【歴史解説】ゆっくり大江戸㊶あえて将軍位を争わなかった御三家筆頭”尾張藩”~二十男から名門を継いだ男・徳川宗春の前半生~【江戸時代】
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- เผยแพร่เมื่อ 7 ก.ย. 2024
- 今回は御三家シリーズの最後の一つ「尾張藩」の解説です。藩の歴史となると江戸三百藩とかぶるので、この動画ではあの吉宗のライバルにして御三家の異端児・徳川宗春公の前半生、梁川藩主時代までをに主軸に解説をしていきます。尚、宗春の尾張藩にての治世の解説は次回となりますのでご期待下さい
御三家についての詳細はシリーズ一作目「水戸黄門」をご覧ください↓↓
• 【歴史解説】ゆっくり大江戸㉒ 徳川御三家と水...
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ご指摘が多い掛け軸の「尾張黄門」について補足します。尾張家は権大納言まで叙任可能な家ですが、この動画の主人公である宗春公の蟄居時の官職は権中納言であり、存命中の愛称は尾張の黄門様、蟄居後は前黄門又はご隠居(黄門は中納言の唐名)でした。掛け軸は知る人ぞ知る言葉を毎回上げていますが、今回は内容にご指摘が多いので補足させて頂きました。尚、宗春公はその死後名誉が回復され天保10年に歴代の尾張藩主の極位極官である従二位権大納言が追贈されています
宗春公は中納言でその生涯を終えられたのですね(。´Д⊂)
官房長官も中納言格と思われる。
菅義偉黄門や枝野幸男黄門と呼んでも差し支えないだろう。
筆頭の「順を争わず、騒乱を避けよ」という言葉は深く染み入りますね(水戸と一橋をチラチラ見ながら
尾張藩は明治以後も陸軍極右派のスポンサーになったり、終戦の「日本のいちばん長い日」に天皇家の侍従になっていたりする。尾張藩徳川家は幕末から明治を経て敗戦までなかなか大事な役どころやったと思う。
詳しくて分かりやすい素晴らしい動画ですね👍
これからも頑張ってください💪😉
あまり表舞台に出てこない宗春については良く知りませんでした😢とても面白かったですよ! 次回作にも期待しています!
200年後の昭和初期ですら乳幼児死亡率は50%だったからなあ。上皇陛下の姉君も夭折してるし。新生児死亡率が10%を初めて切ったのが1967年、1%切ったのが2015年、これって人類史的にはすごいことなんだよな。医学の進歩に感謝。
そして衛生面でもやはり
上下水道の整備も含めたインフラの技術力
重度の障害児や奇形児は結局寿命が短いので、親も大変なんですよ。
本来死んでしまうはずの命を無理矢理生かしてしまうのが全て幸せとは限りませんね。
宗春の前半生は知らなかったと言うよりあまり興味がなかったのですが、なかなか興味深い内容で見入ってしまいました。次回、尾張における宗春の治世が楽しみです。
最近見始めましたが、おもしろくて参考になります。今後も楽しみにしています。
大変面白かったです!ありがとうございます。
面白かったね。後半待ち遠しい
当時の乳幼児の死亡率エグすぎるな。百姓の家ならまだしも、衣食住が保証されてる武家でもポンポン死ぬし。
徳川宗春については、
「吉宗のライバル・敵役」
「吉宗に逆らった派手好きでお金を使いすぎて藩財政を破綻させた」
というようなステレオタイプの単純な認識が多いようですが、今回の動画でより真実に近い宗春象に迫れそうです。
近世における尾張や名古屋の整備は、近現代日本の産業・経済の発展に大きな影響を及ぼします
1.徳川家康は、全国支配の中で尾張の重要性について解っていた
①朝廷や西国大名に対する守りの地
②名古屋はもともと災害に強い都市
●江戸や大阪は、城・武家地は台地上だが、町人地は低地
●名古屋は城・武家地・町人地がまるごと熱田台地上に建設された
※近代以後、名古屋の市街地は周辺の低地に拡大し、伊勢湾台風などで甚大な被災
③木曽三川の治水大工事
④織田信長・豊臣秀吉は尾張の出身だが、権力を握ると本拠地を安土、京都、大阪など
西に移し、しかも、政権は続かなかった。
2.御三家について
①もともとの「御三家」とは、「将軍家」「尾張家」「紀州家」であり
「水戸家」は一段各下に見られていた。
●尾張家・・・家督時は従三位権中納言、極官は従二位権大納言
●紀州家・・・家督時は従三位権中納言、極官は従二位権大納言
●水戸家・・・家督時は従三位権中将、 極官は正三位権中納言
②時代が進むにつれ、「将軍家」は別格で
「尾張家」「紀州家」「水戸家」の三家と認識されるようになった
3.宗春がやめさせた梁川の風習とは
「正月に新婚家庭に行き水をかける」
という風習。
宗春は、祭を奨励したが、人に迷惑がかかるような行事や風習は禁止した。
4.梁川(福島県伊達市)では、今でも通春(宗春)公を称え、毎年3月第1日曜日に「商売繁盛・五穀豊穣・無病息災」を祈って「つつこ引き祭り」が行われている。
秀吉公は遠州の油売り(乞食)だったところを尾張に流れたって聞いたんだが違うの?
