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単純に本など書かれてることだけでなく、地図や時系列、諸将の性格まで交えた分析、数ある三国志動画の中でもかなり突出してると思う。そのうえ文章もしっかりしてて素晴らしい。動画投稿これからも楽しみにしてます。
コメントありがとうございます。何か気づきなどあればドンドンご指摘をお願い致します。
細かい所までよく分析された素晴らしい考察だと思いました。他の解説動画ではなかなか見受けられない視点が特徴的。ここまでご洞察されるとおそらく頭痛も絶えないことでしょう。どうぞお体をご自愛下さいませ。
演義の趙雲=冷静で優秀な兄貴分、魏延=少し脳筋だけど優秀な弟分的な立ち位置好き。
自分の中の前提として劉備と関羽は任侠の価値を共有する同志で、それに憧れていたのが少年張飛。関羽は塩の産地の傭兵で手勢を持っていた。劉備の意思に賛同しあくまで価値を共有する僚友として共に戦っていくことになる。魏延を知れば知るほど「ミニ関羽&張飛」のような気がしてならない。魏延は手勢を持って劉備陣営に参加。当然その私兵は自らが訓練し育てた兵なので連携は抜群。戦場で大いに活躍したと考える。性格は同僚にも部下にも傲慢という、関羽と張飛の悪い所を併せ持った性格。だが軍事だけでなく行政の手腕もあったので漢中の都督に抜擢。夷陵の戦いにも参加せず漢中を良く治め、北伐までに漢中の地理もよく把握していたからこそ、孔明に対し別案を提示できた。自分は魏延の案はあくまで孔明の戦略を助ける目的で提案したと考える。漢中争奪戦で複数の陽動を同時に繰り出し夏侯淵を討ち取った経験があるので、趙雲だけでなく自分も陽動として使ってくれ、というのが魏延の目的だったのではないか?と考える。当然手勢だけで戦ってみたいという野望はあっただろう。孔明としては趙雲だけでなく魏延まで陽動として使うと本隊の指揮官クラスに不安があったのではないか?また魏延も法正や関羽のように「劉備でなければ扱えない」という人物だったのでは?孔明は行政のトップなので、法を超える評価や判断、抜擢が出来なかった。あくまで残した結果を法の中で評価していた。だからこそ人事に悩んでいたり優柔不断の部分が垣間見えたりする。南蛮鎮圧に功績のあった馬謖を使ったのは当然のように思う。だが君主である劉備はその人を見て法を超えて判断決断できる立場にあった。この差はかなり大きいように思う。
なるほど、なるほど君主という立場と、あくまで家臣の首班にすぎない立場の違いと言うことですね確かにそういう差はあったと思いますね~言うこと聞かない人間に対して「お前は俺に逆らうのか?」と言えるかどうかは大きな違いですものね~
魏延を漢中に置いたのは劉備の人を見る目の抜擢の他に張飛を手元に置きたかったのもありそうですね
あるかも知れませんね!
@@装甲猫 お返事ありがとうございます張飛をあえて最前線に置かないで後方に置くことにより遊撃隊にしたり場合によっては別働隊や荊州への援軍とかにしようとしてたかもしれないですしねp.sいずれでいいので呉の武将も取り上げてほしいなと思ってます魏蜀や群雄に比べると呉将を取り上げることが少ないので、機会があったら呉の武将も見たいです
呉の武将も良いんですけどね~呂蒙の凄く嫌な奴な話とか、面白い話も多いですしただ、呉書は間違いか意図的か、魏・蜀・後漢と記録が食い違うので整合させるのが大変なんですよ~
スリキンの魏延かっこよすぎて好き
優秀な人材が少なくなっていたこの頃の蜀にとって痛かったですね孔明とそりが合わなかっただけで、まだまだ使える武将だったし孔明も魏延の武勇は認めていましたから
痛かったですね。だからこそ諸葛亮も魏延が大人の分別を身につけてくれるように願っていたと思います
その残念さを緩和させる為に演義では「反骨の相」とかのエピソードが強調されたのかもしれませんね。
魏延の解説ありがとうございました!これは私のただの想像なのですが、魏延の生年は不明なのでわからないのですが、仮に蜀平定戦時が30歳とした場合、五丈原は50歳を超えていたと思います。もし、おとなしく退却すれば次の北伐では生きていない可能性もあるので、自暴自棄になったんじゃないかなと思いました。まあ、20代の若者達(姜維とか)には気持ちが通じるはずもないのですがね。
ああ、なるほど。魏延の年齢については考察してませんでした!参考になります!
