箸墓古墳 卑弥呼の墓? 古代史最大のミステリー、邪馬台国候補地の前方後円墳を検証する

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  • เผยแพร่เมื่อ 17 ต.ค. 2024

ความคิดเห็น • 387

  • @ユウ-v3l
    @ユウ-v3l 2 ปีที่แล้ว +22

    宮内庁管轄とはいえ保存目的でもいいのである程度、調査すべきですよね🤔( 古来とは自然環境も違うし) 埋葬者がはっきりしない分色々な仮説や想像ができるのは歴史ロマンですね🙂

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +5

      ご視聴ありがとうございます。古墳に対する考え方は、色々あり、難しいですね。でも個人的には樹木管理をもう少し行って、これ以上劣化することは避けてほしいなと思います。箸墓は写真を見ると明治時代の初めまでは、ほとんど木は生えていないようです。また、他の古墳についても昔は松などが生えている程度だったのが、広葉樹に置き換わっている所も結構あると思います。広葉樹になると下草が生えず、雨で墳丘が流れやすくなりますので、何とかしてほしいですが、なかなか難しそうですね。

  • @jinglx
    @jinglx 2 ปีที่แล้ว +21

    箸墓古墳はほんとうに美しいです。
    考古学や歴史に関心のない方でも、ぐるりと周りを一巡りすれば、
    ああ来てよかったと思うでしょう。

  • @O-mega51
    @O-mega51 ปีที่แล้ว +3

    箸墓の語源、日本の神話ならではのネガティヴさだと思います。普通、神話はポジティブに盛りがち。なのにお間抜けなエピソードが盛られるとなんだか親近感が湧く。徳川家康の三方ヶ原でのしがみ像なんかでも『ああ、偉人も僕らと一緒なんだ〜』って。自分も天下人の視点で物事を考えたりできる。日本のこういう所が他に無い素晴らしさなんだと思います😊

  • @matoh4676
    @matoh4676 2 ปีที่แล้ว +13

    歴史の授業で古代を学んで興味を持って、たまたまこの動画にたどり着いただけの高校生です。コメント欄を見たら色んな意見や推理が飛び交っていて読むのが楽しいです笑 同時にそのほとんどが実際は間違っていたりするのかなぁとか思って、素人ながら考古学の面白さの一端を知れた気がしました。限られたごく少ない情報の点と点を繋いで考えるのが凄いですね
    他の動画も見てみようと思います!あとBGM全然気にならないですよ!

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +6

      お気遣いいただきありがとうございます。BGMは度々コメントが来るのですが、人によるみたいですね。
      考古学に限らず、同じ現象を見ても、人によって解釈が違うことはザラです。考古学研究者の皆さんは、多分9割くらいの人が邪馬台国近畿説ではないでしょうか。でも学問は多数決で決まるわけではないので、多様な意見から、何が本当なのかを自分で考えていくしかないですね。まだお若いようなので、これからの活躍を期待しています。

  • @神取龍生
    @神取龍生 3 ปีที่แล้ว +27

    映像と解説でわかりやすくまとめらています。桜井市が地道に続けてきた調査が大きいですね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +3

      コメントありがとうございます。そうですね。桜井市さんの地道な調査の成果ですね。これからも着実に謎が解明されていくといいですね!

  • @hiroshiheiwa7135
    @hiroshiheiwa7135 3 ปีที่แล้ว +26

    箸墓古墳のご説明ありがとうございます。大変勉強になりました。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +2

      コメントありがとうございます。少しでも役に立てたのであれば嬉しいです。今後ともよろしくお願いします。

  • @user-ot5rm3vu6h
    @user-ot5rm3vu6h ปีที่แล้ว +21

    古代史は解明されてない要素があまりに多すぎるが故に都合のいい情報を切り貼りして自分の思うストーリーに仕立てあげやすいから自称考古学通(アマチュア考古学者とも呼べない)の巣窟になりやすいんだなと改めて思うコメ欄

    • @趣味-j7l
      @趣味-j7l 11 หลายเดือนก่อน

      卑弥呼は無関係だよ

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon ปีที่แล้ว +3

    邪馬台国粟国説がありますが、あれと岡山の宮山墳丘墓を考えると弥生後期には瀬戸内周辺を領域とする一大勢力があった事は間違い無く、それが畿内・東海・南関東へと影響力を伸ばしていって邪馬台国となったのでしょうか。
    当時の農業技術と原種に近い作物と治水もなされていない低湿地の広がる原野では、人口を養うのにも相当の国土が必要となりますので、現代のイメージ以上の広域になったでしょう。
    幸いにも当時から既に朝鮮半島から鉄などを運んでくるだけの海運技術があり、沿岸部や河川を利用した広域支配が可能となっています。

  • @かわさきみどり
    @かわさきみどり 3 ปีที่แล้ว +17

    箸墓古墳の曲線が柔らかく、女性的に感じられます。発掘で堀もわかってきているのですね!

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +6

      コメントありがとうございます。卑弥呼の墓と思って見ると、何となく女性っぽく感じますかね? 桜井市さんは精力的に発掘調査をされているので、少しずつですが、着実に解明されているように思います。これからの調査成果にも大いに期待したいですね!

  • @user-dr9sv4wf7w
    @user-dr9sv4wf7w 2 ปีที่แล้ว +7

    骨がまだ中にあると思うと感慨深いですね

  • @MrKEN0204
    @MrKEN0204 3 ปีที่แล้ว +20

    現行教科書も史実では無い曖昧な表現が多いとのこと。今後の科学分析など各分野の歴史との整合した根拠に基づいた解明に期待したい。史実とは政治的都合など無関係が原則であり、それが事実なのだから公平に明記すべき。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +4

      曖昧な表現があるのですか?最近の教科書を読んでいないので、もし御存じのことがありましたらご教示ください。おっしゃる通り、政治的な都合と歴史解釈は、分けて考えるべきでしょうね。

    • @田舎のごんたろう
      @田舎のごんたろう 3 ปีที่แล้ว +2

      @@koukogaku 教科書が役に立つとは思えません 見れば見る程怒りを覚えます 事実を正確に積み重ねた上で考えを巡らせている教科書が必要と思います。

    • @MrKEN0204
      @MrKEN0204 3 ปีที่แล้ว +1

      @@koukogaku 先ず憤慨するのは、他国から教科書内容まで口を挟まれる原因になっている当時の我が国の弱腰政治家が制定した「近隣諸国条項」で、実質一方的に日本側だけ近隣国に添う様に教科書内容として穏便に済ます様に記述しないといけない、どんどん虚偽捏造が明らかになってもそれに合わせるとは愚行そのもの、そんな事あってはならない事だと思いませんか?日本軍は悪の権化として仮想敵国の抗日題材にされている冤罪の「南京大虐殺」(共産党と敵対していた国民党の残虐行為であった事、虐殺前に当時の南京風景で外人記者が撮った写真、日本軍人と現地中国民が仲良く笑っているや和やかな市街風景が数枚残されている)や「三韓征伐」が隣国の都合が悪い理由で日本の史記にもあるのに「神功皇后は実在しない」として戦後の教科書記述無し(魏の史書や高句麗の好太王碑文や百済や新羅の史書にも倭と戦っている記述有りに整合されているのに)などです。常に勝者が歴史を残すと言い完璧な史実は不可能だと理解していますが、科学分析の発達で後から根拠が解明されて現行改編のケースもあると思います。後世には極力正しい史実、虚偽や梵書では無いものを「教科書」として残す事が我々現世の義務だと痛感します。
      戦後の自虐史観にとらわれた政治家や歴史学者や教育者に、我が国にとって大切な固有歴史が都合で改ざんされ、それを危惧するスレッドがこのTH-camチャンネルに幾つかあって、「現行歴史教科書の嘘」を題材にしたスレもありました。その意図に個人的に大いに同感し、同時に危機感をおぼえます。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +3

      @@MrKEN0204 ご教示ありがとうございます。近隣諸国条項、初めて知りました。日本にだけに課されていて、中国と韓国には課されていないのも変ですね。個人的には、教科書は、自国に不利な(不愉快な)事実であっても、事実は事実として受け止め、それを自国民に教えていかなければ、どこまで行っても主張は平行線のままのような気がしています。少しでもいい方に進んでいくといいですね。

    • @conspiracy_shine
      @conspiracy_shine 2 ปีที่แล้ว

      @@田舎のごんたろう 素人の感想はそうなんだね
      お前みたいな素人の意見なんてどうでもいいからこれからも教科書は変わらないね

  • @平善之-b4o
    @平善之-b4o 2 ปีที่แล้ว +6

    横浜の我家の近所のお稲荷様は舟に乗っています。田んぼの神様のお稲荷様が何で舟に乗っている?と不思議に思ったことが有ります。また近所の神社にも蛭子様が祀られており「祇園舟」行事が行われます。古事記ではイザナギとイザナミの子の蛭子(ひるこ)は海に流されますが、もしかすると蛭子信仰は海を生活の基盤とする人達が崇拝する神様だったのではないかと思います。その神様は元々日本の神様だったのですが仏教が伝来した時に他の七福神(恵比寿を除いて外国の神様)と合わせて祀られた際に、蛭子→恵比寿となったのだと思います。そこで最初の纏向の地の家々に蛭子様が祀られている理由ですが、僕は神武天皇は神話だと思っていますがその元になった言い伝えは本当に有ったのだと思います。そして神武天皇が大阪でナガスネヒコに負けて熊野へまわり、そこで死にかけて高倉下(尾張連の遠祖)に助けられて大和へ攻め上るのは、神話ではなく事実だとすると、伊勢湾付近を支配していた海を生活の基盤とする人達の首領を味方につけたと言うことだと思います。その結果一度は負けたナガスネヒコに勝てたのでしょう。トンビが光ったくらいで戦に勝てるはずは有りません。その伊勢湾付近を支配していて神武天皇のモデルを助けた人達の子孫が纏向で蛭子様を祀っている人達だと思います。また我家の近所の舟に乗ったお稲荷様を祀った人達は、その伊勢湾付近を支配した人達が海沿いに東に進出してここに住み着いたのでしょう。横須賀と言う言葉はよこに広く広がる砂州が語源ですが、三浦半島の横須賀以外に実は愛知県東海市にも「横須賀」と言う場所が有ります。ヤマトタケルノミコトは名古屋のお姫様を嫁にもらって東へ攻め上り、横須賀で海を渡る時に地元の人に冠を与えていますが、神話はあくまでも神話ですが、何か元になる言い伝えが有ったのかもしれませんね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +4

      記紀に限らず、記録は何らかの目的をもち、ある立場から記述しているものなので、同時代の資料であっても、どういう目的で、どういう立場の人が書いたものなのかを吟味した上でないと間違った解釈をしてしまう可能性があると思っています。天皇家の正当性を示すために編纂された意味合いの強いものを、それも何百年も前の出来事を正確に書いてあるとは考えられないと思うのが当然と思っていたら、そうではない方々が度々現れるので、驚いています。平さんのようなお考えの方が大多数だと思いますが、この動画のコメント欄を見て、それが一番学んだことのような気がします。ただ、仰るように、神話だから意味はないと切り捨てるのではなく、やはりそこには何か実際に起こった出来事が反映している事も多いのではないかと思うのですが、いかんせん、証明することがほとんどできないので、ああだったのではないか、こうだったのではないかとしか言えないところが難しいところですね。しかし、神話以外の部分では、やはり一定程度参考になる部分もありますし、考古学だけでは解決できないところをお互いに補完しあいながら少しでも事実に近づけるようになっていってほしいですね。

    • @讃岐国造竹取翁
      @讃岐国造竹取翁 ปีที่แล้ว

      稲荷神が恵比寿神と習合した形かもしれませんね。
      農村でも豊作や商売繁盛を願う「恵比寿講」が盛んなところもあったそうですからね

  • @takuyaamano9428
    @takuyaamano9428 3 ปีที่แล้ว +51

    箸墓古墳は最初期の古墳でありながらデザインが完成されていますね。3世紀中頃、どこからこのデザイン感覚と土木技術が伝わってきたのか・・・、これからの調査と研究の進展が楽しみです。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +11

      いつもコメントありがとうございます。本当にそうですね。先行する纏向石塚、勝山、矢塚、ホケノ山の延長線上にあると思いますが、これらの要素がどこから、どのようにしてこの地に結集されたのか、不思議ですね。少しずつ明らかになっていくことを期待したいですね!

