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ショックなことがあって、とぼとぼ歩いているうちに気が付けば10キロ以上歩いていたってことがありました。私は登山にも仏教にもほぼ無縁ですが、歩くことに何らかの癒し効果があるのではないかと思っています。
自然が感じられるからですね。
「他者を想うこと」というシンプルなこと、心にとめました。
大阿闍梨の寛大さが伺えるインタビューでした。歩行禅にも興味持ちましたし、説法を受けたいと思いました。
全てに共感でした。自然の中に投げ出された自分のちっぽけさに泣けるような笑えるようなそんな気持ちにさせてくれる山に常に感謝です。
お寺から見える景色がとても素晴らしいですね。穏やかな気持ちになれます。“感謝”という言葉は社会に溢れているけれど、9日間お水を飲まなかった末に飲飲んだ時に感じる感謝がどういうものか、、想像ができない。体調を時々崩す自分としては、体調が良いだけでありがたいな、嬉しいなと感じる。YAMAPさんの動画を見て、小さい低い山でも、登りたいなと思うようになった。
背景の木や土が、絵画のように美しく優しく見えます。合掌😊
人と話すときは、帽子とったほうがよいです。脱帽の意味通りインタビュー相手に敬意を表すること。マスクや帽子をとり素顔をさらすことは、挨拶とおなじぐらい大事と思います。角が立ちましたらご容赦ください。私はYAMAPユーザーで貴社のことは応援しています。
流石です!
48kmの山道を1000日歩く中で一回もモチベーションが落ちていないというのが衝撃的...。歩き続けると心や世界が外側に開かれていくのも印象的で、自分も歩くことをただの移動とは思わずに過ごしてみようと思います。
有難う御座います!素晴らしいお言葉です。1秒でも多く楽しいや心地よい、ポジティブな気持ちを短い一生の中で感じたいものです。
福岡の那珂川市に住んでいます。とてもとても勉強になる貴重な対談をありがとうございました。
歩く。祈る。祈る為に山頂まで歩く歩いてこそ山頂で祈ることができる。悩んだらまた、この動画を見させていただきます
歩くだけで前向きな気持ちになれる「歩行禅」。2023年はもっと歩こう!
言葉や息遣いそして礼儀は大切ですね。酒井さんもそうでしたが塩沼さんも、とても謙虚で、人に分かりやすく、フラットな感じがしました。
いいお話を聞かせて頂きました。最近の環境における問題についてのご意見、もやもやしていた思いに対しての答えのように受け取る事が出来ました。ありがとうございました。
聞き手の帽子を被る態度、うん、うんという失礼な反応が耳に付き、違和感を感じたのは私だけでしょうか?お坊様のお話はすばらしかったです。
内容の濃さも言わずもがな、佇まいや語り口が本当に魅力的です!
素敵な対談でした
最後の塩沼大阿闍梨のお言葉に涙が出そうでした日々の生活で幸せを追い求めながら、幸せそのものを見失ってしまっていたのではないかとハッとしました貴重な動画配信をありがとうございます
リモート中心の生活で一日まったく歩かない事も。一日の始まりと終わりに「歩行禅」はじめてみようと思います。
常々お名前を聞いていた塩沼阿闍梨。自分の生活でも歩く意味をもう一度見直して見たいと思いました。歩くこと自体に意識を向ける。新しい発見がありそうです。
恐れ入ります塩沼さんって善の塊ですね仏教のリーダーしか思えません
歩行禅…これから意識したいです
自然から様々なものを受け取り感謝をする国民は日本人だけだと思います。おっしゃる通り朝、目が覚めて呼吸をしている、それだけで感謝をする感じる。人として基本だと思います。仏教の住職は死に対しても日々生活の生き方に対しても答えをお持ちだと思います。現在は住職様の貴重な存在がわからない、親も知らないから子供に話ができない。
感謝が感じられる修行、呼吸のための座禅。健康のための仏教。
歩くことが禅につながるとは! 日々の生活でできるなら、トライしてみたいです
雑念が取り払われるような
都会の通勤・通学の中にも「歩行禅」を取り入れることでマインドが良い方向に変わるって、新しい気づきでした。私も取り入れてみようっと。
駅の階段を一段抜かしで足腰鍛えています!
