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ただでも少ない身内を潰してしまったらそら滅ぶわ。
源氏本家もそうだった
@@YY-rj4up 戦国北条氏は本家の方が没落しても大名になった人もいる徳川も御三家をはじめ有力な家が本家に何かあった時に将軍になって幕府を存続させた多すぎる身内は混乱の元にもなるけど家の存続のためには必須か
源氏は身内そこそこ居たのよただ家系図をトーナメント表だと思ってたのがね
まず、少ない身内を滅ぼそうと考えたな…
というか秀吉って豊臣政権を盤石なものにしないと、最終的に徳川が出てくる事への警戒無かったのかねそれくらい実子に天下を継がせるという目先の事に目が眩んでしまっていたのだろうか
最上義光が豊臣家に不信感を抱くようになった秀次切腹事件…
不信感どころか秀吉に対する恨みを抱いた事件だよ
@@おやゆび-r1iそうやな。んで関ケ原の戦いは東軍になる
経緯を見たら「そりゃあキレるわ」と誰しも納得する凄惨な事案ですよね家康公に傾倒していくことになるのも納得です
自分自身で運を使い尽くした秀吉子孫は皆不運
織田と浅井の武家の生まれなのに秀頼の出陣を許さず武将としての晴れ舞台を潰した淀殿も大概なんよな
@@名乗るほどのものでなく 大阪の陣で総大将を務める方が無理ゲー過ぎる有力な浪人が集まっても味方となる大名がいなかったこれで豊臣氏をどうやって存続させろという状況
真田が頑張って家康討っても、一時的なもので秀忠も居るし最終的に結果は変わらなそう。
そもそも関ヶ原の時点で詰んでたからね。動かないといけない時に動かないともう手遅れでしょ。
秀次を自害に追い詰めなければかなり歴史変わってたと思うな、
武田も長男の立場を配慮して継承させてれば違った未来になってたかも知れませんね。
1大名のままなら平凡に人生を全うできたかもしれない・・・政権が徳川に移ったとしても羽柴家としては家を残せただろう。
武田はきつい…。信長が美濃を統一した瞬間周りと合わせて攻め滅ぼす以外に生き残る道は残ってなかったに@@pekadon_sevilla2008
秀次が潰れなかったら、秀頼が秀次に潰されたかもしれないのでは
周囲まで処断したせいで、とんでもない恨みを買う羽目にもなりましたからね
豊臣秀次がそのまま生きていたらまた違った歴史になっていたかもしれませんね。
本当ですねどんな歴史になっるのでしょうか?(歴史好きの血がさわぐ!)
信長もそうだけど秀吉の後継者も結構悲惨な目にあっているな
でも生かしておいたら間違いなく戦乱の世は続いていたでしょ?
織田も豊臣も嫡流は徳川に滅ぼされたみたいなもんすよね
秀頼も信雄みたいに無能なフリして改易も移住も容認していれば、家だけは無事に残せていたかもしれません。茶々の存在がそれを許さなかったのでしょうけど
@@ウルフ-o7k 先代の子どもや元重臣は潜在的な敵になりかねない問題化する前に何かしら理由をつけて処分した方が無用な混乱を避けられるそこら辺は黒田官兵衛はよくやったと思う
どちらも後継者の地盤作りに失敗してますねとは言え織田は仕方ない
秀吉は結局心は農民のままだった、って事でしょうね。代々家を継いできた家なら家系を守る事の大切さが分かってるんはずですが、彼にはそれがなかった。だから滅んだ。
武田家の例もある⁉️信玄の兄弟、親類は、信玄に絶大の忠誠を示したが息子勝頼には、命令無視処か織田信長が、甲州を攻めるや殆ど武田を裏切った。
武田勝頼は、家中だと諏訪勝頼でしかないからな。実際諏訪家は勝頼を裏切ってないからな
どちらにせよ周囲が敵だらけだから無理だったような。。。
秀吉の生涯の女性関係を考えたら、やっぱり秀吉が死んだ時に豊臣家の血筋は絶えた、の説に一票!
