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【訂正】0:25- ×王子→◯皇子(以下、同じ)0:30- 申し訳ございません。勘違いしてました!父・応神天皇に愛された末弟のウジノワキイラツコさんが、異母弟の仁徳さんと皇位を譲り合った話。兄・弟が逆です。 7:49 ×5代目→◯5代前
失礼いたしました💦訂正ありがとうございます♡
す
面白かったです❤続きも楽しみにしています🎉
やっぱり茂木先生の考察は刺激があるなぁ。
面白かったです。
コメントミスしました。面白かったです。
GAさん♡いつも応援ありがとうございます!頑張ります💪
@@new.histiry-key 頑張り過ぎないでね。
きーちゃん そして茂木先生! お二方とも お疲れ様でした。そしてこのコラボを 開催していただき ありがとうございました🙏話は近世に飛びますが‥釣り人にはお馴染みの、そしてなくてはならない"テグス"(釣り糸は蛾の幼虫から採取する))は徳島県鳴門の堂ノ浦の漁師が発見発明して瞬く間に全国の漁師に広がりました。器具や兵器の伝搬の速さはには目を見張りますね!
わぁ〜気になるところで終わってしまいました!🤭続きが気になります!!
興味深いお話をありがとうございました。次回が楽しみです。
とにかくお二人の対談は非常に面白いです!欠史8代の事績は無記載ですが、系図や陵の場所についてしっかりと書いてありますので、書いてあるのだから私は当然存在したと思っています。神武天皇の存在にも疑いなく信じています。さらに言えば、その前の時代、ウガヤフキアエズ朝のような王統が縄文時代に各地に存在したのだろうとも思わずにはいられません。とにかく興味は尽きません。日本がどうやってできたのか、どうやって日本という国になったのか知りたいですね。対談ありがとうございます。
茂木先生がどれだけ慎重かが伺えますね。
欠史8代だけどさらに先史もろもろを考えていくと、、、、けっこうおもしろいですね😊😊😊😊‼️🌎
きーちゃん❤素敵なので❤ぜひ歴史対談本として出版してほしいです❤
茂木先生の欠史八代の仮説刺激的ですね…なるほどな〜
菟道稚郎子は確か仁徳天皇の異母弟だったかと思います。播磨国風土記では『宇治天皇の世』という記載が残っているそうです。仁徳天皇の時代にこれまで末子相続だったものが、長子相続に切り替わったということを聞いたことがあります。また菟道稚郎子の妹に八田皇女がいらっしゃったそうですが、その名前から想像するに母系が秦氏の流れだったのでしょうか…。神戸市にはかつて、八田皇女の名に由来する八田部郡(長田神社から生田神社のエリア)という郡があったのですが、その八田部郡にあります氷室神社には仁徳天皇が祀ってあったり、菟道稚郎子・仁徳天皇・八田皇女にはいろいろ由縁がありそうですね。
茂木先生の欠史八代の設定理由についてはなるほどと思いました。ブラックボックスの方が手を加えやすい。まあ、いろいろ系譜はくっつけて加工したんでしょうね。
大変、興味深く続きが楽しみです!世界各地の神話では、太陽神は男神が多いですよね。
しかし皇室の伝統はわざわざ太陽神を「女神」とした。女神の子孫を地上の王、天皇とした。
これはあくまで仮説だが皇極天皇の時、依然都が阿波だった場合(笹田説では平城京遷都まで都は阿波)、阿波からあらたえを調進しても不思議でないと言うか、むしろそれが当たり前だろう。いずれにせよ、あらたえに憑依した御霊が天皇即位儀式のポイントであり、単なる阿波忌部が調進した麻織物では、天皇が一晩共にするほどの重要性はないと思う。その意味では大嘗祭が始まるはるか昔から、天皇家の継承者があらたえの御霊と共に過ごす行事は行われていたと考えるのが自然だと思う。
おっしゃるとおり。ただ整合性の極めて高い阿波説はボカさないとTH-camに掲載出来なくなっているのでは。
大嘗祭の秘技は出雲王国時代~の伝統。元来(出雲王国時代)はスキ(鋤(クナト大神の形代))殿には新大穴持后で国祭主の姫巫女が、ユキ(裄(女神の形代))殿には新大穴持(帝王)が各々お篭りになり神様(幸の神)より諱(本名)を呼ばれて(言挙げされて)正式にご即位と成った。第2次出雲王朝の現在の皇室は渡来人ファースト(天津神)の男尊女卑に染まり新天皇がどちらにもお篭りに成られて新皇后はそれを傍観しているだけに変容した
@@森岩光 ただ第1次出雲王朝の名残りは残していて女性天皇が度々誕生いているのでは?
David shimizu さん、ん、もしかして彼か?
きーちゃん❤美しすぎます♥
きーちゃん🧡色気があって❤セクシーですね🎉
民のかまどの話ですが、仁徳はどの山にのぼって民の暮らしを眺めたと思いますか?大仙古墳周辺にはいい感じの山が存在しないんですが・・・
そうなんですよ。大嘗祭って、とても新しいのです。それ以前から祭祀はずっと続いています。わたしも中臣が忌部を追いやり、忌部氏は古代は凄い部族だと思っていました。ですが、よく調べてゆくと広成さんにいっぱい食わされたかな〜と感じるようになりました。確かに広成さんの時代では、藤原に追いやられたのは事実ですが、古代を見ると、忌部氏が中臣氏よりずっと上だったかと言うと、そうでもないようです。忌部氏が大出世をするのは忌部小人の時代であり、天武天皇の御代です。連から宿禰になっており、それ以前は階級的にもそんなに上ではないのです。中臣も連でしたが、神功皇后時代に中臣烏賊津が既に側近として祭祀を行っています。大嘗祭が始まるずっと以前のことです。小人は古事記編纂の重要人物です。正史で矮小化されたというより、天児屋根命と天太玉命のコンビは正史で正式な祭祀形態とされ、大きく価値を上げていると思えます。行き着くところは、忌部とはなんぞや…になってきます。忌部を調べてゆくと、他の部族と違う点が浮き出てきます。普通は一点の祖に集約されてゆくのですが、明らかにいくつもの系統があり、一点がないのです。忌部の本質とは…それをずっと追っていました。出雲口伝によると、忌部とは【斎き部】であり、【祭祀と葬儀を担う者】ということです。現在、わたしたちは、天皇が祭祀を行っていると思っていますが、古代ではそうではありませんでした。神は女性を通じておりてくるので、巫女が祭祀を行っていたのです。【斎き部】とは、祭具を調達して、巫女をサポートする役割だったのです。それは遥か縄文時代まで遡ります。麻が祭具になるずっとずっと以前から、日本列島では【玉】を祭具として造っていました。石に穴を開けたものを玉と呼びます。命が誕生する穴であり、縄文人はこの穴に対して、宇宙の本質を感じていたと言えます。縄文草期から玉は造られています。これが日本人の祭祀の本質となり、この玉を造る人たちが【斎き部】という技術者集団になってゆきます。後には玉の他にも色んな祭具を使うようになりますその中に麻も登場します。ですので、各集落ごとに祀りがあり、それぞれの【斎き部】がいたわけです。【斎き部】はそれぞれの支配氏族の祀りをサポートしてゆき、その氏族によって祭祀の色が変わってゆきます。四国においても、少なくともふたつの色の違う祭祀の系統がありますね。阿波忌部はユダヤ系祭祀の氏族と組み、独特の祭祀形態を造ってゆきますが、忌部は他の地域にもいます。古代のほとんどの重要部族は婚姻関係を結び繋がっています。時には争い、争いながら婚姻し、多重構造を造っているのです。古代の祭祀は巫女が行っていますが出雲王国では皇后が祭祀を行い、忌部がサポートしています。その重要な役割は王族が勤めていますので、出雲忌部は出雲王家の親族であると言われているのです。当然でしょう。ヤマト政権についても、祭祀は巫女が行い、皇后の血統がそれを継いでいます。【登美(賀茂)家】です。この家はヤマト政権創建当時から現在までずっと、大王家の祭祀を取り仕切っています。賀茂の斎院伊勢の斎宮同じ系統です。男性社会に移るとともに、男性祭祀が主流になり、巫女はただ舞うだけの役割となってゆきます。氏族としての阿波忌部が確立してゆくのもこの背景があります。祭具を提供する忌部は賀茂氏より上になることはありえません。
大嘗祭以前の祭祀に史料がないといっても、皇極天皇から現在まで「アラタエ」を用いた大嘗祭の概念が受け継がれてきたのは事実であり、それを「大した伝統ではない」というなら大嘗祭より大事な伝統がどれほどあるのか聞いてみたいですね。
@@ラッキー純-h2x さま素晴らしいコメントをありがとうございます♪お返事送ったのですが反映されないので書き直しますね。等彌神社のある鳥見山は『日本書紀』神武天皇四年二月条によれば、神武天皇が皇祖神・天神を祀った場所である【霊畤(まつりのにわ)】があります。一般的には、これが大嘗祭の起源だとされています。出雲口伝によりますと、ここは【登美の霊畤】と言って、この場所から三輪山を遥拝し、太陽の女神を祀る祭祀を行っていたということです。正史には初代皇后の出自が詳しく説明され、三輪山伝説が繰り返し繰り返し語られています。この伝承は平安遷都してからも丹塗矢伝説として受け継がれています。初代皇后が出雲系であったのは確かであり、(もっと言えば、三島溝杭耳の縄文系ですが)この三輪山における太陽の祭祀が、後の天照大神へと繋がってゆきます。祭祀を行っていたのは姫巫女である皇后です。要するに、縄文の祭祀を受け継いでいるいうことです。創建当時はヤマト周辺を支配する小さな政権に過ぎませんでしたが、色んな経緯があって広がってゆきます。祭祀の形態も徐々に変化してゆきますが、その根底には三輪山における祭祀がありました。正史にそのまま書けなかった二度の東征がありました。三輪山を追い出された太陽の女神と姫巫女は伊勢にお迎えされます。我が国の祭祀は何処か遠くの国からやって来た異国の祭祀を行っているのではなく、縄文から続く太陽信仰を渡来してきた人たちも一緒になって崇拝して来たということです。一説です。
@@mayumi3300私の端末には反映されてますよ。本質を突きすぎたコメントの反映は制限されているのでしょう。でもすごく勉強になる説明ですがそれを理解する知識と整理がまだ私には足りません(笑)
@@ラッキー純-h2x さまわたしたちは何処から来たのだろう…という素朴な疑問。どんな経緯があって今の日本人が形成されて来たのだろうという気持ちです。紐を少しづつ手繰り寄せて観えて来る景色を楽しんでいます。観たいと思っていれば色んなものが観えて来るものです。そのひとつひとつを味わってゆけば良いのではないでしょうか?!正解は誰にも分かりません。観え方色々、それで良いと思っています。コメントありがとうございました。
@@mayumi3300おっしゃるとおりです。ですが歴史的利権を守るため、歴史を政治利用するために教条的なコメントをする輩も少なからずいますからねー。
【邪馬台国はどこにあったのか?】【卑弥呼は誰なのか?】【日本神話の謎】【ヤマト王権の成立までの謎】上記の疑問点の関連記述は【魏志倭人伝:邪馬臺國・邪馬台国】【卑弥呼⇔天照大日孁尊臺與・臺崇・乃與月夜見尊】【神話?釋讀】しています。
だから関東が本当に意味が解らなのですよね。太陽信仰はニギハヤヒのものなのかしら。私は出雲の太陽信仰をニギハヤヒ(物部)が乗っ取ったのだと思ってます。きーちゃん、阿波も変なのだけど日高見(関東)もかなりおかしいw私は苗字が高見なので阿波も好きですが俄然日高見推しですw
外国向けに作った日本書紀は当時の国際政治を加味するべきですな。。。
コメントありがとうございます♡記紀編纂時の国際政治が欠史八代にどのように影響したと思われますか?