掃除は実は内面を綺麗にしてる
わかります😭友達と山登りしたときに木が肺の血管に見えたり川の流れが血液とか身体の流れに見えてきて"じぶんの身体のなかを探索しているワタシ"って変な感覚なってたらともだちに感性が豊か過ぎるって笑われたわ😂🙏🏻✨(いい思い出)自然こわいけど流れに添えればほんときもちいい😆
瞑想歩行ですね
阿闍梨様の前で帽子を取らないのはどうしてかと思ってしまいました。
けしからんね
もしかしたら古傷があったり、コンプレックスがあるのかも知れませんよ
帽子を取って参拝している動画を公開している
山川草木悉皆成仏
そんなとるに足らないようなことをイチイチコメントするのはどうしてかと思いました
修験でもアウトドアでも、ホスピタリティーは大事ですね。
一歩一歩前へ歩けば、いつか目的地に辿り着けますね❗️😊👍
もう身体を動かして、体験をして、感受性を持って生きていこうと改めて
歩く、シンプルだけど、凄く深いですね。いろいろなことを気づかされます!
気づかい、刺さりました。
子供のころからこの人を知ってる人は、絶対信じるなと言っていたと聞きました
ロングトレイルしているときに感じた山に溶け込むような感覚。1000日歩くと一体どのように感じるのだろう...
山と同化するのでは
その感覚すごく分かります。面白いのが疲れてたり運動をしてないと普段の山なんですよね。山は山で自分は自分なんだけどちょっと心拍数上げる運動すると周りの風景と自分の体がスーッと溶けてくようなあの感覚大好きです
素晴らしいお話をされてるので、帽子を脱がないところに気が行かなかったです。このコメント欄の人達は視野が広いですね。本当に羨ましいです。帽子屋さんになればいいと思いました。
逆に本質からずれてるので、修行が足りないかと。
@@asa01053 確かにそうですね。修行が足りていないことを自覚できたら良いのですが、難しいことですね。
@@ハマチくん-p7y 確かに常識からしたら失礼かもしれませんが、修行僧にしたら、そんなことはどうでもよくなるんではないかな。千日歩いたから、帽子ごときでは動じませんね!
対談する二人の問題ならまだしも、視聴者に向けた対談です。礼儀をわきまえなければ気持ちよく見ることはできません。
@@hidek3989 なるほど、不快な思いをしながら視聴されている方が居られるのですね。それは辛いでしょうね。私は無料のコンテンツなので感謝の気持ちを持って視聴させていただいています。
修験はホスピタリティー。至言。
YAMAP代表 春山慶彦氏、ものごとを頭だけで理解し、「祈り」を口にしながらも信仰の現実世界を全く 理解していません。少しでも理解力や姿勢があるなら、春山慶彦氏は帽子を被って無いでしょう。これが自身のファッションだとかスタイルだとかは全く関係ないのです。祈りは無条件で自身の心の中から芽生えるもので、対談しながら帽子を被り続ける春山氏の姿勢は、「祈り」や「修験道」を語る資格以前でしょう。春山慶彦氏は、西洋の「山を征服する心」の人であり、「山」は所詮YAMAPと云う商売の延長なのだと感じました。知識と口先だけの対談であり、空虚さだけが残ってしまいました。
全くです。YAMAPが迷走しているのもさもありなん。
素晴らしい内容ですが、屋内かつ目上の人の前で帽子を被り続けている事に非常に違和感を感じました。普段の生活でそういう人が皆無だからでしょうけど、最低限のマナーはあり続けてほしい。
スタッフが指摘しなかったんですかね。
@@asa01053 スタッフも常識がないのでしょう。普通は注意しますね。本当に常識のない日本人がどんどん増えてしまっていて残念です。
歩く と おっしゃいますが あれはもう 走ってらっ しやる 急な下り坂でも全く速度を緩めることなく下っていかれるのは 見ている方が怖いくらいです
本質的に、ツーリズムは環境破壊ですよね。これをエコツーリズムなんて呼ぶのは、都会人の傲慢だと私は思います。
ビジネスに繋がると地球環境の破壊に向かいますね
歩くことは健康に繋がります。血流がよくなります。マラソンより安全です!一般人は楽しく歩きましょう!日本人は修行し過ぎで真面目すぎるんだそうで、真面目過ぎると病気になるそうです!適当に歩きましょう!歩きヨガを意識してみます!脱帽🧢
このインタビュア屋内でも目上の方でも帽子被ってるの気になるんだよな
インタビューに答えてくれている方、ましてや大阿闍梨のお話に対して「うーん、うーん」はあり得ない。。何様なんだ?