あれだけ女好きな秀吉に子供ができなかったのは神の絶妙な采配と言うべきか。秀吉は実子に拘らず一族と家臣を使っていたならば惨めに滅びることもなかったろうに。
秀次もそうだが、弟の秀勝秀保も早死に。しかも朝鮮出兵の時戦病死だから秀勝も秀吉に殺されたようなもんだし。息子三人中二人弟に殺されて、ともさんはどんな気持ちだったか・・・。豊臣が滅んだ時「家康様、よくやってくれました!」とか思ったかも。
小早川秀秋は元は豊臣秀秋で一時期は後の天下人になる筈だった。今も小早川秀秋の子孫がいるから完全には豊臣家がいない訳ではない。
豊臣だけなら木下家がそもそも豊後日出藩、備中足守藩で存続してますしね(秀秋の実兄と父が藩祖)ただ、どちらも秀吉からみると血縁者ではないですけどね寧々の血縁者。
幸いだったのは、秀吉が晩年まで悩んでいた世継ぎ問題を秀次、秀頼共に早めの段階でクリアしていた事だと思う。
石松松秀勝が無事に育ってたら、こんなことにならなかったんだろうな、(石松丸は秀吉の血を継いでいる実子)
@@yoshii871 あれも怪しいけどね当時の奥はセキュリティーガバカバなので、余所の種を仕込んできたと考えるのが妥当でしょ秀吉の後宮の人数考えたら、妊娠したのが二人しかいないってのは種なしって考える方が理にかなってる。
秀頼の事が心配だったら、秀次に天下任せて、幼い秀頼は公家になって、悠々自適に暮らすようにすべきだった。
身内を蔑ろにする家系は滅ぶんだよなぁ
秀頼は10代で実権を茶々に握られてたっていうのがな。もう少し年齢重ねていて自分で決められたなら夏の陣で豊臣はその時壊滅せず、反対に家康の寿命は尽きてどうなるか分からなかったね。
秀頼の娘、天秀尼は会津藩2代藩主・加藤明成からの恫喝にも怯まず、東慶寺を頼った加藤家重臣・堀主水の妻を庇護。幕府へ裁定を求めて会津藩は改易に追い込まれました。豊臣の最後の血筋を受け継ぐ者として毅然とした姿を示したと言えましょう
それでも加藤家(嘉明)はギリギリだが大名家としては存続できた。
秀次の切腹はノイローゼにより起こった悲劇のような気もする
秀長や秀次が長く生きていれば、豊臣家は違う歴史を歩んだかもしれませんね
秀頼が誕生した時点で秀次を秀頼が成人するまで陣代(仮の当主)として家督と関白職を務めさせて秀頼が成人すれば家督と関白職を秀頼に譲って引退隠居させると秀吉が秀次に伝えて約束させておけば最悪でも豊臣家は存続できたかもしれない。
秀次を側近、秀頼を関白とした体制を整えたならば豊臣政権は続いただろうな
秀次の有能説が本当なら確実に豊臣家割れそうな気がするわ。
秀長が死んだ時点で豊臣は詰んだ。
負け戦が秀吉が戦略を立てた小牧長久の戦いのみだからな。@@asondareTV
秀次は秀頼誕生直後に、関白返上を秀吉に言わなかったのかな?言ったけどダメだったのか?
