テレビで忠臣蔵を放送しなくなった意外な理由|南出喜久治×松本道弘

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    #忠臣蔵#大石良雄#赤穂浪士

ความคิดเห็น • 136

  • @こばやしあきら-o6p
    @こばやしあきら-o6p 3 ปีที่แล้ว +37

    そういえば年末最近忠臣蔵を放送しなくなったと思っていました。納得がゆきました。武士道、茶道、商人道そして任侠道も昔の日本にはあったんですね。己の命よりも上位の者を生かす。日本人はカッコ良かった!

  • @nontaroo
    @nontaroo ปีที่แล้ว +3

    日本を元気よく!で取り敢えず笑ってしまいました。とても勉強になりました!
    単に視聴率でしょうね。

  • @Nat-z7r
    @Nat-z7r 2 ปีที่แล้ว +14

    元保育士です。複数の園で働いていました。どの園でも、子どもたちは、転ぶ時に手が出ない、これを気にする先生方が非常に多かったです。遊びの中で身体の使い方を覚えていきますから、手が出せるように、遊びをあれこれと工夫していた記憶があります。

  • @犬走りヘ太郎
    @犬走りヘ太郎 3 ปีที่แล้ว +18

    松之大廊下での「殺意の有無」について、小名木先生と南出先生の見解が異なるところにとても興味を引かれ、改めて歴史の面白さを感じさせていただきました。

  • @jp-ch7716
    @jp-ch7716 3 ปีที่แล้ว +53

    義理人情、一宿一飯の恩義、今の若い方には、理解出来ないかも知れませんが、ある程度のOLD日本人には、良く解ります。

  • @Well-Brilliant
    @Well-Brilliant 3 ปีที่แล้ว +20

    『仇討ち』もそうだけど、【切腹】の文化が無くなったことが大きいんじゃないかな。
    【切腹】を覚悟して行動する【重み】が過去の日本文化にはあったんじゃないかな!

  • @knight4318
    @knight4318 ปีที่แล้ว +6

    あふ時は かたりつくすとおもへども
    別れとなれば のこる言の葉
    〜大石主税〜
    忠臣蔵の放送は、
    浪士一人一人の人間ドラマを通して、
    人の生き様というものを考えさせられる良い機会だった気がする…
    真実はどうあれ、三百年語り継がれる忠義の物語への郷愁は、日本人の心から消える事はないだろう…。

  • @KI-zg6uu
    @KI-zg6uu 3 ปีที่แล้ว +10

    俺はおなぎ先生の殺意はなく、将軍まで耳に入るように事件を起こした説が納得。当時の武士が殿中で軽はずみに刀を抜いてミスるなんてことがあるはずがない。しかもお家取り潰しになるリスクを取って。そして命をかけて上訴した主君の大義を貫くために確実に吉良を取る。そして切腹する。
    これが一番しっくりくる歴史ですね。

  • @女一ノ宮
    @女一ノ宮 3 ปีที่แล้ว +13

    2013年に「47 RONIN(浪人)」という、忠臣蔵をモチーフにしたアメリカ映画が作られました。主演キアヌリーブスで人気を博し、忠臣蔵が国際的に認知されたわけです。私の夫(イギリス人)も、47 RONIN以来、忠臣蔵大好き!で、赤穂浪士の墓がある泉岳寺にお参りに行くほどです。私たちが泉岳寺に行った時には、西洋人の男性が、浪士のお墓全てにお線香を供えていました。
    今、テレビ番組を製作する中枢にいる人たち(日本人ではない)には、面白くないんだと思います。
    非常に日本的で、西洋文化とは相容れないと思われる忠臣蔵が、欧米人にこれほど受けるのは、興味深いですね。

  • @keikoi94
    @keikoi94 3 ปีที่แล้ว +13

    興味深いお話ありがとうございます。
    時代劇すきでした。最近は見なくなりましたが。

  • @mayukoichihara1980
    @mayukoichihara1980 3 ปีที่แล้ว +8

    万策尽きての仇討ち、現代人も「万策尽きるまで、やっているか?」問われた気がします。

  • @hatabowist477
    @hatabowist477 3 ปีที่แล้ว +21

    忠臣蔵だけじゃない。水戸黄門など時代劇は地上波放送をしなくなった。

    • @DT-ji1gj
      @DT-ji1gj 2 ปีที่แล้ว +1

      そうですね。単に飽きられただけだと思います。紅白歌合戦に演歌歌手がでなくなったのと一緒

  • @まだまだ頑張る日本
    @まだまだ頑張る日本 3 ปีที่แล้ว +10

    三船敏郎が内蔵助を演じだ大忠臣蔵が、私にとって一番の作品だった。

    • @加門和樹-w3p
      @加門和樹-w3p 10 หลายเดือนก่อน +1

      サンテレビ(神戸)で再放送してました。😊

  • @いかるがはやた-e9i
    @いかるがはやた-e9i 3 ปีที่แล้ว +6

    大東亜戦争もアメリカの理不尽な要求に対し戦争を行った。

  • @ああそれなのに
    @ああそれなのに 3 ปีที่แล้ว +26

    TVのディレクター連中が日本人じゃなくなって久しいからだよね 
    ドラマそのものもアニメの焼き直しが増え劣化が止まらない

  • @さとうひさよ
    @さとうひさよ 3 ปีที่แล้ว +13

    こんにちは
    忠臣蔵とか東映やくざ路線良かったですね。根性がありました
    現在のドラマや映画 好きになれません 何かというと相手をとことんやっけて
    金儲けの話ばかり さもしい限りと思ってるのは 私だけでしょうか❓

  • @nishit4837
    @nishit4837 3 ปีที่แล้ว +27

    まず、予算が膨大。たった一回しか使わない豪華な松の廊下、吉良屋敷の討ち入り、総力を挙げて出演させる俳優陣、現在NHK以外出来る民放はもうないと聞いています。
    昭和の時代は何度も色々な忠臣蔵を楽しめました。20年近く見ていないと現役のディレクターや監督が育った環境から声が出てこないのは当然だと思います。

    • @kakkazan2008
      @kakkazan2008 3 ปีที่แล้ว +15

      つくづく、TVの時代は終わったのだという気持ちにもなりますね。

  • @スモーカー-b9n
    @スモーカー-b9n 3 ปีที่แล้ว +12

    長谷川一夫の忠臣蔵が私の中では最高です。

    • @mayukoichihara1980
      @mayukoichihara1980 3 ปีที่แล้ว +3

      その時の浅野内匠頭役の市川雷蔵さんが個人的に好きです!

  • @mitsuru.s7880
    @mitsuru.s7880 2 ปีที่แล้ว +2

    大変面白い内容でした!

  • @はる-n2y3m
    @はる-n2y3m 2 ปีที่แล้ว +7

    師走を感じるのは「ベートーベンの第九」、TVでは「忠臣蔵」と「白虎隊」だったな…

    • @DT-ji1gj
      @DT-ji1gj ปีที่แล้ว +2

      その共通点はなんなんでしょうね???成し遂げた感?(笑)第9も苦痛な音楽を長々と聞かされて最後はお祭り騒ぎで終わるというw

    • @はる-n2y3m
      @はる-n2y3m ปีที่แล้ว +1

      @@DT-ji1gj 滅びの美学?

  • @かりん-t5z
    @かりん-t5z 3 ปีที่แล้ว +4

    子供を旅立たせるために
    全てのお金を持たせて
    笑顔で見送った後、自決する
    母親の最期は見事でした。
    私の中の忠臣蔵は
    北大路欣也さ主演のドラマです。

  • @只野仁-o1v
    @只野仁-o1v 3 ปีที่แล้ว +8

    素晴らしい回でした。

  • @アレパパ-e5j
    @アレパパ-e5j 3 ปีที่แล้ว +14

    防衛さえ反対する日本人が多くいます。自己保存本能がなくなったんですね。

  • @andsm23
    @andsm23 3 ปีที่แล้ว +31

    仇討ちがダメと言うよりあの内容だと吉良氏が一方的に嫌な人間として描かれているから良くないのでは?名君として慕っている地元の人達からしたら不公平感半端ないと思います。

    • @mako-id1kr
      @mako-id1kr 2 หลายเดือนก่อน +3

      名君とは国をあげて尊敬される人間をいうんだとおもいます。
       権力を傘に見返りをもとめ意のままにならぬ者をイジメこき下ろす、言葉の暴力。
      など全くしなかったのかな、吉良は。

  • @藤川ちゃんねる日本守り隊
    @藤川ちゃんねる日本守り隊 3 ปีที่แล้ว +1

    あら💦❤ こんなところに南出先生が。

  • @Tomo-rd9ob
    @Tomo-rd9ob 3 ปีที่แล้ว +25

    単純に忠臣蔵や時代劇を張れる貫禄ある役者が減っただけ。

  • @ほさかよしき
    @ほさかよしき 3 ปีที่แล้ว +4

    じじ放談ええなあ!(笑)勉強になります。

  • @kohi1015
    @kohi1015 3 ปีที่แล้ว +8

    戦前の日本軍人さんにも「浅野内匠頭が後ろから斬りつけるという卑怯行為をしたのに殺せなかったのは情けない」と言ってた人がいます。
    ただ小名木さんは「峰打ちしてたから殺す気はなかった」とも言っておられ。
    どちらにせよ、殺す気は無かったのに後ろから切るものなのかが一番の肝だと思います

    • @naovisun
      @naovisun 3 ปีที่แล้ว +1

      本当に後ろから切りつけたのか、その瞬間をいったい何人が目撃していたのか。
      今となっては分からないのではないかと思います。

    • @shinzaemongolf6753
      @shinzaemongolf6753 3 ปีที่แล้ว +1

      一応、加古川本蔵が後ろから抱き止めたので、とどめをさせなかったということになってます。
      後ろから追いかけて、この前の遺恨覚えたるか?吉良上野介覚悟といい、肩口と、額に傷をつけてます。
      殺す気だったということになってますね。

  • @佐倉守
    @佐倉守 3 ปีที่แล้ว +7

    「会社は株主のもの」などという価値観が蔓延し、忠臣蔵サラリーマンがシラけてしまったからでは?

