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実家が忍城近くで現在関西住み。帰省の時は北条征伐気分で東名ルートではなくちょっと遠回りで長野経由で上信越道ルート。結構楽しかった。
九州征伐も是非、解説して欲しいです。とにかくわかりやすい動画で感謝感激です。しかも、城攻めの細かい詳細まで教えていただき、大変ありがたいです。
この戦のあとの信雄への秀吉の理不尽さはやばい、北条征伐で大活躍したのになぜか尾張伊勢100万石から三河遠江50万石に移れと言われたので当然拒否したらほぼすべての領地を召し上げるという
@@thienbaoguonghungtruonghoa9725 北伊勢30万石から三河遠江55万石に加増転封だった気がする。信雄が拒否して改易になったのは事実だけど。
分かりやすい動画でした。他の方の動画で秀吉と北条氏政の意識のずれが北条氏滅亡の原因という説が提示されていました。確かに小田原包囲時の和平条件で「伊豆・相模・武蔵は北条の領土」という楽観的な主張を北条家はしていたので、こりゃ滅亡するのも当然だと思いました。
分かりやすくて楽しめました!
名古屋で生まれ育ち、今、八王子に居住している。今でも相当距離を感じる。北条は勿体ない事をしたなと思う。上手く振る舞えば五大老以上だろう。
小田原攻めは秀吉が豊臣の力を全国に知らしめて揺るぎ無いモノにするためにわざと北条に対して様々な悪条件で煽りを掛けた事で北条氏が秀吉への宣戦布告をしたのが始まりなんだよな。きっと、戦う前からの北条氏の降伏は秀吉は端からさせる気は無かったのかも知れない。結局、不手際で思う程短期間で小田原攻めが出来なくて、秀吉の天下の崩壊のきっかけや関東勢を家康に好きにされてしまう事になるんだよなぁ…
織田信長には服属したのにな…
北条家は家名が残ったとはいえ秀吉に良いようにもてあそばれて可哀想😭
その場合、利根川が東京湾に流れていたな。
確かに北条はアホだ毛利に、長宗我部、上杉、島津にしろ当初は敵対していたが、臣従すれば許されている家康も上杉などの諸将に家康討伐の直書が発せられるや、あわてて上洛して臣従し所領は安堵された。普通に期限内に氏政が上洛していれば、何の問題もなかった。彼我の戦力差もわからぬ井の中の蛙ということだろう。九州の統一が目前だった島津(北条よりはるかに強敵)を降伏させたことで豊臣の威勢は天下にとどろいていたので、豊臣の力を知らしめる価値もない。秀吉軍は九州平定で20~27万の兵を動員しているが、北条征伐は島津征伐にくらべたら物見遊山だったろう。
結局戦国末期のキーポイントは真田問題につきる。これから大阪城夏の陣まで豊臣家も徳川家も北条家もみんな真田家の小さな小さなそれは小さな所領の行方にふりまわされる。もちろん真田家自身も自分たちの所領に振り回され親子が袂を分かつ運命に辿って行くことになる。
大大名の北条ともあろうものが沼田の城1つ自力で落とせないのは後々響いてきましたね。徳川の大軍を2度も撃退したのもそうですが、真田昌幸というのは楠木正成と並ぶ殆ど神秘的な名将なんでしょうね。
@@pianochandaisuki 確かに真田昌幸は楠木正成と並べても遜色のない武将だと思う。勝てなくても負けない戦をする…だけど天下を握る器ではないんだよなぁ。
北条滅亡して江戸時代には別の殿様が居たというのに小田原城は永遠に北条の城という不思議。今でも三つ鱗の旗が翻っている。
大阪城が豊臣はたかだか30年。その後、数百年は徳川の城だったのに、永遠に豊臣と言われるが如し。
上田城は真田の城だよね。江戸時代には仙石氏とかいたのにね。逆に、米沢城では伊達氏が忘れ去られた印象で、上杉家の影響が強い。
徳川はあくまで江戸が中心でしたが北条の中心地は小田原ですからねそういうのもあるかもしれませんね
@@jjjj6075 ほとんど遺品らしい物が残っていない秀吉にとって唯一この世に生きていた(存在した)証のようなものだからでは?
@@jjjj6075 現在残っている石垣等もすべて徳川によって建て直されて、豊臣時代の物は何も残ってはいないが、京都の伏見城然り、立て直してもあえて、桐紋を残したらしい
小田原攻めで、関東の戦国大名としての歴史は終わりますが、氏直と氏規は蟄居という処分にとどまり、江戸時代には河内狭山藩として続き明治維新を迎えています。
(現・大阪狭山市)関東で一大勢力を作った北条氏がこの地で小大名として存続した事は結構地元でも知らない人が多いですよね。
北条氏直は、 徳川家康の娘を 嫁にしているので 切腹が免れたのです
氏直が生きていれば、伯耆が与えられる可能性があったみたい。伊勢氏の本拠地みたいだから。
包囲の仕方が当時の戦国時代のオールスターだもんね、もう無理すぎる。地元が小田原だから、この場所にあの名将がいたのかなと考えると凄いことだと思う
小田原城の包囲すごすぎるw完全に終盤の信長の野望w
数と練度の暴力ですねw分かります!
戦国武将のオールスターで包囲だもんな〜
ついさっきに明智で北条と戦ってたわ
包囲軍に参加した方が楽だが、武勲はあまり期待できない。どっちが得だろうな。
秀吉の戦国時代オールスターによる包囲網、後北条の初代伊勢宗瑞が生きていればどう突破して秀吉を討ち取り、大坂城を落としたか気になる。
ここまでされんと降服しない北条、どのみち秀吉が九州平定後は北条は難癖つけて滅亡させていたと思う、最低国替えは必然だろうな、絶対に拒否、そして滅亡、と、
秀吉が本陣を置いた早雲寺には、早雲から氏直までの五代が葬られています。少なくとも秀吉が陣を置いたタイミングでは、早雲、氏綱、氏康は葬られていたと思われます。他の寺社ではなく、その早雲寺にわざわざ本陣を置いたということは、籠城などせず出て来いという挑発の意味もあったのでしょうね。ちなみに、五代全員のお墓は非常に質素なものですが、あの大乱世を駆け抜けた方々が眠っていると考えると、墓前では背筋が伸びる思いがします
pm88j 秀吉に早雲寺が燃やされていなかったら、、、結構な大きなお寺として残して欲しかったなぁ
@@omurice2598 大大名の菩提寺ですから、かなり広かったんでしょうね。徳川家の菩提寺である増上寺くらいはあったのか。。。
早雲、氏綱、氏康のお墓は秀吉が早雲寺を焼き払ったことで場所わからなくなったんですよね。そして後世に子孫が今の形で再度作り直しました。
@@otaru6042 燃やされてしまって、しかも燃やした人間の天下がしばらくでも続けばそうするしかなくなりますもんね。ただそれでも、今のお墓のところには寂びの極致とも言える雰囲気があるんですよ。早雲、氏綱、氏康お三方の霊はそのまま移ってきたのかななんて感じています。確か箱根湯本の駅からバスが出てましたので、もし可能でしたら一度お越し頂く価値はあるかと思います。
数年かけて、全ての支城を回りました。よくできた作戦だと思えました。
全ての支城を回る事もすごいです。
@@gionsyouji5831 さま、百名城のついでです。秀吉の戦略の恐ろしさが、見えました。
@@黒田松寿丸 お!百名城制覇したのですか?私は残り37城もあります。
@@コウダイ-r1v さま、息子の成したことで、私はついでスタンプです。私は、まだ同じくらいです。
前田、上杉、真田の連合軍ってめっちゃロマンある笑
攻められた方の八王子城はたまったもんじゃなかった。駐車場も整備されて観光地になっているので、機会が有れば行って見てください。「決戦。八王子城。」700円プラス税。
八王子夜戦は有名だな。小田原が最後の決死として意地を張ってたから八王子の降伏は見せしめがしたかったのも合って秀吉には許されなくて朝まで続いた挙げ句の果てに八王子城は死体の山になった話しは有名だな。
めっちゃ関係ないですが、スピッツいいですよね!
名胡桃城を攻められ秀吉、大喜びだっただろうな
北条氏を攻める口実ができた
しかし、後北条氏は滅亡せず結局は一年後許され、河内と関東とで1万石与えられ豊臣大名に復帰したが1591年に天然痘で病死。そして、領地は子孫に与えられのちに狭山藩藩主となる らしいです。
戦国時代の勢力図や戦法が分かって勉強になる
とてもとてもとても勉強になります♪
先鋒・徳川家康のパワーワード
秀吉、最大のミスとしか思えん!!
