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喪服が黒になったのは明治以降で明治天皇のお妃の昭憲皇太后が西洋に倣って喪服は黒にしたと聞いたことあります。今でも一部地域では葬式の喪服は白装束ですし、お棺に入れるホトケさんは白装束ですね。武士が切腹する時も白装束で行います。日本で喪服が黒になったのは歴史的にはごく最近の話でしょう。
確か、落合正勝さんという服飾研究家も、昔の喪服は白と言っていたと思います。
純白のウェディングドレス、なんて明治の人たちは驚いたんだろね😂
随分と昔の話だけどうちの田舎では曾祖父さんの葬式の時みんな白いちゃんちゃんこを着てたなぁ。
@@アカバケン-n9c 白無垢は昔から着てたから……
そもそも死が嘆き悲しむべきものではなかったかも知れない。この動画にもあるように、屍の傍らで「歌い、舞った」のだから。そういう価値観は大陸の宗教が入ってきてから、崩れたと思う。地獄と極楽だとかいう概念が入ってきてから。
日本が送った遣隋使や遣唐使より、隋や渤海から来た遣日使の方が数が多かったとの説もあるので、向こうには複数の文献が残ってるかもしれませんね。
そうですよね、残っていたらぜひ読んでみたいですね。
山形県って渤海と貿易が盛んで、その影響で渤海人が多く渡来して混血したとかあるから、あながち嘘でもないかも。
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
タリシヒコに関しては、中国では女帝がいないので、女だと軽んじられないために男として紹介した説と、実は聖徳太子は即位していたのではないか説があるらしいですね
タリシホコは、九州王朝の王と理解してます。
@@加藤勉-g5p残念ながら違うよ
@@加藤勉-g5p古田武彦信者乙
@@加藤勉-g5p九州に王朝はありません
突厥可汗達頭、つまり聖徳太子は倭王です。
13:46 柏の葉・・その風俗は皿や膳はなく柏の葉を敷く当方の推測ですが、「柏の葉は食器に使う」でなく神様に御供えする際に使うもので、柏の葉でおもてなしをしたと推測しています。 *徳島県阿南市に賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ)があり、724年の 創建で延喜式内社で、現在は津峰(つのみね)山頂の津峰神社(つのみねじ んじゃ)に祀られていて、賀志波比売は天照大御神の幼名と考えられている んですよ。 御神紋は八角形で神様に御供えする三方(さんぼう)のことで、古くは柏の 葉が使用されていたんですよ。現在も皇室では神事には柏の葉が使われてい るんですね。
なるほど!そうなのですね。勉強になります。
中国で他国人の名は、その発音に近い漢字を当てます。たとえばタリシヒコを漢字でどう書いているか、当時の隋でその漢字はどう発音されていたか、それが本当の名前になると思います。卑弥呼だって当時の魏の発音で読むのが正しいと思います。つまり正しい名前は「ヒミコ」ではなさそうです。
確かに。小野妹子の「妹子」は「因高」と記録が残っているそうです。
多利思北孤ですね。タリシホクコまたはタリシホッコに近い発音になると思います。「北」を「ヒ」と発音することは無いようです。「彦」と読ませたくて「タリシヒコ」にしたのではないでしょうか。歴史学者のご都合主義です。
天のたらしヒコって、天子の日本語読みとも言えますし天孫もあり得るんですよね。また、天子の子≒聖徳太子(上宮王)でも違和感はないんですよね。女帝も引きこもりで上手く行くし、蘇我馬子と厩戸皇子って馬繋がりもあるのでそもそも蘇我氏が皇族もしくは近い存在なのも自然です。大化の改新前後で蘇我も上宮王家も没落していますので、この時期は記紀にもきちんと記されている(むしろ壬申の乱前後が怪しい箇所が多い)ところも垣間見れて面白かったです。
なるほど!天子や天孫の日本語読み説は納得がいきます。飛鳥時代は面白いですよね。
中学歴史では239年、4世紀後半、478年、538年、と飛び飛びでしか学習することがなく、独立した項目を覚えるだけで、流れが見えませんでした。この動画で、①その流れがあったということ、②日本書紀と隋書倭国伝に同じ歴史事項の記述がある、という歴史学的なアプローチの窓を開けてくれていること、に深く感銘を受けました。ありがとうございます。
こちらこそ、コメントありがとうございます。学校でも年号だけじゃなくて、その背景となる流れを教えてくれたら歴史も楽しく学べますよね。
戦後日本はGHQの指示の元、社会科は教えてはいますが歴史は教える事が禁止されていたので教えられていないんですよね。何年に〇〇〇が起きました。としか教えないのが社会科で有り、自分で進んで学びに行かなければ、歴史を学ぶ事が出来ないのですよ。
大部分的中国人都非常讨厌日本人! ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
@@shika1999???歴史を何から学ぶのでしょうか?正しい日本の歴史は教科書なのですか?日本書紀も古事記もあやしいのに、何が日本の正史なのですか?
18:16~ 秦王国が!って5世紀の中ごろに秦氏が大勢で移民してきたというけれど、その集落があったのかなぁ。
その可能性も考えられそうですね。
半島に秦韓(辰韓)という地域は秦の滅亡後に.逃亡して来た避難民が建国した国.そっちの民は秦の原郷の方言を今迄使用したと古藉に書いてあります.一つの例として、今のシンガポール,マラカの華僑は明十五世紀)から入植した華南人・それでも今迄華南の方言が主流.例えば人の苗字の陳はタンと発音・許はコ と発音.劉はラウに、楊はヨウと華南ふうの発音を使う、秦王国の人々も倭人に同化されるまで二、三百年は必要します.大陸の使者が秦王国を通過するときただ簡單に中華と同じと述べたわけです.徐福の時代の人と後ちの秦王国の人々(秦韓)の出発点は違うと思います.后者は半島を中継地として日本に辿りつく秦の后裔らしいです.
こういうゆっくり解説はわかりやすくて非常に勉強になる。事前に文献勉強してないと作れないし個人じゃないだろうけど大変だろなと思う。
コメントありがとうございます。歴史好きな素人が一人気ままに作ってます。個人的な趣味嗜好で作成してるので、取り上げる時代に偏りが。。。
@@ch7072 申し訳ない、企業ではなく個人なんですか大変だろうけど勉強になるんで応援します、登録しました。
@@kamicop1234 日本人先跟中国的慰安妇道歉!
倭族とか、倭国とか書かれていると日本の事だと思いがちですが、古代中国の考える倭族とは、中国南東部に居住していた民族の事ですね。長江河口域の殷とかにいた人達です。殷が滅亡した後、倭族は九州北部とか、朝鮮半島南部に避難、定住しました。和国とは倭族の集落、居住域です。中国から見れば、朝鮮半島も北九州もひとまとめだったのでしょう。中国の古代文献の倭国は朝鮮半島の倭人が主な記述対象だったと考えた方が良いと思います。
素晴らしすぎ!!旧唐書 新唐書の倭国伝も聞きたいです急ぐ事はないので 待ってますよろしくお願い
ありがとうございます。リクエストにも機会を見て挑戦したいと思います。
盟神探湯のことも記載されてるのが信憑性あるな
そうなのです。日本書紀の内容と合致する部分が多々あるので、余計に謎が深まります。
タリシヒコ・・・後の蘇我氏の専横を考えると蘇我馬子じゃないかな。女帝って考えは当時の中華にはないし、唐代に則天武后が初めて女帝として登場して中華人が驚愕したんだから、推古天皇をタリシヒコ(蘇我馬子)の妻と考えても不思議はないな。
その説はあり得るかもしれませんね。
朝貢、冊封と言う言葉の意味も解釈の仕方がいろいろだとか聞く。主従関係と言うより現代の交易安全保証みたいな物だった説に信憑性を感じる。そして焚き書が当たり前にあったら…寧ろ行間を読むくらいが適当なのかも。
新婦が火を跨いで家に入る風習は、昭和の初期まで残っていました。私の両親が生前見たことがあると言ってました。家の入口に豆幹(まめがら)に火を付けて新婦が跨いで入るらしい。その時に、箕で扇ぐのだとも言ってました。
昭和初期まで残っていたのですか⁉ とても貴重な情報をありがとうございます。ちなみにどの地域でしょう?
@@ch7072 武蔵国(埼玉県)です。30年前くらいですか?古代には、犬を跨いで新婦が家に入ったらしいよ、と両親に私が言うと。「豆柄に火を付けたのを嫁さんが跨いで玄関に入って行くんだ…」と母親が言ってました。父親も聞いていて、箕で火を扇ぐんだよと言ってましたね。近所のAさんが嫁に来た時に火を跨いだのを目撃したらしいです。
埼玉県ですか!私も調べてみたいと思います。教えて頂きありがとうございました。
興味深いお話を有難うございます。秦(しん)をハタと読み、秦以外にも「波田・羽田・旗」などを充てて「ハタ」と読む姓を持つ方たちのご先祖様のようですね。大陸からの渡来人と言われていて、歴史上では秦河勝が広隆寺を建造となっているようです。京都には今も太秦(うずまさ)という地名があり撮影所があります。国というのも今の国の事ではなく、血の繋がった一族が集団で居住し「邑」などを形成し、クニと呼びならわしていたと思われますね。現在も故郷を「クニ」と呼ぶのはその名残でしょうか。隋書をそのまま伝えてくださった処が良いですね。47は古来大仰な表現があるので日本側の記述などとの比較も面白いでしょうね。聖徳太子が隋の煬帝に宛てた書の「日出づる国の天子、書を日の没する国の天子に致す恙無きや」に、煬帝が激怒したという話は如何なのでしょうか?。使者が斬首されたとも伝わっていないようですし。
確かに、秦一族の痕跡は色々なところに残っていて興味深いです。
京都太秦には、秦氏(ユダヤ人12種族の1つ)一族が金銀財宝を持って来た・と?なにかの説明で有りました。秦と言う名前は今でも奈良県には有ります。以上知らんけど?
日出ずる国.....という国書は創作の物だと思います.なぜなら日本人固有の性格とずいぶんかけ離れ違います.日出国の日出は東の漢字を表わすでしょう.今のタイ人は東の事をTawan- Orkと言います. 西の事はTawan-Tok. タイ語に Tawan=太陽(大丸).Ork=出る. Tok= おリる.下がるの意味.それは純粋な古代人の視覚方向の感念、ほかに花嫁がお婿の家に入るとき 火か犬に跨って家に入るのも今大陸人、少数民族にもまだ残っています.犬のかわりに猫を使うのもあります. 厄払いのー種です.角隠しの風習も今では傘をさす.花嫁の頭から赤い頭巾(古代はまだ白い布).毛布で包むような風習.頭に大きなわら笠をかぶて嫁ぐような姿が見れます.インドの花嫁もサリで頭を覆うような格好をする、巫師が花嫁の身辺に火鉢または盆の上に少量の火で清める儀式があります.多分南方的な風習.