    • @elelsse
      @elelsse 2 ปีที่แล้ว +2

      @@koukogaku 宮崎県からでは無いのですか? 当然 神武東征によって。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 ปีที่แล้ว +2

      @@koukogaku さん 寺澤薫氏が前方後円墳の属性のルーツについて調べていますよ!墳形は漢、楽浪がルーツです。詳しくは拙ブログ【検証2】前方後円墳のルーツ」をご参照下さい。

    • @宮古島パーントゥ
      @宮古島パーントゥ 2 ปีที่แล้ว +2

      赤穂の有年原田中遺跡の墳丘墓が葺石古墳にとても似ています

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 ปีที่แล้ว +2

      @@宮古島パーントゥ さん いい情報ありがとうございます。1号墳の両方に通路のようになっているのは楯築王墓と共通しているようですね。2号墳は橿原市瀬田遺跡と同様で、円形周溝墓に通路が一ヶ所つくられているので、前方後円墳のルーツだと考えていましたが、やはり吉備から来た勢力のものと考えていいと思います。
      記紀神話で神武天皇よりも先に天孫降臨していたニギハヤヒは、楯築王墓の被葬者と推理していますので、その子孫が纏向に旧奴国勢力を集めた狗奴国王卑弥弓呼(ヒコミコ)でしょう。開化天皇と崇神天皇のモデルだと考えています。開化天皇の墓が纏向最初の前方後円墳の石塚古墳だと比定しています。ひょっとしたらニギハヤヒ大王を纏向で再葬したものかも知れませんが。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(*^▽^*)

  • @となりのたま
    @となりのたま 2 ปีที่แล้ว +11

    コメント欄が今まで見た中でもダントツに攻撃的過ぎる。

  • @yo2trader539
    @yo2trader539 3 ปีที่แล้ว +21

    纏向周辺には倭大乱の痕跡もなければ、平塚川添遺跡のような環濠・城柵も見つからないのでは?北部九州に比べれば鉄鏃なども出てこない。最高級レベルの『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』が見つかったのも大分県・日田市にあった古墳。卑弥呼の墓は円墳のような表現なので、初期ヤマト王権の前方後円墳とは直接関係ないようにも思える。遺跡・古墳または方言系統から推察すると、九州は西部(筑肥)、東部(豊日)、南部(薩隅)など複数の勢力圏があったので、東征したのがどの勢力かは分からない。でも宮崎県のヤマト王権系譜の古墳の多さは突出してる。

  • @さとなか-m7k
    @さとなか-m7k 7 หลายเดือนก่อน

    ここらへんの歴史は役職名を継いでいってるみたいなので、どの年代なのか?限定するのが難しいですが、想像するだけでも壮大で魅力的な日本を感じれて楽しいですね!!!

    • @koukogaku
      @koukogaku  7 หลายเดือนก่อน

      おっしゃる通り限定することは難しいですね。でも色々と想像が膨らみますね!

  • @義-t8s
    @義-t8s 3 ปีที่แล้ว +9

    箸墓古墳の石棺はどの様な状態なのか興味深いですよね?🤔
    チャンネル登録しました。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +4

      コメントありがとうございます。チャンネル登録もありがとうございます! そうですね。箸墓を最初の前方後円墳とみなす研究者が多いようですので、そうすると竪穴式石室で、割竹型木棺でしょうか?いつの日か解明される日が来るといいですね!

    • @義-t8s
      @義-t8s 3 ปีที่แล้ว +1

      @@koukogaku 木管ですか?楽しみですよね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +1

      @@義-t8s 楽しみですね! 生きているうちにそういう日が来ればいいですね(笑)!

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว

      あまりよく知らないのですが、
      竪穴石室ということですと韓国慶州と同じなのかなとも思ったりしますが、竹?の棺でしたら違うのかな、竹だけは日本風にしたのかなと、わかりませんが。

  • @平善之-b4o
    @平善之-b4o 2 ปีที่แล้ว +6

    先週纏向に行って来ました。纏向や箸墓が邪馬台国に関係あるかないかは分かりませんが、三輪山とは密接不可分だと思います。古事記を読むと大国主命は兄達に2回も殺されて、その度に母の力により生き返ったそうですが、実際はけがをしただけで死ななかったと言う事でしょう。その後母から木の国(紀ノ國=和歌山)に逃げよと言われて逃げます。さらに兄達に追われて根の国の素戔嗚命の所に逃げます。その娘さんを貰って逃げた先が纏向の里で、(島根の兄達から逃れて)ここに第2の出雲をつくっていたのではないでしょうか?なので三輪山には大物主(大国主命と同一とも言われます)が祀られており、纏向はその大物主を祀る子孫の「太田田根子」の里だったと日本書紀に書いてあります。探すとすぐに出てくるでしょう。昭和の初めまであそこは「太田遺跡」と呼ばれており、地図を見ると地名は「太田」になっているのが分かるでしょう。桜井市のホームページによれば他の遺跡と合わせて太田遺跡を纏向遺跡と改名したようですが、その根拠の垂仁天皇の云々は垂仁天皇陵が纏向ではなく奈良市に有ることを見ると眉唾です。調べて見ると面白いですよ。そうそうあの辺の大きな家の屋根に「蛭子様」が祀られているのを御存知ですか。なぜだとおもいますか?

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว +2

      なぜなのですか?

  • @雨乞
    @雨乞 2 ปีที่แล้ว +64

    案の定のコメント欄。うp主の忍耐を尊敬する。

    • @飯田信夫-e5b
      @飯田信夫-e5b ปีที่แล้ว

      😊

    • @護美箱-d3n
      @護美箱-d3n ปีที่แล้ว +1

      そうじゃな~。
      アッコに🥢刺さるという話しは、この時代には、お箸はないのです。
      実はお箸ではなく、なんだかのシンボルですような感じです。
      陪塚が無いやん。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki หลายเดือนก่อน

      この頃の箸はトングのようなもので食事ではなく儀式用のもの
      陪塚は写真に写っている小さな浮島

  • @onnetotaki
    @onnetotaki 3 ปีที่แล้ว +11

    箸墓古墳、後円部の角が削られて家が建っているけど、あれは何とかならないものですかね

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +7

      コメントありがとうございます。おっしゃる通りで、将来的に公有地化されるのが一番いいと思いますが、なかなか難しいですね。うまくいけばいいのですが。

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว +4

      後円の一部が民家?宮内庁が調査権があるとしている墳墓であるのなら民家にどいてもらわなければならないでしょう。

    • @ロプノールs
      @ロプノールs ปีที่แล้ว +1

      箸墓古墳を作った..王権と..その墓を潰して..道を通した..王権は別だと思います。自分たちのご先祖の
      墓では無いとの認識から..墓を壊したのだと思います。家の建ってる場所は..遠い昔から..更地に
      されていた筈です。万世一系の方達には申し訳ございませんが....

  • @谷村融
    @谷村融 2 ปีที่แล้ว +7

    規模も大王級ですが日本書紀では皇位継承争いの壬申の乱でここで戦闘が行われた記事で築造記事の箸「墓」ではなく実際に天皇陵に準じた箸「陵」として登場します。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว

      ご教示ありがとうございます。

    • @讃岐国造竹取翁
      @讃岐国造竹取翁 ปีที่แล้ว +1

      日本書紀編纂当時にはすでに王族の陵墓として認知されてたってことですかね?

  • @tumakitihalu9255
    @tumakitihalu9255 2 ปีที่แล้ว +14

    興味はあるのですがBGMが五月蝿すぎです。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +1

      申し訳ありません。あとから修正が出来ませんので、テロップでご覧ください。

  • @ちぶぁっち
    @ちぶぁっち 3 ปีที่แล้ว +30

    畿内でも九州でも都合の悪いとこは隠して、ちょっとでも関係ありそうなとこはゴリ押し。研究者が頑固な限り結論は出ない。

  • @albatross987
    @albatross987 2 ปีที่แล้ว +10

    BGMがうるさくてナレーションに集中できません。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว

      申し訳ありませんが、一度アップすると修正はできませんので、ボリュームを下げてご覧ください。

  • @修弘山口
    @修弘山口 ปีที่แล้ว +3

    箸墓古墳は3世紀に出現した古墳ですね。弥生時代後期の日本最古の前方後円墳だと言われてますね。辺りは弥生期の纒向遺跡がありますね。僕は卑弥呼の墓だと信じてますが。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +1

      現状ではこれ以上推測することは、なかなか難しいでしょうね。もう少し調査が進めば、議論が出来るようになると思いますが、そういう日が来るかどうか。

  • @einsfia
    @einsfia 3 ปีที่แล้ว +44

    正直な所、倭迹迹日百襲姫命のエピソードのどこが邪馬台国と卑弥呼に結び付けられるのかサッパリわからない
    卑弥呼は姫じゃないし大物主命と結婚もしていない
    ヤマト王権が既にこの地で強大な勢力を築いていたってことでいいのになんで無理やり邪馬台国に結びつけたがるのかもサッパリ分からない

    • @藤井祐治-p5c
      @藤井祐治-p5c 2 ปีที่แล้ว +11

      全く同感です。
      本当この件に関してはサッパリわからないという言葉しかない。
      卑弥呼との共通点なんて女性という位しかないし、倭人伝には邪馬台国のことを「日本で一番人口の多い国」などどこにも書かれていない。
      ヤマト政権が巨大な勢力だったことと邪馬台国とは直接的には全く関係ないこと。

  • @安原優子-p4g
    @安原優子-p4g 2 ปีที่แล้ว +2

    ありがとうございます。

  • @elelsse
    @elelsse 2 ปีที่แล้ว +9

    畿内の古墳には一般的に徳島の青石(緑泥片岩)と同・若杉山遺跡の水銀朱が使われています。少なくとも畿内の古墳群の技術的ルーツの一つが阿波(徳島県)にあったのは間違いないでしょう。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +5

      箸墓に先行するホケノ山古墳が既に石室を持っていますので、その辺りの時期には阿波の影響は既にあるようですね。機会があれば萩原2号墓を取材しようと思っていますが、やはり遠いですね(;^_^A。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 ปีที่แล้ว

      朱は前方後円墳のルーツと考えられる楯築王墓に大量に使われていますよ!
      外来土器から考えると阿波の勢力は三世紀頭初は纏向遺跡に来ていますが三世紀半ばには来ていません!このことから阿波の勢力は纏向遺跡の狗奴国を裏切り邪馬台国に味方したのでそのご褒美で卑弥呼が魏から貰った朱が与えられたと推理出来ますよ!

    • @elelsse
      @elelsse 2 ปีที่แล้ว +2

      @@katumoku10
      返信ありがとうございました。ひとつお聞きしますが楯築遺跡に用いられている水銀朱の産地は何処になるのでしょうか?
      もし国産品ならば弥生期における水銀朱の生産が証明されている徳島県の若杉山遺跡産の物だろうと思うのですが・・・。

    • @katumoku10
      @katumoku10 2 ปีที่แล้ว

      @@elelsse さん 楯築遺跡の大量の朱はご指摘のとおり若杉山の辰砂だというのが知られているようです。ただ、辰砂は列島の中央構造線付近で取れますので、縄文時代から使われていたようですね。弥生時代の甕棺にも使われています。しかし、萩原2号墳の朱は中国産ということを知りましたので、上のような推理が成り立つと考えています。

    • @elelsse
      @elelsse 2 ปีที่แล้ว +1

      @@katumoku10
      萩原2号墳に中国産の辰砂が使われているのをよくご存じですね。
      自分は吉備地方の古墳には詳しくないのですが、邪馬台国が吉備だったというなら吉備地方の古墳にも中国産辰砂が使われている事例が存在しているはずですよね。
      少なくとも畿内地方の古墳には中国産の物が使われている事例は存在していないようですが、その辺どうなんでしょうか?

