生産課程が面白く感じられます Production process feels interesting. YS-11は旧日本軍などの経験をもとに実現、頑丈な設計は自衛隊などで重宝された要因です YS-11 was realized based on the experience gained by Japanese military before World War II, and its sturdy design was a factor that made it useful in the Self-Defense Forces. 旧軍の技術者は鉄道などへ羽ばたき、新幹線などの大成功につながったのは皮肉です It is ironic that engineers from the former military branched out into railways and other fields, leading to great successes such as Shinkansen. YS-11は初期から幾多の苦労や課題を乗り越え、日本の航空技術を向上させました YS-11 overcame many hardships and challenges from the beginning and improved Japan's aviation technology. これからも、日本の航空史で語られるでしょう It will be remembered forever in Japanese aviation history.
50歳のオッさんだけど、4歳の時、コレに乗せてくれた父に感謝です
乗り物酔いしたり、グズったり相当したようですが、おどけた僕と怒った感じの姉の微妙な空気感が伝わる写真が残ってました
私は53歳だけど、初めてYS11に乗ったのは26歳の時でした。
結局それが最初で最後のYS11搭乗経験になりましたが…
ボーイングなどのジェット機には何度も搭乗しているのですが…
ガキの頃、五右衛門風呂を薪やゴミを焚いて沸かしていました。初冬の乾いた空気の空を見上げると、遥か上空をム~~~ンと音を響かせ飛んで行く飛行機、あれは日本製のYS11だと父が教えてくれました。子供ながらとても誇らしい気持ちになったものです。
あの頃の空気感を思い出しました、ありがとうございます。
あの頃ぐらいがヒトの暮らしには丁度良かったと思いました。現在のような不必要な忙しなさやギスギスした世知辛さが無くて。
私が始めてYS11に搭乗したのは高校一年の冬休み初日の昭和42年の12月25日クリスマスの日でした。鹿児島鴨池空港から大阪伊丹空港までの1時間30分の飛行でした。全日空の便で窓際の席に着席し離陸直前、ターボプロップエンジンのエンジン音が徐々に高まり鼓膜を圧迫する程の爆音を放ち始めて足下から座席、肘掛けまでビリビリと振動するなかで機体が徐々に加速し体にGを感じるか否かの瞬間ふわりと体と共に機体が離陸していきました。この瞬間の体験が後日の飛行機好きになるきっかけだったと記憶しております。
当時の日本の空にはボーイングの新鋭機B-727が華々しくデビューしておりスピードも早く乗り心地のよい727にその席を明け渡そうとしておりました。
うちの昔の家は、YS‐11が上空を飛ぶと、エンジン音に風呂場のトタン板がブーンと共鳴していた。
1番好きな旅客機です。見た目もかっこいいしエンジンの音もすごい好きです。あと、途中で水槽に機体を入れて耐久力を調べる実験をしていましたが、噂で聞いた話ですけど機体は壊れずに水槽が先に壊れたという話も聞いたことがあります。そこまで詳しく調べたことは無いのですがとても安全に配慮して作ったんだろうなと感じました!!
1962.8.31 初飛行の日 小牧山が写っています。この日 小学校2年の自分は確かにこの画面のなかで生きていました。多分夏休みの宿題をやろうとしていたのだと思います。これから16年後の夏、私は羽田空港で脚立の上でYS-11のエンジンオイルの補充する仕事をしていました。
なんと感動する話ですか!
My father flew the YS-11 in Brazil for VASP. Very nice aircraft and film!