@@Seaza_Sr1 名古屋市中村区の中村公園には「豊公誕生之地」の石碑があり、傍の説明版に「天文五年(一五三六年)、豊臣秀吉は、木下弥右衛門の子としてこの地に生まれた」と記されており、それが一般的な俗説になっていますが、
実は、秀吉の出自(出身)については史実が確定できず、不明な点が多いのです。
『フロイス日本史』には「薪を刈り生計を立てていた」
『日本教会史』には「木こり」
と書かれているそうです。
秀吉に関わる人物についても、通説に対して異論が唱えられており、有名なのは
①「秀頼は秀吉の子ではない」説
●北政所や大勢の側室に子供が生まれなかったのに
なぜか、茶々(淀殿)だけに二人も子供が生まれている
●成人した秀頼と秀吉の体格が違いすぎる
●茶々が懐妊したと思われる時期に秀吉は離れたところにいた
※当時から既に噂されていた
ただし、確固たる証拠はない
②「茶々(淀殿)は浅井長政の娘ではない」説
●浅井三姉妹のうち2番目の娘が「お初」
茶々は1番目。なぜ妹が「お初」なのか
●茶々は母お市とその兄である信長の子ではないか
とする説がある。
ただし、確固たる証拠はない
@@hayashi2751 有り難うございます!完全に謎の男ですね🐝
@@Seaza_Sr1 ありがとうございます。
「謎の男」が関白・太政大臣まで登り詰め、しかし、その死後、豊臣氏が滅んでしまうことで、華々しく、ドラマチックで、秀吉が人気なのだと思います。
@@hayashi2751
最初から最後まで良く頑張った魅力満載な武将ですよね!
家康がそれ以上な曲者だっただけで・・・
中井貴一さんが演ってたね、ほんの少ししか出てこなかったけど、強い印象を受けたよ。
続き楽しみにしています。
名古屋は東海道でも中山道でも宿場町ではなかったが、宗春のときにわざわざ名古屋へ寄り道していく人が増えたとか聞いたことが
まあ東海道の宮宿は熱田で、かなり名古屋に近かった場所だけど
東海道中膝栗毛では御城下は避けようと相談してます これは行ってみたいが侍が五月蠅いかもしれないと考えたのでしょう。
宗春の話楽しいなぁ。名古屋行きたくなるwww
宗春が実は世情に通じた殿様だったんですね。後半もとても楽しむにしています。
旧尾張中屋敷、成瀬隼人正江戸屋敷の側に住んでいます。
環境が人を創るんだなぁ(しみじみ)。
丹生ちゃん可愛すぎ
棚ぼた藩主の座を得るまでの人生…井伊直弼に匹敵しますね…
テレビドラマ 暴れん坊将軍で、尾張大納言宗春と演じられていますが、補足にもあるように宗春が尾張藩主在任中は、中納言でありました。 テレビドラマは影響力があると共にフィクションですから、あてになりません。気になることは自分で文献やネットで調べる必要がありますね。自分もこころします。
大河主人公に、結構良さそう…。
大名格(1万石以上)の家老を擁したのは尾張以外にも数多有ったようです。
なかんずく、外様の徳島 蜂須賀藩の筆頭家老、稲田氏は地政学上の要衝、要地である淡路一国(公称5万石?)と脇町の城代として確か二万石を領していました(徳島蜂須賀藩は公称26万石?)。
藩主が江戸に参府の際、稲田氏には家老ながら大名の格で遇された云々。
これは他の大藩の大名格の家老と同じかと思います。
加賀藩前田氏の筆頭家老本多氏は5万石ですね。
この大名の子の死亡率の高さは乳母や女中が使用していた鉛入りの白粉のせいだって言われてるんだよね。それで鉛中毒。
鉛だっけ水銀じゃなかった?俺の覚え違いかな?