  • @荒川俊哉-u8g
    @荒川俊哉-u8g 4 หลายเดือนก่อน +1

    小難しい理屈をおこねになってますが、
    NHKの大河ドラマを除けば、
    時代劇自体がほぼ消滅してますから
    別に忠臣蔵だけじゃ無いんですよ。
    必殺も水戸黄門も遠山の金さんも大岡越前も
    影の軍団もテレビから消えてるでしょ。

  • @tm998infinity
    @tm998infinity 3 ปีที่แล้ว +5

    時代劇を観る人。
    テレビを観る人が少なくなって来ているからでしょう。
    昔のようにテレビで視聴率取れなくなりましたからね。

  • @salmosax
    @salmosax 3 ปีที่แล้ว +4

    小名木さんの忠臣蔵解説では松の廊下の殺意に異説ありますね。

  • @sutemarucat
    @sutemarucat 3 ปีที่แล้ว +9

    将軍が上座が、お上が上座かで、浅野内匠頭と吉良上野介の見解が違って揉めたんですよね…?
    吉良の殿様は名君です。
    吉良側の立場で忠臣蔵作って欲しいです。

    • @武神会本部
      @武神会本部 3 ปีที่แล้ว +4

      yahoo知恵袋からの引用です。
      『実際は資料が少なく判りませんが短気ではあったようです。
      栗崎道有の「栗崎道有記録」には癇癪持ちであったと記載があります。
      伊勢貞丈が書いた「四十六士論評」(弟の浅野長広から聞き取った話としている)によると性格が甚だ急な人とあります。
      室鳩巣の「赤穂義人録」によると頭を下げることを好まない性格であったとあります。
      感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という精神病を持っていたという逸話があるが真相は不明です。』
      ずーっと以前からですが、
      私は浅野内匠頭が「短気な馬鹿殿」説を信じています。

  • @かもめあおい
    @かもめあおい 2 หลายเดือนก่อน +1

    家族間のつながりも親戚間のつながりも会社内での人間関係など様々なものが希薄になると、人は根無し草のようになってしまい、自己中心的な生き方をするようになり、大切なものも自分だけになっていく。こんな社会はいわゆる左寄りの人が好む社会で中国やロシアにとっては理想的、アメリカから見ると思うツボといった感じだろう。集団的な結束力の元となる精神は想像以上に強力なのだろう。戦前、戦中、戦後の日本人はよく頑張ってきた。今の日本はウクライナのように頑張れるだろうか?

  • @hauiwenny4117
    @hauiwenny4117 3 ปีที่แล้ว +5

    小名木善行先生のお話しでは、問題提起のための殿中での騒ぎであったと解説されています。
     それには、様々な理屈が有り、かなり複雑なお話しのようです。

  • @danpeitange2471
    @danpeitange2471 หลายเดือนก่อน

    「わんわん忠臣蔵」なんてのがあったね。

  • @kii3521
    @kii3521 3 ปีที่แล้ว +9

    BSで放送あったし歴史検証番組とかでは軒並み忠臣蔵やってたよ。

  • @yujikamide
    @yujikamide 2 ปีที่แล้ว +1

    CSでは忠臣蔵やってますし
    テレビ神奈川でも再放送
    やってます

    • @danpeitange2471
      @danpeitange2471 หลายเดือนก่อน

      時代劇専門チャンネルでやってますよね。

  • @iz.stmirandora
    @iz.stmirandora 3 หลายเดือนก่อน

    タイトルにあるように35歳以上の人は疑問に思っていますよね。
    1986年にモーリス・ベジャールが東京バレエ20周年で世界で一つだけの忠臣蔵をテーマとしたThe kabuki を創作し、討ち入り切腹のシーンはベジャールは涙ぐみ、パリ・オペラ座でのカーテンコールが鳴り止まずベジャールさん自ら幕を引いたというエピソードがあります。黛敏朗の音楽と三島をテーマにしたMも名作です。娘はこの作品が大好きですがやはり忠臣蔵長編ドラマをリアルタイムでは見ていなくて、友人らに忠臣蔵がテーマで、と話してもまず忠臣蔵にピンとこない😰そうです。
    TH-camで松平健、大石のドラマが見られますね。元禄繚乱も総集編を昔録画しました。
    90年代は毎年4時間スペシャルとか12時間スペシャルのドラマが地上波で放送されていました。
    祖父が時代劇好きだったため幼少期から多くの時代劇みたし、祖母と歌舞伎座に行ったり。
    海外でベジャールのカブキを名だたるオペラハウスで東京バレエが上演してきましたが、どこでも大変好評です。
    ゆとり教育で社会、理科、文学史がなくなり基礎的知識や教養がなくなって、かつテレビ局はバラエティとワイドショーばかりで、ニュースすら枠がない。地上波で流血が放送できなくなったのも大きいかもしれません
    しかし血は誰にも流れているもの、生と死は隣り合わせ。いかに生きるべきか、そういうことを敢えて考えないように地上波は誘導している気がします。
    アンタッチャブルや大脱走などの名画洋画も駆逐されてこの10年で日本語の使われかたも劣化したように感じます。
    若い世代にもいざ触れ、機会があれば好きになる人はそこそこいるかと..あとは貧しい家庭はCS BS観ませんから、文化的な格差もさらに広がるかもですね...
    国防論まで語るのはやや論点先取りに思いましたが、気になっていたテーマでコメントしました。
    関西でも高槻公演があるので、西のかたにも是非劇場で見てほしいしパンフレットも読んで欲しいです。

  • @かがみ純
    @かがみ純 3 ปีที่แล้ว +4

    50歳以下はやっても分かんないし見ないからでしょ。大河ドラマも99年の元禄繚乱が最後。21世紀になってからやってない。
    忠臣蔵が分かるかどうかで日本人は旧日本人と新日本人に二分されると思う

  • @bird-fan
    @bird-fan ปีที่แล้ว +3

    「忠臣蔵」が テレビで放送されなくなってきた理由として・・私が考えること。
    ・日本がいまだに 敗戦国のように アメリカに媚びへつらっている事。(GHQへの遠慮か!?)
    ・反米を掲げる中東諸国の多くは 日本の"忠臣蔵"や"特攻隊"の 「忠誠心」を高く評価しているが、
    日本を肯定する事は、アメリカにとって 非常に不都合で 良くない傾向..と捉えている事実。
    ・仇討ち・恩返しという 究極の美学が 近年の日本人に失われつつある..という悲しい現実。

    • @kobuturu5462
      @kobuturu5462 2 หลายเดือนก่อน

      とゆうよりもTH-camやネットで詳しく史実や時代背景が見れるようになってしまったのが原因だともいます。
      「一方的に逆切れして襲い掛かった、討ち入りは逆恨み」っていう解釈する人が増えて昔やっていたような
      「忠義」みたいなものが成り立ってないという考え方が増えたのが原因だと思います。
      あとよっぽどうまく作らないと時代劇自体が人気がないです。最近だとファンタジー系の「仁」ぐらいですよね
      連ドラ時代劇で視聴率取れたの・・・

  • @hidekiyoshizawa1255
    @hidekiyoshizawa1255 3 ปีที่แล้ว +6

    忠臣蔵は日本人の心であり魂! 勧善懲悪。本当に悪い奴は裁きを受けるべき。

    • @DT-ji1gj
      @DT-ji1gj ปีที่แล้ว +1

      その吉良上野介は地元では名君として今でも尊敬されてるんですけどw

  • @recoverj9015
    @recoverj9015 2 ปีที่แล้ว

    「日本を元気よく‼️」
    この方がいいですね!
    「カッコ良く」には、最初から今まで違和感を感じています😢
    皆さん、イイネ、お願いします🙇

    • @Angel-Appeared.
      @Angel-Appeared. ปีที่แล้ว

      日本は元氣です!
      という完了形が望ましいですよ✨
      元々カッコ良いし、元氣なんですよ😊

  • @yuna999999
    @yuna999999 3 ปีที่แล้ว +5

    親父がTVつけてた時(多分CATV)に、左回転が忠臣蔵を否定的に語っていて
    正直気分悪かったですわ…

  • @郷士土佐
    @郷士土佐 3 ปีที่แล้ว +7

    勉強になります。 WILL や DEEP MAX も併せてみてます。 弁護士さんの民社党って、路線はどっち向きの政党なのか。

    • @user-neko369
      @user-neko369 3 ปีที่แล้ว +2

      deepmaxって、ミャオフォーさん?kojisさんの方?

    • @user-neko369
      @user-neko369 3 ปีที่แล้ว +3

      弥富の中学生,その忠臣蔵的な事をやったと思いますが、中心人物は、身内からも、今の世の中からも、犯罪者として裁かれている気がしますが?殺しに来た、或いは、ドレイという身分として征服しに来た征服者に対して、窮鼠猫を噛むの気概で立ち向かった人をタダの殺人者として裁こうとしている気がします?日本社会は、正当防衛の権利を認めない社会なのでしょうか?

    • @郷士土佐
      @郷士土佐 3 ปีที่แล้ว +2

      @@user-neko369 妙佛さんです。

  • @mofrommars
    @mofrommars 3 ปีที่แล้ว +8

    お話しされてる忠臣蔵は後世の脚色、創作のものですよね。浅野内匠頭に殺意があったとかなかったとか、意味のない論議じゃないですか?それともちゃんとした記録とかあるのでしょうか?

