スラム 英映画社制作 1961年
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- เผยแพร่เมื่อ 2 ต.ค. 2024
- 作品概要
製作:英映画社
企画:大阪府・大阪市 京都府・京都市 兵庫県・神戸市
1961年 カラー 33分
軒なみに並ぶ古い家に、50年も100年も修繕されず流れ淀んだ生活の重みに堪えかねて傾いた家々。工業の発展とともに工場周辺に乱立させた棟割長屋や安普請の住宅が今では低収人の人だけ取り残されスラム化している。
又いわゆるドヤ街と呼ばれるスラム地区。しかしこれらの地区に住む人たちも本来仕合せを願い、生活と取り組む善意の人たちである。よりよい生活をつかもうと努力している。それらの努力や、又その土地の発展をさまたげるスラム。そのスラムの内部をカメラは移動する。
(引用:映文連データベースより)
監修
建設省
スタッフ
製作:高橋銀三郎
脚本/監督:荒井英郎
撮影:江馬民雄
録音:田中義造
進行:神原照夫
音楽:一柳慧/高橋悠治
貧しくても多くを望まない、子供達の笑顔…人間らしくていいなって思う。
本当に貴重な映像です。高画質で当時の風景がリアルに伝わってきます。ありがとうございます。
特にスラムから改良住宅への引越しのシーンがリヤカーなのがとても印象的でした。
この時期、引越し者がリヤカーというのは、聞いたことはある。
でも、、花嫁布団積んだトラックをしばしば見かける時期でしたが。。
ただ、リヤカーでひっそり夜中に,というのも、昭和50代60代になると、、彼女たち,彼らが強くなってる時期。。苦笑
それまでは、漱石関係の裁判官だった方たちの家族が大阪に暮らし、
早川徳次さんの活動に期待をかけてた時期ですが。。
五輪の前後に、長居公園になる前のススキが原のところで、山口組の決闘があり、ハワイ関係の移民系の人たちが、離婚され、残された家族は再婚してる。。鉄の女と言えそうな,強い女性らと再婚し子供を作ってる。。
同時に朝鮮系の人脈出てしたとして、住み着いてる。。
ここから、発展していったのは、すごい。大人たちは、暗い顔してる人もいるけど、子供たちは、楽しそうだ。住居は、貧しかったけど心は豊かだったと思います。
これ、、もし!本当にs36にこういうところに住んでた子供がいたとすると、、明るい表情で外を駆け回ってない。。親に言われて。ひっそり,家に隠れ住んでたと思う。。
こういうのを知ってるか知らないかで、今見てる景色、暮らしの風景への見方も変わってきますね。
なんだろう、誰かの過去の記憶を体験した感じがします。
いつの日か未来の誰かが、今の私達の暮らし、生活の記憶を見てる時がくるんでしょうね。
過去から現在、現在から未来へ。
ここから這い上がった人たちがいるんだろうなぁ と思うと感慨深い
そういう人が,力を持つとどうなるか?怖い!
亡父は戦前下町で育ち、3・10で焼き出されて都下に移りましたが、戦前並みの生活に戻ったのは東京オリンピックの頃だと言っていたのを思い出しました。
昭和30年代は教科書ではもはや戦後ではないと言われたとか、三丁目の夕日みたいに美化されていますが、実際はそんな一般層に満たない多くの貧困層が、このビデオのように苦しい生活を送っていたことを忘れてはいけないのかもしれません。
この動画から10年後の70年代前半くらいまでは、関東の地方都市にも若干残ってたよ。ドブ川というか完全にケミカル臭がするドブがあったり、屋根に石載ってる。
その後おんなじような形をした若干近代的な家々に建て替えられた。
今、そういうのも建て替えられてマンションと、空いてる場所はタイムズになってる。
スラムというのは、移民が不法占拠して住み出したエリアだったはずです。。関東大震災後に焼け出されて、浮浪児らが住みついたエリア。。。
昭和36の大阪では、一部、敗戦後に、戦勝者として占拠しにきた朝鮮半島系中国人の人たちが、住みついたエリアがあり、当然のことながら、そこに近づくことは怖いことで、鶴橋や釜ヶ崎エリアを思い出すのですが。。
日本人としてのしもた屋は、胸算用にも出てくる古くからの長屋で、江戸時代にはお殿様の城下や江戸屋敷の周辺に作られてた。
建てる時、長屋だと便利。 庭が繋がってるので,なんとなく、隣の異常にも気づく。。通風,日当たりも計算されてるし,上水,下水工事もしやすい。。
質素だけど,合理的な住まいでした。
移民の人たちの特徴は、孤立性、セキュリティ完備があるのか?平野の幼稚園に通園する途中に、そういう意味で不気味な集落があった。
どういう人が住んでるのか見えず、誰か潜んでるような不気味さがあった。。
冒頭の映像にある街路を想定せずに、占拠した者勝ちの建て方は、、まさしく、、侵略者としての建て方の特徴です。
@@DZB00167 カラー映像で、しかもデジタルでないからフィルムできたので、いつ?