  • @user-kazenodrone23
    @user-kazenodrone23 8 หลายเดือนก่อน +2

    丁寧な解説ですね。
    素晴らしい👍

    • @koukogaku
      @koukogaku  8 หลายเดือนก่อน +1

      いつもありがとうございます。またチャンネルにお越しくださいね。

  • @くろまめ茶
    @くろまめ茶 ปีที่แล้ว +4

    魏志倭人伝では、当時の倭人は手づかみで物を食べてたと記述があります。
    伝来によれば、"箸"は6世紀に小野妹子が隋から持ち帰ったとあります。
    そして聖徳太子が宮廷の食事にとりいれ広めたと…。
    日本書紀は8世紀の出版で当時箸は普通にあり、その箸が神話時代から何度も出てきますが
    それって完全にオーパーツなんですよ。
    魏志倭人伝によると卑弥呼の時代に箸はないですからね。
    姫はびっくりして、たまたま箸が突いて死んだそうですが、そんなバカ居ませんよ。
    しかし、もし本当にそんな残酷な死に方したのなら、古墳に大きな神社を建て熱心に供養してるはずです。
    宮内庁の公開資料では、箸墓古墳は倭迹迹日百襲姫命でなく、ただの宮内庁管理の墓だし
    じつは聖徳太子の墓とされる叡福寺も同様の扱いです。
    実際のところ、箸墓古墳は古代の大王級のお墓に間違いはないですが、おそらく我々が思うような皇族ではないでしょうね。

  • @zouzou9678
    @zouzou9678 2 ปีที่แล้ว +9

    国と宮内庁が協力して調査してくれないかな

  • @シビれる手応え
    @シビれる手応え 3 หลายเดือนก่อน

    先日、はじめて箸墓古墳を訪れました。近隣には「卑弥呼の里」の看板があり、地域のみなさんの期待がうかがえました。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 หลายเดือนก่อน +1

      桜井市はちょっと卑弥呼の◯◯が多すぎる気がしますね(笑)。地域起こしに活用したいのはよくわかるのですが、前のめりになり過ぎな気が。

    • @シビれる手応え
      @シビれる手応え 3 หลายเดือนก่อน +1

      箸墓以外にも、高松塚や酒船石や石舞台、飛鳥宮、入鹿首塚など考古ロマンを堪能してきました。亀形石の流水設備を観ていると水で時を測っていたのかなと思い巡らせてみました。

    • @yamajiro
      @yamajiro 3 หลายเดือนก่อน +1

      @@シビれる手応え 明日香もいいですね。色々と思いを巡らせるのが楽しいですよね。

  • @咲良民都
    @咲良民都 2 ปีที่แล้ว +11

    卑弥呼という名称が個人の名前の可能性もあるが、日の巫女という意味とすれば、巫女の名称の一つとも言えます。伊勢には神宮に仕える斎宮が設置されています。そう言った存在が卑弥呼であったとすれば、その可能性があるのでしょう。ただ、当時の日本国内に同じような組織遠持った小国が九州や四国や畿内にあったとしても、不思議ではないのです。そして、魏の国で、職業としての説明をする時、九州や畿内の巫女の事を説明した時に、1人の人物として誤解されてしまった可能性もあるかもしれないです。

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว

      シャーマンでくにを統治していると魏誌倭人伝に載っていたのではなかったでしょうか?
      やはり個人をさすのでは?
      日 の巫女 で 日本語的には
      ズバリ ひみこ になりますが。
      そもそも 卑 ひ と中国語で発音するのでしたっけ?
      日 は りーと うぃー のミックスした発音になると思いますが。

  • @ジャパンファースト
    @ジャパンファースト 2 ปีที่แล้ว +10

    魏志倭人伝を読んだことがあれば、邪馬台国が畿内ということは破綻してますけど、その問題は棚上げですか?

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +8

      ご視聴ありがとうございます。邪馬台国がどこだとしても、魏志倭人伝の記述で無理なく説明出来る場所はないと理解しています。考古学的な成果も考慮した場合、近畿地方も有力な候補地の1つではあると考えています。またご教示いただければと思います。

    • @ジャパンファースト
      @ジャパンファースト 2 ปีที่แล้ว

      @@koukogaku 魏志倭人伝には邪馬台国まで12000里。倭の地は巡り巡って5000里と記述されています。九州上陸まで9000里。そこから3000里の範囲まで特定出来ると思います。
      また邪馬台国という国は魏志倭人伝を読んで初めてその存在を知ることが出来る唯一の手段です。魏志倭人伝を信じずに、何をもって邪馬台国と定義するのでしょうか?
      畿内に環濠集落はありますか?それっぽいのは銅鏡だけですよね?
      銅鏡があれば、そこが邪馬台国なら銅鏡が移動した場所全てが邪馬台国と言えるでしょう。あまりにも馬鹿げているかと思います。

    • @暢宗元
      @暢宗元 ปีที่แล้ว

      紀元節と畿内説は根っこでつながっているのかな?

  • @黒嵜潤一郎
    @黒嵜潤一郎 3 ปีที่แล้ว +10

    このお墓が卑弥呼の墓とするには、若干根拠薄弱な気がしますが、邪馬台国は丹を産したという魏志倭人伝の記述からすると、丹を産する近畿地方を邪馬台国と比定する根拠となりえるかも知れません。
    ただ、瀬戸内海は船は3世紀の時点では通れなかったことを考量すると、卑弥呼はどうやって対馬海峡を渡ることの出来る造船技術を手に入れたのかという説明は不可避だろうと思います。
    たしか、神功皇后が三韓征伐したときは敦賀から出港したとあったと思うので、元々大陸との交流が盛んだった山陰方面が最先端地域だったと思われます。ただ、そうすると、邪馬台国はどうやって大和地方で経済力を蓄えたのかという最大の謎にも突き当たります。
    大和地方が勢力を持ち始めるのは、いづれにしても、瀬戸内海を構造船が航行できるようになる雄略帝以降の話かもしれません。

    • @conspiracy_shine
      @conspiracy_shine 2 ปีที่แล้ว

      瀬戸内海はいつでも船で通れたんだが
      素人のくせにうるせえぞ

    • @たいとう世直し君
      @たいとう世直し君 2 ปีที่แล้ว +3

      海洋航路は太平洋側にも実はありまして、和歌山県の熊野水軍も有名ですが我々が想像してる以上に発展した可能性が高いのが近年の調査でも解ってきてます。
      和歌山では8メートル近い構造船船の制作跡が発見されてます。
      近代の中型漁船クラスの船は作れた可能性が高くなって航海技術は想像以上に高い可能性があります。
      残念ながら自然災害(津波か)により被害を被り居住区としての場を放棄した遺跡の可能性があるそうです。
      因みに黒潮の流れと瀬戸内海の潮の流れ海流の流れを見ると、九州南岸→近畿地方(太平洋側経由)、近畿地方→九州北側(瀬戸内海経由)で風と海流のみで航路が出来るようです。
      またサハリンなどロシアの石器時代の遺跡で出土してる遺跡の黒曜石の出土品は東京都神津島の黒曜石の可能性が高いと推定されてます。
      当時の海抜は現在より100メートル程低かったとは言え神津島と日本列島は陸続きでは無く、また蝦夷やロシアも海路以外に行く手段はありません。
      海路移動は我々が思ってるよりは遥かに発展してて、我々が想像するよりは難しく無いようです。
      日本の創生に置いて我々は何か大きな事を見落としてる気がしてなりません。

  • @dd-rp9ez
    @dd-rp9ez ปีที่แล้ว +3

    箸墓古墳の内部が石室造りになってるなら卑弥呼の墓じゃないから、少し調べればすぐ分かりそうだけど許可出ないだろうな。

  • @紋太-f6v
    @紋太-f6v ปีที่แล้ว +5

    卑弥呼が、亡くなった、3世紀中頃の、箸墓古墳は、円形でした。その後、3世紀後半に、祟神天皇が即位した後に、祟神天皇が、前方部にあたる祭壇を造ったと考えています。布留式土器の出土は、前方部から多く出てくるようです。何故、祟神天皇がこの様な事を行ったかと言えば、祟神天皇の少年時代に、孝霊天皇と、孝元天皇を繋ぐ中継ぎとして、女王としての役割を担った、倭迹迹日百襲姫命が、正統な男系天皇の直系子孫として祟神天皇を事の他、可愛がり、又彼女の、絶大なカリスマ性を祟神天皇が偲んでの事であったと、考えています。奈良、飛鳥時代より以前には、大和朝廷の動乱期には、度々女帝が、誕生しています。この様な動乱期には巫女の持つ、宗教的な要素が、皆がまとまる為に、必要であったと考えています。

  • @YO-high
    @YO-high 2 ปีที่แล้ว +11

    個人的には、この箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないと思います。
    日本書紀には、魏志倭人伝の記載を見てから慌てて「神功皇后」を卑弥呼かもしれんと匂わせておりますから。
    もし、倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼ならば、神功皇后の出る幕は無いはずです。
    日本書紀書いた当事者が「神功皇后≒卑弥呼」とは書かないで、喜んで倭迹迹日百襲姫命=卑弥呼と書けばよいだけです。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +3

      ご視聴ありがとうございます。私も卑弥呼の墓だと思っているわけではなく、そういう説もある事を紹介しているという事です。とは言え、全く可能性がないとも思いませんが、少なくとも断定するにはもう少し新たな知見が加わらないと難しいですね。

  • @川島部長
    @川島部長 3 ปีที่แล้ว +19

    宮内庁が箸墓古墳を
    やまとととひももそひめの
    古墳だと決めた根拠を
    しりたいです。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +5

      コメントありがとうございます。桜井市埋蔵文化財センター図録『HASHIHAKA-始まりの前方後円墳- 』には、天武天皇上(ママ)元年7月条に、「是の日に、三輪君高市麻呂・置始連兔菟、上道に当たりて、箸陵のもとに戦ふ。」とあり、上道は上ッ道、箸陵は箸墓のことで、古代には箸墓を倭迹迹日百襲姫の墓と認識していたとあります(6~7ページ)。恐らくそれ以来箸墓は倭迹迹日百襲姫の墓であると認識されてきているようで、宮内庁もそれを踏襲したのではないでしょうか。

    • @川島部長
      @川島部長 3 ปีที่แล้ว +2

      @@koukogaku
      なるほど、宮内庁も公認しているという意味だったのですね。
      私は魏の大使が福井県海岸から上陸した説を
      探してみようと思ってます。
      そして和歌山あたりの敵国が
      山々を防衛装置として
      利用するに辺り、
      こちらの国は卑弥呼を
      戦略兵器として
      前線基地である、
      「馬が不自由な台地」で
      駐屯していたのではないかという説を
      探してみます。

    • @usa7006
      @usa7006 3 ปีที่แล้ว +2

      @@川島部長 日本海側から畿内に入ろうと思ったら、福井県側から滋賀県の琵琶湖の沿岸を通って入るのが前近代の主要ルートだなと思う。兵庫県側は山が多く、現在と違って山々を通過する道路が開通していない。応仁の乱の時も、西軍は主戦場の京への物資を送るのに、日本海側から福井県、滋賀県を通過して京へ物資を送る補給網に頼っていた。つまり、日本海側から兵庫県を通過して京へ物資を送るのは、山々を越えないといけないので、大変だった。

  • @2001banekuro
    @2001banekuro 3 ปีที่แล้ว +23

    「皇室関係の陵墓だから発掘させない」という宮内庁の思考回路が狂っている。
    「陵墓の安寧を守るため」と称しながら、その保全のための努力はせず、放置しているだけ。
    祖霊に対する敬意があるなら、墓はしっかり掃除し続けるのが常識的な感覚のはずだが、宮内庁は朽ちるに任せる気らしい。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +9

      コメントありがとうございます。おっしゃること、凄くわかります。確かに陵墓だから守られてきた部分もあるとは思いますが、古墳に木が生えていることが当たり前というか、なんとも思わなくなってしまっているのは、墳丘にとっては物凄くマイナスだと思います。箸墓も明治初年の写真を見ていると、ほとんど木が生えていないですね。木の根によって確実に墳丘は破壊されていきますので(城の石垣も同じです)、樹木管理は是非検討・実施してほしいと思います。祖霊に関する敬意があるなら、是非調査の上、元の形に復元してほしいですね。

    • @tarou1172000
      @tarou1172000 3 ปีที่แล้ว +3

      発掘そのものは大反対ですけど、おっしゃる通り保全清掃位すればいいのにと思います

    • @1honshitsuka
      @1honshitsuka 2 ปีที่แล้ว

      墓を暴こうとするその精神が理解できない。
      日本人ですか?

