浄土真宗の教学「三願転入のこころ③」平田聞思
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- เผยแพร่เมื่อ 11 ก.พ. 2025
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「を」の解釈が、よくわかりません。
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
「観経」一部にあらはして
定散諸機をすすめけり
「を」をめぐって、この和讃の解釈もまちまちです。
『定散諸機をすすめけり』を、定散諸機になることをすすめた のか 定散諸機の機にすすめたのか いろいろです。どちらが正解でしょうか?
はたまた、根本的に違うのでしょうか?
また
果遂の願によりてこそ
釈迦は善本徳本を
「弥陀経」にあらはして
一乗の機をすすめける
の『一乗の機をすすめける』は、一乗の機になることをすすめた で良いと私は思うのですが、いかがでしょうか。
また
至心 信楽 欲生 と
十方諸有をすすめてぞ
不思議の誓願あらはして
真実報土の因とする
の『十方諸有をすすめてぞ』は、十方諸有にすすめてぞ で良いと私は思うのですが、いかがでしょうか。
一つ目の動画でお話ししました通り、阿弥陀様の救いは往相回向です。
二つ目の動画でお話ししました通り、第十九願、第二十願の行者は往相回向を疑惑している自力の行者です。
初めの二つの御和讃も、このことを基礎にして解釈しなければなりません。
「定散諸機になることをすすめた」と解釈すると「疑惑をすすめた」ことになってしまいますから不可です。
「第十九願に誓われた諸善を、釈尊は『観経』に表わして、他力回向を疑惑し自力の行に執着する者に仮に諸善を勧められた」の意です。しかし諸善を勧められたのは、諸善は難行で、とても修めることができないと思い知らせ、他力念仏に誘引するためです。『大経』の「胎化得失段」(『註釈版』P.76)や『正像末和讃』六七(『註釈版』P.611)などで、諸善は仏智疑惑であるから捨てよと戒められたのも、他力念仏に誘引するためです。
「一乗の機」は第二十願の自力念仏の機です。第十八願の機は「一乗円満の機」(『註釈版』P.510)といいます。自力念仏も、称える名号は一乗の法ですから、第二十願の機を「一乗の機」といわれたのでしょう。しかし、自力の念仏は一乗が円満していないから、「一乗円満」の「円満」を除いて「一乗の機」といわれたのでしょう。
ですから「一乗の機をすすめける」は「一乗の機にすすめた」が正解です。
「十方諸有をすすめてぞ」も同様、「十方諸有にすすめて」の意です。
ありがとうございました。
同じところの質問ですみません。
果遂の願によりてこそ
釈迦は善本徳本を
「弥陀経」にあらはして
一乗の機をすすめける
の「善本徳本」とは何でしょうか?
@@花田福一 「三願転入のこころ②」
th-cam.com/video/nrDngBfV85Q/w-d-xo.html
の3分50秒の所をお聞きください。
忘れていました、忘れていました。善本も徳本も『名号』でした。としたら、一乗の機にすすめたのは、「他力の念仏」になるのでしょうか?
それとも「自力の念仏」になるのでしょうか?
南無阿弥陀仏🙏🙇
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
お聴聞させていただきました。今生に阿弥陀さまのご本願を、このように、善知識の先生から聴聞出来ること、大変嬉しく思います。お育てに感謝感激です。ありがとうございます。
なんまんだぶ なんまんだぶ
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
次回も楽しみにしております、いつも有難うございます。m(__)m 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏🙏
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
丁寧なご解説、ありがとうございます🙏🍁
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
ありがとうございました。
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
ありがとうございます。😄南無阿弥陀仏🙏
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
阿弥陀様のお育てのお陰で平田先生の素晴らしいご法話を聴くご縁に恵まれました。浄土真宗の教学もだんだん理解出来るようになって楽しくなってきました😊人間に生まれ仏法に出遭い浄土真宗まで辿り着かせて頂いた不可思議なお働きを実感せざるを得ません😮繰り返しお聴聞させて頂きます。南無阿弥陀佛🙏南無阿弥陀佛😊
私も、阿弥陀様のお育てのお陰で加茂和上様に出遇わせて頂きました。不思議なおはたらきです。南無阿弥陀仏。
@ 以前拝見した加茂和上様の最後の命懸けの説法は、繰り返し繰り返し、浄土真宗の要を確認されて、分かったか!と問いかけて、最後の最後まで御門徒1人1人に何としても浄土真宗の他力信心に恵まれて欲しいという阿弥陀様のお喚び声そのものでした。有難いですね。南無阿弥陀佛🙏南無阿弥陀佛
@@山下清-i3b おっしゃる通りですね。私は、この晩年のご説法を中心に据えて、ここから出発して色々な人の法話を聞いては、常にここに帰ってくるようにしています。有難いご説法です。南無阿弥陀仏。
@@monshian 私もそうさせて頂きます。南無阿弥陀仏🙏
私は空っぽ。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏🙏
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。
細かい質問ですいません。2:20ごろに、19願を意訳したところで、先生は、『至心発願して』の部分を省略しているように思えます。『至心発願して』とは、どういう意味でしょうか?