この映像は、いくつかの資料をデジタル編集され、洗脳,扇動目的に作られたものではないか?
@@DZB00167 私が知ってる昭和36時期のスラム化してないスラムは、我孫子にあったお手伝いさんに来てくれてたきたださんというおばあさんのお家です。まず、日本の他の住宅と違って馴染めなかったのは、、何軒かの長屋ときただサンちの平家、お台所と一間。トイレは共同だけど,怖くて行けなくて、外で新聞紙にしたことを覚えています。建物の真ん中に井戸と共同の水道洗濯場があり、ご主人は大工さん? おばさんは帰るまでに食事の準備をするのに真剣でした。きっと,酔っ払って暴力を振るうから?と今は推測します。6軒ほどの家の門があり、その門の隣の門の前に,駄菓子屋さんがあったので、後日、近くの友達を連れて(当時はバスや自転車だったから覚えていた)行ったけれど、友達は憂鬱な表情をしてました。そこから推測するのに、、そこは実は、戦後,移民系の人たちが日本に入って最初に住みついた一種のスラムだったのではないか? ただ、、その中に、患者さんの銀行に勤めてる家族もそこで暮らしてらしてたから、、その家だけは、家の中も電気で明るく、普通に見えたので、トイレに行きたい時は、尋ねたのだけど、やはり、共同トイレしかなかったようでした。。
日本人の和式トイレは、洋式と違い,お尻をつけず、トイレというと、雪隠、、人と共有しない文化がある。。清潔感、通風、採光が考えられてる。。当時、出かけ先には、電気のないトイレが多く、怖かった。外出前の用足しは必至で、お化け屋敷と同じくらいの存在で、お腹が痛くなるほど怖かった。クモも住みついてて、、それは、雨戸の戸袋にも居て、殺虫剤エアゾールが出て,本当に助かった。
ここの映像の建物は、住んでる人の大人も子供も、どちらかというと、、朝鮮半島からのお顔として見覚えのある容貌ですが、、
きっと,戦時中に疎開したままになった空き家に住み着いたのではないでしょうか?
@@CIA戦後疑獄トルーマン全然話が伝わらない。
自分が子供の頃、「なんじゃこりゃ?これが人間の住む場所なのか?」とびっくりするような街並みがけっこうあったんだよね。まさにこの映像そのものの。同級生にもこういうところに住んでいる奴がけっこういて。遊びに行ったとき、マジでびびったことを覚えている。ただ、もう自分が中学生になった80年代には完全消滅してたなぁ。きれいな公園や市営住宅になっていたんだけどね。
めちゃくちゃ貴重な映像。音楽も素敵。
14:52 ガチ過ぎて声出たw
タイミング良すぎるネコよ。
団塊の世代ですが子供の頃はまさにこうでした。否定的な見方もあるでしょうがみんな貧乏でも楽しく暮らしていました。現代が進歩したなんて思わない。その後妙な時代にしたのは私の世代に責任があるのかも。
仕方がないですよ、皆さんだって国を良くしようと思われこそすれ、悪くしてやろうだなんて思ってやってきた訳ではないんですから。団塊Jr.だからかも知れませんが本当にそう思っています☺️お父さんお母さん、私たちのために本当にどうもありがとう。
今も昔も犯罪率も差別感情も凶悪な団塊世代
良い時代なわけねえじゃろうが、自分らが日本を食い潰した白アリと反省せえや
@@カマカマタマタマ 団塊の世代は菅総理から末端の私まで実に多様な考え方の人間がいます。それが団塊世代です。逆に私は「いまどきの若者は」という言葉でフォルダ分けはしません。
今だっていい子たくさんいますよね。
今でも大阪の鶴見橋商店街から少し路地へ入るとビックリするほど狭い路地があって、当時の名残を少し感じますね。
でも、ここから数十年で隅々まで清潔な国にしてくれた先人達に感謝。
いくら日本が衰退してるとはいえ、さすがにここまでのスラムはないと思う。
かの国の不法占拠した人がつくったスラムでは。
東南海地震の脅威が叫ばれている昨今、このような家の存在は都市機能の危険度が増しますので、バラックが多い住宅地などは耐震性に優れた住宅への再開発が必要ですね。
あと50年くらい衰退し続けたら元に戻ってしまうかもですね……
アルゼンチンも先進国だったのに、今は多くスラムを抱える国になってしまいましたから
そのうちマンガ喫茶にも三国人が居座り、行政に地代を要求するのだろう。
こう言う昔のドキュメンタリー好きです。貴重な映像ありがとう御座います。
あっしも好きだわ(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ
ウェーイ!(゚∀゚)人(゚∀゚)
実際にこの時を過ごした方々が当時のことをコメントで教えてくれるので私の知らない日本について学べることにこの動画のありがたみを感じました。
あの頃の思い出は便所の悪臭とどぶ溝の臭い
みんなが貧乏だったあの生活が普通だと思ってた
まだ戦後を引きずってた,生きるのに精いっぱいだった
過去の美化やめろ
今のほうが断然素晴らしい時代
こういう中に育った子どもにも後にエリートになった優秀なのがいたんだろうか?