航空自衛隊では今でも現役で飛んでますね。入間基地の着陸ルート下に住んでるけど、2020年の今でも頻繁に飛んで来ます。ボワワワワーンっていう飛行音で分かります。
YS-11とても懐かしいです。
修学旅行で種子島、鹿児島航路に乗りました。
メインエンジンダートの爆音で友達との会話も耳元で喋らないと会話できませんでした。
当時は、日本エアコミューター運航で引退直前だったので良い思い出です。
個人的には、現在開発凍結中の三菱スペースジェットが一刻も早く型式証明を取得し日本で唯一動態保存されているエアロラボ社のYS-11と並んで飛行するところが見たいと思う今日この頃です。
アップロードありがとうございます。
68年当時の国内線はこのYS-11が主流でした。私も高1の一人旅で初めて飛行機に乗ったのがこの全日空YS-11でした。現在のジェット機の半分程の横幅で座席のすぐ近くに双発のターボプロップエンジンが付いており離陸時の機内は猛烈な爆音でもちろん隣の人の会話は聞こえませんでした。しかし、時代の流れは早くジェット機のB727に取って代わるのでした。
田舎が離島だったのでよくのってました。プロペラ独特の音、振動、記憶がよみがえる。
昭和40年代始めの頃、羽田の旧ターミナルビルの屋上にYS-11のカットモデル(胴体尾翼はそのままで、主翼が一部カットされてたような?)があり、自由に機内まで見学できました。
当時は、飛行機に乗れるのは一部の金持ちだけだから、うちは乗れないんだよ!、親に言い聞かされてました!(笑)
そして昭和50年自分が小6の時の夏休みに初めてこのYS-11に乗って羽田から八丈島まで搭乗出来ました♪。八丈島に転勤になった親戚が往復のチケット代を出してくれたおかげです^_^;
フライト途中機内アナウンスで「当機はただいま巡航高度3.000m、対地(海の上だから対水かな?)速度400kmで水平飛行しております、
それを聞いて、飛行機の割に随分低い高さだし、遅いな、と感じてはいましたがテンションはMAX、片道1時間があっと言う間でした。
50年前の思い出です。
こういう研究開発とかを顰め顔で頑張って取り組んでるおっちゃん達、それをささえている人達は誰よりもかっこよく見えて好き
キーンと甲高いエンジン音を立てて飛んでたなぁ!
あのエンジン音を聞くだけで、YS11が飛んで来ていると分かるくらい独特で綺麗な音だった😌
とうとうYS11の機内見れました‼️はじめて‼️この機種が特に好きで 子供の頃父に伊丹空港に何度も見に連れて行ってもらいました☘️ 飛行機大好きで空もよく見上げてました☘️
DC-3ダコタが1600機も稼働しているってところが時代を感じる。
今だったらDC-3に乗れるなんて貴重な経験!!。
DC−3といえば全日空の前身日本ヘリコプター輸送、即ち日ペリ航空ですなあ!私は実物も乗ったことも無いけれど。写真では見たことがあります。
40年ほど前に一度だけ乗ったことがあります。新潟〜函館でした。プロペラの音と低空を飛行する醍醐味、飛行機に乗っているという感覚が強くありました。初の国産機としてもっと活躍して欲しかったですね。
32:16 解説 鈴木健二・・・。
昔、NHKの人気番組 クイズ面白ゼミナールの司会やってた方ですね。
「はい、書きなさい。」って・・・。
UP有難うございます よく乗りました 上京するのに使ってました なにしろド田舎なのでこの飛行機しかなかった 若かったころを想い出します 低いとこ飛ぶのでエアポケットも何回か経験しました
八丈島に夏休み✨冬休み☃️ワイエス11お世話になりました❗懐かしい
ナレーションがNHK鈴木健二アナね。
声が若い!