@@装甲猫 早い返信ありがとうございます。昔、ニコニコ動画で「【HR】─誰敢殺我─ 『魏延の最期』」という動画を見てましてこういう想像もあってもいいのではないかと思ってました。
紫電Pのですね。知ってますよ。ちょっと魏延を贔屓し過ぎかな?とは思いましたけど。
いい動画
ありがとうございます!
他の人の魏延動画を見た直後に見たのですが深い考察に感心させられましたこれだけの内容にするには苦労なされたと思いますお疲れ様でした
ありがとうございます。次は馬謖の解説があがりますので、良かったら見てって下さい。
正史の魏延を取り上げてくれて嬉しい。そう決して彼は蜀に対して謀反を起こしたわけではない。とはいえ最期はやはり将としては弁護しようがない。が一人の人間としては我慢ならない所は理解できなくもない。魏延、字を文長。名前が凄く好きなんだよね。カッコいい。ただ、蜀も孔明臨終の際、軍の中心に魏延と楊儀を配置せざる得ない人材難は深刻ですよね。ほんとか嘘か孫権の二人に対する評価は演義の脚色なしにどうしても覆せない重みがあるんですよね。実際そうなったし。
コメントありがとうございます。本当に惜しい人材なんですよね!孫子に限らず兵法書の一致するところでは、戦いのおいて最も必要なのは軍を団結させる「和」であるとされているので、魏延がもう少し和を重んじられる性格だったなら色々と変わったろうと思います。
圧倒的な武勇と武略を持ちながら、プライドの高さで滅ぶところは関羽にそっくりな気がします。魏延の死を聞いた劉禅が泣いたところに彼の功罪の真実が隠されているのではないかと思います。
京劇なんかでも魏延は関羽に似た特徴を持たされるそうですね劉禅の涙については無粋になるのでノーコメント(笑
@@装甲猫 劉禅については、母国が恋しくないのか?って問いにここの生活の方が居心地が良い!と笑顔で答えたところに真価があると思います。
@@elbeti8100さん劉禅は別に暗君では無いんですよね乱世の英雄としては全く向いてなかっただけで
孔明しか魏延をおさえる人がいなかったのが残念ですね、個人的には魏延は好きですがもし生きていたなら後に人材不足の弱小軍のしよくでは魏に勝てなかったのは当然だったかも、おまけに馬超もしょくに入ってからはもなにもできなかったし、ばたいは少数の魏延を切っただけの話で情けない一族だよな。ようぎやしようえん、ひい皆かなり酷い性格な奴らにかかっては殺されるわな単純の魏延では。
@@川村信二-n5t 馬超のピークは対曹操戦だと思いますし、関中、蜀攻略時のネームバリューの大きさ、羌族との橋渡しの窓口役等に貢献しているので、しょぼい一族は言い過ぎだと思います。何かしらの理由をつけて、魏延と張飛の配置替えを行っていれば、短期的には手駒は減らさずに済んだかもしれませんね。張飛が存命なら、魏延にとっては孔明に次ぐ、しかも軍事面での重石になったでしょう。
すげぇ勿体無かった武将・・・流石にこの時の諸葛亮には、殺意覚えたw
うおおおおおおおおお魏延!!俺の好きな蜀将第三位のメッチャ好きな奴来たコレ!留賛リクエスト済みですか他にも笮融、郭図リクエストします!笮融も誰もやってないし興味深い人物ですし郭図は資料的に厳しいかな?ネタ武将筆頭角の1人ですしね。動画投稿再開嬉しいです。自分も干宝の捜神記を中心にや平和や演義までの過程の考察等を大学の論文にもしているので今後私も猫さんに憧れて演義成立までの過程やそれまでに削除改変された後代の人物像の成立の過程やら面白エピソードを中心にあげたいです!個人的に史実ベースだとやっぱり資料の少なさから考察ばかりになるので架空の話でもとんでも面白エピソードとか色々考えてます。動画投稿ありがとうございます!