当時両方あってどっちのほうが影響あったのかわりと議論になってる。資料があれば当時の価格と流通範囲とどの階層の人にどれが人気だったのか知りたいね。
だから、多くの子供を作る必要があったから側室を持つようになった?
あれみたい
薬屋のひとりごとみたい
暴れん坊将軍で最も風評被害にあった男
それが徳川宗春w
中尾彬、西岡徳馬など悪役系の俳優が演じたのも大きいな。
@@-kaz-md2lv 中尾彬の宗春は迫力ありましたよ。悪役でも様になっていた。
幕末の立ち回りも中々上手い。名古屋を戦場にしなかったからね。
言われてみれば。仮に、名古屋が戦場になって焼け野原になっていたら今の名古屋はまた違ったのかしら。
その辺も詳しく知りたいわね。
第14代・慶勝が勅命を受けて佐幕派「ふいご党」の重臣14名、一般藩士20名を「青松葉事件」(慶応4(1868)年1月20日~25日)で斬罪など厳罰をもって粛正したことが大きかったと思われます。
慶勝は松平春嶽に書簡で「天朝とは君臣の義あり。幕府とは父子の親あり。国家艱難の際にあたりては、父子の親をすてても君臣の義をば立つべきなり」と述べていることから、身を切られるような相当の苦悩があったものと推察されます。
もしも、尾張藩が会津藩のように新政府軍(薩長)に徹底抗戦していたのなら、明治維新は流産し、日本は欧米の植民地に成り下がり、21世紀の今日でも亜細亜・阿弗利加の人民は白人の奴隷となっていたことでしょう。
その辺りの事情についても、こちらの動画で取り上げられる日が来ることを楽しみにしております。
@@Kaito5327 さすがに明治維新の流産うんぬんは言い過ぎ。
抵抗する藩に尾張藩だけ追加されたところで、
抵抗した他藩と同様に潰されるだけなのでは。
大河の八代将軍吉宗で宗春を見て、こういう人物こそ現代に欲しいと思いましたねぇ
生まれた時代が早すぎた人物
名古屋の平和公園に宗春の墓石がありますが、遺骨は定光寺の初代藩主義直の所にあるんですねー。尾張藩の建中寺に何回か行きましたが、なぜ二代藩主光友のお墓しかないのか不思議に思ってました。
紀州家の当代は女性でしかも独身で子供もいないのでこのままだと当代で滅亡確定なんだよなあ、寂しいねえ。
それ以前に、紀州徳川家は何度も絶えている。徳川の末裔は現代も栄えているけど、直系を保つのは難しい
葵徳川三代では家康公が臨終の床で将軍家の血筋が絶えることあらば尾張を頼れとの場面が有りましたが、結局尾張家からは将軍を輩出する事は無かったのですね。
血脈からは尾張家が紀州家や水戸家よりも三河との縁が薄かったとかあるのですかね?