「実子じゃない説もありますが汗」・・・今で言う「托卵」ですね。17:12 大助と信吉・信政はいとこ同士で戦うことになったんですね。
その手の話は秦の始皇帝からある昔からその手の噂はあったか
豊臣家の子が秀頼1人に対して徳川家は大量にいるからなぁ
秀長が亡くなって詰んだ感じ
秀吉の毛利攻めの軍資金を貸してくれた千利休は、秀長自身を信用して貸してくれた。
秀頼や国松は結局総合的な実力が無かった。幸い公卿として生きていく道はあった。大坂城を捨て、武力を捨て、公家化すれば一族は滅びずに済んだ。徳川は秀吉亡き後の豊臣家を乗っ取った!裏切った!と言う声はあるが、その豊臣家は織田家になにをしたか。悪いのでは無い、そう言う時代だったのだから仕方ない。現代感覚で織田を乗っ取った秀吉や豊臣を裏切った家康を批判するのは違う。
@@racing_high 信雄は生き残ってるじゃん。主筋は立ててる。関東移封を受け入れていれば250万石の大名になれてたわけだし。まあ、彼だと関東を制御装仕切れず失敗して減封になってた可能性は高いが。
秀次の補佐に官兵衛を付けたまではよかったんだがその後身内や官兵衛を信頼出来なくなったのは痛かった
秀次は秀頼のスペアとして生かしておくっていうのが秀吉の差配→抗議のシってことかもか
リアル社会でもいるけど、家族の運すべて吸い尽くすタイプの人物かな
天下人とか建国者といった覇者が打ち立てた政権をその後継者に上手く引き継がせるには初代が亡くなった時点でその後継者が30歳くらい、せめて25歳にはなっていて、ある程度実務の経験を積んでいないと厳しいと思いますね…
「秀吉の後継になれる男児がもっと早く生まれていれば」そうだったなら秀吉が自分の身内を始末する必要はなく晩節を汚す事もなかった後継者問題は無益な血を流す原因になるか
精子腐ってたから...
石田・加藤・福島等や前田利長と同年代の嫡男がいたら盤石だっただろう。
関白職は成人しないとなれないんだから秀吉は秀頼に幼児でも成れて世襲できる征夷大将軍職を求めて、関白秀次に補佐を頼むべきだった。秀吉やその側近に知恵がなかった。それに加えて文禄慶長の役で諸大名を苦しめたのが命取りだった
秀頼は側室と小作りしていないでさっさと千姫との間に子供を作るべきでしたねそうすれば、その子は徳川の血筋にもなるので処罰されることはなかったでしょう少なくとも豊臣の血を残すことはできたと思います
秀頼が15歳になったあたりには、徳川と因縁対決が始まっていましたから、淀君から徳川家の娘に手を出すなと言われていたのかもしれません
やっぱり秀頼は淀殿と大野治長の子供説を推したいどうも秀頼誕生は淀殿による豊臣家への人生を賭けた復讐だったように思えてならんのよ
豊臣家と徳川家、それぞれの家の子供の数(と生存率)の差が後々響いてしまった…
秀吉もそうだが家康には、兄貴も親父の兄弟も居なかったのが幸いだった。
よく見てます。武将の歴史の次は城、城の次は藩になると嬉しいな
ある本に島原の乱の首謀者天草四郎が秀頼の孫を名乗ったとか。騙りか真実か…。
天下を取ったら秀吉はいなくても問題ないが秀長がいなくなると苦しいよ。
秀次の切腹に関しては五奉行や淀殿が深く関わってると思う。
お疲れ様でした。戦国の世に親が偉大だと苦労の果てに二代目が大変な目に遭うケースが様々ありますが、天下人でさえ例外ではなかった筆頭ですね。しかも本人の関与があやふや。徳川の世にならなかったならば、もう少し痕跡が明瞭なんでしょうが秀次の場合救いようがありませんでしたからね。それにしても、高野山送りって形でどれだけいるのかなあ。たどり着いて亡くなった人、途中で亡くなった人かなりいます。さて、次回七難八苦ですね😂期待しております😊
これって半分は秀吉の蒔いた種じゃね?