@@new.histiry-key ある程度お気づきかもしれないですが、多少の水増しはあったかもしれないですね。。。もちろん妄想ですが。ほとんど中国向けに発信するのを意識して作られたと思うんですが、中国の歴史に対抗できるような偉人や歴史の長さというのを主張しようとした時に、そういう政治的な歴史変更は全然ありうるし、そもそも中国自身もそういう事してますしね。
@@new.histiry-key もうお気づきかもしれないですが、海外とりわけ中国向けに作られたとなると多少の水増しはあったかもしれないですね。。。もちろん妄想ですが。中国の豊富な偉人と深い歴史に対抗しようとすると、政治的な判断で歴史変更が行われても不思議じゃない気がします。また、東アジアはもちろん世界中にある卵生神話とかも当然日本でも見られますし、そういった外交国際関係の中で、神話の内容に手が加えられたのは自然な気がします。
天皇家を辿ると、恐らく東北地方に行き着くのではないかと妄想しています。縄文の文化の中心は、どう考えても三内丸山遺跡を中心とする北東北だったと思います。寒冷化によって、鹿島神宮付近まで南下し、そこから船で鹿児島まで行き、そこから東征が始まったのかな?
万世一系、男系が明治の創作というコメントを見て呆れました。記紀のどこに女系の天皇が記載されているというのか?何のために宮家を創設したのか?アマテラスはともかく初代天皇の神武以降はそういう設定だという状況を必死に守り、受け継いできたことは間違いない。
天壌無窮の神勅により地上の王( 天皇)はすべて女神・天照大神からの血統を正統とする女系です。それは記紀にも皇統譜にも記されています。これは國學院大学元学長で名誉教授の田中卓、法制史学の権威の所功、国立歴史民俗博物館教授の仁藤敦史、東京大学史料編纂所助教授の酒井信彦、日本古代史神道学者の高森明勅など、ほとんどの専門学者が言及しており学会では常識です。
主様スゲェな茂木先生も楽しそう素晴らしいですな天照が両性ってのがダメですかね
古事記に記載された国造りの順番、魏志倭人伝の記述、埋葬方式の違い(西九州は甕棺墓、東九州は箱式)等から当初の邪馬台国連合の勢力圏は四国と東九州から壱岐・対馬を含む朝鮮半島先端(韓国にサドという地名アリ)までであったと推定できる。この時点で、中国地方にはおそらく出雲の別勢力等がいたであろう。その後、邪馬台国は大和(奈良)に進出し、東九州の連合勢力との挟み撃ちで中国地方に勢力を拡大していったと推定されるが、神武東征の最終局面のストーリーからニギハヤヒはすでにこの時は河内、大和にも勢力を有する大王であった。ニギハヤヒ配下のナガスネヒコこそ激しく戦ったものの神武と同じ天孫族であることがわかり、国を譲ったというのはあまりにも出来すぎたストーリーだ。しかし、元をたどれば天皇家と同じ出自であったことは嘘ではないのだと思う。記紀の記述からはニギハヤヒは天照大神から天璽瑞宝十種を授かり天磐船に乗って河内に降臨、その後大和に移ったとされているが、その子孫が物部氏とされており、物部氏は後に仏教を強力に推し進める蘇我氏と激しく対立した神道(神社は古代イスラエルの崇拝様式に酷似)の最大の推進者である。この時点で神武の勢力がどこまで神道的な要素を有していたかは分からないが、旧約聖書の色彩が色濃く残る記紀の記載から天皇家も古代イスラエルの影響を受けていることは間違いない。その意味で、同じ天孫族とははるか昔に同じ出身地(古代イスラエル)から出たという意味ではないだろうか?「三種の神器」「天璽瑞宝十種」という言い方にも何か共通点を感じる。そして、この時、物部氏を配下に取り込むことで、天皇家は神道祭祀を最大限利用しての人心掌握、勢力拡大を行っていくことになったのではあるまいか?またまた、茂木先生が言われる妄想をしてみた。
ホツマツタヱから解読すれば、アマテラスヲヲンカミは8代目のアマカミ=漢字渡来以前・縄文〜弥生時代の男性天皇なんですね。古事記・日本書記の元になった東アジア最初の女帝・推古天皇や持統天皇を正当化するために、お姉さんのワカヒメさんの話と混ぜて神話に仕立てた。というストーリーが有力かと…
女性天皇を正統とする理由は男系が正統ではなかったということ。天武になどは新羅系で正統ではなかったのでしょう。
このシリーズはおもしろい。個人的には。
大山守に関しては、どのようにお考えでしょうか?お教えください。お願い申し上げます。
また欠史八代系譜伝承の古さの根拠の一つとされている部分は、『日本書紀』の本文ではなく「一書」や「一云」という注で記載されている当該各代天皇の后妃の出自が、磯城(『古事記』では「師木」)県主、春日県主、十市県主というように『記紀』編纂時に権勢を誇っていないヤマトの土着豪族と記されていることである。これに対して架空及び後世造作論者は「天武朝前後の時期の造作であり、それはそのころ壬申の乱を契機として勢力をえた当時の内廷・侍従家(自祖の県主県伝承)と天皇家との間に存在した密接な関係の反映」つまり欠史八代の后妃伝承は「古さ」を立証するものではなく天武朝期に、内廷・侍従家の自祖伝承を創作されたものであると反論している。これについて再反論するとしたら以下の2点となる。1、天武朝前後に『記紀』につながる史書の編纂が行われていた当時の史料として、内廷・侍従家から欠史八代天皇の后妃婚姻伝承が「発見」されたのである。その後、編纂当局に提供されて分析後、欠史八代系譜伝承に組み込まれたと考えるべきこと。2、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作と断定するのはナンセンスである。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・集約されたと考えてもいいということ。以上のことから、特に『紀』の注記載の后妃の出自伝承は、結局「古いもの」に変わりはなく、欠史八代系譜伝承自体はやはり古い伝承や史料を元に編纂されたものであり、初期ヤマト王権を理解するための史料としての価値は完全に否定はできないかもしれない。
大嘗祭は、神武天皇の測位式=橿原神宮が最初です。
道鏡事件でも、薬師寺に流されましたからね。栃木県には何かあるんですかね。
【古事記⇒臣安萬侶⇒六書、說文解字:權権、釋讀:唐人:進士、郷神⇒編纂】【日本書紀⇒舎人親王⇒正統血族、皇族:編纂⇒万世一系⇒文武天皇:「倭根子豊祖父天皇」】日本の天皇と同族、大伯、【姓、姫】万世一系⇒〇〇根子天皇が正当な血の濃い血族天皇【古事記、日本書紀:正統血族の記録】天皇家系の【萬世一系】は【中華、北狄血族(隋、唐、宋】が羨む正統血族で【大伯(姫)から脈々】と繫いできた【男系天皇血族】で集大成した【正史⇒日本書紀】⇒【正統血族:文武天皇:「倭根子豊祖父天皇」】⇒【倭根子=正統血族(男系DNA:Y染色体】
天照大神は女神ですよ。天之忍穂耳尊を養子として迎入れ継承しました、天之忍穂耳尊は国之常立尊の直系の皇子なので問題ありません。あとは不測の事態に備える為に賀茂家があります。賀茂氏でも鴨氏でも無く 賀茂家 です。
記紀の誕生が大きいでしょうね。持統天皇と藤原不比等の都合よい筋書きになっているという説。持統天皇は女性であり、孫の文武天皇との系統を天孫降臨で重ね合わせたという学者の説がありますね。その為天照大神は女性であることが都合が良い。
つまり記紀は女系を強調した神話となりますね。そして皇室はそれをずっと伝統としてきた。男系が絶対的伝統なら持統天皇や藤原不比等の一存で女系に変えるなど出来なかったはず。私はむしろ新羅系の天武天皇の血筋を正当化する為、女系で繋いだ皇統の正当性を強調したのだと推測しております。ちなみに天皇の菩提寺の泉涌寺には天武系( 新羅系)の位牌は置いてありません。
@@ラッキー純-h2x 私見としては、天照大神と須佐能の尊それぞれから子が誕生していることから、男女を超えた存在と受け止めています。つまり男系は神武天皇から受け継がれていると。また泉涌寺のことについては不思議に受け止めています。なぜならば天智天皇は大海皇子に次の天皇にと声をかけていることから血筋としては問題がなかったのではと考えるからです。実際、壬申の乱では尾張氏はじめ多くが天武天皇側につきました。もしも天武天皇が天皇を受け継ぐ血筋でなかったのであれば、周りが許さなかったでしょう。
@@秦氏富士 天照大神と素戔嗚尊の子が男女を越えた存在なら「皇統譜」に記されている「皇統」は男女にこだわる必要はないとなります。あと神武から男系と強弁しても「皇統は神武から男系とした」という証拠はまったくないです。ただただ男系主義者がそう連呼しているだけです。皇統は「天壌無窮の神勅」により「女神・天照大神の子孫」と絶対的に定義されております。
@@秦氏富士 天智天皇の声掛けは絶対的真実だと考える記紀原理主義者ならそうなりますね。しかし記紀が天武に都合よく書かれていると推測する者ならそうは絶対的に考えません。多くが天武に加勢したという記述もしかり。また加勢した多くは天武と同じ新羅系であったとも推測できますね。また単純に戦国時代のように自分が有利になる方に加勢することも考えられます。天武は奈良(ヤマト)の祖先の墓を潰してその上に平城京を作っています。祖先の墓を潰せるのは血筋が違うからと考える方が整合性があります。そして泉涌寺で除外されてる新羅系の位牌の話。白村江の戦いの経緯を加味すれば、天武は唐・新羅系の一族で奈良(ヤマト)に侵攻したと考えるのが整合性が取れるかと。その後、新羅系が追い払われたと考えるのが整合性が取れるかと。
まったく反論が載らなくなった(^^;
ホツマツタヱをどちらかというと信用するという感じなんですかね
普通に一般的に、古事記を信用してりゃいいんだが?歴史学者のいう学術的という宗教が、あああだ、こおおおだ否定してるだけ
@@bvlgaridunhill3445 そうなると皇室の出自は宮崎県になるけどな
@@malkotoisu9730当たり前だけど?オツムお菓子んですか?
