ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
今年73歳になりました。このドラマを見ていると自分の人生を見ているみたいでした。親は出稼ぎで大変でした。でも親に対しては感謝しか有りません。故郷は良いですね。久しぶりに素晴らしいドラマ有難う御座いました。
60年代、村の有線から市外通話につなげてもらうには何時間も待ちました。薪のお風呂で、近所三軒くらいで順番に風呂を入り合ってました(一家族だけで入るともったいないので)ご飯時間に家に帰ってくると味噌汁の美味しい香りが家の外に漂い、山の風景と共に思い出されるような田舎でした。
味噌汁の出汁はきのこですか?
だからこそ隣近所が助けあっていたのですね。
うちの部落では 60年代の半ばともなれば 9番回してすぐに有線から普通の電話に繋がりました
60年代では、なくてそれは、戦前か昭和20年代の話では、ないのですか
@@哲朗高橋-x6u 様いいえ、力道山が亡くなった何年か後の事です。60年代半ば。私は小学生。信州の南、城下町の郊外の山。冬になれば学校では、ストーブが薪から石炭に変っていった頃。電車にも石炭ストーブがありました。
64才 ですが私が生れたころ 昔は何もかも自給自足こんな光景が、日本中のあちこちに、点在していたのかな。妙に懐かしい、途中トランジスタ ラジオが出てきますが、我が家は真空管式の ラジオでした。貴重な映像 映画有難う御座います。
心の奥底に埋没してしまっていた懐かしい感覚が蘇りました。家族で一生懸命に生きる姿、近隣で支え合う姿、宝である児童の教育に全霊を傾ける教師の姿・・・貧しくても豊かな心がそこにはあったのですね。最後に登場する幼児は、ちょうどこの時代に生まれた私の姿です。あれからおよそ60年。私たちは、良い国を作れたのかなと立ち止まって反省しなくてはならないと思いました。良い映像を配信して下さいまして、ありがとうございます。
貧しくても一生懸命生きる。今と時代は違っても、心打たれるものがありますね。立派な国作りと大きなことを考えなくても、一人ひとりが一生懸命生きていくことが、それにつながっていくことを感じました。
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないようにもっと色々体験などを書いていただきたいです。
私の子どもの頃薪取りや水汲み畑仕事の手伝いなど大変だった40ぷんかけて学校通った頃が懐かしくもあり悲しかった事思い出し
僕の父親は戦争から帰ってきた21歳。学生から戦地、帰ってきたら遠野の教師だった祖父が国に落胆し、岩手山麓に開拓に入った。父親はそれが嫌で上京、そして僕が生まれ・・・でもなぜか僕は故郷が岩手山だと思っています。小学校4年生の一年間を過ごしただけですが・不思議なものです。祖父も親父もとっくに他界し、山麓の田畑も離農から20年で今は原野にもどっています。
24の瞳が好きで何回も見ています。この映画も、初めのシーンから、最後まで、一気に見てしまいました。昭和30年代か、それ以前、戦争から、やっと立ち直った頃、皆が一生懸命生きていた時代。貧乏の苦しみ、悲しみも知りつつ、明るく生きていた時代。未来に希望を持っていた時代。みんなが労りつつ、悲しみも楽しみも共有していた時代。時々振り返って、今の自分は、どこにいるのか?本当にこれでいいのか?真面目に生きなくてはと思います。子役さんも役者さんも、素敵でした。コグマちゃんも。大切に、また見直させていただきます。有難う御座います。この時代に、いたいとは思えませんが、家族の思いやりや、痛みが、もっと深かったと思います。
日本人の暮らしの原点ですね。感動しました。道路が整備される前の獣道しかなかった時代の十津川村も、こんな感じだったろうな~?十津川村の廃村ビデオを見て、そう思いました。僻地の農山魚村で、汗水たらして働く父母を身近に見て育った子供たちは真っすぐ(ぐれることも無く)に育ち、自然と勤労意欲を身に付けました。”子は親の背中を見て育つ”、です。映像の中で母親が、「立派な教育を受けさせられず、子に申し訳ない」と泣いてますが、苦労して子育てをしている姿を身近で子に見せることに勝る人間教育は有りません。自分もそうだったので。。。そして、彼らが🗾の高度経済成長時代を支えたのです。私が小さい(7歳)頃、近所の貧しい家のおばさんが病気で寝たきりでした。遊びに行くと布団から出てニコニコしながら、自分たち子供が遊ぶのを見ていました。 暫くして亡くなられました。 おそらく、今なら治る病気だったでしょうが、貧しくて病院に行くことができなかったでしょう。約60年前のそのおばさんの😊顔が、今でも思い出されます。
町の映画館の看板で年代がわかりました。私が九つか十の頃の映像ですね。畳の上でテレビが観られた東京での生活と、電気も来ない、医者にもおもうようにかかれないムシロの上での岩手の山間部の生活。60年前の映像から、学ぶ事や考えさせられる事は多い気がします。
こう言う映画を是非見たかった。本当に配信有難う御座います。
母も頭にホウカブリとモンペをはき田んぼに行ってたな、親父は工場に仕事を貧乏生活やったな懐かしい思い出かな
この頃の映画ファンです。懐かしくて見入ってしまいました。学校の暖かさ、先生の暖かさ、隣人への暖かさ、これこそ日本人のあり方だつたのではないかと思う。便利さを求め、欲しい物が手に入り、、、何かを忘れてる。そんな事を考えさせられた。素敵な映画有難うございます。
昭和50年代初め頃まで先生は聖職本当に素晴らしい先生ばかりでした。事故で両親が亡くなっ生徒を引き取り大学まで出してあげた先生もいました。
昔を思い出します!和多志は山ではなく島育ちでしたのですが不便を感じませんでしたね!近所付き合いとか玄関も窓も開けっぱなしで安心出来ました。今は鍵をしていても安心出来なくなりましたね!
なんだろう見入ってしまった。貧しいのが当たり前の様な時代を少なからず経験した生きた。時間がゆっくり流れていたようなのんびりしていた。今の忙しなさが、疲れる
50分見入ってしまいました。今の便利で何不自由なく洗練された生活と人の生き方についてあらためていろいろ感じ、深く考えさせられます。この映画に意外に多くの反応とコメントがあるということは、そういう方が少なくないということではないでしょうか
昭和の暮らしに興味があるので見入ってしましました。これは貴重な山の生活の記録ですね。また子供達が活き活きして素晴らしい。
📌小生が小学校時代のテレビが普及し始めた頃、学校でもテレビを見る授業時間があった。その時NHK教育放送が授業用に流していたのが「太郎の村」という、山間の生活をテーマにした番組。その時間になると、テレビが設置されていた家庭科教室に集合し、担任がおもむろにコンソールタイプのテレビの扉を開け、画面に見入ったものだが、如何せん映りがメチャクチャ悪かった。山の中の小学校だったので、アンテナ立てても殆ど効果が無かった。只々白黒のザラザラ画面の中に動きの影を追うようなものだった。それからだ。村人総出でアンテナを持って村中の放送電波の感度の良いところを探し求めて、山々の頂上付近を歩き回った。その結果、感度の良い所が見つかり、そこに村の共同アンテナが立てられ、村のテレビ組合に加入の形で長らく運営された。30年近く運営されたんじゃなかったか。その後衛星放送がテレビ局で取り入れられ、各家庭はパラボラアンテナを設置するだけでキレイな画面が見られるようになった。しかし、子供の頃の画面は本当に酷かった📌
@@hideohosoe6476 興味深く拝読いたしました。貴重なお話をありがとうございました。
セリフの一つ一つが自然で、心に沁みる・・・。「当たり前のように享受している」我々の生活も、先人たちのこうした時代を経てきたうえで今日が在る事に感謝。最後の「さわ子~!」「さわ子~!」の呼びかけに、無言で駆け出して行ってしまうさわ子の心情たるや如何ばかりか・・・・・。
団塊の世代の私は 秩父の山村で育った・・・こんな生活でした。懐かしい!!!