    • @DT-ji1gj
      @DT-ji1gj 2 ปีที่แล้ว +1

      ないと思います。というかこのお二人は脚色ベースで議論してる感じですね(笑)

  • @いかるがはやた-e9i
    @いかるがはやた-e9i 3 ปีที่แล้ว +3

    製作に費用がかかる。時代劇を演じられる役者が居なくなった。

  • @空色三つ葉
    @空色三つ葉 3 ปีที่แล้ว +2

    宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たちも苦境の中で我慢を重ねるも行き詰ったときに覚悟を決めて波動砲を撃つ
    精神は生きてるよ

    • @藤川ちゃんねる日本守り隊
      @藤川ちゃんねる日本守り隊 3 ปีที่แล้ว +1

      ウルトラマンは最後のトドメにスペシウム光線打つんですけどね。
      最初から使えよってどっちも思ったことある。

  • @杉J
    @杉J ปีที่แล้ว

    忠臣蔵はあくまでフィクションです。
    正しくは元禄赤穂事件です。
    忠臣蔵は歌舞伎、講談、文楽などの台本が元になっていてるんで根底が違います。
    忠臣蔵と赤穂事件を混同している様に感じました。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว +2

    たまらんなあ・・・忠臣蔵も知らないんじゃあ話にならん・・・ワンピースかバキか鬼滅の刃の話しでもすりゃあいいのか・・・だがそれは原型や原典ではなくて少年少女向けの型落ちしたサブカルチャーなんだが・・・正面から眉間を切りつけて、逃げるところを背後から斬りつけたところで・・・抑えにはいった梶川に・・梶川殿武士の情けで御座るいまひと太刀・・・と。
    源義経も平景清も山中鹿助もマイナーになってくんですかねえ・・・
    判官贔屓はおそらく怨霊信仰じゃあないかと。
    「源氏物語」の光源氏は・・・没落した当時の皇籍臣下した当時の「源性」の人々への供養・・・「平家物語」は没落した平氏一門への供養・・・ということではないかと。
    以下、引用
    日本史こぼれ話1ー奈良本辰也著―角川文庫ー初版ー昭和五十六年五月二十五日
    P22
    ・ソバかウドンか
    討ち入り前夜の赤穂浪士はどこで何を食べたか、というのが大問題。
    大高源吾ほか数名が本所近くの「うどん屋久兵衛」なる店に立ち寄ったというのが事の始まり。終結店へ急ぐ途中である。さて、彼らはそこで何を食ったか?
    厳寒の夜のウドンやだから熱いウドンに決まっていると、とみるのが普通。
    しかし、江戸はソバ、上方はウドンという思い込みがあるから「ウドンなんかくうものか、ソバにきまっている」の説も出て来る。
    「ソバ説」方はエスカレートして、全員そろったところで「ソバを注文した、とやってしまい、「何事でこうお揃いと、ソバ屋言い」なる川柳まで作って動員する。
    「ウドン説」派の反対もすさまじかったらしいから、妥協案で「ソバ切りは二十、ウドンは二十七」の新句も出て来る始末(柳多留」)江戸詰めのものはソバ、赤穂から駆け付けた者はウドン、というわけである。
    ・P27
    武士は二君に仕える
    数奇な運命、といっていいだろう。赤穂浪士のうち、原田孫大夫は初めは内藤忠勝(鳥羽藩)の家臣だった。忠勝の姉が水野長友に嫁したので、その付人として浅野家にやってきていた。
    延宝8年(1680年)、江戸の増上寺で内藤忠勝が発狂、永井尚長(宮津)に切りつけ、内藤家はは絶えた。孫大夫はロ人になってしまうところだったが、そのまま浅野家に仕えることになった。
    二十一年が過ぎた元禄14年、浅野長矩が得土壌中で吉良義央に切りつけ、浅野家は断絶、とうとう孫大夫は浪人になった。
     もう一人、村松喜兵衛秀直という赤穂浪士。
    この父親は堀田正信(佐倉藩)に仕えていて浪人になったのだが、その原因というのが万治三年(1680)、正信が幕政批判の情緒を出して大名をやめてしまし、堀田家断絶になったことにある。
    P140
    ・赤穂浪士の初芝居
    赤穂浪士が切腹したのは元禄十六年(1703)二月四日だが、それから二週間もしない二月十六日、江戸中村ザで「曙蘇我夜討」と題する狂言が上演されている。赤穂浪士をテーマにした芝居としては一番早いものである。
    ・大石様は梅干親父
    忠臣蔵の大石良雄ときたら美男俳優の訳にきまっているようなものだが、実際の大石は「やせ型で、梅干親父みたい」という記録もあった。
    日本史こぼれ話ー3
    P16
    妻たちの忠臣蔵 その1
    赤穂浪士の討ち入りから四十年後に、まず武林唯七の妻としょうする女が出現して、自分は吉良邸に女スパイとして入り込んだという話しをして大評判になった。それから十年たらずのうちに、今度は堀部安兵衛の妻だったという女が現れ、自分は安兵衛が高田馬場の決闘の際、たすきなくて困っているところをしごきをほどいて貸してやり、それが縁で妻となった女だと話した。赤穂浪士中、最も人気者の安兵衛の妻だというので、江戸っ子は大喜び、生き証人を一目でもみようと、彼女のところにおしかけた。
    妻たちの忠臣蔵 その2
    この安兵衛の妻だと名乗る女は、60歳くらいの妙海尼で、泉岳寺の傍らに庵をかまえ、一目でもと押しかける江戸っ子に、あれこれと仇討ちのいきさつを話して聞かせた。
    妙海尼の評判は高くなる一方で、ついに彼女の話を、尾州藩の侍がまとめて「妙海語」題する聞書をつくり、これがまた争って読まれた。今日、スターのおいたちの大作がベストセラーになっているのとよく似た事情である。
    妻たちの忠臣蔵 その3
    ただし、年齢やその他の点で、この妙海尼なる女は、真っ赤なにせものであることはあきらかなのだが、世は忠臣蔵ブームにわいていたので、だれもがいろんな矛盾に目をつぶって妙海尼をスター扱いした。
    彼女のサインや色紙を代筆する者が現れそれがまた喜ばれたというから、ブームとはおかしなものである。妙海尼自身も比丘尼宿を経営して、ガッポリ儲けた。
    P111
    浮き沈み
    赤穂浪士の血盟は、最初が六十一人で、一番増えたときが百三十人、最後は四十七士に落ち着いた。
    P113
    だれもしらない
    四十七士が本懐をとげてひきあげるとき、江戸の町人が黒山のようにたかったという話しになっているが、そんなことは不可能、町人は武家屋敷のあけがたの事件に氣づきもしなかった。
    P130
    赤穂浪士を殺すな
    四十六人が切腹させられるやいなや、江戸日本橋の高札第一条「忠孝にはげむべきこと」の「忠孝」の二字が何者かの手で黒々とぬりつぶされてしまった。
    P140
    暗殺も進歩する
    吉良義央が四十七人、井伊直弼が十八人、横井小楠木が八人、大村益次郎が七人、大久保利通が五人、森有礼・星亨・原敬が一人ー
    一人を殺すのに刺客の数は減少してきた。だから暗殺にも進歩の後が見られる、と論評したのが宮武外骨。
    P189
    伝説
    高場馬場のけっとうでは、助太刀の堀部安兵衛が獅子奮迅の働きをしたように思われているが、安兵衛はまだ若くて刀も二尺二、三寸と短く、腕前も未熟だったらしい。

  • @shinzaemongolf6753
    @shinzaemongolf6753 3 ปีที่แล้ว +3

    日本人がいかにも好きそうな話を詰め込んだような物語だよね
    尾田栄一郎は忠臣蔵好きだよね!
    ワンピースは現代版忠臣蔵だと思う。

  • @だんだんだん-u4f
    @だんだんだん-u4f 3 ปีที่แล้ว +2

    なんで大石らは幕府には反感示さなくて吉良を討ち入りしたんでしょうね?
    吉良がおとがめなしなのは幕府の指示なんで徳川綱吉を切りつけたらカッコいいのに

  • @kuru-qg1iu
    @kuru-qg1iu 2 ปีที่แล้ว +1

    予算の問題が一番だよ。時代劇一本作るのに5000万円かかるからね。特番はさらにかかるのにスポンサーはいないしね。

  • @hirotanix
    @hirotanix ปีที่แล้ว

    興味深い会談なんですが・・・
    次回に引っ張るところが金目当てって感じで残念!

  • @shabazo1
    @shabazo1 3 ปีที่แล้ว +1

    吹けば飛ぶような小藩の浅野家が上座と下座を入れ替えようと思えば事件を起こしてお取り調べの中で訴えるしかなかった。
    そこでとりあえずダメ元で吉良へ訴えたところ案の定聞く耳持たずの対応をされる。
    浅野はここぞとばかり小刀を抜いて斬り掛かるもただ事件を起こすのが目的、峰打ちでオデコに傷を付けるにとどまる。
    将軍家は浅野の腹の内を知るや訴えを聞いては対応を迫られるので殿中での刃傷沙汰だけを咎め即日切腹を言い渡す。
    まぁ、そんなところじゃないの?