バラックの中に本瓦の立派だったろう家も存在する
@@Gaocon6 さん、ソフトバンクの社長がそうらしい、後、アパの男の社長のほうもかなり似た環境で育ったらしい
@@Gaocon6 様
はい。
日本のエリート層には結構います。
同時代の農村も貧しさは似た様な物だろうけど、家屋は密集してないし屎尿は使い道があるしで
衛生面ではもっとマシだったんじゃないか…と、今は亡き祖父母の慎ましい暮らしを偲ぶ。
1960年代生まれの私にとって、とても懐かしい感じがする映像です。メンコ、ゴム飛び、凧揚げ、なつかしい遊び、駄菓子屋でお菓子をかう。。。
4分過ぎに出てくる建物の中で大きな物は江戸時代は庄屋格の豪農や藩から認められた商人しか住めなかった造りの家です。元々は相当裕福な人たちが住んでいた地域だったはずですが、戦時中の混乱や工業化や都市化で出て行った後に住み着いたんでしょうかね。
被差別部落の中には特権階級もあって公家等の家に上がれる人々もいましたので元はそういう人達だったのかもしれません。
被差別部落は差別と言うより利権の管理の為に生まれたので特定の物の流通に関与してたり技能系だとそこら辺の農民より上の生活だったりしました。
江戸幕府から明治政府に代わった時にそういう利権が無くなり貧しくなったのかもしれません。
見た感じ板とトタンで出来たまさにバラック、といった感じの家と、傾きボロボロではあるが漆喰造りで瓦屋根もある戦前の町屋らしき家も散見されますね。元々はシャンとした日本家屋だったのでしょう。綺麗にしてれば様にはなってそうですがまあ当然直す資金が抽出出来なかったんでしょうね。
嫌悪感は無く、懐かしい感覚ですね。1961年京都生まれ。
こう言うのはいつも関西だな
定期的にみたくなる
昔、博多の那の津に住んでました。この映像は大変懐かしい、身近な日情を彷彿とさせてくれます。貧しさは懐かしさです。70年位前の事です。
これは、すごい映像だな。
都市のそういう住宅だろうなあという場所は今でも有るが、その時の記録ってのは、意外と映像として見れることは少ない。
そしてなぜか?このぼろぼろの家屋の連なりに引き付けられる。
割烹着姿の女性が振る舞っている料理やお好み焼きは、体に良い自然なもので、ファストフード、ジャンクフードまみれの現代人よりずっと豊かな食生活だと思います。
布団を干していることも素晴らしい😊
高度経済成長期には光と影の両方存在してたわけだが、影の部分を扱っているドキュメントはあまりないので参考になる
ウルトラマンを見ていた子供はまだ貧しかったけど、仮面ライダーを見ていた子供はもう貧しくなかった。大阪万博を境に日本はガラっと変わった。モノはあふれたが心は空っぽになっていった。
ひと昔前の東南アジアの映像を見てるみたいだ
貴重な映像だなぁ
東南アジアにはこういうの,多かったよね。。
僕が育つた協和町 1歳足だけですが出てます 懐かしい
映画でどんなに金かけたって、この空気感は出せないね。
役者にしてもそうやね
本物には敵わない
今は政令市のマンションが林立する地域。都市高速通ってる界隈が当時親から絶対行くなと言われた朝鮮部落がこんな雰囲気だった。頭の良い旧制中学からの伝統校のすごく可愛い女子生徒がこんなほったて小屋に住んでるって知った時は軽くショックだった。親からチョン子とは付き合うなって言われた。
Real unko 💩
@@sunami808 チョン子っていう言葉も、朝鮮半島系の人たちが使ったと思うよ?
