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これだけ姜維について詳細に解説された動画は初めて。まさに驚異!
姜維の取れる選択肢が、緩やかな衰退か玉砕覚悟の進軍しかなかったよな
お見事な考察でした。人として、姜維の生き方にはものすごく共感を覚えるだけに、「大きすぎるものを背負いすぎた結果、押しつぶされた人物」を「そんなでかいもん背負うんじゃない」と批判することはしたくない、という・・・。個人の能力には当然ながら限界がある。しかしながら、個人の能力の限界を超えて驀進し続けた姜維が、ただただ愛しく哀しい。そう思わずにおれない訳です。私個人的に、姜維は諸葛亮に次いで好きな人物です。・・・で、当の蜀の民衆はどう見ていたかと言うと、動画でも出てきた孫盛が蜀の地方に行き、現地の古老たちと話をしたところ、古老たちは口々に姜維の失敗を残念がっていた、と孫盛自身が印象的に書き残しています。面白いのは、これを聴いた孫盛が反発するように「は? 姜維ごとき愚将が成功なんぞできるわけないだろボケが(超意訳)」というようなことを述べていることで、「反姜維」の立場である孫盛が記録したことであるという事実が、いっそうこの話の信憑性を高めていることです。姜維麾下の兵たちが、「降伏せよ」との劉禅の命を受けて、怒りと絶望のあまり剣を抜いて路傍の石を叩き切った、という話(これは正史『姜維伝』の本文に記載されている)も、兵たちの戦意の旺盛さを物語っていますし、実は蜀の民衆は蜀漢という国家を愛し、魏と戦う気満々だったと見ることもできます。姜維は、そういう蜀の民衆の希望を担う人物であり、朝廷では孤立していても、民衆の間では最後まで英雄だった、と私は思っているわけです。
今回も面白かったです。いろいろ考えるところはあるけど、結局は姜維が蜀漢に来た段階でもう手遅れだったんだろうなと思わざるを得ないですね。荊州失陥、関羽死亡、夷陵の大敗、上庸孟達の失敗…どれか一つでもうまくいっていれば、諸葛亮から引き継いだ時点の蜀の国力、取り得る選択肢はまた違ったでしょう。その時に李厳と魏延が荊州方面で重職にあり、涼州をまとめた姜維・夏侯覇と二正面で魏を脅かす事が出来ていれば、宛や長安を奪い、以て呉の協力を得て南陽、許昌、洛陽にまで迫れたかもしれない。IFにIFを重ねた妄想に過ぎないけれど。決して覆せない時代の潮流に抗い続けた悲運の天才。そんな印象です。
今回も何度か名前だけは上がってましたが、陳泰の解説動画はあったでしょうか?、なければぜひ、主さんの解説動画を聞いてみたく思います。
長い間待った甲斐があるような素晴らしい動画でした。これからも頑張ってください。
今回も面白く拝見させて頂きました。蜀漢という国の成り立ちからして北伐は絶対条件である以上やらないといけないというのは私もそう思います。ただ、荊州を失った以上、涼州方面から行くか、それともかつて魏延の立てた戦略の通り、いきなり長安を落としにいくのかの2択しかない状況はあまりにも厳しい。だからといって荊州を呉から奪還するというのはそれ以上に無謀な戦略と言わざるを得ないと私は思います。国力が1番小さな蜀漢が他の2国と同時に戦線を開くのは自殺行為。かといって一時的に魏と不可侵条約を結ぶということは国の成り立ちを根本的に否定することになる。こうしたほぼ詰んだ状況でも涼州を切り取る後一歩という所まで魏を脅かすことが出来たという所が姜維の1番評価すべき所なのだと私は思います。
さらに孫権時代と違って、孫休時代からは呉との関係も悪化しているわけで、そうなれば呉と組んで魏に対抗するという基本路線もすでに崩れているから、後ろが安心できない以上前から安全を奪い取るしかない→北伐続行でしか延命できないという矛盾を抱えていた。古今、蜀から天下統一を目指した国が成功した試しは一度もないが、これは地理的要因以外にも、国のブレーンとなる人材がそもそも集まらないという一種の陸の孤島であったことがポイントだね。
長尺お疲れ様です。諸葛亮に降った瞬間に命運が決まったような気がします。諸葛亮の人物評にも留意すると馬謖の例もあるし、今風の感覚で言うと単純に人が居ないってイメージもあるかなと。晩年の人材不足は蜀漢の衰退を一気に早めたのも事実。何としても後を引き継ぐ立場として諸葛亮のというか蜀漢の存在意義を全うしようと北伐を連発したのかなと思います。
どのみち蜀は滅亡待ったなしの状態だったし出師の表のごとく戦うしかなかったのよな
素直に姜維の生涯が好きです。彼はあーするしかなかった🥹
劉禅になった時に曹否が司馬懿の進言で五路進行作戦も諸葛亮一人で当たるのではなく作戦としても馬超、趙雲、魏延など「任せられるものがいた」のが大きい。姜維は才能は非常に高いけど一人で難しいですね。
それは演義の創作😂でも諸葛亮時代は劉備以来の名将がそれだけ残ってたからこそ、まだ「ワンチャンあるかも」という北伐成功の期待があったのも事実でしょう。姜維も趙雲や魏延と同じく、誰かの指揮下で器の範囲内で存分に暴れる分にはこの上なく有能な将軍なのは間違いない。
姜維に支持基盤が無いし勝つしか支持されないと言うのも悲しいな・・北伐の推進派・反対派どっちが正しいかは今でも答えは出ませんがなんだかんだで蜀の最期を支えた名将ですね。姜維は
蜀漢末期の軍事面を支えたのが、共に魏からの降将である姜維と夏候覇だったというのもまた事実。
@@saburiryu28go 劉備が没した後,諸葛亮に全権が移った後の人事面は恐らく腐り始めていたのでしょうねNO.2クラスのよく分からない粛清が続いていましたし諸葛亮没直後の内部分裂と大粛清もそれを物語っています降将が主力という時点が内部の崩壊具合が顕在化した状態を示していると思います
大変興味深く拝見致しました。魏には司馬氏の台頭による大混乱とその後の滅亡イベントが待っていましたが、それでも華北を牛耳った政権としての地盤は寸毫も揺るがなかった。蜀と呉は所詮舞台回しの道化に過ぎなかった…という結論になってしまいますね。哀れ。
これはまた興味深いな、質の高い話を提供して頂けそうだ
もし姜維が劉備存命中に蜀に入っていたら劉備はどう使いこなしていたのかな?
姜維が費禕の路線を踏襲して北伐を控えて人材育成を優先していたとしても「支配地が益州のみ。しかも後漢末の戦乱期のような他州からの人材流入も見込めない」という状況だったので、事実上の詰み。
魏延が死なずに中継ぎして姜維に託すという感じならどうだったか。
でもその後の司馬炎以降の晋の荒廃と中国全土を襲った大混乱時代を考えればその臥薪嘗胆が詰みではなく最上の策だった気がする。
蜀漢と孫呉が臥薪嘗胆してそのまま南朝に移行出来そうかだよな曹魏に北方民族侵入で自滅するのを待つのは
敵の自滅を待ち、英雄の到来を待つという、現時点では詰んでいると言っているようなもんだが、その戦略しか無かったろうなと思う。
毎回楽しく拝見させていただいております。勉強になります。思うに姜維自身、さすがに毎年のように攻撃するのは無理だとは思っていたと考えております。ご指摘の通り姜維は荊州閥でも益州閥でもないので、立場を確立する後ろ盾がない。そこで軍部を後ろ盾としなければならず、その権益を保護する行動を取らざるを得ない立場にあったと思います。蜀軍は漢中に長いこといたために土地・畑など漢中に利権?が有り、姜維が軍の支持を得るために北伐をし続けねばならなかったという側面もあったのではないでしょうか?ある意味、諸葛亮の負の遺産という一面があったように思います。(後世日本の関東軍が満州の利権を確保するために本土司令部の不拡大命令を無視して拡大を続けたような感じでしょうか)
姜維は蜀滅亡の要因の1つではあるけど大局的にみればしょうがない。魏という大国に対して、蜀との国力差・戦力差・人材の豊富差が圧倒的で、唯一生き残る可能性は過去の遺恨に拘らず、呉と手を結ぶ事だけだったと思います
あるいは恥も外聞も恩讐も捨て去って曹魏に降るか・・・・・
内政を仕切る名臣がいなければ姜維が兵を起こさずとも同じ結果だと正史でも物語でも同じ見解だったようで
姜維テーマだったので参加したかったです。勤務で参加できず無念…。
蜀漢の滅亡の原因は、姜維以前に関羽の樊城でのやらかし、劉備の夷陵でのやらかしじゃないかと。
そんなら孟達・劉封だって悪いだろ関羽を見殺しにしたんだからよ
むかし、横山光輝の三国志でみましたよ。姜維が「もう、蜀のために剣をふるうことはない ! 」と、泣きながら剣を折るシーン。安楽公が「ここでの暮らしは楽しい。蜀が懐かしいとは思いません。」のシーン。今でも悔しさがよみがえります。
あれな、実際どうだったか分からんぞ。蜀に劉備生前の頃から住んでいた人達は、姜維の北伐支持層が多かったと思うんだが……仮に劉禅が最後まで抵抗してたら成都の人達は皆殺しにされた可能性もある訳だろ?実際のところ、劉禅は早い段階で蜀呉が協力したとしても魏に勝つ事は出来ないと思っていて、蜀漢が焦土化する事だけはなんとしても防がないとと考えて降伏したのかも。それに、蜀が恋しくはないのか?て聞かれた場所、敵地のど真ん中だぜ。そりゃ恋しいとは言えないだろ、家臣諸共処断されるかもしれないのに。