遠回しの表現で日本は黎明であなたの国は凋落していると捉えたから激怒したと類推できる。実際に、煬帝の頃に色々な問題があったから思う事あったのだと理解しやすい。あと当時でも外交の使者を切ることは外交慣例違反だったからと理由を考えることもできる。殺すということは現代で例えると大使館の旗を降ろすことと意味は同じ。
@@大阪の男-b4u 「以上知らんけど?」とはどういう意味ですか?
めちゃくちゃ興味深い!!なかなか中国の史文に触れる機会がないので面白いです。
中国側から見た当時の日本ってところが興味深いですよね。
とても面白かったです!有難う御座いました。
コメントありがとうございます。励みになります!
アメノタリシヒコとは誰だったのか?やっぱり、聖徳太子だったんじゃないかなぁ。
読めば読むほど謎が深まりますね。
秦王国は、秦氏による王国か?私の高1の時の担任が秦(はた)さんでハダでは無いとおっしゃってて秦氏の末裔であると言われてました。百済や新羅が倭に朝貢していたという事ですね。これを見ると例の国の方々が火病しませんかね。
隋書は本当に興味深いですよね!それと百済や新羅、高句麗が日本に朝貢していた事は日本書紀にもたくさん記述があって裏付けになります。
彦=男性たりしひこ=太子という男性の意味では?
ああー・・・太子彦=タイシヒコ=タリシヒコ・・・可能性あるかもです
自分を天子の称号で名乗っているあたり、そのことでもめて朝貢を出禁になったのかなw
日本は日本の都合の良いように歴史を綴るし、中国は中国で都合の良いように歴史を綴る。色んな国の視点で考察するのが良き。
同感です!色々な国の視点で考察すると、点と点が繋がることがありますね。
色々な説がありますが情報は沢山ある方が良いので今後とも情報発信をお願い致します。学校では絶対に教えてくれないですねw
コメントありがとうございます。励みになります。
いつも邪馬台国論争では日本の記述したものからしか研究してないが、本来ならば日中の文献の検証をすべきだと思うが、日本の学者、学会の論争で正確であろうとの見解が出ない。本来ならばこの様な中国との文献の整合性を求めるべきだ。ハッキリ言えば日本の学術学界の怠慢で日本の学者は遊んでいる。
まさに、ご指摘の通りだと思います!
皆んな自分の国の成り立ちを知りたがるから、倭人伝解説動画は伸びますね
その様ですね。動画を作った私が一番驚いてます。
あ とかひらがなって、知らない人には紐の結び目を描いて文字としてコミュニケーションを取ってるように見える気がする
確かに、そう見える気がします。
大化の改新の時に消されたことも多いだろうから海外にこういう文章残ってるのはありがたい
本当にそう思います。
存在意義はあるけど、昔は偽情報かどうかもわからないので、そういう話もあったくらいの判断しかできません。仏教あたりなどは顕著ですけど、自分の宗派の正当性をアピールするために偽書を盛んに作った宗派もありますからね。
@@daisuke5755 偽情報の可能性でいうなら、自国で編纂した書物の方が圧倒的にその可能性が高いと思いますが・・・自分の国の歴史は、その時の権力者の都合のいいように歪曲しがち。一方、外野の他国は客観的に記述すると思います。
@@ayabe9036 自国の歴史を歪曲したのではなく恣意的な表現をしたというのが正しいと思う。一方で現在の中国大陸にある記録については漢人だけでなく、それ以外の民族が代わる代わる当時の日本についての記録を残してることはあるけど、一部は一致するけど間違いも多い。間違いとは土地の距離感や名前とかね。一例としてタリシヒコだけでなく足利義満とかも勝手に王を名乗って勝手に交易してこれが記録に残っているだけと判断したほうがいいと思う。日本に記録はないけど当時の中国にはあったから日本が歪曲したと判断するのは早計じゃないかな?
@@papiyaspapiyas6265 割と当たり前のコメントをしたと思ったけど、そんなに気にいらなかったですか。
漢字文化で本当に良かったよな歴史の面では。
中華の地でも白い着物が喪服だったけど、春秋五覇の文公が亡くなった時に隣国の秦が攻め込んできた。葬儀の真っ最中だった息子の襄公が「喪服のままだと縁起が悪い」と墨に漬け込んで黒くして出陣。見事秦を返り討ちにしたこの吉例以降中華でも喪服に黒い着物が浸透していったみたいです
貴重な情報ありがとうございます。そういう逸話があったのですねぇ。
あの論理なき考古学と馬鹿にされる邪馬台国論争も、ペラペラのメモ書きみたいな魏志倭人伝は使うけど隋書とか本当にシカトしますよね面白かったし勉強になりました!
コメントありがとうございます。
ネットと同じで、自分の考えに合うソースは信頼し、不都合なソースは無視するかガセ扱い。
😮😮
魏志倭人伝のみが正書であるようですが(ほかは認めない)その論拠は何?だろうね
@@abeleuler1 他の史書には、日本国民に知られたくない、文部科学省にとって不都合なことが書かれているのだと推定。(書かれていることの真偽は別問題。文科省にとって都合がいいかどうかが問題。)
古代・中世の国家存在と風俗は、実際に訪問せず伝聞で脚色し、事実とかけ離れた記載が多い。魏書、隋国倭人伝も訪問して調査し記載した書ではない。魏志では長江の一民族を倭人とし、伝聞で物語を創り、場所は星座から適当に記録した。従って魏志通りなら倭国は南洋の海上になる。隋書では魏志倭人描写と特使派遣結果を折り混ぜ風俗を描写しているが、刺青を顔と腕・体にしていると長江民族の伝聞を混ぜている。かなりいい加減な記載である。
火(浄化)でも犬(多産)でも嫁入りの儀式ではありうるよなあ
なるほど。どちらもあり得そう。
日本のポンコツ歴史教育に教育システム。明治維新に、戦後。
新羅が女王を戴いていたことに対し「女を頭に戴くのは野蛮」と改めさせた、というのが当時の中国側の感覚なので推古女帝ではなく聖徳太子が国王・タラシヒコとして対応したのかもしれませんね。
その可能性は大きいと思います。聖徳太子は国外の情報をかなり正確に把握していたと思うので、対外的に男帝として対応したのかもしれませんね。
王(女王)を戴く(いただく)って言いません?
新唐書では「日本側の使者曰く、タリシホコは用明天皇の事らしい」日本書記では用明天皇はずっと近畿にいた。もちろん阿蘇山の近くで暮らした記録もない
@@ak3799 ありがとうございます、誤字ってましたね😅
基本的に我々が知っている天皇名は崩御後のおくり名ですので、在位中は別の呼ばれ方かと。
ずっと後の時代の「元史日本伝」や「明史日本伝」、大枠で日本側史実と一致するも細かいエピソードはかなり脚色されている。盛んに交流があり、直接戦火を交えた時代でもそんな感じなので、古代日本についても、外交関係や国の概要はほぼ正確だが、習俗や指導者に関しては実は結構トンチキに描写されてた…と思っている
不倫は死罪って、この時代、一般人にも結婚制度が浸透してたんだろうか。
今も適用されてたら、ここ最近の芸能界も大変なことに。。
面白かったです知らないことだらけでしたタリシヒコ…何者なのでしょうね?…あと…金印は、偽物説があるそうで…?
奴隷と記載するが、懲役刑と思う。無期懲役もあっただろうが奴隷制度とは違う。奴隷階級などはない社会だろう。
江戸時代まで喪服は白だったらしい、明治時代から西洋に習って黒になったらしい
随分長い間、喪服は白かったのですね。
入れ墨は少し前まで船乗りも入れて居たらしい。というのも落水して行方不明になったとき、体の一部が発見されたら入れ墨で個人を特定できるからだそうな。
当時の九州北部の人は刺青をする習慣があるけど、大和の人はその習慣がないんじゃなかったっけ?日本書紀にあったような。神功の頃の話しで。
所謂1次資料の発見目的で)日本の古墳を片っ端から発掘調査してみたらどうなるか??とか考えたりしてます!!
それ、いいですね!歴史をひっくり返すほどの「何か」が出てきそう。
タリシヒコは「阿毎多利思比孤」アメタリシヒコとネット上にあったのを見て思ったのは、「アマテラス」を中国語で当時聞き取った当て字の可能性です。「天照国照彦」で「照彦」を「テラスヒコ」と呼んでいた可能性は無いですかね。
興味深い説だと思います。
年齢的には蘇我馬子が兄で妻が推古天皇で弟が聖徳太子ということか。つまり天皇は推古天皇だが馬子は王配殿下ということなのか。
その説も考えられますよね。
日本書紀は、あくまでも設定。こういう設定でいくよってこと。
確かに、そうかもしれませんね。
魏志倭人伝はけっこう取り上げられるけど、他のはそこまでって感じする。その中での、他の正史から見た倭国っておもしろいですね。
隋の煬帝が、聖徳太子からの国書に激怒した経緯が載っているのが、この隋書倭国伝です。
10:14 これはまさしく盟神探湯ですよね。中国の記録にも残ってると知ってテンション上がりました。
そうなんです、こういう記述が出てくるとテンションあがりますね。
16:05 糸魚川とかで取れる翡翠のことじゃないかなあ。。。史記から始まる二十四史は、編纂時期が時代順じゃないですが、前史を継ぐという考え方があり、前史と異なることは書けないんですよね。編纂当時は、様々な資料が残っていて、それらを駆使しつつ、前史を読み解いて前史とオーバーラップする部分を書いていたそうです。隋書は656年編纂ですから、前史とオーバーラップする部分はかなり正確なんだと思います。
なるほど!
@@ch7072 さん後漢書は、魏志倭人伝のある三國志より時代が前ですけど、編纂は後です。三國志の次の時代は、晋書、宋書、南斉書、梁書、南史、北史、隋書と続きますが、晋書の編纂は、隋書の後です。倭人のことを、後漢書ではどう言ってるか、晋書や宋書ではどう言ってるか。魏志倭人伝で不思議な書き方をしている部分も、読み解けるかもです😁
出雲国では今でも青い瑪瑙が取れるので、それが見た目に近いかな。ただ、裴世清の移動経路的には福岡県糸島市の平原古墳にも瑪瑙の出土例があるから、こっちのほうかもしれない
@@さどはらめぐる さん出雲の瑪瑙ですか。なるほど~。平原はかなり高貴な女性のお墓ですよね。怡土郡(伊都國)の。
詳しく教えて頂きありがとうございます!