熱意のあるコメントありがとうございます!搜神記を中心に考察なんてすごいですね~私も史料をいじくり回して、可能な限り妄想から根拠のある推察のレベルになるように努力して動画をあげていきますね!
@@装甲猫 返信ありがとうございます。そうです!捜神記からこのエピソードが唐とか宋時代にはこうなって〜こういう民間伝承で〜とか色々日本の昔話に繋がってんじゃね?みたいなのとか架空の演義とかほぼ架空だろコレwっていうぶっ飛びエピソード系をやろうかなと 笑 張飛が大喝して橋壊れるとか孔明の毛が兵士になるとかそういうファンタジー系ですね 笑笑 個人的に猫さんの動画は他のゆっくり三國志系の方々より面白く分かりやすと思っているので次の投稿も楽しみに待ってます!
政争に敗れたために必要以上に脳筋扱いに貶められた感じがありますね。
コメントありがとうございます或いは演義イメージでの色付けなのかも知れませんね
魏延大好きです。チャンネル登録しました!
大戦略ゲームのように駒を配置して敵の首都を落とせばよいのではなく。官爵・封土・地盤が複雑に連動しているのが封建の戦ということでしょうか。
コメントありがとうございます
どうしても魏延と関羽は重なって見えるんだよね。共に有能で有能なせいで自滅してるし、一人の武官としては間違えてるとは言いきれないけど一つの組織の一員としては間違えてるあたりとか。
朱桓さんが味方であろうと邪魔をする者は早目に排除しないから関羽も魏延も味方に足を引っ張られるのだと仰せですというわけてまた関羽タイプですが良ければ朱桓さんをお願いします
朱桓推しですね(笑
法正が生きていたら、魏延をうまく使えたかもしれませんね。
そうですね。法正なら魏延を死地に置く策だってとれたでしょう
傲慢な性格は李厳に近い感じがしますね、二人とも清廉潔癖な孔明とは合わず李厳は失脚し魏延は孤立の末死去…周りが頭でっかちばかりで話が合わない蜀最後のゴリゴリの武骨系(知略もあるとのことですがあえて)武将の最期…現在でも職場の異動(現場→営業等)や転勤(都会育ちが地方に飛ばされる逆も然り)で話が合わず孤立とあり得る話…せめて魏延を制せる理解者が一人でもいれば違ったかも知れませんね。
諸葛亮は理解者だったかはともかく、魏延を評価してくれた最後の大物だったんでしょうねまあ胡三省曰く魏延が諸葛亮の後を継いだら国が滅びるわ!って事ですが(笑
魏延を理解できる人間より魏延をコントロールできる人間の方が必要。つまり、劉備や曹操のように戦場に自ら出て君主の立場で実戦部隊に命令できる人間が魏延を扱える。彼を総大将にしてしまうと、そこから軍閥の始まりになってしまう。名士たちの集まる荊州より軍人武人のぶつかり合う袁紹や公孫瓚らのもとで暴れまわっていた方が彼にとっては幸せだったであろう
貴方の文意とは異なりますが、馬岱という魏延を制する人物がいたのが救いだったのかもしれませんね。勿論、間に入って調整可能な人物がいれば…との思いは全く同感です。
そう言えば記憶が不確かなので真贋は言えませんが、蒋琬が後々、魏延の名誉を回復させるためか漢中?で彼を祀ったことがあるようですね。蒋琬はどちらかと言えば北伐推進派だったので、何か思うとこがあったのかも。それと諸葛亮が別軍を許さなかったのは、魏延の指揮能力をあてにしていたから、と言うのもあったかもですね。
蒋琬が魏延を~という話しはたまに聞くのですが、どなたも出典をご存知ない、都市伝説みたいなものですね~私もそれなりに史書関連は読んだつもりですが見たことないです創作話なら知ってるんですけどね(汗実はカットした中に諸葛亮は実戦指揮官として魏延を手元から離したくなかった、という推察を入れてたんです
@@装甲猫 ちょっと気になったのでネットを調べてみたら、漢中市内の石馬坂と言うところに大きな墓がありこれが魏延の墓ではないのか、と言うことらしいですね。ただ蒋琬が作ったものか、本当に魏延の墓なのか、あくまでも学者の推論らしいです。石碑でもあって、延の文字でも入ってれば決定的なのでしょうがw
