【池上曽根遺跡】和泉の拠点集落

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  • เผยแพร่เมื่อ 25 ต.ค. 2024

ความคิดเห็น • 11

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon ปีที่แล้ว +4

    この手の集落遺跡を見ていると毎回思うのですが、当時の庶民がどのような住居に住んでいたのか気になりますね。
    掘立柱や竪穴式のような建築技術と定期的なメンテナスに伴う労働力を要する住居に住んでいるとは考えにくく、戦国時代でも使われた夜露さえ凌げれば良い差し掛け小屋のようなものだったのでしょうかね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +2

      流石に夜露を凌ぐだけのものだとは思えませんが・・・。どうなんでしょうか。群馬県の黒井峯遺跡や中筋遺跡を見ると、竪穴住居だけではなく、掘立柱建物も使われているようです。古墳時代の遺跡ですが、弥生時代でもそれほど変わらなかったのではないでしょうか。

  • @berutonoue
    @berutonoue ปีที่แล้ว +1

    いつもながら勉強になります。
    掘立柱建物群は石包丁をはじめとする石器の制作工房だったということでしょうかね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +1

      石器に限らず、色々なものを作っていたのではないでしょうか。

    • @berutonoue
      @berutonoue ปีที่แล้ว +1

      @@koukogaku なるほど、ほかにも木器とか土器、布とかも必要ですものね。有難うございました!

  • @金子宏二
    @金子宏二 ปีที่แล้ว +1

    最盛期には人口も1000人を超えていたという説もありますね。国道26号線が遺跡の真ん中を通っているのが残念ですね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +2

      いつもご視聴ありがとうございます。確かに残念ですが、私などはこんな大都会で、しかも1970年の開発優先の雰囲気の中で、よくここまで保存出来たなと思います。この時代の人達が頑張ってくれたからこそ、今の調査体制が出来たと思うと頭が下がります。

    • @金子宏二
      @金子宏二 ปีที่แล้ว +1

      @@koukogaku 様 おっしやる通りです。わたしの勝手な想像ですが高度成長期がそろそろ終わりの時期だったのかもしれませんね。それと遺跡のシンボルの2本の立柱は劣化で撤去してたのを何年か前にクラウドファンでイングで立て直そうってやってましたね。多目的公園の方はまだやっているのかな?開発も大事ですが歴史や環境問題に関心をもって下さる方が増えたのは大変うれしく思います☺

  • @鮭児-c4c
    @鮭児-c4c ปีที่แล้ว

    岡本太郎さんの大阪万博での太陽の塔の顔ってこの遺跡からのモチーフだったのか❓🙄

  • @暁美家譽
    @暁美家譽 4 วันที่ผ่านมา

    これがマチであるか否かは判断基準次第なのでしょうけれど、こういう中核集落があったからこそ、後代に国府のマチが官庁の外側に形作られるための概念のもとだったことは疑いようありません。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 วันที่ผ่านมา

      都市をどう定義するかで見解が分かれていたように思いますが、弥生時代以降も中心的な地域であり続けたんでしょうね。