九州で発掘作業してるボランティアの人たちが言ってた。「基本的に掘ればいくらでも何かしら出てくるよ。」九州に限らず掘ってないだけで、日本中掘れば色んなものが出てくるんだろうね。それこそ不動産屋とかは戸建やマンション建設にあたって掘って何か出てきたけど、公表すると大損するから黙ってるってケースはおそらく腐るほどありそう。
確かに、そういうケース多そうですね~。
隋書って色々と謎を増やしてくれるよね🤔💭
多利思比狐もそうですが、秦王国、如意宝珠と謎だらけですね。
箸が、小野妹子の時代に入ってきただなんて、そんなウソ、よく言うわ。縄文時代に、すでに、土器で、煮炊きして食べていたので、手で食べるなんてことは、ありえない。
確かに、手づかみだと火傷しますよね。
何で古墳についてふれていないのだろうね?
あ、確かにそうですよね。。
こういう事に興味が出始めると、歴史が好きになりそう。正直、学校で習う歴史の授業は、年号とか人物の名前を覚えるのが主だったので、ちっとも興味が持てなかった。でもこういう内容ならば、苦にならずに聞けて良い。
コメントありがとうございます。授業って年号や人物名の詰め込みだけでしたね。先生の力量で、こういった資料や小ネタを紹介してくれると歴史に興味持つ生徒が増えるのになぁ、と思います。
日本の本当の歴史に興味を持たないように、日本史の授業は意図されているとしか思えない。
@@アカバケン-n9c 日本史の教科書はほぼ全部パヨ学者が書いているからね、なるべく日本をディスりたい。
いう程年代や人名覚えるのが主ではない筈。自分が歴史の意義や因果関係に興味中無かったから印象にないだけではないかな
私の中学の先生は、通常は板書の量が多く、定期試験の解答欄が(100点満点なのに)130か所あったりして、受験対策はしっかりしてくれたのですが、スピードアップして時間を余らせた時間で色々な話をしてくれました。日本海海戦の東郷平八郎の戦略とか、226事件のクーデター失敗はNHKを押さえられなかったからだとかを物語として語ってくれました。手が痛くなるほど書き続ける授業が多かったのですが、単元ごとのお話の時間を楽しみにしていたクラスメイトは多かったです。ちなみに生徒が協力的でなく授業が停滞するとお話の時間は無くなるので私のクラスは必死についていきました^^
お~~~これ程の史書を解説付きで無料で聞けるとは・有難すぎて南無阿弥陀仏と平身低頭して聞いたぞよ!!
そのお言葉、有難き幸せにございまする。
契丹古伝に、漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国なり)
おお!そうなのですね。契丹古伝はじっくりと読んでみたいと思ってます。
偽書だから読まなくていいよ
@@conspiracy_shine 偽書だという根拠は。それとあなたは、捨て垢ですが何か理由でも。
日本書紀の記述を入れないと良かったかな~、
なぜ、日本の歴史で「魏志倭人伝」は取り上げられても「隋書倭国伝」は取り上げられないのだ? それは「都合の悪い書物」からではないのか? どちらの書も、正確性に疑問は持たれるだろうが、当時の中国で創作・捏造されたとは思えない。むしろ、古事記・日本書紀に対する疑問の方が疑問だらけだ。
疑問だらけですね。
「魏志倭人伝」「卑弥呼」の存在が知れ渡ってしまっている今日、それらの記載のない、古事記・日本書紀は、すでに「アウト」。のみならず「聖徳太子」の正体が「隋書倭国伝」の「タリシヒコ」では「これまでの日本の歴史は何だったのか」ということになる。おまけに、宮内庁に「聖徳太子の墓の記録がない」とあっては、もうメチャクチャ。歴史家にとって「隋書倭国伝」は「都合の悪い・消し去りたい・表ざたにしたくない・偽書のレッテルを貼るしかない書物」だろうね。
@@だピョンそこまで忌み嫌われてないから安心していいぞ学者はお前より賢いから
笑止🤣
それは、当時。ハントーが日本の領土なのを隠したいからだよ?
秦氏ってのが秦国の末裔だと言われてますね。織物等の指導を受けたとか。
「あめ たりしひこ」じゃなくて「あま たらしひこ」すなわち「天垂らし彦(天からやってきた男子)」言い換えると「天孫」、役職名なんじゃないか?って説があるみたい。
なるほど、説得力のある説ですね。
この頃の関東地方って謎だらけなんだよなぁ。いつか解明されますように。
少なくともヤマト王権の勢力下にあったのは事実
@@conspiracy_shine 様『ヤマト王権の勢力下にあった』かのように装ったのは事実
@@takashiumeda6276 何言ってんだ?考古学的にも証明されてる歴史学はお前の妄想をぶつける場所じゃねえんだぞバカが
日本史が書き換えられるのは 面白い。学者も都合よく書き綴ってウソが多数あるんで、ひっくり返してもしい。
学者をなんだと思ってんの?ちゃんと学者の本読んだことないだろお前が嘘を信じたいだけなのを学者のせいにするな
おもしろい。紀記が言及していない個所は時の政権が隠したかったことなのか?他国の史書の日本に関する記述を全て洗うと古代のこともっと分かると思う。どうしてやらないのかな?
中国の記録を全て洗うと豊臣秀吉は福建人の奴婢であり、加藤清正は元々、秀吉より身分が上で反抗的(明代の記録)、江戸幕府の綱吉は中国人を雇って中国侵攻を企ててる(雍正帝時代の官僚の上奏文)ことが発覚してしまうため。
日本側で紀記が編纂されたのはもっと後になってからですので、口伝では失われてしまっていることも多いと思いますよ。一方、隋は比較的短命な帝国だったため、次の唐の時点でまだホットな話題を正史に記述することが可能でした。629年は大化の改新より前ですからね。ただ、魏志倭人伝もそうですが、当時は行き来が大変だったため又聞きの情報が多く、外国側の記述には誇張や誤解が結構あると考えられます。検証できないので、誤記を校正できなかったケースもあるでしょうしね。それらの矛盾を調査して、誤記や誤解がどちらかを明らかにすることに挑んでいる学者もいるでしょうが、確度の高い結論が出揃うまでにはまだまだ時間がかかるんじゃないでしょうかね。
隋書。これ、昔読んで不思議だったんだぁ。懐かしいです。「秦王国」のくだりなんて特に。(倭國じゃなくて「俀」國表記も)私見ですけど、瀬戸内沿岸から京都太秦にかけて、秦氏の足跡が多いんですよね。(九州瀬戸内側の豊前宇佐八幡宮をはじめとする八幡信仰や、播磨に多い太子信仰も。)秦氏といえば例えば赤穂の北の「坂越」。その周囲、播磨、備前、備中、備後の各地に秦(幡多・服部さんなど)の氏や地名、さらに言えば、加百(かど)さんのような、不思議な日ユ同祖論に繋がりそうな難読姓。(私は秦王国は吉備王国の構成国の1つだったと思いますけど。)ともかく随所にワクワクしたものですww歴史ロマンです。
日ユ同祖論など、色々な説を読むと本当にワクワクします。まさに歴史ロマンですね。
秦王国は、素直に周防国(山口県西部)と読んだ方が良いと思います。勿論、渡来系の人々も多く住んでいたと思われます。
@@rengesouh176 さんありがとうございます。「素直に」が少しわかりませんがw、周防も含めて瀬戸内の沿岸上に秦氏にちなむ地域があるのは間違いないようですね。もし行かれたことがないようでしたら、秦河勝にちなむ播磨の坂越に参られるといいと思います。古い神社や町並み、伝建地区と海の風景が美しいですよ。ともかく古代吉備の勢力圏(加古川以西)には不思議な氏族が幾つかいたようです。
@@masaf2717 他の地名は音読みするのに、秦王国だけ訓読みの「はた」や渡来系「秦氏」を強調して、周防説や沖ノ島航路などに触れないのは、完成度的に勿体無いかなと思われました。
このイ妥という文字は タイと発音します.大昔、長江流域の南側は今のタイ人の祖先の発祥地.中国人がこのタイ人を禪(Shan)人.百夷(白夷). 越裳人(裳は禪と同音)..タイ人は中国史に暹羅と呼ぶのは暹人とLavo人の混居している国を総括して呼ぶのです.タイ人にとって タイは自称に使うのですが・ShanとSiamは他称だそうです.二十世紀の四十年代初頭日本が当時の独裁車人披鑾に協力し泛タイ主義の国家タイ国(泰国)と改名しました.タイ人が大挙東南アジアに遷徒したのは宋の十世紀頃、北方遊牧民の南下による時期に当リます.のちのモンゴール人の流入の時期それはタイ人の南下のピークです.モンゴール人が中国を治める時.中国に四つの階級の民族に分けて統治する.ー番下は南人. タイ語に南の発音はタイ.ちょうど南人の意味.昔倭という国に皆が大夫と自称したそうです.実際夫はタイ語のPeopleの意味です.なぜ当時の日本をイ妥国と呼ぶですか.
とても面白かったです。次回作に期待しますので、是非続きをお願いします。
コメントありがとうございます。この続編(日本書紀に記述の裴世清ご一行の来日記事)は、「小野妹子『国書紛失事件』の裏に隠された歴史の真相」th-cam.com/video/E6oFIygWHfA/w-d-xo.html の動画になります。よろしければご覧ください!
旧唐書の方も宜しくお願いします。
いつかチャレンジしてみたいと思います。
桓帝と霊帝の時から魏の国ができて卑弥呼の使者がきた239年て40年以上あるけど、卑弥呼てそんなに長生きなの?それとも二代目卑弥呼の使者が魏にきたのか?ともかくさらっと桓霊の時を流したけど、この記事は重要な基準になると思う
魏志倭人伝には240年の時点で「卑弥呼は長大(高齢)」という記述があり、180年辺りからおよそ60年間女王の座についていた説もあるそうです。とは言え、これも一説に過ぎず謎だらけです。
この記録が残っているのも凄いけれど、これを記した中国の使者なのか、その観察眼も凄い。
観察眼と情報収集能力が高いですね。凄い!
タリシヒコというのはやはり聖徳太子なのでは?仏教について熱く語る文書からして仏教に思い入れが強そうだし
なるほど。「仏教に対する思い入れ」という視点は重要かも!
隣国から見たら、そう見えた訳なのだろうが、面白い。むしろ、正史よりも、風俗の様子は良く分かるな。
そうなのです、当時の風俗の様子が垣間見れて興味深いです。
如意宝珠…翡翠?夜になると青く光る魚眼の精霊…ホタルイカかな?