私は千日回峰行ならぬ万日回峰行を達成しましたがやってみて悟ったのは、こんな修行にはなんの価値も意味もないってことでした。ヤンキーが腕に煙草を押し付ける根性試しと千日回峰行は、本質的な意味において同じなのです。
お釈迦様も同じように感じたので、その教えを弟子に伝えたみたいです。無駄なことをやらないと何が大切なのかわからないと、落合さんもイチローさんもおっしゃってました。無駄と思えば無駄に、価値があると思えば価値になるのが、人間の特性かと。
@@asa01053 なんかすげーわかります。3年間朝の水業をやってみたんですが、同じ感覚です。ちなみに今も続けています。普通に風邪ひくし、あれなんですが3年も続けると習慣になるってことはわかりました。
自給自足の森sorinfarmを営んでいます。森からいただく感謝の念、畏敬の念を抱かさざるを得ない自然環境。山の湧き水が小川となりその水で畑の水やりをしています。パーマカルチャーの中でもゾーニングや環境のエリア区分として、神域や里山思想があります。自然への畏敬の念を体現していれば、平和で豊かな暮らしは生まれると信じています。
メモの内容を見せてほしいですね。人の話を聞いて反応するわけではなく、自分の用意した話をしているだけですね。帽子の件もそうですが、話を聞くという姿勢からなっていない。うんうんという相槌も空虚に聞こえます。
インタビュー側、しかも代表。脱帽しないのはどういう了見なんだろうか。よっぽどの事情が有り、脱帽できないなら、インタビュアーを変えるなり対策できるのでは。対談以前の問題では。オープニングから?だったわ。
この🧢帽子かぶり事件なんですが、NHKの教育番組でも帽子かぶって出ていたので、もうこれが通常スタイルみたいですね。ちなみに昔の頃の写真も帽子かぶっていたので、恐らく帽子が好きなようです!
大日月地神示でも 読めば 答えは出るし エックハルト・トールのニューアース当たりもいい感じ…
なんで帽子をとらないんだろう。
帽子を取っちゃうとただの兄ちゃんにみえるから。帽子があることでアウトドア関係の人って認識してもらえるから。
ツルツルハゲてると帽子かぶりたいよね
3:13 姿勢
春山さん はじめてコメントさせていただくアバちゃん(唐津~神戸 往復するスキンケア専門店のアバターです)と申します。他の動画も拝見しコンポステーラ巡礼からYAMAPヒントを得られたとのこと。また熊野古道も歩きました。今後インバウンド旅行者へ歩くルートを一緒に開発できないか思っております。 例えば 西九州新幹線の武雄温泉駅から唐津まではなだらかな下り坂で山里景色広がる50Kmです。古湯温泉や呼子ルートもありますが1泊2日~2泊3日で歩くだけで、巡礼路は仲良くなって自分の考えを再定義できます。 20年前犬ぞりに行きたくて北極圏のカナダホワイトホースで-15度森中でキャンプしたこともあります。水は雪水を沸騰させて飲み火のありがたみがわかりました。ヨットでもGPSの凄さもわかります。一度 Zoom面談か福岡でお会いできれと思っております。昨年10月初スペイン初巡礼の200秒ビデオを送ります。th-cam.com/video/tEbCBQYuXcM/w-d-xo.html 今日は大寒2023-1-20 良い週末をお過ごしください。
帽子とれ。
ただ歩くことに意味があるのではなく、自然の中にある神や仏に祈ることに宗教的意味があるはず。比叡山の千日回峰行は王城鎮護の延暦寺の行だから、とくにその意味がある。しかし塩沼さんは大峯なので個人的なもの、アスリートのようなもので、たしかにすごいなあとは思うけど宗教者としてどのような意味があるんでしょう。自己満足以上のものではないような。
大峯山が日本の祈りの道、つまり修験道の始まりです。その開祖が役小角様。それを踏まえた上で、「大峯山を歩くことって、意味あるの?」という問いなのでしょうか?