朝鮮半島って、450年前から,つまり、藤吉郎が豊臣秀吉になったきっかけの朝鮮遠征というけれど,実際には、当時,朝鮮半島が占領されていて、秀吉は千利休になりすましたい津田宗久?宗及?に騙されて、救出に出さされたということ。。その時の末裔は、日本人を支えてくれてきた人たちでもあるけれど、、2001以降、彼らも不穏に巻き込まれてしまってる。。
音楽は不気味だけど、住んでる人全員が悲壮な昭和枯れすすき状態じゃ無かった筈。
つげ義春や水木しげるの描く街並みがリアルカラーで観れて興奮します。
あと、SIRENシリーズの家みたい
全国にあったスラムについて、大学で調べたなあ。
映像で見るとマシに見えるが、異臭が漂い衛生環境も劣悪、夜は酔っぱらいの暴力事件、性的事件も普通の街と比べたら当然件数は高いので、夜は外に出ないのが基本。
テレビと新聞は華やかな経済成長ばかりをクローズアップして一般層は「スラムなんて無いもの」として扱っていた。
しっかりと光が当たり、救済がはじまるのはバブルに差し掛かり、土地の活用に注目が集まり、スラムが一般層から『明らかに邪魔』になってから。
極めて貴重なカラー映像をネット上で観れる時代に感謝です。
69年生まれの私では 万博開催で再開発が進んだ事もあり
こうした光景を直面しませんでしたが、
大阪市下各所には まだまだ名残は残っていました。
違う視点で見ても 当時の建設作業風景で 半裸に鉢巻き姿で
簡単な足場での作業で 労災事故は極めて多かったと思います。
当時はボートピープルもいましたね。
この動画に映る子供達ももうご年配
もしかしたら懐かしい友人達や御両親の姿を見つけたりしているのだろうか。
そう考えると貴重な映像を残してくれた事が素晴らしいと思う。
昭和の頃の浪商のもと朝鮮学校のペチャンコの学生鞄と学ラン、、女学生は、スケ番、、、通学の際、よく友人たちは恐れていた。。
こんな環境でも布団をきちんとたたみ鉢植えを飾るのが素晴らしい。
現代のゴミ屋敷動画を見た後だと何とも言えない気持ちになる。
貧困でなければきちんとした衛生観念のある草木を愛でる心がある方なんですよね…理由があってここに住んでいるんでしょうが…貧困差は今もあるしどうにかならないのか…
@@ママ-i9v戦災で焼け出されたり外地からの引き揚げ者で、敗戦前はそれなりの生活されていた故に心に余裕があるのかもですね
子供の💩のシーンがインパクトが強すぎて、それ以降の話が頭に入って来ませんでしたが、戦後から16年の月日が流れても、憲法で保障された生活を送れずに、スラムの中で貧しい生活を送りながらも、みんなで慰め、励ましながら強く生きる人々の強さと、戦後の高度成長期における光と闇を知る貴重な動画だと思いました。
悟空が言ってるのがキツいw
ソロキャンプで新聞💩いかが?
色といい柔らかさといい模範的だと思います
栄養状態が良くなかったら、あれほどの物は出てこないでしょう
彼の食生活が健全であろうことを喜ばしく思いますね
印度だと今でも普通に見れますよ。谷崎潤一郎の文章で戦前阪急電車で子供に車内でくそさせて新聞包んで捨てるって記述がありました
臭いをかぐネッコ。
この動画を見て、親に感謝しました。
当たり前だと思っていた生活が、贅沢だったと気づけた。
スゴいよなぁ。再現・セット・演技じゃなく実録
昭和47年生まれだけど、隣の学区にこんなところがあって、親からは行ったらあかんって言われてたな。あかん理由わからんから行ってたけど。
まあ、ついこの間のように思い出すけど、今の子には想像も出来ないだろうね。
これ。被差別部落よな。
この時代に作られた改良住宅も既に建て替えが進んでいるんだよな。
1961年の映像にしては、アヴァンギャルドな音楽
誰だろうと思ったら一柳慧氏
オノ・ヨーコの最初のご主人、納得。
この特徴的な不快な音楽、やはり一柳か 笑
@@KM-ix1so 様
ホントに音楽が不協和音的というか、狙い過ぎがウザいというか、聴く者の身体に悪いというか、です。WW 個人的に。
一方の同じ映画会社が制作した和歌山編は改良住宅で生活が向上して住民の表情もとても明るい雰囲気ですね
オノヨーコさんの「ギャアア~」もこの人の影響なんだなw
ここから60年で今の世の中に成ったんだよなぁ。
スラムではない普通の町であっても、ドブやくみ取り便所の臭いがきつかったというから、このスラムの臭気は決して現代人には耐えられないだろうな。
貧乏なりの工夫が沢山あって尊敬する
昭和33年生まれの私だが、死んだ親父がよく言っていた。「働けど、働けど我が暮らし楽にならざり。」貧しかったが 昔の日本人は今より本当によく 働いたと思う。でも、夕食 食う時は必ず家族全員で食べてた記憶があり 、貧乏だとか 考えず楽しかった記憶しかない。
同感です
貧しくても家族みな幸せでした✨
私もです。
同じく1958年生まれです。
既に高度経済成長期に生まれましたので、自分自身は分からないのですが何故か懐かしい気がします。
私も、33年生まれです。小、中学時代、ってこんなもんでしたよ、屋根裏には、恩取りさんも二人居たよ!マアゎ、戦争孤児みたいな人だね!今の、人にはわかんないよな?
@@成行脇本恩取りさんって何ですか?すみません!47年生まれです。
私も同年代。家は隠居さんの離れで便所も水も風呂も共同だった。資本家の家は近所になかったが、ただ近郊農家が羨ましかった。軽トラがある。自転車通学が認められていた。ピアノ教室に通う農家の娘さんもいた。収穫時には彼らだけ早退も認められていた。なにより1人部屋があった。貧しい農家と労働者は団結せよなんて小学生の私はまったく信じていなかった。バブルになって近郊農家の同級生らは外車を乗り回しフランス人の女と結婚した者もいる。名刺はアパート経営。こういうのを語る者が本当に少ない。今もだ。
嫌とは感じない、いい動画です。頑張って生きてこられた。感動しかない。
そうかなあ? 日本人が一生懸命、江戸時代から明治,大正,昭和通じて良かれと建てた日本家屋が、酷い状態にされてることに恐怖を感じる?