半分ていうか9割そう。残りは大坂の陣のときの淀かな。
@@ryuuseikitagawa つまり秀頼はとばっちりを受けたと
音声だけ聞いてたら「唐突にベトナム人出てきた⁈」ってなったw
もはやそれしか抵抗の術が無いのだが、国松の最期にはなんとも考えさせられる。九戸政実の乱でやってたことが降りかかったと言えばそこまでではあるが。
秀頼・国松生存説は正月特番「ビートたけしの新・世界七不思議」で取り上げられていました。
ライバルは、本人だけでなく一族皆殺しといういつものパターンですね。秀頼が産まれたことでそういう力関係になってしまったということでしょう。
秀次がもう少し機転をきかし、秀頼が元服したら関白職を譲ると秀吉に言っていたら、あのような最期を迎えることはなかったのではないか。晩年の秀吉が別人のようになってしまったのが不運でした。
秀次の娘と秀頼を結婚させ、その子供を跡取りにしたら秀次と秀頼両方の子孫が残せるという話もあったそうです。晩年の秀吉が別人のようになってしまったのか、淀殿に惑わされたのか、やっぱり断固として秀頼をきちんと跡取りにしたいという気持ちが固まり、家康の存在から家康の孫娘(秀頼の正室)の子供を跡取りにして徳川との子孫を残してそちらに跡を継がせた方が安泰ではないかとか、いろんな迷いがあったと思います。
息子が可愛いのは分かりますけど、もっと身内を大事にすべきでしたね>秀吉公処分にしても処分対象の周囲を全く見ない強引なものでしたそのやらかしのツケを他ならぬ最愛の息子が支払う羽目になったのは皮肉としか言いようがありません
跡継ぎ候補は信長からもらった養子の羽柴秀勝もいますね。18歳で四国攻めの頃に無くなってるから知名度無いけど。この人も不遇ではありますな。
そもそも大政所の躾け方が間違い。どう教育していたのか知らないけど、実質『息子(秀頼)が生まれたら甥(秀次や秀保)を排除しても良い。』と秀吉に吹き込んだも同然。更に遡れば彼女が弥右衛門と結婚しなければ、歴史はあんな方向に流れずに済んだ。
鶴丸じゃなくて、鶴松だと思います。
本当に秀次さんや秀次の御家族までも殺さなくてもいいのに本当に秀吉はおかしい頭してますよ。自分の息子がその後に出来てそれで邪魔だからって時代によって切腹や殺すのはマジ行けませんよ。秀次何もしてないのに荒野さんまで追いやり切腹させて秀吉にバチが当たり秀吉が呪われて殺されたなぁwなんか本当に秀次さんかわいそうですよ。
秀次。。悲惨すぎる。◯されるのも腑に落ちなさすぎる
秀次のままだったら徳川も動かなかったかもしれん説未だにあるよな
秀吉に讒言した佞臣がいたのではないでしょうかね。
秀吉もそうだが秀長も子に恵まれなかった。秀吉に早く実子が生まれ成長していたら悲劇もなく天下は収まっていたか(どういう人物かにもよるが)徳川はずっと野心があったのか流れから天下人に登り詰めたのか。いずれにせよ何かしらの動きはあったかもしれない。
秀長・秀次・利家…この3人の内1人でも長命だったら…狸親父の天下はなかった可能性は高い。秀長・利家は病死だから仕方なかったが…秀次に関しては秀吉の責任だから滅亡も自業自得といえよう。
淀と秀次の子説
昔より あるじ内海の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前…
豊臣秀吉は恐ろしい人物だよ、、、
秀吉のDNAを解析できれば色々わかりそうだが
一応、氏として豊臣朝臣を名乗る家系は高台院の兄の木下家定の子孫などが何家か江戸時代も続いており、豊臣朝臣のまま幕末を迎えているんだけどな。
秀頼が生まれなかったら…😢
結局農民は武士にはなれないんだね
個人的には、1570年あたりに生まれた秀吉の最初の子どもの石松丸秀勝が、幼くして死んでしまったのが大きいと思う。石松丸秀勝が生きていたら、小田原征伐の時にはすでに元服しているし、秀吉が死んだ1598年には、関白と家を継ぐには申し分ない年齢になっている。正直に言って、石松丸秀勝の死から秀頼の誕生までの間が長すぎた。秀吉の生きている時に、家と関白を継げる実子がいれば、後継者のトラブルは防げたと思う。
まあでも淀殿みたいなのがいる時点で豊臣政権に先なかったろうから徳川に時代が移って良かったとしか思えんな。秀次が生きてたら流石に違ったかもだけど。
生きていれば、豊臣政権続いたでしょうね
秀長と英次が長生きしてれば豊臣政権は長続きしたかも?
