ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
小田原城はほんとに見る場所が広大ですね。以前夏に朝から散策して堀切で興奮しすぎてテンションが上がり過ぎて、天守に登った時には疲れ果てていたのを覚えています。解説を見てまた行きたくなりました!
何度か小田原城は行ったことがありますその時はセットで石垣山城にも行きます石垣山城ではこんな山にこれだけの石を運んで石垣を造ったのは、重機などない当時としては秀吉はとんでもない財力だったと感じます 穴太衆もすごいですが個人的に小田原城を土づくりの城にしたのは・造るの簡単・後でいろいろと手を加えることができる・関東ローム層ということを最大限に利用しようとした→一度落ちたら登れない・土塁を造ることで籠城時、隠れながら火縄銃の弾を込めることができるあと以前、山中城にも行ったことがあるのですが、そこも土づくりの城でしたやはり障子掘がすごかったです
小田原城は2回行ってますが、未だ総構えの遺構は見れていません😢今回の動画を参考に巡ります😊ありがとうございます!あと10人❗❗
おめでとうございます🎉🎉🎉
ありがとうございます〜😭MAR KUNさんや一門衆のみなさんのおかげでここまで来れました〜‼️感謝しかありません🙇
今回も楽しく拝見させていただきました!秀吉が井垣山一夜城に石垣を作ったので、石が取れない地域ではないでしょうし、北条氏なら石垣の防御壁を作ることは可能ですよね・・・信玄に謙信を撃退したこの壮大な城であれば不要であると慢心したのか・・・それにしても、土塁で築かれているとはいえこんな壮大な堀がある巨大な城で5万以上の兵力で籠城している北条氏直に対して、大規模な合戦もせずに屈服させる秀吉すごすぎます!
武田信玄、上杉謙信の二人が小田原を落とせなかった理由は、小田原城の位置にあります。動画でも図示されていますが、小田原城総構えの約1/4は海岸に近接しています。総構えではなく中核部でも海岸までの距離は近いです。寄せ手がこの方面に包囲線を敷こうとすると・城壁に近すぎる・海までの距離が短く、厚みのない陣形になる・地面が砂(砂利)浜で足場が悪い・背後が海なので文字通り「背水の陣」となり、布陣しにくい地形になっています。寄せ手側が手薄であれば城側が出撃すれば容易に駆逐できます。そのため、このような状況では寄せ手側は水軍で水際の前線を支援する必要があるのです。ところが、上杉軍は本州を横断してきたので水軍の用意がなく、武田軍は駿河進出前だったので水軍そのものを持っていませんでした。逆に北条家は関東最大の水軍を保持しており、相模湾の制海権を掌握していました。謙信や信玄が相手と言えど海側はがら空き同然なのですから、兵糧弾薬援軍をいくらでも補給できます。その気になれば夜間に別動隊を出港させて、包囲軍の背後に上陸させることもできたでしょう。そんなリスクに戦国最強の両雄が気付かないはずがありません。石山合戦でも同様で、九鬼水軍が本願寺側の水軍を圧倒するまでは「魔王」信長も劣勢でした。秀吉は小田原を攻めるにあたり、関東各地の支城を攻略させましたが、もっとも注力したのは北条の伊豆水軍を壊滅させることでした。それにより小田原を海上からも封鎖することができたのです。
しっかりと『氏綱の代から本格的に』と言っていただきありがたい。地元の商売人やそれに影響された役所の人間などは有名な早雲からと昔の書物の記載を無かった事にして歴史都市としてありえない事を平気で言って町のアピールしているので、、、江戸期のご米曲輪跡地から出てきた北条時代の史跡は埋めちゃうし、空堀も街中に何も残していなし、出てきても埋めちゃうし。
こんだけでも圧倒的物量にはかなわないのよね😅秀吉恐るべし