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว +8

    梶川 頼照(かじかわ よりてる)
    江戸時代前期の旗本。
    生涯
    幕府旗本土岐頼泰(切米600俵、土岐頼次の三男)の次男として生まれる。母は旗本山岡伝右衛門景重(400石)の娘。
    明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁。寛文3年(1663年)11月19日から御書院番として出仕。寛文4年(1664年)8月11日、姉が嫁いでいた梶川分重が嗣子なく没したため、その養子となって家督を継いだ。元禄9年(1696年)4月25日、本所奉行に就任。元禄10年(1697年)正月22日、御腰物奉行頭。同年12月18日には布衣(六位相当になったことを意味する)の着用を許された。元禄13年(1700年)7月18日、大奥御台所付き留守居番となる。
    元禄14年(1701年)3月14日、江戸城大廊下で浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、長矩を取り押さえた(取り押さえたのは高家の京極高規との説もある)。この手柄で3月19日、武蔵国足立郡に500石加増され、それまでの下総国葛飾郡の所領とあわせて都合1200石となった。この事件の仔細を『梶川与惣兵衛日記』に残した。長矩が斬りかかる際に「この間の遺恨覚えたか」と叫んだ話もこの日記を根拠とするものである。
    宝永4年(1707年)正月15日、西城持筒頭に就任し、正徳元年(1711年)4月1日、武勇の者が選ばれる槍奉行に選ばれた。享保4年(1719年)2月7日、職を辞し寄合(無役の旗本)に列する。享保5年(1720年)5月23日、隠居して養老料として切米300俵を受けた。享保8年(1723年)8月8日に死去。享年77。
    貞享元年(1684年)8月28日に起こった若年寄稲葉正休による大老堀田正俊への殿中刃傷の際にも居合わせたといわれる。
    刃傷事件に関する記述
    ウィキソースに梶川日記の原文があります。
    前述のとおり頼照は江戸城での浅野長矩の吉良義央への刃傷事件の現場に居合わせ、その事件の詳細を『梶川日記』に書き残している。事件に関する頼照の記述は現代語訳で見てみると次の通りである。
    「自分はいつもどおり登城して大奥にいった。その日の奉答の儀式で自分は、御台所信子様の使いの役目があった。しかし吉良上野介殿からの伝言を受けて勅使様の都合で儀式の刻限が早まったことを告げられたので、詳細を直接吉良殿にお伺いしようと思って吉良殿を探した。松の廊下に面した下の御部屋にいた茶坊主に『吉良殿をお呼びせよ』と命じたが、その茶坊主は『吉良上野介様は御老中に呼び出されました』と答えた。そのとき勅使接待役の浅野内匠頭殿の姿が見えたので、自分はその茶坊主に『内匠頭殿をお呼びせよ』と命じた。それを受けて内匠頭殿が自分の方へ参られたので、自分は『諸事よろしくお願いいたします』とご挨拶申し上げた。内匠頭殿は『心得ております』と答えられ、下の御部屋の自分の席に戻られた。その後、大広間から白書院の方を見てみたら吉良上野介殿が白書院の方からこちらへ来られるのが見えた。そこで自分はふたたび茶坊主に『吉良殿をお呼びせよ』と命じた。茶坊主はすぐに吉良殿の方へ行き、その伝言を受けた吉良殿の様子はよかろうと言った感じで、すぐに自分のところへ向かって来られた。なので自分も吉良殿に近づき、松の廊下がまがったところにある角柱から6間から7間ぐらいのところで吉良殿と自分は対面した。自分が『本日の勅使様の刻限が早まったのでしょうか』と吉良殿にお尋ねしていたところ、突然、誰だかはわからないが、吉良殿の後ろから『この間の遺恨を覚えているか』と声をかけてきて吉良殿に斬りかかった者がいた。
    太刀の音はすごく大きく聞こえたが、のちに聞いたところでは傷はそれほど深くなくて浅手だったらしい。自分達も驚いてよく見れば、なんとそれは勅使御馳走役の浅野内匠頭殿であった。上野介殿は後ろのほうへ逃げようとしたところをまた二回ほど斬られ、うつ向きに倒れられた。自分達は内匠頭殿に飛びかかった。内匠頭殿との間合いは二足か三足かという短いものであったので、すぐに組み付く形になったと記憶している。自分達はまず内匠頭殿の刀を取り上げるとともに床に押し付けて動けなくした。そのうち近くにいた高家衆や院使御馳走役の伊達左京亮殿、また坊主どももやってきて次々と取り押さえに加わってくれた。上野介殿はいつの間にかいなくなっていた。誰かが運んでくれたのか、周りにも見えなかった。のちに聞いたところでは高家の品川豊前守殿と畠山下総守殿が上野介殿を引き起こしたが、ご老齢での負傷であるので、吉良殿にはほとんど意識がなくなっていて、この両名で御医師の間へ運んだということだそうである。それより内匠頭殿は大広間の後ろのほうへ大勢に連れて行かれた。そのとき内匠頭殿は『上野介には恨みがある。殿中であること、また今日は儀式であることに対して恐れ多いとは思ったが、仕方なく刃傷に及んだ。討ち果たさせてほしい』と幾度も繰り返して申しておられた。しかしあまりにも大声であったので、高家衆をはじめ取り囲む人々から『もはや事は終わったのです。おだまりなさい。あまり大声では如何なものかと思いますよ』と言われたので、それ以降は内匠頭殿も何もいわなくなった。」
    頼照はその後の赤穂浪士の討ち入りで高まっていく浅野贔屓の空気の中で辛い思いもしたようである。日記の最後には「この事件のことを色々知ることになった今となれば、内匠頭殿の心中は察するにあまりある。吉良上野介殿を討てなかったことはさぞかしご無念であったろう。本当に不意のことだったので自分も前後の思慮にまで及ばなかったのである。取り押さえたことは仕方なかった」と心中を述べている。
    さらに辛い思いは子孫にも及んだようである。幕末の旗本大谷木醇堂は自分の手記に「梶川半左衛門は、予が弓術の友なり。」と書き出し、先祖の頼照が刃傷事件で浅野内匠頭を取り押さえたり、500石加増されたことについて、半左衛門に並べ立てた厭みを会話体で記している[1]

  • @梶村ひろあき
    @梶村ひろあき 3 ปีที่แล้ว +2

    忠臣蔵の放送がなくなったのは日本が国際化していく中で第二次世界大戦に日本が参戦する太平洋戦争のきっかけになった状況に似ているからではありませんか❓️ABC作戦で日本を追い詰めて最後はハルノートとどめを刺したから日本が太平洋戦争に踏切ったのでは❓️そこまでしたのもアメリカ側にもちゃんと理由があったんですけどね‼️

  • @MrYomigaeri
    @MrYomigaeri ปีที่แล้ว +1

    史実と物語の違いをよく理解してから語って欲しいわ!山鹿素行の名前すら出て来ないで本当の事は判りませんね。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว

    プレスコードー1
    『忠臣蔵』を通じてみる、占領した者とされた者のメンタリティ
    日  時:9月13日(土)
    場  所:早稲田大学政治経済学部内、3号館2F、第1会議室
    発 表 者:谷川建司(茨城大学助教授)
    ※ 注:この発表に関する詳しい内容は、今月の25日に発売となる岩波書店『文学』9・10月号に載せる予定です。ぜひご覧下さい。
    1) ピクトリアル・メディア
     民間検閲部(Civil Censorship Detachment = CCD)内の、プレス・映画・放送課(Press, Pictorial and Broadcasting Division = PPB)、および民間情報教育局(Civil Information and Education Section = CIE)の情報課(Information Division)ともに、マス・メディアの中で映画・演劇・紙芝居・幻燈といった視覚メディアをピクトリアル・メディアと総称し、それを専門に扱うスタッフを擁していた。
     ※PPB=概略的な4項目の「ピクトリアル・コード」、および細目については映画の場合は9項目の「映画コード」(試験によって採用した日本人検閲官に対する具体的な指針)を作成。
     ※CIE=10項目の「製作が奨励されるべき映画」、および13項目の「製作を禁止すべき映画の内容」の具体的テーマを日本の映画会社各社に提示。
    → 軍国主義・国家主義・愛国主義・反民主主義なものの禁止。加えて「仇討に関するもの」および「封建的忠誠心または生命の軽視を好ましいこと、また名誉なこととしたもの」という条項があった。これにより「チャンバラ禁止」の事態
    → 最も厳しい立場に置かれ、最も徹底的に禁止された題材=「『忠臣蔵』もの」であった。
    2) 「『忠臣蔵』もの」
    文楽や歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』、浪曲、講談等を通じてポピュラーになっていった義士銘々伝や外伝ものなど数々のヴァリエーションがある。
    「『忠臣蔵』もの」は映画、演劇、講談、浪曲、とピクトリアル・メディアを含むあらゆるメディアにおいて最も人気のある作品であり続けてきた。
    → 主君浅野内匠頭長矩(あるいは塩谷判官)に対する四十七士の「封建的忠誠心」   「生命の軽視を……名誉なこととしたもの」的な要素(例、矢藤右衛門七の母)   「仇討に関するもの」これらの要素がすべて含まれている。
    → 禁止すべきもののモデルとして「『忠臣蔵』的なるもの」を想定していた可能性。
    3) 『LIFE』誌の記事と『仮名手本忠臣蔵』の解禁
     「歌舞伎を救った男」=フォービアン・バワーズ(Faubion Bowers)の説
    → 『LIFE』の1943年11月1日号に掲載された「"The 47 Ronin" The Most Popular Play In Japan Reveals The Bloodthirsty Character Of Our Enemy」と題した『忠臣蔵』についての特集記事をGHQの上層部スタッフが事前に読んでいたために上記の内容の条項が特に禁止項目に加えられたのではないか?
     バワーズはPPB演劇検閲官として歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』解禁のために奔走。その努力により1947年11月に東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』の通し狂言(大序から九段目まで通し八幕)が行なわれた。
    → 厳密には、1947年1月に京都南座で、また同年2月に東京劇場でそれぞれ『仮名手本忠臣蔵』の中で八段目の「道行旅路の花聟」のみが上演されたという記録あり。ただし、11月の東京劇場での通し狂言としての興行では、11月29日に皇后・皇太后が揃って観劇する(五、六、七、九段目)という「『忠臣蔵』もの」解禁を象徴するイヴェントがあった。
    → 解禁が実現した理由として、バワーズは「現代人に対して影響力を持ち得ない古典芸能であり、保存すべきもの」という解釈を前面に掲げることでGHQ内でのコンセンサスを得ることが出来た、と証言。
    → ただし、この解禁以後も映画や地方の小規模な演劇活動など、それ以外のピクトリアル・メディアにあっては「『忠臣蔵』もの」は禁忌とされ続けた。
    4)  PPB「インフォメーション・スリップ」(情報回覧)
     「ピクトリアル・コード」違反で不許可となったケースについての報告書の綴りである、PPB「インフォメーション・スリップ」(情報回覧)の1949年4月18日から10月10日までの約半年分を分析したところ、「『忠臣蔵』もの」に題材をとった演劇作品の上演計画が合計で25件ないしは26件(1件のみ重複の可能性あり)ある。
     うち保留措置(Pending)となった一例を除いて、すべてのケースにおいて上演許可は認められず、「右翼プロパガンダ」として禁止(Suppressed)の措置が取られている。
    → この半年というのは占領終結が視野に入り、かつ検閲が実施されていた最後の半年という時期であり、歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演解禁から一年半ないし二年経過している時期である。
    → 特に、タイトルから推察すれば単なるパロディとして上演が企画されていたと思われるケース(『喜劇高田馬場』)であっても全く同様に「右翼プロパガンダ」として禁止されている事実には注目すべき。
    → 唯一、判断が保留となっているケースは三重県での『仮名手本忠臣蔵』上演許可を求めたもの。申請者=尾上菊衛門(原資料のローマ字より表記を推察した)が尾上菊五郎家と姻戚関係にあるのかどうかは不明。PPBがその可能性、もしくはこの人物と松竹との関係を確認する必要性を感じていたために、有無を言わさずに「禁止」にしなかったという可能性も否定できない。
    → 興味深い事実=占領自体が終結に差し掛かり、PPBの検閲が廃止される直前の半年間という時期において、全国の至るところで松竹のような大興行主とは別の次元で様々なピクトリアル・メディアによる「『忠臣蔵』もの」上演の申請がなされていたという事実。 そしてそれがことごとく禁止されたという事実。
    → 「『忠臣蔵』もの」上演の申請件数の占領期間を通じての推移については不明。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว +1

