【歴史解説】ゆっくり大江戸128 尊王攘夷と水戸学【江戸時代】
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- เผยแพร่เมื่อ 2 ต.ค. 2024
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※この動画は東方Projectの二次創作であるゆっくりキャラを用いた解説動画です。またキャラ素材【ゆっくり魔理沙改】の改変素材を個人的に作成、使用していますのでご了承下さい
北海道開発の先鞭を付けたのは水戸藩だったんだよな。これも水戸藩が貧乏だったってのが理由の一つっぽいが。
おかげで徳川斉昭は死ぬまで幕府から「蝦夷に独立王国を作ろうとしている」というあらぬ疑いをかけられることになった。
え~、そうだったの⁉️ 水戸生まれなのに、知らなかった。❤
我が地元を取り上げて頂いてありがとうございます!
因みに『水戸黄門』で光圀のお供として旅をしている助さん、格さんのモデルとなった佐々宗淳(介三郎)、安積澹泊(覚兵衛)はいずれも彰考館の総裁を務めた。
今回も非常に興味深く拝聴しました。ありがとうございます。
天皇を「本紀(ほんぎ)」(帝王の伝記)として中心に据えた背景には、若き頃やんちゃだった光圀公が、司馬遷の『史記』伯夷列伝(史記列伝の第一)を読み感銘を受け、心を入替えて学問に励んだという逸話があります。
我国の史書はほとんどが編年体で記されていたなか、紀伝体での国史編纂が『史記』の影響を多大に受けていることは疑いなく、また紀伝体で日本の通史を編纂しようとすれば、(ことさら尊王を意識せずとも)天皇を中心に置くのは自然な流れであったとも言えます。(後代の情勢や思惑とは別であった)
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『孟子』には、聖の清なる者、百世之師として伯夷の名を挙げ、「伯夷の風を聞く者は、頑夫も廉(れん)に、懦夫(だふ)も志を立つる有り」(訳:伯夷の話を聞いた者は、頑迷な者も清廉となり、意気地なしも発奮して志を立てるようになる)とあり、まさに光圀公も頑が転じて廉となり、発憤興起して志を立てたわけですね。(おそらくこの章句を踏まえた逸話でしょう)
この時代に生きた為政者や志士たちがいかに漢学、経書史書に大きな影響を受け、思想や学問を大成させ、世の中を動かしたかは枚挙に暇がありませんね。漢籍愛好者より
仕事で水戸、日立方面の人と話すことあるんだけど年配の人は結構、水戸藩・水戸学の発祥の地である事に強烈な自負心持ってる人多くてびっくりする印象
幕末期の始まりを思想的に先導したっていう自負があるんでしょうね。
おお、御先祖が紹介されとる
長久保赤水の地図ってほぼ全国が載ってる、経度緯度海里が載ってる、それでいて一般販売された、この3つがデカい
つまり国=令制国or藩程度だった認識が国=日本国になるきっかけを作った事すね
大津浜事件も紹介してくれるのがナイス、これで水戸藩は全国に先駆けて内戦しちゃったせいで戊辰戦争で存在感が全くなかったという
でも戊辰戦争時の官軍平潟上陸で潤沢な食料を提供するとか地元民がかなり怪しい動きしてんだよなぁ
因みにこれだけのことがありながら茨城県民はこれらをほぼ知らずろくな資料館もないという
勉強なりまわすわぁ〜
後に“烈公“と諡された徳川斉昭のあの激しい気性は、御三家の中で官位・石高共に最も低く、しかも藩主の三男に生まれ30歳で家督を継ぐまで部屋住みだったその不遇な生い立ちから来るコンプレックスに起因していたと何処で聞いた事があるな。
もし水戸藩の領地が常陸一国だったらどうなってたでしょうね?常陸一国なら尾張・紀伊と石高も引けを取らなくなるから、コンプレックスもなくて史実に残るような愚直なまでの行動はしなかったかも。
@@ひろたかし-w8m様 常陸国だけでは他の二家に及ばないでしょう。向こうは本拠地の尾張・紀伊のみならずそれぞれ隣国の美濃・伊勢にも分領を抱えてましたし、常陸一国すら領有出来なかった水戸家では言わずもがな
井伊直弼、山内容堂と通底する気負いすぎるところ。
@@中村毅彦-d4e 5代将軍徳川綱吉もそうだったが彼等は分家もしくは庶子出身だから帝王学を学んで居ないのでシガラミは無いが後ろ盾も無いから一度方向性を誤ると軌道修正が難しくなるのが共通点だな
@@アウトローという者 前領主の佐竹義宣は常陸一国で54万石(厳密には陸奥赤館と下野武茂・茂木も含む)でしたから、それより後の時代の水戸藩なら50万石以上はあったと思うのですが。ただ常陸は江戸後期の飢饉で特に大ダメージを被った地域でしたから、たとえ常陸一国でも幕末期は尾張紀伊には及ばなかったでしょうけど。
思い出したが、本居宣長が記紀を研究して翻訳してたのもあった
それまでは読めても内容が通じない歴史書だった
「今宵もお馴染みの顔で」ってのは「葵 徳川三代」ですか。アレも確かに水戸が語り部ですもんね。
元々水戸藩は尊皇攘夷の思想があったのですよね。
長州藩はパクっただけです。
長州藩からすれば慶喜は裏切り者に見えたでしょうね。
慶喜は父の斉昭と志を同じくする者達を見殺しにしてます。
反乱を企てたから見殺しにせざる負えなかったのは仕方がないですが。
ちなみに京都守護を務めた新選組からも水戸藩出身者は一掃されてます。その後、池田屋事件がおきてますね。
徳川斉昭の解説もやってほしいなあ
いつもご覧頂きありがとうございます。斉昭は近いうちに必ずやりますので是非ご覧ください
@@terasen それはたのしみです
自分もそう思っていたところでした!