ここは日本人大工さんが出入り禁止区域だったのではないか?とか。。?
つげ義春の作品で出てくる家並みの表現が、これを見てリアルだったんだと初めて知りました。
つげさんのマンガって、平成近くの不穏になり始めた時期に出回ったマンガ。。
手塚治虫さんたち,ジブリ系統とは違い、闇夜の切先を感じる作品に感じたんだけど。。
自分も、こういう所で育った。
差別を感じて惨めな思いもしたけど、産まれる家は選べないから仕方ない。
今は結婚して皆が羨む立地条件の戸建てに住んでるけど、子供の頃住んでいた家が懐かしく戻りたいと思うこともある。
貧乏だけど楽しかったです。
私もそうでした。我が身を見るよう。教室も半数以上はこういう処から来てましたね。ごく当たり前の日常でした。
変に興味深い内容でした。Attractiveナノは、きっと生活のエネルギーが、溢れているから。
わかる。
>皆が羨む立地条件の戸建てに住んでるけど
この辺りに想像を絶する差別を受けたのかなと感じ入ってしまう…
承認欲求に飢えているんでしょう
工夫と努力をすれば自力で貧困から富裕層へ行ける資本主義社会に感謝せねば
同時に不成功者達からの妬みも受けますが
私は1965年生まれ大阪西成区で生まれそだった、うちは商売してたので日銭はあったので食物には不十しなかったが家はぼろぼろやった、有るときテレビを観ていたらマザーテレサが来日来阪の様子が流れてきて、日本最大の同和地区に大阪西成の〇〇地区とやっていた西成の中でも我が家とは反対の端に有る地域で在ったが初めて自分の住んでいる西成にそういう地域が有るんやと知った、小学生ながらテレビで特定した場所を伝えて良いのだろうかと思いもした、でも私自身も親にはその地域には近づいてはいけないと言われていた、同級生達にも貧しい家庭がたくさんあったしお金持ちもいた、でも皆苦しい中頑張って日本を作って来てくれたと思うと、先輩方を尊敬したいと思います。🙏
あいりん地区は同和地区じゃないよ。労働者とかドヤ街があるだけで
同和地区は鶴○橋とかあっちのほう
@@mhp4g あいりん地区とは言ってないよ、地名を出さないほうが良いから。
@@mhp4g
いやいや。当時はその辺り総てがそんなフンイキやったよ。
大国町、動物園前、鶴橋、阿倍野、杭全…
西成〜何なら我孫子、針中野もそう。なんばの南側はカオスやった。
まさか60年後にこんな動画がたくさんの人に見られて 良かったと思われるなんて、作ってる側も想像してなかったろうね 映像も100年後 200年後 貴重な資料となる事を改めて知りました
懐かしい!当時はこんな感じでしたわ。家はボロでも洗濯物は白いです!それが高度成長の未来につながっていったんでしょう。。
人間が生きるという意味を改めて考えさせられる映像ですね。スラムで生きる人々の顔に生命力が溢れているように見えるのはなぜなんだろう。
トタン屋根の家で生まれ育った身としては、瓦屋根ってだけで高級感感じる…
ここ今もあるとしたら朝鮮部落とかかな
廃屋にまだプラスチック製品(ブルーシート、ペットボトル、合成レザー)がない時代。炭治郞たちは50代…
いい歴史素材ですね。
この情報を知ることは、普通の日常ではほぼないわけですが、映像が残っていることで、色々知ることができます。
当時の人々の言葉で語られる情報も貴重なものですし。
こういった貴重な情報こそ、国自体も残すように努力するべきです。
民間に頼りすぎ。 そして残したくないものを排除。
困ったものです。
人は生まれながら平等ではないのでこういう貧困家庭になったとしても抜け出すために公平な生活環境を与えることが国力の底上げになるのだなと思った。
菅総理「自助、自助、自助」
@@ag7404 👍️
福沢諭吉の「学問ノスゝメ」では、なぜ最初に平等を説いたのでしょうか。個々に学び、個々に底上げを為した「良民」が増えれば、その良民の上に築かれる国はより良くなるだろう、と説いています。冒頭の「初編」8ページだけでもご一読をお奨め致します。
無理だと思います。日本の忌まわしき慣習で、差別は続いていると思います。少なくとも平成16年までは第三者が就職希望者の戸籍謄本を役所で取り寄せることが可能でした。日本の大手企業は、興信所を使って戸籍謄本を調べ上げて、就職希望者(最終面接後の段階)の両親や祖父母のの出自まで調べ上げます。直系の在日コリアン(日韓併合時も含める)、または被差別部落の出自の場合、否応無く落とします。
生まれ持った能力の時点で公平じゃないから無理。平等、公平なんて虫が良すぎる綺麗事野郎!