@@lov4923 孫呉の暴君も生かされてるんだし、そんくらいで劉禅殺すとも思えんが
三国志という物語の語られ方にも理由があるのかもしれないね基本、蜀に関しては劉備と諸葛亮が主役でその後は省略されがちだから、諸葛亮死後の蜀は姜維のせいで直ぐに滅んだみたいなイメージになってしまうけど実際は蜀建国から諸葛亮の死まで20年程度なのに対し、諸葛亮の死から蜀滅亡までは30年近くの年月があるんだよね
やっぱり要は荊州だったとしか言えないんだよなぁ・・・姜維関係なくてすんません汗
涼州切り取りに関しては孔明の頃の北伐の目的の一つでしたし劉備や法正が生きてた頃からの蜀の基本戦略ですねそれは漢中で魏軍を防ぐ前提として漢中の裏をつける涼州の安定化策源地化を防ぐ必要が有ったからだと言われています
個人的には姜維のできなかったことと孔明のできたことの圧倒的な差は内政の拡充などではなく次代に繋げることだったかなと思います。
北伐基、魏を攻めないのなら蜀漢を名乗るのもおかしくなるし、劉備や孔明の意志を無視して引き篭もるわ。なんて出来ないわな…
銀英伝を視た時にヤン=諸葛亮、ユリアン=姜維って思い浮かべましたね。
じり貧の蜀を背負わされサポートも受けられず悲運の名将と思う。
とっても深いし、姜維の生き方は現代でも通じるものがあると思います😮すごく参考になりました、ありがとうございました🙇
胡済が段谷の戦いをブッチしたのが謎なんですよね。彼の別働隊が到着していればまだあそこまでの大敗は防げたかも知れませんね。
予め鄧艾が防備を固めていたせいで、別働隊を率いる胡済が祁山攻めに手こずり合流できなかった、という話をコメントで見た気がします。
色々な動画を見てると、髭が呉と喧嘩した事と登山家が山を登った事が原因で、孔明だろうと姜維だろうと詰みだった気がしてくる
それ言い出したらそもそも曹操が袁紹倒した時点で詰んでるやろ
魏が隴西を掌握した結果が鄧艾と鐘会の蜀攻撃なんだから、姜維の北伐が無ければもっと早くなっていたでしょうね。
うぽつです。蜀漢の国家としての存在意義、防衛という観点から見ても北伐はどのみち必要なことだったのだと思います。姜維はただ軍人としてその務めを果たしたかったのかと。
鄧艾だけならなんとかなったかもしれません。その上司が陳泰だったのか致命的でしたね。
陳泰にトウ艾。更にトウ艾の部下が胡烈に牽弘と西方の要になる連中だし。樹機能の乱で2人共戦死してしまうが。馬隆も蜀滅亡時は彼らと一緒に戦っていたのだろうか?
純粋な軍事的観点から姜維北伐の目標を説明したほうがいい:曹魏政権と涼州の地理的つながりを断ち切り、最高の戦略目標は涼州を占領し、次的な戦略目標は雍州涼州の人口をコントロールし、蜀漢に移転して国力を強化することである。諸葛亮時代から、魏延と姜維の2つの主要な主戦派将軍はずっと涼州刺史に任命されており、未来に現れる可能性のある涼州統治の状況に備えている。
ある意味では、姜維は諸葛亮の戦略を継承している--攻撃は最高の防御だ。曹魏は14州の土地を持っていて、蜀漢は益州1州の土地しかありません。曹魏の攻撃準備を乱さず、曹魏の鎮西将軍が管理する管轄区を攻撃しなければ、今後は曹魏の絶対的な国力に圧倒されるに違いない。
基本的に蜀の勝利戦略は専守防衛を行い、内政基盤を整え、政治を安定させ、内乱を抑制しつつ、先に魏国内で内乱や大災害などで混乱するのを待つ他無かったとは思う。
一番北伐に致命的打撃を与えたのは、蜀遠征で落鳳坡の悲劇があったから。その後の荊州経営に関羽しかいなかったことは、更なる痛手だったと?荊州の係争は仕方なかったとして、狗の子に虎の娘はやれぬ!が呉を魏に走らせた一因。その前後で、蜀が漢中を取ったは良いが、関羽の暴走が魏呉接近を許し、荊州喪失、北伐の青写真を狂わせたことは間違いないんじゃなかったかな?その後、劉備が自制心を失い、無理な呉進行が失敗に終わったことで、北伐は荊州ルートを失ってしまった。諸葛亮がかなり立て直したが、関羽の冒したチョンボは、目を覆うに等しいマイナスだったと思う。姜維の北伐は無理ゲーだったかもしれないが、蜀漢の存在意義を考えれば、責めるのは酷だ。
いつも楽しく拝見しています^ ^以前の姜維動画と違ったテイストで、とても見応えがあって面白かったです(*´꒳`*)見方によって大きく変わると思いますが、横山三国志で描かれた悲運のヒーロー像って設定が日本人の琴線をビシバシ刺激するからこそ、関羽や曹操といった初・中期の英雄たちに負けない人気があるのかもしれませんね^ ^
横山三国志の姜維格好いいですよね最終巻を何度も読み返してしまう
諸葛亮ではなく魏延の後継者と考えた方が正しく評価できるのかも。荊州名士層でも益州名士層でもないが故の後ろ盾の薄さ、北伐への執念、戦略はともかく戦術レベルでは諸葛亮をも上回る軍才、悲しい末路・・・何かと二人は被るんですよね。
魏延が死なずに蒋琬と魏延、姜維で北伐出来るかだよな
諸葛亮と姜維に、どのタイミングまでは国是を全うできると考えていたのか聞いてみたい。あと諸葛亮没後、蜀の民がどこまで北伐に賛成していたのかも。
陳寿が書けなかった蜀の内部事情はいろいろあったでしょう。この地方は戦禍に大して遭っていませんので、ホントに挙国一致でしたら、戸籍人口は何倍にもなったはず。近代では、台湾に乗り込んだ国民党政権の例が参考になるかと。口で言うほど大陸と対立するでなく、台湾出身者となかなか融和出来ず数十年。
実際魏は蜀漢滅亡の年である263年まで蜀漢領への侵攻は控えているので、兵士の士気が高かったり、険路を敢えて渡って疲れた状態で蜀漢軍に勝てるほど蜀漢軍が弱くなかったということだろう。あの年に地震さえなければ。
小前亮さんの三国志姜維伝買いました
姜維を評価していた魏将の鍾会・鄧ガイの2人も蜀滅亡直後に破滅が待っているのも皮肉やな・・・
蜀自体、魏を倒して漢王朝を復興させることを国是として作られた国だから攻めないといけないんですよね。蜀は守りは固いんだから内政重視で人材を育てることを優先しようとした費禕、むしろ時間がたてばたつほど国力の差が広がっていくと考えていた姜維、どちらも間違っているわけではないので難しい問題ですよね。内政ほったらかして軍事にのみ注力したって批判もありますけれど、姜維は軍人であって政治家ではないんですよね。(´・ω・`)
成都の政治家(皮肉を込めて政治屋)たちがもうちょいしっかりしてくれていればと思いますね・・・姜維の北伐で人員に金を使いすぎて国力の強化が出来なかったとか言われるかもですが・・・もうちょいね・・・(´・ω・`)
そもそも本来魏からの降将である姜維が総大将になっている時点で、蜀の人材不足の深刻さがうかがえますよね…涼州出身という理由だけで廖化や諸葛瞻、董厥から批判を受けているあたり気苦労は絶えなかったでしょうね。
それな……廖化はまあ、黄巾賊やってた頃から時代の興亡見てきた歴史の生き証人だからまだしも、諸葛瞻がね……理想論者なのは父親譲りなんだろうなあ。
元々益州に住んでた人にとっては漢の復興なんてどうでもよかった。後年になると文官と武官に分かれて対立を招くことになった。
主さんの動画を首を長くして待ってました。自分の姜維の評価は「死ぬまで蜀漢の将軍として活動した」これ以上でもこれ以下でもないと思います。北伐という国是と姜維の立場を守る事がリンクしているので彼の本心は分かりづらいですが、彼はあくまで自分の位や権限の範囲内で活動していわゆる独走とか暴走はしていないのは確かです。費禕の刺殺後姜維は数カ月後に大軍を動員しましたが、朝政にほとんど関わらなかった姜維が僅かな期間で北伐賛成に意見をまとめることができたでしょうか。もし費禕と対立していたら刺殺の黒幕を姜維だと疑った人もいただろうからなおさらです。この疑問と248年以降漢中や漢寿に駐屯するようになったこと、費禕に抜擢された陳祗が姜維に協力的だったことから自分は費禕は諸葛亮や姜維ほど積極的ではないにしろ北伐には賛成だったと考えています。
自分は、ここまであまり目立っていないが、一国の主である「劉禅」がハッキリと北伐賛成の意志を持っていたため、費禕はそれに配慮する形で陳シを抜擢したり、漢中に仕方なく駐屯した、みたいに見ていますね(๑•﹏•)
@@KOUMEI_NO_WANADA そういえば今回の動画では劉禅の名前がほとんどでてきませんでしたね。劉禅については「劉禅は無能じゃない」の回でコメントしていますのでここでは控えます。でも意識して劉禅の名前を出さないとなかなか出てこないというのが劉禅の存在感の薄さを示しているような・・。
戦で勝つ事しか評価されない姜維は日本だと武田勝頼みたいな感じですかね。
