかねない。
『君、自ずから執るべし』は疑念ではなく、『劉禅にその才が無ければ、皇帝親政ではなく君が政権運営しなさい』程度の意味だという説もありますな。劉氏の皇帝としては、その血脈と祭祀を維持してほしいわけですから。
そういえば三國無双の魏シナリオで、曹操や曹丕が司馬懿に後事を託すシーンがあって似た様な事を言っていたが、史実としてあったのなら、常套句って説は結構あり得るかもしれない。まぁ後の司馬炎が本当に簒奪したわけだけど。
劉備と諸葛亮の関係性の話といえば他にも馬謖に対する評価の違いもありますね。よくこの件で劉備の方が人を見る目があるなどど言われますが、自分は単に評価するポイントが違うだけだと考えています。現代の就職試験に例えると劉備が「面接とサークルやボランティア活動の実績」、諸葛亮が「小論文と筆記試験」を重視していたという感じです。諸葛亮は馬謖の明晰な頭脳を評価し劉備は言動に行動が伴っていないのを危惧した。そして第一次北伐で劉備が危惧した通りの結果になってしまった。恐らく劉備は馬謖に足りないのは経験ではなく「責任感と胆力」だと見抜いていたのでしょう。
その辺りも確か他の動画でも触れていますが、あくまで劉備は「軍人としての目線」で、諸葛亮は「官僚としての目線」で評価してるって感じがするんですよね。僕の意見ですが。劉備の言うように、確かに馬謖は「実践経験不足」であり、経験不足というのは将として致命的な欠点です。一部例外なんかもいますが。対して諸葛亮は馬謖の才能を評価した。馬謖の参謀としての才覚は群を抜いており、現に南蛮平定は馬謖の献策によるところが大きかったとされています。責任感と胆力については、まぁ、これも経験さえ積めば自信と共についてくるものですし。どちらも間違っていないんです。評価するポイントが違っただけで。みたいな('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA主にいっぱいレスしてもらってて嫉妬する🙂
テンプレ遺言は妙に納得した
いつも台北で楽しく拝見させて頂きました!改めて曹操はいつも色んな有能な人材を起用して次いでに傍に置く事は極めに珍しい人君主です!!とは言え,こんな心広い曹操までも天下を完全制覇できない事は,孫権と劉備は優秀なリーダー,そして漢王朝のシステムのお蔭でどこでも人材だらけが分かって来ました!
近年は兎角言われるけれどある程度の信頼は寄せられてたというところで
オタクとして深い深い信頼関係があってほしいと願うところ
@@KOUMEI_NO_WANADA 対立はあっても信頼はあったみたいなことならなぁって思っちゃいますね
孔明と水魚の交わりだったのは劉禅の方だったと思う
わかる
(禅譲という名の)簒奪をしなかった、この一点だけでもハイパーレアキャラ。
孔明は荊州では大きな閨閥の縁続きにある名士ですよね。名士を抱え込まないと有能の士は集まりませんし劉備が孔明に礼を尽くして招いたのもそんなにおかしくないかと仕事ぶりを見ても謹厳実直クソ真面目って感じです劉備はぶっちゃけ、魏延や法正みたいなタイプの方が気が合ったかもしれないですねそれがそれとして孔明の才能は高く評価してたと思いますけど
群雄レベルの人物に限定しても、公孫讃・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉碕と、多少なりとも難ある人物と付き合っているから、そういう才能のある人だったのだろう
はじめまして時々拝見しております。若いころは、三顧の礼というのは、単純に劉備が諸葛亮に対して礼を尽くして迎えた美談のように思っていましたが、年齢を重ねるにつれて謎に感じ始めました。後から考えれば、諸葛亮という有能な官僚・政治家を得たことは、劉備にとって大きなメリットがありましたから、三顧の礼を取ってでも得る必要があるという話は説得力があります。ただ、三顧の礼の時点で、劉備が後の諸葛亮の活躍を予測できていたならば、それ以前に同じような有能な官僚を得て基盤を築けたはずではないか?という疑問が生まれてきます。そう考えれば、実は三顧の礼のようなことを劉備は繰り返して失敗していたか(うまくいかなかった)?あるいは、諸葛亮が、これまでの人材と違ったずば抜けたものを持っていたか?このどちらもが、はっきりとは歴史に残っていないように思いますが、いかがお考えでしょうか?それと、私はそれなりの年齢(当時の劉備よりかなり上)ですが、三国時代当時の寿命から考えると感覚的には同じくらいと思います。ただ、20歳若い人をわざわざ三顧の礼を取ってまで迎えようとは思いません。そういう意味では、三顧の礼は、今の人が考える以上の重さがあったような気がします。ところで、以前から気になっていたのですが、使われている音楽は「魔王魂」と概要欄に書かれておりますが、具体的には、なんという名前の音楽でしょうか?差し支えなかったら教えてください。長文失礼いたしました。
動画内でも触れましたが、劉備軍団は社会的階級の低い者達の集まり、いわば反社会的な気風を持つ集団だと推察されます。そして有能な官僚になり得る素質のある人間は、社交的かつ高学歴という階級の高い人々です。陳羣などがその代表例ですが、一度は劉備政権に加わっても、劉備は共に命をかけてきた仲間を重んじ、陳羣のような官僚を仲間以上に重んじることはなかったので、最終的に劉備が流浪の身となった際、彼らは劉備と行動を共にしませんでした。その失敗の繰り返しを踏まえての改善策が「三顧の礼」なのかなと。また劉備はこの時点では諸葛亮の能力などを図ることができたわけではありません。劉備が期待したのは恐らく「隗より始めよ」の故事のように、諸葛亮を皮切りに有能な官僚を得ていくことでしょう。人の能力をひと目で見ることなんで出来ませんしね🌵BGMは確か「お城のBGM」とかだったと思います。
@@KOUMEI_NO_WANADA 様丁寧なお返事ありがとうございました。劉備にしてみれば、これまでの失敗を踏まえて、方針転換したところ、大ヒットしたというところでしょうか?(*^_^*)そう考えてみれば、赤壁の勝利が荊州の人材確保に大きな影響を与えたと言えるでしょうか。また、BGMについても教えていただき感謝申し上げます。
『隗より始めよ』『死馬の骨を買う』って知っていますか?例え若く無名な人物であれ、優秀であるのなら礼を尽くして迎え入れるという実績が、優秀な人材が集まってくるきっかけになるかもしれないんです( ̄▽ ̄;)部外者を嫌う集団の中で孔明の立場を作ってやる為って、そんな集団の中で三顧の礼で迎え入れられた人物は孤立しますが(´∀`; )
孔明の加入が荊州の人材確保に繋がったとありますが、具体的な内容を教えていただいてもよろしいですか?孔明の仲のいい学友3人は魏に加入してますし、馬良や蒋琬などが孔明加入の影響で傘下に加わったというような記述もないので、誰がどのような影響を受けたのか知りたいです!
劉巴の件に関して、劉備が劉巴を嫌っていたとする根拠はなんですか?自分が知る限り、劉備は劉巴を高評価・配下に加えたがっていた気がするのですが?
荊州派と益州派の力関係を力説してますが、蜀の人材は文官だけですか?荊州派有利とされてますが、蜀は荊州を失ってますよ?荊州派にとっては故郷を失い、荊州の人材を確保するのが困難になっているので、人によっては『荊州奪還は荊州派の立場を守る為に必要ではあった』と考えている人もいますが?