当時国民は、国産機械物全て4流品認識で、自動車はそこら中でボンネットを開けてエンコして、時計も一日1回合わせて、鉄道も故障運休が多く、東京でも年がら年中停電して、放送局も1日何度も「しばらくお待ちください」が出る時代。
飛行機もフレンドシップだと好評でYS-11だと安物・不安感が拭えませんでした。
羽田YS-11横 実話夫婦の会話
「国産はおっかないよ」
「B29より新型だから大丈夫だ」
子供の頃、松本空港から離陸するYS の姿、ターボプロップの独特の音、よく覚えてます。
今井のプールから、飛行機だってみんなで騒いだのを思い出します。
夢を壊すようで悪いけどパイロットにはあまり好評ではなかったようですよ。機種変更訓練でLAに来ていたウィングスのキャプテンの話では「YSはヨーイング(左右首振り)が酷く気を使った。後に垂直補助安定板改修されたがそれでもブレて落ち着かない飛行機だった。それにコクピットの足元空調を何度改修させても弱くて高高度では足震えながら飛ばしてた。長時間飛行は苦行だった」と。
そんなことで、、とも思うがパイロットにとっては毎日の職場。海外のバイヤーPに「毎日これは辛いな」という評価された結果じゃないかな。実際、ハワイアン航空には1年で全機返品されたし。
表面的には商業的失敗とされているが、、真実は性能的失敗だと思うよ。改修済むまでFAAがなかなか型式審査通さなかった事実もあるし。この辺の「原因を真摯に受け止めない姿勢」が再びMRJの失敗に繋がっているんじゃないのかな。
今ヤフオクで実機が3500万で出てますね。当時じゃ考えられないだろうな(^_^)
各社設計陣は戦中軍用機を作った事はあるけど実は旅客機設計は初めての事だったそうです。
それは建前だろ。
こういう複雑な設計開発は、今の中国には出来ない。
当時、英仏だけだった。
このjsは、当時のアメリカ軍機より、ずっと優れた技術水準だ。
初めてでよく作れたな……
一応、会社としては経験はあります。三菱MC-20。
おじいちゃん達の現役時代の頃の 社会系ムービーのナレーターの声、映像、現代にない雰囲気が 見ていて、聞いていて落ち着きます。働いている人の表情にも真面目さが伝わります。現代は やれ、ストレスだの、やれ 〜ハラだのと まぁ 言いたい放題😂 それぞれの時代の人達が社会を真面目に支えてきてくれたからこそ 現代があるんだと昔のムービーを見て思います。きっと この時代の人達は、現代人ほど 細かい事を言う人は、現代ほどは少なかったかもしれないのかなと感じました。
成田の航空科学博物館に展示してある、まさにあの機体だ。
機内に足を踏み入れてあの水槽も触っているだけに感慨深い。
実家が小牧空港のすぐ北側にありました。母の田畑の仕事を手伝っていると片肺で離陸して行くYS-11を見ました。大事な試験飛行だったんですね!
『風立ちぬ』の堀越二郎の最後の作品。堀越にとってエンジニア人生の最大コンセプトであり夢であり最終目標であった。
22:40 本物の鳥使ってんのかよ... すげぇ
ほあ
同時期に設計された東海道新幹線の0系は
鳥の代わりに鶏肉を使ってました。
航空機試験はガチですね...
先日 岐阜県各務原市にある博物館に行って初めてys11を見た。大型航空機に見慣れていたから小さいって感じたが未だに現役で、どこかの国で使われていることを聞いてさすが日本製だと改めて感心した
『風立ちぬ』ラストはこいつを登場させてほしかった。
同じ事を風立ちぬ観て、思いましてかつて映画鑑賞後のレビューに書いたことあります。
B-29からの流れは何か寂しかったですね
96式、零戦は、本当は練習機。
あの映画は、偽情報だ。
確かにそれはある
まあ、あの人、あれですからw単なる兵器好きのアカですからwww
私の田舎の札幌には家から自転車で30分程に丘珠空港があって昔、全日空や日本国内航空のYS−11型機が発着していましたねぇ。1970年代に入る前は全日空ではF−27フレンドシップが乗入れていた時期が有ったが他には日本近距離航空のDHC−6ツインオッターやYS−11を乗り入れていましたねぇ。懐かしい思い出ですよ🤓
前半5分の業界事情が面白いですね。出来ればこの部分をもっと増やしてほしかったです。
後で当時の人たちがどのような建前でプロジェクトを進めたのかがわかりますから。
八丈ー羽田便のラストフライトに乗りました、1A席の目の前は壁でしたけど、
でも、良い思い出です。
前便の737の予定でしたが、顔見知りの受付の人が、次便でよろしければYS取れますと教えてくれて、
お言葉にあまえました。