姜維にすべてを求めるのは酷よな…もっと早くに孔明に出会ってたらな。北伐の前に出会ってたらな街亭の守りに姜維なら何とかなったかもしれんのに。姜維は日本人の好みよね。
蜀は漢朝復興が国是で北伐は基本方針だった。姜維、費イの互いの言い分は間違ってないが姜維の言うように国力差が広がる前に魏に打撃を与える必要があった。姜維が北伐を行った時期に魏では司馬一族のクーデターで内部では反乱が相次いでおり魏に対して楔を打ち込む最後のチャンスでもあった。段谷の戦いまではかなりの戦果挙げていた。姜維の不運は後ろ盾の陳シの死と段谷の大敗が重なった事。蜀の国是である北伐は関羽による荊州失陥と夷陵の戦いによる大敗での人的損失によってプランが破綻していた。北伐は諸葛亮や姜維以外がやっても無理ゲーレベル。大体呉との関係を悪化させた髭のせい。
一敗した時点で終わりとか無理ゲー。しかも敵の方が圧倒的に戦力が上。勝っても勝っても次から次へと沸いてくる。孔明のように完勝を狙わない戦術ならともかく、結果を欲しがればいつか負ける。仮に段谷で兵を失ってなくても、鄧艾、鐘会の攻撃は防げてないだろう。蜀の滅亡は必然で、個人の力では覆せない。
実際、蜀漢の零落は荊州失陥がきっかけだから、関羽が呉や藩濬達を軽視してなければこうはならなかったと思うぞ。今でこそ軍神だなんて言われてるが、あれは間違いなく老害化した関羽のせいだと思う。徐庶の離脱や龐統の死が無ければ、多少はマシになってた可能性があるのが悔やまれる。しかもこの直後に策士法正が病没したのが、また……生きてれば夷陵の敗戦は無かったとまで評価された人材だからなあ。
荊州に関羽様を置いたのも他に任せられる人がいないからで選択肢はなし余裕がないからホウ統が流矢で死ぬようなハメになったしもっと前から、それこそ劉表没後に荊州を丸ごと手に入れるようなミラクルがなければ…
黄権と張飛あたりでうまく収まったかもしれないよなとか思いながら
費禕の酒席での刺殺事件で蜀の命運は決まったと思う。事実、これで姜維の押さえはなくなり、以後繰り返した北伐が国力の衰退を招いた。結局は国をひたすら維持して魏の自滅と蜀に英雄が現れるのを待つということしかなかったのでしょう。あの時点では詰んでいたと思いますね。
五胡十六国時代までひたすらディフェンスしてたらワンチャン…ないですかねw
国を預かる政治家としてか、軍を預かる軍師、将軍としてか、どちらの側面を見るかで大きく評価が分かれるんじゃないかと。
そもそもの国力差があるので魏内部で晋末期の八王の乱並に魏が大分裂状態にでもなってなければ姜維の北伐は成功しないと思う
滅ぼされないよう、生き残る為に足掻いた人。滅亡の原因って言うのは可哀想だな。よく頑張ったと思うよ
姜維が積極的に北伐を進めたことで滅亡が早まったかもしれないけどどのみちしばらくして滅亡したような気がしますもしもタイムスリップものの漫画みたいに過去に行って姜維を説得しても今度は違う原因で滅亡しそう
忠、孝何を基準にして見るかで評価が変わるんだろうけど、滅亡したのは姜維一人だけの責任ではないから、置かれた状況と戦績だけを見るとかなりよくやった方。結果論で極論だが、諸葛瞻が鄧艾に突破さえされなければ、蜀は滅亡はしなかっただろう。姜維が君主なら、その判断、選択は非難されるべきなんだろうけど、国を一枚岩にできずにまとまりきれなかった、蜀漢滅亡の原因に関して批判されるべき人物は、他にもっといる。
国力差が大き過ぎたので攻めるは悪手、ただ攻めないとジリ貧になるから守るも悪手、仕えた国が悪かったとしか言いようがない、立場を考えたらやはり英雄に一票かな
姜維帥才之人, 夷陵 之後 蜀風中殘燭 人才凋零 已經是無力回天, 只可以取隴西之地地 等魏國有天災人禍才有機會奪取關中, 但最大問題就算姜維得隴西之地 也不見得有什麼兵力/ 糧餉可以保留這些地方
硬实力碾压,不管干什么都没用。魏国只需要防守+积蓄能量,无论蜀国和吴国玩什么招数都没用。
中学生の時横山三國志はまって姜維に憧れた事があるゲームでは滅亡前の蜀で文武両道で貴重な戦力なのでお気に入りでした
個人的には真田幸村とイメージが重なるかな
姜維は戦術面では諸葛亮以上だったのかもしれませんが、大局的な見方が必要な戦略面では力不足だったように思えます。後は蜀の人材不足が深刻だった事ですね。WW2でドイツ軍のエースが傑出しているのも圧倒的に不利な状況が続いていたからで、そのため米国に比べ極端だったのだと思います。だからこそ話としてはエースや英雄が好まれるのであって、三国志の蜀が人気なのも「判官贔屓」の日本人の特性があるのかもしれませんね。
Bakemono Moke蜀漢善玉論の流行は中華の五胡十六国辺りからで、日本ではむしろ魏や呉に好意的な意見もそこそこ居るという感じじゃないですか?間違っていたらごめんなさい。
ファミコンソフト天地を喰らうで五虎将軍(終盤関羽と張飛は息子に交代)メンバーで編成してたけど、孔明と姜維が有能で黄忠外した思い出
劉禅に進言して当時既に過去の人となっていた趙雲を順平侯の諡を追贈させる等、蜀設立のために尽力した将軍(五虎大将など)を称えるような配慮まで行っているあたりやるべきことはしっかりやっているんですよね。皇帝から宦官、主要閣僚の面々、居並ぶ将軍たちまで、ことごとくが腐敗堕落していたなかで、大規模な内紛を起こさせなかった手腕は評価されても良いと思います。
姜維の低評価は、段谷の戦いで敗れた事、この一言に尽きるのでしょうね…でも姜維がいたからこそ、蜀漢が最後に輝く事ができたのかなと思います。それに、諸葛亮が見出した姜維と、司馬懿が見出した鄧艾が戦い、諸葛亮の息子の諸葛瞻と、司馬懿の息子の司馬昭が両国の実力者として対峙していた事も、なんだか運命のイタズラのようなものを感じて、楽しくなります。
やっぱり関羽が荊州とられた時点で蜀はもう・・・。諸葛亮と姜維の差はやはり、諸葛亮は大敗しないってとこなんだよな、姜維が使った方法は敢えて諸葛亮はとらなかったのではないかと、だが姜維には諸葛亮がとった方法をとれるほどの政治基盤がなかった。むしろ、北伐で仲間に入った身なのに最期の最期までようやったと思うわ。
孔明が頑張っちゃったからこういう厳しすぎる状況になったのかもですね。蜀漢は孔明といい姜維といい、なまじ抜群に優秀な人がいてしまったがために滅亡機会を逸したようにも感じます。
むしろ姜維以外にも問題だらけだった
鄧艾ももちろん姜維も名将であることに異論はありませんが、個人的には持ち上げすぎな感じはありますね。陳泰の読みの深さは鄧艾以上であり、姜維も結局考えを読み取られ、裏を取られる形で退却を重ねています。何故後一勝が届かないのか、そこを操っていた陳泰の諸葛亮にも通じる大局的な読みの部分はもっと議論すべき部分だと思いますね。
おかれてる状況が異なりまるので比較は難しいですが、岳飛をどう捉えるかと少し通ずるようなところがあるかなと思います。愛国心をもって行動をおこした国士か、無謀に突き進んで亡国へと導く国賊かと捉え方によって大きくかわる。岳飛像に関しては中国において前者に偏りすぎている感ありますけど。ただ、無理に挑まなくても当時にはすでに開発が進んで南にいてもやっていけた岳飛のケースと違いしょくは攻めなければその国の成り立なちから考えても国を維持できなかったというのが確かにあると思います。
動画制作お疲れ様です。陳祗について、姜維と協力関係にあったというのは定説なのでしょうか?外征に対する陳祗のスタンスを測る材料としては、譙周と論じたという記述の「論」の意味をどう解釈するかだと思います。あとは陳祗が権力を持っていた時期と姜維の大規模軍事行動期とが一致しているというのが状況証拠として採用可能ですし、この二人が協力し合っていたと考えた方が辻褄が合う、ということでしょうか。陳祗のスタンスがより明確に判るような記述が見つけられないので、その辺りが昔からずっとモヤモヤしたままです。
たしかに仰るとおり、譙周との対立、そして状況証拠から見て、姜維と協力関係にあった、もしくは北伐推進という運営目的が合致していたと推察しております。劉禅の寵愛から、姜維を凌ぐほどの権勢を握っていたとされる陳祗が、姜維と反目していない以上、少なくとも目立って対立することは無かったのかなと。
@@KOUMEI_NO_WANADA ご返信ありがとうございます。ご見解、理解致しました。陳祗が姜維と思惑を同じくしていたというような記述も無ければ、反目していたという記述も無いんですよね。そこを推察して行くのも醍醐味ですね。記述しないことに込められた意味とか。
鍾会のダメエピソードのトリを締め括るに相応しい武将ではある
諸葛亮から評価されていた...前線指揮官としての「能力」は恐らく魏延には及ばなかったのでしょうが,まぁ「代わりにはなる」程度の能力はあったんでしょうねうるさ型の魏延に代わる事が可能である事.もう一つは涼州に顔の効く将軍として,どちらかというと馬超のような役割が期待されていたのではないかと...