劉備のカリスマによって成り立っている集団において、その劉備が丁重に迎え入れた人材を、その配下達が無下に扱うことは難しいでしょう。諸葛亮はその劉備の後ろ盾でもって人材を集め、自身の政治的立場を確立していきました。
今まで徐庶以外の主だった荊州人士を獲得できていなかった劉備政権が、諸葛亮加入後、一気に人材獲得に成功しています。当時の人材登用は縁故や地縁によるものが主流であったため、これらの経緯を踏まえ、諸葛亮がきっかけを作ったと考えられます。
「三顧の礼」には「隗より始めよ」的な要素があったってことかーなるほどなーって思いました。
概ね納得できました。ただ遺言に関しては、死に際にそんな弄策をする心境になるか?という疑問はあります。こればかりは経験もなく答えは出ませんが、自分は死に際しては何事にも真摯でありたいと考えます。
ですね。自分もどちらかと言うとその考えです
いつも楽しく拝見しています^ ^個人的には、蒼天航路みたいな「え?君たちホントに仲良いの?」って関係が、一番しっくりきています笑
劉備が「饅頭のタレになれ」とかいって孔明が「そこは水魚の交わり」ってツッコむ掛け合いしてるくらいがよかったね
正史劉備は演義劉備と違ってヤンキー兄ちゃんのイメージがありますから、孔明さんとの関係性は謎ですね。
後漢の復興という大義名分に関して諸葛亮は劉備とイデオロギーを同じくしていたのは間違いないと思う。蜀の守りを固めてぬくぬく余生を過ごすこともできたのに5回に渡る北伐で自ら兵を率いたのがその証左
遺言の件は諸葛亮の場合、李厳から「RYOU!そろそろ九錫受けちゃいなYO!」と言われて苦笑いしたって話が残っているのに対し、張昭の場合周りが何か動いた話が残っていないため信憑性が薄い(ってか諸葛亮の話パクったんじゃね?)って話もあるみたいです👀
三顧の礼一つとってもこの動画のように異例とするものもあれば別の投稿者の方の動画のように当時の名士層では一度目は理由をつけ断り二度三度出向かれて「そこまで仰るなら微力ながら…」と謙虚な姿勢を示すのが好まれていたので三顧の礼も当時としてはそれほど珍しくなかったかもしれない、と解説するものもある。様々な情報・解釈を元に自分はどう思うのか何を学ぶのか、動画一つで色々と考えさせられるから歴史は楽しいですね
法正の祖父がそのタイプですね。太守に直接仕官を求められて、そんな事するくらいなら地の果てに行くと言って断り、皇帝からの招聘すらも4度も断って、ついに仕官しなかったみたいな。一応これも美徳とされていますが、明らかに「過度」であることもまた事実。三顧の礼はコレに比べればまだ適当と見るか、あんま変わらんと見るかは、まぁ、受け取り手次第なのでしょうかね🤔
渡邉義浩先生の史観では名士不在の劉備軍ですが一応糜兄弟は商家出身ながらこの段階で公式な二千石様(えらい)を拝命していた事をお伝えします😗
劉備自体は名士って言うのは乱暴ですかね?
商人とか資産家とか豪農とか、地元で凄い実権があったのは分かるけど何だかイメージが自分の中で定まらない麋家
後漢の商人は賤民の括りで一般市民よりも下の扱いなんですよ。そして名士たちは余財を持つ事を嫌う。魯粛が何故に倉を開放したかは其処にあるし、商人の張世平、蘇双、麋竺(元商人)なんかが財産を提供したのもそんな背景があります。
@@matukawatositane 祖父が孝廉推挙ですからまちがいなくタク県劉家は地方中堅公務員の家計であったとは思います劉備の家の独立した家計が(親の早死で物理的に)貧乏であった点と『劉備が賎民であった』という演義の話は混同してはならないと思いますね
@@KOUMEI_NO_WANADA その移り変わりの時期の代表例でしょうか曹操は自身が得た『勅命』を操れる力で当時の『実質的権力者(豪族)』を渡邉義浩先生言うところの『名士』に変換する力を得たわけです(当時周りが認めたかは知らん😑)先週(だつけ?)お話した将軍位もこれ(曹操の献帝擁立)以後またフェイズが変わってきます🙃
個人としては親密でもそれぞれの立場を背負えば対立する事もあるからな・・・。対立が原因で国が二分するなんて事態には陥っていないので、諸葛亮と劉備の間に信頼関係はあったと思う。
戦術的と戦略的の考え方に依ると思うんですよね。夷陵で負けたのも劉備の考え方の裏取りされて戦術的敗北から戦略的に拡げられて取り返しのつかない形になったと。法正は戦術的思考、諸葛は戦略的思考だと思ってます。
この動画見てふと思ったけど、もし法正がそのまま生きていたら劉備没後に諸葛亮と派閥争いになりそう・・・なんて笑
時分もそう考えます。たぶん法正いたら、蜀漢は南中反乱抑えられず瓦解してたかも…
法正、日々蜀の売値考えながら辣腕ふるうのは、動かないところでしょう。「永安托孤」、どう演出して益州人の寝返りを防いだものか?安直なのは謀反を言い立てて、法正を斬ってしまうことですが...
劉備は人を見る目だけはあった。だからこそ生存時はあれだけの人材を登用し、人が集まった。孔明は劉備が登用したその最たる人物の一人。さすがに死に際に孔明の忠誠を疑うことなどしなかったと思う。
孔明は楽毅を尊敬してたから簒奪することは出来ないと分かっていたから、あえてこのようなことを言って、賢君賢臣エピソードを作り上げたのかもね。
そういえば投稿者は三国志で「こいつ俺みたいだな」って思う言動・性格の人物はいますか?
簡雍みたいになりたいとは常々思ってます
@@KOUMEI_NO_WANADA 願望は簡雍なんですね。現状の自分と重なる人物は居ない感じですか?僕は…曹操のように他人に流されず自分の物差しで他者の良い所を見ていきたいなと思ってます。現状は禰衡かなぁ…(´;ω;`)ブワッ
教えて貰ってると言うより、議論を戦わす土壌を提供して貰ってるみたいな感じかな。
仲悪いわけはないと思う(身も蓋もない)しかし、それぞれの志があるのかな
劉備の最後の後のこと託すシーンって簒奪恐れて釘刺したとも言われてるよね。あれでハイ成り代わりますなんて応答は即処断案件。なお、そんな人材の余裕はない模様。
劉備が荊州閥の影響を危惧して益州閥を重用した話は聞いた事ありますね。ただ、そこで荊州閥の影響を弱めるために龐統を・・・なんてきな臭さを感じるのは考え過ぎかな。
アプ主の考察は好きです出師の表……でしょうね 事実なら水魚の交わりに偽りなし出師の表が創作なら……三顧の礼も創作になりますなんせ蜀サイドは美化神格化されてるんで正史すらあやしいレベルなんで……
前出師の表は、流石に孔明のものだと信じたい。後出師の表は、まぁ、ちょっと。
もしも、徐庶辺りが劉備陣営に残り、劉備と共に益州攻略に従軍し、荊州の留守を外交担当が諸葛亮、軍事担当が関羽として、孫呉と協調路線維持で、曹操の死を待って、両者が共同戦線を張り、魏に西と南から侵攻したなら、歴史はかなり変わっていたのではないか?
