歴史から消された天皇「欠史八代」と全ての日本人が持つ衝撃の一つの可能性

แชร์
ฝัง
  • เผยแพร่เมื่อ 21 ส.ค. 2024

ความคิดเห็น • 12

  • @hogohogehage
    @hogohogehage หลายเดือนก่อน

    災害大国である日本において
    何処かが困っていれば
    他が全力で助けてくれるという信頼と安心
    これほど強力な国体は無二と考えます
    周囲に溶け込む努力をしない
    渡来人の帰化は認められません

  • @atsushih9463
    @atsushih9463 3 หลายเดือนก่อน +3

    欠史八代という言葉を知りませんでした。
    ありがとうございます。
    戯れ言で直感ですが
    当時の「没」というのは、墓に入るということであり
    墓が出来るまでは、所謂ミイラとして
    その時代に姿を現してたりして。。。
    これなら百歳越えの天皇が記録されてても違和感は有りません。
    (^ω^)

  • @sho12340
    @sho12340 3 หลายเดือนก่อน +6

    私は孝昭天皇の子孫ということになっています。古事記や日本書紀に記された天皇系図は隋書からの出典であると聞いています。

  • @vlmair5288
    @vlmair5288 3 หลายเดือนก่อน

    平定(読み)ヘイテイ 俺は「へいてい」と読みたいな
    へい‐じょう ‥ヂャウ【平定】「じょう」は「定」の呉音 呉音かなるほど・・

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6j 3 หลายเดือนก่อน

    いわゆる欠史八代系譜伝承を参考にして日本古代社会像の構築つまり、当該各代天皇が実在したとして、または当該系譜伝承の核心を史実としたらどのような古代社会が復元できるかを試みた著作は、戦後は全く見られない。そして一方で戦前に著された以下の2著である。
    1、太田亮(あきら)『日本古代史新研究』 磯部甲陽堂 昭和3(1928)年
    2、松岡静雄『大和缺史時代(紀記論究建国篇第二)』 同文館 昭和6(1931)年
    上記の2著作の内、松岡静雄氏の著作が一冊全てを使って論述しており、松岡氏の当該著作が唯一充実している。
    しかし太田亮氏の著作にも欠史八代を取り上げている「篇」もある。そしてその冒頭には「(前略)この期間程重要な時代は一寸ないと思ふ。中央政府の基礎の定まったのも我が版図が海岸を伝わって少なくも常陸辺に及んだのも、シナ本土へ直接使節を発したのも皆この時代と云ってもよかろう。また三韓との交通もかなり盛んだったのであろうと思われるのである。従ってこの期間だけでも優に大冊をなすべき研究を要する(後略)」と記述されていたことは実に興味深かった。
    なお太田氏は『全訂日本上代社会組織の研究(邦光書房)』を昭和三十(1955)年に著すなど、日本古代氏族制度研究の代表的人物である。

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6j 3 หลายเดือนก่อน

    また欠史八代系譜伝承の古さの根拠の一つとされている部分は、『日本書紀』の本文ではなく「一書」や「一云」という注で記載されている当該各代天皇の后妃の出自が、磯城(『古事記』では「師木」)県主、春日県主、十市県主というように『記紀』編纂時に権勢を誇っていないヤマトの土着豪族と記されていることである。
    これに対して架空及び後世造作論者は「天武朝前後の時期の造作であり、それはそのころ壬申の乱を契機として勢力をえた当時の内廷・侍従家(自祖の県主県伝承)と天皇家との間に存在した密接な関係の反映」つまり欠史八代の后妃伝承は「古さ」を立証するものではなく天武朝期に、内廷・侍従家の自祖伝承を創作されたものであると反論している。これについて再反論するとしたら以下の2点となる。
    1、天武朝前後に『記紀』につながる史書の編纂が行われていた当時の史料として、内廷・侍従家から欠史八代天皇の后妃婚姻伝承が「発見」されたのである。その後、編纂当局に提供されて分析後、欠史八代系譜伝承に組み込まれたと考えるべきこと。
    2、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作と断定するのはナンセンスである。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・集約されたと考えてもいいということ。
    以上のことから、特に『紀』の注記載の后妃の出自伝承は、結局「古いもの」に変わりはなく、欠史八代系譜伝承自体はやはり古い伝承や史料を元に編纂されたものであり、初期ヤマト王権を理解するための史料としての価値は完全に否定はできないかもしれない。

  • @vlmair5288
    @vlmair5288 3 หลายเดือนก่อน

    あらま途中でコメしてたら同じこと言ってますね・・すいません。

  • @vlmair5288
    @vlmair5288 3 หลายเดือนก่อน +1

    日本国に於いて3世紀以前は1年を6ヶ月とする半年歴が使われていたという説が存在します。これが正しいとするなら欠史八代の天皇たちの年齢は半分となり何もおかしくありません。
    第五代は57歳 六代は68歳 七代は64歳 八代は58歳 九代は57歳となります。

  • @centraljapanadventure8460
    @centraljapanadventure8460 3 หลายเดือนก่อน +1

    欠史8代って研究の手立てが見いだせない学者が勝手に言っているだけ。実に失礼だよね。

  • @user-kf6xc2lq6j
    @user-kf6xc2lq6j 3 หลายเดือนก่อน

    そして欠史八代について、系譜伝承と后妃およびその出身豪族と皇子を祖とする氏族名そして各代の宮城(皇居)と陵墓という『帝紀』的記事しか無いため架空だけではなく研究の参考にする価値もないという考えが日本古代史学界と在野研究で常識となっている。
    しかしながら、裏を返せばその『帝紀』的記事も「残っている」、それらも「記されている」という考えも出てくるべきである。