姜維が真田幸村や新撰組の近藤勇や土方歳三と同じ悲劇のヒーローなのが、日本人にとって評価を上げたのかもしれませんね。
35:48 例えるならば・・・姜維は ロンメル・・・鄧艾は モンゴメリー
力の差が圧倒的すぎて遅かれ早かれ滅びてたと思うもし攻めなかったら今度は臆病者とかで罵られてた可能性が高い
横光版三国志ではカッコ良かった………………
ほんとにそれ
荊州を失ったのが滅亡を早めたのは事実。でもそもそも呉も蜀も人材、人口が極端に少ないので。後漢末の黄巾の乱、董卓、袁術の乱、徐州虐殺など人士が南部に流れたから呉や蜀が建国できたと思っています。中原がまとまった時点でもう詰んでます。
劉備ならキョウイを仲間にするかどうかって考察も面白そう
姜維は魏の埋伏の毒だったけど蜀漢贔屓の世の中に流されて今に至る説を
結局関羽が原因だと思うのと、呉の情勢でしょうか?赤壁の時がもしかしたら最後のチャンスだったのかもしれない。
高順やってほすぃー
やってるぞい('ω')
40:25が諸葛亮と姜維の最大の違いであり、姜維が蜀漢滅亡の要因にされる理由かな、と思う
37:17コツコツドカーンの典型パターンなんだけど、ジリ貧だと時間がたてば経つほど不利になるから、一旦、引いて戦略を見直すということができなかったのかもしれない。
富国強兵を成すことが、姜維の先ずやるべき事だったのではないか、を痛感する最期だったと思いますね。
初動の成功をものにできなかったのは蜀全体の問題だからなー
姜維は降将だから北伐しないだけで孤立しかねない八方塞がり
孔明の想いを、受け継いだ為、魏を滅ぼし、後漢の再興を夢見て…。
姜維は何やってもどうしようもなかった立ち位置。関羽が益州を守り切ってそのまま姜維を拾えていたら劉備没後でもまだ違った未来もあっただろうけど個人の才能の限界を超えてる。 蜀滅亡後に反乱を起こす必要はあったのか…? それくらい全体が見えてないから滅亡を早めたんだとは思う。美しい生き様ではあった。
諸葛一族が魏呉蜀すべてで高官に昇ることができた例がある一方で、なぜ荊州閥や益州閥みたいな出身地柄の対立はバッチリあるのか不思議なんだよなあ俺が魏の皇帝だったら「諸葛?こいつ絶対孔明と内通してるやろ」で速攻クビにするんだけど…
姜維は日本で言ったら武田勝頼みたいなところかな?個人の能力は高いけど国力だったり、環境に恵まれなかったイメージがある。
山中鹿之介の方がしっくりくる。
蜀の内政が完全にガタガタになったのは陳祗が亡くなってからでしたっけ?、この人は生年不詳だから当時でも早世だったのか、当時としては天寿を全うしたと言える年だったのかは解りませんがこの人がもう少し生きていれば…
陳シの死と、段谷の大敗。これがほぼ同時期に来たというのが、痛すぎましたね……
長生きしていたとしても、主力官僚である諸葛瞻や董厥は私党を立てて争ったり庇いあったり宦官にへつらったりするだけで、呉の使者からも「蜀の臣下は保身ばかり、朝廷に正論はない」とばっさり言われてしまうレベルなので厳しい情勢は変わらなかっただろうと思います…
見方が違うと思いますが、263年の四川での地震が蜀にとって最後のトドメになってしまったのかもしれませんね。姜維の北伐とトウ中への屯田で魏への押さえになってはいたのに、後ろが名実ガタガタになったことが魏に知れてしまったことで、魏の蜀征伐を引き起こしたのではないか、と思えます。元号が景耀から炎興に変えたことは、蜀内部にかなり被害があったことを暗示していて、援軍を差し向けられなかったり、諸葛センが守備する城を迷うくらい状況は酷かったのでは、と思います。それでも鍾会を撤退目前まで防いだ姜維の凄さを歴史は雄弁に語ってますね🥺
天地を喰らう2のファミコン版グラフィックが好きだったな
男としては目指したい人生ですね諦めずに常に攻めていくそうありたいとも思う反面基盤固めもちゃんとしないと、と思いました
じゃあどうすれば姜維の北伐が成功出来たか?→桃水の戦いで王経を撃破し魏兵数万を斬り王経を狄道城に押し込んだ時しかチャンスは無い。ここで漢中蜀軍の持てる限りの力を持って急派してきた陳泰を迎撃し狄道を落とし王経を斬っていたら、涼州は落ち隴西も切取り放題、長安は分からないが雍州も蜀に下り、その戦果を持って姜維は蜀漢丞相になっていた。
デビュー戦でいきなり諸葛亮の策の裏をかく、その後に趙雲と一騎打ちで互角に打ち合う。その少し後にも魏延とも一騎打ちでやり合う。そんな姜維が諸葛亮に請われて蜀に投稿。恐らくこの時、馬謖の心中は大きな焦りが芽生えた事だろう。結果、街亭で挽回不可のしくじりに・・・
荊州喪失、夷陵の大敗でほぼ終わってた国。段谷の大敗が終わってる国にトドメ刺した
海音寺潮五郎さんのエッセイで、「ある人が、忠臣蔵の大石内蔵助を『ダラ幹(自己の地位を利用して己の利益を計る指導者の事)」と決め付けた論文を発表したが、私はその人と同じ資料を用いて、『大石内蔵助は忠臣だった』と証明する論文を出せる」旨の事を記していたのを思い出しました。姜維も「斜陽の蜀を支えた英雄」とも「蜀の国力を食い散らかしたタカ派軍人」とも立証は可能かと……………
後の世蜀と呉を合わせた国が結局は北の勢力に飲まれる最期がありますから蜀と呉が連携してもダメと言うのが歴史の必定
中華文明の歴史でも南から北伐で王朝造れたのが朱元璋の明王朝と近代中華民国だと蒋介石の国民革命軍しか成功してないのがな。
荊州を失った時点で蜀漢は詰みかと思います・・・(皆さん思っていると思いますが)それが分かっていたから劉備が関羽の弔い合戦と言って全軍で早期奪取を試み夷陵で激突し敗戦し勇将など歴戦討ち死にし瀕死の重傷・・・その後は孔明も蜀漢の延命に必死だったとしか思えない様に私は感じます。魏延の長安強襲も面白い案かと思いますが一蹴していますし長安を落としても維持が出来ない(蜀からの物資輸送など物が続かない)と思っているように感じます。(勝負できない国力、負けられない脆弱な国力のため孔明の合戦は堅実的)夷陵、孟達以降は孔明も蒋宛、費イ、姜維も北伐は蜀漢内の自身の政治的な問題で戦っていたように思います。しかし、姜維は孔明、蒋宛、費イに比べ軍人色がかなり強い為、戦いで解決、意義、求心を得ようとしたのかと・・・忠臣なのか傾国の徒なのか・・・蜀漢滅亡に重責にいたとなると両方だと思います。(姜維好きな方スミマセン)しかし個人的には孔明死後、孤軍奮闘し張翼は最後まで廖化、張嶷など歴戦も従えていたので人物的には当代の英雄だと思います。私は最後まで足掻く姜維は大変大好きな人物でありました。魏延が死なず姜維との関係、蜀漢がどのようになったかも気になりますね~(ケンカかな)
呉との関係を修復して、蜀単独ではなく呉にも呼応させるくらいが出来なきゃなぁとは思う。まぁ姜維が居ても居なくても滅亡の時期が遅かれ早かれプラスマイナス何年かぐらいの差だっただろう
アンケート、ロンメル将軍が名将であることとアフリカ戦線崩壊の原因であることは両立するからね
まさしく(๑´•.̫ • `๑)
がんばったね。(*^-^*)姜維がいたから諸葛亮の北伐も評価される。とにかく40年も存続したんだから大したもんだ。魏の中に乱の要素が無かったのがイタイな。蜀があったから魏も秩序が乱れなかったのかも。
これだけ姜維について詳細に解説された動画は初めて。まさに驚異!