諸葛亮が高学歴ニートみたいな言い方よくされるけど、アレはどうかと思う。晴耕雨読っていうぐらいだから軽い農業はしてただろうし。公務員にあらずんば人にあらず、というなら話は別だけど。
最期劉備の「孔明酷使の策」説好き❤こんな遺言されたら立場からも個人の気質からも実力プライドからも孔明の答え方はもう1つしかない。こんなこと言われたら滅私奉公するしかない…🎉
ぶっちゃけ劉関よりは仲は良かったと思う。水魚の不一致場面は立場の違いからだし
信頼関係が良好なんて人それぞれの基準みたいなもんだと思いますね。蕭何と曹参、管仲と鮑叔、陳平と魏無知、劉邦と張良。当時にならないと分からない事だと思うけど、私は関係性は良好であったと信じたいね。じゃないと、内政も軍事も体制がボロボロとなった蜀を引き受けたくないもんなぁ~~。
渡邉先生の「孔明は劉備と関羽·張飛の関係性に強く惹かれていた」けど結局は出自の違いから、完全には信用されていなかった。それがあの土壇場で出た··という説が切なくて好きです。
劉備って、人を見る目あるんだろうか…最も信頼していたであろう人を荊州において、重要な場面でああなってしまったからなあ…
天智天皇と天武天皇の間にも似たようなやり取りがあった記憶
個人的に「根本的なエンペラーというものの価値とは続いているというその結果の事」と考えているのですが、その観点から考えると2人の行動原理が「漢を劉の姓で継続させるべきだ」である以上は、見た目通りの事以外には無いんじゃないのかなぁ~なんて思っちゃいますね。当然、人間の集まりである以上は色んな事が有るのは当然な訳で綺麗毎、都合の良い事ばかりなんて考えもしませんよ。…でも涿郡から蜀に劉表と劉章を辿って蜀漢を組み立てただなんて何と出来過ぎた…あれ…劉備と諸葛亮って類稀な高祖マニアだった。みたいな話だったりするんでしょうかね?ウーン…1度2人の講演を聞いてみたいなぁ。TH-camやってくれないかなぁ。…冗談ですよう。
省略されていましたが、諸葛亮の才能は曹丕の十倍あると評価されています死期が近いとはいえど、そんな事が言えるのはやはり諸葛亮を評価して後任を任せているのでしょう。そうでなければ李厳に権限を渡していることに今、気付いたのですが、登録者四万人突破おめでとうございます
性格も価値観も違うから多少の軋轢はあっただろうし、関羽や張飛ほど全幅レベルの信頼はしていないかもしれないですね〜とは言えお互い必要な存在であると思っていたのは間違いないかと。
それなら魏陣営でも、曹丕、曹叡が崩御する前に、遺言で司馬懿に対して、「息子(曹叡、曹芳)に国を治める器量があれば助けてほしい。しかしその器量がなければ、あなた(司馬懿)がこの国を継いでほしい」と言ったら、司馬懿はクーデターを起こさなかったんですかねえ?😂穿った考え方ですけど…😅 しかしこの二人に似た関係性として、曹操&郭嘉も考えられますよね。自分はこの二人も、劉備&諸葛亮にも劣らないぐらいの「水魚の交わり」だったような気がしますね。😮
自分は、劉備が法正を愛したように、曹操も郭嘉を愛した、みたいなイメージですね
誰よりも信頼していたが、人柄的には合わなかった感じなんじゃないかと…遺言に関しては、劉備の人柄的に裏はない気がするんですよね。魏をほっぽって、夷陵行っちゃう情の人ですから…
なんとなく劉邦と蕭何の関係を彷彿とさせる感じではある蕭何の沛での声望や人脈が無ければ劉邦旗揚げはなかっただろうそしてその蕭何は後に劉邦から謀叛を疑われてるんだよなぁ諸葛亮も姻戚によって荊州人士の中心に入ったけれど元々は流れ者ではあるのよね蜀を支えた諸葛亮と呉を支えた張昭どちらも徐州出身なのは偶然なのか曹操のやらかしが響いてるのか
龐統 徐庶 法正が居れば孔明の負担が物凄く減ったのに
行動をもって言となす。史実の孔丞相の行動は、何を語っていますか?
劉備の遺言は純粋な本心だったと思います(笑)皇帝の位なんざ欲しけりゃくれてやる!と。平原にしろ曹操幕下の時にしろ徐州にしろ、サラッと捨てて生きてきた。そういう生き方をずっと続けてきて、諸葛亮と出会ってから良くも悪くも狂った。ちょっと前まで自由な傭兵隊長だったのにいつのまにか皇帝なんて大仰なものに祭り上げられてしまった恨み(笑)「お前やってみろクソつまらん立場だったわ」みたいな。
お互いにお互いを必要としてたけど、考え方や価値観が違った、と言う感じでしょうか。勝負事で、数字や計算を重視する人と、流れや直感を重視する人の違い、みたいな。あと、オーベルシュタインのNo.2不要論を思い出しました(笑)
それを提唱した本人が、奇しくもNo2のようなポジションになるという。
劉備にとっての孔明はどちらかといえば劉邦にとっての蕭何みたいな存在だったと思います
ならば法正が張良か?
諸葛亮 ⇒ 劉備は、初期はともかく後期は純粋なものがあったんじゃないかなあ。何故なら諸葛亮の目的は「三国鼎立による安定化と平和維持」であり、劉備の目的「漢王朝の再興」とは矛盾する点があるから。魏と呉を完全打倒して漢王朝が再興できれば平和になるかもしれないが、諸葛亮の三国鼎立案のポイントはそれを無理と割切った上での平和維持案であるのだから。そもそも漢王朝が復興しても「以降の皇帝=無敵の絶対権力者」がスカタンだったら再び中国全土が乱れる羽目になる。それよりは三分割して互いに牽制し合う状態にした方が、三国における暗君の即位を予防して(小競り合いはあるものの)中国全土が乱れることを回避できるのでは。諸葛亮のプランはそういうことだったのではないだろうか。少なくとも漢王朝に対する彼の強い拘りが垣間見えるエピソードは聞いたことがない。ならば劉備が死んだあとで北伐を強行する必要はなかった。益州に閉じこもっているべきだった。荊州を失った時点で初期の三国鼎立プランは崩れたものの、それは益州を得意の内政で強化することで埋め合わせが付くかも知れない。防御に適した益州ならばそれが出来る。少なくとも北伐よりは分がいいというか、万が一北伐が成功して魏の長安や洛陽を奪っても蜀の国力では維持できない。魏の残党と呉が手を組んでそれこそエライことになる。多分、蜀が早々に引きずり追い出され、魏呉が中華の中心部で激闘を始める。三国共に衰えて地方は再び乱れる。中国全土が荒れまくることは諸葛亮ならずとも想像がつく。彼の目的とは真っ向矛盾する。にも拘らず北伐に拘ったのは、非合理的な劉備に対する感情的なものが突き動かしていたからだろう。
三国鼎立維持はキ◯ガイとも称された魯粛の突飛な案(褒め言葉)であり、当時の儒教を熱心に学んだ常識人かつ知識人である諸葛亮は、三国鼎立の後の漢室による天下統一を目指していたと思いますよ。思い描いてた大戦略も統一が目標だったはず。
@@KOUMEI_NO_WANADA さん、そうなんですか。確かに三国鼎立が元々魯粛の案だという説は聞いたことがありますが、三国鼎立後に「統一せずそのまま維持しよう」という点が魯粛の独自案だったのですね。下手に大帝国ににせず二か国が組めば残る一か国を牽制できる状態にすれば、安定するし各国の腐敗も防げる(実際はあまり防げなかった)というのは、合理的かつ現代的な考え方に思えるので魯粛の株が上がるなあ。逆に諸葛亮はどんどん普通の有能政治家になっていく感じ・・・北伐はどうにも無理筋に見えるので。
『隗より始めよ』と、礼を尽くして招いたけど、龐統・法正の方を高く評価していた感。謀臣NO.3。臨終のやりとりも、証人を立てて忠誠の言質とってますからねえ。あれで発奮して、三番手の男が大丞相に化けたかな?