@@bvlgaridunhill3445 今それを当たり前と言わないやつが多いからさ。俺はどっちでもいいけど
「本当はどうだったか」を追及するには「どの古史古伝を信用するか(重きを置くか)」が重要になってきますが、皇室の伝統を考えるなら「本当はどうだったか」ではなく「皇室が何を伝統としてきたか」という事実に重きを置くべきです。天照大神で言うなら「本当は男神」かもしれないが、皇室の伝統で言うなら「女神」として継承してきました。この事実こそが伝統に置いては絶対なんですよね。皇統にせよ「本当は途切れていた」かもしれないが、皇統が続いていることを伝統としてきた事実こそが絶対なんですよ。
古墳時代というのは、GHQが戦前の「大和時代」を嫌がって、考古学から適当につけた時代の名前なので、当然ながら日本人としては、日本を弱体化しようとしていたGHQのようごでなく、皇国史観の用語でも「大和時代」を普通に一般に広く使うようにすべきです。
>>オツムお菓子いねキミ>>あなたの目は節穴?>>『明治政府がー』の、あんた、たちは、何を信仰してるんだ?こういうコメントが男系絶対派から出ているのが興味深い。あとコメント欄に秀逸な考察をする方が数人見受けられます。この手の動画ではトップレベルの考察をされてますね。
万世一系,南北朝時代に書かれた神皇正統記、作者が北畠親房、江戸時代に書かれた大日本史,作者が徳川光圀。,明治,
母親が違うと、そこで争いになってるんじゃないですかね?母系の家系たどってみると、ドロッとしたものが出てくるかも。血筋を守るのは、天皇が日本人の本家だと分かるからですかね?キーちゃんの突っ込み鋭くて面白い!!ちょっと遠慮もあったかな?確かに、天照の子孫おかしい・・スサノオの子孫が正解!!天照は両性具有やw違うか?
伝統の天皇万歳!!武内の宿禰のお札の顔も曾我庄の者の先祖です。九州からの天孫降臨族だよ。
「もぎせかチャンネル」で、鷲宮神社の摂社に「粟島神社」があり、紹介されていました。私も何度か鷲宮神社に初詣等参拝しておりましたが、なぜここに「粟島神社」があるのか、なぜ「粟島神社」と命名されているのか、未だに謎に思われて気になっています。茂木先生は、どう思われます ?
参考までに……欠史八代の外戚諸氏族について見ると、初代神武天皇外戚諸氏族について『記』では美和つまり三輪の大物主神の子女であり『紀』では事代主神の子女としている。事代主神は『旧事紀』「天皇本紀」で「大三輪大神」と記されているため三輪地域の氏族の子女を后妃として迎え入れ、血縁関係を持ったと考えられよう。また『紀』の本文において、事代主神の血縁者については、二代綏靖天皇と三代安寧天皇が后妃として迎え入れられていることから、神武天皇統(以降「大和王権」)は三輪地域(奈良県桜井市)の氏族と血縁関係を取っていたと見る。 次に『記』では、師木県主と記される磯城県主について『記』の本文では二代綏靖天皇、三代安寧天皇と四代懿徳天皇と三代続けて后妃を輩出し『紀』の「一書云」という各分注でも、二代から四代はもちろん五代孝昭天皇紀と六代孝安天皇紀の分注にも磯城県主出身の后妃伝承ある。一方『紀』の本文で磯城県主出身后妃は七代孝霊天皇紀に伝承があり『記』の本文では同一后妃名で、十市県主出身の伝承であった。十市県主については、先述の『記』の本文のみと『記』の一書云の分注での六代孝安天皇紀と七代孝霊天皇紀のみである。十市・十市郡は現在の磯城郡に当たる地域の氏族であり、磯城県主と同族とすると大和王権は地盤固めのために磯城・十市県主系と三輪地域(ここも磯城)系の氏族と婚姻による血縁関係を構築していったと見ることができる。また春日県主は『紀』の分注で綏靖天皇紀と孝霊天皇紀に記載されているが、春日は、大和国添上郡春日郷(奈良市白毫寺町付近)であり、そこにいた氏族とも地盤強化のために血縁関係を結んだとも見える。 そして『記紀』での本文で后妃を輩出した氏族は五代孝昭天皇紀の尾張氏と八代孝元天皇紀、九代開化天皇紀での物部・穂積氏という饒速日命系の氏族と、血縁関係その中でも尾張氏という東海地域の氏族とも血縁を結んだと見える。 そして開化天皇紀・記の分注と本文には丹波(『記』で旦波大県主)という京都丹波地域とも血縁関係を結んで勢力を蓄えていたと見ることができる。 以上、外戚諸氏族伝承を見ていくと、三輪と磯城・十市地域を中心として尾張・東海地域及び河内・丹波地域という日本海側の一部に至るまで大和王権の権威が氏族連合体制の形で伸張していったという伝承を見ることができる。これらについて、後述する架空及び後世造作論の一人の直木孝次郎氏は「〝やまと〟の範囲について」(1) で「天皇家と〝やまと〟とは密接な関係にあることが推測されるのであって、磯城・十市両郡地方を〝やまと〟とよぶことが比較的長くつづいたことは、この地域が天皇家にとって重要な勢力基盤であったことを暗示する」とし「(十代)崇神陵・(十二代)景行陵・桜井茶臼山古墳をはじめとする代表的前期古墳がこの地域に日本でも屈指の古墳群集地であることや、石上神社・大和神社・三輪(大神)神社など記・紀の神話伝承にすでに姿を表している霊威の高い神社がやはりこの地に多いことなどは、あらためて考慮してみる必要がある」 (2)と述べており、大和王権の発祥とヤマトの地の起源を十市・磯城地域という奈良盆地の東部山麓地域を中心として、時とともにヤマトの勢力が伸張するごとに「ヤマト」の範囲が広がっていたとみていた。筆者は、直木氏の当該記述と欠史八代の外戚諸氏族伝承の流れが、ほぼ一致しているように思わざるをえなかった。続いて、皇居の所在地伝承については、初代が橿原宮(橿原市)、二代が葛城高丘宮(御所市)、三代が片塩浮孔宮(大和高田市)、四代が軽曲峡宮(橿原市大軽町)、五代が掖上池心宮(御所市)、六代が秋津島宮(御所市)、七代が黒田廬戸宮(磯城郡田原本町)、八代が軽境原宮(橿原市大軽・見瀬町)そして九代が春日率川(奈良市)という流れで、今日の橿原地域と葛城地域を概ね往復している伝承で見て取れる。次に陵墓伝承については、初代が畝傍山東北陵(橿原市)、二代が桃花田丘上陵(橿原市)、三代が畝傍山西南御陰井上陵(橿原市)、四代が畝傍山南繊沙渓上陵(橿原市)、五代が掖上博多山上陵(御所市)、六代が玉手丘上陵(御所市)、七代が片丘馬坂陵(葛城郡王寺町)、八代劔池島上陵(橿原市)そして九代が春日率川坂上陵(奈良市)という流れで橿原地域と葛城地域に集中している伝承が見て取れる。また九代は突如として現奈良市地域に皇居と陵墓所在地伝承が見て取れる。このような伝承から鳥越憲三郎氏は「葛城王朝」と著作 (3)で欠史八代を名づけている。(1)……飛鳥奈良時代の研究』所収 塙書房 一九七五(昭和五十)年(2)……以上『同前』五〇九頁(3)……神々と天皇の間』朝日新聞社 一九七〇(昭和四十五)年
海外から入ってきた権力者のイメージに縛られているのではないかと感じます。日本の権力の形が鋭角なピラミッド型でないという前提で考えてみられると、“”理不尽に隠された“”という非業のイメージが変わるのでは?自分から引くという美徳が日本の特性なのですよ。現在の感覚でそんな事あるわけがないと思い込んでおられるのでは?権力者が海外のように理不尽な存在だという前提で考えていると陰謀論にしかならないと思いますよ。
縄文時代ならその考え方で大丈夫でしょうが、弥生古墳時代ともなると明らかに戦ってますからね。権力闘争をしてますよ。
@user-er2pr7wj2y例えば信仰心、現代の私達とは比べ物にならない程神示は重要です。神示で降ろされた役目は今の私達とは重みが全然違うでしょう。神聖さを保つために権力闘争の座から自ら退くなどは十分あり得ると思います。一族、国を背負うという責任感も現代人とは程遠いくらい重いでしょう。自分より全体が重要だった古代では一族、国の禍とならない道を選ぶ事はあり得ます。実際私個人の先祖の歴史を調べましたとき複数文献が出てきました。それを知ったとき昔の日本人は今の私が考えているような感覚ではないと分かり驚愕しました。今の権力闘争とは違うと思えば歴史の理解も変わってくると思います。