姜維の取れる選択肢が、緩やかな衰退か玉砕覚悟の進軍しかなかったよな
お見事な考察でした。
人として、姜維の生き方にはものすごく共感を覚えるだけに、「大きすぎるものを背負いすぎた結果、押しつぶされた人物」を「そんなでかいもん背負うんじゃない」と批判することはしたくない、という・・・。
個人の能力には当然ながら限界がある。しかしながら、個人の能力の限界を超えて驀進し続けた姜維が、ただただ愛しく哀しい。そう思わずにおれない訳です。
私個人的に、姜維は諸葛亮に次いで好きな人物です。
・・・で、当の蜀の民衆はどう見ていたかと言うと、動画でも出てきた孫盛が蜀の地方に行き、現地の古老たちと話をしたところ、古老たちは口々に姜維の失敗を残念がっていた、と孫盛自身が印象的に書き残しています。面白いのは、これを聴いた孫盛が反発するように「は? 姜維ごとき愚将が成功なんぞできるわけないだろボケが(超意訳)」というようなことを述べていることで、「反姜維」の立場である孫盛が記録したことであるという事実が、いっそうこの話の信憑性を高めていることです。
姜維麾下の兵たちが、「降伏せよ」との劉禅の命を受けて、怒りと絶望のあまり剣を抜いて路傍の石を叩き切った、という話(これは正史『姜維伝』の本文に記載されている)も、兵たちの戦意の旺盛さを物語っていますし、実は蜀の民衆は蜀漢という国家を愛し、魏と戦う気満々だったと見ることもできます。姜維は、そういう蜀の民衆の希望を担う人物であり、朝廷では孤立していても、民衆の間では最後まで英雄だった、と私は思っているわけです。
今回も面白かったです。
いろいろ考えるところはあるけど、結局は姜維が蜀漢に来た段階でもう手遅れだったんだろうなと思わざるを得ないですね。
荊州失陥、関羽死亡、夷陵の大敗、上庸孟達の失敗…どれか一つでもうまくいっていれば、諸葛亮から引き継いだ時点の蜀の国力、取り得る選択肢はまた違ったでしょう。
その時に李厳と魏延が荊州方面で重職にあり、涼州をまとめた姜維・夏侯覇と二正面で魏を脅かす事が出来ていれば、宛や長安を奪い、以て呉の協力を得て南陽、許昌、洛陽にまで迫れたかもしれない。
IFにIFを重ねた妄想に過ぎないけれど。
決して覆せない時代の潮流に抗い続けた悲運の天才。そんな印象です。
今回も何度か名前だけは上がってましたが、陳泰の解説動画はあったでしょうか?、なければぜひ、主さんの解説動画を聞いてみたく思います。
長い間待った甲斐があるような素晴らしい動画でした。これからも頑張ってください。
今回も面白く拝見させて頂きました。
蜀漢という国の成り立ちからして北伐は絶対条件である以上やらないといけないというのは私もそう思います。
ただ、荊州を失った以上、涼州方面から行くか、それともかつて魏延の立てた戦略の通り、いきなり長安を落としにいくのかの2択しかない状況はあまりにも厳しい。
だからといって荊州を呉から奪還するというのはそれ以上に無謀な戦略と言わざるを得ないと私は思います。国力が1番小さな蜀漢が他の2国と同時に戦線を開くのは自殺行為。かといって一時的に魏と不可侵条約を結ぶということは国の成り立ちを根本的に否定することになる。
こうしたほぼ詰んだ状況でも涼州を切り取る後一歩という所まで魏を脅かすことが出来たという所が姜維の1番評価すべき所なのだと私は思います。
さらに孫権時代と違って、孫休時代からは呉との関係も悪化しているわけで、そうなれば呉と組んで魏に対抗するという基本路線もすでに崩れているから、後ろが安心できない以上前から安全を奪い取るしかない→北伐続行でしか延命できないという矛盾を抱えていた。
古今、蜀から天下統一を目指した国が成功した試しは一度もないが、これは地理的要因以外にも、国のブレーンとなる人材がそもそも集まらないという一種の陸の孤島であったことがポイントだね。
長尺お疲れ様です。
諸葛亮に降った瞬間に命運が決まったような気がします。
諸葛亮の人物評にも留意すると馬謖の例もあるし、今風の感覚で言うと単純に人が居ないってイメージもあるかなと。晩年の人材不足は蜀漢の衰退を一気に早めたのも事実。
何としても後を引き継ぐ立場として諸葛亮のというか蜀漢の存在意義を全うしようと北伐を連発したのかなと思います。
どのみち蜀は滅亡待ったなしの状態だったし
出師の表のごとく
戦うしかなかったのよな
素直に姜維の生涯が好きです。
彼はあーするしかなかった🥹
劉禅になった時に曹否が司馬懿の進言で五路進行作戦も諸葛亮一人で当たるのではなく作戦としても馬超、趙雲、魏延など「任せられるものがいた」のが大きい。姜維は才能は非常に高いけど一人で難しいですね。
それは演義の創作😂でも諸葛亮時代は劉備以来の名将がそれだけ残ってたからこそ、まだ「ワンチャンあるかも」という北伐成功の期待があったのも事実でしょう。姜維も趙雲や魏延と同じく、誰かの指揮下で器の範囲内で存分に暴れる分にはこの上なく有能な将軍なのは間違いない。
姜維に支持基盤が無いし勝つしか支持されないと言うのも悲しいな・・
北伐の推進派・反対派どっちが正しいかは今でも答えは出ませんがなんだかんだで蜀の最期を支えた名将ですね。
姜維は
蜀漢末期の軍事面を支えたのが、共に魏からの降将である姜維と夏候覇だったというのもまた事実。
@@saburiryu28go 劉備が没した後,諸葛亮に全権が移った後の人事面は恐らく腐り始めていたのでしょうね
NO.2クラスのよく分からない粛清が続いていましたし
諸葛亮没直後の内部分裂と大粛清もそれを物語っています
降将が主力という時点が内部の崩壊具合が顕在化した状態を示していると思います
大変興味深く拝見致しました。
魏には司馬氏の台頭による大混乱とその後の滅亡イベントが待っていましたが、それでも華北を牛耳った政権としての地盤は寸毫も揺るがなかった。
蜀と呉は所詮舞台回しの道化に過ぎなかった…という結論になってしまいますね。
哀れ。
これはまた興味深いな、質の高い話を提供して頂けそうだ
もし姜維が劉備存命中に蜀に入っていたら劉備はどう使いこなしていたのかな?
姜維が費禕の路線を踏襲して北伐を控えて人材育成を優先していたとしても「支配地が益州のみ。しかも後漢末の戦乱期のような他州からの人材流入も見込めない」という状況だったので、事実上の詰み。
魏延が死なずに中継ぎして姜維に託すという感じならどうだったか。
でもその後の司馬炎以降の晋の荒廃と中国全土を襲った大混乱時代を考えればその臥薪嘗胆が詰みではなく最上の策だった気がする。
蜀漢と孫呉が臥薪嘗胆してそのまま南朝に移行出来そうかだよな
曹魏に北方民族侵入で自滅するのを待つのは
敵の自滅を待ち、英雄の到来を待つという、現時点では詰んでいると言っているようなもんだが、その戦略しか無かったろうなと思う。
毎回楽しく拝見させていただいております。勉強になります。思うに姜維自身、さすがに毎年のように攻撃するのは無理だとは思っていたと考えております。ご指摘の通り姜維は荊州閥でも益州閥でもないので、立場を確立する後ろ盾がない。そこで軍部を後ろ盾としなければならず、その権益を保護する行動を取らざるを得ない立場にあったと思います。蜀軍は漢中に長いこといたために土地・畑など漢中に利権?が有り、姜維が軍の支持を得るために北伐をし続けねばならなかったという側面もあったのではないでしょうか?ある意味、諸葛亮の負の遺産という一面があったように思います。(後世日本の関東軍が満州の利権を確保するために本土司令部の不拡大命令を無視して拡大を続けたような感じでしょうか)
姜維は蜀滅亡の要因の1つではあるけど大局的にみればしょうがない。
魏という大国に対して、蜀との国力差・戦力差・人材の豊富差が圧倒的で、唯一生き残る可能性は過去の遺恨に拘らず、呉と手を結ぶ事だけだったと思います
あるいは恥も外聞も恩讐も捨て去って曹魏に降るか・・・・・
内政を仕切る名臣がいなければ姜維が兵を起こさずとも同じ結果だと正史でも物語でも同じ見解だったようで
姜維テーマだったので参加したかったです。勤務で参加できず無念…。
蜀漢の滅亡の原因は、姜維以前に関羽の樊城でのやらかし、劉備の夷陵でのやらかしじゃないかと。
そんなら孟達・劉封だって悪いだろ
関羽を見殺しにしたんだからよ
むかし、横山光輝の三国志でみましたよ。
姜維が「もう、蜀のために剣をふるうことはない ! 」と、泣きながら剣を折るシーン。
安楽公が「ここでの暮らしは楽しい。蜀が懐かしいとは思いません。」のシーン。