ビン詰めしたヤギの乳を、病に伏せているさわ子のお母さんに届けるシーン。診療所も遠く、薬も簡単に手に入らずお金もかかるので、手軽に手に入る山羊ミルクを滋養強壮の薬代わりに毎日届けていたのでしょう。今は黒牛の高級牛肉で有名な岩泉町も、当時は肉牛生産もやっておらず、街から来る牛乳も山奥では流通が難しく、日常生活の栄養の支えとして家の前で山羊を飼っていたであろう背景を想像しました。(沖縄だと正月などはつぶしてヤギ鍋にしたそう)
子供の頃の我が家もこんな感じやった、懐かしいなおもちゃは自分で手作りやった昔は当たり前の時代
今の子供たちは、既製品のおもちゃを手にしてますよね。そういった経験のちがいで、発達的にも差が生まれてしまうんでしょうかね?
自分にとって宝石みたいな映画です!自分は69歳です。こんな感じでした。
僻地でなくとも戦後の村は押し並べてこんな感じでした。私の家は街中にあったので、進駐軍やパンパン(進駐軍相手の派手な格好をした売春婦=そうせねば暮らして行けない娘さん)も見た反面、多量の地下水を必要とする工場が山際にあり板間に茣蓙(ゴザ)を引いて暮らしている農家も見てきました。褒美やオヤツ代わりに貰った一匙の砂糖に狂喜した時代です。昨日のように思います。私は77歳です。幸せとは決してモノの豊かさではないと思っています。
戦後急激に復興していたとはいえ、この映画の時代、60年前ごろまで地方は、貧しかった。天然のイワナが泳ぐ渓流はうらやましい。貧しく苦しい時代に生きた山村の記録として前向きに生きる精神に感動を覚える映画だ。この時代の子供が今の老人だろう。
いい映画だ。ずばり原風景の中にどっぷり浸かり、ダイナミックな自然に囲まれ、自然に生きる姿に何ら迷いや衒いがなくすごい、琴線にふれる映画だ。
45:31 のところ、「戦争で一変でおじゃんだ、はっはっはっ」って笑えるところに修羅場を越えて生き抜いてきた人間の器の大きさが表現されていて素晴らしい。
ほんの少し前の日本。大きなドラマがあるわけでもないが、誠実に生き抜いてきた人々の積み重ねの上に、今の僕たちがいることをしみじみと思いました。
んん?んりる
子供たちの愛らしさに胸が鷲掴みにされました。音楽も素敵でした。ありがとうございました。
こんな懐かしくも素晴らしい映画皆んな見てもらおう。今のカサカサした時代風景とまるで違う世界が50・60年前まであったのだ。本当によい映画だ。
うちの実家も炭焚きでした。父や父の友人から聞いた生活そのもので一世代でこうも変わるのかと驚いて居ます。
子役は皆地元オーディションで、当時私が通っていた小学校の子達だった。なので、映画ができた時に学校の視聴覚室で皆で見たっけ!!セリフの訛りが自然でいいな❤今のドラマや映画は不自然過ぎて見る気がしない。
オーディションには落ちたんですか?
リアルタイムで撮影当時の事を知っている方がいてビックリしました。若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないようにもっと色々体験などを書いていただきたいです。
貴重なお話です映画もです。授業のいっかんで観た怒りの孤島という映画私には衝撃的でどうしてどうしてと涙と怒りでいっぱいでした私事で小学生のころのことです。
@@bitter-t2o 私は応募したわけではないのですが、知ってる子が出ていました。
旧有芸小学校のそばにお住まいの方から、この作品の撮影された場所などについて調べてほしいと依頼されています。炭焼きをしているところは釜津田地区でしょうか。
ラーメンがご馳走。これを見た後チキンラーメンを作ってしみじみ食べました。なんとうまいことか。今の飽食の時代に忘れていた、物ごとのありがたみを思い出させてもらいました。
山里の暮らしを描いた記録映画としての要素もありながら、登場する人々の境遇、性格がよく描写されていて、ドラマとしてもたいへん見応えがあります。作りも丁寧で、絵はきれいで音楽もこまやかで美しい。俳優の演技が自然で、各場面での所作も板についていて見やすいですね。
切ないなぁ。高度成長期が来てエネルギーは薪や炭からガスや電気に変わって需要がどんどんなくなっていく。沢山の子供が希望のように見えるけど死亡率が高い。今お元気なら70歳ぐらいか。現地ロケというけど炭焼小屋の家屋の中も本物なんだろう。当時の都会の人は貧困に見えただろうけど今見ると異文化を見るようでとても興味をそそられる。学校でクマを飼ってて朝道草にイワナをとって先生の朝食を作ってやるとか仰天するばかりだ。それが美しく見えるのは現代の感傷に過ぎないのかなと思ったりもするし。ついつい断片的に見える地名、岩手県の下有芸分校、上大川郡、というのをストビューでこの映画の痕跡を探してしまう
@@BLADE.RUNNER 舞台になった有芸から、この診療所のある釜津田は、同じ町内で直線距離こそ20km弱(それでも遠い!)ですが、今も含め当時の道沿いに行ったら山沿いの悪路を倍以上の距離。とても1時間半では辿り着けないですね。しかも道中には岩泉町役場有する中心街があるという。でも、町の立派な病院じゃ画にならないので、ここを設定上のロケ地として使った感じもします。
昔から山歩きしてたけど、こういうとこの廃屋によく出あったよ 見るたびに物語があったんだな~~~~!! って、思いながら・・・・・・・・
ありますね。京都でもたくさんありますよ。
私が小学校低学年頃の映画ですね。私の地域でも山仕事を専門でしている人もいました。私の祖父もそうでした。芝刈、薪作り、炭焼き等当時は貴重な収入源でした。運搬も索道、木馬、人力、荷車等でしたね。
いい映画だった。
いい映画でした。元気な子供たち、よい先生、優しい両親。主人公のお母さんのたくましさ、優しさに胸が熱くなりました。男の子が先生の布団でおねしょしても笑って許してくれる心の広い先生もいい。校庭におねしょの布団とズボンと干して、男の子が先生のズボンを借りてだぼだぼのまま走り回っているのもかわいい。先生が飼ってるのが小熊なのがびっくり。大きくなったらどうするのでしょう?女の子が版画の表彰式に町に連れて行ってもらったときに憧れのラーメンが!でもお母さんはぐっと我慢して女の子を引っ張って食堂を通り過ぎる。女の子の気持ちもお母さんの気持ちも分かるから切なくなる1シーンです。ラーメン50円、だったんですね。物価の違いを感じます。
言葉にならない程の映画、ある意味ではドキュメンタリーです。大人も子供も大胆に、そして繊細に表現されている、今の時代に生きる若い人には、それこそ江戸時代の様であろうがこの時の子供たちは今も逞しく生きている。舞台は岩手の山間部らしいが、八戸出身の私にも、とても身近に感じられ親しみ深い人たち、貧しくとも力強く生きていた正直で善良な日本人がここにもいた時代。最後のサワコが子供たちの呼びかけにも応じず、走り出した場面は、サワコの心情が良く描かれている。感情が冷静では観られない秀作です。
炭焼き、割木など売って貧しい生活していた頃の記憶が蘇りました。ありがとうございます。当時小学校でしたこんな貴重な映画は今の子供達に進んで見せるべきだ。
@@107pepe3 ありがとうございます。機会があれば体験を伝えたいと思います。今度テレ東に出るかも?