なるほど!ホタルイカ!
倭国伝(中国正史に描かれた日本)講談社学術文庫 久しぶりに読み返してしまった。後漢書・魏書 以外は紹介がほとんどない 倭国伝・日本伝 だけどどれもおもしろい。短期間に視聴数が激増していますが、じっくりと続編を待ってます。
この歴史的番組動画、なんか見てる人のレベルが高そうですね。回答、コメントが凄いですね。
全ての事物を見聞き出来たわけでは無いだろうから、隋の使者が参内した時に見ることが出来たものの記録ということなのでしょうけど、今教えられている歴史が必ずしも正解ではないということは覚えておいて欲しいものです。
同感です。
木の刻んだ形と縄の結び目の形、てカタカナとひらがなですよね。
なるほど!そう見えますね。
やっぱり日本書紀との不一致で軽く見られているのかな?隋書倭国伝の方が面白そうだけど?
日本書紀と魏志倭人伝と遣隋使の中国側資料か。面白いね。
今の偏狭な中国上層部と違いなんとものどかな関係でほっこりする。夜働くのは道理にかなってないから夜は寝なさいって忠告する中国の王。こんなだから当時は中国中心でアジアは回ってたんだな。今の中国政府ではアジアはまとまらないよ。
そうかもしれませんね。
陰陽五行で死を考えると、白は肉体の終わり、黒は魂(精神)の終わりだから、どちらも意に適ってる。まぁ、近年の黒の方が何かと便利👍✨
陰陽五行説の考え方って、しきたりとか昔ながらの風習に入り込んでますよね。
😅わー
青く光る玉、と言えばヒスイ、即ち三種の神器の勾玉が想起される。剣は武力、鏡は大陸由来の文化の象徴とすれば、玉は日本古来の呪術的な力の象徴であり、当時は最重要だったんじゃ。
確かにそれなら「如意宝珠」と呼ばれてもおかしくないですね。魚眼の精霊っぽい感じもします。
@@ch7072 日本古来の、とか言っちゃいましたが考えたら玉も大陸南方あたり由来でもおかしくないですね。勾玉の形状は日本独自なんでしょうか?何にしても、石神信仰が一番古くて出雲の柱神、大和の鏡の順番からすれば、シャーマニズムと繋がる最古の要素ではありそうです。
近現代史には興味があったのですが、最近古代史にも興味が出てきました。当方のようなど素人にもわかりやすい解説ありがとうございました。このお話は全く知りませんでしたが、全てを信じられないにしても空白の150年を埋められる貴重な話ですね。これからも楽しみにしています。頑張って下さいね。
嬉しいコメントありがとうございます。頑張ります。
めっちゃ面白かったです。「秦王国」ってもしかして「秦氏(はたうじ)」の領地の事かも知れませんね。裴世清は筑紫から瀬戸内ルートでやって来たんですかね?
ありがとうございます。日本書紀では難波に到着と記述があるので瀬戸内海ルートだと思うのですが、隋書倭国伝の記述はちょっと曖昧なんですよね。。
秦氏は秦の始皇帝の末裔の説があったけど、その日本の秦王国と関係あるのかな?
関係あるのか気になりますね。
大陸から日本へのゴミなどの漂着物があることを見ると、日本から大陸に行くよりも、大陸から日本に渡ることの方が遥かに楽だったのでしょうね。それにしても、国民の生活や性格の描写などを見るにつけ、人(国民性?)というものは変わらないものなのですね。
そうなのです!外国人から見た日本人の民族性が、当時も今も変わらないことに驚きです。
それはゴミを流すか?流さないか?のモラルで変わるじゃん。
@@huckeco6561 確かにそーだ!!
@@u76dtfxc 後、魏志韓伝を見ると倭国の国境が朝鮮半島にあると言う記述になってますよね。
@@huckeco6561 そうなんですか?!それは知らなかったです。 半島にほぼ日本と言える地域があった、という話は読んだことがありますが、日本人以外の人からもそう認識されていたのなら、現実味を帯びますね!!
タリシヒコ→タラシヒコ(後の用命天皇だね)。在位は二年に届かないので、補佐時代の功績が大きい。聖徳太子の父。
それっぽいな〜と思っていたのですが、やっぱりそうなのでしょうか⁉︎
隋とか宋にも倭人伝があったのか知らなかった
他にもまだまだありますよ。でたらめすぎて抱腹絶倒モノだってあります。ある史書によると日本列島には牛をも飲み込む巨大な大蛇がいて剣でも切れない。ひたいに三つめの目がピカピカ光っていて、そこを突くと退治できるそうです。あまり中国史書を真面目に読みすぎるとファンタジーワールドの住人になりますよ。隋書はかなり上質ではありますけれど。ちなみに倭人伝ではなく、隋書は倭国伝ですね
@@toshiyam2853 ヤマタノオロチかな?
武王が千葉茨城福島の日本尊天皇だよ。埼玉の古墳群を関東の都にしてた。日本書紀のヤマトタケルは天皇じゃないから別人だ。倭王武が雄略天皇だと記紀は書いてるが、偽書だろ。熊本と同じ装飾古墳がひたちなかにあるよ。
雅楽は、東大寺の大仏開眼節会の際に西域の賓客が連れてきていた楽団が演奏した祝賀演奏を見た当時の若い貴族たちがハマって真似し始めたのが起こり、とされているので、それ以前の音楽がどのようであったかを再建する試みは、ほとんどない?し、うまくいったこともなかったのでは。
雅楽の成り立ちについては分らない事だらけですね。古事記には仲哀天皇が琴を演奏したり、日本書紀では612年に聖徳太子が伎楽を奨励している記述はありますが、「雅楽」がどのように発展してきのか興味深いです。
@@ch7072 おそらく、アジア大陸の各地からさまざまな人々(民族や集団)によってさまざまな楽器と共に少しずつ入ってきたのでしょうね。もちろん文献史料があればいちばん間違いないのですが、楽器という物の性質に規定される面もあるのかもしれません。時代はかなり降りますが、たとえば平家物語のような「琵琶法師の語り物」における平家琵琶のように、何か大きな事件を伝えるためのメディアであったり、その当事者のアイデンティティとして重視されたりすることによって特徴づけられることもあるかもしれませんよね。私が述べた「雅楽の起源」についても、実は出所は不確かなまま伝聞で書いてしまいましたが、何らかの「公式見解」かそれに近い扱いを受けている説だったように思います。が、「公式」でなくても、人が流入すればそれに連れて楽器も入ってくるのは全世界共通なので、琴にせよ箏にせよ琵琶や笙、篳篥…その他の楽器はいろんな時代に少しずつ入ってきた、というのが実は最も実態に近いのかもしれません。
日本雅樂會によれば>雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。とのことでした。必ずしも「東大寺大仏殿開眼節会の時に…」というだけではなかったのですね。(その話は多分「琵琶」の伝来についての説話だったのかもしれません)
いねぎは、稲置のことなのかな。秦国というのは、中国からの渡来人である秦(はた)氏が支配していた地域のことかも。「青く光るもの」って信号機しか知らないけど(笑)、なかなか興味深い内容にびっくりしました。
青く光る如意宝珠の正体は一体何だったのでしょう。。
ヒスイでしょうね。北陸の糸魚川流域は縄文時代からヒスイの産地として著名で、そこで取れたものが全国、さらには半島にまで流通していた事が成分分析で判明しています。倭国の特産品ですよ。ちなみに弥生時代を通じて質の良い一級品は北九州に集約されて出土します。その後はもちろん畿内です
@@ch7072 私見ですが「ブルーフローライト」なんかがそれっぽいんじゃないかと。採掘されたフローライトのごく一部はレアアースを不純物として含み、そのせいで太陽光に含まれる紫外線を吸収して日没後に1時間ほど青緑色の蛍光発色するものがあり大昔は珍重されたそうです。現在の日本では鉱脈が枯渇してしまいましたが、かつては全国の150か所近い場所で採れました。
宋書倭国伝もあります。続編をやって下さい。
リクエストありがとうございます。また動画にしていきたいと思います。
筑紫の国から東へ行くと秦の人たちが居た? 聖徳太子時代の近畿地方では実力者として秦氏が政を牛耳っていたという意味かな、
色々な解釈が出来るのが、古代史の面白いところですね。
中国側の認識では、邪馬台国と大和王朝は 繋がっていると言う事 ?
色々な解釈が出来そうですよね。
新井白石が大和(畿内)説から九州説に宗旨替えするまでは国内でもみんなそうでしたよ
15:25 これって、長崎でも今も残ってる精霊流しの風習に似てますね。もし関係があったら面白い。
精霊流しですか!なるほど、似てますね。当時の風習の名残かもしれませんね。
@@ch7072精霊船は、今もありますよ。私の地元も、藁の船に供物を載せて川や海に流しました。さすがに遺体は乗せませんが。
🈸秦人の国とか徐福伝説に通ずるなにかがあるね
何かありそうですね!いつか考古学的証拠が出てくるといいのですが。。
犬は安産であり、戌の日参りや、犬帯の風習があるので、新婦が犬を跨ぐのもあるかもしれませんね🤔
新婦だし、出産祈願の意味になりそうですよね。
ロマンだなや 想像が膨らんでたのしい 脚色はあるかもだけどノンフィクションなのが良い
ロマンですよね~!