家康「殿下!わい同盟結んでて仲ええから降伏勧めてくるわ」秀吉「よっしゃ、なら先んじて頼むわ」家康「領土割譲と氏康、氏直は処遇はよう分からん、戦うなら協力するで?」氏康「ほんまか!」氏直「わい死んでもええ、降伏や」氏康、家康「え?」氏康「ダメや!戦うで!」家康「それでええ」家康「説得したけど言うことききまへん」秀吉「関東狩りやな!」これやで
氏政「・・・・」
百姓の意地 vs 名門 & 大軍 vs 忍城 見応えある一戦ですね🎵
本城の籠城戦って、多数で包囲している方が補給が滞って押し切らない場合が多いが秀吉は違った。
忍城強いな
兵糧攻めで良かったのにね
忍城も強いが三成が間抜けすぎたのも一因だよね。
間抜けではなく、無理に水攻めを命じた秀吉に責任がある。
忍城って「のぼうの城」の城だっけ、こんだけの連中に攻められて、小田原城よりもよくぞ持ったもんだな……
忍城は三成が小田原の北条氏に取っても被害の少ない降伏を促したくての戦だけど…水攻めをしても堤防の破壊などをして決死の抵抗をした北条氏の士気の高さのせいで降伏は失敗して三成の本隊が苦戦したのを家康に救援された挙げ句、三成の失態を家康に弁明を測られた事を豊臣の天下の崩壊の1つに結び付けられてしまう悲しみよ…
名胡桃城址は関越道・月夜野ICから近い
家康に梯子を外されたのも大きい。小牧長久手の時やその後の秀吉の襲来に際しては北条に依存して低姿勢だったのに、劣勢を感じると秀吉と勝手に和睦しておいて、北条にすぐに秀吉に降りなさい、それが嫌なら氏直に嫁いだ娘を返して欲しいとか無理難題を押し付けられたり、家康の自分勝手な都合に振り回された感が強い。小田原合戦の際に家康による裏切りを期待した北条の甘さも問題だが、家康に一杯食わされた思いが強いと思う。
家康は秀吉と正面衝突したら負けると分かっててずっと避けてたと思うよ。小牧長久手だって秀吉と信雄の対戦に援軍として駆け付けた体裁だったし。実際所領が攻略されて信雄が降伏したら撤退してる。既に秀吉の圧力に屈した後じゃ最早北条と命運共にして戦う気は元々無いでしょ。
さすがに言いがかりやな徳川に徹底抗戦してほしかったら小牧の戦いで援軍送っただろうし状況判断する時間も十分にあったのに家康や伊逹はなんだかんだで北条に味方してくれるだろうと楽観視していた北条の見通しの甘さはどう考えても戦国大名失格
@@ブリキカイザー ご存知かと思いますが、小牧長久手と同時進行で関東では、北条と佐竹、結城、宇都宮の北関東連合軍との沼尻の合戦があったため援軍が送れなかったのが実情です。勿論秀吉は佐竹など北関東連合軍を支援して北条を牽制してました。援軍はなかったとはいえ家康は東方に強大な勢力を誇る北条がいたので、安心して対秀吉戦を行えたのです‼家康はこの後秀吉と和睦を結びつつも、北条氏にはいつ秀吉と破談になるかわからないので、これまで同様に力を貸して頂きたいと低姿勢に懇願してます。要するに二股をかけたのです。そして、秀吉が四国、九州と平定し関白になった頃には、家康は自分が関東の取次になり北条にも上から目線の口出しをして、まるで今までの同盟はなんだったのか?というほどに対応がぞんざいになっていきます。確かに時代に対応できなかった北条は甘いですが、あれだけ北条に依存していた家康が、秀吉が強大になると梯子を外すように北条に冷淡になっていきます。戦国の世を生き抜くためとはいえ、家康のしたたかな外交戦略に梯子を外された北条の悲運を感じてしまいます。
@@pianochandaisuki 返信どうも、そもそも当時の豊臣に対して徳川が仮に北条と共に秀吉に対抗した所で両家ともまとめて滅びるだけの差があるのだから豊臣との敵対をやめて北条にも臣従するように説得し続けた家康は北条に対して十分義理を果たしたと思いますよ?そもそも北条が生き残るには家康が北条に味方することではなくその忠告を聞いて豊臣に臣従することの一択なのにこの時期の北条の情報収集力と状況判断力の低さと楽観視は戦国大名としては致命的過ぎると思いますね家康からしても当時の北条は「なんで今の豊臣の力が分からんのだ?このままでは親類の徳川家まで連座で処罰されるかもしれないじゃないか」と気が気ではなかったと思いますしどちらかと言うと当時の家康の方が北条の楽観ぶりに振り回されたイメージがありますね逸話ではありますが家康が時季外れの果物を珍しい進物として北条に送ったら北条は「橙がそんなに珍しいのか?だったらこちらから大量に送ってやろう」と大量の橙を送り返された家康は「よく見ればこれが橙ではないことは分かるだろうににべもないことをする、こんなことでは北条も先は無いな」と北条の状況判断の低さに呆れた逸話があるくらいですから
@@ブリキカイザー まあ橙の話も汁かけ飯同様に創作の類だと自分は思ってます。北条は信長に臣従していた時代があるように決して中央政権に疎いということはなかったと思います。しかし、信長に臣従したのに、ぞんざいに扱われてしまいプライドを傷つけられたトラウマが秀吉の時に判断を誤らせた原因かと思います。それと北条は独自の非常に百姓に優しい年貢システムを採用していたため、秀吉に太閤検地をされることで、せっかくの良政が崩されてしまう不安があったのも大きいと思います。そして最も大きい原因が北条氏が大きくなりすぎたということです。秀吉は氏政か氏直が上洛したら領地を安堵すると言いましたが、側近の石田三成などは開戦して北条氏を潰しておかないと将来家康と北条が豊臣政権の癌になると考えてました。そして小田原合戦につながる、名胡桃城事件も、三成が真田と図って罠を仕掛け、まんまと北条がそれに嵌まったという話もあるくらいです。要するにあのまま氏政か氏直が上洛してもいずれ難癖をつけられて滅ぼされていたと思われるのです。織田信雄が改易されたようにそれを北条氏もわかっていたので、決戦しかないと思ったのでしょう。秀吉は特にこの後、唐入りを考えていたので、なおさら北条のような大勢力の温存は邪魔であったと思います。北条としては領地削減覚悟で臣従するという手もあったと思いますが、難しかったですね。そして北条は家康を純粋に最期まで味方と信じていた甘い期待があったのはおっしゃる通り致命的な見通しの楽観だったと思います。戦国を生き抜くのは難しいです。長々とすみません。
詳しいですね。情報元、気になります。
北条がこの時代1番好きな大名だったからこの特集は嬉しいけど悲しい
私も後北条が一番好きです所詮秀吉は百姓上がり。氏政氏照を切腹させといて小田原の市街地に葬るなんてだめ!仮にも240万石の大大名なのだから一つお寺を作って葬ることくらいしなくては侍ぢやない所詮百姓。
最近の研究では秀吉は商人若しくは武士の家柄だったという説があるらしいですよ
百姓かどうかは定かではないがどちらにせよ信憑性のある文書で秀吉は貧乏な身の上からの出身であったとの記述があるらしいから貧乏ではあったと思うけどね
侍でそんなことするのは殆どおらんだろ。お前の先祖は百姓だろ。この百性上がりが知ったかするな。
小田原城包囲で思ったこと俺「完全に信長包囲網じゃん」
島津長宗我部と比べられても、あの人達最初から敵意あったからなあ…。北条は交渉を引き伸ばしたり、してた途中に城を奪取したのもあって信用できないと判断したのかなと思いました後、伊勢早雲公ならこうなる前にさっさと上洛してますよ状況判断早いですから
チャンネル登録しました。
朝鮮出兵で釜山やソウルの城が半日で落とされてたのを見るにつけ朝鮮出兵以上の人数で攻められたのに数ヶ月耐えた北条家と小田原城の凄さを再認識してしまう
明・朝鮮側は鉄砲を持っていなかったからね。また防衛施設の仕組みも違ったろう。一番違うのは、日本軍なんて海なんて越えてわざわざくるわけないだろ、と思い込んでいたので、全く警戒していなかった。
北条の家紋がゼルダの紋章みたいで草
6:32 徳川、織田、豊臣の連合軍とかめっちゃロマンあるな
浅井朝倉も武田の騎馬隊も勝てなかったよね
織田(当主がアホな上、主な武将は抜け出した残りカス)。
北条が大人しく秀吉に臣従して関東を安堵されていたら家康の天下は無かっただろうに…
それだと豊臣の天下の終焉も早まっただろうがね
間違いなく、江戸に幕府は開かれてないな。東京の繁栄も今ほどではなかったろうし。
そんなに北条は力があったのか
北条を降した時、秀吉は一罰百戒を兼ね見せしめのために一族郎党皆殺しにするつもりでした。しかし、前田利家の説得に応じて取り止めました。その後、北条家は利家の監督下に入り徳川を牽制する事になりました。秀吉の死後海道一の弓取りである家康が五大老筆頭になったのに直ぐ、豊臣を滅ぼすことが出来なかった最大の理由に、徳川包囲網の監督を利家が率先してやっていたからです。先ず豊臣のトップの前田家を取り込まなければ身動き出来ない状態でした。
徳川は勢力拡大が出来ず、頭打ちだったでしょうね。
名胡桃城の件は真田昌幸の仕向けた謀略でしょう。北条が消える事で領土が回復される。沼田は真田にとっては聖地だからね。
秀吉というか石田三成あたりも噛んでるでしょうね(笑)北条のような大勢力はどうしても滅ぼしたいですから。討伐の大義名分うぃ探していたと思います。
長野業正との約束ですね。
秀吉がガチで小田原城を攻めていたらどうなっていたのだろう。
秀吉は農民出身なので死者が多く出る力攻めはあまり好みませんでした小牧長久手の戦いで中入をしようとして敗走した秀次を叱責した例もあります
徳川家康、織田信雄は総構に攻撃しましたが、70mにもなる堀に全く歯が立たず、1000人以上の死者を出したそうです。強攻は全軍で攻撃しても厳しいと思います。
秀吉は小田原攻めで豊臣の力を見せしめにしたかったのがあるから本気ではあるけど、諸公のやる気は皆無よ。「こんな戦をしなくても北条を降せば平和な世の中に出来たのに…」と言う前田利家を始めとする諸公や自身の天下への盤石な準備の下ごしらえをしたい家康…決して士気の高い戦では無かったから北条に押される戦も合ったりで逆に豊臣の天下の陰りを作ってしまったしな。
後の大阪冬の陣で徳川軍は大砲を駆使して和平を結んでいるが、秀吉を本気にさせたら、大砲で陸からも海からも撃ち込んで、北条の内部の士気を低下させて、降伏させていただろう。ハリボテのすぐ崩れる城が目の前に出来て、士気を落とした連中だしな。勝ち目なんてもうない、と理解していたはずだ。
いっそ、北条が徹底抗戦して2年持ちこたえたら…
この狭い日本で20万とか動員できる秀吉は鬼やな東北の小大名達は従属して正解やわ
従属してませんよ。この後に奥州仕置が行われた。
9:49末 期 ベ ル リ ン
わかる
バトルオブブリテンで勝っていれば
うちの先祖は北条氏の御家人だったらしいです。この戦に破れて、現在のさいたま市緑区に当時の名字を捨てて移り住みました。
嘘付いてんじゃねーよ!水呑百姓がぁ〜!
秀吉はなんで北条親子を上洛させようとしてたのですか??教えてください🙇♂️あと、なぜ氏政は先延ばしにしてたのですか??嫌だったんですよね
上洛して臣下の礼を取れば滅ぼされることもなかったでしょう秀吉は基本的には敵を攻め滅ぼすのではなく、臣下の礼を取れば自分の家臣にして利用するタイプです毛利、長宗我部、徳川、上杉、島津などは秀吉と戦っていた者ですが臣下になっています北条の上洛が遅れたのは夜郎自大、田舎大名だったからでしょう織田・徳川連合軍は小牧・長久手で一時的な勝利は収めたものの(他の戦線では敗北ばかり)伊賀、伊勢を攻略され家康は秀康を人質として差し出したのですが、なかなか上洛して臣下の礼を取りませんでした秀吉は天正十四年に傘下の大名に東国出馬(徳川・北条討伐)の直書を発し、上杉に信濃に出陣するように指示した書状も残っていますが、おそれをなした家康は上洛し家臣となりました(東国出馬中止)。北条と同盟していた家康でさえ秀吉の威勢に服するしかなかったのに、北条はバカしかいなかったのでしょう。
事実上天下統一の北条征伐は最後の出世争いで各大名は遅参しないよう秀吉の北条征伐の御触れが出たとき急いで戦支度をしただろうね。
その後の北條氏は北條残党狩りされ東北方面に逃げて、出家して本山慈恩寺の僧侶になったと聞いています!
氏康の代が一番強かった説
そんなことはない。氏政は実力で謙信を関東から追い出し、勢力拡大したんだから。氏康時代には出来なかったこと。
別に、領土の広さという観点だけで強さを測れるわけではないのでは?
@@pianochandaisuki 武田信玄 今川義元 上杉謙信と、やはり氏康時代の方が領土拡張は難しかっただろうに1575年頃になれば、上杉は北陸を西へ戦略し始めた頃だし、氏康時代よりは上杉からの侵略を受けずに済んだだけでは?