私の祖父も 子供のころ炭を焼いてて 作業を手伝っていましたとても懐かしくこの映画を観ました当時は 貧しかったけど何か楽しかったです
うーんこれは貴重。山奥を探索すると石垣とか人がいた跡を見ることがあるけどやはりこうして生活する人たちが居たんだなと。
素朴でいいです😊
音楽 林光は凄い。英映画社の動画はこのチャンネルでも何本か観したが、毎度良いですね。
そうですねぇ、武満さんも亡くなって、さびしく成るよね。すみません。はじめまして音楽はいい
貧乏だった昔を思い出すなあ 外でワーワー遊んでいた頃が懐かしい
この人達の頑張りがあって今の日本があります😊感謝しなければいけません😊
俳優の演技が自然でいい。
平成生まれだけど、懐かしさを感じるのは何故だろう。。。
いまの若い人たちに、ほんの数十年前日本にはこういう風景があったことを知ってほしい。自分たちがいまいる社会は、こういう世界ともつながりのあるところから変化してきたことを感じてほしい。
全くその通りだね。
若い人にこの映画を理解してもらうため、補足します。ネタバレであり見解の異なる人もいると思うので、気になる人は読まないでください。①このお父さんは「ぶんもう」という設定。ラジオ聞くシーンが多く子供の手紙を3回も読ませています。事業者の所に行った時、事業者は新聞を読んでいました。子供の頃貧しくて学校にも行かせてもらえなくて、家の手伝い(炭焼)をして育った。立派なお父さんだと思う。②町へ出ている姉からの手紙。裕福な家で元気で家政婦をしているような内容だが、親を心配させないように気をつかっている。何もないこんな山奥の生活から、色々ある町にいったのだから楽しいはずだが、少しはお金を送れる、家に帰るのが楽しみだと締めくくっている。中学校に通わせてもらっているのだろうが、何か辛いことがあるのが垣間見える。この映画は商業映画と違い、面白くするため脚色演出されていないと思う。事実に基づいている貴重な映画と思ってみてほしい。興味があれば「学校めぐり6」も検索するといい。
もんもう
ここに出てくる子どもたちとほぼ同世代ですが、当時山村の炭焼きを生業とされているご一家のくらしを知ること、想像することすらありませんでした。 見ていて貧しいながらも製品になった炭の運び出しや滑車?を利用した物の運搬など不便な生活にこそ工夫が生まれることを実感しました。 丸木を渡しただけの橋を小さな子をおぶって渡ることができてオーディションもクリアしたのでしょうね。 先生の住まいが分校だったのでしょうか? 学校の存在の大きさを再認識します。
昭和30年代まで私達の町の山奥未開の地。道なき道の山奥に人が住んでいた❗山を越え川を越え谷を越えこんな山奥に掘っ立て小屋みたいな家に家族が住んでいる姿❗見てびっくりしました❗山岳林道を市が作った❗ダムを作るという話で尾根つたいに道を開拓すること数年道幅の狭い片道道路をトラックで数時間走る‼️現在では整地され30分もかからない場所にいつてみてびっくりしました❗当時掘っ立て小屋みたいな家だけかと思ってた❗しかしさらにその奥地に数件家があった❗改めて人間の生命力の凄さを思いしりました❗人間生きて行こうと思ったら凄まじい生命力を発揮するのですね🎵しかし男女がどうやってあんな山奥未開の地に入れたのか❗凄すぎますねえ‼️山のもの食べて生き❗家族が増え自給自足で自分たちの生活の場所開拓したのですねぇ‼️凄い人達ですねぇ‼️日本にも知らない未開の地あるのですねぇ❗病気になったらどうなるのでしょうね❗凄い人達です‼️
貧しかったけれどみんなが一生懸命だった日本🗾。今は何でも手に入る時代に生きているけれど毎日ふと虚しい気持ちになることがある。この時代の日本にはお互いの愛や尊敬やなにか強い希望があった!幸せってなんだろうと考えさせられました。有難うございます!!
最初に流れるメロデイー、なんとなく懐かしい思いがするいい曲ですね、NHKの昼の憩いの曲調、クマの子、かわいい・・・先生も子供たちと生活を共にしてるのがいいな45分20秒・・・「まえはカラフトででかい魚とって・・・・」スケトウダラ漁、や笠戸丸の時代を連想する・・・カラフトをソ連にとられ、引き揚げてきた人たちでしょう、相撲の大鵬関も引き上げてきた人たちだったそうです、このころから徐々にソ連に漁場を狭められてゆく・・
基地外独裁者スターリンが全ての諸悪
犬かと思えば熊の子だった‼
何気なく、懐かしい映像に見入ってしまった。山間を走るバスの行き先が普代となっており驚きました。普代は私の故郷でした。私は海の近くに住んでいましたが、山の奥に住んでいる人達は炭焼き業を営む人が多かったように思います。 当時を思うと懐かしい反面、切なくもありますね。
普代ゆきのバスが走っている見通しの良い高原って、今のどのあたりかおわかりになりますか?
@@Su---- 普代にはあのような高原はありませんので、撮影の都合上、あの場所をロケ地として選んだと思われます。あのような開けた高原は私もわかりません。イメージとしては、岩泉あたりか、離れた場所として白樺の木が映像にもありましたので久慈市から二戸市に繋がる平庭高原辺りかなと推測します。あくまでも推測です。悪しからず😥
@@MS-vf4ey やはり不明ですか。自分も行ったことがある平庭高原かなぁ?と思ったのですが、あまりにも白樺が少ないし、普代近辺の高台はあんな地形のところないのですよね。それとも半世紀以上経過して、木が生い茂って景色が一変してしまったのかも知れませんね。当時、岩泉から普代に出るバスがあったのか知りませんが、さんてつはおろか、国鉄線も普代までは通じてなかったので、最終目的地の表彰会場の港が宮古だとすると、順路としては不自然なんですよね。
@@Su---- そうですね。私も若い頃、東京から普代に帰省する時は、車だと東北道の北上インターから山を超え、釜石に抜けて北上して帰ったものです。あのような白樺高原の風景はありませんし、やはり平庭あたりかなとこだわってしまいます。
高原をバスが走っているあたりは、多分現状は樹木が茂って映画のように景色は見えないと思います。しかし、遠くに見える山は変わっていないので木立の間から映画の山並みを探すと見つかると思います。地元の方に見つけてほしいです。
🌈💖🍂🏔私は昭和16年生まれ🏔南魚沼ハ海山の麓🏔生まれ‼️これほど!??出ないにしろ?!和の頃は、、同じような、、暮らしでしたね.貧しいとは、思わなかった、、、今の時代より?!良い気がする?!❤ワンピース.あの頃(カンタン服)と、言っていた。
🌈💖🏔📻この作品昭和30年以後ですね.多分❤
子供達が可愛い❤
メール✉️が電波のように空を飛んでいました😃アイディアが素晴らしいです✨むかしは結核など寝たり起きたりの病弱な方が多かったですね もちろん私はその後の世代ですけど 家族の苦楽はわかる世代です😌薬と医療の有難味を思い起こさせる動画でした✨
小学校の時の転校生が炭焼きの家の子で、生活の話を聞いても実感無かったですね。新聞やTV、映画では見聞きした。春に子供が雪解け水で激流になった沢で亡くなったと毎年の新聞記事。1965年頃でも隣り村の子は町を見た事もなかった。高校の部活の一環で子供を町に呼び、それが山の分校の修学旅行。ドラマだけど非常に現実に則したものと思います。ありがとうございます。本田勝一のルポを思い出した。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないようにもっと色々体験などを書いていただきたいです。
懐かしい本当にこの頃把今に比べ優雅
1:03 ここの「そして明日も」ガ哀愁ありすぎて、もう泣けるの草
日本中どこの村でも鍵をかけるということはなかった時代。自分の家の囲炉裏や炬燵の火が消えると「寒い寒い」と隣の家に入っていた。戦後夫が戦死したり焼け出された人が村に越してきて、よく風呂をもらいに来ていました。美徳でも道徳でもなく、助け合うということが当たり前の時代でした。またそうしないと生きていけなかったのです。モノが溢れかえる今の時代、私たちは大事なものを失いつつあるように思います。
ようやく公開画質が480pから高精細な1080pになりましたね。大画面で見るとやはり銀塩フィルムからの最新テレシネは修復も含めとても美しいですね。ありがとうございます。
「ある遭難」という映画の幟、1961年の映画ということは、そのころに作られた映画ということか。子供のほうは今70前後というところか。
素晴らしい。そして、心が暖たかくなってきました。有り難う御座います。
いつも動画ありがとうございます。
ここほどではないが奥吉野で育ったので懐かしいです。
40年代生まれですが子供の頃は田舎に住んでて本家は茅葺き屋根 五右衛門風呂 庭に山羊とニワトリ 近所には牛を飼ってる家 本家はまだ釜戸でご飯炊いてました 我が家は新築でガスのお風呂 でも本家が好きで毎日遊びに行ってました 手拭いとモンペ姿の婆ちゃんに可愛がってもらっていた記憶が蘇り懐かしくてウルウルしました 人と人との距離が近くてもそれが居心地良かった良い時代ですよね
もしこの時代にスマホ📱やiPhoneやタブレットが有ったら今の時代はどうなると思いますか⁉️
昭和32年生まれ🥋浅野炭鉱町で育つ😊楽しい動画❤感謝致します🤗
懐かしい。昭和40年代初めころ、友達の家で山羊を飼っていて、ヤギの乳をその家で自家消費していました。飲みたかった思い出があります。山持の農家の人だと、炭焼きを兼業していた人もいました。なぜか、粗食だったはずなのに、当時の食事の方が美味しかった記憶があります。子供だったので感覚がフレッシュだったからかも。
放課後に山に入って「アケビ」を取ったり、あぜ道の脇になっている「クワの実」をもいでおやつに食べる…なんて子供はもうほぼ絶滅でしょうかね。
@@Su---- 東京の公園だと、よく探すとセイヨウミザクラ(サクランボ)、アケビ、桑、野イチゴ、柿などが植えたり、自生したりしています。私の子供が幼いころに一緒にとって食べられることを教えてやりました。また、ツツジの花をもいで中にある蜜を吸わせてやったこともあります。孫たちにも伝えてくれることを願っています。
@@nipperkun1 最近の親御さんでもそういう世代ではないので「街中の木になっているもの=汚い」というイメージの人が多くて、自分でさえ食べようとしない&食べたこともない人が多くなりましたからね。ましてや子供が洗わずに口に含むなど言語道断!という人が普通という世の中。
ユキちゃんもいる。ユキちゃんの意味が分かる人は私とほぼ同世代(笑)
昭和三〇年頃でした、山奥の村で良く似た体験しました今は亡き優しい兄と炭焼きした!想い出が昨日の様に蘇ります
子供の頃思い出すわ~60年後こんな時代になるなんて、想像もしなかった!
