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私は「1300クーペ」に乗って居ましたよ。良くも悪くも走らせるのが楽しい車でしたネ。Sメーターが出るはずも無いのに230までありましたからね。因みにセダンは「99」「77」と言う二種類が有りました。1300は恐ろしくFヘビーなのに高速になるほどフロントが浮いてきてステアリングが恐ろしくクイックレスポンスに成ってチョット怖かったですけどね。クセさえつかめばコーナーも楽しかったですよ。
本田宗一郎の魂で、相変わらずJAF公認レースに出ている80歳、ライセンス更新60回。昔は2000cc以下の車では、ダントツの速さでした。9000も回ってしまう強烈なエンジンでしたが、今はパーツもなく毎回出るたびに、大金を使って修理してます。
この車はエンジンが空冷だったというのがウリでありネックでもあった他、当時はクセの強いFF駆動やリヤのクロスビームサスペンション特性が理解されていなかったためFRの感覚で運転するとスピンしたり転倒する者が少なくなかったと聞いた。
宗一郎氏が空冷信者であったのは有名な話ですが、当時の水冷エンジンの信頼性があまり高くなく、道端で冷却系のトラブルで止まっている車を頻繁に見かけたのもあったのかと思います。
宗一郎「砂漠で水がなくなったらどうするんだ!」
@@興亜一心昔、夏場に高速バスで旅行してたら東名の足柄あたりで空冷911が路肩で立往生😅😅😅
本田氏が空冷エンジンにこだわったのは、WW2時にまともな水冷の航空機用エンジンを、日本は生産できなかったという事実があるのかも知れません。イギリスは、マーリン系、ドイツはDB系を主力エンジンとして普通に量産しましたけど、日本の基礎工業力には信頼を置けなかったのかと。そういう意味で、まだ戦後を引きずっていた時代だったと思います。空冷F1は、エンジントラブルが原因とされる事故でドライバーが死亡したため、早々に見切りを付けたという話もあります。
国産量産乗用車ではホンダ1300が唯一のドライサンプだと思われがちだが、マツダR360クーペもドライサンプだった。
超アンダーステアーで曲がらないで苦労した車でした、4連キャブでいつもバキュームゲージで同調されるのも苦労しましたが、メカに詳しくなったね、懐かしいですね。
ワーゲンの空冷みたいなクーリングならまだしも、二重空冷ジャケットが構造的に重かったから、サスが抜け易かったし、リヤのクロスビームなんて、今だったらリコールもののダメな構造だった。
本田宗一郎さんは当時の技術者としては独自の理論や過去の栄光、成功体験にしがみついた老人だったんだろうな市販車としては、かなり個性的な車で一般受けはしなくても運転好きな人には刺さるものだったんだろうしトップが鶴の一声で無茶してまで作ったからこういう独自の機構と高性能なエンジンが作れたんだろうなでも、空冷へのこだわりを捨てたことでCVCCを搭載したシビックで当時世界一厳しいとされた排ガス規制のマスキー法クリアするようなクリーンな車を作れるようになったきっかけでもあるのかな?
後は経営担当であった藤沢さんのおかげも有るかなと「貴方は技術者なのか、それとも社長なのかはっきりしてください」と言われて親父さんはそこでようやく退く覚悟がついたというか
本田宗一郎は複雑な機構を嫌い単純な機構こそ丈夫なエンジンだと考えてた。初めてF1を見に行った時職人の手で芸術的に組み上げられた複雑なフェラーリのエンジンを見てこれじゃダメだなと一言。フェルナンドポルシェも考え方は同じ。ただし高出力のため空冷では対応できなくなっただけ。もし冷やせるなら水冷より空冷がいいに決まってる。100年放置しても動く。
結局空気で冷やすから直に、と言うのは正論に見えるかもしれないがレースでもエンジン全開にするのは僅かな時間。空冷エンジンが全開と全閉で激しい温度変化起こすのに対して熱容量が大きい水冷なら温度の振り幅を小さく出来るからクリアランスなど緻密に設計出来るし信頼性も上がる。第一期ホンダF1と初期の四輪市販車の責任者だった中村氏は対立ばかりしている様に言われた本田宗一郎とは技術的に一致する意見の方が遥かに多かったとしつつも熱力学を理解していなかったと評していた。