@@gpun8598 さん 大峯山の修験道の歴史は大まかには承知しています。役小角の開いた修験道は自己の法力を高めるもの、自分のためのものであって、そのような宗教的な霊力のようなものが信じられない現代においては人間の体力の限界に挑戦するアスリートと比較しうるものに感じられます。一方で比叡山の千日回峰行、こちらもやはり人間の限界まで挑戦するスポーツ的なもののように見えますが、根幹には大乗仏教の精神、日本の国の安泰を祈ることが目的であり、信者ではない私からしたらそれが具体的に国の安寧につながるとは信じられないながら、しかしその真摯な祈りには敬意を覚えます。
@@遥かに想う鳰の海 さんなるほど、大峯山のことをご存知の上での問いでしたか。役小角の修行は「個人の法力を高める為だけの所詮自己満足、自慰行為みたいなもので、その祈りは国家安寧などには繋がらない」、また「宗教的霊力などは、科学技術が発達した現代では迷信に過ぎない」というお話ですね。それは、個人個人の経験値によって、捉え方が異なる範疇のことでしょうね。普段上記の様に考えている人でも、実際自分の力でどうにもならない状況に陥ると、厄除けに走ったり、必死で神仏にお祈りしたり、といった姿はよく目にします。これ(宗教的霊力、あるいは法力)があるか無いかに関しては、言葉で説明できるような類ではなく、実体験でしか学べないことですね。宇宙に関しては、人類は未だ数%しか解明できていないので、「見えない、感じないから、そんなものは無い」と捉えるのは、それこそ物理や科学に反するかな、と私は思います。あるか無いかは判らないけど、もしかするとあるのかもしれない、という姿勢が科学的思考(現代的思考)ではないでしょうか。
@@gpun8598 さん 人間がこの宇宙について知らないことがまだまだあることは確かでしょう。しかしながら知らない領域を徐々に少なくしていっていますし、何よりその知的努力の根底にある「世界観」は確立しています。人間は神や仏などがフィクションであることを理性によりわかってしまったのです。たとえいまでもあつい信仰心を持って神仏に祈っている人でも、内心の根底ではその祈りによって現実が曲げられることはないと知っているのです。ただ、自らの理不尽な生や運命と折り合いをつけるためのよすがとして、神仏というフィクションを利用しているのです。私はそれを愚かだとか言って非難したり馬鹿にしたりはしません。自我というのは自らの生を受け入れられないのですから。しかしこの唯物論的な身も蓋もない冷厳な世界観は釈迦の原始仏教と親和性があるように思います。
海外でSDGsというワードは知名度が低くても、Sustainability(持続可能性)とかCSR(企業の社会的責任)といえば、普通に多くの企業が最重要視して取り組んでいる課題のひとつです。基本的に同じコンセプトです。
カリブーは一日に百キロ歩けます
インタビュアーの人、相槌は「うん」じゃなくて「はい」にしないと。。。
苦行とは、自らが望んで入るのではなく、してはならない行為を敢えてすることから始まる。善の世界観しか知らない人たちが、悪の世界など知る由もなく、ならばどうして善悪の区分が付けられると言うのだろうか?それは片方の偏向的な思想でのみ悪の基準を判断しているにすぎない。そんな奴が覚者になんてなれるはずもないだろw
厳しい修行やられているハズなのに頬がコケてない。むしろ丸々されてなさる。
なるほどと想わされたのは子供の時信じられない位歩いたり考えてる事があった私達は年齢的に祈っている事も多くそうかと思いました、阿闍梨様、近頃の新興宗教についてはどう云うご意見ですが、別の話ですか?
Only the dead have seen the end of war.