秀次の謀反の噂は家康が絡んでたりして…
秀次の一件があるから、三英傑の中でも秀吉だけは好きになれない。
国松生存説は、今後の信長の忍び外伝で採用されそうというか採用されると良いな…
いち
米
ただでも少ない身内を潰してしまったらそら滅ぶわ。
源氏本家もそうだった
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戦国北条氏は本家の方が没落しても大名になった人もいる
徳川も御三家をはじめ有力な家が本家に何かあった時に将軍になって幕府を存続させた
多すぎる身内は混乱の元にもなるけど家の存続のためには必須か
源氏は身内そこそこ居たのよただ家系図をトーナメント表だと思ってたのがね
まず、少ない身内を滅ぼそうと考えたな…
というか秀吉って豊臣政権を盤石なものにしないと、最終的に徳川が出てくる事への警戒無かったのかね
それくらい実子に天下を継がせるという目先の事に目が眩んでしまっていたのだろうか
最上義光が豊臣家に不信感を抱くようになった秀次切腹事件…
不信感どころか秀吉に対する恨みを抱いた事件だよ
@@おやゆび-r1iそうやな。
んで関ケ原の戦いは東軍になる
経緯を見たら「そりゃあキレるわ」と誰しも納得する凄惨な事案ですよね
家康公に傾倒していくことになるのも納得です
自分自身で運を使い尽くした秀吉
子孫は皆不運
織田と浅井の武家の生まれなのに秀頼の出陣を許さず武将としての晴れ舞台を潰した淀殿も大概なんよな
@@名乗るほどのものでなく
大阪の陣で総大将を務める方が無理ゲー過ぎる
有力な浪人が集まっても味方となる大名がいなかった
これで豊臣氏をどうやって存続させろという状況
真田が頑張って家康討っても、一時的なもので秀忠も居るし最終的に結果は変わらなそう。
そもそも関ヶ原の時点で詰んでたからね。
動かないといけない時に動かないともう手遅れでしょ。
秀次を自害に追い詰めなければかなり歴史変わってたと思うな、
武田も長男の立場を配慮して継承させてれば
違った未来になってたかも知れませんね。
1大名のままなら平凡に人生を全うできたかもしれない・・・
政権が徳川に移ったとしても羽柴家としては家を残せただろう。
武田はきつい…。信長が美濃を統一した瞬間周りと合わせて攻め滅ぼす以外に生き残る道は残ってなかったに@@pekadon_sevilla2008
秀次が潰れなかったら、秀頼が秀次に潰されたかもしれないのでは
周囲まで処断したせいで、とんでもない恨みを買う羽目にもなりましたからね
豊臣秀次がそのまま生きていたらまた違った歴史になっていたかもしれませんね。
本当ですねどんな歴史になっるのでしょうか?(歴史好きの血がさわぐ!)
信長もそうだけど秀吉の後継者も結構悲惨な目にあっているな
でも生かしておいたら間違いなく戦乱の世は続いていたでしょ?
織田も豊臣も嫡流は徳川に滅ぼされたみたいなもんすよね
秀頼も信雄みたいに無能なフリして改易も移住も容認していれば、家だけは無事に残せていたかもしれません。茶々の存在がそれを許さなかったのでしょうけど
@@ウルフ-o7k
先代の子どもや元重臣は潜在的な敵になりかねない
問題化する前に何かしら理由をつけて処分した方が無用な混乱を避けられる
そこら辺は黒田官兵衛はよくやったと思う
どちらも後継者の地盤作りに失敗してますねとは言え織田は仕方ない
秀吉は結局心は農民のままだった、って事でしょうね。
代々家を継いできた家なら家系を守る事の大切さが分かってるんはずですが、彼にはそれがなかった。
だから滅んだ。
武田家の例もある⁉️
信玄の兄弟、親類は、信玄に絶大の忠誠を示したが
息子勝頼には、命令無視処か織田信長が、甲州を攻めるや殆ど
武田を裏切った。
武田勝頼は、家中だと諏訪勝頼でしかないからな。実際諏訪家は勝頼を裏切ってないからな
どちらにせよ周囲が敵だらけだから無理だったような。。。
秀吉の生涯の女性関係を考えたら、やっぱり秀吉が死んだ時に豊臣家の血筋は絶えた、の説に一票!