「心から(至心)わたしの国に生れたいと(欲生)願うなら(発願)」という意味です。「至心」とは「真実心」の意味ですが、親鸞聖人は凡夫が「真実心」を起こすことは不可能だと言われます。それで、阿弥陀様が阿弥陀様の「真実心(=第十八願の至心)」を恵んで下さるのだと言われるのです。
ご回答ありがとうございます。
平田先生。引き続き、三願転入についてご解題下さり、有難うございます。
先生がこの③の項で仰られた前世での宿縁開発されて居ないのは、阿弥陀佛さまのお育てに与って居ないからとのことですが、前世で阿弥陀佛大さまとの機縁がなかった者が今世突然、阿弥陀佛さまのお育てに与かる様な機縁を頂くことが在るのでしょうか。前世・今世直近迄の宿善による因縁因果に依るとされるなら、何か、前世から今世と生き渡る中で、阿弥陀佛さまに出逢える機縁が何らかの因でその者に生じたとしか思えないのですが、正しい理解は如何でしょうか。
お教え、どうぞよろしくお願い申し上げます。
私はお聖教に説かれている通りをお話ししたのです。お聖教に説かれていないことは私には分かりません。具体的に阿弥陀様がどのうようにしてお育て下さるのか、お聖教には説かれていませんから分かりません。過去世のお育てというのも、お聴聞によって育てられると考えるのが良いように思います。いまお聴聞しているから今生のうちに信心が決定するとは限りません。しかし現世でのお聴聞が宿善(=お育て)となって、来世に信心決定することはあるでしょう。宿善の厚薄は人それぞれですから、何とも言えませんが‥‥。
平田先生、宿善往生が間違いであることはわかるのですが、私達にではなく如来のお育てに厚薄があるということでしょうか。また今日の聞法は明日の宿善ときいたことがあるのですが、今生無宿善で生まれた者はあきらめなければならないということでしょうか。また雑行、雑修、自力の心を振り捨てられるのはそこを通ったものだけで、方便はわろしと言って通らなくてもよい気がするのですがよくわかりません。どう受けとめればよいでしょうか。
いまみ教えに出遇ってお聴聞しているのは宿善(過去世の如来のお育て)があるからです。それでも信心が獲られないとすれば、それは宿善が薄いためなのでしょう。宿善の厚薄は、過去世で、み教えに対してどのような態度をとっていたかによるのだと思います。過去世で熱心にお聴聞した人は、信心決定できず往生できなかったとしても、如来のお育てに与っていると思います。過去世にお聴聞しなかった人や、み教えに対して批判的だった人は、如来のお育てに与ってはいないでしょう。
自分の宿善の厚薄は、自分には分からないことですから、心配しても始まりません。そんなことは気にせず、ただただお聴聞に徹するべきです。
宿善は過去世のお育てのことであって。現世のお育てのことを宿善と言った例は、お聖教の中にはありません。
三願転入と領解文の関係は、次回の動画でお話しします。
お聖経には、宿善とは過去世の善根としか説かれていないのですね。あとの諸説は諸々のお味わいというわけですか。どの道をいくにしても宿善まかせでありますね。平田先生、ご返信に感謝いたします。三願転入と領解文の動画も楽しみにしております。ありがとうございました。
@@ながはま-n 「宿善」は、「自己の善根」の場合も「如来のお育て」の場合も、過去世に限ります。来世から見れば、現世の「善根」「お育て」が宿善となります。
いずれにしても、お聖教に「宿善」と言われている時には、「善根」と「お育て」のどちらの意味で言われているのかに注意してください。これを取り違えると、お聖教の理解が滅茶苦茶になってしまいます。蓮如上人が「宿善まかせ」(『御文章』四帖一五・『註釈版』P.1188)と言われるのは「お育て」の意味です。
納得できました。南無阿弥陀仏🙏🏿
ようこそお聴聞くださいました。南無阿弥陀仏。