@@ykishi529 異論は無いのですがその「自分より全体が重要」という日本人の特性の強さを利用される危険があると言いたいのですよ。先の大戦や枠ちん、ます苦において利用された事実があります。さらに平和的な国譲りや無血開城など歴史観の操作にも利用されています。
@user-er2pr7wj2y古代の権力者の話しをしています。現在の腐れ自民党などは問題外、同じにしては先人に失礼になります。古代の権力者は現在の腐れ自民のように善良な国民を利用したりできない精神性であったという視点を日本の歴史を考察する方には持っていただきたいと思っています。
@@ykishi529 古代の権力者とは具体的に誰を指しているのですか。古代の権力者がすべてそうだったという話ではないでしょう。他民族と比べてそういう傾向にあったという話でしょう。しかも縄文人の権力者に限られます。弥生人古墳人の権力者がはたして14000年続いた縄文時代の権力者のような和合・同化の特性を持っていたのでしょうか。弥生人古墳人を和合・同化したのは縄文人の特性でしょう。260年続いた江戸時代も縄文人の特性で成しえたことだと解釈しております。すなわち「古代の縄文時代の特性を持つ権力者」であるなら貴方の意見に賛同いたします。
そもそも、祭祀王であるとされている天皇には、中学や高校の歴史授業では、仏教を国家宗教と位置づけておられた天皇もいると誰もが習ってきたと思います。では、そういう時代でも天皇は神道の祭祀であるのか?そうであったとしても、当の天皇が仏教を最も尊重していて、そのころの高僧を尊敬しているのに、神道の祭祀であることにどれほどの意味があるだろうか?空海以降は明治の前まで、天皇の即位は灌頂だったというのだから、大嘗祭っていかほどのものなのだろう?見方によれば即位式は、国家を代表する天皇が仏教徒を継承する儀式にすら見える。国家鎮護のために・・・
わざと?ではないでしょうか?一つにしていれば??絶やさないようにしたのではないでしょうか?お上をりようとし、権力争いがあったと思われます😊
大陸騎馬民族系ですと、末子相続の可能性もあるでしょうか?
第二をエルサレ厶 日本イスラエル大学名誉教授。Toland vlog
キーチャンシャベり過ぎ。自分が分かっていることを茂木先生に知ってもらいたいのは理解できるが、それにしてもしゃべりすぎ。もっと茂木先生から引き出す「司会」徹することは出来ませんか。せっかく茂木先生が来ているのですから。
いやいや、対談やし(o´・∀・)o
@@Naraaogaki さま 「対談やし」とのこと。でもタイトルは「【茂木誠先生に聞くpart2】」になってますよ。聞くのがメインでしょ。キーチャンが歴史を知っているのはこれを見ている人ならみんな知っていること。それを時間を使って茂木先生に説明する必要は感じられない。茂木先生から新しいことを引き出すのであれば、きーチャンの解説はダブり?無駄?余計なものになっている可能性がある。せっかく来てもらっているのだから、もっと茂木先生から引き出してほしい。
いや、キーちゃんは本質をつく質問ばかりですよ。ただ本質を突きすぎて茂木先生のポジショントークの制限に引っ掛かるものばかりだったというだけの話。それはそれで面白かったですよ。
@@小川幸彦-h2u きーちゃんのチャンネルでの対談なので、全然しゃべり過ぎなんかじゃない、逆にもっと切り込んで欲しいと思ったくらい。ツッコミ、合いの手も的確でとても良い感じでした。自信持って良いよ!!
茂木先生って駿台やめたんじゃないでしょうか?5ちゃんでネタになっていました。
「血筋を守るってのって大事なんすかね?」←こういう人間は政治にも歴史にも関わらんほうがいいです
それって血統絶対主義者のただの言論弾圧ですよ。
@@ラッキー純-h2x 社会不適合者ですね。
@@bvlgaridunhill3445そりゃ優生主義者の言論弾圧は現代社会に適合できません。
@@ラッキー純-h2x お前の家の跡継ぎ。将軍や大名の跡継ぎ。ここには言及しないで天皇家にはグダグダ云う←ただのオムツお菓子い子
やっぱり適応されてないようです。ちなみに日本は血筋より家を守る文化なんだよね。養子は、血筋を守る宗族制度のシナ朝鮮ではありえない。ネトウヨ統一教会のルーツの国と日本は違うんですよ。
未だに紛争してる欧州と比べたら?どちらが平和か?分からないかな。
しかし国家神道を創作して天皇を崇め奉った明治から昭和初期まで日本も戦争のしまくりだったよね。「からゆきさん」にも天皇家は絡んでいた。
いいところで終わりすぎ
シンプルに考えて百済系と新羅系が皇統の取り合いをやって皇統が代わる時は女系で交代したってことじゃないの。その女系交代を正統化するため皇祖を「女神」にしたというのが一番シックリくるんだけどね。
茂木先生は男系の話になるとすごく偏りますよね。記紀編纂の時点でそんなに男系が大事であるなら天照大神を「男神」にすることはできたはずです。でもそうはしなかった。つまり天照大神を「女神」とし「女神」からの血筋(皇統)を伝統とする必要性があったということです。つまり男系は最初の時点で重要ではなかったわけです。そもそも男系や万世一系は明治の創作です。そんなものは明治まで伝統でも何でもなかった。男系は伝統とは別の政治的な案件になっていますね。
同感です。7日の茂木先生の講演では、男系というのは遡って神武天皇に繋がるかどうかと言ってました。つまり悠仁殿下だけでは、こころもとないので、伏見宮の系統を皇族にすればと言いと。 しかし万世一世とか男系というのを言ってきたのは明治からです。昔の系図など、ホントに繋がってるかわからない。しかも側室制度がなければ男系維持は困難です。
@@ラッキー純-h2x 崇神紀みましょう。ずーっと男系を守ってる
初代の神武天皇から男系ということであれば一応筋は通っています。これは妄想ですが天照大御神(女神)=卑弥呼という前提で考えると、アマテラスを皇祖神にしたのは、大和朝廷の前身であった邪馬台国は卑弥呼が女王の時に勢力を確立したこと、邪馬台国(又はその発展形)から出た人物が発展的に大きくしたのが大和朝廷と考えればむしろ自然では?
@@ラッキー純-h2x 『明治政府がー』の、あんた、たちは、何を信仰してるんだ?
@@田口善茂 おっしゃるとおり。男系絶対主義者は「悠仁さまがおられるから」を連呼するだけで現実的な皇統の安定継承などまったく考えていない。逆に言えばそれが男系絶対主義者の狙いなんだけどね。
応神天皇の側室の子がwへえ 応神天皇と言えばミナマに居た弓月の君の集団を受け入れた天皇。弓月と言えば融通王wこれ融通しあうと同じ日本語の意味で商人王なんだろな。司馬懿に滅ぼされた燕王朝を受け入れてるのは庚午年籍で判るがこの筋かその家臣団と思われる弓月の君の集団の姫が側室で入ってるのかな?渡来系の母の仁徳天皇。長くなるのでw遼東の鉄、魏の使者にはミナマ伽耶で製造wだが近くに鉄鉱山はない。が半島南部の島には淡路島の様な製鉄跡はあるだけ。ミナマは燕王朝の交易拠点であり大量の交易に適した鉄板が遺跡から出る。魏の使者に本当の事言うと戦争の元になるのでまた使者としても方便を信じたかった。解決するには渡来させれば良いと。あ思い出した。高句麗がミナマに攻め込んでたな。前後するのかもだが燕王朝の宿敵だから危機意識はあっただろうな。
【訂正】
0:25- ×王子→◯皇子(以下、同じ)
0:30- 申し訳ございません。勘違いしてました!
父・応神天皇に愛された末弟のウジノワキイラツコさんが、異母弟の仁徳さんと皇位を譲り合った話。兄・弟が逆です。
7:49 ×5代目→◯5代前
失礼いたしました💦
訂正ありがとうございます♡
す
面白かったです❤続きも楽しみにしています🎉
やっぱり茂木先生の考察は刺激があるなぁ。
面白かったです。
コメントミスしました。面白かったです。
GAさん♡
いつも応援ありがとうございます!