あれだけ女好きな秀吉に子供ができなかったのは神の絶妙な采配と言うべきか。秀吉は実子に拘らず一族と家臣を使っていたならば惨めに滅びることもなかったろうに。
秀次もそうだが、弟の秀勝秀保も早死に。しかも朝鮮出兵の時戦病死だから秀勝も秀吉に殺されたようなもんだし。息子三人中二人弟に殺されて、ともさんはどんな気持ちだったか・・・。豊臣が滅んだ時「家康様、よくやってくれました!」とか思ったかも。
小早川秀秋は元は豊臣秀秋で一時期は後の天下人になる筈だった。
今も小早川秀秋の子孫がいるから完全には豊臣家がいない訳ではない。
豊臣だけなら木下家がそもそも豊後日出藩、備中足守藩で存続してますしね(秀秋の実兄と父が藩祖)
ただ、どちらも秀吉からみると血縁者ではないですけどね
寧々の血縁者。
幸いだったのは、秀吉が晩年まで悩んでいた世継ぎ問題を秀次、秀頼共に早めの段階でクリアしていた事だと思う。
石松松秀勝が無事に育ってたら、こんなことにならなかったんだろうな、(石松丸は秀吉の血を継いでいる実子)
@@yoshii871 あれも怪しいけどね
当時の奥はセキュリティーガバカバなので、余所の種を仕込んできたと考えるのが妥当でしょ
秀吉の後宮の人数考えたら、妊娠したのが二人しかいないってのは種なしって考える方が理にかなってる。
秀頼の事が心配だったら、秀次に天下任せて、幼い秀頼は公家になって、悠々自適に暮らすようにすべきだった。
身内を蔑ろにする家系は滅ぶんだよなぁ
秀頼は10代で実権を茶々に握られてたっていうのがな。もう少し年齢重ねていて自分で決められたなら夏の陣で豊臣はその時壊滅せず、反対に家康の寿命は尽きてどうなるか分からなかったね。
秀頼の娘、天秀尼は会津藩2代藩主・加藤明成からの恫喝にも怯まず、東慶寺を頼った加藤家重臣・堀主水の妻を庇護。幕府へ裁定を求めて会津藩は改易に追い込まれました。豊臣の最後の血筋を受け継ぐ者として毅然とした姿を示したと言えましょう
それでも加藤家(嘉明)はギリギリだが大名家としては存続できた。
秀次の切腹はノイローゼにより起こった悲劇のような気もする
秀長や秀次が長く生きていれば、豊臣家は違う歴史を歩んだかもしれませんね
秀頼が誕生した時点で秀次を秀頼が成人するまで陣代(仮の当主)として家督と関白職を務めさせて秀頼が成人すれば家督と関白職を秀頼に譲って引退隠居させると秀吉が秀次に伝えて約束させておけば最悪でも豊臣家は存続できたかもしれない。
秀次を側近、秀頼を関白とした体制を整えたならば豊臣政権は続いただろうな
秀次の有能説が本当なら確実に豊臣家割れそうな気がするわ。
秀長が死んだ時点で豊臣は詰んだ。
負け戦が秀吉が戦略を立てた小牧長久の戦いのみだからな。@@asondareTV
秀次は秀頼誕生直後に、関白返上を秀吉に言わなかったのかな?言ったけどダメだったのか?