Coupe-7のCVシングルキャブのATに乗っていました。冬場の長い下り坂ではヒーターが効かなくて寒い思いをしました。強制空冷エンジンは当時は軽自動車やパブリカ、VWビートル、Porsche911、Ctroen 2CVとか割と一般的な冷却方式でした。オーバーヒートよりも実際にはオーバークールの方が問題でした。
当時、1300の頃は、A Tはなかったような記憶だったのですが..ありましたか。😊ホンダマチックとかいうLレンジ発進の無段階変速ぐらいからの記憶がありました。空冷は、水冷に比べてシンプルでコストが安いことがメリットではありましたが、オイル管理が厳しいこと、音と振動が激しいなどのデメリットがありまして、オイルショック以後の排ガス規制適合が困難となり、トドメを刺されました。
@@孝昭城戸空冷がシンプルでコストが低いってのは一般的な空冷エンジンの話でホンダ1300の空冷エンジンは水冷以上に複雑でコストも高くおまけに重かった空冷である事のメリットは皆無ホンダはATに積極的でN360から3速のフルATを採用してたしホンダ1300にも3速のフルATがあった。
エキマニが根昆布みたいだった、油でエンジンを冷やして水冷という部品が多く複雑な構造は要らないとしたしかし当時の材料、加工方式、オイルの性能が追いついておらずオイル漏れが酷かった。この技術はのちのバイクやCVCCに十分に活かされた。結局コロナ、ブルーバードには敵わなかった。
1300クーペは子供の頃、そのデザインは憧れでしたね。でも、大人になってから、その空冷のクセのつよさに驚きました。その頃大人だったら買って苦労していたかも。
オジサンが後継車のHONDA145に乗ってたけど、悪い車じゃ無かったな。数が少なかったから、結構注目されたしね。ただ、昔のFFだったから、雪道ではいきなりタックインガ出て、よく180度とか360度ターンをきめてたなーw
エンジンがシビックベースのウェットサンプになったのでバッテリーの位置が変わりましたね、145はアコード迄の繫ぎだったようです。
経年劣化でストラットがサスペンション取付頂部を突き抜けるって話は笑う。エンジンはマツダのキャロルやファミリアと同じ運命なんだな…
これ、SSのダイブツや、ちびまる子ちゃんの穂波のオヤヂのマシンw
コレクションホールに今も保存されてるな グランツーリスモ4にも出てたな
スズキがGSX-Rでやってたみたいにヘッドだけ水冷化してシリンダを空冷・油冷でやったらどうなってたのかな?
そういや日本の戦車も永らく空冷だったなあ。ていうか日本って空冷信者多かったよね。戦中の戦闘機も空冷ばっかだったし。まあ飛燕なんかは液冷発動機マトモに作れなくてぴえんだったから仕方ないかも知れないけど。
戦時中の飛行機エンジンの空冷偏重は、液冷用の長いクランクシャフトを充分な精度で量産出来なかったからというのが最大の理由だと思います。星型2列空冷なら2気筒分の長さのクランクシャフトで済むから。これがベンツ製コピーの液冷V12なら6気筒分の長さになる。しかもこの長いのが各気筒の爆発圧力で捩れて暴れようとするから保持しきれんかった。空冷でも日本はアメリカの様な4列星型は冷却やクランクシャフト製造の問題で実用化出来ず、2列にとどまりました。
ぴえんでワロタ😂
クランブルゾーンなんて概念以前のクルマなので、ボディの鋼板が分厚くて、とかなんとか。
どうだ、鉄板の薄い車に轢かれた気分は?!@怪僧のざらしNをボコってたのざらし達にNに乗ってた住職がマジオコ😂😂😂
うぅ~~~ん、見事なおやっさんっ!
うわぁ~[SS(エスエス)]にも出てきたなぁ〜、[セダンの99s]…タックインをフル活用出来る腕が有ればなぁ〜サバンナやケンメリなんて目じゃ無いと言われてたしな。😢
1300クーペではなく99Sというのがマニアックでしたね。
ヒーターが駄目で、冬場は、、、
今思うと、高齢者にありがちな、頭の固さなんですね。
切ねえっす😢
2:38 なぜ117クーペ?