吉宗は家康の曾孫だが、宗春の代は玄孫で一代遠くなる。タイミングが悪かった。
@@ctakabe 男系では不利だったけど宗春の祖母は家光の娘だから不利では無い。そもそも吉通の時には家康からの血筋が遠いなんて話は無かったのに継友の時に9に出てきた。
尾張3代徳川綱誠の 後を継いだ吉通が 十男で彼が4歳になるまで
9人の兄が夭折してるんだよね。
御三家ではないですが、備後福山藩についてもお願いします。
次回はケインジアンvsマネタリストですね。
大河ドラマに出来そうに思えるくらいめっちゃ面白かったです。愛知育ちの補正かかってますけどw。
尾張藩といえば、昨日を葬り今日を流れる葬流者(原作:小池一夫)
宗春公なら天守閣など後回しで良いから、先ずセントレアのLCCターミナル
へのアクセスを優先させる筈だと思うが。
徳川宗春は柳生新陰流(通称 尾張柳生)を継いだ一人だったと思うのですが・・
今、手元に本が無いので確認できませんが、UP主様、詳しくは「正伝 新陰流」(柳生厳長 著)にてご確認下さい
いつも楽しく拝見させて頂いてます。
動画の長さですが、今位がちょうどいい感じだと思います。
うp主さんの動画は内容が濃いので、一気にやるより分割した方が飲み込みやすいですし。
それに、うp主さん的にも動画の本数が1本増えるので(ry
ゆっくりマリサとゆっくりれいむの大ファンです😁何時も楽しみに拝見しております🙇出来ましたら、あの織田信長の前に天下統一していた⁉️と言われている三好長慶(みよしながよし)をお願い致します🙇
あ‼️送信押して😵💧続きです🙇三好長慶をお願い致します🙇
尾張徳川家と水戸徳川家は、朝廷の味方です🎵
幕末維新時は、水戸徳川家と尾張徳川家は、官軍で参加しました🎵
でも明治政府に役人の尾張徳川家と水戸徳川家の出身は、いないです🎵
会津松平家(山川兄弟等)の出身は、しましたけどね🎵
ちゃぶ台の上の和菓子はういろですか?
あわゆき
@@masahira4724 あわゆきはこんな色あるの(´・ω・`)?
そこの羊羹食べたいなぁ〜😅💖
いやいや尾張名古屋といえば『ういろう』ではないですか?w
暴れん坊将軍で、悪役が最後にこの度の件は宗春様には関わりなき事と言って庇われるイメージ
こんな有様でよく人類絶滅しなかったなぁ、、、
14代藩主の慶勝もお願いします
江戸幕府の初期の段階で、《将軍後見職》という役職が創設されていれば、徳川政権ももう少し長く持ったのではないかと…。
尾張藩の「順を争わず、騒乱を避けよ」の遺訓は、藩祖・義直が遺したもののようです。
他にも義直の勤王思想を表明したものとして「依王命被催事(王命に依って催される事)」は有名です。
確かに、幕末の勤王思想と言えば「水戸学」ですが、近年の研究では近世国学の開祖の一人は尾張義直とされ、近世国学発祥の地は尾張名古屋と言われています。
歴史に「もしも」は禁句ですが、尾張藩から将軍が出ていれば、また違った「明治維新」になっていたかも知れません。
私も、宗春公の後編を楽しみにしております。
ういろう、さくらと抹茶でしょうか(。・ω・。)
ということは「青柳ういろう」?(笑)
城で持つ今の名古屋城は改修工事で「城が乙(堕つ?)」な状態です。計画では2023年まで天守へ登れない。
幕末、薩長についたのは、幕府が倒れても、徳川の名を残そうとしたのだろうか?
現代には八代吉宗公の経済政策はデフレ化政治で明治維新まで日本の人口は増えなかったと評価する経済評論家がいます。
そして宗春公は経済が分かっていた人だと評価しています。
宗春は「八代将軍吉宗」では中井貴一が演じていました
尾張家は兄弟沢山でも成人するのはごくわずか。一方、常陸黄門もとい水戸黄門は兄弟沢山、水戸家は分家も多く現代まで初代の血統で続いている。
尾張藩と言えば柳生新陰流の宗家
尾張藩主が柳生新陰流伝承者に成っている。
高い高い棚から転がってくる牡丹餅に笑った
ほんと宗春公見てると徳田慎之介そっくりに思えてくるなあw吉宗も目を掛けるわけだ
伊達の殿様の下に
田村郡は
坂上田村麻呂公の縁の地
水戸は水戸黄門、紀州は大河や暴れん坊将軍、尾張だけ時代劇の主役になってない
敵役のイメージがある明智光秀が大河になるなら宗春も大河になっていいと思う、戦国や幕末ばっかりじゃつまらん!