頑張ります💪
@@new.histiry-key
頑張り過ぎないでね。
きーちゃん そして茂木先生! お二方とも お疲れ様でした。そしてこのコラボを 開催していただき ありがとうございました🙏
話は近世に飛びますが‥釣り人にはお馴染みの、そしてなくてはならない"テグス"(釣り糸は蛾の幼虫から採取する))は徳島県鳴門の堂ノ浦の漁師が発見発明して瞬く間に全国の漁師に広がりました。器具や兵器の伝搬の速さはには目を見張りますね!
わぁ〜気になるところで終わってしまいました!🤭
続きが気になります!!
興味深いお話をありがとうございました。次回が楽しみです。
とにかくお二人の対談は非常に面白いです!欠史8代の事績は無記載ですが、系図や陵の場所についてしっかりと書いてありますので、書いてあるのだから私は当然存在したと思っています。神武天皇の存在にも疑いなく信じています。さらに言えば、その前の時代、ウガヤフキアエズ朝のような王統が縄文時代に各地に存在したのだろうとも思わずにはいられません。とにかく興味は尽きません。
日本がどうやってできたのか、どうやって日本という国になったのか知りたいですね。対談ありがとうございます。
茂木先生がどれだけ慎重かが伺えますね。
欠史8代だけどさらに先史もろもろを考えていくと、、、、けっこうおもしろいですね😊😊😊😊‼️🌎
きーちゃん❤素敵なので❤ぜひ歴史対談本として出版してほしいです❤
茂木先生の欠史八代の仮説
刺激的ですね…
なるほどな〜
菟道稚郎子は確か仁徳天皇の異母弟だったかと思います。播磨国風土記では『宇治天皇の世』という記載が残っているそうです。
仁徳天皇の時代にこれまで末子相続だったものが、長子相続に切り替わったということを聞いたことがあります。
また菟道稚郎子の妹に八田皇女がいらっしゃったそうですが、その名前から想像するに母系が秦氏の流れだったのでしょうか…。
神戸市にはかつて、八田皇女の名に由来する八田部郡(長田神社から生田神社のエリア)という郡があったのですが、その八田部郡にあります氷室神社には仁徳天皇が祀ってあったり、菟道稚郎子・仁徳天皇・八田皇女にはいろいろ由縁がありそうですね。
茂木先生の欠史八代の設定理由についてはなるほどと思いました。ブラックボックスの方が手を加えやすい。まあ、いろいろ系譜はくっつけて加工したんでしょうね。
大変、興味深く続きが楽しみです!
世界各地の神話では、太陽神は男神が多いですよね。
しかし皇室の伝統はわざわざ太陽神を「女神」とした。女神の子孫を地上の王、天皇とした。
これはあくまで仮説だが皇極天皇の時、依然都が阿波だった場合(笹田説では平城京遷都まで都は阿波)、阿波からあらたえを調進しても不思議でないと言うか、むしろそれが当たり前だろう。いずれにせよ、あらたえに憑依した御霊が天皇即位儀式のポイントであり、単なる阿波忌部が調進した麻織物では、天皇が一晩共にするほどの重要性はないと思う。その意味では大嘗祭が始まるはるか昔から、天皇家の継承者があらたえの御霊と共に過ごす行事は行われていたと考えるのが自然だと思う。
おっしゃるとおり。
ただ整合性の極めて高い阿波説はボカさないとTH-camに掲載出来なくなっているのでは。
大嘗祭の秘技は
出雲王国時代~の伝統。
元来(出雲王国時代)は
スキ(鋤(クナト大神の形代))殿には
新大穴持后で国祭主の姫巫女が、
ユキ(裄(女神の形代))殿には
新大穴持(帝王)
が各々お篭りになり
神様(幸の神)より
諱(本名)を呼ばれて(言挙げされて)
正式にご即位と成った。
第2次出雲王朝の現在の皇室は
渡来人ファースト(天津神)の男尊女卑に染まり
新天皇がどちらにもお篭りに成られて
新皇后はそれを傍観しているだけに変容した
@@森岩光
ただ第1次出雲王朝の名残りは残していて女性天皇が度々誕生いているのでは?
David shimizu さん、ん、もしかして彼か?
きーちゃん❤美しすぎます♥
きーちゃん🧡色気があって❤セクシーですね🎉
民のかまどの話ですが、仁徳はどの山にのぼって民の暮らしを眺めたと思いますか?
大仙古墳周辺にはいい感じの山が存在しないんですが・・・
そうなんですよ。
大嘗祭って、
とても新しいのです。
それ以前から
祭祀はずっと続いています。
わたしも
中臣が忌部を追いやり、
忌部氏は古代は凄い部族だと
思っていました。
ですが、
よく調べてゆくと
広成さんに
いっぱい食わされたかな〜
と感じるようになりました。
確かに広成さんの時代では、
藤原に追いやられたのは
事実ですが、
古代を見ると、
忌部氏が中臣氏より
ずっと上だったかと言うと、
そうでもないようです。
忌部氏が大出世をするのは
忌部小人の時代であり、
天武天皇の御代です。
連から宿禰になっており、
それ以前は
階級的にもそんなに上ではないのです。
中臣も連でしたが、
神功皇后時代に
中臣烏賊津が既に側近として
祭祀を行っています。
大嘗祭が始まる
ずっと以前のことです。
小人は古事記編纂の
重要人物です。
正史で矮小化されたというより、
天児屋根命と
天太玉命のコンビは
正史で正式な祭祀形態とされ、
大きく価値を上げていると思えます。
行き着くところは、
忌部とはなんぞや…
になってきます。
忌部を調べてゆくと、
他の部族と違う点が
浮き出てきます。
普通は一点の祖に
集約されてゆくのですが、
明らかにいくつもの系統があり、
一点がないのです。
忌部の本質とは…
それをずっと追っていました。
出雲口伝によると、
忌部とは
【斎き部】であり、
【祭祀と葬儀を担う者】
ということです。
現在、わたしたちは、
天皇が祭祀を行っていると
思っていますが、
古代ではそうではありませんでした。
神は女性を通じておりてくるので、
巫女が祭祀を行っていたのです。
【斎き部】とは、
祭具を調達して、
巫女をサポートする役割だったのです。
それは遥か縄文時代まで
遡ります。
麻が祭具になるずっとずっと以前から、
日本列島では
【玉】を祭具として
造っていました。
石に穴を開けたものを
玉と呼びます。
命が誕生する穴であり、
縄文人は
この穴に対して、
宇宙の本質を感じていたと言えます。
縄文草期から
玉は造られています。
これが日本人の祭祀の
本質となり、
この玉を造る人たちが
【斎き部】という技術者集団に
なってゆきます。
後には玉の他にも
色んな祭具を使うようになります
その中に麻も登場します。
ですので、
各集落ごとに祀りがあり、
それぞれの【斎き部】がいたわけです。
【斎き部】は
それぞれの支配氏族の祀りを
サポートしてゆき、
その氏族によって
祭祀の色が変わってゆきます。
四国においても、
少なくとも
ふたつの色の違う
祭祀の系統がありますね。
阿波忌部は
ユダヤ系祭祀の氏族と組み、
独特の祭祀形態を造ってゆきますが、
忌部は他の地域にもいます。
古代のほとんどの
重要部族は
婚姻関係を結び繋がっています。
時には争い、
争いながら婚姻し、
多重構造を造っているのです。
古代の祭祀は
巫女が行っていますが
出雲王国では皇后が祭祀を行い、
忌部がサポートしています。
その重要な役割は
王族が勤めていますので、
出雲忌部は
出雲王家の親族であると
言われているのです。
当然でしょう。
ヤマト政権についても、
祭祀は巫女が行い、
皇后の血統がそれを継いでいます。
【登美(賀茂)家】です。
この家は
ヤマト政権創建当時から
現在までずっと、
大王家の祭祀を取り仕切っています。
賀茂の斎院
伊勢の斎宮
同じ系統です。
男性社会に移るとともに、
男性祭祀が主流になり、
巫女はただ舞うだけの役割と
なってゆきます。
氏族としての阿波忌部が
確立してゆくのも
この背景があります。
祭具を提供する忌部は
賀茂氏より上になることは
ありえません。
大嘗祭以前の祭祀に史料がないといっても、皇極天皇から現在まで「アラタエ」を用いた大嘗祭の概念が受け継がれてきたのは事実であり、それを「大した伝統ではない」というなら大嘗祭より大事な伝統がどれほどあるのか聞いてみたいですね。
@@ラッキー純-h2x さま
素晴らしいコメントを
ありがとうございます♪
お返事送ったのですが
反映されないので
書き直しますね。
等彌神社のある鳥見山は
『日本書紀』
神武天皇四年二月条によれば、
神武天皇が
皇祖神・天神を祀った場所である
【霊畤(まつりのにわ)】があります。
一般的には、
これが大嘗祭の起源だと
されています。
出雲口伝によりますと、
ここは【登美の霊畤】と言って、
この場所から三輪山を遥拝し、
太陽の女神を祀る
祭祀を行っていたということです。
正史には
初代皇后の出自が詳しく説明され、
三輪山伝説が繰り返し繰り返し
語られています。
この伝承は
平安遷都してからも
丹塗矢伝説として
受け継がれています。
初代皇后が出雲系であったのは
確かであり、
(もっと言えば、
三島溝杭耳の縄文系ですが)
この三輪山における太陽の祭祀が、
後の天照大神へと
繋がってゆきます。
祭祀を行っていたのは
姫巫女である皇后です。
要するに、
縄文の祭祀を受け継いでいる
いうことです。
創建当時は
ヤマト周辺を支配する
小さな政権に過ぎませんでしたが、
色んな経緯があって
広がってゆきます。
祭祀の形態も
徐々に変化してゆきますが、
その根底には
三輪山における祭祀がありました。
正史にそのまま書けなかった
二度の東征がありました。
三輪山を追い出された
太陽の女神と姫巫女は
伊勢にお迎えされます。
我が国の祭祀は
何処か遠くの国からやって来た
異国の祭祀を行っているのではなく、
縄文から続く太陽信仰を
渡来してきた人たちも
一緒になって
崇拝して来たということです。
一説です。
@@mayumi3300
私の端末には反映されてますよ。
本質を突きすぎたコメントの反映は制限されているのでしょう。
でもすごく勉強になる説明ですがそれを理解する知識と整理がまだ私には足りません(笑)
@@ラッキー純-h2x さま
わたしたちは
何処から来たのだろう…
という素朴な疑問。
どんな経緯があって
今の日本人が形成されて来たのだろう
という気持ちです。
紐を少しづつ手繰り寄せて
観えて来る景色を
楽しんでいます。
観たいと思っていれば
色んなものが観えて来るものです。
そのひとつひとつを
味わってゆけば良いのでは
ないでしょうか?!