1300の最後のモデルでは水冷が積まれてたって記憶が有るけど?勘違いか?いわばシビックのプロトタイプって感じ。
HONDA145という水冷エンジン搭載車がありました。燃料噴射が独自で連続噴霧方式でした。BOSCHのK-Jetronicみたいなやつだった思います。
この水冷版は、エンジンが軽かったから、1300と違って良く曲がる車であったらしい。ならば初めから水冷で出していれば、違った評価を受けていた可能性もあったのかなと思うが。この車は、初代アコードまでの繋ぎ的意味でしかない短命のモデルであったと記憶している。
本田宗一郎の経歴や水冷批判を見ればわかるが、所詮は整備工上がりのアイデアマン兼チューナー崩れであって、科学者はおろか技術者ですらなかった。
伝説化されている人物ではあったが、ただのワンマン、パワハラ親父であったとの説もある。会社における創成期には、この手の、夢と情熱で引っ張るタイプは、確かに意味がある。しかし、会社の規模が大きくなり安定してくると、より堅実な経営が求められてくるから、潔く社長職を退いたのは見識であったと思う。
とは言え本社ビルは災害時一般人に出来る限り被災者を増やさない構造にさせたり会社を身内で固めないのは流石だわ
学問を探求していたわけでは無いのでそりゃあ学者では無いし、自分が好きな事をやっただけだと思います。スーパーカブの企画、開発、デザイン、殆ど全てをやっています。やっていなかったは製造とか宣伝ぐらい。日本人で全米自動車殿堂入りしたのは本田宗一郎ただ一人だけだと思います。規模が大きくて安定していた日産自動車の歴代の経営者と比べれば立派なものだと思います。
@@tozan_chukounen 自分は、ゴーンをそれなりに評価していますよ。彼がいなかったら、ニッサンは潰れていた。ただ、彼自身の自己の過大評価と全ての権限を移譲する社内環境が完全にリンクしてしまったのは悲劇であったと思います。後は、1960年代の、川又社長については、もう少し評価されても良いと思う。彼は、戦後初のスポーツカー、フェアレディ、戦後初の大衆小型セダン、ブルーバード、高級V iP、プレジデントなどを、技術陣に指示し世に送り出した男です。また、プリンス自動車との提携によって、スカイラインの名を残しました。トヨタと切磋琢磨することによって70年代末まで国産車の向上に貢献している。あの頃のニッサンがなかったら、今のトヨタはなかったのではないかと言えるかも知れません。
エンジン作るために大学に進入して無断で授業受けてたなんて話もある
私は「1300クーペ」に乗って居ましたよ。良くも悪くも走らせるのが楽しい車でしたネ。Sメーターが出るはずも無いのに230までありましたからね。因みにセダンは「99」「77」と言う二種類が有りました。1300は恐ろしくFヘビーなのに高速になるほどフロントが浮いてきてステアリングが恐ろしくクイックレスポンスに成ってチョット怖かったですけどね。クセさえつかめばコーナーも楽しかったですよ。
本田宗一郎の魂で、相変わらずJAF公認レースに出ている80歳、ライセンス更新60回。昔は2000cc以下の車では、ダントツの速さでした。9000も回ってしまう強烈なエンジンでしたが、今はパーツもなく毎回出るたびに、大金を使って修理してます。
この車はエンジンが空冷だったというのがウリでありネックでもあった他、当時はクセの強いFF駆動やリヤのクロスビームサスペンション特性が理解されていなかったためFRの感覚で運転するとスピンしたり転倒する者が少なくなかったと聞いた。
宗一郎氏が空冷信者であったのは有名な話ですが、当時の水冷エンジンの信頼性があまり高くなく、道端で冷却系のトラブルで止まっている車を頻繁に見かけたのもあったのかと思います。
宗一郎「砂漠で水がなくなったらどうするんだ!」
@@興亜一心
昔、夏場に高速バスで旅行してたら東名の足柄あたりで空冷911が路肩で立往生😅😅😅
本田氏が空冷エンジンにこだわったのは、WW2時にまともな水冷の航空機用エンジンを、日本は生産できなかったという事実があるのかも知れません。
イギリスは、マーリン系、ドイツはDB系を主力エンジンとして普通に量産しましたけど、日本の基礎工業力には信頼を置けなかったのかと。
そういう意味で、まだ戦後を引きずっていた時代だったと思います。
空冷F1は、エンジントラブルが原因とされる事故でドライバーが死亡したため、早々に見切りを付けたという話もあります。
国産量産乗用車ではホンダ1300が唯一のドライサンプだと思われがちだが、マツダR360クーペもドライサンプだった。
超アンダーステアーで曲がらないで苦労した車でした、4連キャブでいつもバキュームゲージで同調されるのも苦労しましたが、メカに詳しくなったね、懐かしいですね。
ワーゲンの空冷みたいなクーリングならまだしも、二重空冷ジャケットが構造的に重かったから、サスが抜け易かったし、リヤのクロスビームなんて、今だったらリコールもののダメな構造だった。
本田宗一郎さんは当時の技術者としては独自の理論や過去の栄光、成功体験にしがみついた老人だったんだろうな
市販車としては、かなり個性的な車で一般受けはしなくても運転好きな人には刺さるものだったんだろうし
トップが鶴の一声で無茶してまで作ったからこういう独自の機構と高性能なエンジンが作れたんだろうな
でも、空冷へのこだわりを捨てたことでCVCCを搭載したシビックで当時世界一厳しいとされた排ガス規制のマスキー法クリアするようなクリーンな車を作れるようになったきっかけでもあるのかな?