劉禅→孔明の方が相性としては良いのかな生前は完全に信任、死後孔明を愚弄する発言をした人物を劉禅にしては珍しいぐらい激昂して処断するぐらい敬愛していた
簒奪する気なら幾らでも可能だっただろうけど命削って北伐何回もやらないよな
いつもありがとうございます。孔明の大ファンなので、投稿者様のような善意ある捉え方ができれば嬉しいですけど、やはり釘を刺されたのかなあと、他国でも同じことがあったようですし。君主のため功績を上げればあげるほど警戒される。悲しいですね。水魚の交わり、出師表はそうでないでいてほしいですね
スゲエ…物語の中の言葉ひとつひとつに裏があるように感じる…深読みしながらもう一度三国志を読み直してみよう…荀彧に与えた剣が本当はただの褒美だったとか…
未だに『丞相から3階級降格したら右将軍』の理屈がわからん🙂
理屈は分からんまでも、まぁ、ちゃんと反省してますよ、責任取りますよっていうアピールは分かる(笑)
僕としては丞相-大将軍-(驃騎・車騎・衛)-(前・後・左・右)と考えてます
@@shou-sho ほぼ同意見です😃丿加えて少し深い話をすれば『丞相』が武官職の系列ではないのが漢の伝統(仮にそれを考えず扱うなら三公格とされた驃騎、車騎、衛将軍格)なんですが丞相に軍権を加えて扱うのは(当時のNOWで見ると)曹操の例に倣っているわけです私も三国志を知ったばかりの頃はなんの疑問もなくそれ(曹操に倣った)で理解していたんですが曹操が軍権を振るっていたのは「丞相(文官職)の権限ではなく『大将軍(※史書に就任を裏付ける記載はない)』の権限」とする見解(石井仁『曹操』)を見るに確かになあ〜🙂と、考えるようになりじゃあ孔明が蜀で丞相として軍権も振るっていたのは1,そこまで考えず曹操(の当時の丞相の職位(軍権もありありのぶっちぎり上公))に倣った2,漢の制度に固執せず蜀(いわゆる"季漢")では新たに「丞相は軍権も持つ(🙂
@@kappanouen 曹操が大将軍というのは同意できないなあ。 まず曹操の軍権は司空・車騎将軍(196~)→丞相(208~)→魏公(213~)で分けて考えないといけないと思うのです。 丞相(208~213)は[司徒+太尉]と思われるので、この期間は丞相と車騎将軍のどちらかは僕にはよくわかりません。丞相(213~)は軍権持ってるけどこれも徐々に付与されていったので(例えば215年9月裴注『漢魏春秋』)、最初はその都度認可されていたのかもしれません。当然後漢と蜀は別々に考えないといけないでしょうね。
@@shou-sho 簡単に言いますと董承が車騎将軍になったので(それまでの)車騎将軍の曹操は「それ以上の将軍位」か「(軍権は)無冠」のどっちか(で著者は前者を選んだ)というお話です🙂
やっぱり劉備が(経緯がどうであれ)漢帝を名乗ってしまったから例え孔明が『これは間違っている』って思う事柄でも、相手は皇帝なので前の様に発言できなくなった(しにくくなった)というのも大きいんじゃないかな?とは思います
個人的に理想な話だけど表立ってでは立場もあり対立してたけど立場なくした個人間では楽しく酒を飲み交わすような仲だったって思いたい…
一番乗り。少なくとも「三顧の礼」の時点では双方の利害が一致していたから君臣の間柄になったのだろう。そうでなければ兄の諸葛謹と同じく孫権に仕えてもおかしくなかったのではないだろうか(さすがに曹操に仕えたかは疑問だが)。ただ、諸葛亮の存在感が強まり過ぎることを危ぶんだことは十分有り得ただろう。劉備と言い孫権と言い、人材のバランスの取れた用い方の難しさを考えさせられる。
出遅れた。チックショー
いくら蜀が人材不足でも、7年で5度出兵して一度も戦果がないのに、更迭論がでないところに、諸葛亮の闇を感じる。
荊州の土地争奪戦。樊城の戦いが一番の蜀と呉の一番の仲違い
もし曹丕か曹叡が司馬懿に禅譲をうながしたら受けたかな?
王莽の前例を踏まえて、禅譲に慎重を期した曹操を見ているので、司馬懿もそれに倣った感じはありますよね。だから史実と同じで、自身で帝位を簒奪する意志は無かっただろうなと。
司馬昭は劉禅を孔明がいたとてどうしようもなかったと愚痴を言ったが、その通りなくらいうまくいく仲。
お返事下さりありがとうございます。反応が早いですね。この時のセレブ漫才がいいんですよ。
そもそも幽州出身の劉備と徐州出身の諸葛亮では言葉が通じなかったって話はホント?
でも劉備は遊学に出ていたので、各地の知識人とのコミュニケーションは普通にとれていたと思います。だからこそあれだけ天下を渡り歩けたのかなぁと。たぶんだけど張飛とかは厳しそう。
@@KOUMEI_NO_WANADA なるほど、納得しました
劉備と諸葛亮の仲が悪いと言ってるの渡邉先生だけだと思う(笑)
その渡辺先生の記事や発言を読んで作ってみました(笑)
むちゃくちゃ影響受けてるのはわかります(笑)渡邉先生、よく誰も賛同してくれないって愚痴ってるけど、ここにいるぞ(by馬岱)
三国志に関する書籍を買うとだいたい渡邉先生が出してる🌵
孔明が簒奪したら、なんだ魏と一緒じゃんってなってすぐ滅びそう
実際には劉備は孔明よりも法正の方を重用してたと言うし。
恐らく、戦術的には法正が、戦略的には諸葛だったのでは無いでしょうか?戦歴からも推し量れるかと思います。
荀攸と荀彧みたいなものでしょ曹操は戦場へは荀攸を連れていき参謀にして、荀彧には留守番役を任せたけどじゃあ曹操は荀彧を重用してなかったのかっていうとそうじゃないし
名士は出仕を断るのが常套句だったから…劉備、曹操、孫権、どの陣営も名士層の扱いに苦慮し、名士は群雄の臣下でなく協力者で漢の臣下であって、横のネットワークが強いから三国志の裏の主役だと思う。十数年前に朝廷から県や州の官僚に任命されただけの役人である群雄に漢の皇帝を差し置いて臣下の礼をしているとは思えない。孫策だけは袁術をバックに据えてはいましたが力こそ全てだったかもですがwそれでも袁術が後ろに居なかったら簡単に従う人も居なかったでしょうね。数百年地元に根差した春秋時代や日本の戦国時代とは全然感覚は違いそう。
彼らは稲作とともに日本に渡ってきた、日本人の遠い親戚
そもそも、ヤンキーと頭でっかち優等生が合うわけが無い(笑)
でもこのヤンキー、ちゃんとした学校に通って、当代きっての儒学者にも支持されて、高名な名士の多くからも慕われてるという、世渡りのプロみたいなヤンキーなんですよね…(笑)
故事にならってか、自分の楽毅が欲しかった劉備と、声望はあれどそこまでの期待はされていなかった?諸葛亮。少なくとも存命中は全てを任せきりにはしないどころか自ら先頭に立つ気質の劉備が楽毅のような自分以上の人材を使いこなせるかというと、そこはどうだろう?