まぁ、その前に田沼意次だよ
@@TheHaimani 80年代に単発時代劇で田沼意次が主人公で森繁久彌が主演のが有った。
@@73moto いくら大事な事だとしても3度も繰り返さなくても・・・(´・ω・`)
@@nuruosan4398 通信の不調で連続投稿したみたいでスミマセン
さすが世界の尾張
初期の加藤剛さん主演の大岡越前だと、序盤では典型的な派手好きな暗愚の将、後半では吉宗の破天荒さこそ一国の長に必要な資質かも知れないと認め、越前が知己の店で吉宗と共に無礼講で酒を飲むって回があって、これが大好きなんですよ(笑)
順番的には尾張が筆頭だけど将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では慶喜が戦う前から前代未聞の敵前逃亡したことから官軍についた。
宗春役といえば中尾彬の右に立つ者はいないでしょう。
右に出る
記録があまり無いから黒幕にピッタリだったのかな。
幕末の江戸開城の時に官軍代表として城受け取りに出向してきたのは御三家尾張藩だったとか‼️明治新政府は徳川家のメンツを立てたつもりだったが‼️大奥は尾張藩を裏切り者と激怒したとか‼️ゆっくり解説の尾張藩パート2として幕末編をぜひともよろしく‼️
大河ドラマ八代将軍吉宗では
継友公が吉宗と将軍の座を巡り争ってましたね
次の宗春公は中井貴一さんでしたが良かったです
再放送してほしいですが継友役の方のリアでの不祥事が痛いです
大河に取り上げられても良さそうだけど、やはり視聴率は稼げそうにないなぁ
初代の義直は家康が「わが子の中で最も武人の如し」と評した人物だったが
二代目以降がパッとしなかったなぁ
地理的感覚から言うと、東京の様な寒い場所より西寄りの名古屋の方が暮し易かったと言うのも有ると思うな。とは言っても殆ど江戸に詰めてた人達には関係無いかな?
まあ時代劇だと将軍家に対抗したり意見した人物はことごとく悪役扱いされてるよな
実際には無能だとそんな立場につけない人物ばかりなのに
やっぱり肖像画残っていないんだ、宗春。
後世の藩主が、幕府恐れて、処分しちゃったのかな?
会津藩お願いします。
江戸に下向か・・・
みんなプライドが高いなぁ
今でも一部の人は京に上る江戸に下るような言い方をするし、東京に上京するって言ったら鼻で笑う人も多いんだろうな
『帝のおわす遠く離れた江戸』だから“下る”だと思っていました。
だから今現在『東京に上京する(←この日本語表現も違和感あるけど)』を笑う人のほうがおかしくないですか?
宗春公に今の日本の総理大臣になっていただきたいくらい素晴らしい方ですね
水戸藩に比べて農家の収入は倍有るんだね。
継友亡くなったの元禄15年?
享保年間ですよね?
元禄は綱吉時代ですから
いちこめ!お疲れさんです
将軍家争いのときに尾張がゴタゴタしているのは紀州の謀略、謀殺と言われる
お茶請け ういろうかな?
尾張の者です。徳川御三家尾張藩と言えどもそれは「徳川家」、徳川は元々、尾張の隣"三河"の人ですので、そこから将軍がでようがでまいが、どっちでもいいんですよね。
天下統一の夢が消えた尾張の者にしてみたら、はいはい徳川の治世をしっかりやってくださいな、、と江戸250年史を見ています。
これじゃ吉宗が怒るのも無理はないわ。自分と同じ境遇に同情して、いろいろ目をかけてやったのに
自分の政策に逆らうんだからな。
地元名古屋を栄えさせるにしても吉宗に話を通すとかして政策を調整すれば良かったのに、今までの
関係を考えれば話を通すことが無理とは思えないな。質素倹約を江戸で励行して部下のモラルを厳しく
正しておけば「鸚鵡籠中記」みたいな堕落した武士が名古屋で蔓延ることもなかったのに。
「庶民は享楽せよ。武士は矜持を高く保ち無駄な奢侈は禁止」ってやれば吉宗も怒らなかったのに
惜しいことだ。
まぁ、たしかに吉宗公からすれば陰に陽に目を掛けてやって尾張藩主の地位にまで就けてあげたのに、自らの掲げる「質素倹約」政策に異を唱えて「開放路線」政策をぶち上げて対抗するんですから、たまったもんじゃありませんなぁ!