後は経営担当であった藤沢さんのおかげも有るかなと
「貴方は技術者なのか、それとも社長なのかはっきりしてください」と言われて
親父さんはそこでようやく退く覚悟がついたというか
本田宗一郎は複雑な機構を嫌い単純な機構こそ丈夫なエンジンだと考えてた。初めてF1を見に行った時職人の手で芸術的に組み上げられた複雑なフェラーリのエンジンを見てこれじゃダメだなと一言。フェルナンドポルシェも考え方は同じ。ただし高出力のため空冷では対応できなくなっただけ。もし冷やせるなら水冷より空冷がいいに決まってる。100年放置しても動く。
結局空気で冷やすから直に、と言うのは正論に見えるかもしれないがレースでもエンジン全開にするのは僅かな時間。空冷エンジンが全開と全閉で激しい温度変化起こすのに対して熱容量が大きい水冷なら温度の振り幅を小さく出来るからクリアランスなど緻密に設計出来るし信頼性も上がる。
第一期ホンダF1と初期の四輪市販車の責任者だった中村氏は対立ばかりしている様に言われた本田宗一郎とは技術的に一致する意見の方が遥かに多かったとしつつも熱力学を理解していなかったと評していた。
Coupe-7のCVシングルキャブのATに乗っていました。冬場の長い下り坂ではヒーターが効かなくて寒い思いをしました。強制空冷エンジンは当時は軽自動車やパブリカ、VWビートル、Porsche911、Ctroen 2CVとか割と一般的な冷却方式でした。オーバーヒートよりも実際にはオーバークールの方が問題でした。
当時、1300の頃は、A Tはなかったような記憶だったのですが..ありましたか。😊ホンダマチックとかいうLレンジ発進の無段階変速ぐらいからの記憶がありました。空冷は、水冷に比べてシンプルでコストが安いことがメリットではありましたが、オイル管理が厳しいこと、音と振動が激しいなどのデメリットがありまして、オイルショック以後の排ガス規制適合が困難となり、トドメを刺されました。
@@孝昭城戸
空冷がシンプルでコストが低い
ってのは一般的な空冷エンジンの話
でホンダ1300の空冷エンジンは
水冷以上に複雑でコストも高く
おまけに重かった
空冷である事のメリットは皆無
ホンダはATに積極的で
N360から3速のフルATを採用してたし
ホンダ1300にも3速のフルATがあった。
エキマニが根昆布みたいだった、油でエンジンを冷やして水冷という部品が多く複雑な構造は要らないとしたしかし当時の材料、加工方式、オイルの性能が追いついておらずオイル漏れが酷かった。
この技術はのちのバイクやCVCCに十分に活かされた。
結局コロナ、ブルーバードには敵わなかった。
1300クーペは子供の頃、そのデザインは憧れでしたね。でも、大人になってから、その空冷のクセのつよさに驚きました。その頃大人だったら買って苦労していたかも。
オジサンが後継車のHONDA145に乗ってたけど、悪い車じゃ無かったな。
数が少なかったから、結構注目されたしね。
ただ、昔のFFだったから、雪道ではいきなりタックインガ出て、よく180度とか360度ターンをきめてたなーw
エンジンがシビックベースのウェットサンプになったのでバッテリーの位置が変わりましたね、145はアコード迄の繫ぎだったようです。
経年劣化でストラットがサスペンション取付頂部を突き抜けるって話は笑う。エンジンはマツダのキャロルやファミリアと同じ運命なんだな…
これ、SSのダイブツや、ちびまる子ちゃんの穂波のオヤヂのマシンw
コレクションホールに今も保存されてるな グランツーリスモ4にも出てたな
スズキがGSX-Rでやってたみたいにヘッドだけ水冷化してシリンダを空冷・油冷でやったらどうなってたのかな?