インタビュア、対話できる雰囲気ではない嫌悪感です。
謗法
帽子を脱げ。話はそれからだ。
ショックなことがあって、とぼとぼ歩いているうちに気が付けば10キロ以上歩いていたってことがありました。私は登山にも仏教にもほぼ無縁ですが、歩くことに何らかの癒し効果があるのではないかと思っています。
自然が感じられるからですね。
「他者を想うこと」というシンプルなこと、心にとめました。
大阿闍梨の寛大さが伺えるインタビューでした。
歩行禅にも興味持ちましたし、説法を受けたいと思いました。
全てに共感でした。
自然の中に投げ出された自分のちっぽけさに泣けるような笑えるようなそんな気持ちにさせてくれる山に常に感謝です。
お寺から見える景色がとても素晴らしいですね。
穏やかな気持ちになれます。
“感謝”という言葉は社会に溢れているけれど、9日間お水を飲まなかった末に飲飲んだ時に感じる感謝がどういうものか、、想像ができない。
体調を時々崩す自分としては、体調が良いだけでありがたいな、嬉しいなと感じる。
YAMAPさんの動画を見て、小さい低い山でも、登りたいなと思うようになった。
背景の木や土が、絵画のように美しく優しく見えます。合掌😊
人と話すときは、帽子とったほうがよいです。
脱帽の意味通りインタビュー相手に敬意を表すること。マスクや帽子をとり素顔をさらすことは、挨拶とおなじぐらい大事と思います。
角が立ちましたらご容赦ください。私はYAMAPユーザーで貴社のことは応援しています。
流石です!
48kmの山道を1000日歩く中で一回もモチベーションが落ちていないというのが衝撃的...。歩き続けると心や世界が外側に開かれていくのも印象的で、自分も歩くことをただの移動とは思わずに過ごしてみようと思います。
有難う御座います!
素晴らしいお言葉です。
1秒でも多く楽しいや心地よい、ポジティブな気持ちを短い一生の中で感じたいものです。
福岡の那珂川市に住んでいます。
とてもとても勉強になる貴重な対談をありがとうございました。
歩く。
祈る。
祈る為に山頂まで歩く
歩いてこそ山頂で祈ることができる。
悩んだらまた、この動画を見させていただきます
歩くだけで前向きな気持ちになれる「歩行禅」。2023年はもっと歩こう!
言葉や息遣い
そして礼儀は大切ですね。
酒井さんもそうでしたが塩沼さんも、とても謙虚で、人に分かりやすく、フラットな感じがしました。
いいお話を聞かせて頂きました。最近の環境における問題についてのご意見、もやもやしていた思いに対しての答えのように受け取る事が出来ました。
ありがとうございました。
聞き手の帽子を被る態度、うん、うんという失礼な反応が耳に付き、違和感を感じたのは私だけでしょうか?
お坊様のお話はすばらしかったです。
内容の濃さも言わずもがな、佇まいや語り口が本当に魅力的です!
素敵な対談でした
最後の塩沼大阿闍梨のお言葉に涙が出そうでした
日々の生活で幸せを追い求めながら、幸せそのものを見失ってしまっていたのではないかとハッとしました
貴重な動画配信をありがとうございます
リモート中心の生活で一日まったく歩かない事も。一日の始まりと終わりに「歩行禅」はじめてみようと思います。
常々お名前を聞いていた塩沼阿闍梨。自分の生活でも歩く意味をもう一度見直して見たいと思いました。歩くこと自体に意識を向ける。新しい発見がありそうです。
恐れ入ります
塩沼さんって善の塊ですね
仏教のリーダーしか思えません
歩行禅…これから意識したいです
自然から様々なものを受け取り感謝をする国民は日本人だけだと思います。おっしゃる通り朝、目が覚めて呼吸をしている、それだけで感謝をする感じる。人として基本だと思います。仏教の住職は死に対しても日々生活の生き方に対しても答えをお持ちだと思います。現在は住職様の
貴重な存在がわからない、
親も知らないから子供に話ができない。
感謝が感じられる修行、呼吸のための座禅。健康のための仏教。
歩くことが禅につながるとは! 日々の生活でできるなら、トライしてみたいです
雑念が取り払われるような
都会の通勤・通学の中にも「歩行禅」を取り入れることでマインドが良い方向に変わるって、新しい気づきでした。私も取り入れてみようっと。
駅の階段を一段抜かしで足腰鍛えています!