@@ツバサゴクウスグルケンセイヤ 事実は氏政に関東での足掛かりを阻まれたので、謙信は北陸に目を向けざるを得なかったのです。謙信の氏政への怒りというか憎しみは凄まじいものでしたが。無論甲相同盟破棄されたのが原因ですが。この辺の話は平山優氏や黒田基樹氏の研究にもあるので著者を読まれてみれば分かります。勿論武田勝頼、北条氏政同盟が効いていたのはあります。流石の謙信も信長とある時期まで同盟してこれに対抗してましたから。
氏康が最強というのは確かでしょう氏政は領土を一時は最大版図に広げたのは確かですが、最終的には領土ゼロ、滅亡させたのですから最強どころではなく最弱、凡将です。天正十四年に景勝、家康が上洛して秀吉に臣従しているのに、関東で独立できるという甘い考え?井の中の蛙、夜郎自大というべきか?頭が良くないのは確かだろう。
長篠の合戦もそうでしたが、とてもわかりやすいです!氏政がダメだったんですねえ〜
戦になれば最初から勝機なんて無いのはわかってたはず、最初から素直にしたがっておけば存続はさせてもらえただろうに。
その後の秀吉の大陸進出を考えると、仮に恭順して残された場合の北条氏はとんでもない軍役を課されそうだな
@@ゴンベエ-c1l でも領地は減らされてただろうからそんなに軍勢出せって言われなかったと思う
確かに存続は大事ですね、滅んだら全て終わり。いろいろ命じられても、家康がその時まで待っていて天下を取るんですからね〜
徹底抗戦した長宗我部や島津が元々の所領の土佐や薩摩・大隅は安堵されてたし、配下の手前何もしないで降伏ってのもメンツ立たないし戦になって負けても滅亡するとまでは思っていなかったんじゃないかと。秀吉は信長の配下時代から相手が滅亡するまで殲滅するってやり方は殆どとらなかったし(殲滅されたのは明智や内部抗争した柴田・織田信孝くらいだろう。佐々だって降伏後取り立てられてるし)。
殆ど全方向(全大名)が秀吉側だったのに、良く戦おうと思ったな。
伊達か徳川来ると思ってた説
@@わたよう-s8g 説と言うか実際そうだったらしい…北条と徳川は親戚だし、伊達も反豊臣で北条と一致してたから北条がこの2人を頼ろうとしてたのは間違いない
@@もふもふ-x4p 徳川とは天正壬午の乱の後に婚姻したんだっけ?
@@わたよう-s8g 家康の娘が氏直に嫁いでいますねそのお陰で氏直は切腹を免れましたが
オリンピックまでに登録者2020- 宣伝コメント見苦しからやめような
豊臣家に逆らうとこうなるぞ
小田原城以外の見捨てられ方がひどいと感じたのは私だけでしょうか・・・・。武田の動画と比べてすごくあっさり感がありました。
こめておく兵力がなかったですからね。
忍城は、落城しなかったんよねー。のぼうの城の小説になった
攻め方の石田三成の失敗でね。
映画化もされたね。なかなか面白かった。
Kei そそ。敵も味方もあの者に魅入られておる
kero997s 史料にはないので、推測だけど。三成は、もしかすると攻め滅ぼすつもりが無かったのかも。戦下手という自らの評判も利用して。。。。
現地埼玉県行田市は昭和の雰囲気が濃厚に残り、さきたま古墳群もありおすすめです。GWの5/4には火祭りもあります。
北条氏の時勢の読めなさは異常もう絶対勝てない状態なのに
当時は道路事情も悪く、人の往来も頻繁でなく、日本各地で話し言葉が違った。情報収集は相当困難を極めたと思われる
所詮、関東の山猿。井戸の中の蛙に近い。セコいやり方で関東を維持出来ればそれでよかった。一種の日本の中の独立国家を目指していたのだろうが、呑気過ぎてこの結末。
氏政自身も臣従の姿勢見せてたんだけどねー…
初代伊勢宗瑞だったらあんなバカな籠城などせず秀吉軍と決戦を挑むか、勝てないと分かった時点で降伏していたと思う。
小田原攻めは秀吉の天下統一の総仕上げ。天下人の力を見せつける謂わば「横綱相撲」だから無理せず消耗せず侮らせずだよ。
戦国大名と言えば家督争いだけど、北条家は五代も続いてそういう話あんま聞かんね
当主が皆長生きして、後継者に家督をゆずったあとでもある程度実権をもつというプロセスを繰り返せたことが大きいのではないかな。
北条幻庵の存在も大きかったと思う
家が平和っていいね
伊勢宗瑞公の教えを子孫が守り通したからでしょう。
戦国時代のオールスター感。朝鮮出兵もそうだけど。
小田原攻めの方が全国の諸大名を集めてるからオールスターだな。
数は力の具体例🔍
違います。正しくは、北伊勢尾張30万石から、この戦いの論功で三河遠江55万石に加増転封です。それを蹴ったのは事実ですけどね。
@@がらす-e5d 尾張一国だけでも60万石はありますよ、北条攻めの時の信雄の率いた兵力から見ても30万石はまずないです伊勢も本来は小牧の戦い後に返還される約束でしたが秀吉はこれを反故しているので北伊勢だけになりましたがそれでもこの時の信雄は北条攻めの動員兵力から見てかなり低く見積もっても70万石以上はあったはず
@@ブリキカイザー あれ? そうでしたっけ?多分こちらが間違えてるような気がします。 すいませんね。
いまさらですが家康→旧北条領、信雄→旧家康領へのところてん方式の転付であり、畿内から遠ざけるのが目的でしょう信雄の場合は、小牧長久手の織田、徳川連合軍の敗戦により伊賀と伊勢半国を割譲していたので100万石には足りないが、旧家康領は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五か国(約150万石)なので、家康と同じく大幅な加増となる。それを受けた家康(家中では反対が多かった)は残り、指導力を発揮できなかった信雄は消えたというだけの話だ。
銘家あるが故に時勢の判断を誤ったのだろうね。対照的にいえば、前田家は伝統が無いだけに、時勢の判断を最優先して江戸幕末までNo.2でいられた。
前田家は覇権争いはしなかったからね。
後々豊臣家にとっては後北条は滅亡させなかった方がよかったね。家康があそこまで力つけずに済んだし😎
一番悲惨だったのが八王子城の戦い。
朝には死体の山になった八王子…
降伏さえ許されなかったからなぁ…
@@tikokun そうだねー。北条の城を攻め落とす(降伏して開城ではない)。それが目的。スケープゴートにされたね。八王子城にも忍城にも行った事が有るけど、山城の八王子城は大軍に攻められたら防ぎきれないね。
北条5代で大河ドラマやって欲しいなぁ
Coyote7ZPM やらない理由が「北条家はもうやったから(時宗のことらしい)」という説があるみたいだけどマジかもしれないな。
パンダーXパンダー 全く関係ない家なのに。…
大賛成します‼️
@織田大和守敏定 後北条氏の事やろ
22万の糞尿処理大変だろうね
この様な付け城戦法の時には、陣地内の臨時のトイレの場所を決めて穴を掘り、用を足したら腐葉土を含んだ土を被せる事で匂いを抑えていたそうです。通常の野戦の場合、立ち小便と野糞をする暇がないので食べ物から便秘になり易い物にして大便の回数を減らし、戦闘中ならそのまま垂れ流していたそうです。足元の脚絆の所にコロコロのウンコが溜まるようになっていました。
@@浩原田-i2f こういうガチ勢の解説を読みたくてコメント欄探索がやめられないんだよなあ。
早雲、氏綱、氏康があの世で悲しんでるよ…
なんで?
早雲 氏綱 氏康 氏政 氏直
@@菅野智之CBD 室町時代終盤に今川家に客将として東駿の領土を頂き苦労に苦労を重ねて3代にわたって関東一帯を領したのにそれがあっという間になくなったらそりゃ亡き先祖も悲しむだろうよ
氏康は多分やはりなと思ったのでは(笑)
玄庵が生きていれば...
なんでそんなに上洛をしぶってたの?
秀吉は浮浪者出身だし、京都の朝廷の影響も理解していなかったから。下克上の一家であるから、名誉、権威を全く考えなかったので時代遅れそのもの。名誉も権威も知らないから、弱者から領土を奪う事しか考えてない無法者集団。弱くなったらすぐ同盟を破り侵攻する一家。そんな無法者集団が「俺達を安心させる為におめーのかーちゃんと身内の娘を人質に寄越せや、そしたら上洛してやるよ」という態度。ちなみに関白は今の大臣の地位に近い。それ以上かもしれない。第二次大戦のソビエトみたいな感がある。
北条の家紋、トライフォースみたいでかっこいい
元は鎌倉幕府の北条得宗家からパクったもんだけどねw
得宗北条家は三つ鱗、戦国大名北条氏は北条鱗というらしいです。(知ってるかもしれないけど)
「伊勢」だといかにも西国っぽいし、当時は「関東に侵略してきた外敵」みたいな扱いだったから、昔の関東の支配者の名を借りた。奥さんが北条の血筋を引いてるという理由で。
行動方針が終始一貫しないのは、やはり氏政さんの優柔不断のせいですかね。名胡桃城の件は、映画や小説だとよく秀吉の陰謀扱いされますが、少なくとも当初は秀吉に北条家を潰す積極的な理由はなかったはずなんだけど、実際のところはどうなのか。
家康と北条を切り離したかった秀吉としては思う壺だったはずです。
最上と敵対していた伊達や、秀吉に楯突いた親戚でもある徳川が味方になってくれると思っていたのでしょうね。籠城して両者が起つのを待っていたのでしょう。また、籠城して秀吉の大軍を引き付けて時間稼ぎを為ていれば、九州では島津が起ち、東北では伊達が最上にしかけ、同時多発的に、軍事行動を起こし秀吉の手に余る事態になれば、間違いなく徳川が裏切ると確信していたのでしょう。様は外交手腕で、北条が秀吉に負けたのです。秀吉にとって兵を動かすのは最終段階だったでしょう。秀吉の凄みは北条が籠城している間に、周囲の領民達を全て懐柔して見せた事です。二十万の多国籍軍に掠奪暴行を許さなかったその統率力は凄まじいと思います。北条方の国人領主達も自分達の領民が離叛すれば、城だけ残っても意味が無い事に気付いて次々と降伏しました。
名胡桃なんてどう転ぼうが秀吉はどうでも良かったが最高権力者としての裁定にケチをつけて武力行使する奴は日本に新たな秩序を打ち建てる支配者として裁かなければいけないって立場でしょう。戦国時代のマインドから抜け出られなかった北条家は所領の奪い合いこそが戦国大名としてのレーゾンデートルだったが、戦国時代に秩序をもたらすものが現れたっていうパラダイムシフトについていけなかったってことじゃないかと。
忍城って映画のぼうの城?
小田原攻略後に家康に蝦夷一国に転封と言ったらどうなっていたかなw
私達一族は小田原城主の、北条につかえた一族です。北条は、豊臣秀吉の命によって徳川家康によって討伐された。私のご先祖様は、、豊臣秀吉によって滅亡したのです 。最近、伊達政宗の子孫の方に、お会いしました。
こう言う戦史や戦記って、話をどこから始めるかが結構重要だと思うんだけど、このチャンネルはそこのセンスがず抜けてると思う。あと、氏政は実は名君とする説もあるけれど、後詰の全く期待出来ない本城への包囲戦を許した時点で、名将ではないと思う。
名君と名将は、必ずしも一致するとは限らない。農民の年貢負担を下げるなど、内政家や北条家を今までのような戦国時代であれば、存続できただろうが、豊臣秀吉という天下人を甘く見たのは失策ですね。
@@ジュガシヴィリ 「今までのような戦国時代」だったら、いつかは他国に侵略されて領民撫で斬りもあり得ますよ。戦国だからこそ、明君と名将が同時に成り立たなければ危ういと思います。平時の江戸時代は確かに名将である必要はありませんが。
@@hymn13 江戸時代であれば、名君だけで済んだ分、氏政は名君として一生を終えられたでしょうに。乱世の場合はやはり、奸雄でなければ乗り越えてはいけないということでしょうね。
滅亡しても救いは目立った裏切り者が松田憲秀だけだったことです武田氏の最期が悲惨だったのに対し北条氏は氏直、氏邦、氏規が助命されるなどまだましな方ではなかったか
でも島津、長宗我部とかと比べるとかなり厳しい処罰に見える。それに武田は信長の時代だから訳が違うかも。
北条家は江戸時代通じて大名として存続してる。→狭山藩
高野山が必ず出てくる。大名が来るたび、一体いくらお金をもらっていた?