    • @2001banekuro
      @2001banekuro 2 ปีที่แล้ว

      @@1honshitsuka 様
      誰も「墓を暴け」なんてことを言ってやしない。
      そもそも死者に対する畏敬の心情は、直接故人を知っている人間でないと本当の感情的共感性は持ち得ない。
      そうでない人間が、自分の感情的な思い込みを持ち出すことが、故人に対する侮辱的な行為だと思うのだが。
      死者を都合よく利用してきた事例は歴史に枚挙賀の暇がないぐらい記録されている。
      「日本人ですか?」という問いかけに困惑する。
      陵墓に指定されていない古墳は幾らでも発掘されているので、それに関与した人間は日本人ではないのか?
      もちろん俺は陵墓の発掘を願う立場だが、古代日本史に関心ある多くの人々が期待していることだ。
      そういう考えを持ったら日本人で無くなるのか?
      少なくとも俺は祖先を敬うなら墓の清掃ぐらいしろと言っている。
      そういう指摘は凄く儒教的な要素が強いのだが。
      俺はこういう批判があることも織り込み済みでコメントを書き込んでいる。

    • @namaco-umai
      @namaco-umai 2 ปีที่แล้ว +5

      @@1honshitsuka 清掃修繕の話をしてる

  • @長﨑光幸
    @長﨑光幸 3 ปีที่แล้ว +14

    BGM。もう少し控えた方が良くないかな?
    この種の動画に興味ある人は音楽より中身。
    睡眠薬代わりに聴きのにはちょっとうるさいかも。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +3

      ご指摘ありがとうございます。BGMはあくまで従で、ナレーションをメインに考えて音量を決めているつもりですが、適切な範囲が人によって少しずつ違うので、いつも迷うところです。

    • @宮崎やよい-l6u
      @宮崎やよい-l6u 3 ปีที่แล้ว +5

      BGMうるさくて聞く気にならない💦

  • @平善之-b4o
    @平善之-b4o 2 ปีที่แล้ว +2

    確かに証明できないことが最大の難点ですね。私が神話を切り捨てることができないのは記紀が天武天皇の命により始まり天皇家が直に携わっているからです。仰る通りある人達がある目的を持って作ったものならば、意味が無い部分は無いのではないでしょうか?山口県の阿武町の町長さんはめくら判を押したようですが、通常は上司は一応すべてに目を通します。天皇や皇子達も目を通したでしょう。複数の人達が目を通して通過したならば神話の中に(全部は信じられませんが)真実が含まれており、大人の事情でストレートには書けないがあのことだなと考えて天皇や皇子達は許可を出したのではないかと思っています。例えば八咫烏は神話で普通に考えれば変です。
    所が、古事記のその部分を読めば、その前後に「尾のある人」と言うフレーズがたくさん出て来ます。とすると八咫烏の3本目の足は実は刀で、天皇家に関わる人達を神格化する為にあえて神話にしたのだと思えませんか?そして天皇や皇子達はその大人の事情を理解しているので許可したと。もう一つ事例を上げれば「稻羽之素菟」です。古事記には「因幡の白兎」とは書いてありません。また出雲風土記には書いてありません。この話は宇佐氏と和邇氏の戦いを擬人化したものだと思います。宇佐氏は菟狭津彦命を祖とし「宇佐」ではなく「菟狭」だったのです。また和邇氏は5~6世紀には大和を根拠にしていますが、その前は九州都城付近にいたのではないかと思います。山幸彦の奥様の豊玉姫の子孫です。ワニが人間との間に子をなすはずは有りません。豊玉姫は和爾氏のお姫様だったのだと思います。何の根拠もない妄想ですが、現実に宇佐氏は都城に攻め入り、その時の捕虜の首を埋めた「首塚」が宇佐近くに有り、それが言い伝えになっているのが不思議でなりません。もしかしたら現実の戦争は素直には書けない(その子孫が貴族の中に居る)ので「動物同士の戦いの神話」にした大人の事情だとは思えませんか?例えば万葉集の額田王の歌に「三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべきや」と言うのがあります。ただ読んでも意味不明ですが、この歌は「類聚歌林(山上憶良)」を引用しており中大兄皇子が三輪山を見上げた時に額田王が詠んだ歌です。しかしこの歌は日本書紀の中にも有り、そこでは皇子が大和を離れて近江に遷都し大和を離れる時に詠んだもので、暗に近江への遷都を非難した歌なのだそうです。昔の人は直接的に言うと大変なことになる(殺される)ので分かる人には分かるようにそれとなく表現したのでしょう。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +1

      すいません、神話から歴史的事実を抽出するのは難しいという趣旨で書いたつもりでして、仰るように、編纂者側には当然意味があると思います。また、学問的にもそうした説話が生まれてくる背景を考えたり、他の神話との比較から背景を探る事などの意味はあると思いますので、全く否定するつもりはありません。私は平さんのように神話に対して、真摯に向き合ったことがありませんので、「稻羽之素菟」の解釈も、なるほど、そういう解釈もできるのかと感心しています。これからも色々とご教示ください。

  • @だっちゃ20年周期
    @だっちゃ20年周期 3 ปีที่แล้ว +29

    皇族の陵墓となると、発掘作業が出来なくなるので研究が進まないと聞いた事があります。
    卑弥呼が天照大神だとすると、日蝕と岩隠れの伝説が重なりそうで面白いです。

    • @くまくまん
      @くまくまん 2 ปีที่แล้ว +3

      最初の前方後円墳が太陽神アテンと似た形で天照大神となると面白いですね。

  • @御神誉黎
    @御神誉黎 2 ปีที่แล้ว +9

    魏志倭人伝の記録によれば「 卑弥呼の死をもって、塚を大きく作り、 直径は百余歩、」との記載から
    当時の魏の「歩」から考えて直径150Mくらい。箸墓はそれとほぼ一致するサイズとのことですが
    ただ、私は直径は百余歩は、あまり厳格にとらえる必要はないと思いますけど
    百とは数多とか大きいとか、そういう意味でよく使われる数字ですからね
    150Mと言わずとも、相当に大きな墓であれば100歩余りとの記載になるのではないか。そんなことを考えますが
    もちろんこれは箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないとまで言いたいわけではなく、私も最古の前方後円墳である箸墓が
    最近の調査では卑弥呼の年代に近いとの説もあり、考えても卑弥呼の墓の可能性は高いと思っていますけどね
    ただ、100歩のサイズに拘って考えても、必ずしも正しいのではないかと思えるだけで

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 2 ปีที่แล้ว +5

      径百余歩のスケールは、倭人伝の里程(測量したんかい!)同様、そこは適当に
      「倭国で評判になる程でかい墓を作った」くらいに読んでおけば十分でしょう。まあそんな訳で書紀でも珍しく陵墓構築エピソードがある箸墓=卑弥呼の墓というのは説得力はありますが

  • @vestaosto
    @vestaosto 2 ปีที่แล้ว +8

    死因が衝撃です😿

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +3

      確かに凄いですね(;^_^A。

    • @shoteocha6557
      @shoteocha6557 2 ปีที่แล้ว +2

      本当に箸が刺さったかどうかはともかく、突然の不慮の死だったということでしょうね。

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว

      箸が刺さって死んだということとですか?

    • @ミックスミッキー-z2g
      @ミックスミッキー-z2g ปีที่แล้ว +1

      お箸がどうこうはともかく、子宮から出血があって亡くなったみたいだね

    • @toomas92
      @toomas92 ปีที่แล้ว +1

      魏志倭人伝の時代の倭国はまだ箸はないw
      倭人は手掴みで食事してると記録されてるので
      やまとともももののなんたらは箸が伝わった時代の創作

  • @華花桜
    @華花桜 หลายเดือนก่อน

    音楽の音が大きいので、聞きづらいのが残念です。

    • @koukogaku
      @koukogaku  หลายเดือนก่อน

      すいませんが、字幕もありますので、ボリュームを調整してください。

  • @okomesuki4974
    @okomesuki4974 ปีที่แล้ว +5

    大神神社→柿葉寿司+にゅうめん→箸墓古墳ぐるぐる→巻向遺跡(ほぼ何もないけど想像する)が楽しい

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +1

      この周辺は市街化を免れていて、散策するのも楽しい場所ですね。

  • @80saigon
    @80saigon 2 ปีที่แล้ว +7

    BGMの音量が大き過ぎて、ナレーションが非常に聞き取りづらいです。
    大切な情報ですから、ぜひ一考をお願いします。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +2

      度々ご指摘を受けるのですが、一度アップしてしまうと、修正が出来ませんので、申し訳ございませんが、テロップで対応ください。

  • @momota-1953
    @momota-1953 3 ปีที่แล้ว +22

    卑弥呼の墓とするのは早計ですね。魏志倭人伝によると当時卑弥呼は相当年寄りだったらしい。私はむしろ
    その後継者台与に注目したいですね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +10

      コメントありがとうございます。誰が埋葬されているんですかねえ? ただ、日本ではこの時代の古墳の被葬者名がわかることはないので、非常に難しいとは思いますが、こうやって色々と考えるのは楽しいですね。でもいつの日か、発掘調査が行われて、謎の解明に近づいて欲しいですね。

    • @蝉丸山茶花亭
      @蝉丸山茶花亭 3 ปีที่แล้ว +5

      私も卑弥呼の墓を箸墓古墳とするのは早計にすぎると思います。そもそも日本の史書に出てこない邪馬壱国や卑弥呼、壱与をほぼ同時代史である中国史の一つである三国志に求めるならば三国志を徹底的に読み込むべきです。

    • @usa7006
      @usa7006 3 ปีที่แล้ว +3

      台与(トヨ)は、豊鍬入姫命のほうだろう?

    • @1honshitsuka
      @1honshitsuka 2 ปีที่แล้ว

      多分邪馬台国と言うのは西晋の陳寿の創作で、北九州朝鮮半島南部の日本人勢力圏までしか行けず、後は大和王権の話を聞いて想像しただけだと思います。
      三韓討伐は事実だったと言う事がわかる捏造であると俺は思います。
      魏志倭人伝でも狗奴国と邪馬台国の前までは北九州でほぼ比定できていますよね?
      大和王権も朝貢していた事にしないとワイから出た新羅を正当化できず、朝鮮半島南部が日本人のものだった事は隠さないといけないと言う事です。

    • @1honshitsuka
      @1honshitsuka 2 ปีที่แล้ว +3

      @@koukogaku
      ちなみに朝鮮半島南部の前方後円墳を調査すれば朝鮮半島南部が日本の勢力圏だったとわかると思いますがどうですか?

  • @materiaru0078
    @materiaru0078 ปีที่แล้ว +3

    陰部を箸で突くというパワーワードが・・・・・

    • @かかしやまだの
      @かかしやまだの 7 หลายเดือนก่อน +1

      妊娠してしまったのでトングのようなもので堕胎しようとして亡くなったのかも⁈

  • @setsuna0217
    @setsuna0217 6 หลายเดือนก่อน +1

    纒向型前方後円墳というより古い前方後円墳もあるみたいなんよね
    古墳と認めないという話もあるけど
    だから、箸墓が本当に最古なのかは謎かも?

    • @koukogaku
      @koukogaku  5 หลายเดือนก่อน

      古墳の定義によるのではないですかね?

  • @ヤマネユキオ
    @ヤマネユキオ 2 ปีที่แล้ว +3

    以前、なぜ箸の墓なのか、その由来を知ってびっくりした。
    子供にはどう説明するんだろう?

    • @toshiyam2853
      @toshiyam2853 2 ปีที่แล้ว +2

      日本書紀は、地名の由来とか強引な説明をする例が多いです。しかも現代の研究で時系列を簡単に否定されたりとロクなものではありません
      ただ、当初から「ハシハカ」と呼ばれ続けてはいたのでしょう。埴輪も一種の土師器(はじき)。埴輪で飾った大きな陵墓だから、そう呼ばれるようになったという説を支持します

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว

      わざとさげすむような?表現を使って死んだとすると大物部氏と敵対する勢力が名付けた姫の名前なのかも?

  • @がくけん
    @がくけん 2 ปีที่แล้ว +18

    魏志倭人伝には邪馬台国までの道のりのポイントとなる国々や、邪馬台国の隣国が記載されているが、
    現在の九州各所に残る・つながる地名がほとんど。
    さすがにその辺を無視して、近畿説推しは厳しい気がする。

    • @たいとう世直し君
      @たいとう世直し君 2 ปีที่แล้ว

      邪馬台国と大和王朝は別だとは思いますがね。
      北関東や諏訪地方や秩父地方からも遺跡は見つかってますし、国や文化があったと考えらます。
      当時の航海技術は遺跡調査や船の出土から我々が想像する以上に発達してた可能性が高くなってます。
      つまり人の行き来や物の行き来や文化の伝わりは我々の想像より早いのは間違い無いです。
      距離の計算の仕方から誤ってる可能性すら捨てきれ無いです。
      個人的には邪馬台国は単純に邪馬(山)の台の国って意味で、盆地の国では無かろか?とは思ってます。
      あとは生命を維持する為の綺麗な水が豊富に湧き出て、タンパク質を確保する為の狩猟が出来、海路に通じる街道が作りやすい場所となります。
      これに該当しそうなのは熊本(阿蘇)、和歌山・奈良・三重(熊野那智)、長野・山梨・埼玉(諏訪・甲府・秩父)、山形・福島(蝦夷)になるのかな。
      熊本最有力ですが、個人的には諏訪の可能性も捨てきれ無いとは思います。
      今の地形で物事を考えるとかなり逸れます…。
      縄文時代〜大和王朝までの国土や海抜や氷河の有無や川の幅や海路を計算しながら発掘と照らし合わせて答え合わせをしないと落とし穴に陥ってしまいます。

    • @がくけん
      @がくけん 2 ปีที่แล้ว +2

      自分が言ったのは、遺跡とか距離うんぬんではなく、魏志倭人伝で邪馬台国までの道のりを説明するときに出てくる邪馬台国以外の国名が、現在の九州にある地名で読み方が同じか、類似する読み方だったりするのがほとんどだ という内容になります。