60年も前とはいえこんなスラムがあったんだもんなぁ
今残ってるバラックとは比べ物にならんね
人んちをボロ小屋と言っちゃうナレーション
でもその「ボロ小屋」にテレビのアンテナがにょきにょき生えてるんですよね
まだテレビが高嶺の花の贅沢品だった昭和36年なのに
家々が絡みあってるから建直しや新築などの「家いじり」が困難なんでしょう。
戦後10年間頃ですから、似たような境遇の人達は日本中にいました。
テレビは皇太子殿下ご成婚でイッキに普及しました。
この映画製作には左派的意図が感じられます。いまでは立派な左派戦士 吉永小小百合の『キューポラのある街』が一世風靡したのもこの頃です。
@@岩田実-h2f 様
うわっ、クラシック黒電話現役ですか?プッシュでなくダイヤル廻しの? 素敵じゃないですかぁ😍 羨ましいくらいです。
うちも呼出電話でした。TVもチョー遅かった。
今はNETで海外とも無料でTELできますが、昔は料金気にしながらね。電報も字数気にして。笑 手紙は20円で送れたけど。
しかし生活が便利でなかった分
、人間と生活が有機的だったというか、記憶にも残っていて懐かしいです。
私も、3.11 直後に新聞TVに不信感を持ち止め、以後スマホにどっぷりになりましたが。
良いのか悪いのか。笑
ま、便利です。世界の音楽も映画も即座に利用できて。😅😅
@@mystar-go4pi 様
ほとんど着信専用なので、下手するとダイヤル回しかた忘れてるかもしれません😅
だいたい、かかって来るのもインチキセールスか振り込め詐欺なんで・・・
北の黒電話小僧が死んでも、うちの正恩は多分生き残るでしょう‼️
昔は「皆こんなもんだし」って空気だったから言えたんでしょうね~今だったら絶対炎上しそうだけど😂
スラムが鉄筋公営住宅になったところの数十年後は、鉄筋のスラムになってるよ。当人の問題も有るよな。
Chineseタウン化してるらしいね、徳山もめちゃくちゃ高かったマンションが徐々に広い部屋に金持ちカップルが住むのから、だんだんとフィリピン🇵🇭人が30人以上、ごろ寝する蛸部屋化してきてる
そうなんですよねー。この当時に、スラムに代わる改良住宅として建てられた鉄筋アパートが、半世紀以上たって完全に老朽化し、そこに昔からすんでいる要介護のお年寄りが、エレベーターがないので階段の手すりにしがみついて、おぼつかない足どりで一生懸命に4、5階まで登っていくという生活を続けてます。介護施設で送迎していると、そんな光景を嫌というほどよく見ます。
昭和40年生だけど、水溜りだらけの近所の道路が数日でアスファルトに変わって、信号や歩道橋まで出来て生活が一変した事を思い出した。
バキュームカーとの遭遇が日常だったなw
昔のあの長屋?!みたいな、もう少し現代風だと孤独死とかないんだろうなと思いました。 高齢化独り者、社会で支え合う環境として考えるものがある気がします。
なんも知らないとこういう生活も憧れる。勿論実際に生活してみたら音を上げるんだろうけど憧れるなあ
めっちゃその気持ち分かる
実際に長期間住みたくないけどちょっと体験してみたいみたいな……
まあそれなりに所得のある人の悪趣味やけどね……
こんな素晴らしい映像を無料で見られる時代になったんだなと……祖父や祖母はきっとこんな景色を見ていたんだろうなと、しみじみ思います。
だねえ
せやなぁ
まるで九龍城みたいですね・・・日本じゃないみたいです・・・生きようとしている力を感じました(´ρ`)
ドヤ街の日雇い労働者達はどんな人生の終わり方を迎えたのだろうか。。。
この時代の新今宮、萩之茶屋界隈は大分土地区画整理がされ、ドヤも今はバックパッカー相手のホテルが出来るほど発展している中でも桜ノ宮のすぐ横を流れる大川沿いに最近までスラム街があったが今は立ち入り規制が掛かっておりやがて姿を消すと思います。
13:18、だれがiPad充電してんのかと思った。
ホントだぁ。
この時代に液晶モニターなんて
無いし、
多分、鏡だろうね
この映像よりもっと前やけど便所でウンコすんの怖いから外でしてたって親父がいうてたわ
これも日本の歴史の1つ。この部分に焦点をあてたのは素晴らしい
これ?本当に日本? 東南アジアの昭和50代の写真じゃないの?