今でも悔しさがよみがえります。
あれな、実際どうだったか分からんぞ。蜀に劉備生前の頃から住んでいた人達は、姜維の北伐支持層が多かったと思うんだが……仮に劉禅が最後まで抵抗してたら成都の人達は皆殺しにされた可能性もある訳だろ?実際のところ、劉禅は早い段階で蜀呉が協力したとしても魏に勝つ事は出来ないと思っていて、蜀漢が焦土化する事だけはなんとしても防がないとと考えて降伏したのかも。
それに、蜀が恋しくはないのか?て聞かれた場所、敵地のど真ん中だぜ。そりゃ恋しいとは言えないだろ、家臣諸共処断されるかもしれないのに。
@@lov4923
孫呉の暴君も生かされてるんだし、そんくらいで劉禅殺すとも思えんが
三国志という物語の語られ方にも理由があるのかもしれないね
基本、蜀に関しては劉備と諸葛亮が主役でその後は省略されがちだから、諸葛亮死後の蜀は姜維のせいで直ぐに滅んだみたいなイメージになってしまうけど
実際は蜀建国から諸葛亮の死まで20年程度なのに対し、諸葛亮の死から蜀滅亡までは30年近くの年月があるんだよね
やっぱり要は荊州だったとしか言えないんだよなぁ・・・姜維関係なくてすんません汗
涼州切り取りに関しては孔明の頃の北伐の目的の一つでしたし劉備や法正が生きてた頃からの蜀の基本戦略ですね
それは漢中で魏軍を防ぐ前提として漢中の裏をつける涼州の安定化策源地化を防ぐ必要が有ったからだと言われています
個人的には姜維のできなかったことと孔明のできたことの圧倒的な差は内政の拡充などではなく次代に繋げることだったかなと思います。
北伐基、魏を攻めないのなら蜀漢を名乗るのもおかしくなるし、劉備や孔明の意志を無視して引き篭もるわ。なんて出来ないわな…
銀英伝を視た時にヤン=諸葛亮、ユリアン=姜維って思い浮かべましたね。
じり貧の蜀を背負わされサポートも受けられず悲運の名将と思う。
とっても深いし、姜維の生き方は現代でも通じるものがあると思います😮
すごく参考になりました、ありがとうございました🙇
胡済が段谷の戦いをブッチしたのが謎なんですよね。
彼の別働隊が到着していればまだあそこまでの大敗は防げたかも知れませんね。
予め鄧艾が防備を固めていたせいで、別働隊を率いる胡済が祁山攻めに手こずり合流できなかった、という話をコメントで見た気がします。
色々な動画を見てると、髭が呉と喧嘩した事と登山家が山を登った事が原因で、孔明だろうと姜維だろうと詰みだった気がしてくる
それ言い出したらそもそも曹操が袁紹倒した時点で詰んでるやろ
魏が隴西を掌握した結果が鄧艾と鐘会の蜀攻撃なんだから、姜維の北伐が無ければもっと早くなっていたでしょうね。
うぽつです。
蜀漢の国家としての存在意義、防衛という観点から見ても北伐はどのみち必要なことだったのだと思います。
姜維はただ軍人としてその務めを果たしたかったのかと。
鄧艾だけならなんとかなったかもしれません。
その上司が陳泰だったのか致命的でしたね。
陳泰にトウ艾。更にトウ艾の部下が胡烈に牽弘と西方の要になる連中だし。樹機能の乱で2人共戦死してしまうが。馬隆も蜀滅亡時は彼らと一緒に戦っていたのだろうか?
純粋な軍事的観点から姜維北伐の目標を説明したほうがいい:曹魏政権と涼州の地理的つながりを断ち切り、最高の戦略目標は涼州を占領し、次的な戦略目標は雍州涼州の人口をコントロールし、蜀漢に移転して国力を強化することである。諸葛亮時代から、魏延と姜維の2つの主要な主戦派将軍はずっと涼州刺史に任命されており、未来に現れる可能性のある涼州統治の状況に備えている。
ある意味では、姜維は諸葛亮の戦略を継承している--攻撃は最高の防御だ。曹魏は14州の土地を持っていて、蜀漢は益州1州の土地しかありません。曹魏の攻撃準備を乱さず、曹魏の鎮西将軍が管理する管轄区を攻撃しなければ、今後は曹魏の絶対的な国力に圧倒されるに違いない。
基本的に蜀の勝利戦略は専守防衛を行い、内政基盤を整え、政治を安定させ、内乱を抑制しつつ、先に魏国内で内乱や大災害などで混乱するのを待つ他無かったとは思う。
一番北伐に致命的打撃を与えたのは、蜀遠征で落鳳坡の悲劇があったから。その後の荊州経営に関羽しかいなかったことは、更なる痛手だったと?
荊州の係争は仕方なかったとして、狗の子に虎の娘はやれぬ!が呉を魏に走らせた一因。
その前後で、蜀が漢中を取ったは良いが、関羽の暴走が魏呉接近を許し、荊州喪失、北伐の青写真を狂わせたことは間違いないんじゃなかったかな?
その後、劉備が自制心を失い、無理な呉進行が失敗に終わったことで、北伐は荊州ルートを失ってしまった。
諸葛亮がかなり立て直したが、関羽の冒したチョンボは、目を覆うに等しいマイナスだったと思う。姜維の北伐は無理ゲーだったかもしれないが、蜀漢の存在意義を考えれば、責めるのは酷だ。
いつも楽しく拝見しています^ ^
以前の姜維動画と違ったテイストで、とても見応えがあって面白かったです(*´꒳`*)
見方によって大きく変わると思いますが、横山三国志で描かれた悲運のヒーロー像って設定が日本人の琴線をビシバシ刺激するからこそ、関羽や曹操といった初・中期の英雄たちに負けない人気があるのかもしれませんね^ ^
横山三国志の姜維格好いいですよね
最終巻を何度も読み返してしまう
諸葛亮ではなく魏延の後継者と考えた方が正しく評価できるのかも。
荊州名士層でも益州名士層でもないが故の後ろ盾の薄さ、北伐への執念、戦略はともかく戦術レベルでは諸葛亮をも上回る軍才、悲しい末路・・・
何かと二人は被るんですよね。
魏延が死なずに
蒋琬と魏延、姜維で北伐出来るかだよな
諸葛亮と姜維に、どのタイミングまでは国是を全うできると考えていたのか聞いてみたい。
あと諸葛亮没後、蜀の民がどこまで北伐に賛成していたのかも。
陳寿が書けなかった蜀の内部事情はいろいろあったでしょう。この地方は戦禍に大して遭っていませんので、ホントに挙国一致でしたら、戸籍人口は何倍にもなったはず。近代では、台湾に乗り込んだ国民党政権の例が参考になるかと。口で言うほど大陸と対立するでなく、台湾出身者となかなか融和出来ず数十年。
実際魏は蜀漢滅亡の年である263年まで蜀漢領への侵攻は控えているので、兵士の士気が高かったり、険路を敢えて渡って疲れた状態で蜀漢軍に勝てるほど蜀漢軍が弱くなかったということだろう。あの年に地震さえなければ。
小前亮さんの三国志姜維伝買いました
姜維を評価していた魏将の鍾会・鄧ガイの2人も蜀滅亡直後に破滅が待っているのも皮肉やな・・・
蜀自体、魏を倒して漢王朝を復興させることを国是として作られた国だから攻めないといけないんですよね。
蜀は守りは固いんだから内政重視で人材を育てることを優先しようとした費禕、むしろ時間がたてばたつほど国力の差が広がっていくと考えていた姜維、どちらも間違っているわけではないので難しい問題ですよね。
内政ほったらかして軍事にのみ注力したって批判もありますけれど、姜維は軍人であって政治家ではないんですよね。(´・ω・`)
成都の政治家(皮肉を込めて政治屋)たちがもうちょいしっかりしてくれていればと思いますね・・・
姜維の北伐で人員に金を使いすぎて国力の強化が出来なかったとか言われるかもですが・・・
もうちょいね・・・(´・ω・`)
そもそも本来魏からの降将である姜維が総大将になっている時点で、蜀の人材不足の深刻さがうかがえますよね…
涼州出身という理由だけで廖化や諸葛瞻、董厥から批判を受けているあたり気苦労は絶えなかったでしょうね。
それな……廖化はまあ、黄巾賊やってた頃から時代の興亡見てきた歴史の生き証人だからまだしも、諸葛瞻がね……理想論者なのは父親譲りなんだろうなあ。
元々益州に住んでた人にとっては漢の復興なんてどうでもよかった。
後年になると文官と武官に分かれて対立を招くことになった。
主さんの動画を首を長くして待ってました。自分の姜維の評価は「死ぬまで蜀漢の将軍として活動した」これ以上でもこれ以下でもないと思います。北伐という国是と姜維の立場を守る事がリンクしているので彼の本心は分かりづらいですが、彼はあくまで自分の位や権限の範囲内で活動していわゆる独走とか暴走はしていないのは確かです。
費禕の刺殺後姜維は数カ月後に大軍を動員しましたが、朝政にほとんど関わらなかった姜維が僅かな期間で北伐賛成に意見をまとめることができたでしょうか。もし費禕と対立していたら刺殺の黒幕を姜維だと疑った人もいただろうからなおさらです。この疑問と248年以降漢中や漢寿に駐屯するようになったこと、費禕に抜擢された陳祗が姜維に協力的だったことから自分は費禕は諸葛亮や姜維ほど積極的ではないにしろ北伐には賛成だったと考えています。