    プレスコードー4
    削除および発行禁止対象のカテゴリー(30項目)
    江藤淳は、アメリカ国立公文書館分室の資料番号RG331,Box No.8568にA Brief Explanation of the Categories of Deletions and Suppressions,dated 25 November,1946が保管されていたことがわかったと述べている[13][14]。この「削除と発行禁止のカテゴリーに関する解説」において次のような具体的な検閲の対象カテゴリーが30項目も規定されていた[13]。検閲では以下に該当しているか否かが調べられた。
    SCAP(連合国軍最高司令官もしくは総司令部)に対する批判
    極東国際軍事裁判批判
    GHQが日本国憲法を起草したことの言及と成立での役割の批判《修正:2018年4月26日、江藤氏原訳「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」を英文原文に従い修正。修正根拠は記載のアメリカ国立公文書館の典拠文書の記述に拠る。(細谷清)》
    検閲制度への言及
    アメリカ合衆国への批判
    ロシア(ソ連邦)への批判
    英国への批判
    朝鮮人への批判
    中国への批判
    その他の連合国への批判
    連合国一般への批判(国を特定しなくとも)
    満州における日本人取り扱いについての批判
    連合国の戦前の政策に対する批判
    第三次世界大戦への言及
    冷戦に関する言及
    戦争擁護の宣伝
    神国日本の宣伝
    軍国主義の宣伝
    ナショナリズムの宣伝
    大東亜共栄圏の宣伝
    その他の宣伝
    戦争犯罪人の正当化および擁護
    占領軍兵士と日本女性との交渉
    闇市の状況
    占領軍軍隊に対する批判
    飢餓の誇張
    暴力と不穏の行動の煽動
    虚偽の報道
    GHQまたは地方軍政部に対する不適切な言及
    解禁されていない報道の公表
    検閲の結果
    民間検閲支隊(CCD)はさらに10月1日には「進駐米軍の暴行・世界の平和建設を妨げん」という論説を掲載した東洋経済新報9月29日号を押収した[15]。この記事は石橋湛山によって執筆されたものだった[16]。村上義人は、これ以降、プレスコードの規定のため、占領軍将兵の犯罪自体が報道されず、各メディアは「大きな男」と暗に仄めかさざるを得なかったと発言している[17]。
    また、一般市民の手紙・私信のうち月400万通が開封され、検閲をうけていた[18]。さらに電信や電話も盗聴された[18]。
    江藤淳はGHQによる言論統制についての著書『閉ざされた言語空間』のなかで次のように述べている[19]。
    検閲を受け、それを秘匿するという行為を重ねているうちに、被検閲者は次第にこの網の目にからみとられ、自ら新しいタブーを受容し、「邪悪」な日本の「共同体」を成立させて来た伝統的な価値体系を破壊すべき「新たな危険の源泉」に変質させられていく。この自己破壊による新しいタブーの自己増殖という相互作用は、戦後日本の言語空間のなかで、おそらく依然として現在もなおつづけられているのである。
    削除・発禁処分の事例
    戦前・戦中の欧米の植民地支配についての研究書など7769冊に及ぶ書物が官公庁、図書館、書店などから「没収宣伝用刊行物」として没収され、廃棄された[20][21]。
    原爆関連
    栗原貞子の詩「生ましめん哉」
    峠三吉の詩「にんげんをかえせ」など
    壺井栄の短編小説「石臼の歌」では、原爆によって家族を失った登場人物(遺族)たちの心理描写がほぼ削除され、疎開先である田舎の風景の描写を増補した表現に差し替えられている。
    永井隆の『長崎の鐘』は1946年8月には書き上げられていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により出版許可が下りず、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、1949年1月、日比谷出版社で出版された。
    雑誌『創元』1946年12月創刊号に掲載予定だった吉田満による戦記文学『戦艦大和ノ最期』はGHQの検閲で全文削除された[22]。独立回復後の1952年に創元社から出版。
    川路柳虹の詩「かへる霊」[23]

  • @speedmaster1861
    @speedmaster1861 3 ปีที่แล้ว +6

    武士道と任侠道を同一に考える此の御仁は日本人なのか? 任侠道に義理人情が有っても武士道が掲げる正義はない。

    • @石井康明-k8q
      @石井康明-k8q 3 ปีที่แล้ว +2

      何を当たり前の事を?
      そりゃ任侠道に正義なんかあるわけないでしょ。
      任侠の世界に生きる者が(まあかつてはいた、として) 正義なんか口にだすなんておかしいですもん。
      この話は“ストーリー上の構造”について語っているのであって任侠道と武士道が同じ価値とは言ってないのでは?
      昔のヤクザ映画に魅力を感じて楽しんだ人たちも正義なんて問題にしてないでしょ。

    • @speedmaster1861
      @speedmaster1861 3 ปีที่แล้ว +3

      @@石井康明-k8q 「任侠道と武士道が同じ価値とは言ってないのでは?」だったら、何処の発言からそのように解釈出来るのか回答してみなよ! 南出氏は繰り返し同じと発言してるじゃないか!何の根拠もない単なる主観なら人に意見する資格ないよ。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว +1

    吉良義央ー4
    江戸っ子と田舎大名
    義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国(愛知県)などに領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地に自己同一性を持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地において地元や居城・領民などへの愛着を持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。
    当時の賄賂
    当時、勅使饗応役に就任していたのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。また、任ぜられた大名が高家から指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが慣例となっていた。そうした中、当時の文献には義央が暗に賄賂を要求したが、浅野長矩が十分な賄賂を送らなかったことが両者の不和の原因だとするものがある。
    松之大廊下で刀傷事件が起こった時には、二回目の勅使饗応役である浅野長矩は義央に指南料として大判金1枚[注釈 7]・巻絹1台・鰹節一連を贈っている[78]。同時期に、院使饗応役を任じられた伊予吉田藩主の伊達村豊は、大判100枚・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅を贈っている[78]。また、饗応役の指南料の相場については、はじめに「御馬代」といった名目で大判金を1枚、無事に役目を果たした後に、さらに大判金1枚を贈るのが慣例だったとされている[78]。また、金子に添えられる付届は、国土産という国の産物であった[79]。
    また、当時の指南・指導に対する指南料については、事例は少し異なるが、以下のような例がある。
    明暦2年(1656年)正月に後西院が即位した際に、薩摩藩は島津忠弘を使者として上京させて、朝廷に祝儀を贈っている。その際に忠弘は、指導を受けた幕府の上使である松平頼重と吉良義冬、及び京都所司代牧野親成にそれぞれ「太刀・馬代」として銀一枚を贈っている。この時、牧野は受領したが、松平・吉良は返納したと記されている。このように指南料を返納したのは、父の吉良義冬の頃には、指導・助言に対する贈答行為は定着していなかったためであろうとされている[80][81]。
    当時の吉良家の経済状況
    義央が当主であった当時の吉良家の家計は、非常に逼迫した状況にあった。その様子は「閏十一月二十一日付千坂兵部・本庄出羽書状」に、「去年迄は従弾正殿の合力有之に付、とやかくと暮し候、今年よりは合力無之筈に付、内々ひしと手つまり禿候と被申候」とあり、その他の「六月二十日付須田右近書状」などの計3点の書状で、上杉家・吉良家・吉良家の親類などが困窮し、破綻しかけている吉良家の家計に対する金策を苦悩しながら相談している様子がいくつも書かれていることから明らかとなっている[82]。また、こうした経済的状況にあった吉良家は、出費を削減するために、大老の酒井忠清に一年に二度も京都への御使を命じられることのないよう申し入れを試みようとしていた[83]。更に、義央は家計逼迫を理由に、今後、諸家への音信・贈答などを全て省略することを畠山義里を使者に立て老中の大久保忠朝に申し入れている[84][23]。そして、ここでいう「諸家」は高家の交際範囲は大名・旗本等の武家に留まらず、京都上使を勤めるのに当たり、天皇家や親王家及び公家衆などの堂上方、西本願寺なども含まれていたとされる[84]。
    義央の木像
    元禄2年(1689年)に吉良義央は家臣に命じて、華厳寺の西側に霊屋を建て、三基の厨子を並べ、中央に吉良義安の木像を安置し、左に義定の木像、右に義央の自像を安置したという。義央が父祖幾代の像を差し置いて、自己の像を安置したのは僭越の行為であったとされ、義央自身、「生前自身に像を安置するのは憚あれど、五十に達するに遠慮は及ばず」として、敢えて像を安置したという[85]。
    吉良と大石の縁戚関係
    吉良義央と大石良雄の2人は、近衛家諸大夫進藤家と斎藤家を通じる形で遠縁がある。義央から見れば、妻の母親の実家を継いだ者が大石家の血の流れる者だったということになる。しかし、事件前から面識があったかどうかは不明である。
    伝記
    鈴木悦道『新版 吉良上野介』(中日新聞社、1998年) ISBN 4806203025
    中津攸子『吉良上野介の覚悟』(文芸社、2001年) ISBN 4835513541
    岳真也『吉良上野介を弁護する』(文春新書、2002年) ISBN 4166602853