「実子じゃない説もありますが汗」・・・今で言う「托卵」ですね。
17:12 大助と信吉・信政はいとこ同士で戦うことになったんですね。
その手の話は秦の始皇帝からある
昔からその手の噂はあったか
豊臣家の子が秀頼1人に対して徳川家は大量にいるからなぁ
秀長が亡くなって詰んだ感じ
秀吉の毛利攻めの軍資金を貸してくれた
千利休は、秀長自身を信用して貸してくれた。
秀頼や国松は結局総合的な実力が無かった。
幸い公卿として生きていく道はあった。
大坂城を捨て、武力を捨て、公家化すれば一族は滅びずに済んだ。
徳川は秀吉亡き後の豊臣家を乗っ取った!裏切った!と言う声はあるが、その豊臣家は織田家になにをしたか。
悪いのでは無い、そう言う時代だったのだから仕方ない。
現代感覚で織田を乗っ取った秀吉や豊臣を裏切った家康を批判するのは違う。
@@racing_high 信雄は生き残ってるじゃん。
主筋は立ててる。
関東移封を受け入れていれば250万石の大名になれてたわけだし。
まあ、彼だと関東を制御装仕切れず失敗して減封になってた可能性は高いが。
秀次の補佐に官兵衛を付けたまではよかったんだがその後身内や官兵衛を信頼出来なくなったのは痛かった
秀次は秀頼のスペアとして生かしておく
っていうのが秀吉の差配→抗議のシ
ってことかもか
リアル社会でもいるけど、家族の運すべて吸い尽くすタイプの人物かな
天下人とか建国者といった覇者が打ち立てた政権をその後継者に上手く引き継がせるには
初代が亡くなった時点でその後継者が30歳くらい、せめて25歳にはなっていて、ある程度実務の経験を積んでいないと厳しいと思いますね…
「秀吉の後継になれる男児がもっと早く生まれていれば」
そうだったなら秀吉が自分の身内を始末する必要はなく晩節を汚す事もなかった
後継者問題は無益な血を流す原因になるか
精子腐ってたから...
石田・加藤・福島等や前田利長と同年代の嫡男がいたら盤石だっただろう。
関白職は成人しないとなれないんだから秀吉は秀頼に幼児でも成れて世襲できる征夷大将軍職を求めて、関白秀次に補佐を頼むべきだった。秀吉やその側近に知恵がなかった。
それに加えて文禄慶長の役で諸大名を苦しめたのが命取りだった
秀頼は側室と小作りしていないでさっさと千姫との間に子供を作るべきでしたね
そうすれば、その子は徳川の血筋にもなるので処罰されることはなかったでしょう
少なくとも豊臣の血を残すことはできたと思います
秀頼が15歳になったあたりには、徳川と因縁対決が始まっていましたから、淀君から徳川家の娘に手を出すなと言われていたのかもしれません
やっぱり秀頼は淀殿と大野治長の子供説を推したい
どうも秀頼誕生は淀殿による豊臣家への人生を賭けた復讐だったように思えてならんのよ
豊臣家と徳川家、それぞれの家の子供の数(と生存率)の差が後々響いてしまった…
秀吉もそうだが家康には、兄貴も親父の兄弟も
居なかったのが幸いだった。
よく見てます。武将の歴史の次は城、城の次は藩になると嬉しいな
ある本に島原の乱の首謀者天草四郎が秀頼の孫を名乗ったとか。騙りか真実か…。
天下を取ったら秀吉はいなくても問題ないが秀長がいなくなると苦しいよ。
秀次の切腹に関しては五奉行や淀殿が深く関わってると思う。
お疲れ様でした。戦国の世に親が偉大だと苦労の果てに二代目が大変な目に遭うケースが様々ありますが、天下人でさえ例外ではなかった筆頭ですね。しかも本人の関与があやふや。
徳川の世にならなかったならば、もう少し痕跡が明瞭なんでしょうが秀次の場合救いようがありませんでしたからね。
それにしても、高野山送りって形でどれだけいるのかなあ。たどり着いて亡くなった人、途中で亡くなった人かなりいます。
さて、次回七難八苦ですね😂期待しております😊
これって半分は秀吉の蒔いた種じゃね?