25:12辺りに、輸送機設計研究協会を立ち上げたときの原案を行った5人のサムライと言われた、左から黒帽子をかぶった、川崎の土井武夫氏、背の高い方がゼロ戦の堀越二郎氏、一番右の蝶ネクタイの方が、富士重工の太田稔氏、堀越氏と土井氏の間の黒メガネの方が、YS-11の実機の設計部長の、東條輝雄氏がいらっしゃいます。 補足:東條輝雄氏と一番左の黒帽子の土井武雄氏の間に重なるように、ベージュの帽子をかぶった方、木村秀政氏が映っています。 映像には居ないですが、新明和工業の菊原静男氏も5人のサムライの一人です。☝️
29:32~YS-11完成披露式場にて、当時の皇太子様(上皇様)と一礼をし、機内に案内をされているのも、実機の設計部長、東條輝雄氏です。☝️
貴重な写真プレミアもんですね。
航空技術者の方々だとは思いましたが誰かはわかりませんでした。 教えてくださりありがとうございます。
こちらこそありがとうございます。実はよく見ると、一番左の黒い帽子の土井武雄氏と、黒メガネの東條輝雄氏に重なるように、ベージュの帽子をかぶった方…この方も5人のサムライの一人、木村秀政氏です。補足いたします。🙇あと、画像には居ないですが、新明和工業の菊原静男氏も5人のサムライの一人です。
この頃から代替はだいがえって呼んでたんですね。
昭和のニュースや日常会話だと、音だけで判別しにくい単語の場合は、意図的に誤読を使ったりするのは、わりとやっていた気がする。
誤読を誤読とわからず、それで正しい読み方と誤認する人が世間にだんだん増えてきたので平成以降に廃れた感じ。
10年ちょっと前に鹿児島から屋久島まで乗ったのが最後だったな。プロペラ機独特の離陸感覚が懐かしい。
それにしても後継機的存在だったはずの三菱のスペースジェット。もたもたしているうちに受注キャンセルは相次ぐし、挙句に新型コロナ禍の影響をモロに受けて、またしても就航延期だ。いつになったら日本の翼は復活するのだろう。
鈴木健二アナウンサーのナレーションも懐かしいです。
はい、書きなさい!
90歳を越えましたが、、頭の中身はまだまだ光ってますね、、昔から頭の見た目も光ってましたが。
2024年3月19にちに亡くなりましたね 95享年
生産課程が面白く感じられます
Production process feels interesting.
YS-11は旧日本軍などの経験をもとに実現、頑丈な設計は自衛隊などで重宝された要因です
YS-11 was realized based on the experience gained by Japanese military before World War II, and its sturdy design was a factor that made it useful in the Self-Defense Forces.
旧軍の技術者は鉄道などへ羽ばたき、新幹線などの大成功につながったのは皮肉です
It is ironic that engineers from the former military branched out into railways and other fields, leading to great successes such as Shinkansen.
YS-11は初期から幾多の苦労や課題を乗り越え、日本の航空技術を向上させました
YS-11 overcame many hardships and challenges from the beginning and improved Japan's aviation technology.
これからも、日本の航空史で語られるでしょう
It will be remembered forever in Japanese aviation history.
敗戦国にエンジンやプロペラを提供してくれるなんて。。。どんだけ日本は信頼があったんだ・・・
YS11といえば東亜国内航空だ
当時は、アメリカより、ずっとハイテクだったんだね。
もう原子プリンターで、精度向上は望めないが。
最初は日本航空。
ガキの頃に東亜国内航空で乗ったな❗
全日空も忘れちゃならない。
YS11と入れ替わるようにF27とバイカウント828をごっそり退役させた。
丘珠空港の近所に住んでいたのでYS11は子供の頃から見てました。
あの独特なエンジン音が良いんですよね。
実際に乗ったけど天候が悪くてもの凄く揺れて大変だった想い出しかない。
熊本空港(阿蘇くまもと空港)に全日空乗員訓練センターがあった頃に
YS11のタッチアンドゴー訓練を
眺めてました☺️
その後はハイパーシャイアンに
変わりました。
作動舵動かすのに体力が必要だったんですね😵
Love it! I do not understand japanese. Thank you! Greetings from Norway! Mey-air flew one YS-11 from 1970-75. Now you know!