今回のテーマの中でも遺言部分は気になっていましたが自分も同意です。
劉家の者が継いでこその季漢、加えて禅譲を受けた曹丕との比較も意味深に思えます。
また自らを自らを管仲・楽毅に比していた諸葛亮からしたら簒奪など、露にも思ってないだけに涙するのも無理ないですね。
法正と黄権がいなくなったのが色々な意味で痛いよね
法正&魏延で北伐、成都で政務を総覧するは諸葛亮。戦略政略に幅がでますね。
本当にいがみ合ってたら国力削ってまで5回も北伐せんと思う
自身の寿命までも削って😭
国是としてるからやらなかったら謀反の疑いかけられる恐れもあったんやで
仮に諸葛亮が劉備の死後に権力を手に入れたかったのだとしても、メリットがあまりにも薄すぎるのよな。
荊州失って斜陽の蜀漢に何らかの欲を満たすような魅力があるようにも思えんし。
少なくとも「曹魏に対抗する」という信念がお互いに一致していた以上、政治的機械的な繋がりだけでは説明できないかな。
いや、遠征は孔明の名誉心やから
思うに、北伐はそれ自体が内政の一部だったんじゃなかろうか。
魏を打ち倒すのは蜀の国の存在意義なので、魏を倒すための活動を何かしらしてないと、国民は「俺達、魏をやっつけるために納税や徴兵に耐えてるのに、なんで何もしないの?」と文句を言われかねない。
『君、自ずから執るべし』は疑念ではなく、『劉禅にその才が無ければ、皇帝親政ではなく君が政権運営しなさい』程度の意味だという説もありますな。
劉氏の皇帝としては、その血脈と祭祀を維持してほしいわけですから。
そういえば三國無双の魏シナリオで、曹操や曹丕が司馬懿に後事を託すシーンがあって似た様な事を言っていたが、
史実としてあったのなら、常套句って説は結構あり得るかもしれない。
まぁ後の司馬炎が本当に簒奪したわけだけど。
劉備と諸葛亮の関係性の話といえば他にも馬謖に対する評価の違いもありますね。よくこの件で劉備の方が人を見る目があるなどど言われますが、自分は単に評価するポイントが違うだけだと考えています。現代の就職試験に例えると劉備が「面接とサークルやボランティア活動の実績」、諸葛亮が「小論文と筆記試験」を重視していたという感じです。諸葛亮は馬謖の明晰な頭脳を評価し劉備は言動に行動が伴っていないのを危惧した。そして第一次北伐で劉備が危惧した通りの結果になってしまった。恐らく劉備は馬謖に足りないのは経験ではなく「責任感と胆力」だと見抜いていたのでしょう。
その辺りも確か他の動画でも触れていますが、あくまで劉備は「軍人としての目線」で、諸葛亮は「官僚としての目線」で評価してるって感じがするんですよね。僕の意見ですが。
劉備の言うように、確かに馬謖は「実践経験不足」であり、経験不足というのは将として致命的な欠点です。一部例外なんかもいますが。
対して諸葛亮は馬謖の才能を評価した。馬謖の参謀としての才覚は群を抜いており、現に南蛮平定は馬謖の献策によるところが大きかったとされています。
責任感と胆力については、まぁ、これも経験さえ積めば自信と共についてくるものですし。
どちらも間違っていないんです。評価するポイントが違っただけで。みたいな('ω')
@@KOUMEI_NO_WANADA主にいっぱいレスしてもらってて嫉妬する🙂
テンプレ遺言は妙に納得した
いつも台北で楽しく拝見させて頂きました!改めて曹操はいつも色んな有能な人材を起用して次いでに傍に置く事は極めに珍しい人君主です!!とは言え,こんな心広い曹操までも天下を完全制覇できない事は,孫権と劉備は優秀なリーダー,そして漢王朝のシステムのお蔭でどこでも人材だらけが分かって来ました!
近年は兎角言われるけれどある程度の信頼は寄せられてたというところで
オタクとして深い深い信頼関係があってほしいと願うところ
@@KOUMEI_NO_WANADA 対立はあっても信頼はあったみたいなことならなぁって思っちゃいますね
孔明と水魚の交わりだったのは劉禅の方だったと思う
わかる
(禅譲という名の)簒奪をしなかった、この一点だけでもハイパーレアキャラ。
孔明は荊州では大きな閨閥の縁続きにある名士ですよね。名士を抱え込まないと有能の士は集まりませんし劉備が孔明に礼を尽くして招いたのもそんなにおかしくないかと
仕事ぶりを見ても謹厳実直クソ真面目って感じです
劉備はぶっちゃけ、魏延や法正みたいなタイプの方が気が合ったかもしれないですね
それがそれとして孔明の才能は高く評価してたと思いますけど
群雄レベルの人物に限定しても、公孫讃・陶謙・呂布・曹操・袁紹・劉碕と、多少なりとも難ある人物と付き合っているから、そういう才能のある人だったのだろう
はじめまして
時々拝見しております。
若いころは、三顧の礼というのは、単純に劉備が諸葛亮に対して礼を尽くして迎えた美談のように思っていましたが、年齢を重ねるにつれて謎に感じ始めました。
後から考えれば、諸葛亮という有能な官僚・政治家を得たことは、劉備にとって大きなメリットがありましたから、三顧の礼を取ってでも得る必要があるという話は説得力があります。
ただ、三顧の礼の時点で、劉備が後の諸葛亮の活躍を予測できていたならば、それ以前に同じような有能な官僚を得て基盤を築けたはずではないか?という疑問が生まれてきます。
そう考えれば、実は三顧の礼のようなことを劉備は繰り返して失敗していたか(うまくいかなかった)?あるいは、諸葛亮が、これまでの人材と違ったずば抜けたものを持っていたか?このどちらもが、はっきりとは歴史に残っていないように思いますが、いかがお考えでしょうか?
それと、私はそれなりの年齢(当時の劉備よりかなり上)ですが、三国時代当時の寿命から考えると感覚的には同じくらいと思います。ただ、20歳若い人をわざわざ三顧の礼を取ってまで迎えようとは思いません。
そういう意味では、三顧の礼は、今の人が考える以上の重さがあったような気がします。
ところで、以前から気になっていたのですが、使われている音楽は「魔王魂」と概要欄に書かれておりますが、具体的には、なんという名前の音楽でしょうか?差し支えなかったら教えてください。
長文失礼いたしました。
動画内でも触れましたが、劉備軍団は社会的階級の低い者達の集まり、いわば反社会的な気風を持つ集団だと推察されます。
そして有能な官僚になり得る素質のある人間は、社交的かつ高学歴という階級の高い人々です。
陳羣などがその代表例ですが、一度は劉備政権に加わっても、劉備は共に命をかけてきた仲間を重んじ、陳羣のような官僚を仲間以上に重んじることはなかったので、最終的に劉備が流浪の身となった際、彼らは劉備と行動を共にしませんでした。
その失敗の繰り返しを踏まえての改善策が「三顧の礼」なのかなと。また劉備はこの時点では諸葛亮の能力などを図ることができたわけではありません。
劉備が期待したのは恐らく「隗より始めよ」の故事のように、諸葛亮を皮切りに有能な官僚を得ていくことでしょう。
人の能力をひと目で見ることなんで出来ませんしね🌵
BGMは確か「お城のBGM」とかだったと思います。
@@KOUMEI_NO_WANADA 様
丁寧なお返事ありがとうございました。
劉備にしてみれば、これまでの失敗を踏まえて、方針転換したところ、大ヒットしたというところでしょうか?(*^_^*)
そう考えてみれば、赤壁の勝利が荊州の人材確保に大きな影響を与えたと言えるでしょうか。
また、BGMについても教えていただき感謝申し上げます。
『隗より始めよ』『死馬の骨を買う』って知っていますか?
例え若く無名な人物であれ、優秀であるのなら礼を尽くして迎え入れるという実績が、優秀な人材が集まってくるきっかけになるかもしれないんです( ̄▽ ̄;)
部外者を嫌う集団の中で孔明の立場を作ってやる為って、そんな集団の中で三顧の礼で迎え入れられた人物は孤立しますが(´∀`; )
孔明の加入が荊州の人材確保に繋がったとありますが、具体的な内容を教えていただいてもよろしいですか?
孔明の仲のいい学友3人は魏に加入してますし、馬良や蒋琬などが孔明加入の影響で傘下に加わったというような記述もないので、誰がどのような影響を受けたのか知りたいです!
劉巴の件に関して、劉備が劉巴を嫌っていたとする根拠はなんですか?
自分が知る限り、劉備は劉巴を高評価・配下に加えたがっていた気がするのですが?