何だかほんのりと、昔に引き込まれそうになります。温かくて人情味がたっぷりでホンワカ心が安らぎます。この時代に帰りたいとも思うが、どっちが良かったか?製作映画で目的があって創られたものと考えれば??
小学生の頃、学校でこういう教育映画を見せてくれた。各学年ごとに講堂に集まり観た。鑑賞料は一人10円だったかと記憶している。
共に支えあう泣けました
待ってました、英映画社制作
UPありがとうございます昭和の僻地 今から見れば大変そうですが 人々は楽しく生活してました 雑木と呼ばれる木を炭にしてました しばらくして杉や檜などの植林が政策として進みましたやがて高度成長期になり、若者が村から都会へと流出 山の手入れなど出来なくました工業製品を買ってもらう代わりに 外材輸入が始まり 植林した材も採算取れなくなりほったらかし治山もできてません
でんわでんぽうの看板が懐かしいな
炭焼きと薪、それに生きる人々。当時の大切な産業だと感じました🤗学校で飼育されてる子熊可愛い❦
昭和30年代に本当にまだこの様な生活をしていた人がいたのだろうか?このお父さんたちの年代は今も元気なら90歳ぐらい、、。下有芸という地名は現在もある。ボンネットバスが見晴らしのいい、峠道を行くロケーションがいい。普代あたりなのか場所は不明。旧宮古小学校、閉伊川河口付近で撮影されている。
奇跡的にこれを見て、出演者の現在を知って居られる方がいたら、ぜひ書き込みをお願いしたいです。当時の子役さんなら60代くらいかな。当時の思いや今思うことなどを、伺ってみたいです。
@@AiRobi 思うにおそらく昭和31~34年くらいかと思いますだとすれば子役さんたちは、70歳超えてるくらいでしょうね
@@AiRobi 別のコメントで書きましたが、お母さん役の娘さんが「母野辺かほるを語る」というTH-cam動画を上げられてます。てっきり主人公のお母さんかと思ったら、最後転校して行くさわ子のお母さん(病弱で寝込んでる人)のようですね。90歳過ぎで逝去された日本映画の名脇役だそうです。一方の主人公のお母さん役「真木早苗」さんは地元岩手の女優さんのようで、2003年現在で舞台歴60年(東京の小劇場で主演を張ったそう)とありましたので、最低でも85歳は超えられている方かと思われます。
@@Su---- 母さん役は地元の方だったんですね。貴重な情報有難うございました。
子供の頃、よく母の生まれた五島列島の田舎も従妹の家に、ひとりで夏休みは行ってましたが夏はとても涼しかったの覚えてます、川は綺麗だし、海も透き通ってきれいでした朝6時頃おきて砂浜いくと、海がひいて、砂浜に打ちあげられた魚も何引きもいました大きなシェルの貝が開いてました自然がとても美しかったです人々も穏やかで、温かい優しさを感じました小学生の頃、中学になれば田舎で、好きな田舎の子もでき文通しましたみんな、40年くらい経ちけど、どうしてるのだろうと思います昭和が私は大好きです、スマホとかインターネットに買い物もAmazonでできビルは立ち並び、駅は開発が進み、交通の便もよくなりましたがなんか住みにくくなったと感じてます
60年前の日本・・・こんなもんだよな~
代々、山で生活していた人以外にも、やむにやまれぬ事情で炭焼きに成ったりしたんですね。炭焼きにも、小作農の様に炭焼きの下で炭焼きする人もいたりと、様々なようです。地域は異なるけれど、元炭焼きの宇江さんの本はお勧めです。
制作が1961年(昭和36年)だが、特需景気もあり戦後10年経ってもはや戦後は終わったと言われ、安保が自動継続となって外交防衛的には安定した。そして池田内閣の高度成長政策に突進した。この3年後1964年が東京オリンピックだった。制作年は祖父が炭焼きしてた頃に重なるが、映画の舞台となっている期間は20年代のものだと思って見た。物語も面白かったが、当時の生活風景に没入してしまった。科学映像館様、チャンネル登録させていただきました。またありがとうございました。
皆元気に暮らしてると良いね😊
Love from India to Japan
音楽が60年前の林光先生、これも貴重です
なんか懐かしい様な悲しい様な自分は67だけどここまでじやなかつたなでもしようがく6年のしゆうがくりよこうだい3600円払えなくて小松手いたら、担任野、伊藤博通先生が立て替えテクれていけた、先生荷は本当に監視やしています。北海道標茶虹別。
しゆうがくりよう活けて夜勝ったね
ただただ、素晴らしい
先生のごはんが美味しそうでした。
貧しいけれどひたむきに生きる家族…ケンカしながらも家族を思い家族を守る…。先生は子供たちに精一杯の力をそそぐ…。現在家族の崩壊 家庭内での殺人 先生は生徒に手を出しおちおち学校へもやれない…。失ってるものばかりですね。
この子たちは私と同年代か少し上の子供たちでしょう。山の小中学校の多くは過疎化で廃校に成り村も部落も山に帰ってしまってる所がほとんどです。この時代の子の方が人間らしい生活が出来ていたのかも知れません。この頃の山は、炭焼きなどもやってたので雑木林も多くて生態系が多様で美しさが有りました。僕たちも弓を造って鳥撃ちの真似をしたり罠を掛けたりして遊んだものです。戦後の植林で杉檜ばかりに成ってしまって手入れが行き届かず荒れ果ててしまいました。植林するより雑木林のままの方が良かったと思ってしまいました。
テレビでは悪役が多かった森幹太さんが出られているのもうれしかったです
あの男の子は、お父さんの炭焼きを真似してたのか。子供かわいい。
昭和30年頃、茨城県でも「米」というドキュメンタリーみたいな映画が制作された。カラーではあったが寂しい内容です。
思い出しました。私も確かにいました。その時代に。
フレンチホルンの出だしが良いですね。
何げなく撮影しているようで、よく見るとすごく練られている。この時代の古い映画はすごい。分校の建物はありますが、撮影に使用した建物とは違う感じがする。ロケーションが少し違う。
小生昭和30年鳥取県田舎時代懐かしい
中盤以降の街は宮古市ですね!31:18以降の川の河口は宮古市藤原から閉伊川を挟んで光岸地方面です今は堤防が出来てこの風景は堤防の上からしか眺めることが出来ません…。
昔はお巡りさんより親より怖い存在だった学校の先生
映画終了後に『ロケ地探訪』として現在の現地映像を入れて頂けたらなぁト。難しいかもしれませんが是非。
今年73歳になりました。このドラマを見ていると自分の人生を見ているみたいでした。親は出稼ぎで大変でした。でも親に対しては感謝しか有りません。故郷は良いですね。久しぶりに素晴らしいドラマ有難う御座いました。
60年代、村の有線から市外通話につなげてもらうには何時間も待ちました。
薪のお風呂で、近所三軒くらいで順番に風呂を入り合ってました(一家族だけで入るともったいないので)
ご飯時間に家に帰ってくると味噌汁の美味しい香りが家の外に漂い、山の風景と共に思い出されるような田舎でした。
味噌汁の出汁はきのこですか?