44年前に那覇~石垣島で一度だけ乗った事があり、いつかもう一度搭乗しようと思ったまま引退してしまったのがとても悔やまれます。
子供に頃に近所の飛行場に発着するのをうるせーなーって思いながら眺めてたけど、消え去っていくと思うと寂しいな。
先日、羽田空港から茨城県筑西市の施設に移されたYS11の組み立て作業を見てきました。予めこの動画を見ておけばよかったですね。
独特な頭を下げる着陸アプローチ、懐かしいです。次の日本製旅客機が空を飛ぶのはいつのことやら
歴史は繰り返すといいますが、現在の三菱スペースジェット(MRJ)の産みの苦しみと重なるところもありますね!
YS‐11の開発、生産に関わった日本企業のほとんどが現在ボーイング787の開発、生産にも関わっていますね。
YS‐11に関わった先人たちの想いや技術はスペースジェットや787にも受け継がれ、息づいている事でしょう!
29:32皇太子殿下(今上陛下)のご案内役、三菱の東條輝雄さんですね。
ああ、東条英機の息子さんかぁ……
このひとこそがYS-11の真のチーフデザイナー、日本語でいえば主任設計者だ。
4:09当時、ターボファンエンジンが存在しない時代。そもそもマクドネルダグラスではなく、まだダグラスだった時代。ヨーロッパでは、エアバス社は影も形もなく、それぞれの国で旅客機を製造していた時代。
そうなんですね。ヨーロッパ諸国では当時シュド、ホーカーシドレー、デハビランド、ダッソーやBAC等沢山有りました。アメリカではボーイング社、ダグラス、マクドネル、ロッキード、グラマン、コンベアーというメーカーが盛りでしたからね!🤓
丘珠空港で毎週末YS-11を見るのが日課でした。
Googleの申し子 さん 忌まわしい事故がありましたね、、、、!
パイロットすごいよね。
B787はシュミレーターがあるから練習できるけど
この頃はそういうこと無かっただろうしぶっつけ本番でよく綺麗に離着陸したもんだ。
全部見聞きしてきたことを即本番って訳ですからね……凄いです
貴重な映像(資料)→見たかった物に出会えました🎶
いいですよね〜。飛行機。格好いいです。素晴らしいです。日本らしいスタイル。音。関係者の方々の表情、いいですね〜。当時の皇太子殿下もご臨席。日本国の期待もとても大きかったのですね。
こういうものを企画したり設計したり作ったりできる人は、どんな脳なんだろうかと、不思議に思う。
2019年現在も現役なのがすごい。同時期に生産していた他機種、就航していた他機種の大半は
とっくに引退済みなのに。国内では0で海外に目を向けてもDC-3くらいでしょうか。
26:09 飛んだ、格好いい……
初めて飛行機に乗ったのがこれでした。春一番で大揺れでした。鳥衝突実験で本物をぶつけてるような気が。トリ返しがつかない。。。。。
誰が上手いこと言え……👍
仕事を始めた当時は地方空港で運航されてましたね
騒音が凄かったのもそうですが、与圧もそれなりだったらしくウッカリ寝入ると
到着時に耳が痛くて大変でした。
若松河田
最寄駅で草
3:04 昔の鹿児島空港(鴨池空港)と桜島のカラー映像が見られるとは、727の尾部内蔵タラップから降り立ったエプロンから見た夕景の桜島の記憶が微かに残っています。
鴨池空港の近所に住んでた者です。空港から西に徒歩5〜6分程の距離でした。実際に飛行機に乗った事は一度も無く、保育園の帰りに迎えに来た父親の自転車の後ろに跨り、空港の北側の有刺鉄線のフェンス越しに毎日夕刻、飛行機を見るのが日課でした。南東や北方の空に飛んで行く飛行機の、空が割れるぐらいの轟音は未だ忘れません。