氏政は有能だったけど、東武者の独立志向といつも小田原本城での籠城でやり過ごしてきたから、出城がやられても降伏しなかった。また、直接信長や秀吉の強さを見てなかったから事情を見誤った。そのせいで評価の低い武将ですよね。なんか可哀想by神奈川県民
信長には一時臣従しましたがね。そのときにぞんざいに扱われたトラウマが北条にはあったのでしょう。秀吉に容易に従わなかったのは中央政権への不信感からだと思います。
それもあるだろうし、農民の秀吉に従いたくないというプライドもあったろうね。
織田家時代の宿敵だった毛利はもちろん長宗我部も島津も織田信雄も徳川も抗戦後降伏して元々の所領は安堵されてるし、秀吉を舐めてたんじゃないか。意地で一戦は交える。うまくいけば百戦錬磨の上杉武田も撃退した小田原城で持ちこたえられるし、もし敗戦しても相模、伊豆、武蔵くらいは保持できるんじゃないかって。
思ったほど一方的ではなかったらしい。小田原そのものは落城の気配はなかった。以外と手こずったらしい。
滝川一益と同格だった頃とは違うのが理解できなかったのだろうか?
しっかし、250万石ってすごいな。
同盟 関八州は手にいたからな
検知したらもっと増えたんだからエグいよね
検知したら…それもせず、なあなあで慣らしていた大名としては当然の結末であった。
@@izawaakechi 上杉や毛利ですら、120万石ですからね。
なにげに真田昌幸を破った猪俣邦憲すごいな
namuamiodabutsu 北条家を滅亡させるための真田方の策略じゃないかな
ツィデルマン電報事件や真珠湾攻撃並みの悪手だよな。名胡桃城の攻撃は。これで北条と戦争する口実が豊臣側はできた訳で
話がゆっくり過ぎて眠くなります…
トモゾー 2倍速にしてみww
名胡桃城事件って創作なのかな...
豊臣の作戦勝ち、北条は過信し過ぎた。
こうして見ると、忍城は割とどうでもいい位置にあるのがわかるな。あの辺は平野だからいくらでも脇を抜けて移動できるわけだし。
後北条はロマンあるまた民に対し後北条は善政をしてた
小山氏も今時滅亡したんだよなぁ-!
秀吉と北条の板挟みになった家康。一番辛い立場だよな。
でも結果的にこれが天下を取るきっかけになりましたね。
北条氏は関東進攻で勝ちすぎていたのでは?河越合戦等での逆転大勝利は智勇随一のプライドを生み、秀吉にも対抗しうると感じてもおかしくない!
1589年12月13日に出陣布告か……なお、その425年後の12月13ニチィは…おっと、誰か来たようだ。
四公六民の北条から七公三民の秀吉時代に…小田原の民草にとって地獄の日々の始まりだが戦国の世ではやむなしか…翻って自分たちの指導者を自由に選べる現代なのに重税を課す政党に喜んで投票する愚かさよ!
四公六民がまず嘘だけどね。周辺諸国と比べても変わらない
@@正面の百太郎 そんな発表ありましたっけ?
@@多羅尾伴内-g1c そもそも四公六民ってのがない北条が採用していたのは石高制じゃなく貫高制だからその時点で嘘。ネットでの出所不明なデマ話で計算して他と税は変わらない
家康の領地になったのに、勝手に秀吉領の税率を適用するのは草だな。
小田原は神奈川県の中でも独自性が強い、何故なら鎌倉幕府や徳川の影響より、北条氏の街だからだ、横浜?、田舎もんだろ、
信玄も謙信も落とせなかった難攻不落の名城信玄は牽制という意味があって本気で落とそうとは考えてはいなかったみたい秀吉はこの城を軍事力で落としたのではない経済力・物流の力で落とした
北条と徳川が好き、豊臣と大阪はきらい。
北条を攻めるにこれだけ20万以上の兵を出さないと勝つ自信なかった秀吉に恐れを抱いた北条の力もすごいということを思い知ったw
秀吉が伊勢宗瑞の幻影に怯えていた証拠でしょうね。恐らく北条の当主が氏政ではなく伊勢宗瑞だったら秀吉は戦死、秀吉軍は全滅し大坂城は火の海になっただろう。
20万動員したのは天下人の威信や逆らった時の見せしめとしてでしょ。秀吉が恐れていたかは分からない。恐らく兵力差や今までの経験から恐れてはいないと思うけど。
@@杉田竜馬 氏康でも早雲でも氏綱でも20万の大軍がやってくればどう足掻いても勝てません、さらに言うと20万の大軍を全滅させても秀吉はさらに20万以上編成出来る力を持ってました、小牧・長久手の戦いまでの秀吉ならまだしもこの時の秀吉に勝てる大名は居ません、
@@亜-t3r 秀吉が北条に討ち取られていたらどうなったか。ネルソン提督を失って尚戦い、勝利したトラファルガーの戦いでのイギリス軍や30年戦争のリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフを失いながらも最後まで戦い勝利を掴んだスウェーデン軍のように戦うことがこの時の豊臣軍にできたのか?北条が勝てるとしたらそこにかかっていると思うのだが。
@@杉田竜馬 どうやって秀吉の本陣に達するんですか?それに軍師官兵衛が居ますから本陣が突破されそうなら退却しますよ、
北条氏は、時代の流れを読んでなかったんだと思う。
忍城成田流石だなよく持ち堪えたよ
個人意見🤔日本戰國最堅固小田原城
Man Wong そうですね〜
唯一の勝ちらしい勝ち戦、忍城攻城戦、あの北条氏直の無血兜で開城したって本当だろうか?
徳川軍を滅ぼすべきやったかもな…この時の秀吉…。でも、過去の秀吉は家康と和解したから、しゃーないかな…。他にもいろいろな説もあるし…。北条氏も、数々の戦国の歴史を持つけど…、豊臣秀吉や徳川家康を攻めようと思えば出来るのに…そう言う野心が北条氏にあればね…
元々の織田家時代の盟友のよしみもあったし、降伏した大大名はことごとく所領削ってるのに家康にだけは甘々なんだよなぁ。三河から関東に転封とはいえ所領増えてるし。小牧長久手だって実際は秀吉対信雄で家康はあくまで援軍に過ぎないから後世で言う家康の勝ちどころか信雄降伏で家康の戦略的敗北だし、腹心の蜂須賀は家康にはもっと厳しくすべきって死の直前まで反対してた。五大老筆頭の政務担当まで引き立ててる(同じく筆頭の前田は秀頼の後見人でしかなく豊臣政権の運営は家康に任せてる)し、秀吉は家康には絶対的な信頼置いてたと思う。
家康は秀吉に意図を読ませない慎重な動きをしていくんだよね。タヌキを騙したつもりが騙されていくんだよね。
@@ねこのしっぽ-r9p 敵になる伊達家もそう。米沢に置けばよいのに、平野部に移封する。逆に、味方となる上杉家を越後から、米沢、会津に移封も仇になる。移封は尽く失敗。他に、徳川家康を親族にしたのも失敗。朝鮮出兵も失敗、後継者も失敗。いくつもの失敗が豊臣家の滅亡に繋がっているよ。
こんばんは、八王子城🏯ヘ行かれる方は、帰ってきたら、お塩で清めてください、知っていますよ、小田原は、地元ですから
信長には従属する意思を示しながら、秀吉には徹底抗戦するというのがよく分らん
多分農民出身の秀吉に関東の覇者が頭を下げるのは関東五代百年北条氏のプライドとしてできなかったんじゃないかな?
@@わたよう-s8g でも信長の家も元は守護代の家臣筋だから武士身分の中では決して高くないよなぁ。後北条氏の初代早雲の方が織田家より遥かに家格も身分も上だったと思う。同じ武士カテゴリなら頭を下げるのは気にならないんだろうか?
信長は北条に「家臣じゃなくてあくまで大名同士の同盟関係の付き合い」を提案一方の秀吉は「北条を自分の家臣にしよう」としていたからこの違いだと思う
もふもふ 信長も武田滅亡後は北条家に対してはやたら冷たかったので或いは北条家も潰す予定だったのかも
従属したけど信長にぞんざいに扱われたトラウマがあったのでしょう。秀吉に容易に従わなかったのはそれも要因かと。関東の支配は北条に任せてほしいというのが命題ですから。
この戦いは豊臣としては後の愁いをなす戦にしか無い、後に関東は徳川にと、特をした徳川は朝鮮出兵に大規模な出兵はせず、兵力の温存に成功した。天下を別けたおお戦は既に始まっている状況の始まりかも?北条が徳川を経てと言うのも?と歴史は面白い。
この戦いの面白いと言う事の、戦国時代的の歴史が好きな人にとって神秘なる事。実在したていた歴史なら面白い事、室町時代に伊勢の鞍と、天皇家の教育を司る名家の1つが伊勢家、当時実際に鞍を作っていたのが新九郎とか(今の中国地方ので?)、話しは飛ばし、当時の大名、今川氏に嫁ぐのが要が伊勢の血筋の姫、今川家との嫡男が出来るも内乱、危機を知り駿河に身を埋める思いで、と、内乱を収め治安維持の為残り領内の東側に一村を起こし、東側からの敵を防ぎ、伊豆に危機あれば、と?駆け巡り、過ぎて早、と、伊豆何とかがの御所風邪、息子どもは間抜け、ならばと御免打ちまあそんなこって、伊豆を収めても次に小田原の大森氏、新九郎さんの頑張りはここから、関東の優は多い氏、関東の足利何ぞ、都から飛ばされた氏族に振り回せられと?した後に大森氏を打ち破りと。北条早雲と名乗る様にと、皆様ご存じかと、前北条と後北条があり早雲は後北条ですね。豊臣秀吉は天皇家に忠義をとは?秀吉自体がその歴史が分からない人物、信長は戦国武将の跡取りとして、時代に生きたから、家康は幼少期に今川家で、と、家康に取っては···········。豊臣秀吉に取っては············(·長くなってしまいました)
伊達政宗が北条側に参陣していたらどうなっていたたんだろう...
家康まで来たらワンチャンあったかもね。多分氏直も秀吉の力を見誤ったのも有るけど、伊達徳川北条の3人がこちらに味方してその上で何人か裏切りが出るとでも考えてたんだろうな。
合戦では無く、小田原攻め!
本当は豊臣の世を守りたいなら北条生かしておいた方が良かったのでは?北条を滅ぼすのに辺り、家康に武功を与えて、関東を与えてしまったのも失敗。五大老なら、【西国の宇毛利・九州の島津・越後の上杉・関東の北条・徳川】で良かったのでは。それと、領地を3郡程取り上げて全国各地に豊臣恩顧の大名を配置すれば、謀反も防げる。それと、真田に役職をつけ?