だからこそ隣近所が助けあっていたのですね。
うちの部落では 60年代の半ばともなれば 9番回してすぐに有線から普通の電話に繋がりました
60年代では、なくてそれは、戦前か昭和20年代の話では、ないのですか
@@哲朗高橋-x6u 様
いいえ、力道山が亡くなった何年か後の事です。60年代半ば。私は小学生。
信州の南、城下町の郊外の山。冬になれば学校では、ストーブが薪から石炭に変っていった頃。電車にも石炭ストーブがありました。
64才 ですが私が生れたころ 昔は何もかも自給自足
こんな光景が、
日本中のあちこちに、点在していたのかな。妙に懐かしい、
途中トランジスタ ラジオが出てきますが、我が家は真空管式の ラジオでした。
貴重な映像 映画有難う御座います。
心の奥底に埋没してしまっていた懐かしい感覚が蘇りました。家族で一生懸命に生きる姿、近隣で支え合う姿、宝である児童の教育に全霊を傾ける教師の姿・・・貧しくても豊かな心がそこにはあったのですね。最後に登場する幼児は、ちょうどこの時代に生まれた私の姿です。あれからおよそ60年。私たちは、良い国を作れたのかなと立ち止まって反省しなくてはならないと思いました。良い映像を配信して下さいまして、ありがとうございます。
貧しくても一生懸命生きる。今と時代は違っても、心打たれるものがありますね。
立派な国作りと大きなことを考えなくても、一人ひとりが一生懸命生きていくことが、それにつながっていくことを感じました。
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
私の子どもの頃薪取りや水汲み畑仕事の手伝いなど大変だった40ぷんかけて学校通った頃が懐かしくもあり悲しかった事思い出し
僕の父親は戦争から帰ってきた21歳。学生から戦地、帰ってきたら遠野の教師だった祖父が国に落胆し、岩手山麓に開拓に入った。父親はそれが嫌で上京、そして僕が生まれ・・・でもなぜか僕は故郷が岩手山だと思っています。小学校4年生の一年間を過ごしただけですが・不思議なものです。祖父も親父もとっくに他界し、山麓の田畑も離農から20年で今は原野にもどっています。
24の瞳が好きで何回も見ています。この映画も、初めのシーンから、最後まで、一気に見てしまいました。昭和30年代か、それ以前、戦争から、やっと立ち直った頃、皆が一生懸命生きていた時代。貧乏の苦しみ、悲しみも知りつつ、明るく生きていた時代。未来に希望を持っていた時代。みんなが労りつつ、悲しみも楽しみも共有していた時代。時々振り返って、今の自分は、どこにいるのか?本当にこれでいいのか?真面目に生きなくてはと思います。子役さんも役者さんも、素敵でした。コグマちゃんも。大切に、また見直させていただきます。有難う御座います。この時代に、いたいとは思えませんが、家族の思いやりや、痛みが、もっと深かったと思います。
日本人の暮らしの原点ですね。感動しました。
道路が整備される前の獣道しかなかった時代の十津川村も、こんな感じだったろうな~?
十津川村の廃村ビデオを見て、そう思いました。
僻地の農山魚村で、汗水たらして働く父母を身近に見て育った子供たちは真っすぐ(ぐれることも無く)に育ち、
自然と勤労意欲を身に付けました。”子は親の背中を見て育つ”、です。
映像の中で母親が、「立派な教育を受けさせられず、子に申し訳ない」と泣いてますが、
苦労して子育てをしている姿を身近で子に見せることに勝る人間教育は有りません。
自分もそうだったので。。。そして、彼らが🗾の高度経済成長時代を支えたのです。
私が小さい(7歳)頃、近所の貧しい家のおばさんが病気で寝たきりでした。
遊びに行くと布団から出てニコニコしながら、自分たち子供が遊ぶのを見ていました。
暫くして亡くなられました。 おそらく、今なら治る病気だったでしょうが、貧しくて病院に行くことができなかったでしょう。
約60年前のそのおばさんの😊顔が、今でも思い出されます。
町の映画館の看板で年代がわかりました。
私が九つか十の頃の映像ですね。畳の上でテレビが観られた東京での生活と、電気も来ない、医者にもおもうようにかかれないムシロの上での岩手の山間部の生活。60年前の映像から、学ぶ事や考えさせられる事は多い気がします。
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
こう言う映画を是非見たかった。本当に配信有難う御座います。
母も頭にホウカブリとモンペをはき田んぼに行ってたな、
親父は工場に仕事を貧乏生活やったな懐かしい思い出かな
この頃の映画ファンです。懐かしくて見入ってしまいました。学校の暖かさ、先生の暖かさ、隣人への暖かさ、これこそ日本人のあり方だつたのではないかと思う。便利さを求め、欲しい物が手に入り、、、何かを忘れてる。そんな事を考えさせられた。素敵な映画有難うございます。
昭和50年代初め頃まで先生は聖職
本当に素晴らしい先生ばかりでした。事故で両親が亡くなっ生徒を引き取り大学まで出してあげた先生もいました。
昔を思い出します!和多志は山ではなく島育ちでしたのですが不便を感じませんでしたね!近所付き合いとか玄関も窓も開けっぱなしで安心出来ました。今は鍵をしていても安心出来なくなりましたね!
なんだろう見入ってしまった。
貧しいのが当たり前の様な時代を少なからず経験した生きた。
時間がゆっくり流れていたようなのんびりしていた。
今の忙しなさが、疲れる
50分見入ってしまいました。
今の便利で何不自由なく洗練された生活と人の生き方についてあらためていろいろ感じ、深く考えさせられます。
この映画に意外に多くの反応とコメントがあるということは、そういう方が少なくないということではないでしょうか
昭和の暮らしに興味があるので見入ってしましました。これは貴重な山の生活の記録ですね。
また子供達が活き活きして素晴らしい。
📌小生が小学校時代のテレビが普及し始めた頃、学校でもテレビを見る授業時間があった。その時NHK教育放送が授業用に流していたのが「太郎の村」という、山間の生活をテーマにした番組。その時間になると、テレビが設置されていた家庭科教室に集合し、担任がおもむろにコンソールタイプのテレビの扉を開け、画面に見入ったものだが、如何せん映りがメチャクチャ悪かった。山の中の小学校だったので、アンテナ立てても殆ど効果が無かった。只々白黒のザラザラ画面の中に動きの影を追うようなものだった。それからだ。村人総出でアンテナを持って村中の放送電波の感度の良いところを探し求めて、山々の頂上付近を歩き回った。その結果、感度の良い所が見つかり、そこに村の共同アンテナが立てられ、村のテレビ組合に加入の形で長らく運営された。30年近く運営されたんじゃなかったか。その後衛星放送がテレビ局で取り入れられ、各家庭はパラボラアンテナを設置するだけでキレイな画面が見られるようになった。しかし、子供の頃の画面は本当に酷かった📌
@@hideohosoe6476 興味深く拝読いたしました。貴重なお話をありがとうございました。
セリフの一つ一つが自然で、心に沁みる・・・。
「当たり前のように享受している」我々の生活も、先人たちの
こうした時代を経てきたうえで今日が在る事に感謝。
最後の「さわ子~!」「さわ子~!」の呼びかけに、
無言で駆け出して行ってしまうさわ子の心情たるや如何ばかりか・・・・・。
団塊の世代の私は 秩父の山村で育った・・・こんな生活でした。懐かしい!!!