水戸徳川家は三代藩主からは松平頼重の血筋になっているからな
そして高松藩は2代藩主は光國の息子で3代藩主は頼重の孫。でも5代藩主は頼重と光國の弟の孫で5~8代は皮肉にも頼重の子孫では無い。
幕末、長州の上士への取り立てや諸隊編成の素地は何となく把握していましたが、水戸藩も古くから実行していたのは始めて認識しました。時流の印象変化で知ることが多い
水戸が純血を保ったということは、宗家にとっては「家康まで遡らないと血がつながらない」ということで、しかも母方ですら宗家の血が入ってこない。
むしろ母方なら天皇の方が血が近いという慶喜が最後の将軍になったのはなんとも皮肉というか。
そして水戸家がやたらと子沢山で長生きなのに宗家の子供が子沢山なのに早世していたからほとんどの徳川姓の家は現在血筋が遠い水戸の血筋。そして皇室も幕末と明治は天皇家は何代も皇太子以外は早世していて血筋が遠い伏見宮が幕末に子沢山だったから太平洋戦争の敗戦の時にはほとんどの皇族が室町時代まで遡らないとつながらない伏見宮の血筋。
@@yh6146 まぁ現在の宗家は母方経由で宗家の血は引いてるので、水戸と旧宗家のハイブリッドですね。
皇族は伏見宮系はその後すべて臣籍降下したので、現在は東山天皇の直系のみですが。
尊皇攘夷ってそんなに古い言葉なのか
水戸学の集大成が慶喜なのが
水戸家は御三家だけど朝廷を潰さない為の家なので
36:06 あ、松下版の水戸黄門よりも前から、他の映画やドラマの水戸黄門は何度もあったので、すでに有名で誰もが知る存在ではありましたよ!
もちろん今の水戸黄門の地位は印籠で正体あらわすのとか含めて松下のテレビ版が確立したものではありますけどね!
うちの親は月形龍之介世代なので東野英治郎の起用には苦言を呈していましたね。
関西の松下が水戸黄門のスポンサーで日立製作所がなぜスポンサーならなかった?
不思議です
ひょっとすると講談の「水戸黄門」は大阪種だったからとか?往年はご老公関西弁だったそうで。
ただし松下幸之助の出身地は紀州徳川家の旧領和歌山市
制作会社のCALや放送局のTBSが「水戸黄門やるんでスポンサー募集」とかいって松下が手を挙げた、とか日立が挙げなかったとかではなく、元々あった松下のドラマ枠で幸之助さんが「テレビで水戸黄門をやろう」ということですから、「なんで松下が水戸黄門?」は成立するにしても、「なんで日立がスポンサーにならなかったのか」というのは成立しないです…。
5:10 『大日本史』の解説ですが、同書には「世家」(本紀と列伝の中間として諸侯など世録の国・家を記した書)はありません。(本紀・列伝・志・表の全397巻)
参照された「まいぷれ」のサイトでは、紀伝体の説明として本紀・世家・列伝・志・表を挙げており、『大日本史』の構成を挙げているわけではないようです。
中国正史のなかでも「世家」は『史記』独自の特色のひとつであり、次の正史である『漢書』では「列伝」に統合され、以後この形が通例となりました。
ものすごーくぶっちゃけちゃうと、歪なレゾンデートルの賜物が、後期水戸学だったのが全ての原因よね
ゆっくりの守の国元での政。国元での生活をお願いします。
参勤交代や江戸での生活はわかりました。
国元の生活をお願いします。
「尊王攘夷と唱えれば~」また身もふたもない...
え~と、海に接している諸藩は、ペリー来航の数十年前から来るべき時代に備えていたわけですね。会津も庄内あたりに飛び地でも持っていれば、幕末史の情景が変わったか...