荊州派と益州派の力関係を力説してますが、蜀の人材は文官だけですか?
荊州派有利とされてますが、蜀は荊州を失ってますよ?
荊州派にとっては故郷を失い、荊州の人材を確保するのが困難になっているので、人によっては『荊州奪還は荊州派の立場を守る為に必要ではあった』と考えている人もいますが?
劉備のカリスマによって成り立っている集団において、その劉備が丁重に迎え入れた人材を、その配下達が無下に扱うことは難しいでしょう。
諸葛亮はその劉備の後ろ盾でもって人材を集め、自身の政治的立場を確立していきました。
今まで徐庶以外の主だった荊州人士を獲得できていなかった劉備政権が、諸葛亮加入後、一気に人材獲得に成功しています。
当時の人材登用は縁故や地縁によるものが主流であったため、これらの経緯を踏まえ、諸葛亮がきっかけを作ったと考えられます。
「三顧の礼」には「隗より始めよ」的な要素があったってことかー
なるほどなーって思いました。
概ね納得できました。ただ遺言に関しては、死に際にそんな弄策をする心境になるか?という疑問はあります。
こればかりは経験もなく答えは出ませんが、自分は死に際しては何事にも真摯でありたいと考えます。
ですね。自分もどちらかと言うとその考えです
いつも楽しく拝見しています^ ^
個人的には、蒼天航路みたいな「え?君たちホントに仲良いの?」って関係が、一番しっくりきています笑
劉備が「饅頭のタレになれ」とかいって孔明が「そこは水魚の交わり」ってツッコむ掛け合いしてるくらいがよかったね
正史劉備は演義劉備と違ってヤンキー兄ちゃんのイメージがありますから、孔明さんとの関係性は謎ですね。
後漢の復興という大義名分に関して諸葛亮は劉備とイデオロギーを同じくしていたのは間違いないと思う。蜀の守りを固めてぬくぬく余生を過ごすこともできたのに5回に渡る北伐で自ら兵を率いたのがその証左
遺言の件は諸葛亮の場合、李厳から「RYOU!そろそろ九錫受けちゃいなYO!」と言われて苦笑いしたって話が残っているのに対し、張昭の場合周りが何か動いた話が残っていないため信憑性が薄い(ってか諸葛亮の話パクったんじゃね?)って話もあるみたいです👀
三顧の礼一つとってもこの動画のように異例とするものもあれば別の投稿者の方の動画のように当時の名士層では一度目は理由をつけ断り二度三度出向かれて「そこまで仰るなら微力ながら…」と謙虚な姿勢を示すのが好まれていたので三顧の礼も当時としてはそれほど珍しくなかったかもしれない、と解説するものもある。
様々な情報・解釈を元に自分はどう思うのか何を学ぶのか、動画一つで色々と考えさせられるから歴史は楽しいですね
法正の祖父がそのタイプですね。太守に直接仕官を求められて、そんな事するくらいなら地の果てに行くと言って断り、皇帝からの招聘すらも4度も断って、ついに仕官しなかったみたいな。
一応これも美徳とされていますが、明らかに「過度」であることもまた事実。
三顧の礼はコレに比べればまだ適当と見るか、あんま変わらんと見るかは、まぁ、受け取り手次第なのでしょうかね🤔
渡邉義浩先生の史観では名士不在の劉備軍ですが
一応糜兄弟は商家出身ながらこの段階で公式な二千石様(えらい)を拝命していた事をお伝えします😗
劉備自体は名士って言うのは乱暴ですかね?
商人とか資産家とか豪農とか、地元で凄い実権があったのは分かるけど何だかイメージが自分の中で定まらない麋家
後漢の商人は賤民の括りで一般市民よりも下の扱いなんですよ。そして名士たちは余財を持つ事を嫌う。
魯粛が何故に倉を開放したかは其処にあるし、商人の張世平、蘇双、麋竺(元商人)なんかが財産を提供したのもそんな背景があります。
@@matukawatositane 祖父が孝廉推挙ですからまちがいなくタク県劉家は地方中堅公務員の家計であったとは思います
劉備の家の独立した家計が(親の早死で物理的に)貧乏であった点と
『劉備が賎民であった』という演義の話は混同してはならないと思いますね
@@KOUMEI_NO_WANADA その移り変わりの時期の代表例でしょうか
曹操は自身が得た『勅命』を操れる力で当時の『実質的権力者(豪族)』を渡邉義浩先生言うところの『名士』に変換する力を得たわけです(当時周りが認めたかは知らん😑)
先週(だつけ?)お話した将軍位もこれ(曹操の献帝擁立)以後またフェイズが変わってきます🙃
個人としては親密でもそれぞれの立場を背負えば対立する事もあるからな・・・。対立が原因で国が二分するなんて事態には陥っていないので、諸葛亮と劉備の間に信頼関係はあったと思う。
戦術的と戦略的の考え方に依ると思うんですよね。
夷陵で負けたのも劉備の考え方の裏取りされて戦術的敗北から戦略的に拡げられて取り返しのつかない形になったと。
法正は戦術的思考、諸葛は戦略的思考だと思ってます。
この動画見てふと思ったけど、もし法正がそのまま生きていたら劉備没後に諸葛亮と派閥争いになりそう・・・なんて笑
時分もそう考えます。たぶん法正いたら、蜀漢は南中反乱抑えられず瓦解してたかも…
法正、日々蜀の売値考えながら辣腕ふるうのは、動かないところでしょう。
「永安托孤」、どう演出して益州人の寝返りを防いだものか?
安直なのは謀反を言い立てて、法正を斬ってしまうことですが...
劉備は人を見る目だけはあった。だからこそ生存時はあれだけの人材を登用し、人が集まった。
孔明は劉備が登用したその最たる人物の一人。さすがに死に際に孔明の忠誠を疑うことなどしなかったと思う。
孔明は楽毅を尊敬してたから簒奪することは出来ないと分かっていたから、あえてこのようなことを言って、賢君賢臣エピソードを作り上げたのかもね。
そういえば投稿者は三国志で「こいつ俺みたいだな」って思う言動・性格の人物はいますか?
簡雍みたいになりたいとは常々思ってます
@@KOUMEI_NO_WANADA 願望は簡雍なんですね。現状の自分と重なる人物は居ない感じですか?
僕は…曹操のように他人に流されず自分の物差しで他者の良い所を見ていきたいなと思ってます。
現状は禰衡かなぁ…(´;ω;`)ブワッ
教えて貰ってると言うより、議論を戦わす土壌を提供して貰ってるみたいな感じかな。
仲悪いわけはないと思う(身も蓋もない)
しかし、それぞれの志があるのかな
劉備の最後の後のこと託すシーンって簒奪恐れて釘刺したとも言われてるよね。あれでハイ成り代わりますなんて応答は即処断案件。なお、そんな人材の余裕はない模様。
劉備が荊州閥の影響を危惧して益州閥を重用した話は聞いた事ありますね。ただ、そこで荊州閥の影響を弱めるために龐統を・・・なんてきな臭さを感じるのは考え過ぎかな。
アプ主の考察は好きです
出師の表……でしょうね 事実なら水魚の交わりに偽りなし
出師の表が創作なら……三顧の礼も創作になります
なんせ蜀サイドは美化神格化されてるんで正史すらあやしいレベルなんで……
前出師の表は、流石に孔明のものだと信じたい。後出師の表は、まぁ、ちょっと。
もしも、徐庶辺りが劉備陣営に残り、劉備と共に益州攻略に従軍し、荊州の留守を外交担当が諸葛亮、軍事担当が関羽として、孫呉と協調路線維持で、曹操の死を待って、両者が共同戦線を張り、魏に西と南から侵攻したなら、歴史はかなり変わっていたのではないか?