この小田原の地に巨大な総構えを築くとは小田原北条氏おそるべしです!!秀吉に限らず、多くの豊臣大名たちも小田原北条氏の築城技術に衝撃を受け、それを手本として日本各地に小田原城のような総構えを持つ城を築いたかもしれませんね。 そう言えば、私の故郷・福島県の会津若松城には、蒲生氏郷が会津領主になった頃に築かれた総延長6㎞に及ぶ総構えがありますよ。その総構えは16ヶ所の虎口が配置され、その内側には郭内(武家屋敷)と郭外(町人町)という構成で城下町が成り立っています。氏郷がいかに会津の肥沃な土地を重視し、城下町を築いたのかを知ることができます。現在、この惣構えのラインは消滅していますが、蒲生氏時代に築かれた城下町を基盤として会津若松市の町並みが栄えています。 また、会津若松城以外に磐城平城(福島県いわき市)や、会津桧原城(福島県北塩原村)や、米沢城(山形県米沢市)、出羽山形城(山形県山形市)、盛岡城(不来方城)(岩手県盛岡市)、出羽久保田城(秋田県秋田市)など東北に総構えを持つ城がたくさんあります。小田原城の総構えと会津若松城の総構えと比較しながら、東北各地に残る城の総構えの痕跡を辿ってみるのも楽しみの一つだと思います🏯
八幡山が開発が結構入ってしまったのが残念です。現在の東海道線が走るところもお堀だったと言われています。かなり巨大な堀(小田原では最大)になるかと。また小峯は大森氏の館(城)があった場所なのでその時代の遺構も氏綱は活用したかと思います。また東側は山王川と酒匂川の間は湿地だったとの事なので敢えてそこに遊びを作り暴れ川の酒匂川へと敵を追い詰め易くさせていたのかと思います。土塁で石垣は敢えて使わなかったのでしょう。秀吉が使った石橋の石切場や真鶴も江戸城などでも使用された石切場でそれらは指呼の距離ですので。また防御だけでなく都市設計としても当時として先進的な用水を早川から引き小田原の街中や、埋めてしまった御米曲輪跡地の屋敷群の中を巡っており、街中にゴミが落ちていなかったと言うほど整備されていたとのことなので、二代氏綱から始まるその優れた小田原の統治ぶりが伺えます。
これじゃ、武田信玄や上杉謙信でも落とせないですね。
地元ですが、城しか行った事が無いです。
小田原城はほんとに見る場所が広大ですね。以前夏に朝から散策して堀切で興奮しすぎてテンションが上がり過ぎて、天守に登った時には疲れ果てていたのを覚えています。解説を見てまた行きたくなりました!
何度か小田原城は行ったことがあります
その時はセットで石垣山城にも行きます
石垣山城ではこんな山にこれだけの石を運んで石垣を造ったのは、重機などない当時としては
秀吉はとんでもない財力だったと感じます 穴太衆もすごいですが
個人的に小田原城を土づくりの城にしたのは
・造るの簡単
・後でいろいろと手を加えることができる
・関東ローム層ということを最大限に利用しようとした→一度落ちたら登れない
・土塁を造ることで籠城時、隠れながら火縄銃の弾を込めることができる
あと以前、山中城にも行ったことがあるのですが、そこも土づくりの城でした
やはり障子掘がすごかったです
小田原城は2回行ってますが、未だ総構えの遺構は見れていません😢今回の動画を参考に巡ります😊ありがとうございます!あと10人❗❗
おめでとうございます🎉🎉🎉
ありがとうございます〜😭
MAR KUNさんや一門衆のみなさんのおかげでここまで来れました〜‼️
感謝しかありません🙇
今回も楽しく拝見させていただきました!秀吉が井垣山一夜城に石垣を作ったので、石が取れない地域ではないでしょうし、北条氏なら石垣の防御壁を作ることは可能ですよね・・・信玄に謙信を撃退したこの壮大な城であれば不要であると慢心したのか・・・それにしても、土塁で築かれているとはいえこんな壮大な堀がある巨大な城で5万以上の兵力で籠城している北条氏直に対して、大規模な合戦もせずに屈服させる秀吉すごすぎます!