掃除は実は内面を綺麗にしてる
わかります😭
友達と山登りしたときに
木が肺の血管に見えたり
川の流れが血液とか身体の流れに見えてきて
"じぶんの身体のなかを探索しているワタシ"って
変な感覚なってたら
ともだちに感性が豊か過ぎるって笑われたわ😂🙏🏻✨(いい思い出)
自然こわいけど流れに添えればほんときもちいい😆
瞑想歩行ですね
阿闍梨様の前で帽子を取らないのはどうしてかと思ってしまいました。
けしからんね
もしかしたら古傷があったり、コンプレックスがあるのかも知れませんよ
帽子を取って参拝している動画を公開している
山川草木悉皆成仏
そんなとるに足らないようなことをイチイチコメントするのはどうしてかと思いました
修験でもアウトドアでも、ホスピタリティーは大事ですね。
一歩一歩前へ歩けば、いつか目的地に辿り着けますね❗️😊👍
もう身体を動かして、体験をして、感受性を持って生きていこうと改めて
歩く、シンプルだけど、凄く深いですね。
いろいろなことを気づかされます!
気づかい、刺さりました。
子供のころからこの人を知ってる人は、絶対信じるなと言っていたと聞きました
ロングトレイルしているときに感じた山に溶け込むような感覚。1000日歩くと一体どのように感じるのだろう...
山と同化するのでは
その感覚すごく分かります。面白いのが疲れてたり運動をしてないと普段の山なんですよね。山は山で自分は自分なんだけど
ちょっと心拍数上げる運動すると周りの風景と自分の体がスーッと溶けてくようなあの感覚大好きです
素晴らしいお話をされてるので、帽子を脱がないところに気が行かなかったです。このコメント欄の人達は視野が広いですね。本当に羨ましいです。帽子屋さんになればいいと思いました。
逆に本質からずれてるので、修行が足りないかと。
@@asa01053 確かにそうですね。修行が足りていないことを自覚できたら良いのですが、難しいことですね。
@@ハマチくん-p7y 確かに常識からしたら失礼かもしれませんが、修行僧にしたら、そんなことはどうでもよくなるんではないかな。千日歩いたから、帽子ごときでは動じませんね!
対談する二人の問題ならまだしも、視聴者に向けた対談です。礼儀をわきまえなければ気持ちよく見ることはできません。
@@hidek3989 なるほど、不快な思いをしながら視聴されている方が居られるのですね。それは辛いでしょうね。私は無料のコンテンツなので感謝の気持ちを持って視聴させていただいています。
修験はホスピタリティー。至言。
YAMAP代表 春山慶彦氏、ものごとを頭だけで理解し、「祈り」を口にしながらも信仰の現実世界を全く 理解していません。
少しでも理解力や姿勢があるなら、春山慶彦氏は帽子を被って無いでしょう。
これが自身のファッションだとかスタイルだとかは全く関係ないのです。
祈りは無条件で自身の心の中から芽生えるもので、対談しながら帽子を被り続ける春山氏の姿勢は、「祈り」や「修験道」を語る資格以前でしょう。
春山慶彦氏は、西洋の「山を征服する心」の人であり、「山」は所詮YAMAPと云う商売の延長なのだと感じました。
知識と口先だけの対談であり、空虚さだけが残ってしまいました。
全くです。
YAMAPが迷走しているのもさもありなん。
素晴らしい内容ですが、屋内かつ目上の人の前で帽子を被り続けている事に非常に違和感を感じました。
普段の生活でそういう人が皆無だからでしょうけど、最低限のマナーはあり続けてほしい。
スタッフが指摘しなかったんですかね。
@@asa01053
スタッフも常識がないのでしょう。
普通は注意しますね。
本当に常識のない日本人がどんどん増えてしまっていて残念です。
歩く と おっしゃいますが あれはもう 走ってらっ しやる 急な下り坂でも全く速度を緩めることなく下っていかれるのは 見ている方が怖いくらいです
本質的に、ツーリズムは環境破壊ですよね。これをエコツーリズムなんて呼ぶのは、都会人の傲慢だと私は思います。
ビジネスに繋がると地球環境の破壊に向かいますね
歩くことは健康に繋がります。血流がよくなります。マラソンより安全です!一般人は楽しく歩きましょう!日本人は修行し過ぎで真面目すぎるんだそうで、真面目過ぎると病気になるそうです!適当に歩きましょう!歩きヨガを意識してみます!脱帽🧢
このインタビュア屋内でも目上の方でも帽子被ってるの気になるんだよな
インタビューに答えてくれている方、ましてや大阿闍梨のお話に対して「うーん、うーん」はあり得ない。。何様なんだ?