自分は、ここまであまり目立っていないが、一国の主である「劉禅」がハッキリと北伐賛成の意志を持っていたため、費禕はそれに配慮する形で陳シを抜擢したり、漢中に仕方なく駐屯した、みたいに見ていますね(๑•﹏•)
@@KOUMEI_NO_WANADA そういえば今回の動画では劉禅の名前がほとんどでてきませんでしたね。劉禅については「劉禅は無能じゃない」の回でコメントしていますのでここでは控えます。でも意識して劉禅の名前を出さないとなかなか出てこないというのが劉禅の存在感の薄さを示しているような・・。
戦で勝つ事しか評価されない姜維は日本だと武田勝頼みたいな感じですかね。
姜維にすべてを求めるのは酷よな…
もっと早くに孔明に出会ってたらな。北伐の前に出会ってたらな街亭の守りに姜維なら何とかなったかもしれんのに。姜維は日本人の好みよね。
蜀は漢朝復興が国是で北伐は基本方針だった。姜維、費イの互いの言い分は間違ってないが姜維の言うように国力差が広がる前に魏に打撃を与える必要があった。姜維が北伐を行った時期に魏では司馬一族のクーデターで内部では反乱が相次いでおり魏に対して楔を打ち込む最後のチャンスでもあった。段谷の戦いまではかなりの戦果挙げていた。姜維の不運は後ろ盾の陳シの死と段谷の大敗が重なった事。蜀の国是である北伐は関羽による荊州失陥と夷陵の戦いによる大敗での人的損失によってプランが破綻していた。北伐は諸葛亮や姜維以外がやっても無理ゲーレベル。大体呉との関係を悪化させた髭のせい。
一敗した時点で終わりとか無理ゲー。
しかも敵の方が圧倒的に戦力が上。
勝っても勝っても次から次へと沸いてくる。
孔明のように完勝を狙わない戦術ならともかく、結果を欲しがればいつか負ける。
仮に段谷で兵を失ってなくても、鄧艾、鐘会の攻撃は防げてないだろう。
蜀の滅亡は必然で、個人の力では覆せない。
実際、蜀漢の零落は荊州失陥がきっかけだから、関羽が呉や藩濬達を軽視してなければこうはならなかったと思うぞ。
今でこそ軍神だなんて言われてるが、あれは間違いなく老害化した関羽のせいだと思う。徐庶の離脱や龐統の死が無ければ、多少はマシになってた可能性があるのが悔やまれる。
しかもこの直後に策士法正が病没したのが、また……生きてれば夷陵の敗戦は無かったとまで評価された人材だからなあ。
荊州に関羽様を置いたのも他に任せられる人がいないからで選択肢はなし
余裕がないからホウ統が流矢で死ぬようなハメになったし
もっと前から、それこそ劉表没後に荊州を丸ごと手に入れるようなミラクルがなければ…
黄権と張飛あたりで
うまく収まったかもしれないよな
とか思いながら
費禕の酒席での刺殺事件で蜀の命運は決まったと思う。
事実、これで姜維の押さえはなくなり、以後繰り返した北伐が国力の衰退を招いた。
結局は国をひたすら維持して魏の自滅と蜀に英雄が現れるのを待つということしかなかったのでしょう。
あの時点では詰んでいたと思いますね。
五胡十六国時代までひたすらディフェンスしてたらワンチャン…ないですかねw
国を預かる政治家としてか、軍を預かる軍師、将軍としてか、どちらの側面を見るかで大きく評価が分かれるんじゃないかと。
そもそもの国力差があるので魏内部で晋末期の八王の乱並に魏が大分裂状態にでもなってなければ姜維の北伐は成功しないと思う
滅ぼされないよう、生き残る為に足掻いた人。滅亡の原因って言うのは可哀想だな。
よく頑張ったと思うよ
姜維が積極的に北伐を進めたことで滅亡が早まったかもしれないけど
どのみちしばらくして滅亡したような気がします
もしもタイムスリップものの漫画みたいに過去に行って姜維を説得しても
今度は違う原因で滅亡しそう
忠、孝何を基準にして見るかで評価が変わるんだろうけど、滅亡したのは姜維一人だけの責任ではないから、置かれた状況と戦績だけを見るとかなりよくやった方。
結果論で極論だが、諸葛瞻が鄧艾に突破さえされなければ、蜀は滅亡はしなかっただろう。
姜維が君主なら、その判断、選択は非難されるべきなんだろうけど、国を一枚岩にできずにまとまりきれなかった、蜀漢滅亡の原因に関して批判されるべき人物は、他にもっといる。
国力差が大き過ぎたので攻めるは悪手、ただ攻めないとジリ貧になるから守るも悪手、仕えた国が悪かったとしか言いようがない、立場を考えたらやはり英雄に一票かな
姜維帥才之人, 夷陵 之後 蜀風中殘燭 人才凋零 已經是無力回天, 只可以取隴西之地地 等魏國有天災人禍才有機會奪取關中, 但最大問題就算姜維得隴西之地 也不見得有什麼兵力/ 糧餉可以保留這些地方
硬实力碾压,不管干什么都没用。魏国只需要防守+积蓄能量,无论蜀国和吴国玩什么招数都没用。
中学生の時横山三國志はまって姜維に憧れた事がある
ゲームでは滅亡前の蜀で文武両道で貴重な戦力なのでお気に入りでした
個人的には真田幸村とイメージが重なるかな
姜維は戦術面では諸葛亮以上だったのかもしれませんが、大局的な見方が必要な戦略面では力不足だったように思えます。
後は蜀の人材不足が深刻だった事ですね。WW2でドイツ軍のエースが傑出しているのも圧倒的に不利な状況が続いていたからで、そのため米国に比べ極端だったのだと思います。
だからこそ話としてはエースや英雄が好まれるのであって、三国志の蜀が人気なのも「判官贔屓」の日本人の特性があるのかもしれませんね。
Bakemono Moke
蜀漢善玉論の流行は中華の五胡十六国辺りからで、日本ではむしろ魏や呉に好意的な意見もそこそこ居るという感じじゃないですか?間違っていたらごめんなさい。
ファミコンソフト天地を喰らうで五虎将軍(終盤関羽と張飛は息子に交代)メンバーで編成してたけど、孔明と姜維が有能で黄忠外した思い出
劉禅に進言して当時既に過去の人となっていた趙雲を順平侯の諡を追贈させる等、蜀設立のために尽力した将軍(五虎大将など)を称えるような配慮まで行っているあたりやるべきことはしっかりやっているんですよね。
皇帝から宦官、主要閣僚の面々、居並ぶ将軍たちまで、ことごとくが腐敗堕落していたなかで、大規模な内紛を起こさせなかった手腕は評価されても良いと思います。
姜維の低評価は、段谷の戦いで敗れた事、この一言に尽きるのでしょうね…
でも姜維がいたからこそ、蜀漢が最後に輝く事ができたのかなと思います。
それに、諸葛亮が見出した姜維と、司馬懿が見出した鄧艾が戦い、諸葛亮の息子の諸葛瞻と、司馬懿の息子の司馬昭が両国の実力者として対峙していた事も、なんだか運命のイタズラのようなものを感じて、楽しくなります。
やっぱり関羽が荊州とられた時点で蜀はもう・・・。
諸葛亮と姜維の差はやはり、諸葛亮は大敗しないってとこなんだよな、姜維が使った方法は敢えて諸葛亮はとらなかったのではないかと、だが姜維には諸葛亮がとった方法をとれるほどの政治基盤がなかった。むしろ、北伐で仲間に入った身なのに最期の最期までようやったと思うわ。
孔明が頑張っちゃったからこういう厳しすぎる状況になったのかもですね。蜀漢は孔明といい姜維といい、なまじ抜群に優秀な人がいてしまったがために滅亡機会を逸したようにも感じます。
むしろ姜維以外にも問題だらけだった
鄧艾ももちろん姜維も名将であることに異論はありませんが、個人的には持ち上げすぎな感じはありますね。
陳泰の読みの深さは鄧艾以上であり、姜維も結局考えを読み取られ、裏を取られる形で退却を重ねています。
何故後一勝が届かないのか、そこを操っていた陳泰の諸葛亮にも通じる大局的な読みの部分はもっと議論すべき部分だと思いますね。
おかれてる状況が異なりまるので比較は難しいですが、岳飛をどう捉えるかと少し通ずるようなところがあるかなと思います。
愛国心をもって行動をおこした国士か、無謀に突き進んで亡国へと導く国賊かと捉え方によって大きくかわる。
岳飛像に関しては中国において前者に偏りすぎている感ありますけど。
ただ、無理に挑まなくても当時にはすでに開発が進んで南にいてもやっていけた岳飛のケースと違いしょくは攻めなければその国の成り立なちから考えても国を維持できなかったというのが確かにあると思います。
動画制作お疲れ様です。
陳祗について、姜維と協力関係にあったというのは定説なのでしょうか?