武田信玄、上杉謙信の二人が小田原を落とせなかった理由は、小田原城の位置にあります。
動画でも図示されていますが、小田原城総構えの約1/4は海岸に近接しています。総構えではなく中核部でも海岸までの距離は近いです。寄せ手がこの方面に包囲線を敷こうとすると
・城壁に近すぎる
・海までの距離が短く、厚みのない陣形になる
・地面が砂(砂利)浜で足場が悪い
・背後が海なので文字通り「背水の陣」
となり、布陣しにくい地形になっています。
寄せ手側が手薄であれば城側が出撃すれば容易に駆逐できます。そのため、このような状況では寄せ手側は水軍で水際の前線を支援する必要があるのです。
ところが、上杉軍は本州を横断してきたので水軍の用意がなく、武田軍は駿河進出前だったので水軍そのものを持っていませんでした。
逆に北条家は関東最大の水軍を保持しており、相模湾の制海権を掌握していました。
謙信や信玄が相手と言えど海側はがら空き同然なのですから、兵糧弾薬援軍をいくらでも補給できます。その気になれば夜間に別動隊を出港させて、包囲軍の背後に上陸させることもできたでしょう。そんなリスクに戦国最強の両雄が気付かないはずがありません。
石山合戦でも同様で、九鬼水軍が本願寺側の水軍を圧倒するまでは「魔王」信長も劣勢でした。
秀吉は小田原を攻めるにあたり、関東各地の支城を攻略させましたが、もっとも注力したのは北条の伊豆水軍を壊滅させることでした。それにより小田原を海上からも封鎖することができたのです。
しっかりと『氏綱の代から本格的に』と言っていただきありがたい。地元の商売人やそれに影響された役所の人間などは有名な早雲からと昔の書物の記載を無かった事にして歴史都市としてありえない事を平気で言って町のアピールしているので、、、江戸期のご米曲輪跡地から出てきた北条時代の史跡は埋めちゃうし、空堀も街中に何も残していなし、出てきても埋めちゃうし。
こんだけでも圧倒的物量にはかなわないのよね😅
秀吉恐るべし
この小田原の地に巨大な総構えを築くとは小田原北条氏おそるべしです!!秀吉に限らず、多くの豊臣大名たちも小田原北条氏の築城技術に衝撃を受け、それを手本として日本各地に小田原城のような総構えを持つ城を築いたかもしれませんね。
そう言えば、私の故郷・福島県の会津若松城には、蒲生氏郷が会津領主になった頃に築かれた総延長6㎞に及ぶ総構えがありますよ。その総構えは16ヶ所の虎口が配置され、その内側には郭内(武家屋敷)と郭外(町人町)という構成で城下町が成り立っています。氏郷がいかに会津の肥沃な土地を重視し、城下町を築いたのかを知ることができます。現在、この惣構えのラインは消滅していますが、蒲生氏時代に築かれた城下町を基盤として会津若松市の町並みが栄えています。
また、会津若松城以外に磐城平城(福島県いわき市)や、会津桧原城(福島県北塩原村)や、米沢城(山形県米沢市)、出羽山形城(山形県山形市)、盛岡城(不来方城)(岩手県盛岡市)、出羽久保田城(秋田県秋田市)など東北に総構えを持つ城がたくさんあります。小田原城の総構えと会津若松城の総構えと比較しながら、東北各地に残る城の総構えの痕跡を辿ってみるのも楽しみの一つだと思います🏯
八幡山が開発が結構入ってしまったのが残念です。現在の東海道線が走るところもお堀だったと言われています。かなり巨大な堀(小田原では最大)になるかと。また小峯は大森氏の館(城)があった場所なのでその時代の遺構も氏綱は活用したかと思います。また東側は山王川と酒匂川の間は湿地だったとの事なので敢えてそこに遊びを作り暴れ川の酒匂川へと敵を追い詰め易くさせていたのかと思います。土塁で石垣は敢えて使わなかったのでしょう。秀吉が使った石橋の石切場や真鶴も江戸城などでも使用された石切場でそれらは指呼の距離ですので。また防御だけでなく都市設計としても当時として先進的な用水を早川から引き小田原の街中や、埋めてしまった御米曲輪跡地の屋敷群の中を巡っており、街中にゴミが落ちていなかったと言うほど整備されていたとのことなので、二代氏綱から始まるその優れた小田原の統治ぶりが伺えます。
これじゃ、武田信玄や上杉謙信でも落とせないですね。
地元ですが、城しか行った事が無いです。