そういや日本の戦車も永らく空冷だったなあ。
ていうか日本って空冷信者多かったよね。
戦中の戦闘機も空冷ばっかだったし。
まあ飛燕なんかは液冷発動機マトモに作れなくてぴえんだったから仕方ないかも知れないけど。
戦時中の飛行機エンジンの空冷偏重は、液冷用の長いクランクシャフトを充分な精度で量産出来なかったからというのが最大の理由だと思います。星型2列空冷なら2気筒分の長さのクランクシャフトで済むから。これがベンツ製コピーの液冷V12なら6気筒分の長さになる。しかもこの長いのが各気筒の爆発圧力で捩れて暴れようとするから保持しきれんかった。
空冷でも日本はアメリカの様な4列星型は冷却やクランクシャフト製造の問題で実用化出来ず、2列にとどまりました。
ぴえんでワロタ😂
クランブルゾーンなんて概念以前のクルマなので、
ボディの鋼板が分厚くて、とかなんとか。
どうだ、鉄板の薄い車に轢かれた気分は?!@怪僧のざらし
Nをボコってたのざらし達にNに乗ってた住職がマジオコ😂😂😂
うぅ~~~ん、見事なおやっさんっ!
うわぁ~[SS(エスエス)]にも出てきたなぁ〜、[セダンの99s]…タックインをフル活用出来る腕が有ればなぁ〜サバンナやケンメリなんて目じゃ無いと言われてたしな。😢
1300クーペではなく99Sというのがマニアックでしたね。
ヒーターが駄目で、冬場は、、、
今思うと、高齢者にありがちな、頭の固さなんですね。
切ねえっす😢
2:38 なぜ117クーペ?
1300の最後のモデルでは水冷が積まれてたって記憶が有るけど?勘違いか?
いわばシビックのプロトタイプって感じ。
HONDA145という水冷エンジン搭載車がありました。燃料噴射が独自で連続噴霧方式でした。BOSCHのK-Jetronicみたいなやつだった思います。
この水冷版は、エンジンが軽かったから、1300と違って良く曲がる車であったらしい。ならば初めから水冷で出していれば、違った評価を受けていた可能性もあったのかなと思うが。この車は、初代アコードまでの繋ぎ的意味でしかない短命のモデルであったと記憶している。
本田宗一郎の経歴や水冷批判を見ればわかるが、所詮は整備工上がりのアイデアマン兼チューナー崩れであって、科学者はおろか技術者ですらなかった。
伝説化されている人物ではあったが、ただのワンマン、パワハラ親父であったとの説もある。会社における創成期には、この手の、夢と情熱で引っ張るタイプは、確かに意味がある。しかし、会社の規模が大きくなり安定してくると、より堅実な経営が求められてくるから、潔く社長職を退いたのは見識であったと思う。
とは言え本社ビルは災害時一般人に出来る限り被災者を増やさない構造にさせたり会社を身内で固めないのは流石だわ
学問を探求していたわけでは無いのでそりゃあ学者では無いし、自分が好きな事をやっただけだと思います。スーパーカブの企画、開発、デザイン、殆ど全てをやっています。
やっていなかったは製造とか宣伝ぐらい。日本人で全米自動車殿堂入りしたのは本田宗一郎ただ一人だけだと思います。規模が大きくて安定していた日産自動車の歴代の経営者と比べれば立派なものだと思います。
@@tozan_chukounen 自分は、ゴーンをそれなりに評価していますよ。彼がいなかったら、ニッサンは潰れていた。ただ、彼自身の自己の過大評価と全ての権限を移譲する社内環境が完全にリンクしてしまったのは悲劇であったと思います。後は、1960年代の、川又社長については、もう少し評価されても良いと思う。彼は、戦後初のスポーツカー、フェアレディ、戦後初の大衆小型セダン、ブルーバード、高級V iP、プレジデントなどを、技術陣に指示し世に送り出した男です。また、プリンス自動車との提携によって、スカイラインの名を残しました。トヨタと切磋琢磨することによって70年代末まで国産車の向上に貢献している。あの頃のニッサンがなかったら、今のトヨタはなかったのではないかと言えるかも知れません。
エンジン作るために大学に進入して無断で授業受けてたなんて話もある