    • @がくけん
      @がくけん 2 ปีที่แล้ว +2

      @粟飯原
      何を基軸に推論するかで、畿内説か九州説か分かれるところですよね。
      ちなみに個人的にはその軸を決める前の前提として、
      邪馬台国=当時の日本列島内最大勢力 とは限らないと思っています。
      また、まだ見つかっていない遺跡や、もうすでに現存してない跡もあると思いますし。
      ですから現時点で見つかっている遺跡の規模などを
      一番の指標にして推論することは難しいと考えています。
      また、
      邪馬台国=ヤマト王権、またはのちの大和朝廷 かどうかは今のところ分からないし、
      個人的にはどちらかというと、 
      邪馬台国 ≠ ヤマト王権、またはのちの大和朝廷 の可能性が高いと思っています。
      なので、邪馬台国がどこかを推測するには、
      『三国志』中の「魏書」の内容を基軸に推論したほうが良いのかなと。
      (なぜならその存在自体が、三国志か旧唐書くらいからでしか確認出来ないので)
      そしてその歴史書に登場する国々の読み方が、
      九州にある地名で読み方が同じか、類似する読み方だったりすることを無視することは難しいのでは
      という、あくまでも個人的な意見です。

    • @がくけん
      @がくけん 2 ปีที่แล้ว +1

      ​@粟飯原
      ありがとうございます。なるほど、勉強不足でした。
      畿内説でもそのような地名で推測できるところもあるんですね。
      距離とかは正確ではないと思いますが、それぞれの現在の地名で推測できるところと、書に記述にある地名の位置関係的には
      無理が無い感じなんでしょうか。
      ちなみに
      >「歴史書に登場する国々の読み方」
      ってところが、スミマセン、ちょっと広い定義でした。
      >「邪馬台国までの道のりのポイントとなる国々や、邪馬台国の隣国が記載されている」
      って感じで絞ると、各地名はどんな感じになるのでしょうか。
      ​ 粟飯原様の記述で述べられている地名のほとんどは、 道のりや周辺国名としては登場してなさそうな。。
      もしかしたらこちらの勉強不足で知らないだけかもしれません、スミマセン。
      なので道のりのポイントとなる国々で出てくる地名として
      「末盧国」「伊都国」「奴国」「不弥国」「投馬国」などがあると思いますが、
      畿内説ではどのような現在の地名になるのか、おしえていただけるとありがたいです。

    • @脇田昭
      @脇田昭 2 ปีที่แล้ว

      @粟飯原 さん
      貴重な見識ありがとうございます。爾は中国語でにーと発音になるのでは?

  • @雅敏鍛冶
    @雅敏鍛冶 3 ปีที่แล้ว +11

    女王卑弥呼の時代の古墳はこのような形はしていないのですよ。このような形の原型の姿でした!時代とともに、このような形に変化していきました。

    • @conspiracy_shine
      @conspiracy_shine 2 ปีที่แล้ว +4

      素人の考えではそうなんだね

    • @Ray2975-
      @Ray2975- ปีที่แล้ว

      では炭素年代測定の科学的根拠についてどう説明するんですか?

    • @雅敏鍛冶
      @雅敏鍛冶 ปีที่แล้ว

      古代イスラエルの古墳は陵墓と祭壇をする2つの場所があります、円墳と台形の形は2つの場所が独自に進化したものです、様々な古墳の形があり初期における古墳の形にも反映されています、東大寺を完成させるのに70ねんかかりました、法隆寺の完成は4五十年費やしています、木材の伐採や資材調達運搬の月日も様々と考えるべきです、たんそ調査も今一度思慮するべきではないでしょうか?

    • @Ray2975-
      @Ray2975- ปีที่แล้ว +1

      @@雅敏鍛冶
      最後の文章以外の文章いる?
      論点と関係ないよね
      自分の話したいことを論点と関係なく一方的に話し始めるところが頭が悪いというか自己中心的だなと
      炭素年代を見直すべき科学的根拠は何?

  • @keen1174
    @keen1174 2 ปีที่แล้ว +8

    最初の巨大前方後円墳箸墓が3世紀中葉となったことで、全国の資料館の年表で古墳時代の始まりが3世紀になりました。邪馬台国連合とヤマト王権が繋がりました。箸墓から三角縁神獣鏡が発掘されることでしょう。

    • @kotakamituna5636
      @kotakamituna5636 2 ปีที่แล้ว

      三角縁神獣鏡が畿内からたくさん発掘されていることを邪馬台国畿内説の一つの根拠とされている向きもあります。しかし、三角縁神獣鏡は、中国では発掘されていません。また100枚下賜されたとなっているのに、畿内で550枚も発掘されています。また「景初4年」と言う中国の年号にはない(景初3年までしかない)鏡も発掘されています。三角縁神獣鏡を魏の皇帝から下賜されたものとするには矛盾が多すぎます。

    • @keen1174
      @keen1174 2 ปีที่แล้ว

      @@kotakamituna5636 三角縁神獣鏡を下賜された100枚の鏡というよりも、魏鏡で魏の年号が入ったものもある銅鏡であることや大量に日本で作ってヤマト王権の威信材として配布し続けたことに意味があります。明らかに地方の中でも有力なものを選んで三角縁神獣鏡は配布されています。魏鏡の三角縁神獣鏡とそのレプリカは邪馬台国・卑弥呼の栄光そのものです。日本で作られたものでも魏との交流を裏付ける重要な証拠に変わりありません。初期ヤマト王権は、卑弥呼の栄光を受け継いでいました。
      三角縁神獣鏡の編年研究がすすみ、初期のものほど精巧につくられていることがわかっています。初期の材料も大陸のものということがわかってきました。職人と材料を日本に送った可能性もあります。陳さんが制作したという銘文入りもあります。いずれにしても魏との関係を示す物に違いありません。魏鏡スタイルは銘文や年号だけではなく、紐を通す穴の形も魏の特色を顕著に表しています。
      魏によって王に柵封されたクニは、魏の年号を使わねばなりません。邪馬台国も公式的なものには魏の年号を使ったことでしょう。日本で製造していた場合、情報の時間差があることは実際的ではないでしょうか。
      2~3世紀の土器の移動が各地の発掘研究の成果で明確になってきました。東海・近畿の土器の移動が東北から九州に及び、他の地域を圧倒しています。土器の動きは、人の動き。土器の質はその先進性。土器の集中はその中心的な地域の表れです。いずれをとっても近畿が突出しています。
      3世紀博多湾交易拠点遺跡、西新町遺跡では、3割が近畿系、3割が朝鮮系で占められその他山陰北陸系も所在します。伊都国に繋がる地域の遺跡からも近畿系土器が多く出土します。3世紀の出現期前方後円墳が次々と福岡県で確認されています。これが北部九州の姿です。

  • @大谷主水-l6t
    @大谷主水-l6t หลายเดือนก่อน

    桜井・朝倉の東西南北の地名と九州甘木・朝倉の東西南北の地名が見事に一致することをふまえてみると西暦270年前後の神武東遷と箸墓古墳の築造年代は矛盾するんだよね。しかし、考古学的知見や地名は否定することが出来ないので、この矛盾を解決しなければならない。ここに邇芸速日命の東遷を挟めば、吉備の古墳や様式の東遷も考慮に入れて考えられるようになるのではないでしょうか。神武東遷は300年以降の遅くない年代まで繰り下げて考えられないでしょうか。

  • @天衣無縫-e1v
    @天衣無縫-e1v 3 ปีที่แล้ว +8

    2010年の平城京遷都1300年祭の時に箸墓古墳に行きました。あまり時間をかけずに、石棺とか調査して早く被葬者を特定してもらいたいものです。卑弥呼の墓でありますように!

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +3

      コメントありがとうございます。なかなか被葬者を特定するのは難しい気がしますが、そういう日が来るといいですね!

  • @ゆういちろう松浦
    @ゆういちろう松浦 ปีที่แล้ว +2

    4世期の古墳であり木製輪鐙が箸墓の周溝から出土しいる。古墳の変遷からも3世期以後の 古墳である

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +3

      木製輪鐙が箸墓の周濠からら出土していることがどうして箸墓築造時期の根拠と思われるのか、全くわかりません。周濠から出土するのは、築造以後であればどの時代であれ入り込むことは十分考えられます。周濠から須恵器も出ていると思いますが、それをもって古墳時代後期あるいは古代の築造とはしませんよね? 築造時期は、墳丘の埴輪や、主体部から出土する遺物から判断するのが当然だと思いますが。

  • @rino_japanese
    @rino_japanese 3 ปีที่แล้ว +12

    卑弥呼の墓とされる根拠を、時代が合ってるというだけでは根拠とは言えませんね。
    箸墓古墳のある場所はのち大和王朝として栄えるところ。
    そこに卑弥呼の墓があったのに古事記にも日本書紀にも卑弥呼の話が出てこないってのは変です。卑弥呼の墓でないことは素人でも判ります。

  • @DIKOKUKEN
    @DIKOKUKEN ปีที่แล้ว

    今は❗鳴門の荻原2号墓→萩原1号墓→西山谷2号墳→ホケノ山古墳→箸墓古墳❗ですよね‼️

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +3

      別の所でも書きましたが、萩原2号墓は前方部というより、 突出部というようなものです。しかも研究者の間でもこれを前方部状のものとするかどうかで見解が分かれており、円形墓と考えている研究者も多いです。埋葬施設についても、石槨の立ちは低く、ホケノ山古墳とは比較になりません。木槨についても、現状の調査からは木棺を安置しているのは想定出来ても、木槨構造を復元する材料はありませんので、これを前方後円墳と考えるのは無理があると思いまする

  • @jaiy1900
    @jaiy1900 8 หลายเดือนก่อน

    卑弥呼は陰部に橋が刺さって崩御されたかもしれないというのは可哀想ですね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  7 หลายเดือนก่อน

      なぜこのようなストーリーになったのか、ちょっと不思議ですね。

  • @gachin2731
    @gachin2731 10 หลายเดือนก่อน

    初コメです。とても詳しくて判りやすく、ありがとう😊です。私なりに調べてみたんですけどよく判りません。ひょっとしたら、伊都国の難升米が卑弥呼を推戴したら、やっと倭国争乱が収まりました。
    卑弥呼は247年に没してます。墓は伊都国にあります。
    平原古墳かも、内行花紋鏡が四面出土、耳飾り、装身具の玉、素環頭の刀など出土。鏡、玉、刀は後の三種の神器になります。なんか卑弥呼の墓ぽっい気がします。違うかな?

    • @koukogaku
      @koukogaku  10 หลายเดือนก่อน +1

      ありがとうございます。平原はもう少し古くないですかね? 卑弥呼の墓がどれなのか、今のところは確定するのは難しいのではないでしょうか。箸墓古墳ももう少し調査が出来ればまた評価が変わるかもしれませんが、現状ではなかなか調査することも難しそうですね。

  • @qwqw00313
    @qwqw00313 ปีที่แล้ว +7

    陰部に箸!?という死因、初夜にショックを受けた姫が自死でもしたんだろうか…。円墳だという卑弥呼の墓はここではなさそうだし邪馬台国は九州だと思う自分です。

    • @hayakawayuuna9553
      @hayakawayuuna9553 ปีที่แล้ว

      陰部にハシが刺さっての部分なのですが、わたしは姫が強姦に遭い、そのまま殺されたorその後自殺を遂げられたのではと思うんですよね。やはり強姦に遭われて死んだとなれば体裁や名誉にかかわりますし。

  • @讃岐国造竹取翁
    @讃岐国造竹取翁 ปีที่แล้ว +9

    箸墓古墳が桜井市にあって三輪山にも近く、三輪山の出土遺物も3世紀のものが多く、箸墓が女性祭祀者(倭迹迹日百襲姫)の墓と伝承されてきた事などを併せ考えると、「卑弥呼」の墓説はここが一番有力かもしれません。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +1

      すいません、サムネイルに卑弥呼の墓? と入れましたが、正直なところよくわかりません。もちろん可能性としてはあるとは思いますが。発掘調査をしたとしても、文字資料がないとわかるかどうか微妙かもしれませんね。いつの日にか解明されることを期待しています。

    • @讃岐国造竹取翁
      @讃岐国造竹取翁 ปีที่แล้ว

      @@koukogaku 冷静な見解に敬意を表するとともに、先の自分の「卑弥呼の墓と見ていいのでは」という断定的な言い方を恥じております💦。
      チャンネルさんが仰る通り、文字資料がない限りは結論を出すなど不可能ですよね。

  • @DIKOKUKEN
    @DIKOKUKEN ปีที่แล้ว +1

    もはや‼️箸墓が最古の前方後円墳ではありませんね‼️?👍️

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +3

      前方後円墳の定義によるのではないでしょうか。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki ปีที่แล้ว +2