実家が忍城近くで現在関西住み。帰省の時は北条征伐気分で東名ルートではなくちょっと遠回りで長野経由で上信越道ルート。結構楽しかった。
九州征伐も是非、解説して欲しいです。とにかくわかりやすい動画で感謝感激です。しかも、城攻めの細かい詳細まで教えていただき、大変ありがたいです。
この戦のあとの信雄への秀吉の理不尽さはやばい、北条征伐で大活躍したのになぜか尾張伊勢100万石から三河遠江50万石に移れと言われたので当然拒否したらほぼすべての領地を召し上げるという
@@thienbaoguonghungtruonghoa9725 北伊勢30万石から三河遠江55万石に加増転封だった気がする。信雄が拒否して改易になったのは事実だけど。
分かりやすい動画でした。他の方の動画で秀吉と北条氏政の意識のずれが北条氏滅亡の原因という説が提示されていました。確かに小田原包囲時の和平条件で「伊豆・相模・武蔵は北条の領土」という楽観的な主張を北条家はしていたので、こりゃ滅亡するのも当然だと思いました。
分かりやすくて楽しめました!
名古屋で生まれ育ち、今、八王子に居住している。今でも相当距離を感じる。北条は勿体ない事をしたなと思う。上手く振る舞えば五大老以上だろう。
小田原攻めは秀吉が豊臣の力を全国に知らしめて揺るぎ無いモノにするためにわざと北条に対して様々な悪条件で煽りを掛けた事で北条氏が秀吉への宣戦布告をしたのが始まりなんだよな。
きっと、戦う前からの北条氏の降伏は秀吉は端からさせる気は無かったのかも知れない。
結局、不手際で思う程短期間で小田原攻めが出来なくて、秀吉の天下の崩壊のきっかけや関東勢を家康に好きにされてしまう事になるんだよなぁ…
織田信長には服属したのにな…
北条家は家名が残ったとはいえ秀吉に良いようにもてあそばれて可哀想😭
その場合、利根川が東京湾に流れていたな。
確かに北条はアホだ
毛利に、長宗我部、上杉、島津にしろ当初は敵対していたが、臣従すれば許されている
家康も上杉などの諸将に家康討伐の直書が発せられるや、あわてて上洛して臣従し所領は安堵された。
普通に期限内に氏政が上洛していれば、何の問題もなかった。
彼我の戦力差もわからぬ井の中の蛙ということだろう。
九州の統一が目前だった島津(北条よりはるかに強敵)を降伏させたことで豊臣の威勢は天下にとどろいていたので、豊臣の力を知らしめる価値もない。秀吉軍は九州平定で20~27万の兵を動員しているが、北条征伐は島津征伐にくらべたら物見遊山だったろう。
結局戦国末期のキーポイントは真田問題につきる。これから大阪城夏の陣まで豊臣家も徳川家も北条家もみんな真田家の小さな小さなそれは小さな所領の行方にふりまわされる。もちろん真田家自身も自分たちの所領に振り回され親子が袂を分かつ運命に辿って行くことになる。
大大名の北条ともあろうものが沼田の城1つ自力で落とせないのは後々響いてきましたね。徳川の大軍を2度も撃退したのもそうですが、真田昌幸というのは楠木正成と並ぶ殆ど神秘的な名将なんでしょうね。
@@pianochandaisuki 確かに真田昌幸は楠木正成と並べても遜色のない武将だと思う。勝てなくても負けない戦をする…だけど天下を握る器ではないんだよなぁ。
北条滅亡して江戸時代には別の殿様が居たというのに小田原城は永遠に北条の城という不思議。今でも三つ鱗の旗が翻っている。
大阪城が豊臣はたかだか30年。その後、数百年は徳川の城だったのに、永遠に豊臣と言われるが如し。
上田城は真田の城だよね。江戸時代には仙石氏とかいたのにね。逆に、米沢城では伊達氏が忘れ去られた印象で、上杉家の影響が強い。
徳川はあくまで江戸が中心でしたが北条の中心地は小田原ですからね
そういうのもあるかもしれませんね
@@jjjj6075 ほとんど遺品らしい物が残っていない秀吉にとって唯一この世に生きていた(存在した)証のようなものだからでは?
@@jjjj6075 現在残っている石垣等もすべて徳川によって建て直されて、豊臣時代の物は何も残ってはいないが、京都の伏見城然り、立て直してもあえて、桐紋を残したらしい
小田原攻めで、関東の戦国大名としての歴史は終わりますが、氏直と氏規は蟄居という処分にとどまり、江戸時代には河内狭山藩として続き明治維新を迎えています。
(現・大阪狭山市)関東で一大勢力を作った北条氏がこの地で小大名として存続した事は結構地元でも知らない人が多いですよね。
北条氏直は、 徳川家康の娘を 嫁にしているので 切腹が免れたのです
氏直が生きていれば、伯耆が与えられる可能性があったみたい。伊勢氏の本拠地みたいだから。
包囲の仕方が当時の戦国時代のオールスターだもんね、もう無理すぎる。地元が小田原だから、この場所にあの名将がいたのかなと考えると凄いことだと思う
小田原城の包囲すごすぎるw完全に終盤の信長の野望w
数と練度の暴力ですねw
分かります!
戦国武将のオールスターで包囲だもんな〜
ついさっきに明智で北条と戦ってたわ
包囲軍に参加した方が楽だが、武勲はあまり期待できない。どっちが得だろうな。
秀吉の戦国時代オールスターによる包囲網、後北条の初代伊勢宗瑞が生きていればどう突破して秀吉を討ち取り、大坂城を落としたか気になる。
ここまでされんと降服しない
北条、どのみち秀吉が九州平定後は北条は難癖つけて滅亡させていたと思う、最低国替えは
必然だろうな、絶対に拒否、
そして滅亡、と、
秀吉が本陣を置いた早雲寺には、早雲から氏直までの五代が葬られています。
少なくとも秀吉が陣を置いたタイミングでは、早雲、氏綱、氏康は葬られていたと思われます。
他の寺社ではなく、その早雲寺にわざわざ本陣を置いたということは、籠城などせず出て来いという挑発の意味もあったのでしょうね。
ちなみに、五代全員のお墓は非常に質素なものですが、あの大乱世を駆け抜けた方々が眠っていると考えると、墓前では背筋が伸びる思いがします
pm88j 秀吉に早雲寺が燃やされていなかったら、、、結構な大きなお寺として残して欲しかったなぁ
@@omurice2598 大大名の菩提寺ですから、かなり広かったんでしょうね。
徳川家の菩提寺である増上寺くらいはあったのか。。。
早雲、氏綱、氏康のお墓は秀吉が早雲寺を焼き払ったことで場所わからなくなったんですよね。そして後世に子孫が今の形で再度作り直しました。
@@otaru6042 燃やされてしまって、しかも燃やした人間の天下がしばらくでも続けばそうするしかなくなりますもんね。
ただそれでも、今のお墓のところには寂びの極致とも言える雰囲気があるんですよ。
早雲、氏綱、氏康お三方の霊はそのまま移ってきたのかななんて感じています。
確か箱根湯本の駅からバスが出てましたので、もし可能でしたら一度お越し頂く価値はあるかと思います。
数年かけて、全ての支城を回りました。
よくできた作戦だと思えました。
全ての支城を回る事もすごいです。
@@gionsyouji5831 さま、百名城のついでです。
秀吉の戦略の恐ろしさが、見えました。
@@黒田松寿丸
お!百名城制覇したのですか?
私は残り37城もあります。
@@コウダイ-r1v さま、息子の成したことで、私はついでスタンプです。
私は、まだ同じくらいです。
前田、上杉、真田の連合軍ってめっちゃロマンある笑
攻められた方の八王子城はたまったもんじゃなかった。駐車場も整備されて観光地になっているので、機会が有れば行って見てください。「決戦。八王子城。」700円プラス税。
八王子夜戦は有名だな。
小田原が最後の決死として意地を張ってたから八王子の降伏は見せしめがしたかったのも合って秀吉には許されなくて朝まで続いた挙げ句の果てに八王子城は死体の山になった話しは有名だな。
めっちゃ関係ないですが、スピッツいいですよね!
名胡桃城を攻められ
秀吉、大喜びだっただろうな
北条氏を攻める口実ができた
しかし、後北条氏は滅亡せず結局は一年後許され、河内と関東とで1万石与えられ
豊臣大名に復帰したが1591年に天然痘で病死。
そして、領地は子孫に与えられのちに狭山藩藩主となる らしいです。
戦国時代の勢力図や戦法が分かって勉強になる
とてもとてもとても勉強になります♪
先鋒・徳川家康のパワーワード
秀吉、最大のミスとしか思えん!!
家康「殿下!わい同盟結んでて仲ええから降伏勧めてくるわ」
秀吉「よっしゃ、なら先んじて頼むわ」
家康「領土割譲と氏康、氏直は処遇はよう分からん、戦うなら協力するで?」
氏康「ほんまか!」
氏直「わい死んでもええ、降伏や」
氏康、家康「え?」
氏康「ダメや!戦うで!」
家康「それでええ」
家康「説得したけど言うことききまへん」
秀吉「関東狩りやな!」
これやで
氏政「・・・・」
百姓の意地 vs 名門 & 大軍 vs 忍城 見応えある一戦ですね🎵
本城の籠城戦って、多数で包囲している方が補給が滞って押し切らない場合が多いが秀吉は違った。
忍城強いな
兵糧攻めで良かったのにね
忍城も強いが三成が間抜けすぎたのも一因だよね。
間抜けではなく、無理に水攻めを命じた秀吉に責任がある。
忍城って「のぼうの城」の城だっけ、こんだけの連中に攻められて、小田原城よりもよくぞ持ったもんだな……
忍城は三成が小田原の北条氏に取っても被害の少ない降伏を促したくての戦だけど…水攻めをしても堤防の破壊などをして決死の抵抗をした北条氏の士気の高さのせいで降伏は失敗して三成の本隊が苦戦したのを家康に救援された挙げ句、三成の失態を家康に弁明を測られた事を豊臣の天下の崩壊の1つに結び付けられてしまう悲しみよ…
名胡桃城址は関越道・月夜野ICから近い
家康に梯子を外されたのも大きい。小牧長久手の時やその後の秀吉の襲来に際しては北条に依存して低姿勢だったのに、劣勢を感じると秀吉と勝手に和睦しておいて、北条にすぐに秀吉に降りなさい、それが嫌なら氏直に嫁いだ娘を返して欲しいとか無理難題を押し付けられたり、家康の自分勝手な都合に振り回された感が強い。小田原合戦の際に家康による裏切りを期待した北条の甘さも問題だが、家康に一杯食わされた思いが強いと思う。
家康は秀吉と正面衝突したら負けると分かっててずっと避けてたと思うよ。
小牧長久手だって秀吉と信雄の対戦に援軍として駆け付けた体裁だったし。実際所領が攻略されて信雄が降伏したら撤退してる。
既に秀吉の圧力に屈した後じゃ最早北条と命運共にして戦う気は元々無いでしょ。
さすがに言いがかりやな
徳川に徹底抗戦してほしかったら小牧の戦いで援軍送っただろうし状況判断する時間も十分にあったのに家康や伊逹はなんだかんだで北条に味方してくれるだろうと楽観視していた北条の見通しの甘さはどう考えても戦国大名失格
@@ブリキカイザー ご存知かと思いますが、小牧長久手と同時進行で関東では、北条と佐竹、結城、宇都宮の北関東連合軍との沼尻の合戦があったため援軍が送れなかったのが実情です。勿論秀吉は佐竹など北関東連合軍を支援して北条を牽制してました。援軍はなかったとはいえ家康は東方に強大な勢力を誇る北条がいたので、安心して対秀吉戦を行えたのです‼家康はこの後秀吉と和睦を結びつつも、北条氏にはいつ秀吉と破談になるかわからないので、これまで同様に力を貸して頂きたいと低姿勢に懇願してます。要するに二股をかけたのです。そして、秀吉が四国、九州と平定し関白になった頃には、家康は自分が関東の取次になり北条にも上から目線の口出しをして、まるで今までの同盟はなんだったのか?というほどに対応がぞんざいになっていきます。確かに時代に対応できなかった北条は甘いですが、あれだけ北条に依存していた家康が、秀吉が強大になると梯子を外すように北条に冷淡になっていきます。戦国の世を生き抜くためとはいえ、家康のしたたかな外交戦略に梯子を外された北条の悲運を感じてしまいます。
@@pianochandaisuki 返信どうも、そもそも当時の豊臣に対して徳川が仮に北条と共に秀吉に対抗した所で両家ともまとめて滅びるだけの差があるのだから豊臣との敵対をやめて北条にも臣従するように説得し続けた家康は北条に対して十分義理を果たしたと思いますよ?