  • @トガユイシ
    @トガユイシ 3 ปีที่แล้ว +4

    最近のなろう小説でも主人公がまわりからの酷い目にあってその後やりかえす話が流行っていて、それら原作アニメ化がされています。若者の中にもそういう話が好きな人はおおいのではないでしょうか

  • @danpeitange2471
    @danpeitange2471 หลายเดือนก่อน

    「こらえて、こらえて一心太助。ギリギリこらえて、もう我慢ならねえ。」 真珠湾攻撃も、そうだったんじゃないかな。

  • @カスケ-v3h
    @カスケ-v3h 2 ปีที่แล้ว

    見解の不一致がありますが、いずれにしろ、あそこで斬ってたら赤穂浪士の仇討ちは無かった。
    時代劇はお金がかかり、観る人が減ってきたという認識でしたが"悪"にとって都合が悪く無くして欲しい思惑があるかもしれない🤔

  • @user-hs6oz7dn2g
    @user-hs6oz7dn2g 2 ปีที่แล้ว

    殺意はないと思うなぁ。それに、浅野さんは、ほめられ、許されると思っていたと考えられ、切腹も怪しい。政治的に利用された可能性も高い。そうして初めて、討ち入りに意味が宿ると思えてならない。

  • @今村洋一-s7h
    @今村洋一-s7h 2 ปีที่แล้ว +1

    こじつけではないかな

  • @S春香
    @S春香 3 ปีที่แล้ว +2

    先生方は、井沢元彦さんの「逆説の日本史」の忠臣蔵についての解説をお読みになっていないように拝察いたしましたが、吉良上野介が浅野内匠頭に数々の嫌がらせをしたという部分も、後世の脚色だそうですね。歴史ドラマという触れ込みでテレビ放送すると、イロイロ問題があるという理由もあるのでは?
    常識的に考えて、朝廷からの使者の接待役の浅野が失態をしたら、監督役の吉良も公方様から相当のお叱りを受けるのですから、邪魔している場合じゃないだろうというのが前述の井沢氏の見解で、根拠としては、内蔵助がちゃんと監督しなかったもなにも、内匠頭は同じ接待役を何年か前にも拝命していた記録があり、自分の仕事は知っていたはずだという事があるそうです。また、この接待の前に1年ほど、吉良自身が京都へおもむき朝廷との交渉や下準備に奔走していたそうで、自分でお膳立てした接待を、後輩をイジメていて失敗するようなマネをするのかどうか、おおいに疑問視するべきではないかと・・・いや、これ以上ネタバレするのは控えましょう。🤭

  • @ハッピーにこ
    @ハッピーにこ 3 ปีที่แล้ว +9

    昨日 三輪さんの 三島由紀夫氏の
    「清明」の 碑の前で 今の時代を三島由紀夫氏は………と
    おもひを馳せておりました。
    「赤信号みんなで渡れば怖くない」等の標語の流行った頃からか
    じわりじわりと 人の意識の変化………
    行き着くところまで 行かないと
    目覚められないじゃピゃんぴーぶぅなのでしょう
    次回の配信も とても 楽しみにお待ちしています
    いつも ありがとうございます

  • @openganseki5732
    @openganseki5732 2 ปีที่แล้ว

    大東亜戦争こそ忠臣蔵

  • @三宅猫之助
    @三宅猫之助 3 ปีที่แล้ว

    内蔵助の三男である大三郎があまりよろしくない人物らしいというのも、四十六士は美しいまま世を去ったと思わせるものがあります。

  • @clements413
    @clements413 2 ปีที่แล้ว +3

    忠臣蔵は美談なのか。詳細まで知ってるが、浅野がイカれてる。吉良は真面目で良い奴。可哀想。 大石は暴力事件47人のリーダー。事件後、朝廷は心の中で感謝してるよ。

  • @cotton-Club.
    @cotton-Club. 3 ปีที่แล้ว

    武士道としては、刺すのは、正面からでしょう。相討ち覚悟の。背後から斬りつけたのは、相手を振り返えらせるためでしょう。背後から刺し殺すのは、外道のすること。匠守としては、一擊、二擊で足止めし、三擊で決着、トドメを刺す覚悟だったのかもしれませんね。

    • @HO-wu7fp
      @HO-wu7fp 11 หลายเดือนก่อน

      騎士道と武士道を混同している方を見掛けますがこれは本来別物です。
      「背後から切り付けない」というのは騎士道。
      騎士は攻撃の意志を持たない同身分の敵を殺さない、なぜかというとヨーロッパ社会の貴族は国境を超えた密接な婚姻関係があり全員身内という意識。
      翻って武士道は「敵に背中を見せない」。
      武士は原則としては皇族に仕える身分であり武道が本分、逃げるのは身分に相応しくない行動でありまた逃げた敵を逃がすのも武士には許されない失態。
      敵の背中を切るのを躊躇うこそ卑怯者という意識が本来です。
      なぜなら武士は西洋の騎士と異なり、良くも悪くも自分の行動を自分で統制できる身分では無いからです。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว

    佐野 政言(さの まさこと、 宝暦7年(1757年) - 天明4年4月3日(1784年5月21日))は、江戸時代中期の旗本。佐野政豊の子で、通称を善左衛門という。目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。妹に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。
    ※田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」[4][14]と呼ばれて崇められた。高止まりだった米の相場は偶然か刑の翌日から下落し財政は逼迫。
    ※天明6年(1786年)の処分を経て田沼意次も失脚する[6](天明8年)。年が明け改元後の寛政元年(1789年)に黄表紙『黒白水鏡』(石部琴好作、北尾政演画)を出版すると、あからさまに刃傷事件を表したとして、版元と絵師が告発され手鎖と罰金刑にあう[3][15]。
    概要
    佐野善左衛門家は三河以来、徳川家に仕えた譜代である五兵衛政之を初代とし代々番士を務めた家であり、綱吉治世の1698年(元禄11年)より番町に屋敷を構えた[注 1]。政言は6代目にあたる。父伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め1773年(安永2年)に致仕し、代わって8月に政言が8月22日に17歳で家督500石を相続した。1777年(安永6年)に大番士、翌1778年(安永6年)に新番士となる[2]。
    天明3年(1783年)年の冬、将軍徳川家治の鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受け、雁1羽を射ち取りながら褒賞にあずかれなかった[3]。同4年(1784年)3月24日、江戸城中で若年寄・田沼意知に向かって走りながら「覚えがあろう」と3度叫び、一竿子忠綱作の大脇差で殿中刃傷に及んだ[4]。その8日後に意知が絶命すると、佐野政言には同4月3日に切腹が命じられ、揚げ屋敷で自害して果てた[5]。数えの28歳[6]であった。葬儀は4月5日に行われたが、両親など遺族は謹慎を申し付けられたため出席できなかった。佐野家も改易となり、遺産は父に譲ることが認められた。唯一の男子である政言には子がなかったこともあり佐野家は絶えたが、幕末になって再興されている[6]。
    犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事[注 2][要出典]、下野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事等々、諸説[注 3]あったが幕府は乱心として処理した[9][11][13]。
    影響
    田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」[4][14]と呼ばれて崇められた。高止まりだった米の相場は偶然か刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて天明6年(1786年)の処分を経て田沼意次も失脚する[6](天明8年)。年が明け改元後の寛政元年(1789年)に黄表紙『黒白水鏡』(石部琴好作、北尾政演画)を出版すると、あからさまに刃傷事件を表したとして、版元と絵師が告発され手鎖と罰金刑にあう[3][15]。
    墓所は台東区浅草の徳本寺(とくほんじ[6][16])。法名は元良印釈以貞。
    佐野政言が登場する作品
    隠密秘帖(NHK正月時代劇、演:金児憲史)
    大江戸捜査網2015~隠密同心、悪を斬る!~(テレビ東京、演:佐野圭亮)
    陽炎の辻 完結編〜居眠り磐音 江戸双紙〜(NHK正月時代劇、演:山崎銀之丞)
    大奥(よしながふみ、白泉社)
    風雲児たち(みなもと太郎)