私は千日回峰行ならぬ万日回峰行を達成しましたが
やってみて悟ったのは、こんな修行にはなんの価値も意味もないってことでした。
ヤンキーが腕に煙草を押し付ける根性試しと千日回峰行は、本質的な意味において同じなのです。
お釈迦様も同じように感じたので、その教えを弟子に伝えたみたいです。無駄なことをやらないと何が大切なのかわからないと、落合さんもイチローさんもおっしゃってました。無駄と思えば無駄に、価値があると思えば価値になるのが、人間の特性かと。
@@asa01053 なんかすげーわかります。3年間朝の水業をやってみたんですが、同じ感覚です。ちなみに今も続けています。
普通に風邪ひくし、あれなんですが3年も続けると習慣になるってことはわかりました。
自給自足の森sorinfarmを営んでいます。森からいただく感謝の念、畏敬の念を抱かさざるを得ない自然環境。山の湧き水が小川となりその水で畑の水やりをしています。パーマカルチャーの中でもゾーニングや環境のエリア区分として、神域や里山思想があります。自然への畏敬の念を体現していれば、平和で豊かな暮らしは生まれると信じています。
メモの内容を見せてほしいですね。
人の話を聞いて反応するわけではなく、自分の用意した話をしているだけですね。
帽子の件もそうですが、話を聞くという姿勢からなっていない。
うんうんという相槌も空虚に聞こえます。
インタビュー側、しかも代表。
脱帽しないのはどういう了見なんだろうか。
よっぽどの事情が有り、脱帽できないなら、インタビュアーを変えるなり対策できるのでは。
対談以前の問題では。
オープニングから?だったわ。
この🧢帽子かぶり事件なんですが、NHKの教育番組でも帽子かぶって出ていたので、もうこれが通常スタイルみたいですね。ちなみに昔の頃の写真も帽子かぶっていたので、恐らく帽子が好きなようです!
大日月地神示でも 読めば 答えは出るし エックハルト・トールのニューアース当たりもいい感じ…
なんで帽子をとらないんだろう。
帽子を取っちゃうとただの兄ちゃんにみえるから。帽子があることでアウトドア関係の人って認識してもらえるから。
ツルツルハゲてると帽子かぶりたいよね
3:13 姿勢
春山さん はじめてコメントさせていただくアバちゃん(唐津~神戸 往復するスキンケア専門店のアバターです)と申します。他の動画も拝見しコンポステーラ巡礼からYAMAPヒントを得られたとのこと。また熊野古道も歩きました。今後インバウンド旅行者へ歩くルートを一緒に開発できないか思っております。 例えば 西九州新幹線の武雄温泉駅から唐津まではなだらかな下り坂で山里景色広がる50Kmです。古湯温泉や呼子ルートもありますが1泊2日~2泊3日で歩くだけで、巡礼路は仲良くなって自分の考えを再定義できます。 20年前犬ぞりに行きたくて北極圏のカナダホワイトホースで-15度森中でキャンプしたこともあります。水は雪水を沸騰させて飲み火のありがたみがわかりました。ヨットでもGPSの凄さもわかります。一度 Zoom面談か福岡でお会いできれと思っております。昨年10月初スペイン初巡礼の200秒ビデオを送ります。th-cam.com/video/tEbCBQYuXcM/w-d-xo.html 今日は大寒2023-1-20 良い週末をお過ごしください。
帽子とれ。
ただ歩くことに意味があるのではなく、自然の中にある神や仏に祈ることに宗教的意味があるはず。
比叡山の千日回峰行は王城鎮護の延暦寺の行だから、とくにその意味がある。
しかし塩沼さんは大峯なので個人的なもの、アスリートのようなもので、たしかにすごいなあとは思うけど宗教者としてどのような意味があるんでしょう。
自己満足以上のものではないような。
大峯山が日本の祈りの道、つまり修験道の始まりです。その開祖が役小角様。
それを踏まえた上で、「大峯山を歩くことって、意味あるの?」という問いなのでしょうか?