そもそも北条が生き残るには家康が北条に味方することではなくその忠告を聞いて豊臣に臣従することの一択なのに
この時期の北条の情報収集力と状況判断力の低さと楽観視は戦国大名としては致命的過ぎると思いますね
家康からしても当時の北条は「なんで今の豊臣の力が分からんのだ?このままでは親類の徳川家まで連座で処罰されるかもしれないじゃないか」と気が気ではなかったと思いますしどちらかと言うと当時の家康の方が北条の楽観ぶりに振り回されたイメージがありますね
逸話ではありますが家康が時季外れの果物を珍しい進物として北条に送ったら北条は「橙がそんなに珍しいのか?だったらこちらから大量に送ってやろう」と大量の橙を送り返された家康は「よく見ればこれが橙ではないことは分かるだろうににべもないことをする、こんなことでは北条も先は無いな」と北条の状況判断の低さに呆れた逸話があるくらいですから
@@ブリキカイザー まあ橙の話も汁かけ飯同様に創作の類だと自分は思ってます。北条は信長に臣従していた時代があるように決して中央政権に疎いということはなかったと思います。しかし、信長に臣従したのに、ぞんざいに扱われてしまいプライドを傷つけられたトラウマが秀吉の時に判断を誤らせた原因かと思います。それと北条は独自の非常に百姓に優しい年貢システムを採用していたため、秀吉に太閤検地をされることで、せっかくの良政が崩されてしまう不安があったのも大きいと思います。そして最も大きい原因が北条氏が大きくなりすぎたということです。秀吉は氏政か氏直が上洛したら領地を安堵すると言いましたが、側近の石田三成などは開戦して北条氏を潰しておかないと将来家康と北条が豊臣政権の癌になると考えてました。そして小田原合戦につながる、名胡桃城事件も、三成が真田と図って罠を仕掛け、まんまと北条がそれに嵌まったという話もあるくらいです。要するにあのまま氏政か氏直が上洛してもいずれ難癖をつけられて滅ぼされていたと思われるのです。織田信雄が改易されたようにそれを北条氏もわかっていたので、決戦しかないと思ったのでしょう。秀吉は特にこの後、唐入りを考えていたので、なおさら北条のような大勢力の温存は邪魔であったと思います。北条としては領地削減覚悟で臣従するという手もあったと思いますが、難しかったですね。そして北条は家康を純粋に最期まで味方と信じていた甘い期待があったのはおっしゃる通り致命的な見通しの楽観だったと思います。戦国を生き抜くのは難しいです。長々とすみません。
詳しいですね。
情報元、気になります。
北条がこの時代1番好きな大名だったからこの特集は嬉しいけど悲しい
私も後北条が一番好きです所詮秀吉は百姓上がり。氏政氏照を切腹させといて小田原の市街地に葬るなんてだめ!仮にも240万石の大大名なのだから一つお寺を作って葬ることくらいしなくては侍ぢやない所詮百姓。
最近の研究では秀吉は商人若しくは武士の家柄だったという説があるらしいですよ
百姓かどうかは定かではないが
どちらにせよ信憑性のある文書で秀吉は貧乏な身の上からの出身であったとの記述があるらしいから
貧乏ではあったと思うけどね
侍でそんなことするのは殆どおらんだろ。お前の先祖は百姓だろ。この百性上がりが知ったかするな。
小田原城包囲で思ったこと俺「完全に信長包囲網じゃん」
島津長宗我部と比べられても、あの人達最初から敵意あったからなあ…。北条は交渉を引き伸ばしたり、してた途中に城を奪取したのもあって信用できないと判断したのかなと思いました
後、伊勢早雲公ならこうなる前にさっさと上洛してますよ状況判断早いですから
チャンネル登録しました。
朝鮮出兵で釜山やソウルの城が半日で落とされてたのを見るにつけ
朝鮮出兵以上の人数で攻められたのに数ヶ月耐えた
北条家と小田原城の凄さを再認識してしまう
明・朝鮮側は鉄砲を持っていなかったからね。
また防衛施設の仕組みも違ったろう。
一番違うのは、日本軍なんて海なんて越えてわざわざくるわけないだろ、と思い込んでいたので、全く警戒していなかった。
北条の家紋がゼルダの紋章みたいで草
6:32 徳川、織田、豊臣の連合軍とかめっちゃロマンあるな
浅井朝倉も武田の騎馬隊も勝てなかったよね
織田(当主がアホな上、主な武将は抜け出した残りカス)。
北条が大人しく秀吉に臣従して
関東を安堵されていたら家康の天下は無かっただろうに…
それだと豊臣の天下の終焉も早まっただろうがね
間違いなく、江戸に幕府は開かれてないな。東京の繁栄も今ほどではなかったろうし。
そんなに北条は力があったのか
北条を降した時、秀吉は一罰百戒を兼ね見せしめのために一族郎党皆殺しにするつもりでした。しかし、前田利家の説得に応じて取り止めました。その後、北条家は利家の監督下に入り徳川を牽制する事になりました。秀吉の死後海道一の弓取りである家康が五大老筆頭になったのに直ぐ、豊臣を滅ぼすことが出来なかった最大の理由に、徳川包囲網の監督を利家が率先してやっていたからです。先ず豊臣のトップの前田家を取り込まなければ身動き出来ない状態でした。
徳川は勢力拡大が出来ず、頭打ちだったでしょうね。
名胡桃城の件は真田昌幸の仕向けた謀略でしょう。北条が消える事で領土が回復される。沼田は真田にとっては聖地だからね。
秀吉というか石田三成あたりも噛んでるでしょうね(笑)北条のような大勢力はどうしても滅ぼしたいですから。討伐の大義名分うぃ探していたと思います。
長野業正との約束ですね。
秀吉がガチで小田原城を攻めていたらどうなっていたのだろう。
秀吉は農民出身なので死者が多く出る力攻めはあまり好みませんでした
小牧長久手の戦いで中入をしようとして敗走した秀次を叱責した例もあります
徳川家康、織田信雄は総構に攻撃しましたが、70mにもなる堀に全く歯が立たず、1000人以上の死者を出したそうです。
強攻は全軍で攻撃しても厳しいと思います。
秀吉は小田原攻めで豊臣の力を見せしめにしたかったのがあるから本気ではあるけど、諸公のやる気は皆無よ。
「こんな戦をしなくても北条を降せば平和な世の中に出来たのに…」と言う前田利家を始めとする諸公や自身の天下への盤石な準備の下ごしらえをしたい家康…
決して士気の高い戦では無かったから北条に押される戦も合ったりで逆に豊臣の天下の陰りを作ってしまったしな。
後の大阪冬の陣で徳川軍は大砲を駆使して和平を結んでいるが、秀吉を本気にさせたら、大砲で陸からも海からも撃ち込んで、北条の内部の士気を低下させて、降伏させていただろう。
ハリボテのすぐ崩れる城が目の前に出来て、士気を落とした連中だしな。勝ち目なんてもうない、と理解していたはずだ。
いっそ、北条が徹底抗戦して2年持ちこたえたら…
この狭い日本で20万とか動員できる秀吉は鬼やな
東北の小大名達は従属して正解やわ
従属してませんよ。
この後に奥州仕置が行われた。
9:49末 期 ベ ル リ ン
わかる
バトルオブブリテンで勝っていれば
うちの先祖は北条氏の御家人だったらしいです。この戦に破れて、現在のさいたま市緑区に当時の名字を捨てて移り住みました。
嘘付いてんじゃねーよ!
水呑百姓がぁ〜!
秀吉はなんで北条親子を上洛させようとしてたのですか??
教えてください🙇♂️
あと、なぜ氏政は先延ばしにしてたのですか??嫌だったんですよね
上洛して臣下の礼を取れば滅ぼされることもなかったでしょう
秀吉は基本的には敵を攻め滅ぼすのではなく、臣下の礼を取れば自分の家臣にして利用するタイプです
毛利、長宗我部、徳川、上杉、島津などは秀吉と戦っていた者ですが臣下になっています
北条の上洛が遅れたのは夜郎自大、田舎大名だったからでしょう
織田・徳川連合軍は小牧・長久手で一時的な勝利は収めたものの(他の戦線では敗北ばかり)伊賀、伊勢を攻略され家康は秀康を人質として差し出したのですが、なかなか上洛して臣下の礼を取りませんでした
秀吉は天正十四年に傘下の大名に東国出馬(徳川・北条討伐)の直書を発し、上杉に信濃に出陣するように指示した書状も残っていますが、おそれをなした家康は上洛し家臣となりました(東国出馬中止)。
北条と同盟していた家康でさえ秀吉の威勢に服するしかなかったのに、北条はバカしかいなかったのでしょう。
事実上天下統一の北条征伐は最後の出世争いで各大名は遅参しないよう秀吉の北条征伐の御触れが出たとき急いで戦支度をしただろうね。
その後の北條氏は北條残党狩りされ東北方面に逃げて、出家して本山慈恩寺の僧侶になったと聞いています!
氏康の代が一番強かった説
そんなことはない。氏政は実力で謙信を関東から追い出し、勢力拡大したんだから。氏康時代には出来なかったこと。
別に、領土の広さという観点だけで強さを測れるわけではないのでは?
@@pianochandaisuki 武田信玄 今川義元 上杉謙信と、やはり氏康時代の方が領土拡張は難しかっただろうに
1575年頃になれば、上杉は北陸を西へ戦略し始めた頃だし、氏康時代よりは上杉からの侵略を受けずに済んだだけでは?
@@ツバサゴクウスグルケンセイヤ 事実は氏政に関東での足掛かりを阻まれたので、謙信は北陸に目を向けざるを得なかったのです。謙信の氏政への怒りというか憎しみは凄まじいものでしたが。無論甲相同盟破棄されたのが原因ですが。この辺の話は平山優氏や黒田基樹氏の研究にもあるので著者を読まれてみれば分かります。勿論武田勝頼、北条氏政同盟が効いていたのはあります。流石の謙信も信長とある時期まで同盟してこれに対抗してましたから。
氏康が最強というのは確かでしょう
氏政は領土を一時は最大版図に広げたのは確かですが、最終的には領土ゼロ、滅亡させたのですから最強どころではなく最弱、凡将です。
天正十四年に景勝、家康が上洛して秀吉に臣従しているのに、関東で独立できるという甘い考え?
井の中の蛙、夜郎自大というべきか?頭が良くないのは確かだろう。
長篠の合戦もそうでしたが、とてもわかりやすいです!