  • @北斗七星-w5q
    @北斗七星-w5q 3 ปีที่แล้ว +1

    貴様ら、日本人か?、、、

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว

    赤穂事件(あこうじけん)
    ※江戸期においては、一般的に、は四十七士の家系は、名士として遇された。時は戦国から太平にシフトする元禄時代。秀忠、家光による改易、お取りつぶし、あるいは島原の乱を経て、由比小雪の乱がおこったのがつい数十年前である。殺伐たる世の中を改変していく過程では、当時の世相としては復古の感覚が強いであろう。大名が執政の役に切り替わりつつある当時である。現代の感覚で安易にテロ扱いしてはいけない、一連の事件は、已むに已まれぬ大和魂、と見てよいであろう。これは美意識である。
    ※浅野内匠頭の辞世は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」である。察するに・・・時代的にやや下る、国学者である本居宣長にも影響があったろう。
    「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」という心情に通ずるものであり、パッとさいてパッと散る。という当時の日本人の心情を表したものであろう。
    ※さかのぼれば、「久かたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむー紀友則」、「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃ー西行」にも通じる日本人の心の現れである。
    ※意地悪で、意汚く、姑息な手法で、法の網の目をくぐってズルをしていた長屋の因業爺さんを、近所の若い衆が「テメエ!いい加減にしねえか!ちったあワキマえろ!」というのは江戸の長屋ではよくあったことであろう。江戸っ子が喜ぶのは当然である。
    ※現代の感覚で、あるいは法がすべてだという四角四面の解釈で捉えてはいけない。同時代感覚を察するべきである。そもそも現代の法でも情状酌量というものがある。打ち首、獄門ではなく、主君も、家臣も切腹という処遇であったのは、幕府側、吉良側、にも治世の関係で色々あるんだが、そ知らぬふりをして討ち入りを援助したのだろう。
    ※会社で例えれば、よくいるゴマスリ屋、腰ぎんちゃく、こズルク立ち回る恥知らずな部課長職を中堅の主任あたりが・・・「テメエいい加減にしろやコラ!」とハリセンでぶっ叩き、反抗的な新入社員や、生意気な二、三年目の社員が粋がってデカイ口を叩くようになると、秩序が乱れる、という理由で、子会社に出向になって、冷や飯をくわされるといった所であり、主任の残った部下が、こズルク、陰険で、姑息な部課長職のスキャンダルの証拠と種を全国の支社に吹聴し、退職に追い込んだといえばリアリティがあろうか。いずれにしろ、単なるテロ事件として扱うには、人気がありすぎる。江戸期の事件は他にもいくらでもある。当時の実社会での配役の妙によあるものだろう。倫理を通す上で、法を犯すというのは現代でもよくあることである。逆に法の網の目を盗んで、楽をしてズルをしたがるホリエモン氏やヒロユキ氏のファンや支持者の如きは、反発するであろうが。
    ※当時の感情的軋轢、利権政治屋、欲ボケと山鹿流という事実はフィクションとして作られている法制度より、人間の生の感情、思考、思想として、重いのである。法とは同意あってのフィクションである。誰も信じなければ無効であり、有効性を認めなければ、無力化する。そういうことである。
    18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城・松之大廊下で、高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央[注釈 1]に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央らを討った事件を指すものである(「江戸城での刃傷」と「吉良邸討ち入り」を分けて扱い、後者を『元禄赤穂事件」としている場合もある)。
    概要
    名称に関して
    史実としての本事件を指す用語としては、「赤穂事件」で統一されている[1]。一方で、歴代の赤穂藩主時代の家中において発生した事件との混同を避けるため、池田家において藩主池田輝興が狂乱し正室などを殺した「正保赤穂事件」、森家において攘夷派が藩政を私物化した家老の森主税を暗殺するという「文久赤穂事件」と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる。
    また赤穂事件を扱った創作物は、人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』以降、本事件を忠臣蔵と呼ぶことが多い。講談では赤穂義士伝(あるいは単に義士伝)と呼ぶ。
    吉良を討ち取った47人(四十七士)の行為を賞賛する立場からは、四十七士のことを赤穂義士(あるいは単に義士)と呼ぶ。それ以外の立場に立つ場合は、四十七士を含めた赤穂藩の浪人を赤穂浪士と呼ぶことが多いが、この名称は事件のあった元禄時代には一般的な言葉ではなく、作家の大佛次郎がそれまでの義士としての四十七士像を浪人としての四十七士に大転換する意図を持って書いた小説『赤穂浪士』で一般的になったものである[2](ただし先行作にも使用例あり[3])。
    このため「赤穂浪士」という言い方を避け、赤穂浪人という言い方がなされる場合もある[4]。
    なお、『和名類聚抄』の「播磨国郡郷考」では赤穂は「阿加保(あかほ)」という表記である[5]。赤穂事件の関連では1913年(大正2年)の「教育画集赤穂義士」の表紙のふりがなも「あかほぎし」となっており、城の明け渡しの文も「アカホノシロワタシ」となっている[5]。この点に関しては旧仮名遣いの「あかほ」を「あこう」と読んでいたという説がある[5]。

  • @東洋チャンピオンダイナマイトパンチ

    忠臣蔵をあまりにも美化しすぎましたか?あれじゃ愛知県人から見ればもうウンザリ。わかったわかった〜もういいわい。と、何処からかクレームが付きましたか。

  • @DrDougen
    @DrDougen 2 ปีที่แล้ว +2

    子供の頃、忠臣蔵を観たが吉良の額にちょっとしか傷を付けられない浅野内匠頭って敵を斬ることもできないヘボ侍としか思わなかった。

  • @sinji1341scarlet
    @sinji1341scarlet 2 ปีที่แล้ว

    偽憲法によって腑抜けになった日本人情けなしや

  • @kokapri3963
    @kokapri3963 3 ปีที่แล้ว +2

    わざわざ時代劇でなくても半沢で良くないですか?倍返しでスッキリできて正義も成せる。
    我慢するってメンタルは今っぽくないし、やっと若い世代が克服した旧世代の精神論じゃないか?

  • @工藤俊作-h8o
    @工藤俊作-h8o 3 ปีที่แล้ว +5

    そもそも赤穂事件はテロです。仇討ちではありません。フィクションと史実を混同してはならないと考えます。

  • @TakinamiTakao
    @TakinamiTakao 3 ปีที่แล้ว

    天子のような吉良氏を、攻撃して、しまった為、起こった事件。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว

    吉良義央ー2
    首の返還と遺体の供養
    そして、義央の首は泉岳寺の浅野長矩の墓前に捧げられた後、箱に詰められて同寺に預けられた。寺では僧二人にこれを持たせて吉良家へと送り返し、家老の左右田孫兵衛と斎藤宮内がこれを受け取った。この時の二人の連署が書かれている、吉良の首の領収書(首一つ)が泉岳寺に残されている。その後、先の刃傷時に治療にあたった栗崎道有が義央の首と胴体を縫って繋ぎ合わせたあと、義央は菩提寺の万昌寺に葬られた。戒名は「霊性寺殿実山相公大居士」。
    この当時の万昌寺は市ヶ谷にあったが大正期に「万昌院」と名を改めて中野へ移転し、それに伴って墓も改葬して現在は歴史史跡に指定されている。
    後史
    赤穂浪士の処分
    元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名屋敷で切腹した[6]。 切腹の場所は庭先であったが、切腹の場所には最高の格式である畳三枚(細川家)もしくは二枚(他の3家)が敷かれた[7]。
    当時の切腹はすでに形骸化しており、実際に腹を切ることはなく、脇差を腹にあてた時に介錯人が首を落とす作法になっていた[6]。
    吉良義周の処分
    赤穂浪士らの切腹が行われた同日、元禄16年(1703年)2月4日、吉良義周は荒川丹波守(御寄合)、猪子左太夫(御先手)が同伴し、評定所へ呼び出され、仙石伯耆守(大目付)より「仕形不届」として、領地召上のうえ、信濃諏訪藩(高島藩)の藩主、諏訪忠虎へお預けの旨が申し渡された。 そして、その身柄は高島藩士の沢市左衛門、茅野忠右衛門、加藤平四郎に渡されたことなどが『上杉家御年譜』などに見える[8]。
    幕府が義周をこのように処分した理由としては、幕府の裁定により、父・吉良義央が松の廊下での事件の際に内匠に対し卑怯の至りな振る舞いをし、赤穂浪士討ち入りの時も未練のある振る舞いをしたため、「親の恥辱は子として遁れ難く」として、父である吉良義央に代わって吉良義周が責任を取ることとなったこと[9]。そして、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った際の義周の対応、義周が自ら武器をとって赤穂浪士達に応戦したが、不破正種に面と背中を斬られ、そのまま気絶していたことなどに対して幕府評定所が「不届き」としたためであった。そして、その後、宝永3年(1706年)に義周が死去したため、高家としての吉良家は断絶となった。
    その後の吉良庄
    その後の吉良庄は、西尾藩のほか大多喜藩や沼津藩などの飛び地、寺社領、天領といった様々な領主が統治する。吉良義央の弟・東条義叔は、兄の死後、吉良の祭祀[注釈 2]などは継承したが、知行500石は武蔵国児玉郡と賀美郡内にあり、吉良庄と直接の関係がなくなっている[10]。
    他の大名家・藩での評判
    忠臣蔵の悪役として有名な義央の評価は全国的には芳しくない。もっとも忠臣蔵が上演される以前から、義央が行っていた長矩に対するいじめの話は広く世間に知られていたようであり、また義央が浅野長矩以外の御馳走人にもいじめを行っていたという逸話も残っている。
    浅野が刃傷に及ぶ前、伊予大洲藩主・加藤泰恒や出羽新庄藩主・戸沢正庸が日光法会中に受けた義央のいじめを浅野に伝え、お役目を終えるまで耐えよと諭したという話が『冷光君御伝記』や『義人録』などに記されている。
    また、尾張藩士の朝日重章の日記である『鸚鵡籠中記』に、「吉良は欲深き者故、前々皆音信にて頼むに、今度内匠が仕方不快とて、何事に付けても言い合わせ知らせなく、事々において内匠齟齬すること多し。内匠これを含む。今日殿中において御老中前にて吉良いいよう、今度内匠万事不自由ふ、もとより言うべからず、公家衆も不快に思さるという。内匠いよいよこれを含み座を立ち、その次の廊下にて内匠刀を抜きて詞を懸けて、吉良が烏帽子をかけて頭を切る」とある。
    「吉良は欲が深い者ゆえ、前々から皆贈り物をして頼んでいたが、今度の内匠頭のやり方が不快ということで、何事につけても知らせをせず、事々において内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。内匠頭はこれを遺恨に思った。今日の殿中における御老中の前での吉良の言い様は、今度の内匠頭のやることは万事、思うようにならなかったのだから、もとより言うべきではなかった。公家衆も不快に思ったという。内匠頭はいよいよこれを遺憾に思って座を立ち、その次の廊下で刀を抜いて、声をかけて吉良の烏帽子ごと頭を斬った」「浅野家臣四十七人は「主人の恨みを報復する」と言いたて、吉良の首を取って泉岳寺へ立ち去った」
    元禄11年(1698年)、勅使御馳走人となった亀井茲親は義央からいじめを受け、耐えかねた茲親は家老の多胡真蔭に洩らしたという。真蔭は主君を諫める一方で、密かに金遣役を呼んで納戸金一箱を取り出させ、茶菓子のなかに入れて手土産として吉良邸へ持参し、主君の無礼を詫びたうえ、指導引き回しを懇願して帰邸。翌日より茲親への態度が急に優しくなったので事なきを得た、という話が津和野名産の茶菓子源氏巻誕生の逸話として残っている。
    これらの評判の信憑性
    忠臣蔵成立のはるか以前、義央の生前から浅野の刃傷沙汰は「東山栄華舞台」や「傾城八花形」等で劇化されたと言われており、それらが当時から義央の悪評が各地で広がっていた要因の一つとなったと考えられる。
    朝日重章は、吉良の悪評を書き留める一方で討ち入りについては「浅野内匠家来四十七人亡主の怨を報ずると称し、吉良上野介首を取り芝泉岳寺へ立退。」とあり、赤穂義士についても好意的には書かれておらず[14]、こうした吉良の悪評は、とりたてて浅野に肩入れしていた立場からのものではなかった事が伺える。
    「源氏巻」の逸話は、桃井若狭之助(伊達若狭守)と加古川本蔵(梶川与惣兵衛)[15] が登場する『仮名手本忠臣蔵』(1748年初上演)より後に、大田南畝(蜀山人)の『半日閑話』(1768~1822年)のうち「巻二十二」寛政8年(1796年)[16] が初出であり、赤穂事件よりより約百年、「忠臣蔵」初演からも五十年以上経過している。津和野藩の亀井家文書には当該の記録はない。