犬は怪異を見抜くと言われてるから跨いでてもおかしくはないかな
なるほど、そういう意味があるのですね。
🛸グレイ👽
無茶苦茶調べていてすごい!こういうのはどこで学べるのでしょうか??よくよくみると「倭」という漢字はにんべんなので、蔑称ではなさそうですね蔑称だと狗や鮮卑など動物や卑しい意味の字が当てられてますもんね😊
1文字だしね
隋書の中で、最も問題となるのは、裴世清の九州から大和への、東行記録でしょう。これは、魏志倭人伝の国内での旅行程の記事と明らかに矛盾します。(邪馬台国を大和に有るとした場合)、これが、邪馬台国九州説、大和説を考える場合の相当大きなポイントだと考えています。何故なら、16世紀以前に、九州北、本州、北海道南に連なる地図が、世界で、10枚以上確認されているからです(中国、ヨーロッパを含めて)、しかし、これについても、ある程度の、合理的な解釈が可能だと考えています。
風俗に関しては、金閣寺を見て日本人が全員金で出来た家に住んでる って判定したりの例があるので、柏の件などはその類な気がしますね。
確かに、それは一理ありそうですね。
喪服が黒になったのは明治以降で明治天皇のお妃の昭憲皇太后が西洋に倣って喪服は黒にしたと聞いたことあります。今でも一部地域では葬式の喪服は白装束ですし、お棺に入れるホトケさんは白装束ですね。武士が切腹する時も白装束で行います。日本で喪服が黒になったのは歴史的にはごく最近の話でしょう。
確か、落合正勝さんという服飾研究家も、昔の喪服は白と言っていたと思います。
純白のウェディングドレス、なんて明治の人たちは驚いたんだろね😂
随分と昔の話だけどうちの田舎では曾祖父さんの葬式の時みんな白いちゃんちゃんこを着てたなぁ。
@@アカバケン-n9c 白無垢は昔から着てたから……
そもそも死が嘆き悲しむべきものではなかったかも知れない。この動画にもあるように、屍の傍らで「歌い、舞った」のだから。
そういう価値観は大陸の宗教が入ってきてから、崩れたと思う。地獄と極楽だとかいう概念が入ってきてから。
日本が送った遣隋使や遣唐使より、隋や渤海から来た遣日使の方が数が多かったとの説もあるので、向こうには複数の文献が残ってるかもしれませんね。
そうですよね、残っていたらぜひ読んでみたいですね。
山形県って渤海と貿易が盛んで、その影響で渤海人が多く渡来して混血したとかあるから、あながち嘘でもないかも。
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
タリシヒコに関しては、中国では女帝がいないので、女だと軽んじられないために男として紹介した説と、
実は聖徳太子は即位していたのではないか説があるらしいですね
タリシホコは、九州王朝の王と理解してます。
@@加藤勉-g5p残念ながら違うよ
@@加藤勉-g5p古田武彦信者乙
@@加藤勉-g5p
九州に王朝はありません
突厥可汗達頭、つまり聖徳太子は倭王です。
13:46 柏の葉・・その風俗は皿や膳はなく柏の葉を敷く
当方の推測ですが、「柏の葉は食器に使う」でなく神様に御供えする際に使うもの
で、柏の葉でおもてなしをしたと推測しています。
*徳島県阿南市に賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ)があり、724年の
創建で延喜式内社で、現在は津峰(つのみね)山頂の津峰神社(つのみねじ
んじゃ)に祀られていて、賀志波比売は天照大御神の幼名と考えられている
んですよ。
御神紋は八角形で神様に御供えする三方(さんぼう)のことで、古くは柏の
葉が使用されていたんですよ。現在も皇室では神事には柏の葉が使われてい
るんですね。
なるほど!そうなのですね。勉強になります。
中国で他国人の名は、その発音に近い漢字を当てます。
たとえばタリシヒコを漢字でどう書いているか、当時の隋でその漢字はどう発音されていたか、それが本当の名前になると思います。
卑弥呼だって当時の魏の発音で読むのが正しいと思います。つまり正しい名前は「ヒミコ」ではなさそうです。
確かに。小野妹子の「妹子」は「因高」と記録が残っているそうです。
多利思北孤ですね。タリシホクコまたはタリシホッコに近い発音になると思います。
「北」を「ヒ」と発音することは無いようです。
「彦」と読ませたくて「タリシヒコ」にしたのではないでしょうか。
歴史学者のご都合主義です。
天のたらしヒコって、天子の日本語読みとも言えますし天孫もあり得るんですよね。また、天子の子≒聖徳太子(上宮王)でも違和感はないんですよね。
女帝も引きこもりで上手く行くし、蘇我馬子と厩戸皇子って馬繋がりもあるのでそもそも蘇我氏が皇族もしくは近い存在なのも自然です。
大化の改新前後で蘇我も上宮王家も没落していますので、この時期は記紀にもきちんと記されている(むしろ壬申の乱前後が怪しい箇所が多い)ところも垣間見れて面白かったです。
なるほど!天子や天孫の日本語読み説は納得がいきます。飛鳥時代は面白いですよね。
中学歴史では239年、4世紀後半、478年、538年、と飛び飛びでしか学習することがなく、独立した項目を覚えるだけで、流れが見えませんでした。この動画で、①その流れがあったということ、②日本書紀と隋書倭国伝に同じ歴史事項の記述がある、という歴史学的なアプローチの窓を開けてくれていること、に深く感銘を受けました。ありがとうございます。
こちらこそ、コメントありがとうございます。学校でも年号だけじゃなくて、その背景となる流れを教えてくれたら歴史も楽しく学べますよね。
戦後日本はGHQの指示の元、社会科は教えてはいますが歴史は教える事が禁止されていたので教えられていないんですよね。
何年に〇〇〇が起きました。としか教えないのが社会科で有り、自分で進んで学びに行かなければ、歴史を学ぶ事が出来ないのですよ。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
@@shika1999
???歴史を何から学ぶのでしょうか?正しい日本の歴史は教科書なのですか?
日本書紀も古事記もあやしいのに、何が日本の正史なのですか?
18:16~ 秦王国が!って5世紀の中ごろに秦氏が大勢で移民してきたというけれど、その集落があったのかなぁ。
その可能性も考えられそうですね。
半島に秦韓(辰韓)という地域は秦の滅亡後に.逃亡して来た避難民が建国した国.そっちの民は秦の原郷の方言を今迄使用したと古藉に書いてあります.一つの例として、今のシンガポール,マラカの華僑は明十五世紀)から入植した華南人・それでも今迄華南の方言が主流.例えば人の苗字の陳はタンと発音・許はコ と発音.劉はラウに、楊はヨウと華南ふうの発音を使う、秦王国の人々も倭人に同化されるまで二、三百年は必要します.大陸の使者が秦王国を通過するときただ簡單に中華と同じと述べたわけです.徐福の時代の人と後ちの秦王国の人々(秦韓)の出発点は違うと思います.后者は半島を中継地として日本に辿りつく秦の后裔らしいです.
こういうゆっくり解説はわかりやすくて非常に勉強になる。
事前に文献勉強してないと作れないし個人じゃないだろうけど大変だろなと思う。
コメントありがとうございます。歴史好きな素人が一人気ままに作ってます。個人的な趣味嗜好で作成してるので、取り上げる時代に偏りが。。。
@@ch7072 申し訳ない、企業ではなく個人なんですか
大変だろうけど勉強になるんで
応援します、登録しました。
@@kamicop1234 日本人先跟中国的慰安妇道歉!
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
倭族とか、倭国とか書かれていると日本の事だと思いがちですが、古代中国の考える倭族とは、中国南東部に居住していた民族の事ですね。長江河口域の殷とかにいた人達です。殷が滅亡した後、倭族は九州北部とか、朝鮮半島南部に避難、定住しました。
和国とは倭族の集落、居住域です。中国から見れば、朝鮮半島も北九州もひとまとめだったのでしょう。中国の古代文献の倭国は朝鮮半島の倭人が主な記述対象だったと考えた方が良いと思います。
素晴らしすぎ!!
旧唐書 新唐書
の倭国伝も聞きたいです
急ぐ事はないので 待ってます
よろしくお願い
ありがとうございます。リクエストにも機会を見て挑戦したいと思います。
盟神探湯のことも記載されてるのが信憑性あるな
そうなのです。日本書紀の内容と合致する部分が多々あるので、余計に謎が深まります。
タリシヒコ・・・後の蘇我氏の専横を考えると蘇我馬子じゃないかな。
女帝って考えは当時の中華にはないし、唐代に則天武后が初めて女帝として登場して
中華人が驚愕したんだから、推古天皇をタリシヒコ(蘇我馬子)の妻と考えても不思議はないな。
その説はあり得るかもしれませんね。
朝貢、冊封と言う言葉の意味も解釈の仕方がいろいろだとか聞く。
主従関係と言うより現代の交易安全保証みたいな物だった説に信憑性を感じる。そして焚き書が当たり前にあったら…寧ろ行間を読むくらいが適当なのかも。
新婦が火を跨いで家に入る風習は、昭和の初期まで残っていました。私の両親が生前見たことがあると言ってました。家の入口に豆幹(まめがら)に火を付けて新婦が跨いで入るらしい。その時に、箕で扇ぐのだとも言ってました。
昭和初期まで残っていたのですか⁉ とても貴重な情報をありがとうございます。ちなみにどの地域でしょう?
@@ch7072 武蔵国(埼玉県)です。30年前くらいですか?古代には、犬を跨いで新婦が家に入ったらしいよ、と両親に私が言うと。「豆柄に火を付けたのを嫁さんが跨いで玄関に入って行くんだ…」と母親が言ってました。父親も聞いていて、箕で火を扇ぐんだよと言ってましたね。近所のAさんが嫁に来た時に火を跨いだのを目撃したらしいです。
埼玉県ですか!私も調べてみたいと思います。教えて頂きありがとうございました。
興味深いお話を有難うございます。秦(しん)をハタと読み、秦以外にも「波田・羽田・旗」などを充てて「ハタ」と読む姓を持つ方たちのご先祖様のようですね。大陸からの渡来人と言われていて、歴史上では秦河勝が広隆寺を建造となっているようです。京都には今も太秦(うずまさ)という地名があり撮影所があります。国というのも今の国の事ではなく、血の繋がった一族が集団で居住し「邑」などを形成し、クニと呼びならわしていたと思われますね。現在も故郷を「クニ」と呼ぶのはその名残でしょうか。隋書をそのまま伝えてくださった処が良いですね。47は古来大仰な表現があるので日本側の記述などとの比較も面白いでしょうね。聖徳太子が隋の煬帝に宛てた書の「日出づる国の天子、書を日の没する国の天子に致す恙無きや」に、煬帝が激怒したという話は如何なのでしょうか?。使者が斬首されたとも伝わっていないようですし。
確かに、秦一族の痕跡は色々なところに残っていて興味深いです。
京都太秦には、秦氏(ユダヤ人12種族の1つ)一族が金銀財宝を持って来た・と?なにかの説明で有りました。秦と言う名前は今でも奈良県には有ります。以上知らんけど?
日出ずる国.....という国書は創作の物だと思います.なぜなら日本人固有の性格とずいぶんかけ離れ違います.日出国の日出は東の漢字を表わすでしょう.今のタイ人は東の事をTawan- Orkと言います. 西の事はTawan-Tok. タイ語に Tawan=太陽(大丸).Ork=出る. Tok= おリる.下がるの意味.それは純粋な古代人の視覚方向の感念、ほかに花嫁がお婿の家に入るとき 火か犬に跨って家に入るのも今大陸人、少数民族にもまだ残っています.犬のかわりに猫を使うのもあります. 厄払いのー種です.角隠しの風習も今では傘をさす.花嫁の頭から赤い頭巾(古代はまだ白い布).毛布で包むような風習.頭に大きなわら笠をかぶて嫁ぐような姿が見れます.インドの花嫁もサリで頭を覆うような格好をする、巫師が花嫁の身辺に火鉢または盆の上に少量の火で清める儀式があります.多分南方的な風習.