そういえば最近徳川宗家の当主が変わったけど、現在の徳川宗家は斉昭の叔父の血筋。叔父の孫が幕末に活躍する徳川慶勝、松平容保、松平定敬。そして現在の徳川宗家は容保の子孫。
家広氏は松平容保公の玄孫だから今の徳川宗家は会津の血筋。そして容保公の祖父は水戸6代藩主の徳川治保(慶喜の曾祖父)の次男・松平義和。
26:30
後期水戸学の話の導入でよく触れられますよね大津浜事件
ゆっくりの助ぇードコ😂
最近、桜田門外ノ変がマイブームなので、水戸藩の思想の流れを扱って頂きタイムリーでした!
ソース忘れましたが、家康も日本人には強い尊王思想があることを理解しており、江戸幕府設置当初から天皇を敬う姿勢は保った。しかし幕府以外が直接天皇と交流するなどして権威を得て反幕府活動が容易になるのを防ぐため、徳川幕府を通さずに天皇と通じる事を禁じたと言う話を聞いたことがあります。だとすると、幕府が天皇に仕えて尊皇すると言う考えは江戸幕府初め初期から不変の思想ですね。しかしながら尊皇のあまり、天皇から直接送られてしまった手紙を幕府から渡せと言われても斉昭公は幕府に逆らって返さなかったらしいので、その点は倒幕に繋がると思われますよね。。。
葵徳川でも描かれてましたが、家康自身は武士は天皇に仕える者とハッキリ言ってましたし、そもそも征夷大将軍になったのも徳川は豊臣の家臣という立場を脱してあくまでも朝廷の臣下であるという事を明確にする為だったとも
水戸学はイデオローギー化し過ぎてしまったんじゃないのかな。その為に水戸藩は最終的な場面では混乱の中で新政府に対して大きな貢献も出来なかった。長州藩は水戸学を取り入れつつも、第一の目的が反幕府、反徳川であったから、それを利用するだけだったのでしょうね。尾張藩もまた尊王思想を第一としてたけど、いろいろとあった反将軍家感情もあって、現実的に動けたんじゃないのかな。
この動画を拝見して、水戸は良くも悪くも、学者馬鹿の集まりと感じちゃいました。
まあ尾張は10〜13代までは11代将軍家斉の庶子らを養子として押し付けられてて、しかもほぼ全員がバカ殿でしたから、尾張家にしてみたら「紀州(吉宗の血筋)に家を乗っ取られた」思いだったでしょうから、その遺恨を晴さんと御三家筆頭でありながら宗家を身限り新政府側に付いてしまったのかと
ふざけんな、水戸をそんな風に云うなんて。‼️
水戸黄門が何で今日有名になってるのかがよくわかる動画でした😉👍️✨
今の政治家は、この勉強をしているのかなぁ❓
謎の「国体」ってこの頃出てきたんだ
前期水戸学の時点ですら軍事政権でしかない江戸幕府を、「正当性ある」形にしようとして生み出した大日本史の編纂が元で形成されていったので、その結果として藩が滅びようが幕府が滅びようが、それは政治体制のためではなく、君主と人民のための国家として必要な処置であり…要するに理・自然そのものだったと思う。
そう国政が悪政敷くならば、それを討つは天命。
水戸学の血を引く自分としては、テーマの動画あって嬉しい限り。
過激派が生まれた事がショックですね。吉田松陰を、はじめとする長州薩摩の言うコトバは、大義名分なだけのクーデターだから大嫌いです。
水戸藩は表高35万石だが
実高は28万石。
格式を守る為に背伸びをし
さらに大日本史の編纂のため
財政圧迫で年貢も高く百姓一揆も
多かったとか。
さて百姓衆に御老公は
どう対応したのだろうか?
水戸市は生まれ故郷。黄門様一行は、実際鎌倉辺りまでしか行ってませんね。
御三家の方ですのて、当たり前ですが。
TVは、とても、楽しいでゴンス。❤
桂小五郎は松下村塾生では無く、松陰と同じ志を持つ朋友という感じ
まぁ歳が近いしね。
大日本史は読んだことないですが、織豊期の西洋とのつながりについてはどういう論じ方をしてるんだろとふと思いました。
>10:15
尊王佐幕を
東京砂漠と
聞き間違えて
画面を確認した
アホは私です……
大日本史は水戸市弘道館と常盤神社の義公烈公館にあります。
ありがとうございます!
いつもThanksありがとうございます。次回もがんばりますので是非ご覧ください
ちゃんば~ら~♪ ちゃんば~ら~♪
魂よ 魂よ 今萌えろヨ
まあつまりというか……よくわからなくて怖いから引きこもろうというアホ思想
それが尊王攘夷
水戸は御三家の中でも反幕府の勢力が天皇の勅命を得て倒幕をしようとしたときのために
尊皇の家柄としての役割があるから学問を始めた
という部分もありますね。