外征に対する陳祗のスタンスを測る材料としては、譙周と論じたという記述の「論」の意味をどう解釈するかだと思います。あとは陳祗が権力を持っていた時期と姜維の大規模軍事行動期とが一致しているというのが状況証拠として採用可能ですし、この二人が協力し合っていたと考えた方が辻褄が合う、ということでしょうか。陳祗のスタンスがより明確に判るような記述が見つけられないので、その辺りが昔からずっとモヤモヤしたままです。
たしかに仰るとおり、譙周との対立、そして状況証拠から見て、姜維と協力関係にあった、もしくは北伐推進という運営目的が合致していたと推察しております。
劉禅の寵愛から、姜維を凌ぐほどの権勢を握っていたとされる陳祗が、姜維と反目していない以上、少なくとも目立って対立することは無かったのかなと。
@@KOUMEI_NO_WANADA ご返信ありがとうございます。ご見解、理解致しました。
陳祗が姜維と思惑を同じくしていたというような記述も無ければ、反目していたという記述も無いんですよね。そこを推察して行くのも醍醐味ですね。記述しないことに込められた意味とか。
鍾会のダメエピソードのトリを締め括るに相応しい武将ではある
諸葛亮から評価されていた...
前線指揮官としての「能力」は恐らく魏延には及ばなかったのでしょうが,まぁ「代わりにはなる」程度の能力はあったんでしょうね
うるさ型の魏延に代わる事が可能である事.もう一つは涼州に顔の効く将軍として,どちらかというと馬超のような役割が期待されていたのではないかと...
姜維が真田幸村や新撰組の近藤勇や土方歳三と同じ悲劇のヒーローなのが、日本人にとって評価を上げたのかもしれませんね。
35:48 例えるならば・・・姜維は ロンメル・・・鄧艾は モンゴメリー
力の差が圧倒的すぎて遅かれ早かれ滅びてたと思う
もし攻めなかったら今度は臆病者とかで罵られてた可能性が高い
横光版三国志ではカッコ良かった………………
ほんとにそれ
荊州を失ったのが滅亡を早めたのは事実。
でもそもそも呉も蜀も人材、人口が極端に少ないので。
後漢末の黄巾の乱、董卓、袁術の乱、徐州虐殺など人士が南部に流れたから呉や蜀が建国できたと思っています。
中原がまとまった時点でもう詰んでます。
劉備ならキョウイを仲間にするかどうかって考察も面白そう
姜維は魏の埋伏の毒だったけど蜀漢贔屓の世の中に流されて今に至る説を
結局関羽が原因だと思うのと、呉の情勢でしょうか?赤壁の時がもしかしたら最後のチャンスだったのかもしれない。
高順やってほすぃー
やってるぞい('ω')
40:25が諸葛亮と姜維の最大の違いであり、姜維が蜀漢滅亡の要因にされる理由かな、と思う
37:17
コツコツドカーンの典型パターンなんだけど、ジリ貧だと時間がたてば経つほど不利になるから、一旦、引いて戦略を見直すということができなかったのかもしれない。
富国強兵を成すことが、姜維の先ずやるべき事だったのではないか、を痛感する最期だったと思いますね。
初動の成功をものにできなかったのは蜀全体の問題だからなー
姜維は降将だから北伐しないだけで孤立しかねない八方塞がり
孔明の想いを、受け継いだ為、魏を滅ぼし、後漢の再興を夢見て…。
姜維は何やってもどうしようもなかった立ち位置。関羽が益州を守り切ってそのまま姜維を拾えていたら劉備没後でもまだ違った未来もあっただろうけど
個人の才能の限界を超えてる。 蜀滅亡後に反乱を起こす必要はあったのか…? それくらい全体が見えてないから滅亡を早めたんだとは思う。美しい生き様ではあった。
諸葛一族が魏呉蜀すべてで高官に昇ることができた例がある一方で、なぜ荊州閥や益州閥みたいな出身地柄の対立はバッチリあるのか不思議なんだよなあ
俺が魏の皇帝だったら「諸葛?こいつ絶対孔明と内通してるやろ」で速攻クビにするんだけど…
姜維は日本で言ったら武田勝頼みたいなところかな?個人の能力は高いけど国力だったり、環境に恵まれなかったイメージがある。
山中鹿之介の方がしっくりくる。
蜀の内政が完全にガタガタになったのは陳祗が亡くなってからでしたっけ?、この人は生年不詳だから当時でも早世だったのか、当時としては天寿を全うしたと言える年だったのかは解りませんがこの人がもう少し生きていれば…
陳シの死と、段谷の大敗。これがほぼ同時期に来たというのが、痛すぎましたね……
長生きしていたとしても、主力官僚である諸葛瞻や董厥は私党を立てて争ったり庇いあったり宦官にへつらったりするだけで、呉の使者からも「蜀の臣下は保身ばかり、朝廷に正論はない」とばっさり言われてしまうレベルなので厳しい情勢は変わらなかっただろうと思います…
見方が違うと思いますが、263年の四川での地震が蜀にとって最後のトドメになってしまったのかもしれませんね。
姜維の北伐とトウ中への屯田で魏への押さえになってはいたのに、後ろが名実ガタガタになったことが魏に知れてしまったことで、魏の蜀征伐を引き起こしたのではないか、と思えます。
元号が景耀から炎興に変えたことは、蜀内部にかなり被害があったことを暗示していて、援軍を差し向けられなかったり、諸葛センが守備する城を迷うくらい状況は酷かったのでは、と思います。
それでも鍾会を撤退目前まで防いだ姜維の凄さを歴史は雄弁に語ってますね🥺
天地を喰らう2のファミコン版
グラフィックが好きだったな
男としては目指したい人生ですね
諦めずに常に攻めていく
そうありたいとも思う反面
基盤固めもちゃんとしないと、と思いました
じゃあどうすれば姜維の北伐が成功出来たか?
→桃水の戦いで王経を撃破し魏兵数万を斬り王経を狄道城に押し込んだ時しかチャンスは無い。ここで漢中蜀軍の持てる限りの力を持って急派してきた陳泰を迎撃し狄道を落とし王経を斬っていたら、涼州は落ち隴西も切取り放題、長安は分からないが雍州も蜀に下り、その戦果を持って姜維は蜀漢丞相になっていた。
デビュー戦でいきなり諸葛亮の策の裏をかく、その後に趙雲と一騎打ちで互角に打ち合う。
その少し後にも魏延とも一騎打ちでやり合う。そんな姜維が諸葛亮に請われて蜀に投稿。
恐らくこの時、馬謖の心中は大きな焦りが芽生えた事だろう。結果、街亭で挽回不可のしくじりに・・・
荊州喪失、夷陵の大敗でほぼ終わってた国。段谷の大敗が終わってる国にトドメ刺した
海音寺潮五郎さんのエッセイで、「ある人が、忠臣蔵の大石内蔵助を『ダラ幹(自己の地位を利用して己の利益を計る指導者の事)」と決め付けた論文を発表したが、私はその人と同じ資料を用いて、『大石内蔵助は忠臣だった』と証明する論文を出せる」旨の事を記していたのを思い出しました。姜維も「斜陽の蜀を支えた英雄」とも「蜀の国力を食い散らかしたタカ派軍人」とも立証は可能かと……………
後の世蜀と呉を合わせた国が結局は北の勢力に飲まれる最期がありますから
蜀と呉が連携してもダメと言うのが歴史の必定
中華文明の歴史でも南から北伐で王朝造れたのが
朱元璋の明王朝と
近代中華民国だと
蒋介石の国民革命軍しか成功してないのがな。
荊州を失った時点で蜀漢は詰みかと思います・・・(皆さん思っていると思いますが)それが分かっていたから劉備が関羽の弔い合戦と言って全軍で早期奪取を試み夷陵で激突し敗戦し勇将など歴戦討ち死にし瀕死の重傷・・・その後は孔明も蜀漢の延命に必死だったとしか思えない様に私は感じます。魏延の長安強襲も面白い案かと思いますが一蹴していますし長安を落としても維持が出来ない(蜀からの物資輸送など物が続かない)と思っているように感じます。(勝負できない国力、負けられない脆弱な国力のため孔明の合戦は堅実的)夷陵、孟達以降は孔明も蒋宛、費イ、姜維も北伐は蜀漢内の自身の政治的な問題で戦っていたように思います。しかし、姜維は孔明、蒋宛、費イに比べ軍人色がかなり強い為、戦いで解決、意義、求心を得ようとしたのかと・・・忠臣なのか傾国の徒なのか・・・蜀漢滅亡に重責にいたとなると両方だと思います。(姜維好きな方スミマセン)
しかし個人的には孔明死後、孤軍奮闘し張翼は最後まで廖化、張嶷など歴戦も従えていたので人物的には当代の英雄だと思います。
私は最後まで足掻く姜維は大変大好きな人物でありました。
魏延が死なず姜維との関係、蜀漢がどのようになったかも気になりますね~(ケンカかな)
呉との関係を修復して、蜀単独ではなく呉にも呼応させるくらいが出来なきゃなぁとは思う。
まぁ姜維が居ても居なくても滅亡の時期が遅かれ早かれプラスマイナス何年かぐらいの差だっただろう
アンケート、ロンメル将軍が名将であることとアフリカ戦線崩壊の原因であることは両立するからね
まさしく(๑´•.̫ • `๑)
がんばったね。(*^-^*)
姜維がいたから諸葛亮の北伐も評価される。
とにかく40年も存続したんだから大したもんだ。
魏の中に乱の要素が無かったのがイタイな。
蜀があったから魏も秩序が乱れなかったのかも。