@@gpun8598 さん 大峯山の修験道の歴史は大まかには承知しています。役小角の開いた修験道は自己の法力を高めるもの、自分のためのものであって、そのような宗教的な霊力のようなものが信じられない現代においては人間の体力の限界に挑戦するアスリートと比較しうるものに感じられます。
一方で比叡山の千日回峰行、こちらもやはり人間の限界まで挑戦するスポーツ的なもののように見えますが、根幹には大乗仏教の精神、日本の国の安泰を祈ることが目的であり、信者ではない私からしたらそれが具体的に国の安寧につながるとは信じられないながら、しかしその真摯な祈りには敬意を覚えます。
@@遥かに想う鳰の海 さん
なるほど、大峯山のことをご存知の上での問いでしたか。
役小角の修行は「個人の法力を高める為だけの所詮自己満足、自慰行為みたいなもので、その祈りは国家安寧などには繋がらない」、また「宗教的霊力などは、科学技術が発達した現代では迷信に過ぎない」というお話ですね。
それは、個人個人の経験値によって、捉え方が異なる範疇のことでしょうね。
普段上記の様に考えている人でも、実際自分の力でどうにもならない状況に陥ると、厄除けに走ったり、必死で神仏にお祈りしたり、といった姿はよく目にします。
これ(宗教的霊力、あるいは法力)があるか無いかに関しては、言葉で説明できるような類ではなく、実体験でしか学べないことですね。
宇宙に関しては、人類は未だ数%しか解明できていないので、「見えない、感じないから、そんなものは無い」と捉えるのは、それこそ物理や科学に反するかな、と私は思います。
あるか無いかは判らないけど、もしかするとあるのかもしれない、という姿勢が科学的思考(現代的思考)ではないでしょうか。
@@gpun8598 さん 人間がこの宇宙について知らないことがまだまだあることは確かでしょう。しかしながら知らない領域を徐々に少なくしていっていますし、何よりその知的努力の根底にある「世界観」は確立しています。人間は神や仏などがフィクションであることを理性によりわかってしまったのです。たとえいまでもあつい信仰心を持って神仏に祈っている人でも、内心の根底ではその祈りによって現実が曲げられることはないと知っているのです。ただ、自らの理不尽な生や運命と折り合いをつけるためのよすがとして、神仏というフィクションを利用しているのです。私はそれを愚かだとか言って非難したり馬鹿にしたりはしません。自我というのは自らの生を受け入れられないのですから。
しかしこの唯物論的な身も蓋もない冷厳な世界観は釈迦の原始仏教と親和性があるように思います。
海外でSDGsというワードは知名度が低くても、Sustainability(持続可能性)とかCSR(企業の社会的責任)といえば、普通に多くの企業が最重要視して取り組んでいる課題のひとつです。基本的に同じコンセプトです。
カリブーは一日に百キロ歩けます
インタビュアーの人、相槌は「うん」じゃなくて「はい」にしないと。。。
苦行とは、自らが望んで入るのではなく、してはならない行為を敢えてすることから始まる。
善の世界観しか知らない人たちが、悪の世界など知る由もなく、ならばどうして善悪の区分が付けられると言うのだろうか?
それは片方の偏向的な思想でのみ悪の基準を判断しているにすぎない。
そんな奴が覚者になんてなれるはずもないだろw
厳しい修行やられているハズなのに頬がコケてない。むしろ丸々されてなさる。
なるほどと想わされたのは子供の時信じられない位歩いたり考えてる事があった私達は年齢的に祈っている事も多くそうかと思いました、阿闍梨様、近頃の新興宗教についてはどう云うご意見ですが、別の話ですか?
Only the dead have seen the end of war.
インタビュア、対話できる雰囲気ではない嫌悪感です。
謗法
帽子を脱げ。話はそれからだ。