日本でも、ごく一部、移民が占拠した一般人は出入りしない鶴橋や釜ヶ崎と言う治外法権エリアじゃないのかなあ。。
この動画を見ると自分は贅沢な生活送ってるなぁって思った
昔の人はみんなミヤコ蝶々みたいな喋り方
あの人の、本当の言葉は「船場言葉」です。
と、言う事は おやじは南都雄二という事かな?(笑) お互い古いですね。
新今宮もだいぶ綺麗にはなったがどことなくこの空気は変わらない
いつも貴重な映像をありがとうございます。昔はこの様な町や暮らしは日本中どこでも見られました。
たくましいの一言に尽きる
今の若い人たちに、社会そのものが貧しかった時代を見てほしい。
今の若い人は現代的な貧困のなかにある
@@たこんぶ-z5d
その通り。いつの時代にもその時代にあった貧困が存在する。
たった60年くらい前まで日本にもこんなスラムがあったんやな。
ここから世界第2位の経済大国(今は3位になっちゃったけど)まで日本を引き上げた先人たちの苦労と頑張りには感謝の念しかない。
そのかわり公害と物価高には悩まされました。
世界第2位の日本は,もう過去のもの。日本人の給料は米国の4割、韓国以下。そのうち内に東南アジアへ仕事を求める時代も近いかな。
この当時、既に日本のGDPは世界3位(西側諸国で)だったけどね。
これが爺さん連中の思う貧困。
エアコン付きの普通の住宅に住んでスマホを持ってる今の貧困層は貧困では無いって事だな。
@@koinuya7756
バカも休み休み言え
@@koinuya7756
だから政治家が現代の低所得で未婚の若年層の貧困の実態を理解すらできんのだよね。
どんな環境でも、子供達はどの時代も可愛らしい😊
子供のウンコも?💩
医療の質よりもずっと生活インフラのほうが重要だと養老孟司が言ってました
当時を語る方がコメント欄に結構いて驚いた
65歳以上はこの頃を知っている人が多い、70歳以上の人も SNS を使いこなしているよ
この人たちを蔑むとか同情とかで見ている方が、もしいるとしたら大間違いです。
私はS30年前半生まれですが、程度の差こそあれ貧しい家庭が当たり前で私の母は新婚生活に4畳半の長屋の部屋を借りてミカン箱をちゃぶ台代わりにして生活をしていた、そんな時代からしたら今は天国のようだと良く聞かされていました。
学校に持ってくるお弁当もたくあん数切れがおかずとか何を食べているのか恥ずかしそうに腕で弁当箱を隠しながら食べていた級友もいました。
東京オリンピックを契機にお給料も経済も右上がりで贅沢しなければ普通に飯が食える世の中になり、
遠い記憶となりましたが、この映像で当時を思い浮かべています。貴重な映像有難うございます。
同和行政
最初は良いことしていたのに、いつからか
一部のワルが悪用して利権になっていったんやな🤢🤢
部落問題は、関西特有なものだと知ったのは関東に来てからだった。阪急電鉄沿線で育ったから、こういう地域の住民も覚えているが、なぜか子ども心にこわかった。
@@中西正稔 関東出身で阪急沿線に住んでますが、未だに外ものは、商売でもインケツです(-_-;)先に北新地に居たから尚更。
特に、京都線の淡路、ウトロ、宝塚線の庄内、服部、神戸線の園田辺りが?
@@omoya1137 僕のガキの頃は橋下知事が育った淡路駅周辺から下新庄駅の辺はいわゆる部落だと感じました。崇禅寺駅もずっと手つかずのままで、社会党が強かった頃に見違えるほどキレイになりました。南方は総連と民団が中傷ビラ合戦で、金大中事件も彼らの政治闘争の具でしたね。両国赤十字による北朝鮮への帰国運動時代は、まだ生まれてなかったですが、あの時代は韓国は軍事独裁国家でしたから、井筒監督が描いた朝鮮学校も幅きかせてたし、北朝鮮を支持する人たちが多かった気がします。
でも、そこあの時代に森繁久弥等、北野高校卒業して早稲田大学後かNHK位みんなが頑張れば行けた時代
子供は、今の貧困家庭と異なって
比較的よく食べてそうだね。
今は、「衣食住」の中で
「食」の序列が一番低い。
「衣住」が優先されて傍目には貧困が目につかなくなっている。
食べる事に懸命だった昔の人の方が生命力が強い
今のタイとかフィリピンみたいな感じだな。みんな頑張って綺麗になったら、今度は子供が生まれなくなった。何が正解なんだろうか。
生活が豊かになると人手もいらんしね。死亡率も格段に下がる。まあ普遍的な流れなんだろう。
自家用車や家電製品が、まだまだ金持ちの贅沢品だった時代。というのがよくわかる動画です。
ものすごくリアルで歴史を感じさせる映像。集落とは、何かという手がかりを見つけさせてくれた、素晴らしい動画です。
出自や身分がどうであれ、個々に懐かしい風景があるんだろうと思う。
この時代あるあるの効果音、挿入曲がホラーでこわい。
スラム=バラックかと思いきや、焼夷弾の被害を受けず焼け残っている日本家屋が多くて驚いた。
宮本輝の小説の世界をカラー映像で見たような気分だ。
殆ど江戸時代の長屋と宵越しの銭は持たない生活がそのまま続いていたような風に見えますね
高架線と通天閣、まんまじゃりン子チエで見た景色。
これが正真正銘のドキュメンタリー映像です🥺
正真正銘の改竄フィルムです。
この時に建った多くの公営住宅が築50〜60年を迎えていますね。
鉄筋コンクリートの建築技術が未熟なのと低品質材のため、だいたい30年くらいしか持たない建物を無理やり延命させたり、アスベスト使いまくってたりして修繕もままならない物もあります。
一部の人しか知りませんが、これがまた大変な問題になっているのが切ないですね。
橋の下とか川沿いにズラッとあばら家が並んでる光景は今じゃ考えられないね
鉄筋の団地が建てられたあたりで急激に近代的な映像になって感動した
団地は、この時代この層の人たちにとっては近代の象徴なのかもしれんな
今では築60年以上になるからほとんど取り壊されてるとは思うけど、築50何年くらいなら探せばまだちらほら残ってるんよね
なんというか、本当に過渡期なんだなという感慨が押し寄せてくる映像
スラムで生きるのに精いっぱいでありながら、鉢植えを育てたり花を飾ったりしているのなんか良いな
人間、苦しみの中でも『楽しみ』を求めるもの。
現代では、こういったものは見ることはないが、当時はそれが心の癒しだったのではないでしょうか。
自分と他人とでは良いと思うものが違う。
素直に出ているものだと思います。
@@shunhira6390 やっぱ人間いくら貧しくても楽しみがないと生きていけないよな
見習おうと思いました。
韓国ソウルの表と裏の顔が有る
ナレーション安藤昇?