      萩原墳墓群は弥生墳丘墓であって円形周溝墓に分類される
      前方後円墳とは明確に区別されてますけど

  • @星本-m4z
    @星本-m4z 2 ปีที่แล้ว +12

    箸墓古墳を卑弥呼の墓とほのめかすタイトルと構成には、無理があると私も思います。邪馬台国=もともと北部九州説の方が、いまや有力だと個人的には(現時点では)理解しています。いままで読んだ資料や本からは、箸墓=卑弥呼の墓と納得できる科学的根拠をみたことがありません。少なくとも、こうした動画では、箸墓=卑弥呼の墓と前提する根拠と、それを否定する説の根拠、両方の詳細な学術的な説明をつけて欲しいです。

  • @ナカニシコオゲテン
    @ナカニシコオゲテン 3 ปีที่แล้ว +14

    卑弥呼の墓は円形、久留米市の権現塚古墳ですよね。

  • @YANAGITAtokinori
    @YANAGITAtokinori 2 ปีที่แล้ว +1

    殉葬してた垂仁より後のものではあるんだろうね。

  • @komatsumiyabi5173
    @komatsumiyabi5173 2 ปีที่แล้ว +6

    卑弥呼の墓であり親魏倭王の金印は頭部に納められたとのこと。

    • @conspiracy_shine
      @conspiracy_shine 2 ปีที่แล้ว

      親魏倭王の金印は志賀島な
      素人目線乙

  • @風呂上がり徹子-s4g
    @風呂上がり徹子-s4g 3 ปีที่แล้ว +25

    邪馬台国も卑弥呼も九州なんだよな。
    箸墓はももそ姫のお墓なんでしょうね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +11

      コメントありがとうございます。私の印象ですが、研究者のほとんどが邪馬台国は近畿、纏向遺跡であると考えているように感じます。確かに古墳時代直前までの鉄器や大陸系の文物の出土状況は、北部九州が圧倒的で、どうしてそれが古墳時代に入ると逆転するのか、逆転するという現象の背景に何が起こっていたのか、とても興味がありますね。箸墓に埋葬された人物が誰なのか、今後も固有名詞がわかることはないと思いますが、ヤマト王権の大王であったことは間違いないのではないでしょうか。

    • @風呂上がり徹子-s4g
      @風呂上がり徹子-s4g 3 ปีที่แล้ว +10

      @@koukogaku
      邪馬台国は大和王権とは別の国と考えています。
      魏志倭人伝を読むと邪馬台国は九州なのは確実なので、卑弥呼は九州の人です。
      では箸墓は?モモソ姫と伝わっているのでモモソ姫で間違いないです。
      邪馬台国については自分の考えがあるのでいつか誰かと語りたいです。

    • @takashiumeda6276
      @takashiumeda6276 3 ปีที่แล้ว +2

      @@風呂上がり徹子-s4g
      邪馬臺(台)国ではなくて邪馬壹(壱)国ですね。
      古田武彦氏によって、初めて知りました。
      歴史学者が未だに認めていないのは、全くおかしなことですね。

    • @風呂上がり徹子-s4g
      @風呂上がり徹子-s4g 3 ปีที่แล้ว +5

      @@takashiumeda6276
      3世紀の頃の魏志倭人伝は草書体で書かれてあって、その後楷書体にて写本されてきました。
      臺と壹は草書体ではかなり似た文字になるようで、写本の段階で臺(台)になったり壹(壱)になったりしたようです。
      元々は臺(台)と書かれていたようです。
      他にも所々草書体では似ていて楷書体に書き換える段階で違う感じが使われていたりしてるみたいですね。
      諸説ありますが私はこの説が一番しっくりきてますね。

    • @takashiumeda6276
      @takashiumeda6276 3 ปีที่แล้ว +8

      @@風呂上がり徹子-s4g
      古田武彦氏はその様な反論も予想して、三国志に出てくる全ての「臺」と「壹」を比較して、文字の取り違えが起きていないことを立証されています。
      当初ご指摘のような反論をされていた歴史学者は、古田氏の丁寧な立証の後は反論できず、無視することで対面を保ったつもりのようです。
      「短里」と「長里」、春秋歴、九州歴等も同じです。
      30年前にこれだけの仕事をしているにも関わらず、歴史学者は真面に問題に直面していません。
      最新の考古学の発見は、全て古田氏の説を立証しているようです。
      今のAIの技術を応用すれば、簡単に立証できそうな事ですが、それでは困る人が沢山いらっしゃるようですね。
      学者は、自らが選んだテーマに真摯に向き合っていただきたいと思っています。

  • @masayan4828
    @masayan4828 3 ปีที่แล้ว +4

    やっとマトモな考古学・古代史のチャンネルに出会えました。 もちろん、物事には100%は無いですが、様々な科学的手法によるデータや墳墓及びその埋蔵物など、そして、魏志倭人伝そのもの(行程の方角を南から東にさえすればすべて辻褄が合う)からも、邪馬台(やまと)国は、その名の通り、大和(そして纒向)にあったことは間違いはないでしょう! 
     それで、私の興味は、なぜこの奈良盆地に日本の最初の首都とも言える都市を開いたのか、という点です。 おそらく、当時では、奈良盆地は、アイヌ(蝦夷を含む)の勢力が及んでいない中部地方以西で最も広い平地を有していたのでは?と考えています。 大阪平野や狗奴国があっともされる濃尾平野は、今よりかなり狭かったはずだと。 北部九州や吉備などから移動し集まってきた人々が、この地を最良の場所だと選んだのでしょうか? 大きな岩や山は、聖地になりやすく、そういった意味でも、周囲を山に囲まれたこの盆地は、うってつけだったのかも? ロマンは、尽きません!

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +3

      お誉めいただき、ありがとうございます。とても励みになります。でもこの動画は、桜井市埋蔵文化財センターの図録をそのまま動画にしただけですので、まともだと思いますよ(笑)。
      なぜ奈良盆地に王権が誕生したのか、おっしゃる通り、濃尾平野は今よりもずっと内陸まで海が入り込んでいたので、可耕地は少なかったと思いますが、河内平野は、この時期には河内湖の埋没が進んでおり、それなりの有力集落もかなりあったようですし、確かに謎ですね。大きな岩や山が聖地になりやすいというご指摘は、とても魅力的ですね。現代とは違って、神に対する畏敬の念や畏れなどは、当然あったはずですが、こうした思想的なことは考古学的になかなか証明出来ない所がネックですね。ですが、とても大切な視点だと思います。
      弥生時代後期までは、政治的・経済的に他地域を寄せ付けなかった存在の北部九州であったのに、古墳時代に入ると、今度は大和が他地域を圧倒する、この現象がどのようにして起こったのか。弥生時代から古墳時代への移行期に何が起こっていたのか、とても興味深いですね。文字がなく、物質資料だけでどこまで当時の社会の解明に近づけるのか、難しいですが、少しでも事実に近づいていけることを願っています。
      今のところ古墳チャンネルのような感じになっていますが、もう少し色々なテーマを取り上げていければと考えております。またお付き合いください。
      別チャンネルで城の動画もアップしていますので、よろしければご覧ください。今後ともよろしくお願いいたします。
      城・移住情報チャンネル
      th-cam.com/channels/yCkA3edHuVARfj3ngM8qcA.html?view_as=subscriber

    • @masayan4828
      @masayan4828 3 ปีที่แล้ว +1

      @@koukogaku お返事、ありがとうございます。 本当に、書かれているような弥生から古墳への移行期のストーリーなどを、考古学の専門家の方々がご自身の思いでいいので、いろいろ語ってもらいたいものです。 皆さん、ご自分の専門やそこでの成果しか話しにくいのは、よくわかるのですが、日本の考古学をさらに前に進めるためにも、もっと大胆にそこのあたりの自説を我々一般人に提示していただければ、と思うのですが!? 大胆過ぎる自説を流布するのは、ぜんぜん専門でない方ばかりのようでーー。

  • @植松直隆
    @植松直隆 หลายเดือนก่อน

    古墳を調査すると、日本書紀、古事記の内容が否定され、日本皇室の歴史がひっくり返る恐れがある、、、何年か後には調査される環境が整う運命にあります。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki หลายเดือนก่อน

      叶わぬ妄想乙

    • @koukogaku
      @koukogaku  หลายเดือนก่อน

      単純に皇室ゆかりの方の尊厳が犯されるから発掘を認めていないのではないでしょうか。古事記・日本書紀の内容はそもそも100%正しいわけではないので(特に最初の部分)、ひっくり返されると困ると考えずに、どの部分が正しくて、どの部分は創作・脚色なのかがわかればいいのではと思いますが、どうなんでしょうかね? 調査できる時代が来るといいですね。

  • @狛犬-g8n
    @狛犬-g8n 3 ปีที่แล้ว +6

    5:00の説明にある「箸墓周辺の調査では、布留0式と呼ばれる土器が出土しており、現在では3世紀中頃とする説が有力です。」
    箸墓古墳周壕の基底部から大量の布留0式の下に木製鐙が出土しており、調査の結果、「池は撹拌されていない状態だった」とある。
    後に正式発表で4世紀前半のものと推定されましたが、鐙が中国大陸で発明されたのは西暦290~300年頃とされ、
    発明当初は金属製で木製の改良型は4世紀中頃に登場した(これ世界の常識)となっています。
    魏志倭人伝に牛馬なしと記述されているのに木製鐙が出土って変じゃないですか?年代鑑定が間違っているとしか考えられない。

  • @あきパパ-d7z
    @あきパパ-d7z 2 ปีที่แล้ว +4

    まだ決まった訳ではないですけど!

  • @peaojaru3626
    @peaojaru3626 หลายเดือนก่อน

    「ここまで分かった」ではなく
    「これしかわかっていない」が現実ですね
    それに、弥生終末期には墳墓の周濠に
    水を貯めたものなどありませんが
    発掘もしないで、箸墓をそれにしようとしてますね・・・
    纏向石塚やホケノ山を古墳の最古とすることに位置付け
    憶測で、箸墓=卑弥呼の墓
    という恣意的な基準を考古学会は作ろうとしています・・・

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki หลายเดือนก่อน

      九州説にめぼしい成果がないので研究が進んでいる畿内説が先行するのは当然

    • @koukogaku
      @koukogaku  หลายเดือนก่อน +1

      ここまでわかったか、ここまでしかわかっていないかは捉え方ではないですかね? 私は桜井市の継続的な周囲の調査によって、かなりわかってきたと思いますよ。もちろん墳丘そのものや主体部が調査されていないので限界はありますが。箸墓の周濠は調査によって、前方部・後円部どちらでも滞水した濠があることがわかっています。箸墓=卑弥呼の墓はどこまでそのように考えられているでしょうかね? 私はまだ1つの説の段階だと思っています。恣意的な基準を作ろうとしているようには感じませんが。

    • @peaojaru3626
      @peaojaru3626 หลายเดือนก่อน +1

      @@koukogaku さん返信ありがとうございます。
      まず最初に言っておきたいのですが、
      私は、畿内・九州・阿波などの説を推す
      信者ではありません!
      だからどの説の人たちにも
      なんやかやと矛盾や疑問をぶつけて
      いたりします。
      極論的に言えば、邪馬台国の場所など、
      どこでも良いではないか? とさえ思って観ているのですが、
      そういった目でみていても、
      マスメディアへの発掘結果に対する誘導が感じられるのですよね
      顕著なのが纏向地域ですが、なんらかの忖度がメディアを含めて
      あるのでは?と・・・

    • @peaojaru3626
      @peaojaru3626 หลายเดือนก่อน

      @@kei.suzuki さん返信ありがとうございます。

    • @yamajiro
      @yamajiro หลายเดือนก่อน +1

      @@peaojaru3626 仰ること、わかりますよ。やはり自治体としては、自分のところに資源があるなら、それを活用して人を呼び込み、地域振興に繋げたいという思惑はどの自治体でもそれなりにあると思います。特に市長さんや地域・観光振興の担当者の方々は。ただ、文化財保護担当者どうなんでしょうか。事実を等身大に発信しておられると思いたいですが、地域や担当者によっても考え方・スタンスは様々かもしれませんね。

  • @和知佳
    @和知佳 2 ปีที่แล้ว +8

    箸墓古墳は纏向遺跡の中にあります、纏向遺跡は日本の初期国家「大和政権」の都であったことが証明されている、
    ので、この墓は大和政権の初期有力者と考えるのが普通と思います、卑弥呼の墓ではないですね、
    それは纏向遺跡他この桜井市から卑弥呼に関する物が何も発掘されていない、動画で3つの理由をあげているが、これではまったく、その証明にはなりませんね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +3