遠回しの表現で日本は黎明であなたの国は凋落していると捉えたから激怒したと類推できる。実際に、煬帝の頃に色々な問題があったから思う事あったのだと理解しやすい。
あと当時でも外交の使者を切ることは外交慣例違反だったからと理由を考えることもできる。殺すということは現代で例えると大使館の旗を降ろすことと意味は同じ。
@@大阪の男-b4u 「以上知らんけど?」とはどういう意味ですか?
めちゃくちゃ興味深い!!
なかなか中国の史文に触れる機会がないので面白いです。
中国側から見た当時の日本ってところが興味深いですよね。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
とても面白かったです!有難う御座いました。
コメントありがとうございます。励みになります!
アメノタリシヒコとは誰だったのか?
やっぱり、聖徳太子だったんじゃないかなぁ。
読めば読むほど謎が深まりますね。
秦王国は、秦氏による王国か?私の高1の時の担任が秦(はた)さんでハダでは無いとおっしゃってて秦氏の末裔であると言われてました。
百済や新羅が倭に朝貢していたという事ですね。これを見ると例の国の方々が火病しませんかね。
隋書は本当に興味深いですよね!それと百済や新羅、高句麗が日本に朝貢していた事は日本書紀にもたくさん記述があって裏付けになります。
彦=男性
たりしひこ=太子という男性の意味では?
ああー・・・
太子彦=タイシヒコ=タリシヒコ・・・
可能性あるかもです
自分を天子の称号で名乗っているあたり、そのことでもめて朝貢を出禁になったのかなw
日本は日本の都合の良いように歴史を綴るし、中国は中国で都合の良いように歴史を綴る。色んな国の視点で考察するのが良き。
同感です!色々な国の視点で考察すると、点と点が繋がることがありますね。
色々な説がありますが情報は沢山ある方が良いので今後とも情報発信をお願い致します。学校では絶対に教えてくれないですねw
コメントありがとうございます。励みになります。
いつも邪馬台国論争では日本の記述したものからしか研究してないが、本来ならば日中の文献の検証をすべきだと思うが、日本の学者、学会の論争で正確であろうとの見解が出ない。本来ならばこの様な中国との文献の整合性を求めるべきだ。ハッキリ言えば日本の学術学界の怠慢で日本の学者は遊んでいる。
まさに、ご指摘の通りだと思います!
皆んな自分の国の成り立ちを知りたがるから、倭人伝解説動画は伸びますね
その様ですね。動画を作った私が一番驚いてます。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
あ とかひらがなって、知らない人には紐の結び目を描いて文字としてコミュニケーションを取ってるように見える気がする
確かに、そう見える気がします。
大化の改新の時に消されたことも多いだろうから海外にこういう文章残ってるのはありがたい
本当にそう思います。
存在意義はあるけど、昔は偽情報かどうかもわからないので、そういう話もあったくらいの判断しかできません。仏教あたりなどは顕著ですけど、自分の宗派の正当性をアピールするために偽書を盛んに作った宗派もありますからね。
@@daisuke5755 偽情報の可能性でいうなら、自国で編纂した書物の方が圧倒的にその可能性が高いと思いますが・・・
自分の国の歴史は、その時の権力者の都合のいいように歪曲しがち。一方、外野の他国は客観的に記述すると思います。
@@ayabe9036 自国の歴史を歪曲したのではなく恣意的な表現をしたというのが正しいと思う。一方で現在の中国大陸にある記録については漢人だけでなく、それ以外の民族が代わる代わる当時の日本についての記録を残してることはあるけど、一部は一致するけど間違いも多い。間違いとは土地の距離感や名前とかね。一例としてタリシヒコだけでなく足利義満とかも勝手に王を名乗って勝手に交易してこれが記録に残っているだけと判断したほうがいいと思う。日本に記録はないけど当時の中国にはあったから日本が歪曲したと判断するのは早計じゃないかな?
@@papiyaspapiyas6265 割と当たり前のコメントをしたと思ったけど、そんなに気にいらなかったですか。
漢字文化で本当に良かったよな歴史の面では。
中華の地でも白い着物が喪服だったけど、春秋五覇の文公が亡くなった時に隣国の秦が攻め込んできた。葬儀の真っ最中だった息子の襄公が「喪服のままだと縁起が悪い」と墨に漬け込んで黒くして出陣。見事秦を返り討ちにした
この吉例以降中華でも喪服に黒い着物が浸透していったみたいです
貴重な情報ありがとうございます。そういう逸話があったのですねぇ。
あの論理なき考古学と馬鹿にされる邪馬台国論争も、ペラペラのメモ書きみたいな魏志倭人伝は使うけど隋書とか本当にシカトしますよね
面白かったし勉強になりました!
コメントありがとうございます。
ネットと同じで、自分の考えに合うソースは信頼し、不都合なソースは無視するかガセ扱い。
😮😮
魏志倭人伝のみが正書であるようですが(ほかは認めない)その論拠は何?
だろうね
@@abeleuler1
他の史書には、日本国民に知られたくない、文部科学省にとって不都合なことが書かれているのだと推定。
(書かれていることの真偽は別問題。文科省にとって都合がいいかどうかが問題。)
古代・中世の国家存在と風俗は、実際に訪問せず伝聞で脚色し、事実とかけ離れた記載が多い。
魏書、隋国倭人伝も訪問して調査し記載した書ではない。魏志では長江の一民族を倭人とし、
伝聞で物語を創り、場所は星座から適当に記録した。従って魏志通りなら倭国は南洋の海上になる。
隋書では魏志倭人描写と特使派遣結果を折り混ぜ風俗を描写しているが、刺青を顔と腕・体にしていると
長江民族の伝聞を混ぜている。かなりいい加減な記載である。
火(浄化)でも犬(多産)でも嫁入りの儀式ではありうるよなあ
なるほど。どちらもあり得そう。
日本のポンコツ歴史教育に教育システム。明治維新に、戦後。
新羅が女王を戴いていたことに対し「女を頭に戴くのは野蛮」と改めさせた、というのが当時の中国側の感覚なので推古女帝ではなく聖徳太子が国王・タラシヒコとして対応したのかもしれませんね。
その可能性は大きいと思います。聖徳太子は国外の情報をかなり正確に把握していたと思うので、対外的に男帝として対応したのかもしれませんね。
王(女王)を戴く(いただく)って言いません?
新唐書では「日本側の使者曰く、タリシホコは用明天皇の事らしい」
日本書記では用明天皇はずっと近畿にいた。もちろん阿蘇山の近くで暮らした記録もない
@@ak3799 ありがとうございます、誤字ってましたね😅
基本的に我々が知っている天皇名は崩御後のおくり名ですので、在位中は別の呼ばれ方かと。
ずっと後の時代の「元史日本伝」や「明史日本伝」、大枠で日本側史実と一致するも細かいエピソードはかなり脚色されている。盛んに交流があり、直接戦火を交えた時代でもそんな感じなので、古代日本についても、外交関係や国の概要はほぼ正確だが、習俗や指導者に関しては実は結構トンチキに描写されてた…と思っている
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
不倫は死罪って、この時代、一般人にも結婚制度が浸透してたんだろうか。
今も適用されてたら、ここ最近の芸能界も大変なことに。。
面白かったです
知らないことだらけでした
タリシヒコ…何者なのでしょうね?
…あと…金印は、偽物説があるそうで…?
奴隷と記載するが、懲役刑と思う。無期懲役もあっただろうが奴隷制度とは違う。奴隷階級などはない社会だろう。
江戸時代まで喪服は白だったらしい、明治時代から西洋に習って黒になったらしい
随分長い間、喪服は白かったのですね。
入れ墨は少し前まで船乗りも入れて居たらしい。
というのも落水して行方不明になったとき、体の一部が発見されたら入れ墨で個人を特定できるからだそうな。
当時の九州北部の人は刺青をする習慣があるけど、
大和の人はその習慣がないんじゃなかったっけ?
日本書紀にあったような。神功の頃の話しで。
所謂1次資料の発見目的で)日本の古墳を片っ端から発掘調査してみたらどうなるか??とか考えたりしてます!!
それ、いいですね!歴史をひっくり返すほどの「何か」が出てきそう。
タリシヒコは「阿毎多利思比孤」アメタリシヒコとネット上にあったのを見て思ったのは、「アマテラス」を中国語で当時聞き取った当て字の可能性です。「天照国照彦」で「照彦」を「テラスヒコ」と呼んでいた可能性は無いですかね。
興味深い説だと思います。
年齢的には蘇我馬子が兄で妻が推古天皇で弟が聖徳太子ということか。つまり天皇は推古天皇だが馬子は王配殿下ということなのか。
その説も考えられますよね。
日本書紀は、あくまでも設定。
こういう設定でいくよってこと。
確かに、そうかもしれませんね。
魏志倭人伝はけっこう取り上げられるけど、他のはそこまでって感じする。
その中での、他の正史から見た倭国っておもしろいですね。
隋の煬帝が、聖徳太子からの国書に激怒した経緯が載っているのが、この隋書倭国伝です。
10:14 これはまさしく盟神探湯ですよね。中国の記録にも残ってると知ってテンション上がりました。
そうなんです、こういう記述が出てくるとテンションあがりますね。
16:05 糸魚川とかで取れる翡翠のことじゃないかなあ。。。
史記から始まる二十四史は、編纂時期が時代順じゃないですが、
前史を継ぐという考え方があり、前史と異なることは書けないんですよね。
編纂当時は、様々な資料が残っていて、それらを駆使しつつ、前史を読み解いて
前史とオーバーラップする部分を書いていたそうです。
隋書は656年編纂ですから、前史とオーバーラップする部分はかなり正確なんだと思います。
なるほど!
@@ch7072 さん
後漢書は、魏志倭人伝のある三國志より時代が前ですけど、編纂は後です。
三國志の次の時代は、晋書、宋書、南斉書、梁書、南史、北史、隋書と続きますが、
晋書の編纂は、隋書の後です。
倭人のことを、後漢書ではどう言ってるか、晋書や宋書ではどう言ってるか。
魏志倭人伝で不思議な書き方をしている部分も、読み解けるかもです😁
出雲国では今でも青い瑪瑙が取れるので、それが見た目に近いかな。
ただ、裴世清の移動経路的には福岡県糸島市の平原古墳にも瑪瑙の出土例があるから、
こっちのほうかもしれない
@@さどはらめぐる さん
出雲の瑪瑙ですか。なるほど~。
平原はかなり高貴な女性のお墓ですよね。怡土郡(伊都國)の。
詳しく教えて頂きありがとうございます!