氏政がダメだったんですねえ〜
戦になれば最初から勝機なんて無いのはわかってたはず、最初から素直にしたがっておけば存続はさせてもらえただろうに。
その後の秀吉の大陸進出を考えると、仮に恭順して残された場合の北条氏はとんでもない軍役を課されそうだな
@@ゴンベエ-c1l
でも領地は減らされてただろうから
そんなに軍勢出せって言われなかったと思う
確かに存続は大事ですね、滅んだら全て終わり。
いろいろ命じられても、家康がその時まで待っていて天下を取るんですからね〜
徹底抗戦した長宗我部や島津が元々の所領の土佐や薩摩・大隅は安堵されてたし、配下の手前何もしないで降伏ってのもメンツ立たないし
戦になって負けても滅亡するとまでは思っていなかったんじゃないかと。
秀吉は信長の配下時代から相手が滅亡するまで殲滅するってやり方は殆どとらなかったし(殲滅されたのは明智や内部抗争した柴田・織田信孝くらいだろう。佐々だって降伏後取り立てられてるし)。
殆ど全方向(全大名)が秀吉側だったのに、良く戦おうと思ったな。
伊達か徳川来ると思ってた説
@@わたよう-s8g
説と言うか実際そうだったらしい…
北条と徳川は親戚だし、伊達も反豊臣で北条と一致してたから
北条がこの2人を頼ろうとしてたのは間違いない
@@もふもふ-x4p 徳川とは天正壬午の乱の後に婚姻したんだっけ?
@@わたよう-s8g
家康の娘が氏直に嫁いでいますね
そのお陰で氏直は切腹を免れましたが
オリンピックまでに登録者2020- 宣伝コメント見苦しからやめような
豊臣家に逆らうとこうなるぞ
小田原城以外の見捨てられ方がひどいと感じたのは私だけでしょうか・・・・。武田の動画と比べてすごくあっさり感がありました。
こめておく兵力がなかったですからね。
忍城は、落城しなかったんよねー。
のぼうの城の小説になった
攻め方の石田三成の失敗でね。
映画化もされたね。なかなか面白かった。
Kei そそ。敵も味方もあの者に魅入られておる
kero997s 史料にはないので、推測だけど。
三成は、もしかすると攻め滅ぼすつもりが無かったのかも。
戦下手という自らの評判も利用して。。。。
現地埼玉県行田市は昭和の雰囲気が濃厚に残り、さきたま古墳群もありおすすめです。GWの5/4には火祭りもあります。
北条氏の時勢の読めなさは異常
もう絶対勝てない状態なのに
当時は道路事情も悪く、人の往来も頻繁でなく、日本各地で話し言葉が違った。情報収集は相当困難を極めたと思われる
所詮、関東の山猿。
井戸の中の蛙に近い。
セコいやり方で関東を維持出来ればそれでよかった。一種の日本の中の独立国家を目指していたのだろうが、呑気過ぎてこの結末。
氏政自身も臣従の姿勢見せてたんだけどねー…
初代伊勢宗瑞だったらあんなバカな籠城などせず秀吉軍と決戦を挑むか、勝てないと分かった時点で降伏していたと思う。
小田原攻めは秀吉の天下統一の総仕上げ。天下人の力を見せつける謂わば「横綱相撲」だから無理せず消耗せず侮らせずだよ。
戦国大名と言えば家督争いだけど、北条家は五代も続いてそういう話あんま聞かんね
当主が皆長生きして、後継者に家督をゆずったあとでも
ある程度実権をもつというプロセスを繰り返せたことが大きいのではないかな。
北条幻庵の存在も大きかったと思う
家が平和っていいね
伊勢宗瑞公の教えを子孫が守り通したからでしょう。
戦国時代のオールスター感。
朝鮮出兵もそうだけど。
小田原攻めの方が全国の諸大名を集めてるからオールスターだな。
数は力の具体例🔍
この戦のあとの信雄への秀吉の理不尽さはやばい、北条征伐で大活躍したのになぜか尾張伊勢100万石から三河遠江50万石に移れと言われたので当然拒否したらほぼすべての領地を召し上げるという
違います。
正しくは、北伊勢尾張30万石から、この戦いの論功で三河遠江55万石に加増転封です。
それを蹴ったのは事実ですけどね。
@@がらす-e5d 尾張一国だけでも60万石はありますよ、北条攻めの時の信雄の率いた兵力から見ても30万石はまずないです
伊勢も本来は小牧の戦い後に返還される約束でしたが秀吉はこれを反故しているので北伊勢だけになりましたがそれでもこの時の信雄は北条攻めの動員兵力から見てかなり低く見積もっても70万石以上はあったはず
@@ブリキカイザー あれ? そうでしたっけ?
多分こちらが間違えてるような気がします。 すいませんね。
いまさらですが
家康→旧北条領、信雄→旧家康領へのところてん方式の転付であり、畿内から遠ざけるのが目的でしょう
信雄の場合は、小牧長久手の織田、徳川連合軍の敗戦により伊賀と伊勢半国を割譲していたので100万石には足りないが、旧家康領は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五か国(約150万石)なので、家康と同じく大幅な加増となる。それを受けた家康(家中では反対が多かった)は残り、指導力を発揮できなかった信雄は消えたというだけの話だ。
銘家あるが故に時勢の判断を誤ったのだろうね。
対照的にいえば、前田家は伝統が無いだけに、時勢の判断を最優先して江戸幕末までNo.2でいられた。
前田家は覇権争いはしなかったからね。
後々豊臣家にとっては後北条は滅亡させなかった方がよかったね。家康があそこまで力つけずに済んだし😎
一番悲惨だったのが八王子城の戦い。
朝には死体の山になった八王子…
降伏さえ許されなかったからなぁ…
@@tikokun そうだねー。北条の城を攻め落とす(降伏して開城ではない)。それが目的。スケープゴートにされたね。八王子城にも忍城にも行った事が有るけど、山城の八王子城は大軍に攻められたら防ぎきれないね。
北条5代で大河ドラマやって欲しいなぁ
Coyote7ZPM やらない理由が「北条家はもうやったから(時宗のことらしい)」という説があるみたいだけどマジかもしれないな。
パンダーXパンダー 全く関係ない家なのに。…
大賛成します‼️
@織田大和守敏定 後北条氏の事やろ
22万の糞尿処理大変だろうね
この様な付け城戦法の時には、陣地内の臨時のトイレの場所を決めて穴を掘り、用を足したら腐葉土を含んだ土を被せる事で匂いを抑えていたそうです。通常の野戦の場合、立ち小便と野糞をする暇がないので食べ物から便秘になり易い物にして大便の回数を減らし、戦闘中ならそのまま垂れ流していたそうです。足元の脚絆の所にコロコロのウンコが溜まるようになっていました。
@@浩原田-i2f こういうガチ勢の解説を読みたくてコメント欄探索がやめられないんだよなあ。
早雲、氏綱、氏康があの世で悲しんでるよ…
なんで?
早雲 氏綱 氏康 氏政 氏直
@@菅野智之CBD 室町時代終盤に今川家に客将として東駿の領土を頂き苦労に苦労を重ねて3代にわたって関東一帯を領したのにそれがあっという間になくなったらそりゃ亡き先祖も悲しむだろうよ
氏康は多分やはりなと思ったのでは(笑)
玄庵が生きていれば...
なんでそんなに上洛をしぶってたの?
秀吉は浮浪者出身だし、京都の朝廷の影響も理解していなかったから。
下克上の一家であるから、名誉、権威を全く考えなかったので時代遅れそのもの。
名誉も権威も知らないから、弱者から領土を奪う事しか考えてない無法者集団。弱くなったらすぐ同盟を破り侵攻する一家。そんな無法者集団が「俺達を安心させる為におめーのかーちゃんと身内の娘を人質に寄越せや、そしたら上洛してやるよ」という態度。
ちなみに関白は今の大臣の地位に近い。それ以上かもしれない。
第二次大戦のソビエトみたいな感がある。
北条の家紋、トライフォースみたいでかっこいい
元は鎌倉幕府の北条得宗家からパクったもんだけどねw
得宗北条家は三つ鱗、戦国大名北条氏は北条鱗というらしいです。(知ってるかもしれないけど)
「伊勢」だといかにも西国っぽいし、当時は「関東に侵略してきた外敵」みたいな扱いだったから、昔の関東の支配者の名を借りた。奥さんが北条の血筋を引いてるという理由で。
行動方針が終始一貫しないのは、やはり氏政さんの優柔不断のせいですかね。
名胡桃城の件は、映画や小説だとよく秀吉の陰謀扱いされますが、
少なくとも当初は秀吉に北条家を潰す積極的な理由はなかったはずなんだけど、
実際のところはどうなのか。
家康と北条を切り離したかった秀吉としては思う壺だったはずです。
最上と敵対していた伊達や、秀吉に楯突いた親戚でもある徳川が味方になってくれると思っていたのでしょうね。籠城して両者が起つのを待っていたのでしょう。また、籠城して秀吉の大軍を引き付けて時間稼ぎを為ていれば、九州では島津が起ち、東北では伊達が最上にしかけ、同時多発的に、軍事行動を起こし秀吉の手に余る事態になれば、間違いなく徳川が裏切ると確信していたのでしょう。様は外交手腕で、北条が秀吉に負けたのです。秀吉にとって兵を動かすのは最終段階だったでしょう。秀吉の凄みは北条が籠城している間に、周囲の領民達を全て懐柔して見せた事です。二十万の多国籍軍に掠奪暴行を許さなかったその統率力は凄まじいと思います。北条方の国人領主達も自分達の領民が離叛すれば、城だけ残っても意味が無い事に気付いて次々と降伏しました。
名胡桃なんてどう転ぼうが秀吉はどうでも良かったが最高権力者としての裁定にケチをつけて武力行使する奴は日本に新たな秩序を打ち建てる支配者として裁かなければいけないって立場でしょう。
戦国時代のマインドから抜け出られなかった北条家は所領の奪い合いこそが戦国大名としてのレーゾンデートルだったが、
戦国時代に秩序をもたらすものが現れたっていうパラダイムシフトについていけなかったってことじゃないかと。
忍城って映画のぼうの城?
小田原攻略後に家康に蝦夷一国に転封と言ったらどうなっていたかなw
私達一族は小田原城主の、北条につかえた一族です。北条は、豊臣秀吉の命によって徳川家康によって討伐された。私のご先祖様は、、豊臣秀吉によって滅亡したのです 。最近、伊達政宗の子孫の方に、お会いしました。
こう言う戦史や戦記って、話をどこから始めるかが結構重要だと思うんだけど、このチャンネルはそこのセンスがず抜けてると思う。
あと、氏政は実は名君とする説もあるけれど、後詰の全く期待出来ない本城への包囲戦を許した時点で、名将ではないと思う。
名君と名将は、必ずしも一致するとは限らない。農民の年貢負担を下げるなど、内政家や北条家を今までのような戦国時代であれば、存続できただろうが、豊臣秀吉という天下人を甘く見たのは失策ですね。
@@ジュガシヴィリ 「今までのような戦国時代」だったら、いつかは他国に侵略されて領民撫で斬りもあり得ますよ。
戦国だからこそ、明君と名将が同時に成り立たなければ危ういと思います。
平時の江戸時代は確かに名将である必要はありませんが。
@@hymn13 江戸時代であれば、名君だけで済んだ分、氏政は名君として一生を終えられたでしょうに。乱世の場合はやはり、奸雄でなければ乗り越えてはいけないということでしょうね。
滅亡しても救いは目立った裏切り者が松田憲秀だけだったことです
武田氏の最期が悲惨だったのに対し北条氏は氏直、氏邦、氏規が助命されるなどまだましな方ではなかったか
でも島津、長宗我部とかと比べるとかなり厳しい処罰に見える。それに武田は信長の時代だから訳が違うかも。
北条家は江戸時代通じて大名として存続してる。→狭山藩
高野山が必ず出てくる。
大名が来るたび、一体いくらお金をもらっていた?