      おっしゃる様に、私も箸墓は初期ヤマト王権のいずれかの段階の王以上のことは言えないかなと思っています。卑弥呼の墓とする説については、そうした見解もあるという事を紹介させていただいたという事でご了承ください。

  • @tibon0218
    @tibon0218 4 หลายเดือนก่อน

    内容たのしいです
    有難うございます
    ナレ声が嫌いですが

    • @koukogaku
      @koukogaku  4 หลายเดือนก่อน

      ありがとうございます。もうかなり前の作品ですので、うろ覚えですが、ちょっとおじさんっぽい奴ですよね? 当時はこのナレーションでやっていたんです。また作り直そうと思います。

  • @ロプノールs
    @ロプノールs ปีที่แล้ว +3

    卑弥呼の墓は円墳 多分彼女は九州地方で亡くなってると思います。日本書紀では..この前方後円墳は
    百襲媛の墳墓との事..又..もし邪馬台国が..東征して来てたとしても..九州の地方国家である..邪馬台国に 
    これ程の墳墓は作れないでしょう。ヤマト政権の基は邪馬台国ではなく..投馬国ではと思います。東征の後.
    .全国から人夫を招集し造墓活動をしたと考えます..。箸墓周辺からは....九州地方では無く.東日本の..土器が
    沢山出土..九州由来の..銅剣や鏡は出土しません..。箸墓の状況は..邪馬台国..卑弥呼の..tastとは 
    全く..違う感触を感じます。

    • @nekono_mimikon
      @nekono_mimikon ปีที่แล้ว +4

      現代では前方後円墳は鍵穴状だという先入観がありますが、本来は円墳に祭祀場の機能を持つ前方部が付属したものです。
      邪馬台国は弥生時代の始まりの国ではなく、弥生文化の東征が青森県まで到達して1000年から数百年以上が経過した弥生終末期から古墳時代初期の国であり、関東はもちろん東北地方まで倭国領となっています。
      この状態で九州北部もまとめられない小勢力が内乱を起こし東方の大勢力に挑むのは、流石に無理があるでしょうね。

  • @nubo520
    @nubo520 3 หลายเดือนก่อน

    卑弥呼の墓以前に、この箸墓古墳が記紀・万葉集に書かれた箸墓なのかは確実とは言えない。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 หลายเดือนก่อน +1

      卑弥呼の墓かどうかはともかく、記紀の記述に出てくるものはこの箸墓を指していると認識されていると思いますが。

  • @こば-w4t
    @こば-w4t ปีที่แล้ว +2

    卑弥呼云々は、もはやどうでもいい位に些末な問題で、この旦那が小蛇でびびって箸を落として腰おろしたら陰部に刺さって命を落とすって状況がミステリーすぎる。
    どう言う状況よ

  • @Swimmy-INTP
    @Swimmy-INTP 3 ปีที่แล้ว +2

    奈良って奈良市に一極集中していない。
    都も歴史も観光資源も人口も分散している。
    どちらかというと飛鳥(橿原・明日香・桜井)の方が偉大。

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +5

      それぞれの時代にそれぞれの地域が輝いていたという事でいいのではないでしょうか?

  • @mythtory234
    @mythtory234 2 ปีที่แล้ว +2

    山口にありますね

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +2

      ご視聴ありがとうございます。山口県のどこでしょうか?

    • @mythtory234
      @mythtory234 2 ปีที่แล้ว

      @@koukogaku 来週現地入りするのでお知らせしますね。

  • @punkpunk2587
    @punkpunk2587 2 ปีที่แล้ว +18

    邪馬台国畿内説は考古学的にも文献的にも極めて可能性が低いので、箸墓が卑弥呼の墓である可能性はほぼゼロです。

    • @暢宗元
      @暢宗元 ปีที่แล้ว

      考古学とは別の観点から邪馬台国は機内でないと困る人達がいるからでしょう。

  • @kazudog1
    @kazudog1 3 ปีที่แล้ว +6

    箸墓古墳は確かに興味深い古墳ですし、ぜひ発掘調査をすすめてもらいたいと思いますね。
    ただ、卑弥呼の墓ではないでしょう。
    魏志倭人伝にかかれている内容と大和政権の様子にはあまりに共通点が少ないです。
    環濠集落やクニ同士の戦いの痕跡などが皆無ですから。
    もしろもっと平和で大規模で交易によって栄えた巨大な都市だと思いません?
    ま、その辺、北九州説・大和説論争になると、きりがないですけど^^;

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 ปีที่แล้ว +1

      コメントありがとうございます。交易は、出土する各地の土器からイメージ出来るのですが、、戦いの痕跡は、青谷上寺地遺跡のような、様々な条件が整わないと、なかなか出土遺物から特定することは難しいと思っています。

  • @kakasiyamadano1010
    @kakasiyamadano1010 ปีที่แล้ว +15

    箸墓古墳と魏志倭人伝は無関係と思います。

    • @桑野正治-l8m
      @桑野正治-l8m 6 หลายเดือนก่อน

      魏志「倭人伝」のみならず「東夷伝」全体を読めば、箸墓や奈良の地なんて全く頭に浮かびまへんわ
      村興ししたい気持ちは分かるが、卑彌呼や邪馬台国に頼るのはやめてんか
      自分のクニに誇りはないのか?

  • @landwalker6941
    @landwalker6941 2 ปีที่แล้ว +4

    当時日本には直径150メートルもある円墳がないので、前方後円墳の後円部の径とみればこの前方後円墳が卑弥呼の墓、というのは論拠としては弱いように思えます。
    漢字を創出した古代中国が円形でないモノの一部分だけ捉えて単なる径として記すとは思えませんし、それにもし大型円墳が今後見つかったらどうなるんでしょうか?
    邪馬台国は畿内説と九州説が張り合っているようで、その他岡山(吉備地方)、北陸、四国、はたまた東北(北上地方)だと諸説芬々ですが、
    いくら高名な学者が学会をリードしたとしても、シュリーマンのようにその証拠である遺物を発見して立証できなければ何の価値も無いでしょう。
    箸墓古墳がかなり重要な位置をしめていることは疑う余地がありませんが、魏志倭人伝にしか出て来ない邪馬台国や卑弥呼を比定するのは無理があるように思えてなりません。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +3

      自分としては、そのような説もありますよというくらいの気持ちで作ったつもりですが、どうも箸墓を卑弥呼の墓と主張しているように受け止められているようで、すいません。現状の知見では、具体的に被葬者を特定することは難しいのではないでしょうか。個人的には、さすがにこれだけで箸墓が卑弥呼の墓だと言えるとは思っていません。逆に、全く可能性がゼロだとも思っていませんが。今後調査が進んだ段階で、ある程度被葬者像が見えてくればいいですね。

  • @tabitogurume
    @tabitogurume 3 ปีที่แล้ว +4

    阿波ですよ

  • @セカイK1
    @セカイK1 3 ปีที่แล้ว +13

    箸墓古墳は神武東征以前、大和朝廷が興る前の関西の豪族の墓だな。

    • @conspiracy_shine
      @conspiracy_shine 2 ปีที่แล้ว +1

      妄想乙

    • @セカイK1
      @セカイK1 2 ปีที่แล้ว

      @@KM-ix1so 単に壊すのが大変だったからでしょ、記紀に前方後円墳とか出て来ないですから、皇室の古い墓は八角形とかしてる。

    • @セカイK1
      @セカイK1 2 ปีที่แล้ว

      市庭古墳は平城京開発時に邪魔だったからでしょ
      7世紀頃の墓が皇室の最も古い墓です。

  • @小日向白朗-z6v
    @小日向白朗-z6v ปีที่แล้ว

    箸墓は卑弥呼の墓で邪馬台国が大和(奈良)であるならば、北九州にあったとされる伊都国の『一大率』をどのように説明されるのか?『一大率』とは外国の使者を邪馬台国の女王『卑弥呼』に伝えるのが任務。北九州から大和に伝えるのは九州を陸路で瀬戸内海を船で渡り、また陸路で大和からの往復するとかなりの時間がかかり、使者をかなり待たすことになるので、これはあり得ないと思います。さらに陳寿はが魏志倭人伝(正確には、魏志烏丸卑卑東夷倭人の条)はあくまでも陳寿が渡航者からの伝聞なのとは正確とは言えない。また魏時代の度量衡を知ることが大事、中国の度量衡は時代により異なる。中国の学者も『一大率』が北九州であるから『邪馬台国』も北九州だろうといっていたよ、特集で。

  • @haruyukihayashi3796
    @haruyukihayashi3796 2 ปีที่แล้ว +9

    卑弥呼の墓ではありません。古墳人の墓です。馬具も発見されています。弥生時代の倭国には馬がいないと魏志の倭人伝には書かれています。

    • @KW-yy7me
      @KW-yy7me 2 ปีที่แล้ว +3

      魏志倭人伝には牛もいないと書かれています。
      倭国には牛も馬もいないということです。
      なので紀元前の古墳から牛の痕跡が出てくるところは卑弥呼とは無関係ということです。

  • @高橋邦雄-z2u
    @高橋邦雄-z2u ปีที่แล้ว

    後円部が155メートルで径100歩1歩76センチ2歩で1歩152メートルに近く卑弥呼の墓かもしれません。年代は248年没といわれてるのであってますが遠い。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว

      この動画では、現状、全ての条件をを満たすものがない以上、被葬者が卑弥呼という説も1つの可能性としてはあるかもしれませんね。ただ調査もされていないですし、なかなか決定打はないですね。

  • @ゆういちろう松浦
    @ゆういちろう松浦 ปีที่แล้ว +2

    最初の前方後円墳ということですがこれまでの京都大学の研究から古墳の変遷を考えると決して最古の古墳ではない。箸墓の古墳の堀から出土した木製輪鐙は少なくとも4世期末から5世期のもので全く卑弥呼の時代のものではない。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +2

      箸墓を画期と考える研究者は、箸墓を定型化された最古の前方後円墳と位置付けているという事で、定義の問題かと。木製輪鐙は桜井市教委も投棄されたもので、卑弥呼の時代のものではないことは認めていると思いますが。

    • @ゆういちろう松浦
      @ゆういちろう松浦 ปีที่แล้ว +1

      桜井市教育委員会は発掘のプロのですからいい加減なことは言わないと思います。明治大学の大塚初重先生は木製輪鐙のことについて非常に疑問に考えていました。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki ปีที่แล้ว

      ではその鎧一つでこれまでの土器編年研究が全部覆ることになりますね
      箸墓に継続する西殿塚〜渋谷向山古墳(景行天皇陵)までが4〜5世紀ということになると、佐紀古墳群、馬見古墳群、百舌鳥古市古墳群と築造時期が並行することになりますけどどう説明するのでしょう?
      また、特殊器台が既に消えているはずの4世紀後期以降の古墳で何故特殊器台が出土するのか?5世紀の古墳なら形象埴輪がないのは何故かなどの疑問もありますね

  • @口金屋小紅
    @口金屋小紅 2 หลายเดือนก่อน

    卑弥呼の墓は殉葬墓であると魏志に書かれています。奈良の箸墓からは埴輪が出てますので奈良の箸墓は当初の卑弥呼陵ではありませんよね。ま~移されたかもしれませんが。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 หลายเดือนก่อน

      殉葬が決め手になるかどうかわかりませんが、いずれにしてももう少し調査が進まなければ何とも言えないでしょうね。

    • @kei.suzuki
      @kei.suzuki หลายเดือนก่อน

      殉葬というなら日本の墳墓で弥生時代も含めて殉葬墓なんか見つかってませんね
      殉葬はなかったか、あっても土に溶けて消えてしまったかでしょうね

  • @yasakaKeiji
    @yasakaKeiji 3 ปีที่แล้ว +1

    ヒミコ斎王は大物主の神妻説も想定内。 ヤタガラスも一族だし。。。瀬織津姫と被りますな。

    • @usa7006
      @usa7006 3 ปีที่แล้ว +3

      大物主(三輪山の神名)。つまり、大物主の妻になるということは、三輪山に仕える巫女になるという比喩であり、実際に人間の妻になるという意味ではない。よって、卑弥呼の独身という中国側の記述とも矛盾しないと思う。日本書紀にも、モモソ姫命は大物主の顔を見たことが無くて、夜に偶然見たら、蛇だったという記述から、モモソ姫命は独身で、三輪山の仕える巫女で、夜中に祭祀をしていたら、蛇を見て、驚いたということだろう?