60年経って格差社会が進行し形を変えてスラム化が始まってる。ドヤはネットカフェになりその日暮らしの若者がバラックや小屋は無いが老朽化した団地やマンションにはわずかな年金で修繕費も引っ越しもできず住み続ける高齢者が・・・60年前のこの映像の時代は上り坂だったから改善されていったけど現在は下り坂。10年先20年先は今よりもっとひどくなる
黒澤明の映画「どですかでん」でもスラムが描かれていたが、この映像こそが「本物」だ。
矢吹ジョーがフラフラしてそうな雰囲気
割烹着のおばちゃん達の姿、懐かしいな。
これよりもっと酷かった生活
思い出したくも無い
昭和40年代、俺が小学低学年までこういう処に住んでたよ。二階造りだが隣と繋がってる長屋風造り。水道無し(!)当然風呂、トイレ無し(離れの公衆トイレにいく)。飲水は共同水道場に行き、カギ式の水道からバケツに日に何回も汲みに行く・・・・
間もなく市営住宅に当たり、脱却?できた。
まあ、特に不自由とは思わなかったな
あ。皆そうだったから。
ただスラムは悪である、と断罪するナレーションには違和感が大きい。社会の発展を妨げる素因?そうしているのは何者でもない、その思い込みと偏見に満ち満ちた『社会』ではないか。
すんごい昔の時の話かと思ってみてたけど、自分の母親が生まれた頃と同じくらいでビックリした
今日の日本でも貧困層が増えていると言われている。事実子供達の6人に一人が貧困層に属するという統計もある。しかし同じ貧困層でも時代によってその定義が大きく異なる事をこの1961年(昭和36年)に制作された映像は教えてくれる。
この頃はみんなで助け合い、今は無視しあい、あと精神病がやたら多い、たすけても奇声をあげる
@@THE.Everestlist 恐らくこの頃は人々の間に共同体意識が強かったんでしょう。現在は核家族が進みお隣通し干渉し合わない個人主義的気風が強くなったのでしょうね。
「相対的貧困」が現代。数年前に、テレビで取材された貧困女子高生の暮らしぶりに「???」な指摘がありましたね。クーラーがあって、SNS利用できて、姉が働いて派手な生活していて・・・。でも、相対的貧困。社会学とか学問領域の学者さんたちが提唱し始めたのかなと思っています。
マスメデイアから聞こえてくる「貧困家庭」とか「貧困層」「子供の貧困」は、「相対的貧困」を指しているのだろうけど、受け取る方は「絶対的貧困」をイメージしてしまう。3食食べられない子供のために「子供食堂を」なんていう活動を見ていると、食べ物が足らない訳ではないし、食べ物を買うお金がない訳でもないのに、それちょっと違うかな?と思う。生活費を生きていくのに大切な食費に回せない、食べ物を買って準備できない親の生活改善しないと、解決しない問題だよなと。
山村の田舎育ちの私の子供の頃は、飼っているニワトリが産んだ卵一個は働く父親の膳についたし、魚肉ソーセージの入ったカレーライスが御馳走で、年に一回くらい年取った飼っているニワトリを捌いて骨ごと甘辛く煮て食べさせてもらった。でも、親たちの口から「うちは貧乏だ」なんて言葉聞いたことなかったので、「貧乏に」育ったなんていうことは一切思わない。親は、自分たちの稼ぎに見合った暮らしを重ねて、私たち子供をきちんと学校に進学させてくれたし、結婚する時家を持っ時何らかの経済的支援もしてくれた。お陰で、兄弟皆 都市部近郊で持ち家を持ち子供を育て「貧乏」を嘆くことなく生活できた。
もっと時代が進んで、このフイルムの風景すら知らない人たちばかりになったら、「絶対的貧困」すらイメージすらできないようになるだろうな。
コロナでますます貧困になる