綱吉もそうですが自領で幕府と違う政策を進めても注意と言う名の圧力を掛けるぐらいで内政そのものには手を出しません。宗春の失態は将軍お膝元の江戸で贅沢をやらかし吉宗の面目を潰したことです。後半に出てくるかもしれないので詳細は省きますが、これは尾張の富を持ち出しており現代だと貿易赤字そのものです。経済政策も無策と言うしか有りません
大企業を優遇して庶民から税金むしり取る今の政治家にも見習ってもらいたいもんですね。
フジ大 政治家はその庶民が選んでるんですが。。。歴史から見習えというなら様々な事を事態が悪くなるとすぐ上に責任転嫁して被害者ぶる、日本人は学んだんですか?少なくとも学んでないですよね?貴方は?それに大企業の方が額としては余程取られてますが?
マイルールですか?
MAN MAD 高々TH-camのコメント欄です。社会認識の正しさなど求められていません。日頃の不遇さを、まあ自分せいですが、晴らすコメントぐらい大目に見てあげて下さい
初代当主の血統が、跡絶えたの途絶えないのって話しは聞いては居ますが、
暴れん坊将軍観てた世代の人たちはホント宗春様は悪いイメージしかないけど
あの時代に置いて民の安全面や楽しみを第一に考えて自由経済思考の大名は宗春様だけだった。
そのおかげで民からはすこぶる評判は良かったのだが
時代を先取りしすぎたのか藩の財政破綻して次の代の宗勝様は緊縮財政政策とることとなったけどね。
初代藩主の直系男子の血筋は紀州家に乗っ取られた?、そんな話しは、家康君一族を特集した雑誌で掲載されてたのを覚えては居ます?けれど、
細かい話ですが、梁川藩の中心地は、福島県伊達郡ではなく、福島県伊達市ですね。伊達市には現在も伊達市梁川町の地名が残っていますし。
時代によっては、伊達郡も含んでいるようなので必ずしも間違いではなさそうですが
現代では、てことですね。こうあるべきだとまでは申しませんが、歴史的な物言いをするならば、「梁川藩とは、陸奥国伊達郡にあった藩」、とするのが妥当ではなかろうかと思います。補足をつけるとしたら「今の福島県伊達市梁川町に陣屋を置いた」となりましょうね。そこももともと伊達郡ですし、当然江戸時代に「伊達市」なんてありませんしね。尾張藩の話題なので名古屋城を引き合いにしますと「尾張国愛知郡名古屋」にあった城、と言うことでしょうね。現在はあくまで「名古屋城跡(名古屋市中区、北区)」。
子供が死にすぎて内乱の類いか遺伝性疾患か医学の未熟か
よく分からない
尾張は紀伊と将軍家の座を争ってるので狙わなかったは嘘です
あと紀伊が残ったのは御三卿誕生と同じく紀伊の影響力と立場を末永く維持するためです
黄門(中納言)じゃなくて大納言じゃなかったっけ?
尾張亜相ですよね
尾張と紀州は大納言で水戸が中納言ですね
先頭に補足コメントを上げて頂きました
御三家筆頭は将軍家の筈だが
将軍家
尾張家
紀州家が御三家
備後福山藩か越後長岡藩をお願いします。
名古屋はね名古屋村なんスよ…金があるのは豊田と周辺のTOYOTAの関連企業なんスよ…
次代を残せ無かったかな、藩祖の血統は途絶えてる尾張徳川家、そんな事を聞いてますが、
尾張黄門って大納言から格下げか。
尾張黄門(中納言)?
そもそも御三家筆頭といえば、「駿河大納言」徳川忠長。ところが将軍家光の実弟として叔父も見下すほどの乱心を咎められたとか。
それにしても、どうして将軍吉宗は紀州藩を尾張家の弟に任せなかった?
尾張徳川家は、しつこく将軍に嫌がらせして来た家統だからなぁ。
そぉ「自由にて御座候」が口癖みたいな口伝。
拝見しました。尾張(権)大納言なので「尾張亜相」だと考えます。
掛け軸の言葉については補足コメントを先頭に上げさせて頂きました。ご覧頂ければ幸いです
御意見たくさんあったということだけどあえて言う。亜相!亜相!!