ビン詰めしたヤギの乳を、病に伏せているさわ子のお母さんに届けるシーン。
診療所も遠く、薬も簡単に手に入らずお金もかかるので、手軽に手に入る山羊ミルクを滋養強壮の薬代わりに毎日届けていたのでしょう。今は黒牛の高級牛肉で有名な岩泉町も、当時は肉牛生産もやっておらず、街から来る牛乳も山奥では流通が難しく、日常生活の栄養の支えとして家の前で山羊を飼っていたであろう背景を想像しました。(沖縄だと正月などはつぶしてヤギ鍋にしたそう)
子供の頃の我が家もこんな感じやった、懐かしいな
おもちゃは自分で手作りやった
昔は当たり前の時代
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
今の子供たちは、既製品のおもちゃを手にしてますよね。
そういった経験のちがいで、発達的にも差が生まれてしまうん
でしょうかね?
自分にとって宝石みたいな映画です!自分は69歳です。こんな感じでした。
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
僻地でなくとも戦後の村は押し並べてこんな感じでした。私の家は街中にあったので、進駐軍やパンパン(進駐軍相手の派手な格好をした売春婦=そうせねば暮らして行けない娘さん)も見た反面、多量の地下水を必要とする工場が山際にあり板間に茣蓙(ゴザ)を引いて暮らしている農家も見てきました。
褒美やオヤツ代わりに貰った一匙の砂糖に狂喜した時代です。昨日のように思います。私は77歳です。
幸せとは決してモノの豊かさではないと思っています。
戦後急激に復興していたとはいえ、この映画の時代、60年前ごろまで地方は、貧しかった。天然のイワナが泳ぐ渓流はうらやましい。貧しく苦しい時代に生きた山村の記録として前向きに生きる精神に感動を覚える映画だ。この時代の子供が今の老人だろう。
いい映画だ。ずばり原風景の中にどっぷり浸かり、ダイナミックな自然に囲まれ、自然に生きる姿に何ら迷いや衒いがなくすごい、琴線にふれる映画だ。
45:31 のところ、「戦争で一変でおじゃんだ、はっはっはっ」って笑えるところに修羅場を越えて生き抜いてきた人間の器の大きさが表現されていて素晴らしい。
ほんの少し前の日本。大きなドラマがあるわけでもないが、誠実に生き抜いてきた人々の積み重ねの上に、今の僕たちがいることをしみじみと思いました。
んん?んりる
子供たちの愛らしさに胸が鷲掴みにされました。
音楽も素敵でした。ありがとうございました。
こんな懐かしくも素晴らしい映画皆んな見てもらおう。今のカサカサした時代風景とまるで違う世界が50・60年前まであったのだ。
本当によい映画だ。
うちの実家も炭焚きでした。父や父の友人から聞いた生活そのもので一世代でこうも変わるのかと驚いて居ます。
子役は皆地元オーディションで、当時私が通っていた小学校の子達だった。なので、映画ができた時に学校の視聴覚室で皆で見たっけ!!
セリフの訛りが自然でいいな❤
今のドラマや映画は不自然過ぎて見る気がしない。
オーディションには落ちたんですか?
リアルタイムで撮影当時の事を知っている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
貴重なお話です映画もです。授業のいっかんで観た怒りの孤島という映画私には衝撃的でどうしてどうしてと涙と怒りでいっぱいでした私事で小学生のころのことです。
@@bitter-t2o
私は応募したわけではないのですが、知ってる子が出ていました。
旧有芸小学校のそばにお住まいの方から、この作品の撮影された場所などについて調べてほしいと依頼されています。炭焼きをしているところは釜津田地区でしょうか。
ラーメンがご馳走。これを見た後チキンラーメンを作ってしみじみ食べました。なんとうまいことか。
今の飽食の時代に忘れていた、物ごとのありがたみを思い出させてもらいました。
山里の暮らしを描いた記録映画としての要素もありながら、登場する人々の境遇、性格がよく描写されていて、ドラマとしてもたいへん見応えがあります。
作りも丁寧で、絵はきれいで音楽もこまやかで美しい。俳優の演技が自然で、各場面での所作も板についていて見やすいですね。
切ないなぁ。高度成長期が来てエネルギーは薪や炭からガスや電気に変わって需要がどんどんなくなっていく。沢山の子供が希望のように見えるけど死亡率が高い。今お元気なら70歳ぐらいか。現地ロケというけど炭焼小屋の家屋の中も本物なんだろう。当時の都会の人は貧困に見えただろうけど今見ると異文化を見るようでとても興味をそそられる。学校でクマを飼ってて朝道草にイワナをとって先生の朝食を作ってやるとか仰天するばかりだ。それが美しく見えるのは現代の感傷に過ぎないのかなと思ったりもするし。
ついつい断片的に見える地名、岩手県の下有芸分校、上大川郡、というのをストビューでこの映画の痕跡を探してしまう
@@BLADE.RUNNER 舞台になった有芸から、この診療所のある釜津田は、同じ町内で直線距離こそ20km弱(それでも遠い!)ですが、今も含め当時の道沿いに行ったら山沿いの悪路を倍以上の距離。とても1時間半では辿り着けないですね。しかも道中には岩泉町役場有する中心街があるという。でも、町の立派な病院じゃ画にならないので、ここを設定上のロケ地として使った感じもします。
昔から山歩きしてたけど、こういうとこの廃屋によく出あったよ 見るたびに物語があったんだな~~~~!! って、思いながら・・・・・・・・
ありますね。京都でもたくさんありますよ。
私が小学校低学年頃の映画ですね。私の地域でも山仕事を専門でしている人もいました。私の祖父もそうでした。
芝刈、薪作り、炭焼き等当時は貴重な収入源でした。運搬も索道、木馬、人力、荷車等でしたね。
いい映画だった。
いい映画でした。元気な子供たち、よい先生、優しい両親。主人公のお母さんのたくましさ、優しさに胸が熱くなりました。男の子が先生の布団でおねしょしても笑って許してくれる心の広い先生もいい。校庭におねしょの布団とズボンと干して、男の子が先生のズボンを借りてだぼだぼのまま走り回っているのもかわいい。先生が飼ってるのが小熊なのがびっくり。大きくなったらどうするのでしょう?女の子が版画の表彰式に町に連れて行ってもらったときに憧れのラーメンが!でもお母さんはぐっと我慢して女の子を引っ張って食堂を通り過ぎる。女の子の気持ちもお母さんの気持ちも分かるから切なくなる1シーンです。ラーメン50円、だったんですね。物価の違いを感じます。
言葉にならない程の映画、ある意味ではドキュメンタリーです。
大人も子供も大胆に、そして繊細に表現されている、
今の時代に生きる若い人には、それこそ江戸時代の様であろうが
この時の子供たちは今も逞しく生きている。
舞台は岩手の山間部らしいが、八戸出身の私にも、
とても身近に感じられ親しみ深い人たち、
貧しくとも力強く生きていた正直で善良な日本人がここにもいた時代。
最後のサワコが子供たちの呼びかけにも応じず、
走り出した場面は、サワコの心情が良く描かれている。
感情が冷静では観られない秀作です。
炭焼き、割木など売って貧しい生活していた頃の記憶が蘇りました。ありがとうございます。当時小学校でしたこんな貴重な映画は今の子供達に進んで見せるべきだ。
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
@@107pepe3 ありがとうございます。機会があれば体験を伝えたいと思います。今度テレ東に出るかも?