  • @camonegiehall
    @camonegiehall 2 ปีที่แล้ว +1

    「仇討ち」「仇討ち」というが赤穂浪士が吉良上野介を討っても仇討ちにならない。吉良上野介は浅野内匠頭を殺してはおらず、逆に浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけて負傷させていた。だから仇討ちの免状ももらえなかっただろう。討ち入りはただの犯罪。

  • @トムジェリー-o5w
    @トムジェリー-o5w 3 ปีที่แล้ว +1

    浅野は事務の打ち合わせ中の吉良の背後から襲ったことは、目撃者の任意供述書が残っており明白です。自分の倍近い年寄りを不意打ちするなんて、どんな理由があっても許されることではなく、卑劣漢のそしりは免れないでしょう。
    それに、吉良が浅野を虐めて意地悪をしたというなら、目撃者があって当然ですが、300年この方そんな史料は1点も出てきません。すべては思慮の浅い浅野の乱心から始まった事件というほかありません。

  • @とほかみえみため山下白雨-h5g
    @とほかみえみため山下白雨-h5g 3 ปีที่แล้ว +1

    吉良義央ー3
    地元での評価と実態
    いつの頃からか三河地方の一部では、領地幡豆郡に黄金堤を築いたとされる治水事業(1686年)や、富好新田の新田開拓(1688年)、塩田開発などの治績を義央が行ったという伝承が形成されており、これらを根拠として地元の名君として評価する独特な史観に基づいた教育が行われている[59]。しかし名君であるとするこれらの根拠は、近年になって作られたと考えられるものが多い。
    慶長14年(1609年)から元禄15年(1702年)まで、吉良家が義弥・義冬・義央の3代にわたり事績を書き継いできた『吉良家日記』には、黄金堤築造・富好新田の干拓・塩田開発などを当時の吉良家や義央が行ったという記述やそれに類する記録は一切、見られない[60]。また、こうした事業を当時の吉良家や義央が行ったということを記した江戸期の史料も発見されていない。
    吉良家は上杉家(米沢藩)に莫大な借金の肩代わりをさせているような財政状況で、当時は町方に対する支払いなども滞っているような有様であった。そうした中、吉良家が独自に多額の資金を必要とする治水事業を立て続けに主導したというのは、経済的な面から考えても無理がある。義央が行ったとされている治績は、当時の吉良義央や吉良家が行なったものではなく、実際には後世の領主や幕府などが行ったものである可能性が高いと見られている[60]。
    そもそも吉良荘があった矢崎川周辺は、新田開発によって発展した地域で町人による新田開発も多く、吉良領周辺にも「新田」と名が付く地名も多く見られる[61]。新田開発自体も、江戸期を通して幕府から推奨されており、全国各地でその取り組みが行われていた。これらのことを考えると、仮に義央が新田開発を行ったとしても、それだけで特出した治績であったとは言いがたい。
    吉良町には「赤馬」という郷土玩具が存在し、これは義央が黄金堤を築いた際に当地を訪れ現地を赤馬に乗って作業を視察したという言い伝えに由来するとされている。しかし実際に義央が三河の吉良領を訪れたのは生涯で一度だけで、『吉良家日記』に延宝5年(1677年)11月に京都へ臨時の上使を務めた帰りに、領地の三河国幡豆郡吉良庄を訪れたことが確認できるのみである[60]。黄金堤の築堤されたとされる伝承(1686年)とは時期が重ならない。実は、この郷土玩具の「赤馬」は義央の死後130年ほど後の天保年間になってから作られはじめたものであり、赤馬自体は全国各地の郷土玩具に散見する素朴なモチーフの一つとして知られている。また吉良の「赤馬」は継続して製作され続けていたわけではなく、天保年間には製作が途絶えた時期もある。後年、5代目の時代に、おりからの郷土玩具ブームに乗る形で「吉良の赤馬」として全国的に知名度が広まった。その後、6代目になって愛好家からの要望で、初めて商品に「白馬」と「殿様」が加わったという経緯がある[62]。義央との関連付けはこの時期に形作られたと見られる。
    黄金堤
    「黄金堤」という名称についても、築堤によって水害を終息させ農業生産の安定に寄与した義央の遺徳を偲んで称されるようになった、という伝承があるが、実際に義央が築堤したとする根拠は乏しい。 1991年に行われた発掘調査では、吉良義央の築堤という伝承を支持する年代観は得られず、「その領国政策については伝承のみ」とされた。また、黄金堤の名称とその存在の初現については、明治17年(1884年)の瀬戸村整埋図に「番外三十二番黄金堤 長十七間四尺 幅平均九間」とあるのが確認できる最初のものであり[63]、それ以前の現存史料である寛永5年(1623年)「岡山村検地水帳」・宝永2年(1705年)「田畑水帳」などには、黄金堤の名称とそうした堤の存在が確認できないことが、愛知県埋蔵文化財センターの調査によってわかっている[64]。
    また義央は、須美川の水を領内の水田に引き込む寺島用水を開いたともされる[65]。しかし、岡山村の南に位置する寺島は吉良の領内ではなく、寺島用水自体の開削も江戸期に行われたものではなく、実際には明治17年(1884年)に行われたものである。
    塩田開発に関しては、義央が刃傷事件に遭遇した元禄14年以前に開発された三河国幡豆郡の塩田は本浜および白浜のみで、このうち本浜塩田が所在する吉田村は甘縄藩松平領、白浜塩田が所在する富好外新田村は幕府領でいずれも吉良領ではない。そもそも吉良家の歴史の中で塩作りを行ったという記録は1件もなく、吉良家が塩田に関わった説の初出は戦後とされ、NHK大河ドラマ『峠の群像』で世間に広まったと言われている[66]。
    義央の所領があった上野国においては、若狭守の正室が伊香保温泉に湯治した帰途に白石にあった陣屋に滞在して義央を産んだという伝承があり、この時産湯に使われた井戸を「汚れ井戸」と称して後世に伝わっている。もっとも、義央は江戸鍛冶橋の江戸屋敷で誕生したとされ、吉良の陣屋にあった飲料に適さない井戸を「汚れ井戸」とし、わざわざ義央の産湯の話を付け加えたのは地元領民の揶揄であったと考えられる。
    江戸っ子と田舎大名
    義央が浅野長矩を「田舎大名」と愚弄した根拠はない。ただ、義央も三河国(愛知県)などに領地を持つ旗本である。両者の違いは、旗本と大名の問題に起因している。旗本は自らの領地に入ることがほとんどなく、家臣を代官に任命して派遣し、すべてを任せている場合がほとんどである。義央も領地三河国幡豆郡吉良庄に入ったのは一度のみで、上野国緑野郡白石村と碓氷郡人見村に至っては一度も行ったことがない。そのため、旗本が領地に自己同一性を持つことはほとんどない。一方、大名(特に外様大名)は参勤交代で隔年に領地に入るので、領地において地元や居城・領民などへの愛着を持つ傾向が強かった。旗本や譜代大名からは「田舎大名」と失笑を買うことがあった。
    当時の賄賂
    当時、勅使饗応役に就任していたのは、4万石から7万石前後の所領を持つ城主の外様大名、院使饗応役に就任するのは1万石から3万石前後の陣屋の外様大名であることが多かった。また、任ぜられた大名が高家から指南を受ける場合、指南料や何らかの贈り物をするのが慣例となっていた。そうした中、当時の文献には義央が暗に賄賂を要求したが、浅野長矩が十分な賄賂を送らなかったことが両者の不和の原因だとするものがある。
    松之大廊下で刀傷事件が起こった時には、二回目の勅使饗応役である浅野長矩は義央に指南料として大判金1枚[注釈 7]・巻絹1台・鰹節一連を贈っている[78]。同時期に、院使饗応役を任じられた伊予吉田藩主の伊達村豊は、大判100枚・加賀絹数巻・狩野探幽の竜虎の双幅を贈っている[78]。また、饗応役の指南料の相場については、はじめに「御馬代」といった名目で大判金を1枚、無事に役目を果たした後に、さらに大判金1枚を贈るのが慣例だったとされている[78]。また、金子に添えられる付届は、国土産という国の産物であった[79]。
    また、当時の指南・指導に対する指南料については、事例は少し異なるが、以下のような例がある。
    明暦2年(1656年)正月に後西院が即位した際に、薩摩藩は島津忠弘を使者として上京させて、朝廷に祝儀を贈っている。その際に忠弘は、指導を受けた幕府の上使である松平頼重と吉良義冬、及び京都所司代牧野親成にそれぞれ「太刀・馬代」として銀一枚を贈っている。この時、牧野は受領したが、松平・吉良は返納したと記されている。このように指南料を返納したのは、父の吉良義冬の頃には、指導・助言に対する贈答行為は定着していなかったためであろうとされている[80][81]。

  • @道弘土井
    @道弘土井 ปีที่แล้ว

    赤穂浪士とヤクザが一緒にしないで

  • @まるやまおさむ-w1c
    @まるやまおさむ-w1c 3 ปีที่แล้ว

    このおじーさんふたりはちょとじぶんのせかいから、、、むすびだいがくのほかのひとのはいしんをみてるのでしょうか?