氏政は有能だったけど、東武者の独立志向といつも小田原本城での籠城でやり過ごしてきたから、出城がやられても降伏しなかった。また、直接信長や秀吉の強さを見てなかったから事情を見誤った。そのせいで評価の低い武将ですよね。なんか可哀想by神奈川県民
信長には一時臣従しましたがね。そのときにぞんざいに扱われたトラウマが北条にはあったのでしょう。秀吉に容易に従わなかったのは中央政権への不信感からだと思います。
それもあるだろうし、農民の秀吉に従いたくないというプライドもあったろうね。
織田家時代の宿敵だった毛利はもちろん長宗我部も島津も織田信雄も徳川も抗戦後降伏して元々の所領は安堵されてるし、秀吉を舐めてたんじゃないか。
意地で一戦は交える。うまくいけば百戦錬磨の上杉武田も撃退した小田原城で持ちこたえられるし、もし敗戦しても相模、伊豆、武蔵くらいは保持できるんじゃないかって。
思ったほど一方的ではなかったらしい。
小田原そのものは落城の気配はなかった。
以外と手こずったらしい。
滝川一益と同格だった頃とは違うのが理解できなかったのだろうか?
しっかし、250万石ってすごいな。
同盟 関八州は手にいたからな
検知したらもっと増えたんだからエグいよね
検知したら…それもせず、なあなあで慣らしていた大名としては当然の結末であった。
@@izawaakechi 上杉や毛利ですら、120万石ですからね。
なにげに真田昌幸を破った猪俣邦憲すごいな
namuamiodabutsu
北条家を滅亡させるための真田方の
策略じゃないかな
ツィデルマン電報事件や真珠湾攻撃並みの悪手だよな。名胡桃城の攻撃は。これで北条と戦争する口実が豊臣側はできた訳で
話がゆっくり過ぎて眠くなります…
トモゾー 2倍速にしてみww
名胡桃城事件って創作なのかな...
豊臣の作戦勝ち、北条は過信し過ぎた。
こうして見ると、忍城は割とどうでもいい位置にあるのがわかるな。あの辺は平野だからいくらでも脇を抜けて移動できるわけだし。
後北条はロマンある
また民に対し後北条は
善政をしてた
小山氏も今時滅亡したんだよなぁ-!
秀吉と北条の板挟みになった家康。一番辛い立場だよな。
でも結果的にこれが天下を取るきっかけになりましたね。
北条氏は関東進攻で勝ちすぎていたのでは?河越合戦等での逆転大勝利は智勇随一のプライドを生み、秀吉にも対抗しうると感じてもおかしくない!
1589年12月13日に出陣布告か……
なお、その425年後の12月13ニチィは…おっと、誰か来たようだ。
四公六民の北条から七公三民の秀吉時代に…小田原の民草にとって地獄の日々の始まりだが戦国の世ではやむなしか…
翻って自分たちの指導者を自由に選べる現代なのに重税を課す政党に喜んで投票する愚かさよ!
四公六民がまず嘘だけどね。周辺諸国と比べても変わらない
@@正面の百太郎 そんな発表ありましたっけ?
@@多羅尾伴内-g1c
そもそも四公六民ってのがない
北条が採用していたのは石高制じゃなく貫高制
だからその時点で嘘。ネットでの出所不明なデマ話で
計算して他と税は変わらない
家康の領地になったのに、勝手に秀吉領の税率を適用するのは草だな。
小田原は神奈川県の中でも独自性が強い、何故なら鎌倉幕府や徳川の影響より、北条氏の街だからだ、横浜?、田舎もんだろ、
信玄も謙信も
落とせなかった難攻不落の名城
信玄は牽制という意味があって
本気で落とそうとは考えてはいなかったみたい
秀吉はこの城を軍事力で落としたのではない
経済力・物流の力で落とした
北条と徳川が好き、豊臣と大阪はきらい。
北条を攻めるにこれだけ20万以上の兵を出さないと勝つ自信なかった秀吉に恐れを抱いた北条の力もすごいということ
を思い知ったw
秀吉が伊勢宗瑞の幻影に怯えていた証拠でしょうね。恐らく北条の当主が氏政ではなく伊勢宗瑞だったら秀吉は戦死、秀吉軍は全滅し大坂城は火の海になっただろう。
20万動員したのは天下人の威信や逆らった時の見せしめとしてでしょ。
秀吉が恐れていたかは分からない。
恐らく兵力差や今までの経験から恐れてはいないと思うけど。
@@杉田竜馬 氏康でも早雲でも氏綱でも20万の大軍がやってくればどう足掻いても勝てません、さらに言うと20万の大軍を全滅させても秀吉はさらに20万以上編成出来る力を持ってました、小牧・長久手の戦いまでの秀吉ならまだしもこの時の秀吉に勝てる大名は居ません、
@@亜-t3r
秀吉が北条に討ち取られていたらどうなったか。ネルソン提督を失って尚戦い、勝利したトラファルガーの戦いでのイギリス軍や30年戦争のリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフを失いながらも最後まで戦い勝利を掴んだスウェーデン軍のように戦うことがこの時の豊臣軍にできたのか?北条が勝てるとしたらそこにかかっていると思うのだが。
@@杉田竜馬 どうやって秀吉の本陣に達するんですか?それに軍師官兵衛が居ますから本陣が突破されそうなら退却しますよ、
北条氏は、時代の流れを読んでなかったんだと思う。
忍城成田流石だな
よく持ち堪えたよ
個人意見🤔日本戰國最堅固小田原城
Man Wong そうですね〜
唯一の勝ちらしい勝ち戦、忍城攻城戦、あの北条氏直の無血兜で開城したって本当だろうか?
徳川軍を滅ぼすべきやったかもな…
この時の秀吉…。でも、過去の秀吉は家康と和解したから、しゃーないかな…。他にもいろいろな説もあるし…。北条氏も、数々の戦国の歴史を持つけど…、豊臣秀吉や徳川家康を攻めようと思えば出来るのに…そう言う野心が北条氏にあればね…
元々の織田家時代の盟友のよしみもあったし、降伏した大大名はことごとく所領削ってるのに家康にだけは甘々なんだよなぁ。
三河から関東に転封とはいえ所領増えてるし。
小牧長久手だって実際は秀吉対信雄で家康はあくまで援軍に過ぎないから後世で言う家康の勝ちどころか信雄降伏で家康の戦略的敗北だし、腹心の蜂須賀は家康にはもっと厳しくすべきって死の直前まで反対してた。
五大老筆頭の政務担当まで引き立ててる(同じく筆頭の前田は秀頼の後見人でしかなく豊臣政権の運営は家康に任せてる)し、秀吉は家康には絶対的な信頼置いてたと思う。
家康は秀吉に意図を読ませない慎重な動きをしていくんだよね。タヌキを騙したつもりが騙されていくんだよね。
@@ねこのしっぽ-r9p 敵になる伊達家もそう。米沢に置けばよいのに、平野部に移封する。逆に、味方となる上杉家を越後から、米沢、会津に移封も仇になる。移封は尽く失敗。他に、徳川家康を親族にしたのも失敗。朝鮮出兵も失敗、後継者も失敗。いくつもの失敗が豊臣家の滅亡に繋がっているよ。
こんばんは、八王子城🏯ヘ行かれる方は、帰ってきたら、お塩で清めてください、知っていますよ、小田原は、地元ですから
信長には従属する意思を示しながら、秀吉には徹底抗戦するというのがよく分らん
多分農民出身の秀吉に関東の覇者が頭を下げるのは関東五代百年
北条氏のプライドとしてできなかったんじゃないかな?
@@わたよう-s8g でも信長の家も元は守護代の家臣筋だから武士身分の中では決して高くないよなぁ。
後北条氏の初代早雲の方が織田家より遥かに家格も身分も上だったと思う。
同じ武士カテゴリなら頭を下げるのは気にならないんだろうか?
信長は北条に
「家臣じゃなくてあくまで大名同士の同盟関係の付き合い」を提案
一方の秀吉は「北条を自分の家臣にしよう」としていたから
この違いだと思う
もふもふ
信長も武田滅亡後は北条家に対しては
やたら冷たかったので
或いは北条家も潰す予定だったのかも
従属したけど信長にぞんざいに扱われたトラウマがあったのでしょう。秀吉に容易に従わなかったのはそれも要因かと。関東の支配は北条に任せてほしいというのが命題ですから。
この戦いは豊臣としては後の愁いをなす戦にしか無い、後に関東は徳川にと、特をした徳川は朝鮮出兵に
大規模な出兵はせず、兵力の温存に成功した。天下を別けたおお戦は既に始まっている状況の始まりかも?
北条が徳川を経てと言うのも?と歴史は面白い。
この戦いの面白いと言う事の、戦国時代的の歴史が好きな人にとって神秘なる事。実在したていた歴史なら面白い事、
室町時代に伊勢の鞍と、天皇家の教育を司る名家の1つが伊勢家、当時実際に鞍を作っていたのが新九郎とか(今の中国地方ので?)、
話しは飛ばし、当時の大名、今川氏に嫁ぐのが要が伊勢の血筋の姫、今川家との嫡男が出来るも内乱、危機を知り駿河に身を埋める思いで、と、
内乱を収め治安維持の為残り領内の東側に一村を起こし、東側からの敵を防ぎ、伊豆に危機あれば、と?駆け巡り、過ぎて早、と、伊豆何とかがの御所風邪、
息子どもは間抜け、ならばと御免打ちまあそんなこって、伊豆を収めても次に小田原の大森氏、新九郎さんの頑張りはここから、関東の優は多い氏、
関東の足利何ぞ、都から飛ばされた氏族に振り回せられと?した後に大森氏を打ち破りと。北条早雲と名乗る様にと、皆様ご存じかと、
前北条と後北条があり早雲は後北条ですね。豊臣秀吉は天皇家に忠義をとは?秀吉自体がその歴史が分からない人物、信長は戦国武将の跡取りとして、
時代に生きたから、家康は幼少期に今川家で、と、家康に取っては···········。豊臣秀吉に取っては············(·長くなってしまいました)
伊達政宗が北条側に参陣していたらどうなっていたたんだろう...
家康まで来たらワンチャンあったかもね。
多分氏直も秀吉の力を見誤ったのも有るけど、伊達徳川北条の3人がこちらに味方してその上で何人か裏切りが出るとでも考えてたんだろうな。
合戦では無く、小田原攻め!
本当は豊臣の世を守りたいなら北条生かしておいた方が良かったのでは
?北条を滅ぼすのに辺り、家康に武功を与えて、関東を与えてしまったのも失敗。五大老なら、【西国の宇毛利・九州の島津・越後の上杉・関東の北条・徳川】で良かったのでは
。それと、領地を3郡程取り上げて
全国各地に豊臣恩顧の大名を配置すれば、謀反も防げる。それと、真田に役職をつけ?