諸葛亮が高学歴ニートみたいな言い方よくされるけど、アレはどうかと思う。晴耕雨読っていうぐらいだから軽い農業はしてただろうし。公務員にあらずんば人にあらず、というなら話は別だけど。
最期劉備の「孔明酷使の策」説好き❤
こんな遺言されたら立場からも個人の気質からも実力プライドからも孔明の答え方はもう1つしかない。
こんなこと言われたら滅私奉公するしかない…🎉
ぶっちゃけ劉関よりは仲は良かったと思う。水魚の不一致場面は立場の違いからだし
信頼関係が良好なんて人それぞれの基準みたいなもんだと思いますね。蕭何と曹参、管仲と鮑叔、陳平と魏無知、劉邦と張良。当時にならないと分からない事だと思うけど、私は関係性は良好であったと信じたいね。じゃないと、内政も軍事も体制がボロボロとなった蜀を引き受けたくないもんなぁ~~。
渡邉先生の「孔明は劉備と関羽·張飛の関係性に強く惹かれていた」けど結局は出自の違いから、完全には信用されていなかった。それがあの土壇場で出た··
という説が切なくて好きです。
劉備って、人を見る目あるんだろうか…
最も信頼していたであろう人を荊州において、重要な場面でああなってしまったからなあ…
天智天皇と天武天皇の間にも似たようなやり取りがあった記憶
個人的に「根本的なエンペラーというものの価値とは続いているというその結果の事」と考えているのですが、その観点から考えると2人の行動原理が「漢を劉の姓で継続させるべきだ」である以上は、見た目通りの事以外には無いんじゃないのかなぁ~なんて思っちゃいますね。当然、人間の集まりである以上は色んな事が有るのは当然な訳で綺麗毎、都合の良い事ばかりなんて考えもしませんよ。…でも涿郡から蜀に劉表と劉章を辿って蜀漢を組み立てただなんて何と出来過ぎた…あれ…劉備と諸葛亮って類稀な高祖マニアだった。みたいな話だったりするんでしょうかね?ウーン…1度2人の講演を聞いてみたいなぁ。TH-camやってくれないかなぁ。
…冗談ですよう。
省略されていましたが、諸葛亮の才能は曹丕の十倍あると評価されています
死期が近いとはいえど、そんな事が言えるのはやはり諸葛亮を評価して
後任を任せているのでしょう。そうでなければ李厳に権限を渡していることに
今、気付いたのですが、登録者四万人突破おめでとうございます
性格も価値観も違うから多少の軋轢はあっただろうし、関羽や張飛ほど全幅レベルの信頼はしていないかもしれないですね〜
とは言えお互い必要な存在であると思っていたのは間違いないかと。
それなら魏陣営でも、曹丕、曹叡が崩御する前に、遺言で司馬懿に対して、
「息子(曹叡、曹芳)に国を治める器量があれば助けてほしい。しかしその器量がなければ、あなた(司馬懿)がこの国を継いでほしい」
と言ったら、司馬懿はクーデターを起こさなかったんですかねえ?😂穿った考え方ですけど…😅
しかしこの二人に似た関係性として、曹操&郭嘉も考えられますよね。自分はこの二人も、劉備&諸葛亮にも劣らないぐらいの「水魚の交わり」だったような気がしますね。😮
自分は、劉備が法正を愛したように、曹操も郭嘉を愛した、みたいなイメージですね
誰よりも信頼していたが、人柄的には合わなかった感じなんじゃないかと…
遺言に関しては、劉備の人柄的に裏はない気がするんですよね。
魏をほっぽって、夷陵行っちゃう情の人ですから…
なんとなく劉邦と蕭何の関係を彷彿とさせる感じではある
蕭何の沛での声望や人脈が無ければ劉邦旗揚げはなかっただろう
そしてその蕭何は後に劉邦から謀叛を疑われてるんだよなぁ
諸葛亮も姻戚によって荊州人士の中心に入ったけれど元々は流れ者ではあるのよね
蜀を支えた諸葛亮と呉を支えた張昭どちらも徐州出身なのは偶然なのか曹操のやらかしが響いてるのか
龐統 徐庶 法正が居れば孔明の負担が物凄く減ったのに
行動をもって言となす。
史実の孔丞相の行動は、何を語っていますか?
劉備の遺言は純粋な本心だったと思います(笑)
皇帝の位なんざ欲しけりゃくれてやる!と。平原にしろ曹操幕下の時にしろ徐州にしろ、サラッと捨てて生きてきた。そういう生き方をずっと続けてきて、諸葛亮と出会ってから良くも悪くも狂った。ちょっと前まで自由な傭兵隊長だったのにいつのまにか皇帝なんて大仰なものに祭り上げられてしまった恨み(笑)
「お前やってみろクソつまらん立場だったわ」みたいな。
お互いにお互いを必要としてたけど、考え方や価値観が違った、と言う感じでしょうか。勝負事で、数字や計算を重視する人と、流れや直感を重視する人の違い、みたいな。あと、オーベルシュタインのNo.2不要論を思い出しました(笑)
それを提唱した本人が、奇しくもNo2のようなポジションになるという。
劉備にとっての孔明はどちらかといえば劉邦にとっての蕭何みたいな存在だったと思います
ならば法正が張良か?
諸葛亮 ⇒ 劉備は、初期はともかく後期は純粋なものがあったんじゃないかなあ。
何故なら諸葛亮の目的は「三国鼎立による安定化と平和維持」であり、劉備の目的「漢王朝の再興」とは矛盾する点があるから。
魏と呉を完全打倒して漢王朝が再興できれば平和になるかもしれないが、諸葛亮の三国鼎立案のポイントはそれを無理と割切った上での平和維持案であるのだから。
そもそも漢王朝が復興しても「以降の皇帝=無敵の絶対権力者」がスカタンだったら再び中国全土が乱れる羽目になる。
それよりは三分割して互いに牽制し合う状態にした方が、三国における暗君の即位を予防して(小競り合いはあるものの)中国全土が乱れることを回避できるのでは。
諸葛亮のプランはそういうことだったのではないだろうか。少なくとも漢王朝に対する彼の強い拘りが垣間見えるエピソードは聞いたことがない。
ならば劉備が死んだあとで北伐を強行する必要はなかった。益州に閉じこもっているべきだった。
荊州を失った時点で初期の三国鼎立プランは崩れたものの、それは益州を得意の内政で強化することで埋め合わせが付くかも知れない。
防御に適した益州ならばそれが出来る。少なくとも北伐よりは分がいいというか、万が一北伐が成功して魏の長安や洛陽を奪っても蜀の国力では維持できない。
魏の残党と呉が手を組んでそれこそエライことになる。多分、蜀が早々に引きずり追い出され、魏呉が中華の中心部で激闘を始める。三国共に衰えて地方は再び乱れる。
中国全土が荒れまくることは諸葛亮ならずとも想像がつく。彼の目的とは真っ向矛盾する。
にも拘らず北伐に拘ったのは、非合理的な劉備に対する感情的なものが突き動かしていたからだろう。
三国鼎立維持はキ◯ガイとも称された魯粛の突飛な案(褒め言葉)であり、当時の儒教を熱心に学んだ常識人かつ知識人である諸葛亮は、三国鼎立の後の漢室による天下統一を目指していたと思いますよ。思い描いてた大戦略も統一が目標だったはず。
@@KOUMEI_NO_WANADA さん、そうなんですか。確かに三国鼎立が元々魯粛の案だという説は聞いたことがありますが、三国鼎立後に「統一せずそのまま維持しよう」という点が魯粛の独自案だったのですね。
下手に大帝国ににせず二か国が組めば残る一か国を牽制できる状態にすれば、安定するし各国の腐敗も防げる(実際はあまり防げなかった)というのは、合理的かつ現代的な考え方に思えるので魯粛の株が上がるなあ。逆に諸葛亮はどんどん普通の有能政治家になっていく感じ・・・北伐はどうにも無理筋に見えるので。
『隗より始めよ』
と、礼を尽くして招いたけど、龐統・法正の方を高く評価していた感。謀臣NO.3。
臨終のやりとりも、証人を立てて忠誠の言質とってますからねえ。
あれで発奮して、三番手の男が大丞相に化けたかな?