フェンスのすぐ西側は大きな格納庫で、ヘリコプターが格納庫の中や外に居りました。空港ビルの中には数回入った事があり、最上階の天井辺りに世界各国の、ナイロン製の国旗が張り巡らせてあったのを凄く憶えてて、何か子供心に華やかで、それ見たさに行くのが愉しみでした。飛行機もフェンス側とは違い、より近くて見応えがあったと思います。偶然なんですが、最近やたらこの鴨池空港と、飛行機達が懐かしく、ディアゴスティーニのJAL旅客機シリーズで、当時観たDC機やYS-11の模型を購入して、当時の塗装やデザインも含め、ノスタルジーに浸ってた処なんです。なので、僅かでも、鴨池空港に飛行機が降り立つ風景を、動画で観られる事が奇跡で、しかもカラーで見る事が出来て大変嬉しく思います。貴方のコメントで気付かせて頂きました、感謝します。当時は子供でしたし、あのフェンス側からの風景しか自分には無いのですが、最近のこのノスタルジーで、当時の鴨池空港関連事も調べる機会があり、空港の東側はすぐ海(錦江湾)では無く、畑が広がってた事や、開港から閉鎖まで、僅か17年しかなかった事、滑走路が日本一短かった事など、これ迄知らなかった事実を識る事が出来ました。北側からだけでなく、様々な角度からの空港と、飛行機を眺めてみたかったです。
ちなみにウチの母親は、数年間、この飛行場の食堂で働いてたらしく、管制塔とか出前を届けて居たそうです。(笑)長々と失礼しました。
動機が現役時代に、そして『東亜国内航空/TDA』が健在な時代に高松空港→伊丹空港で一回だけ搭乗しました。
晴天だったのにフ~ワ・フ~ワと揺れて、通路をまともに歩けなかった記憶があります。
着陸態勢に入り、降下が始まると時々身体が宙に浮くような感覚(笑)
現在のジェット旅客機のようにスムーズじゃなく、その降下で感じるマイナスGがバラバラだった。
トイレを利用したけれど、便器内に何やら液体が充填されており、その液体もユラユラ。
用を足してペダルを踏んだらバシャ~ッ!・・びっくりしました。
Love from India to Japan
これ、茨城県筑西市の広沢農園に初号機が博物館より移動後組み立てがもう終わり、展示目的で、今は終わって展示公開されたか否可はわからないがあります。
初飛行の場面はMRJと重なるものがあるな
ルートもほぼ同じじゃない?
YSパイロットは皆、もう2度と乗りたくないと言いますね…
松山に住んでます。YS11が墜落墜落したのを思い出しました。衝撃的でした。
この音いいよな
声がどこかで聞いた声だと思っていたら、鈴木健二アナだった。
YS-11の引退を聞いて慌てて乗りにいったな。
鹿児島空港から福岡空港を随分低い所を飛ぶんだなと思った。
YS-11は羽田から大島へ釣りに行く時に何度か乗りました。
狭い機内ですが、羽田から離陸して高度を上げたらもう大島の着陸体制のようなものです。
一度、ひどい揺れにあい、乗客の悲鳴が何度もすごく、酷いエアポケットにも入り墜落しそうでした。何とか着陸したら折り返し便は運休になりました。
飛行機ファンとしては、エンジンは乗車してるとうるさいですが、好ましい音でした。
飛行機に乗る人がみんなエレガント
まだ貧民は飛行機じゃなくて車や列車で移動してたのかもしれませんね
一回の搭乗で公務員初任給が吹っ飛ぶ運賃じゃ普通の人は乗れないよ
彼たちの技術の漲り、それがYS-11です。
このビデオあったんですね。YS-11の本前編、後編を読むともっと解りますね。
今は無き航空機会社がたくさん出てきて時代の流れと共に航空機の高価化、高度化があって複雑な気持ち
ん、25:12の帽子の背が高い人って堀ちゃん?