九州で発掘作業してるボランティアの人たちが言ってた。
「基本的に掘ればいくらでも何かしら出てくるよ。」
九州に限らず掘ってないだけで、日本中掘れば色んなものが出てくるんだろうね。それこそ不動産屋とかは戸建やマンション建設にあたって掘って何か出てきたけど、公表すると大損するから黙ってるってケースはおそらく腐るほどありそう。
確かに、そういうケース多そうですね~。
隋書って色々と謎を増やしてくれるよね🤔💭
多利思比狐もそうですが、秦王国、如意宝珠と謎だらけですね。
箸が、小野妹子の時代に入ってきただなんて、そんなウソ、よく言うわ。縄文時代に、すでに、土器で、煮炊きして食べていたので、手で食べるなんてことは、ありえない。
確かに、手づかみだと火傷しますよね。
何で古墳についてふれていないのだろうね?
あ、確かにそうですよね。。
こういう事に興味が出始めると、歴史が好きになりそう。
正直、学校で習う歴史の授業は、年号とか人物の名前を覚えるのが主だったので、
ちっとも興味が持てなかった。でもこういう内容ならば、苦にならずに聞けて良い。
コメントありがとうございます。
授業って年号や人物名の詰め込みだけでしたね。先生の力量で、こういった資料や小ネタを紹介してくれると歴史に興味持つ生徒が増えるのになぁ、と思います。
日本の本当の歴史に興味を持たないように、日本史の授業は意図されているとしか思えない。
@@アカバケン-n9c 日本史の教科書はほぼ全部パヨ学者が書いているからね、なるべく日本をディスりたい。
いう程年代や人名覚えるのが主ではない筈。自分が歴史の意義や因果関係に興味中無かったから印象にないだけではないかな
私の中学の先生は、通常は板書の量が多く、定期試験の解答欄が(100点満点なのに)130か所あったりして、受験対策はしっかりしてくれたのですが、スピードアップして時間を余らせた時間で色々な話をしてくれました。
日本海海戦の東郷平八郎の戦略とか、226事件のクーデター失敗はNHKを押さえられなかったからだとかを物語として語ってくれました。
手が痛くなるほど書き続ける授業が多かったのですが、単元ごとのお話の時間を楽しみにしていたクラスメイトは多かったです。
ちなみに生徒が協力的でなく授業が停滞するとお話の時間は無くなるので私のクラスは必死についていきました^^
お~~~これ程の史書を解説付きで無料で聞けるとは・有難すぎて南無阿弥陀仏と平身低頭して聞いたぞよ!!
そのお言葉、有難き幸せにございまする。
契丹古伝に、漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国なり)
おお!そうなのですね。契丹古伝はじっくりと読んでみたいと思ってます。
偽書だから読まなくていいよ
@@conspiracy_shine 偽書だという根拠は。それとあなたは、捨て垢ですが何か理由でも。
日本書紀の記述を入れないと良かったかな~、
なぜ、日本の歴史で「魏志倭人伝」は取り上げられても「隋書倭国伝」は取り上げられないのだ? それは「都合の悪い書物」からではないのか? どちらの書も、正確性に疑問は持たれるだろうが、当時の中国で創作・捏造されたとは思えない。むしろ、古事記・日本書紀に対する疑問の方が疑問だらけだ。
疑問だらけですね。
「魏志倭人伝」「卑弥呼」の存在が知れ渡ってしまっている今日、それらの記載のない、古事記・日本書紀は、すでに「アウト」。のみならず「聖徳太子」の正体が「隋書倭国伝」の「タリシヒコ」では「これまでの日本の歴史は何だったのか」ということになる。おまけに、宮内庁に「聖徳太子の墓の記録がない」とあっては、もうメチャクチャ。歴史家にとって「隋書倭国伝」は「都合の悪い・消し去りたい・表ざたにしたくない・偽書のレッテルを貼るしかない書物」だろうね。
@@だピョンそこまで忌み嫌われてないから安心していいぞ
学者はお前より賢いから
笑止🤣
それは、当時。
ハントーが日本の領土なのを
隠したいからだよ?
秦氏ってのが秦国の末裔だと言われてますね。
織物等の指導を受けたとか。
「あめ たりしひこ」じゃなくて「あま たらしひこ」すなわち「天垂らし彦(天からやってきた男子)」言い換えると「天孫」、役職名なんじゃないか?って説があるみたい。
なるほど、説得力のある説ですね。
この頃の関東地方って謎だらけなんだよなぁ。いつか解明されますように。
少なくともヤマト王権の勢力下にあったのは事実
@@conspiracy_shine 様
『ヤマト王権の勢力下にあった』かのように装ったのは事実
@@takashiumeda6276 何言ってんだ?考古学的にも証明されてる
歴史学はお前の妄想をぶつける場所じゃねえんだぞバカが
日本史が書き換えられるのは 面白い。学者も都合よく書き綴ってウソが多数あるんで、ひっくり返してもしい。
学者をなんだと思ってんの?ちゃんと学者の本読んだことないだろ
お前が嘘を信じたいだけなのを学者のせいにするな
おもしろい。紀記が言及していない個所は時の政権が隠したかったことなのか?
他国の史書の日本に関する記述を全て洗うと古代のこともっと分かると思う。どうしてやらないのかな?
中国の記録を全て洗うと豊臣秀吉は福建人の奴婢であり、加藤清正は元々、秀吉より身分が上で反抗的(明代の記録)、江戸幕府の綱吉は中国人を雇って中国侵攻を企ててる(雍正帝時代の官僚の上奏文)ことが発覚してしまうため。
日本側で紀記が編纂されたのはもっと後になってからですので、口伝では失われてしまっていることも多いと思いますよ。
一方、隋は比較的短命な帝国だったため、次の唐の時点でまだホットな話題を正史に記述することが可能でした。629年は大化の改新より前ですからね。
ただ、魏志倭人伝もそうですが、当時は行き来が大変だったため又聞きの情報が多く、外国側の記述には誇張や誤解が結構あると考えられます。検証できないので、誤記を校正できなかったケースもあるでしょうしね。それらの矛盾を調査して、誤記や誤解がどちらかを明らかにすることに挑んでいる学者もいるでしょうが、確度の高い結論が出揃うまでにはまだまだ時間がかかるんじゃないでしょうかね。
隋書。これ、昔読んで不思議だったんだぁ。懐かしいです。
「秦王国」のくだりなんて特に。(倭國じゃなくて「俀」國表記も)
私見ですけど、瀬戸内沿岸から京都太秦にかけて、秦氏の足跡が多いんですよね。(九州瀬戸内側の豊前宇佐八幡宮をはじめとする八幡信仰や、播磨に多い太子信仰も。)
秦氏といえば例えば赤穂の北の「坂越」。その周囲、播磨、備前、備中、備後の各地に秦(幡多・服部さんなど)の氏や地名、さらに言えば、加百(かど)さんのような、不思議な日ユ同祖論に繋がりそうな難読姓。(私は秦王国は吉備王国の構成国の1つだったと思いますけど。)
ともかく随所にワクワクしたものですww
歴史ロマンです。
日ユ同祖論など、色々な説を読むと本当にワクワクします。まさに歴史ロマンですね。
秦王国は、素直に周防国(山口県西部)と読んだ方が良いと思います。
勿論、渡来系の人々も多く住んでいたと思われます。
@@rengesouh176 さん
ありがとうございます。
「素直に」が少しわかりませんがw、周防も含めて瀬戸内の沿岸上に秦氏にちなむ地域があるのは間違いないようですね。
もし行かれたことがないようでしたら、秦河勝にちなむ播磨の坂越に参られるといいと思います。古い神社や町並み、伝建地区と海の風景が美しいですよ。
ともかく古代吉備の勢力圏(加古川以西)には不思議な氏族が幾つかいたようです。
@@masaf2717 他の地名は音読みするのに、秦王国だけ訓読みの「はた」や渡来系「秦氏」を強調して、周防説や沖ノ島航路などに触れないのは、完成度的に勿体無いかなと思われました。
このイ妥という文字は タイと発音します.大昔、長江流域の南側は今のタイ人の祖先の発祥地.中国人がこのタイ人を禪(Shan)人.百夷(白夷). 越裳人(裳は禪と同音)..タイ人は中国史に暹羅と呼ぶのは暹人とLavo人の混居している国を総括して呼ぶのです.タイ人にとって タイは自称に使うのですが・ShanとSiamは他称だそうです.二十世紀の四十年代初頭日本が当時の独裁車人披鑾に協力し泛タイ主義の国家タイ国(泰国)と改名しました.タイ人が大挙東南アジアに遷徒したのは宋の十世紀頃、北方遊牧民の南下による時期に当リます.のちのモンゴール人の流入の時期それはタイ人の南下のピークです.モンゴール人が中国を治める時.中国に四つの階級の民族に分けて統治する.ー番下は南人. タイ語に南の発音はタイ.ちょうど南人の意味.昔倭という国に皆が大夫と自称したそうです.実際夫はタイ語のPeopleの意味です.なぜ当時の日本をイ妥国と呼ぶですか.
とても面白かったです。次回作に期待しますので、是非続きをお願いします。
コメントありがとうございます。この続編(日本書紀に記述の裴世清ご一行の来日記事)は、「小野妹子『国書紛失事件』の裏に隠された歴史の真相」th-cam.com/video/E6oFIygWHfA/w-d-xo.html の動画になります。
よろしければご覧ください!
旧唐書の方も宜しくお願いします。
いつかチャレンジしてみたいと思います。
桓帝と霊帝の時から魏の国ができて卑弥呼の使者がきた239年て40年以上あるけど、卑弥呼てそんなに長生きなの?
それとも二代目卑弥呼の使者が魏にきたのか?ともかくさらっと桓霊の時を流したけど、この記事は重要な基準になると思う
魏志倭人伝には240年の時点で「卑弥呼は長大(高齢)」という記述があり、180年辺りからおよそ60年間女王の座についていた説もあるそうです。とは言え、これも一説に過ぎず謎だらけです。
この記録が残っているのも凄いけれど、これを記した中国の使者なのか、その観察眼も凄い。
観察眼と情報収集能力が高いですね。凄い!
タリシヒコというのはやはり聖徳太子なのでは?
仏教について熱く語る文書からして仏教に思い入れが強そうだし
なるほど。「仏教に対する思い入れ」という視点は重要かも!
隣国から見たら、そう見えた訳なのだろうが、面白い。
むしろ、正史よりも、風俗の様子は良く分かるな。
そうなのです、当時の風俗の様子が垣間見れて興味深いです。
如意宝珠…翡翠?