正解は誰にも分かりません。
観え方色々、
それで良いと思っています。
コメントありがとうございました。
@@mayumi3300
おっしゃるとおりです。
ですが歴史的利権を守るため、歴史を政治利用するために教条的なコメントをする輩も少なからずいますからねー。
【邪馬台国はどこにあったのか?】【卑弥呼は誰なのか?】【日本神話の謎】【ヤマト王権の成立までの謎】
上記の疑問点の関連記述は【魏志倭人伝:邪馬臺國・邪馬台国】【卑弥呼⇔天照大日孁尊臺與・臺崇・乃與月夜見尊】【神話?釋讀】しています。
だから関東が本当に意味が解らなのですよね。太陽信仰はニギハヤヒのものなのかしら。私は出雲の太陽信仰をニギハヤヒ(物部)が乗っ取ったのだと思ってます。きーちゃん、阿波も変なのだけど日高見(関東)もかなりおかしいw私は苗字が高見なので阿波も好きですが俄然日高見推しですw
外国向けに作った日本書紀は当時の国際政治を加味するべきですな。。。
コメントありがとうございます♡
記紀編纂時の国際政治が欠史八代にどのように影響したと思われますか?
@@new.histiry-key ある程度お気づきかもしれないですが、多少の水増しはあったかもしれないですね。。。もちろん妄想ですが。ほとんど中国向けに発信するのを意識して作られたと思うんですが、中国の歴史に対抗できるような偉人や歴史の長さというのを主張しようとした時に、そういう政治的な歴史変更は全然ありうるし、そもそも中国自身もそういう事してますしね。
@@new.histiry-key もうお気づきかもしれないですが、海外とりわけ中国向けに作られたとなると多少の水増しはあったかもしれないですね。。。もちろん妄想ですが。中国の豊富な偉人と深い歴史に対抗しようとすると、政治的な判断で歴史変更が行われても不思議じゃない気がします。また、東アジアはもちろん世界中にある卵生神話とかも当然日本でも見られますし、そういった外交国際関係の中で、神話の内容に手が加えられたのは自然な気がします。
天皇家を辿ると、恐らく東北地方に行き着くのではないかと妄想しています。縄文の文化の中心は、どう考えても三内丸山遺跡を中心とする北東北だったと思います。寒冷化によって、鹿島神宮付近まで南下し、そこから船で鹿児島まで行き、そこから東征が始まったのかな?
万世一系、男系が明治の創作というコメントを見て呆れました。記紀のどこに女系の天皇が記載されているというのか?何のために宮家を創設したのか?アマテラスはともかく初代天皇の神武以降はそういう設定だという状況を必死に守り、受け継いできたことは間違いない。
天壌無窮の神勅により地上の王( 天皇)はすべて女神・天照大神からの血統を正統とする女系です。それは記紀にも皇統譜にも記されています。
これは國學院大学元学長で名誉教授の田中卓、法制史学の権威の所功、国立歴史民俗博物館教授の仁藤敦史、東京大学史料編纂所助教授の酒井信彦、日本古代史神道学者の高森明勅など、ほとんどの専門学者が言及しており学会では常識です。
主様スゲェな
茂木先生も楽しそう
素晴らしいですな
天照が両性ってのがダメですかね
古事記に記載された国造りの順番、魏志倭人伝の記述、埋葬方式の違い(西九州は甕棺墓、東九州は箱式)等から当初の邪馬台国連合の勢力圏は四国と東九州から壱岐・対馬を含む朝鮮半島先端(韓国にサドという地名アリ)までであったと推定できる。この時点で、中国地方にはおそらく出雲の別勢力等がいたであろう。その後、邪馬台国は大和(奈良)に進出し、東九州の連合勢力との挟み撃ちで中国地方に勢力を拡大していったと推定されるが、神武東征の最終局面のストーリーからニギハヤヒはすでにこの時は河内、大和にも勢力を有する大王であった。ニギハヤヒ配下のナガスネヒコこそ激しく戦ったものの神武と同じ天孫族であることがわかり、国を譲ったというのはあまりにも出来すぎたストーリーだ。しかし、元をたどれば天皇家と同じ出自であったことは嘘ではないのだと思う。記紀の記述からはニギハヤヒは天照大神から天璽瑞宝十種を授かり天磐船に乗って河内に降臨、その後大和に移ったとされているが、その子孫が物部氏とされており、物部氏は後に仏教を強力に推し進める蘇我氏と激しく対立した神道(神社は古代イスラエルの崇拝様式に酷似)の最大の推進者である。この時点で神武の勢力がどこまで神道的な要素を有していたかは分からないが、旧約聖書の色彩が色濃く残る記紀の記載から天皇家も古代イスラエルの影響を受けていることは間違いない。その意味で、同じ天孫族とははるか昔に同じ出身地(古代イスラエル)から出たという意味ではないだろうか?「三種の神器」「天璽瑞宝十種」という言い方にも何か共通点を感じる。そして、この時、物部氏を配下に取り込むことで、天皇家は神道祭祀を最大限利用しての人心掌握、勢力拡大を行っていくことになったのではあるまいか?またまた、茂木先生が言われる妄想をしてみた。
ホツマツタヱから解読すれば、アマテラスヲヲンカミは8代目のアマカミ=漢字渡来以前・縄文〜弥生時代の男性天皇なんですね。
古事記・日本書記の元になった東アジア最初の女帝・推古天皇や持統天皇を正当化するために、お姉さんのワカヒメさんの話と混ぜて神話に仕立てた。というストーリーが有力かと…
女性天皇を正統とする理由は男系が正統ではなかったということ。
天武になどは新羅系で正統ではなかったのでしょう。
このシリーズはおもしろい。個人的には。
大山守に関しては、どのようにお考えでしょうか?お教えください。
お願い申し上げます。
また欠史八代系譜伝承の古さの根拠の一つとされている部分は、『日本書紀』の本文ではなく「一書」や「一云」という注で記載されている当該各代天皇の后妃の出自が、磯城(『古事記』では「師木」)県主、春日県主、十市県主というように『記紀』編纂時に権勢を誇っていないヤマトの土着豪族と記されていることである。
これに対して架空及び後世造作論者は「天武朝前後の時期の造作であり、それはそのころ壬申の乱を契機として勢力をえた当時の内廷・侍従家(自祖の県主県伝承)と天皇家との間に存在した密接な関係の反映」つまり欠史八代の后妃伝承は「古さ」を立証するものではなく天武朝期に、内廷・侍従家の自祖伝承を創作されたものであると反論している。これについて再反論するとしたら以下の2点となる。
1、天武朝前後に『記紀』につながる史書の編纂が行われていた当時の史料として、内廷・侍従家から欠史八代天皇の后妃婚姻伝承が「発見」されたのである。その後、編纂当局に提供されて分析後、欠史八代系譜伝承に組み込まれたと考えるべきこと。
2、例え欠史八代系譜伝承が7世紀後半から『記紀』成立直前に整理されたと仮定してもそのことで後世の造作と断定するのはナンセンスである。7世紀の編纂時に7世紀までの系譜伝承特に欠史八代伝承が漸次発見・集約されたと考えてもいいということ。
以上のことから、特に『紀』の注記載の后妃の出自伝承は、結局「古いもの」に変わりはなく、欠史八代系譜伝承自体はやはり古い伝承や史料を元に編纂されたものであり、初期ヤマト王権を理解するための史料としての価値は完全に否定はできないかもしれない。
大嘗祭は、神武天皇の測位式=橿原神宮が最初です。
道鏡事件でも、薬師寺に流されましたからね。栃木県には何かあるんですかね。
【古事記⇒臣安萬侶⇒六書、說文解字:權権、釋讀:唐人:進士、郷神⇒編纂】【日本書紀⇒舎人親王⇒正統血族、皇族:編纂⇒万世一系⇒文武天皇:「倭根子豊祖父天皇」】
日本の天皇と同族、大伯、【姓、姫】万世一系⇒〇〇根子天皇が正当な血の濃い血族天皇【古事記、日本書紀:正統血族の記録】
天皇家系の【萬世一系】は【中華、北狄血族(隋、唐、宋】が羨む正統血族で【大伯(姫)から脈々】と繫いできた【男系天皇血族】で集大成した【正史⇒日本書紀】⇒【正統血族:文武天皇:「倭根子豊祖父天皇」】⇒【倭根子=正統血族(男系DNA:Y染色体】
天照大神は女神ですよ。
天之忍穂耳尊を養子として迎入れ継承しました、天之忍穂耳尊は国之常立尊の直系の皇子なので問題ありません。
あとは不測の事態に備える為に賀茂家があります。
賀茂氏でも鴨氏でも無く 賀茂家 です。
記紀の誕生が大きいでしょうね。持統天皇と藤原不比等の都合よい筋書きになっているという説。持統天皇は女性であり、孫の文武天皇との系統を天孫降臨で重ね合わせたという学者の説がありますね。その為天照大神は女性であることが都合が良い。
つまり記紀は女系を強調した神話となりますね。そして皇室はそれをずっと伝統としてきた。
男系が絶対的伝統なら持統天皇や藤原不比等の一存で女系に変えるなど出来なかったはず。
私はむしろ新羅系の天武天皇の血筋を正当化する為、女系で繋いだ皇統の正当性を強調したのだと推測しております。ちなみに天皇の菩提寺の泉涌寺には天武系( 新羅系)の位牌は置いてありません。
@@ラッキー純-h2x 私見としては、天照大神と須佐能の尊それぞれから子が誕生していることから、男女を超えた存在と受け止めています。つまり男系は神武天皇から受け継がれていると。また泉涌寺のことについては不思議に受け止めています。なぜならば天智天皇は大海皇子に次の天皇にと声をかけていることから血筋としては問題がなかったのではと考えるからです。実際、壬申の乱では尾張氏はじめ多くが天武天皇側につきました。もしも天武天皇が天皇を受け継ぐ血筋でなかったのであれば、周りが許さなかったでしょう。
@@秦氏富士
天照大神と素戔嗚尊の子が男女を越えた存在なら「皇統譜」に記されている「皇統」は男女にこだわる必要はないとなります。
あと神武から男系と強弁しても「皇統は神武から男系とした」という証拠はまったくないです。
ただただ男系主義者がそう連呼しているだけです。
皇統は「天壌無窮の神勅」により「女神・天照大神の子孫」と絶対的に定義されております。
@@秦氏富士
天智天皇の声掛けは絶対的真実だと考える記紀原理主義者ならそうなりますね。
しかし記紀が天武に都合よく書かれていると推測する者ならそうは絶対的に考えません。
多くが天武に加勢したという記述もしかり。
また加勢した多くは天武と同じ新羅系であったとも推測できますね。
また単純に戦国時代のように自分が有利になる方に加勢することも考えられます。
天武は奈良(ヤマト)の祖先の墓を潰してその上に平城京を作っています。
祖先の墓を潰せるのは血筋が違うからと考える方が整合性があります。
そして泉涌寺で除外されてる新羅系の位牌の話。
白村江の戦いの経緯を加味すれば、天武は唐・新羅系の一族で奈良(ヤマト)に侵攻したと考えるのが整合性が取れるかと。
その後、新羅系が追い払われたと考えるのが整合性が取れるかと。
まったく反論が載らなくなった(^^;
ホツマツタヱをどちらかというと信用するという感じなんですかね
普通に一般的に、古事記を信用してりゃいいんだが?