    • @yasakaKeiji
      @yasakaKeiji 2 ปีที่แล้ว

      @@usa7006 さn※感謝。
       ただ、魏志倭人伝は、魏の歴史書というより、ガイドブックに近い・卑弥呼さんは、結構大陸の知識にも明るくバックボーンは八咫烏のように、吉備地方の豪族の支持を得ている意味は、海軍力をも取ったというk所とですな。
       当時この意味はでかいと思います狗奴国がいますから。日田地方は本来、ヒメミコの勢力で日高見の神道をもって石造りの大陸渡来人勢力と対峙していたと思う。
       そしてヒミコ、媛巫女さんは宗女「トヨ」さんというお給仕を知る豊受なさる。まさにカムイヤマト(神居山戸)の建国に勝っ変わる豊玉系の海神族・・・息長垂らし。。。。海女さんの特に、5分以上も深海に潜る、もう仕事が霊能力会はs津みたいな、沖縄のユタさんやノロも元は、息長氏 霊能者集団で、沖縄は氷その血筋のウジ則の島だと思われます。
       日本全国にはオキナガタラシヒメという、シャーマンが異能をもって多くの倭人から崇拝差r手と思います。
       豊秋津洲瑞穂の国とか豊之浦、トユラ(豊浦)豊葦原、豊浦島。。。日本神社伝承は、古代物部海神族海幸彦の伝承を隠さず、さすが日本は同族同血族の天孫国家、皆国譲りうという、話し合いによる大同団結は、非常に「環太平洋黒潮親潮海廊文化圏」にあり今の日本人が重い異常に海のエスカレーターは陸路より高速であっという間にイースターに行き、クック船長によって見ィ打差rてるまで日本と非常に関わりが深いのと白亜列強に簒奪によって貴重な人大文字ロンゴロンゴが解読できなくなっている、キリスト教の強制的不況で島子裕の伝承や言葉や文字は悪魔の教え徹底依いてつぶし、島の人を拉致しrてアメリカや北米南米に連れていたと聞きますから、もしかしたらあのモアイ増は先祖の教えを再現したまだ新しいものかもしれない。
       日本もポリネシアも貴いものは巨大化しますから。最大の特徴ですよ。

    • @yasakaKeiji
      @yasakaKeiji ปีที่แล้ว +1

      @@usa7006 どの
       おおいに・・・・やっぱり吉備勢力は巨大古墳が多く、瀬戸内海を制した物部水軍の映画を物語ります。海があの沿海に多く巨大古墳o石棺や古墳築造は、、私の出身地異花の白兎伝説の「気多の岬」という疑いなき、日本かいがあ越のタケヌナカワヒメというシャーマン一族や。勿論、因幡の八上媛と白兎・・・大国主命と八上媛の精魂を予言した「宇佐津比古、宇佐津比賣の神官、皇室の氏神海の道を守る宇佐の三女神は、大祓詞にもある様に「オキナガタラシ」(息長垂らし)・・・いわゆる海部氏・海女のユタやノロなど祭祀祈祷の海神族の巫女斎王「海幸彦」系の大国主命。天照国、国照す、天輝彦大王と大日霊女貴(オホヒルメムチ)も山の神系美幸彦火の神和を祀る物部天照系が三輪山の物部の祝部と合体したいきさつをほうふつそさせまう。
      大国主系には周りに祭祀祈祷の祝部や巫部は巨大古墳造営の技能集団や異能集団と結びつく神道の統一があたのではないかとそれが、あの国譲り神事の根底にあるしんそうかとおもう。
      統一王朝に向かう勢いを纏向遺跡や箸墓の塀w野に巨大な墳墓を作るという、愛用と陸路を制覇していなければ到底なしえない文化文明を感じます。

  • @hayek218
    @hayek218 3 ปีที่แล้ว +4

    日本最古の前方後円墳は、阿波にある萩原二号墳なのでは?
    大和地方の初期の前方後円墳は形が阿波のものの劣化版で、しかも阿波の青石が使われているといわれています。

    • @tabitogurume
      @tabitogurume 3 ปีที่แล้ว +2

      仰る通りです。萩原2号墳は高速道路作るときに出てきましたね。阿波の青石を運ぶ文化が証明されています。すべて仰る通りです

  • @giantszero6962
    @giantszero6962 ปีที่แล้ว +11

    明らかに卑弥呼とは無関係だが(邪馬台国は九州の地方政権)
    邪馬台国と大差ない時代にこれだけの大古墳を作れるヤマト政権はすごい。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +5

      箸墓が卑弥呼の墓かどうかはともかく、弥生時代には圧倒的な先進地だった北部九州から、どのようにして大和に王権が誕生したのか、とても知りたいですね。

    • @讃岐国造竹取翁
      @讃岐国造竹取翁 ปีที่แล้ว

      @@koukogaku そもそも大和って海に面してなくて交易にも不便なはずなのに、なぜ巨大な王権に成長できたのか興味深いですよね。

    • @koukogaku
      @koukogaku  ปีที่แล้ว +2

      @@讃岐国造竹取翁 そうですね。ただ、海に面していなくても、川が現在の道路の役目を果たしていたと思われますので、大和川を通じて河内、瀬戸内との交流はそれほど支障はなかったのではないでしょうか。東側の地域との交流は山越えとなるので大変だったと思いますが、それでも弥生時代中期前葉から東海地方の土器が唐古遺跡に搬入されています。河内には大和ほど東海系土器の流入はないように思いますので(地理的な近さを考えても当然ではありますが)、東日本との繋がりはそれなりに古くからあったと思います。弥生時代は大和よりも河内湖周辺の方が発展しているイメージがあるのですが、それでも大和に王権が誕生したのは、西日本だけではなく、東国との繋がりを考えた場合、当時としては大和の方が優位性があったのかもしれませんね。

    • @讃岐国造竹取翁
      @讃岐国造竹取翁 ปีที่แล้ว

      @@koukogaku ああなるほど、当時は河川も通行・運搬の要衝でしたか。なるほどなぁ。。それで比較的容易に河内、瀬戸内とも行き来できたと。交易といえば海しか頭になかったので、これは本当に脱帽です。
      そして東海など東国とも盛んに交流していた可能性が高いと。なるほど、こりゃ巨大化できる条件は十分に揃ってますね。海外との交流だけでなく、列島内の各地方との交易も大変重要だったんですね。
      壬申の乱の時も、東国を味方につけた大海人が勝利しましたよね。意外にも王権拡大のカギは東国にありましたか!
      大変貴重な知見を教えてくださり、ありがとうございます!!これからも動画楽しみにしております!!

    • @yamajiro
      @yamajiro ปีที่แล้ว +1

      @@讃岐国造竹取翁 いえいえ、体系的な知識を持ち合わせてお話ししているわけではないですので、話半分で聞いておいてください。今後ともよろしくお願いいたします。

  • @私は元のら猫
    @私は元のら猫 2 ปีที่แล้ว +18

    箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありません。

  • @Larphy002
    @Larphy002 3 ปีที่แล้ว +12

    卑弥呼の墓は「塚」です
    立派な前方後円墳ではありません。直径百歩余りの「塚」で巨大な「墳」ではありません。
    [ 直径と言うことは 円形の墓 ]
    時代が近いから
      何でも卑弥呼の墓?
    最初に 邪馬台(壹)国=やまと の
    結論ありきは学問ではありません
    【倭人伝原文】
    卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩
    短里 1里=75m=300歩で
    100歩=75/3 = 直径25m前後の塚
    追伸 
    「大作冢」は巨大な塚の意味でなく 現代の 大葬 を意味し 魏の天子が制紹した親魏倭王に相応しい葬儀が行なわれた。

    • @pocapamas
      @pocapamas 3 ปีที่แล้ว +6

      まさしくその通りですね!
      九州以外の珍説の方々は、総行程1万2千里を無視したり方角を都合のいいように変更したりシナの風習を無視したりと
      賊のような輩しかおりませぬ^^

    • @藤井祐治-p5c
      @藤井祐治-p5c 2 ปีที่แล้ว

      全く同感ですな。邪馬台国=ヤマトという結論ありきで資料を好き勝手にねじ曲げてる。
      こんなのは学問じゃないです。
      資料に径とあるんだから径とするべきでしょう。
      何で何の根拠もなしに全長に読み替えるんだ!

    • @藤井祐治-p5c
      @藤井祐治-p5c 2 ปีที่แล้ว

      1万2千里!!それそれ!!
      学生の時、邪馬台国の本読んですぐそれに気付いて思わず「エー!!」と叫んでしまったのを今でも覚えてます。
      どんなに多めに見積もっても邪馬台国が九州の外に出ることはあり得ないだよなあ。
      素人が30分でたどり着けるようなことを学者が大真面目に議論してるんだもん、ホントに衝撃的だよなあ。

  • @gedachtnis6274
    @gedachtnis6274 5 วันที่ผ่านมา

    開ければ全てが解決するのに

  • @user-xqe3tap7rx
    @user-xqe3tap7rx 2 ปีที่แล้ว +5

    みなさんのコメントと読むと、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないという意見が多いですね。私もそう思っています。では何故こんな破綻した説が通用して来たのか。以下は私の推測です。事実はどうか知りません。
    簡単に云えば、学者、その遺跡が帰属する市の関係各課(発掘担当課、観光課など)と職員、学芸員、更には発掘業者などの利権が絡んでいるので、今更邪馬臺国や卑弥呼とは関係がないなどとは簡単に云えないということです。毎年管轄の中央官庁から予算を貰わないと、関係者のおまんまの食い上げになってしまいますし、観光都市であれば観光客の足が遠のけば収入減となります。出入りの業者も同じです。また学者は学者で、出世に暗雲が垂れ込み、将来の再就職口である博物館などの要職にも就けなくなるかも知れません。
    以前、某市の発掘調査に当たっている学芸員にテレビクルーがインタビューしている映像を観ましたが、目が死んでいましたね。こんな場所を幾ら掘っても邪馬臺国は出てこないと薄々分かっているのだろうと気の毒になりました。
    何でもそうですが、一旦利権構造が出来てしまうと外部からの圧力が無ければ、中々そこから脱却することはできません。で、箸墓に限らず素人でも論破できるバカな説が幾つも横行しているのでしょう。

    • @koukogaku
      @koukogaku  2 ปีที่แล้ว +15

      私の知る限り、観光部局や市長、議員の人達が地域起こしのためにそう言うことはあるかも知れませんが、発掘している担当者の人で、利権やしがらみでそう言っているということはほとんどないと思いますよ。ただ市の公式見解とは、違う意見を持っていることは普通にあるでしょうね。
      ここに書き込みをされている方は九州説の方が多いようですが、研究者の殆どは近畿説だと思います。とはいえ学問は多数決ではないので、これからの積み重ねの中で真実に近づいていくのではないでしょうか?

    • @user-xqe3tap7rx
      @user-xqe3tap7rx 2 ปีที่แล้ว

      @@koukogaku 様 わざわざご返答ありがとうございます。
      歴博(国立歴史民俗博物館)という権威の頂点に立つ組織が破綻した畿内説を強引に押し広めている。当にこれが今や研究者の大半が畿内説に立つという異常事態の原因になっているのではないかと私は思っています。あくまで私見です。実際はどうか知りません。
      80年代終わりの吉野ケ里遺跡の大発見は畿内説の学者らに大きな衝撃と焦燥を与えたのは間違いないでしょう。しかしそこから彼らの反撃は始まった。私が思うに、彼らの戦略は纏向遺跡を中心とした畿内の遺跡の年代を通説より約50年から百年早めるというものだった。これによって、纏向遺跡を邪馬臺国に接続させようという訳です。最初から結論ありきだったのです。
      90年代以降、「科学的」を謳い文句に土器の編年の見直し、年輪年代測定法の導入、C14年代測定法の導入などが行われ、箸墓古墳の成立年代は(この動画が紹介している通りの)240~260年ごろと結論され、248年ころ?死んだとされる卑弥呼にピタリと繋がることになりました。
      しかし歴博の研究チームが発表した纏向古墳群のC14年代測定の結論には、橿原考古学研究所の勇気ある研究者から物言いが付けられました。歴博の論文にはある重要な測定データが(意図的に?)無視されていたのです。それらのデータが示す結論は、纏向古墳群の成立年代は四世紀中ごろ以降という従来の土器編年の成果を裏付けるものでした。(詳細は季刊誌「邪馬台国」107号 2010.10 p.8~p.53参照。)
      歴博という権威の前に、一介の公務員でしかない殆どの学者は冷や飯を食わされないよう平伏すしかないのでしょう。しかしそれがために、古代史は一般大衆の誰の目にも破綻した論を展開していると分かるような低レベルにまで堕ちたのではないかと思います。
      以下の動画は今日はじめて観ました。これがもし纏向遺跡の近くならマスコミが狂喜乱舞して特別大報道していたことでしょう。歴史は遺跡に語らせればいいのです。
      th-cam.com/video/hGfRyIehXVY/w-d-xo.html