夜になると青く光る魚眼の精霊…ホタルイカかな?
なるほど!ホタルイカ!
倭国伝(中国正史に描かれた日本)講談社学術文庫 久しぶりに読み返してしまった。
後漢書・魏書 以外は紹介がほとんどない 倭国伝・日本伝 だけどどれもおもしろい。
短期間に視聴数が激増していますが、じっくりと続編を待ってます。
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
この歴史的番組動画、なんか見てる人のレベルが高そうですね。
回答、コメントが凄いですね。
全ての事物を見聞き出来たわけでは無いだろうから、隋の使者が参内した時に見ることが出来たものの記録ということなのでしょうけど、今教えられている歴史が必ずしも正解ではないということは覚えておいて欲しいものです。
同感です。
木の刻んだ形と縄の結び目の形、てカタカナとひらがなですよね。
なるほど!そう見えますね。
やっぱり日本書紀との不一致で軽く見られているのかな?
隋書倭国伝の方が面白そうだけど?
日本書紀と魏志倭人伝と遣隋使の中国側資料か。面白いね。
今の偏狭な中国上層部と違いなんとものどかな関係でほっこりする。
夜働くのは道理にかなってないから夜は寝なさいって忠告する中国の王。
こんなだから当時は中国中心でアジアは回ってたんだな。
今の中国政府ではアジアはまとまらないよ。
そうかもしれませんね。
陰陽五行で死を考えると、白は肉体の終わり、黒は魂(精神)の終わりだから、どちらも意に適ってる。まぁ、近年の黒の方が何かと便利👍✨
陰陽五行説の考え方って、しきたりとか昔ながらの風習に入り込んでますよね。
😅
わー
青く光る玉、と言えばヒスイ、即ち三種の神器の勾玉が想起される。剣は武力、鏡は大陸由来の文化の象徴とすれば、玉は日本古来の呪術的な力の象徴であり、当時は最重要だったんじゃ。
確かにそれなら「如意宝珠」と呼ばれてもおかしくないですね。魚眼の精霊っぽい感じもします。
@@ch7072 日本古来の、とか言っちゃいましたが考えたら玉も大陸南方あたり由来でもおかしくないですね。勾玉の形状は日本独自なんでしょうか?何にしても、石神信仰が一番古くて出雲の柱神、大和の鏡の順番からすれば、シャーマニズムと繋がる最古の要素ではありそうです。
近現代史には興味があったのですが、最近古代史にも興味が出てきました。当方のようなど素人にもわかりやすい解説ありがとうございました。このお話は全く知りませんでしたが、全てを信じられないにしても空白の150年を埋められる貴重な話ですね。これからも楽しみにしています。頑張って下さいね。
嬉しいコメントありがとうございます。頑張ります。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
めっちゃ面白かったです。
「秦王国」ってもしかして「秦氏(はたうじ)」の領地の事かも知れませんね。
裴世清は筑紫から瀬戸内ルートでやって来たんですかね?
ありがとうございます。日本書紀では難波に到着と記述があるので瀬戸内海ルートだと思うのですが、隋書倭国伝の記述はちょっと曖昧なんですよね。。
秦氏は秦の始皇帝の末裔の説があったけど、その日本の秦王国と関係あるのかな?
関係あるのか気になりますね。
大陸から日本へのゴミなどの漂着物があることを見ると、日本から大陸に行くよりも、大陸から日本に渡ることの方が遥かに楽だったのでしょうね。
それにしても、国民の生活や性格の描写などを見るにつけ、人(国民性?)というものは変わらないものなのですね。
そうなのです!外国人から見た日本人の民族性が、当時も今も変わらないことに驚きです。
それはゴミを流すか?流さないか?
のモラルで変わるじゃん。
@@huckeco6561 確かにそーだ!!
@@u76dtfxc
後、魏志韓伝を見ると
倭国の国境が朝鮮半島にあると言う記述になってますよね。
@@huckeco6561 そうなんですか?!それは知らなかったです。 半島にほぼ日本と言える地域があった、という話は読んだことがありますが、日本人以外の人からもそう認識されていたのなら、現実味を帯びますね!!
タリシヒコ→タラシヒコ(後の用命天皇だね)。
在位は二年に届かないので、補佐時代の功績が大きい。聖徳太子の父。
それっぽいな〜と思っていたのですが、やっぱりそうなのでしょうか⁉︎
隋とか宋にも倭人伝があったのか
知らなかった
他にもまだまだありますよ。でたらめすぎて抱腹絶倒モノだってあります。ある史書によると日本列島には牛をも飲み込む巨大な大蛇がいて剣でも切れない。ひたいに三つめの目がピカピカ光っていて、そこを突くと退治できるそうです。
あまり中国史書を真面目に読みすぎるとファンタジーワールドの住人になりますよ。隋書はかなり上質ではありますけれど。ちなみに倭人伝ではなく、隋書は倭国伝ですね
@@toshiyam2853 ヤマタノオロチかな?
武王が千葉茨城福島の日本尊天皇だよ。埼玉の古墳群を関東の都にしてた。日本書紀のヤマトタケルは天皇じゃないから別人だ。倭王武が雄略天皇だと記紀は書いてるが、偽書だろ。熊本と同じ装飾古墳がひたちなかにあるよ。
雅楽は、東大寺の大仏開眼節会の際に西域の賓客が連れてきていた楽団が演奏した祝賀演奏を見た当時の若い貴族たちがハマって真似し始めたのが起こり、とされているので、それ以前の音楽がどのようであったかを再建する試みは、ほとんどない?し、うまくいったこともなかったのでは。
雅楽の成り立ちについては分らない事だらけですね。古事記には仲哀天皇が琴を演奏したり、日本書紀では612年に聖徳太子が伎楽を奨励している記述はありますが、「雅楽」がどのように発展してきのか興味深いです。
@@ch7072 おそらく、アジア大陸の各地からさまざまな人々(民族や集団)によってさまざまな楽器と共に少しずつ入ってきたのでしょうね。もちろん文献史料があればいちばん間違いないのですが、楽器という物の性質に規定される面もあるのかもしれません。
時代はかなり降りますが、たとえば平家物語のような「琵琶法師の語り物」における平家琵琶のように、何か大きな事件を伝えるためのメディアであったり、その当事者のアイデンティティとして重視されたりすることによって特徴づけられることもあるかもしれませんよね。
私が述べた「雅楽の起源」についても、実は出所は不確かなまま伝聞で書いてしまいましたが、何らかの「公式見解」かそれに近い扱いを受けている説だったように思います。
が、「公式」でなくても、人が流入すればそれに連れて楽器も入ってくるのは全世界共通なので、琴にせよ箏にせよ琵琶や笙、篳篥…その他の楽器はいろんな時代に少しずつ入ってきた、というのが実は最も実態に近いのかもしれません。
日本雅樂會によれば
>雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。
雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。
とのことでした。
必ずしも「東大寺大仏殿開眼節会の時に…」というだけではなかったのですね。(その話は多分「琵琶」の伝来についての説話だったのかもしれません)
いねぎは、稲置のことなのかな。
秦国というのは、中国からの渡来人である秦(はた)氏が支配していた地域のことかも。
「青く光るもの」って信号機しか知らないけど(笑)、なかなか興味深い内容にびっくりしました。
青く光る如意宝珠の正体は一体何だったのでしょう。。
ヒスイでしょうね。北陸の糸魚川流域は縄文時代からヒスイの産地として著名で、そこで取れたものが全国、さらには半島にまで流通していた事が成分分析で判明しています。倭国の特産品ですよ。ちなみに弥生時代を通じて質の良い一級品は北九州に集約されて出土します。その後はもちろん畿内です
@@ch7072
私見ですが「ブルーフローライト」なんかがそれっぽいんじゃないかと。
採掘されたフローライトのごく一部はレアアースを不純物として含み、そのせいで太陽光に含まれる紫外線を吸収して日没後に1時間ほど青緑色の蛍光発色するものがあり大昔は珍重されたそうです。
現在の日本では鉱脈が枯渇してしまいましたが、かつては全国の150か所近い場所で採れました。
宋書倭国伝もあります。
続編をやって下さい。
リクエストありがとうございます。また動画にしていきたいと思います。
筑紫の国から東へ行くと秦の人たちが居た? 聖徳太子時代の近畿地方では実力者として秦氏が政を牛耳っていたという意味かな、
色々な解釈が出来るのが、古代史の面白いところですね。
中国側の認識では、邪馬台国と大和王朝は 繋がっていると言う事 ?
色々な解釈が出来そうですよね。
新井白石が大和(畿内)説から九州説に宗旨替えするまでは国内でもみんなそうでしたよ
15:25 これって、長崎でも今も残ってる精霊流しの風習に似てますね。もし関係があったら面白い。
精霊流しですか!なるほど、似てますね。当時の風習の名残かもしれませんね。
@@ch7072精霊船は、今もありますよ。私の地元も、藁の船に供物を載せて川や海に流しました。さすがに遺体は乗せませんが。
🈸秦人の国とか徐福伝説に通ずるなにかがあるね
何かありそうですね!いつか考古学的証拠が出てくるといいのですが。。
犬は安産であり、戌の日参りや、犬帯の風習があるので、新婦が犬を跨ぐのもあるかもしれませんね🤔
新婦だし、出産祈願の意味になりそうですよね。
ロマンだなや 想像が膨らんでたのしい 脚色はあるかもだけどノンフィクションなのが良い
ロマンですよね~!
犬は怪異を見抜くと言われてるから跨いでてもおかしくはないかな
なるほど、そういう意味があるのですね。
🛸グレイ👽
無茶苦茶調べていてすごい!
こういうのはどこで学べるのでしょうか??
よくよくみると「倭」という漢字はにんべんなので、蔑称ではなさそうですね
蔑称だと狗や鮮卑など動物や卑しい意味の字が当てられてますもんね😊
1文字だしね
隋書の中で、最も問題となるのは、裴世清の九州から大和への、東行記録でしょう。これは、魏志倭人伝の国内での旅行程の記事と明らかに矛盾します。(邪馬台国を大和に有るとした場合)、これが、邪馬台国九州説、大和説を考える場合の相当大きなポイントだと考えています。何故なら、16世紀以前に、九州北、本州、北海道南に連なる地図が、世界で、10枚以上確認されているからです(中国、ヨーロッパを含めて)、しかし、これについても、ある程度の、合理的な解釈が可能だと考えています。
風俗に関しては、金閣寺を見て日本人が全員金で出来た家に住んでる って判定したりの例があるので、柏の件などはその類な気がしますね。
確かに、それは一理ありそうですね。