歴史学者のいう学術的という宗教が、あああだ、こおおおだ否定してるだけ
@@bvlgaridunhill3445 そうなると皇室の出自は宮崎県になるけどな
@@malkotoisu9730
当たり前だけど?オツムお菓子んですか?
@@bvlgaridunhill3445 今それを当たり前と言わないやつが多いからさ。俺はどっちでもいいけど
「本当はどうだったか」を追及するには「どの古史古伝を信用するか(重きを置くか)」が重要になってきますが、皇室の伝統を考えるなら「本当はどうだったか」ではなく「皇室が何を伝統としてきたか」という事実に重きを置くべきです。
天照大神で言うなら「本当は男神」かもしれないが、皇室の伝統で言うなら「女神」として継承してきました。この事実こそが伝統に置いては絶対なんですよね。
皇統にせよ「本当は途切れていた」かもしれないが、皇統が続いていることを伝統としてきた事実こそが絶対なんですよ。
古墳時代というのは、GHQが戦前の「大和時代」を嫌がって、考古学から適当につけた時代の名前なので、当然ながら日本人としては、日本を弱体化しようとしていたGHQのようごでなく、皇国史観の用語でも「大和時代」を普通に一般に広く使うようにすべきです。
>>オツムお菓子いねキミ
>>あなたの目は節穴?
>>『明治政府がー』の、あんた、たちは、何を信仰してるんだ?
こういうコメントが男系絶対派から出ているのが興味深い。
あとコメント欄に秀逸な考察をする方が数人見受けられます。
この手の動画ではトップレベルの考察をされてますね。
万世一系,南北朝時代に書かれた神皇正統記、作者が北畠親房、江戸時代に書かれた大日本史,作者が徳川光圀。,明治,
母親が違うと、そこで争いになってるんじゃないですかね?
母系の家系たどってみると、ドロッとしたものが出てくるかも。
血筋を守るのは、天皇が日本人の本家だと分かるからですかね?
キーちゃんの突っ込み鋭くて面白い!!ちょっと遠慮もあったかな?
確かに、天照の子孫おかしい・・スサノオの子孫が正解!!
天照は両性具有やw違うか?
伝統の天皇万歳!!武内の宿禰のお札の顔も曾我庄の者の先祖です。九州からの天孫降臨族だよ。
「もぎせかチャンネル」で、鷲宮神社の摂社に「粟島神社」があり、紹介されていました。私も何度か鷲宮神社に初詣等参拝しておりましたが、なぜここに「粟島神社」があるのか、なぜ「粟島神社」と命名されているのか、未だに謎に思われて気になっています。茂木先生は、どう思われます ?
参考までに……欠史八代の外戚諸氏族について見ると、初代神武天皇外戚諸氏族について『記』では美和つまり三輪の大物主神の子女であり『紀』では事代主神の子女としている。事代主神は『旧事紀』「天皇本紀」で「大三輪大神」と記されているため三輪地域の氏族の子女を后妃として迎え入れ、血縁関係を持ったと考えられよう。また『紀』の本文において、事代主神の血縁者については、二代綏靖天皇と三代安寧天皇が后妃として迎え入れられていることから、神武天皇統(以降「大和王権」)は三輪地域(奈良県桜井市)の氏族と血縁関係を取っていたと見る。
次に『記』では、師木県主と記される磯城県主について『記』の本文では二代綏靖天皇、三代安寧天皇と四代懿徳天皇と三代続けて后妃を輩出し『紀』の「一書云」という各分注でも、二代から四代はもちろん五代孝昭天皇紀と六代孝安天皇紀の分注にも磯城県主出身の后妃伝承ある。一方『紀』の本文で磯城県主出身后妃は七代孝霊天皇紀に伝承があり『記』の本文では同一后妃名で、十市県主出身の伝承であった。
十市県主については、先述の『記』の本文のみと『記』の一書云の分注での六代孝安天皇紀と七代孝霊天皇紀のみである。十市・十市郡は現在の磯城郡に当たる地域の氏族であり、磯城県主と同族とすると大和王権は地盤固めのために磯城・十市県主系と三輪地域(ここも磯城)系の氏族と婚姻による血縁関係を構築していったと見ることができる。また春日県主は『紀』の分注で綏靖天皇紀と孝霊天皇紀に記載されているが、
春日は、大和国添上郡春日郷(奈良市白毫寺町付近)であり、そこにいた氏族とも地盤強化のために血縁関係を結んだとも見える。
そして『記紀』での本文で后妃を輩出した氏族は五代孝昭天皇紀の尾張氏と八代孝元天皇紀、九代開化天皇紀での物部・穂積氏という饒速日命系の氏族と、血縁関係その中でも尾張氏という東海地域の氏族とも血縁を結んだと見える。
そして開化天皇紀・記の分注と本文には丹波(『記』で旦波大県主)という京都丹波地域とも血縁関係を結んで勢力を蓄えていたと見ることができる。
以上、外戚諸氏族伝承を見ていくと、三輪と磯城・十市地域を中心として尾張・東海地域及び河内・丹波地域という日本海側の一部に至るまで大和王権の権威が氏族連合体制の形で伸張していったという伝承を見ることができる。
これらについて、後述する架空及び後世造作論の一人の直木孝次郎氏は「〝やまと〟の範囲について」(1) で「天皇家と〝やまと〟とは密接な関係にあることが推測されるのであって、磯城・十市両郡地方を〝やまと〟とよぶことが比較的長くつづいたことは、この地域が天皇家にとって重要な勢力基盤であったことを暗示する」とし「(十代)崇神陵・(十二代)景行陵・桜井茶臼山古墳をはじめとする代表的前期古墳がこの地域に日本でも屈指の古墳群集地であることや、石上神社・大和神社・三輪(大神)神社など記・紀の神話伝承にすでに姿を表している霊威の高い神社がやはりこの地に多いことなどは、あらためて考慮してみる必要がある」 (2)と述べており、大和王権の発祥とヤマトの地の起源を十市・磯城地域という奈良盆地の東部山麓地域を中心として、時とともにヤマトの勢力が伸張するごとに「ヤマト」の範囲が広がっていたとみていた。
筆者は、直木氏の当該記述と欠史八代の外戚諸氏族伝承の流れが、ほぼ一致しているように思わざるをえなかった。
続いて、皇居の所在地伝承については、初代が橿原宮(橿原市)、二代が葛城高丘宮(御所市)、三代が片塩浮孔宮(大和高田市)、四代が軽曲峡宮(橿原市大軽町)、五代が掖上池心宮(御所市)、六代が秋津島宮(御所市)、七代が黒田廬戸宮(磯城郡田原本町)、八代が軽境原宮(橿原市大軽・見瀬町)そして九代が春日率川(奈良市)という流れで、今日の橿原地域と葛城地域を概ね往復している伝承で見て取れる。
次に陵墓伝承については、初代が畝傍山東北陵(橿原市)、二代が桃花田丘上陵(橿原市)、三代が畝傍山西南御陰井上陵(橿原市)、四代が畝傍山南繊沙渓上陵(橿原市)、五代が掖上博多山上陵(御所市)、六代が玉手丘上陵(御所市)、七代が片丘馬坂陵(葛城郡王寺町)、八代劔池島上陵(橿原市)そして九代が春日率川坂上陵(奈良市)という流れで橿原地域と葛城地域に集中している伝承が見て取れる。また九代は突如として現奈良市地域に皇居と陵墓所在地伝承が見て取れる。
このような伝承から鳥越憲三郎氏は「葛城王朝」と著作 (3)で欠史八代を名づけている。
(1)……飛鳥奈良時代の研究』所収 塙書房 一九七五(昭和五十)年
(2)……以上『同前』五〇九頁
(3)……神々と天皇の間』朝日新聞社 一九七〇(昭和四十五)年
海外から入ってきた権力者のイメージに縛られているのではないかと感じます。
日本の権力の形が鋭角なピラミッド型でないという前提で考えてみられると、“”理不尽に隠された“”という非業のイメージが変わるのでは?