半分ていうか9割そう。残りは大坂の陣のときの淀かな。
@@ryuuseikitagawa つまり秀頼はとばっちりを受けたと
音声だけ聞いてたら「唐突にベトナム人出てきた⁈」ってなったw
もはやそれしか抵抗の術が無いのだが、国松の最期にはなんとも考えさせられる。
九戸政実の乱でやってたことが降りかかったと言えばそこまでではあるが。
秀頼・国松生存説は正月特番「ビートたけしの新・世界七不思議」で取り上げられていました。
ライバルは、本人だけでなく一族皆殺しといういつものパターンですね。秀頼が産まれたことでそういう力関係になってしまったということでしょう。
秀次がもう少し機転をきかし、秀頼が元服したら関白職を譲ると秀吉に言っていたら、あのような最期を迎えることはなかったのではないか。
晩年の秀吉が別人のようになってしまったのが不運でした。
秀次の娘と秀頼を結婚させ、その子供を跡取りにしたら秀次と秀頼両方の子孫が残せるという話もあったそうです。晩年の秀吉が別人のようになってしまったのか、淀殿に惑わされたのか、やっぱり断固として秀頼をきちんと跡取りにしたいという気持ちが固まり、家康の存在から家康の孫娘(秀頼の正室)の子供を跡取りにして徳川との子孫を残してそちらに跡を継がせた方が安泰ではないかとか、いろんな迷いがあったと思います。
息子が可愛いのは分かりますけど、もっと身内を大事にすべきでしたね>秀吉公
処分にしても処分対象の周囲を全く見ない強引なものでした
そのやらかしのツケを他ならぬ最愛の息子が支払う羽目になったのは皮肉としか言いようがありません
跡継ぎ候補は信長からもらった養子の羽柴秀勝もいますね。18歳で四国攻めの頃に無くなってるから知名度無いけど。この人も不遇ではありますな。
そもそも大政所の躾け方が間違い。
どう教育していたのか知らないけど、実質『息子(秀頼)が生まれたら甥(秀次や秀保)を排除しても良い。』と秀吉に吹き込んだも同然。
更に遡れば彼女が弥右衛門と結婚しなければ、歴史はあんな方向に流れずに済んだ。
鶴丸じゃなくて、鶴松だと思います。
本当に秀次さんや秀次の御家族までも殺さなくてもいいのに本当に秀吉はおかしい頭してますよ。
自分の息子がその後に出来てそれで邪魔だからって時代によって切腹や殺すのはマジ行けませんよ。
秀次何もしてないのに荒野さんまで追いやり切腹させて秀吉にバチが当たり秀吉が呪われて殺されたなぁw
なんか本当に秀次さんかわいそうですよ。
秀次。。悲惨すぎる。◯されるのも腑に落ちなさすぎる
秀次のままだったら徳川も動かなかったかもしれん説未だにあるよな
秀吉に讒言した佞臣がいたのではないでしょうかね。
秀吉もそうだが秀長も子に恵まれなかった。秀吉に早く実子が生まれ成長していたら悲劇もなく天下は収まっていたか(どういう人物かにもよるが)徳川はずっと野心があったのか流れから天下人に登り詰めたのか。いずれにせよ何かしらの動きはあったかもしれない。
秀長・秀次・利家…この3人の内1人でも長命だったら…狸親父の天下はなかった可能性は高い。
秀長・利家は病死だから仕方なかったが…秀次に関しては秀吉の責任だから滅亡も自業自得といえよう。
淀と秀次の子説
昔より あるじ内海の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前…
豊臣秀吉は恐ろしい人物だよ、、、
秀吉のDNAを解析できれば色々わかりそうだが
一応、氏として豊臣朝臣を名乗る家系は高台院の兄の木下家定の子孫などが何家か江戸時代も続いており、豊臣朝臣のまま幕末を迎えているんだけどな。
秀頼が生まれなかったら…😢
結局農民は武士にはなれないんだね
個人的には、1570年あたりに生まれた秀吉の最初の子どもの石松丸秀勝が、幼くして死んでしまったのが大きいと思う。石松丸秀勝が生きていたら、小田原征伐の時にはすでに元服しているし、秀吉が死んだ1598年には、関白と家を継ぐには申し分ない年齢になっている。正直に言って、石松丸秀勝の死から秀頼の誕生までの間が長すぎた。秀吉の生きている時に、家と関白を継げる実子がいれば、後継者のトラブルは防げたと思う。
まあでも淀殿みたいなのがいる時点で豊臣政権に先なかったろうから徳川に時代が移って良かったとしか思えんな。
秀次が生きてたら流石に違ったかもだけど。
生きていれば、豊臣政権続いたでしょうね
秀長と英次が長生きしてれば豊臣政権は長続きしたかも?
秀次の謀反の噂は家康が絡んでたりして…
秀次の一件があるから、三英傑の中でも秀吉だけは好きになれない。
国松生存説は、今後の信長の忍び外伝で採用されそう
というか採用されると良いな…
いち
米