4:17 代替を「だいがえ」って読んでる。この時代もそうだったのか…
YS―11、懐かしい
プロペラ二発、64席、だったはず
種子島に最初に就航した帰り便で鴨池空港に帰った記憶が、(未)修学だったから、詳細不詳
I have no idea why do I have the maintenance manual of this aircraft on my grandfather's house
ついつい MRと比較したくなる開発 制作 さらに 企業の協力ですね
今三菱重工は、旅客機部門を独立させて、海外の航空会社と闘う事となったが、戦い方を変更された方がいいですね。胴体の前部を乗員として、後部を荷物室に分ける。燃料室は、胴体に設けない。主翼に予備タンクを4個付ける。後部の荷物室をタンク式として、パラシュートを前後につける。客室も、タンク式として,前後にパラシュートを着ける。コンセプトは、限りなく安全である事をアピールする。これを基本的に改良してもらいたいと考えています。前後のバランスと、客室の安全性を限りなく安全にしてもらいたい。火災と爆発の2つのポイントから、考えれば、他国との競争の時に、完全性を打ち出せば、戦う弓矢と成ると考えられる。ファイト。
DC-3/DC-4など小型機が国内路線で運行するには手狭と言いたいのでしょうけど、、今や一周回ってまた小型機主流になっちゃったね。
大型機で数便だけ運航するよりも、小型機で頻繁に飛ばす方が利用者には有難い。
鹿児島に行くのに一度乗ったことが有りますが例によって翼の付け根、ほんとうるさかったデス。
その後のジェットの快適さと来たらもうね、馬力が有ると余裕分静かなのかな。
テストパイロットの方は旧軍出身者かしら?
YS-11がなくなってしまってとても残念です m(_ _)m
もう一度、YS-11を乗りたいです
Makoto / mwcm1Ch
海上自衛隊と海上保安庁ではまだ運用されていたと思いますが、
よほどの事がない限り乗ることが出来ないでしょうね。
航空自衛隊入間基地でもまだ運用はしてたと思います。
去年の航空祭では飛んでる姿を見られました。
あと飛ぶ事は出来ませんが、内部の見学なら所沢航空記念公園(航空公園駅前)に屋外展示されてる機体で出来ますよ。
日時が限られるので、興味がありましたならネットなどで公開日等確認してみてください。
確か海上保安庁のものはエンジンを換装されているので、まだ暫くは引退しないと思う。
幼少の頃に一回だけ乗ったことはありますが、こんな古臭いプロペラ機で大丈夫かなんて、失礼なことを思ってしまった事を覚えています。
それにしても、ザ、手作りって感じですね。
キャメラ言うなw
殆どがレシプロ機でターボファンがまだ登場していない・・・・
パイロットの評価はイマイチだったみたいです。とにかくパワーがないと…
あるパイロットはクラウンに軽のエンジンを載せてる感じと例えてました。
頑丈に設計したものの、当時それに見合うターボプロップエンジンが存在しなかった事が残念でしたね
頑丈さではピカ1 胴体着陸でも直して復帰のスタイルが定番 そのぶん重いのだ
しかし 設計に行き着くまで 時間と
労力と時間と金がかかる
試験とデータの積み重ね
共産主義素晴らしい
昔、ニュージーランドへ旅行に行ったとき、ホーカーシドレーHS748と言う同じエンジンを積んだそっくりさんに乗った事があります。それから、「前間孝則」氏の著作の御一読をおすすめします。お
商業的に失敗 機体も未成熟といろいろな評価があるでしょう
たらればは歴史で禁物ですが
もう少し頑張って製造を続けていれば
いまのATR的なポジションが確立できたのか
MRJももっとはやく飛べたのではと
思いをはせてしまいます
MRJは米国からの嫌がらせで遅れてる。中国に制裁掛けるのと同じでMRJもやられてる。
MRJが成功することを切に祈っております。
YS-11のターボプロップジェットエンジンは大迫力の誇りです。
カワサキのつなぎかっけえなあ。
実家の帰省でYSはよく乗ってた。YSは狭いし煩いし、天候の影響もモロに受け与圧もイマイチで耳も痛くなる。あんま良い思い出は無い。ジェット化されたときは嬉しかった
昔、東京から高松空港まで乗った記憶がある。
いい飛行機なんだけど唯一コックピット窓の角度が残念でした。
18歳から28歳まで日本飛行機にいました
PD’s Factory さん NAMC でしたっけ、、、、!
@@yosssym NIPPI
PD’s Factory さん なるほどです カンチガイでした〜 失敬
26.29頃の左側の人、堀越二郎でしょうか?