自分から引くという美徳が日本の特性なのですよ。現在の感覚でそんな事あるわけがないと思い込んでおられるのでは?
権力者が海外のように理不尽な存在だという前提で考えていると陰謀論にしかならないと思いますよ。
縄文時代ならその考え方で大丈夫でしょうが、弥生古墳時代ともなると明らかに戦ってますからね。権力闘争をしてますよ。
@user-er2pr7wj2y
例えば信仰心、現代の私達とは比べ物にならない程神示は重要です。
神示で降ろされた役目は今の私達とは重みが全然違うでしょう。
神聖さを保つために権力闘争の座から自ら退くなどは十分あり得ると思います。
一族、国を背負うという責任感も現代人とは程遠いくらい重いでしょう。
自分より全体が重要だった古代では一族、国の禍とならない道を選ぶ事はあり得ます。
実際私個人の先祖の歴史を調べましたとき複数文献が出てきました。
それを知ったとき昔の日本人は今の私が考えているような感覚ではないと分かり驚愕しました。
今の権力闘争とは違うと思えば歴史の理解も変わってくると思います。
@@ykishi529
異論は無いのですがその「自分より全体が重要」という日本人の特性の強さを利用される危険があると言いたいのですよ。
先の大戦や枠ちん、ます苦において利用された事実があります。
さらに平和的な国譲りや無血開城など歴史観の操作にも利用されています。
@user-er2pr7wj2y
古代の権力者の話しをしています。現在の腐れ自民党などは問題外、同じにしては先人に失礼になります。
古代の権力者は現在の腐れ自民のように善良な国民を利用したりできない精神性であったという視点を日本の歴史を考察する方には持っていただきたいと思っています。
@@ykishi529
古代の権力者とは具体的に誰を指しているのですか。
古代の権力者がすべてそうだったという話ではないでしょう。
他民族と比べてそういう傾向にあったという話でしょう。
しかも縄文人の権力者に限られます。
弥生人古墳人の権力者がはたして14000年続いた縄文時代の権力者のような和合・同化の特性を持っていたのでしょうか。
弥生人古墳人を和合・同化したのは縄文人の特性でしょう。
260年続いた江戸時代も縄文人の特性で成しえたことだと解釈しております。
すなわち「古代の縄文時代の特性を持つ権力者」であるなら貴方の意見に賛同いたします。
そもそも、祭祀王であるとされている天皇には、中学や高校の歴史授業では、仏教を国家宗教と位置づけておられた天皇もいると誰もが習ってきたと思います。では、そういう時代でも天皇は神道の祭祀であるのか?そうであったとしても、当の天皇が仏教を最も尊重していて、そのころの高僧を尊敬しているのに、神道の祭祀であることにどれほどの意味があるだろうか?空海以降は明治の前まで、天皇の即位は灌頂だったというのだから、大嘗祭っていかほどのものなのだろう?見方によれば即位式は、国家を代表する天皇が仏教徒を継承する儀式にすら見える。国家鎮護のために・・・
わざと?ではないでしょうか?
一つにしていれば??
絶やさないようにしたのではないでしょうか?
お上をりようとし、権力争いがあったと思われます😊
大陸騎馬民族系ですと、末子相続の可能性もあるでしょうか?
第二をエルサレ厶 日本
イスラエル大学名誉教授。
Toland vlog
キーチャンシャベり過ぎ。自分が分かっていることを茂木先生に知ってもらいたいのは理解できるが、それにしてもしゃべりすぎ。もっと茂木先生から引き出す「司会」徹することは出来ませんか。せっかく茂木先生が来ているのですから。
いやいや、対談やし(o´・∀・)o
@@Naraaogaki さま 「対談やし」とのこと。でもタイトルは「【茂木誠先生に聞くpart2】」になってますよ。聞くのがメインでしょ。キーチャンが歴史を知っているのはこれを見ている人ならみんな知っていること。それを時間を使って茂木先生に説明する必要は感じられない。茂木先生から新しいことを引き出すのであれば、きーチャンの解説はダブり?無駄?余計なものになっている可能性がある。せっかく来てもらっているのだから、もっと茂木先生から引き出してほしい。
いや、キーちゃんは本質をつく質問ばかりですよ。ただ本質を突きすぎて茂木先生のポジショントークの制限に引っ掛かるものばかりだったというだけの話。それはそれで面白かったですよ。
@@小川幸彦-h2u きーちゃんのチャンネルでの対談なので、全然しゃべり過ぎなんかじゃない、逆にもっと切り込んで欲しいと思ったくらい。ツッコミ、合いの手も的確でとても良い感じでした。自信持って良いよ!!
茂木先生って駿台やめたんじゃないでしょうか?5ちゃんでネタになっていました。
「血筋を守るってのって大事なんすかね?」←こういう人間は政治にも歴史にも関わらんほうがいいです
それって血統絶対主義者のただの言論弾圧ですよ。
@@ラッキー純-h2x
社会不適合者ですね。
@@bvlgaridunhill3445
そりゃ優生主義者の言論弾圧は現代社会に適合できません。
@@ラッキー純-h2x
お前の家の跡継ぎ。
将軍や大名の跡継ぎ。
ここには言及しないで天皇家にはグダグダ云う←ただのオムツお菓子い子
やっぱり適応されてないようです。
ちなみに日本は血筋より家を守る文化なんだよね。
養子は、血筋を守る宗族制度のシナ朝鮮ではありえない。
ネトウヨ統一教会のルーツの国と日本は違うんですよ。
未だに紛争してる欧州と比べたら?
どちらが平和か?分からないかな。
しかし国家神道を創作して天皇を崇め奉った明治から昭和初期まで日本も戦争のしまくりだったよね。「からゆきさん」にも天皇家は絡んでいた。
いいところで終わりすぎ
シンプルに考えて百済系と新羅系が皇統の取り合いをやって皇統が代わる時は女系で交代したってことじゃないの。その女系交代を正統化するため皇祖を「女神」にしたというのが一番シックリくるんだけどね。
茂木先生は男系の話になるとすごく偏りますよね。
記紀編纂の時点でそんなに男系が大事であるなら天照大神を「男神」にすることはできたはずです。
でもそうはしなかった。
つまり天照大神を「女神」とし「女神」からの血筋(皇統)を伝統とする必要性があったということです。
つまり男系は最初の時点で重要ではなかったわけです。
そもそも男系や万世一系は明治の創作です。
そんなものは明治まで伝統でも何でもなかった。
男系は伝統とは別の政治的な案件になっていますね。
同感です。7日の茂木先生の講演では、男系というのは遡って神武天皇に繋がるかどうかと言ってました。つまり悠仁殿下だけでは、こころもとないので、伏見宮の系統を皇族にすればと言いと。 しかし万世一世とか男系というのを言ってきたのは明治からです。昔の系図など、ホントに繋がってるかわからない。しかも側室制度がなければ男系維持は困難です。
@@ラッキー純-h2x
崇神紀みましょう。
ずーっと男系を守ってる
初代の神武天皇から男系ということであれば一応筋は通っています。これは妄想ですが天照大御神(女神)=卑弥呼という前提で考えると、アマテラスを皇祖神にしたのは、大和朝廷の前身であった邪馬台国は卑弥呼が女王の時に勢力を確立したこと、邪馬台国(又はその発展形)から出た人物が発展的に大きくしたのが大和朝廷と考えればむしろ自然では?
@@ラッキー純-h2x
『明治政府がー』の、あんた、たちは、何を信仰してるんだ?
@@田口善茂
おっしゃるとおり。
男系絶対主義者は「悠仁さまがおられるから」を連呼するだけで現実的な皇統の安定継承などまったく考えていない。逆に言えばそれが男系絶対主義者の狙いなんだけどね。
応神天皇の側室の子がwへえ 応神天皇と言えばミナマに居た弓月の君の集団を受け入れた天皇。弓月と言えば融通王wこれ融通しあうと同じ日本語の意味で商人王なんだろな。司馬懿に滅ぼされた燕王朝を受け入れてるのは庚午年籍で判るがこの筋かその家臣団と思われる弓月の君の集団の姫が側室で入ってるのかな?渡来系の母の仁徳天皇。長くなるのでw遼東の鉄、魏の使者にはミナマ伽耶で製造wだが近くに鉄鉱山はない。が半島南部の島には淡路島の様な製鉄跡はあるだけ。ミナマは燕王朝の交易拠点であり大量の交易に適した鉄板が遺跡から出る。魏の使者に本当の事言うと戦争の元になるのでまた使者としても方便を信じたかった。解決するには渡来させれば良いと。あ思い出した。高句麗がミナマに攻め込んでたな。前後するのかもだが燕王朝の宿敵だから危機意識はあっただろうな。