私の祖父も 子供のころ炭を焼いてて 作業を手伝っていました
とても懐かしくこの映画を観ました
当時は 貧しかったけど何か楽しかったです
このような生活を経験されている方がいてビックリしました。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
うーんこれは貴重。
山奥を探索すると石垣とか人がいた跡を見ることがあるけど
やはりこうして生活する人たちが居たんだなと。
素朴でいいです😊
音楽 林光は凄い。
英映画社の動画はこのチャンネルでも何本か観したが、毎度良いですね。
そうですねぇ、武満さんも亡くなって、さびしく成るよね。
すみません。はじめまして
音楽はいい
貧乏だった昔を思い出すなあ 外でワーワー遊んでいた頃が懐かしい
この人達の頑張りがあって今の日本があります😊
感謝しなければいけません😊
俳優の演技が自然でいい。
平成生まれだけど、懐かしさを感じるのは何故だろう。。。
いまの若い人たちに、ほんの数十年前日本にはこういう風景があったことを知ってほしい。自分たちがいまいる社会は、こういう世界ともつながりのあるところから変化してきたことを感じてほしい。
全くその通りだね。
若い人にこの映画を理解してもらうため、補足します。
ネタバレであり見解の異なる人もいると思うので、気になる人は読まないでください。
①このお父さんは「ぶんもう」という設定。
ラジオ聞くシーンが多く子供の手紙を3回も読ませています。
事業者の所に行った時、事業者は新聞を読んでいました。
子供の頃貧しくて学校にも行かせてもらえなくて、家の手伝い(炭焼)をして育った。
立派なお父さんだと思う。
②町へ出ている姉からの手紙。
裕福な家で元気で家政婦をしているような内容だが、親を心配させないように気をつかっている。
何もないこんな山奥の生活から、色々ある町にいったのだから楽しいはずだが、
少しはお金を送れる、家に帰るのが楽しみだと締めくくっている。
中学校に通わせてもらっているのだろうが、何か辛いことがあるのが垣間見える。
この映画は商業映画と違い、面白くするため脚色演出されていないと思う。
事実に基づいている貴重な映画と思ってみてほしい。
興味があれば「学校めぐり6」も検索するといい。
もんもう
ここに出てくる子どもたちとほぼ同世代ですが、当時山村の炭焼きを生業とされているご一家のくらしを知ること、想像することすらありませんでした。 見ていて貧しいながらも製品になった炭の運び出しや滑車?を利用した物の運搬など不便な生活にこそ工夫が生まれることを実感しました。 丸木を渡しただけの橋を小さな子をおぶって渡ることができてオーディションもクリアしたのでしょうね。 先生の住まいが分校だったのでしょうか? 学校の存在の大きさを再認識します。
昭和30年代まで私達の町の山奥未開の地。道なき道の山奥に人が住んでいた❗山を越え川を越え谷を越えこんな山奥に掘っ立て小屋みたいな家に家族が住んでいる姿❗見てびっくりしました❗山岳林道を市が作った❗ダムを作るという話で尾根つたいに道を開拓すること数年道幅の狭い片道道路をトラックで数時間走る‼️現在では整地され30分もかからない場所にいつてみてびっくりしました❗当時掘っ立て小屋みたいな家だけかと思ってた❗しかしさらにその奥地に数件家があった❗改めて人間の生命力の凄さを思いしりました❗人間生きて行こうと思ったら凄まじい生命力を発揮するのですね🎵しかし男女がどうやってあんな山奥未開の地に入れたのか❗凄すぎますねえ‼️山のもの食べて生き❗家族が増え自給自足で自分たちの生活の場所開拓したのですねぇ‼️凄い人達ですねぇ‼️日本にも知らない未開の地あるのですねぇ❗病気になったらどうなるのでしょうね❗凄い人達です‼️
貧しかったけれどみんなが一生懸命だった日本🗾。今は何でも手に入る時代に生きているけれど毎日ふと虚しい気持ちになることがある。この時代の日本にはお互いの愛や尊敬やなにか強い希望があった!幸せってなんだろうと考えさせられました。有難うございます!!
最初に流れるメロデイー、なんとなく懐かしい思いがするいい曲ですね、NHKの昼の憩いの曲調、
クマの子、かわいい・・・先生も子供たちと生活を共にしてるのがいいな
45分20秒・・・「まえはカラフトででかい魚とって・・・・」
スケトウダラ漁、や笠戸丸の時代を連想する・・・カラフトをソ連にとられ、引き揚げてきた人たちでしょう、
相撲の大鵬関も引き上げてきた人たちだったそうです、
このころから徐々にソ連に漁場を狭められてゆく・・
基地外独裁者スターリンが全ての諸悪
犬かと思えば熊の子だった‼
何気なく、懐かしい映像に見入ってしまった。山間を走るバスの行き先が普代となっており驚きました。普代は私の故郷でした。私は海の近くに住んでいましたが、山の奥に住んでいる人達は炭焼き業を営む人が多かったように思います。 当時を思うと懐かしい反面、切なくもありますね。
普代ゆきのバスが走っている見通しの良い高原って、今のどのあたりかおわかりになりますか?
@@Su---- 普代にはあのような高原はありませんので、撮影の都合上、あの場所をロケ地として選んだと思われます。あのような開けた高原は私もわかりません。イメージとしては、岩泉あたりか、離れた場所として白樺の木が映像にもありましたので久慈市から二戸市に繋がる平庭高原辺りかなと推測します。あくまでも推測です。悪しからず😥
@@MS-vf4ey やはり不明ですか。自分も行ったことがある平庭高原かなぁ?と思ったのですが、あまりにも白樺が少ないし、普代近辺の高台はあんな地形のところないのですよね。それとも半世紀以上経過して、木が生い茂って景色が一変してしまったのかも知れませんね。
当時、岩泉から普代に出るバスがあったのか知りませんが、さんてつはおろか、国鉄線も普代までは通じてなかったので、最終目的地の表彰会場の港が宮古だとすると、順路としては不自然なんですよね。
@@Su---- そうですね。私も若い頃、東京から普代に帰省する時は、車だと東北道の北上インターから山を超え、釜石に抜けて北上して帰ったものです。あのような白樺高原の風景はありませんし、やはり平庭あたりかなとこだわってしまいます。
高原をバスが走っているあたりは、多分現状は樹木が茂って映画のように景色は見えないと思います。
しかし、遠くに見える山は変わっていないので木立の間から映画の山並みを探すと見つかると思います。
地元の方に見つけてほしいです。
🌈💖🍂🏔私は昭和16年生まれ🏔南魚沼ハ海山の麓🏔生まれ‼️これほど!??出ないにしろ?!和の頃は、、同じような、、暮らしでしたね.貧しいとは、思わなかった、、、今の時代より?!良い気がする?!❤ワンピース.あの頃(カンタン服)と、言っていた。
🌈💖🏔📻この作品昭和30年以後ですね.多分❤
子供達が可愛い❤
メール✉️が電波のように空を飛んでいました😃アイディアが素晴らしいです✨
むかしは結核など寝たり起きたりの病弱な方が多かったですね もちろん私はその後の世代ですけど 家族の苦楽はわかる世代です😌
薬と医療の有難味を思い起こさせる動画でした✨
小学校の時の転校生が炭焼きの家の子で、生活の話を聞いても実感無かったですね。新聞やTV、映画では見聞きした。春に子供が雪解け水で激流になった沢で亡くなったと毎年の新聞記事。1965年頃でも隣り村の子は町を見た事もなかった。高校の部活の一環で子供を町に呼び、それが山の分校の修学旅行。ドラマだけど非常に現実に則したものと思います。ありがとうございます。本田勝一のルポを思い出した。
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
懐かしい本当にこの頃把今に比べ優雅
1:03 ここの「そして明日も」ガ哀愁ありすぎて、もう泣けるの草
日本中どこの村でも鍵をかけるということはなかった時代。自分の家の囲炉裏や炬燵の火が消えると「寒い寒い」と隣の家に入っていた。戦後夫が戦死したり焼け出された人が村に越してきて、よく風呂をもらいに来ていました。
美徳でも道徳でもなく、助け合うということが当たり前の時代でした。またそうしないと生きていけなかったのです。
モノが溢れかえる今の時代、私たちは大事なものを失いつつあるように思います。
ようやく公開画質が480pから高精細な1080pになりましたね。
大画面で見るとやはり銀塩フィルムからの最新テレシネは修復も含めとても美しいですね。
ありがとうございます。
「ある遭難」という映画の幟、1961年の映画ということは、そのころに作られた映画ということか。子供のほうは今70前後というところか。
素晴らしい。そして、心が暖たかくなってきました。有り難う御座います。
いつも動画ありがとうございます。
ここほどではないが奥吉野で育ったので懐かしいです。
40年代生まれですが子供の頃は田舎に住んでて本家は茅葺き屋根 五右衛門風呂 庭に山羊とニワトリ 近所には牛を飼ってる家 本家はまだ釜戸でご飯炊いてました 我が家は新築でガスのお風呂 でも本家が好きで毎日遊びに行ってました 手拭いとモンペ姿の婆ちゃんに可愛がってもらっていた記憶が蘇り懐かしくてウルウルしました 人と人との距離が近くてもそれが居心地良かった良い時代ですよね
もしこの時代にスマホ📱やiPhoneやタブレットが有ったら今の時代はどうなると思いますか⁉️
昭和32年生まれ🥋浅野炭鉱町で育つ😊
楽しい動画❤感謝致します🤗
懐かしい。昭和40年代初めころ、友達の家で山羊を飼っていて、ヤギの乳をその家で自家消費していました。飲みたかった思い出があります。山持の農家の人だと、炭焼きを兼業していた人もいました。なぜか、粗食だったはずなのに、当時の食事の方が美味しかった記憶があります。子供だったので感覚がフレッシュだったからかも。
放課後に山に入って「アケビ」を取ったり、あぜ道の脇になっている「クワの実」をもいでおやつに食べる…なんて子供はもうほぼ絶滅でしょうかね。
@@Su---- 東京の公園だと、よく探すとセイヨウミザクラ(サクランボ)、アケビ、桑、野イチゴ、柿などが植えたり、自生したりしています。私の子供が幼いころに一緒にとって食べられることを教えてやりました。また、ツツジの花をもいで中にある蜜を吸わせてやったこともあります。孫たちにも伝えてくれることを願っています。
@@nipperkun1 最近の親御さんでもそういう世代ではないので「街中の木になっているもの=汚い」というイメージの人が多くて、自分でさえ食べようとしない&食べたこともない人が多くなりましたからね。
ましてや子供が洗わずに口に含むなど言語道断!という人が普通という世の中。
ユキちゃんもいる。ユキちゃんの意味が分かる人は私とほぼ同世代(笑)
昭和三〇年頃でした、山奥の村で良く似た体験しました今は亡き優しい兄と炭焼きした!想い出が昨日の様に蘇ります
子供の頃思い出すわ~
60年後こんな時代になるなんて、想像もしなかった!