劉禅→孔明の方が相性としては良いのかな
生前は完全に信任、死後孔明を愚弄する発言をした人物を劉禅にしては珍しいぐらい激昂して処断するぐらい敬愛していた
簒奪する気なら幾らでも可能だっただろうけど命削って北伐何回もやらないよな
いつもありがとうございます。孔明の大ファンなので、投稿者様のような善意ある捉え方ができれば嬉しいですけど、やはり釘を刺されたのかなあと、他国でも同じことがあったようですし。君主のため功績を上げればあげるほど警戒される。悲しいですね。水魚の交わり、出師表はそうでないでいてほしいですね
スゲエ…物語の中の言葉ひとつひとつに裏があるように感じる…
深読みしながらもう一度三国志を読み直してみよう…
荀彧に与えた剣が本当はただの褒美だったとか…
未だに『丞相から3階級降格したら右将軍』の理屈がわからん🙂
理屈は分からんまでも、まぁ、ちゃんと反省してますよ、責任取りますよっていうアピールは分かる(笑)
僕としては丞相-大将軍-(驃騎・車騎・衛)-(前・後・左・右)と考えてます
@@shou-sho ほぼ同意見です😃丿
加えて少し深い話をすれば『丞相』が武官職の系列ではないのが漢の伝統(仮にそれを考えず扱うなら三公格とされた驃騎、車騎、衛将軍格)なんですが
丞相に軍権を加えて扱うのは(当時のNOWで見ると)曹操の例に倣っているわけです
私も三国志を知ったばかりの頃はなんの疑問もなくそれ(曹操に倣った)で理解していたんですが
曹操が軍権を振るっていたのは「丞相(文官職)の権限ではなく『大将軍(※史書に就任を裏付ける記載はない)』の権限」とする見解(石井仁『曹操』)を見るに確かになあ〜🙂と、考えるようになり
じゃあ孔明が蜀で丞相として軍権も振るっていたのは
1,そこまで考えず曹操(の当時の丞相の職位(軍権もありありのぶっちぎり上公))に倣った
2,漢の制度に固執せず蜀(いわゆる"季漢")では新たに「丞相は軍権も持つ(🙂
@@kappanouen 曹操が大将軍というのは同意できないなあ。
まず曹操の軍権は司空・車騎将軍(196~)→丞相(208~)→魏公(213~)で分けて考えないといけないと思うのです。
丞相(208~213)は[司徒+太尉]と思われるので、この期間は丞相と車騎将軍のどちらかは僕にはよくわかりません。
丞相(213~)は軍権持ってるけどこれも徐々に付与されていったので(例えば215年9月裴注『漢魏春秋』)、最初はその都度認可されていたのかもしれません。
当然後漢と蜀は別々に考えないといけないでしょうね。
@@shou-sho 簡単に言いますと
董承が車騎将軍になったので
(それまでの)車騎将軍の曹操は「それ以上の将軍位」か「(軍権は)無冠」のどっちか(で著者は前者を選んだ)というお話です🙂
やっぱり劉備が(経緯がどうであれ)漢帝を名乗ってしまったから
例え孔明が『これは間違っている』って思う事柄でも、相手は皇帝なので
前の様に発言できなくなった(しにくくなった)というのも大きいんじゃないかな?とは思います
個人的に理想な話だけど
表立ってでは立場もあり対立してたけど
立場なくした個人間では楽しく酒を飲み交わすような仲だった
って思いたい…
一番乗り。少なくとも「三顧の礼」の時点では双方の利害が一致していたから君臣の間柄になったのだろう。そうでなければ兄の諸葛謹と同じく孫権に仕えてもおかしくなかったのではないだろうか(さすがに曹操に仕えたかは疑問だが)。ただ、諸葛亮の存在感が強まり過ぎることを危ぶんだことは十分有り得ただろう。劉備と言い孫権と言い、人材のバランスの取れた用い方の難しさを考えさせられる。
出遅れた。チックショー
いくら蜀が人材不足でも、7年で5度出兵して一度も戦果がないのに、更迭論がでないところに、諸葛亮の闇を感じる。
荊州の土地争奪戦。樊城の戦いが一番の蜀と呉の一番の仲違い
もし曹丕か曹叡が司馬懿に禅譲をうながしたら受けたかな?
王莽の前例を踏まえて、禅譲に慎重を期した曹操を見ているので、司馬懿もそれに倣った感じはありますよね。だから史実と同じで、自身で帝位を簒奪する意志は無かっただろうなと。
司馬昭は劉禅を孔明がいたとてどうしようもなかったと愚痴を言ったが、その通りなくらいうまくいく仲。
お返事下さりありがとうございます。反応が早いですね。この時のセレブ漫才がいいんですよ。
そもそも幽州出身の劉備と徐州出身の諸葛亮では言葉が通じなかったって話はホント?
でも劉備は遊学に出ていたので、各地の知識人とのコミュニケーションは普通にとれていたと思います。だからこそあれだけ天下を渡り歩けたのかなぁと。
たぶんだけど張飛とかは厳しそう。
@@KOUMEI_NO_WANADA
なるほど、納得しました
劉備と諸葛亮の仲が悪いと言ってるの渡邉先生だけだと思う(笑)
その渡辺先生の記事や発言を読んで作ってみました(笑)
むちゃくちゃ影響受けてるのはわかります(笑)
渡邉先生、よく誰も賛同してくれないって愚痴ってるけど、ここにいるぞ(by馬岱)
三国志に関する書籍を買うとだいたい渡邉先生が出してる🌵
孔明が簒奪したら、なんだ魏と一緒じゃんってなってすぐ滅びそう
実際には劉備は孔明よりも法正の方を重用してたと言うし。
恐らく、戦術的には法正が、戦略的には諸葛だったのでは無いでしょうか?
戦歴からも推し量れるかと思います。
荀攸と荀彧みたいなものでしょ
曹操は戦場へは荀攸を連れていき参謀にして、荀彧には留守番役を任せたけどじゃあ曹操は荀彧を重用してなかったのかっていうとそうじゃないし
名士は出仕を断るのが常套句だったから…
劉備、曹操、孫権、どの陣営も名士層の扱いに苦慮し、名士は群雄の臣下でなく協力者で漢の臣下であって、横のネットワークが強いから三国志の裏の主役だと思う。
十数年前に朝廷から県や州の官僚に任命されただけの役人である群雄に漢の皇帝を差し置いて臣下の礼をしているとは思えない。孫策だけは袁術をバックに据えてはいましたが力こそ全てだったかもですがwそれでも袁術が後ろに居なかったら簡単に従う人も居なかったでしょうね。
数百年地元に根差した春秋時代や日本の戦国時代とは全然感覚は違いそう。
彼らは稲作とともに日本に渡ってきた、日本人の遠い親戚
そもそも、ヤンキーと頭でっかち優等生が合うわけが無い(笑)
でもこのヤンキー、ちゃんとした学校に通って、当代きっての儒学者にも支持されて、高名な名士の多くからも慕われてるという、世渡りのプロみたいなヤンキーなんですよね…(笑)
故事にならってか、自分の楽毅が欲しかった劉備と、声望はあれどそこまでの期待はされていなかった?諸葛亮。
少なくとも存命中は全てを任せきりにはしないどころか自ら先頭に立つ気質の劉備が楽毅のような自分以上の人材を使いこなせるかというと、そこはどうだろう?