何だかほんのりと、昔に引き込まれそうになります。温かくて人情味がたっぷりでホンワカ心が安らぎます。
この時代に帰りたいとも思うが、どっちが良かったか?製作映画で目的があって創られたものと考えれば??
小学生の頃、学校でこういう教育映画を見せてくれた。
各学年ごとに講堂に集まり観た。
鑑賞料は一人10円だったかと記憶している。
共に支えあう
泣けました
待ってました、英映画社制作
UPありがとうございます
昭和の僻地 今から見れば大変そうですが 人々は楽しく生活してました
雑木と呼ばれる木を炭にしてました しばらくして杉や檜などの植林が政策として進みました
やがて高度成長期になり、若者が村から都会へと流出 山の手入れなど出来なくました
工業製品を買ってもらう代わりに 外材輸入が始まり 植林した材も採算取れなくなりほったらかし
治山もできてません
でんわでんぽうの看板が懐かしいな
炭焼きと薪、それに生きる人々。当時の大切な産業だと感じました🤗
学校で飼育されてる子熊可愛い❦
昭和30年代に本当にまだこの様な生活をしていた人がいたのだろうか?
このお父さんたちの年代は今も元気なら90歳ぐらい、、。
下有芸という地名は現在もある。
ボンネットバスが見晴らしのいい、峠道を行くロケーションがいい。
普代あたりなのか場所は不明。
旧宮古小学校、閉伊川河口付近で撮影されている。
奇跡的にこれを見て、出演者の現在を知って居られる方がいたら、ぜひ書き込みをお願いしたいです。当時の子役さんなら60代くらいかな。当時の思いや今思うことなどを、伺ってみたいです。
@@AiRobi
思うにおそらく昭和31~34年くらいかと思います
だとすれば子役さんたちは、70歳超えてるくらいでしょうね
@@AiRobi 別のコメントで書きましたが、お母さん役の娘さんが「母野辺かほるを語る」というTH-cam動画を上げられてます。てっきり主人公のお母さんかと思ったら、最後転校して行くさわ子のお母さん(病弱で寝込んでる人)のようですね。90歳過ぎで逝去された日本映画の名脇役だそうです。一方の主人公のお母さん役「真木早苗」さんは地元岩手の女優さんのようで、2003年現在で舞台歴60年(東京の小劇場で主演を張ったそう)とありましたので、最低でも85歳は超えられている方かと思われます。
@@Su---- 母さん役は地元の方だったんですね。貴重な情報有難うございました。
子供の頃、よく母の生まれた五島列島の田舎も従妹の家に、ひとりで夏休みは行ってましたが
夏はとても涼しかったの覚えてます、川は綺麗だし、海も透き通ってきれいでした
朝6時頃おきて砂浜いくと、海がひいて、砂浜に打ちあげられた魚も何引きもいました
大きなシェルの貝が開いてました
自然がとても美しかったです
人々も穏やかで、温かい優しさを感じました
小学生の頃、中学になれば田舎で、好きな田舎の子もでき文通しました
みんな、40年くらい経ちけど、どうしてるのだろうと思います
昭和が私は大好きです、スマホとかインターネットに買い物もAmazonででき
ビルは立ち並び、駅は開発が進み、交通の便もよくなりましたが
なんか住みにくくなったと感じてます
60年前の日本・・・こんなもんだよな~
代々、山で生活していた人以外にも、やむにやまれぬ事情で炭焼きに成ったりしたんですね。
炭焼きにも、小作農の様に炭焼きの下で炭焼きする人もいたりと、様々なようです。
地域は異なるけれど、元炭焼きの宇江さんの本はお勧めです。
制作が1961年(昭和36年)だが、特需景気もあり戦後10年経ってもはや戦後は終わったと言われ、安保が自動継続となって外交防衛的には安定した。そして池田内閣の高度成長政策に突進した。この3年後1964年が東京オリンピックだった。
制作年は祖父が炭焼きしてた頃に重なるが、映画の舞台となっている期間は20年代のものだと思って見た。物語も面白かったが、当時の生活風景に没入してしまった。
科学映像館様、チャンネル登録させていただきました。またありがとうございました。
皆元気に暮らしてると良いね😊
Love from India to Japan
音楽が60年前の林光先生、これも貴重です
なんか懐かしい様な悲しい様な自分は67だけどここまでじやなかつたなでもしようがく6年のしゆうがくりよこうだい3600円払えなくて小松手いたら、担任野、伊藤博通先生が立て替えテクれていけた、先生荷は本当に監視やしています。北海道標茶虹別。
しゆうがくりよう活けて夜勝ったね
若い人に、単なる山の中で暮らす貧しい家族の昔の話で終わらないように
もっと色々体験などを書いていただきたいです。
ただただ、素晴らしい
先生のごはんが美味しそうでした。
貧しいけれどひたむきに生きる家族…ケンカしながらも家族を思い家族を守る…。先生は子供たちに精一杯の力をそそぐ…。現在家族の崩壊 家庭内での殺人 先生は生徒に手を出しおちおち学校へもやれない…。失ってるものばかりですね。
この子たちは私と同年代か少し上の子供たちでしょう。山の小中学校の多くは過疎化で廃校に成り村も部落も山に帰ってしまってる所がほとんどです。
この時代の子の方が人間らしい生活が出来ていたのかも知れません。
この頃の山は、炭焼きなどもやってたので雑木林も多くて生態系が多様で美しさが有りました。
僕たちも弓を造って鳥撃ちの真似をしたり罠を掛けたりして遊んだものです。
戦後の植林で杉檜ばかりに成ってしまって手入れが行き届かず荒れ果ててしまいました。
植林するより雑木林のままの方が良かったと思ってしまいました。
テレビでは悪役が多かった森幹太さんが出られているのもうれしかったです
あの男の子は、お父さんの炭焼きを真似してたのか。子供かわいい。
昭和30年頃、茨城県でも「米」というドキュメンタリーみたいな映画が制作された。カラーではあったが寂しい内容です。
思い出しました。私も確かにいました。その時代に。
フレンチホルンの出だしが良いですね。
何げなく撮影しているようで、よく見るとすごく練られている。
この時代の古い映画はすごい。
分校の建物はありますが、撮影に使用した建物とは違う感じがする。
ロケーションが少し違う。
小生昭和30年鳥取県田舎時代懐かしい
中盤以降の街は宮古市ですね!
31:18以降の川の河口は宮古市藤原から閉伊川を挟んで光岸地方面です
今は堤防が出来てこの風景は堤防の上からしか眺めることが出来ません…。
昔はお巡りさんより親より怖い存在だった学校の先生
映画終了後に『ロケ地探訪』として現在の現地映像を入れて頂けたらなぁト。
難しいかもしれませんが是非。