@@くま爺-t4z ほうほう面白い情報をありがとうございます。三國志演義以前の三國志平話とかが発見されたら更に楽しいんですけどね。花関索伝とかも読んでみたい。石碑については、「延」の記載くらいで、中国の史跡を判断するのは危険です。福岡の志賀島で発見された金印も彫刻法の流行時期等の差異から偽造品説が大きくなっています。
見たいのは法正かなあ…諸葛亮に先んじて過労死したような奴だけど、性格には色々難があったらしいからねえ・・。なんだかんだで、魏延・張飛・関羽の扱い方とかも見ても、劉備の人を見る目と用い方はかなりのもんだよなあ…。
コメントありがとうございます。劉備は間違いなく一代の英傑で、百戦錬磨の人物眼を持ってたと思います。ただイメージが先行しすぎて、劉備の人材登用の失敗についてはあまり言及されないんですよね~例えば馮習、張南も劉備が用いた人材なんですけどね(笑
@@装甲猫 フウシュウ、張南は確かに…。しかも、フウシュウなんて張飛の仇を取れなかった原因みたいなもんですからねえ…。
@@kissom.4546 さん、多くは成功してますが、劉備も常に正しい選択が出来てるわけじゃない、という事ですね。劉備が評価した=凄い、とは限らないというだけで。
魏延大好きなんだよな〜
私も好きですよ〜というか嫌いだったらこんな動画つくりませんけど(笑
結果的に負けたわけでもないのに孔明以下トップ三名を失うところがきついなぁ
国政のNo1と武略のNo1と事務手腕No1が揃って喪失そりゃ国も衰えますね
牙門将軍=王平のイメージ(横山感)
名前読んでくださりありがとうございます!
こちらこそリクエストありがとうございます!
失礼します。呼ばれるとテンション上がりますよねw
やっぱり、魏延と孔明の対立って軍部と政治の対立構造そのままなんだよな。 魏延自身が謀反の気持ちがないといわれているけど、一旦魏延が軍部における全権を掌握したら間違いなく蜀は歴史より早く滅ぶ。それは魏延の国政を無視した北伐によって国家は疲弊していくだろうし、仮に政治の方がそれに歯止めをかけるだろうけど、そのときは政治を魏延が武力で脅すだろうし、魏延自身が武装蜂起してクーデターをおこし蜀を過激派の武装国家にして、蜀としては最悪の未来が待っている。226事件以降の武装過激派に支配された大日本帝国と同じ未来が待ってる。 また魏延と孔明の対立構造は姜維と費偉の対立に受け継がれているわけだし。よく言う姜維が孔明の後継者って費偉であって姜維は魏延の後継者となってる。 人は一度権威を持つと人格が変わると言われている。魏延に軍部の全権を握らせるのは最悪の結果を招く。あくまで魏延は存在そのものが危険極まりない兵器であり、孔明が管理していたことによって有用ではあったが、孔明が死んでは孔明もろとも廃棄されなければならなかった。
実際に中国の学者で魏延が諸葛亮の後釜になったら蜀が亡ぶと言ってますね〜
魏を延ばすって名前の癖に蜀にいるの面白い
それは本人のせいじゃないでしょ(笑
魏を延く(招き入れる)という意味では遠因を作って名前どおりというか(´・ω・`)
魏って元々国の名前じゃなくて姓氏だし
魏延の案が的中して関中を確保できれば後年の北周と同等の地域確保が出来蜀の天下統一も夢ではなかった ただ北周ですら相手の北斉のオウンゴール的展開があっての勝利なのであの当時の統治ではやっぱり魏の優位はかわらなかったでしょうね
韓信の時に成功したのは項羽が覇権を奪って僅か半年しか経っていない事。また東方でも内乱状態で劉邦勢力に注力出来ないという点もありますね。北周では韋孝寛やらの戦場に限らない活躍などもあっての勝利なので中々難しいかも知れません。
仮に魏延が撤退に従っても、魏延を抑える人物がいないので楊儀と魏延で混乱を招くことになる。費禕や蔣琬が丞相でも、魏延が実質ナンバー1で北伐を主張しそなので兵站を軽視するので無理な北伐で蜀の滅亡が早くなる可能性もある。北伐から長安攻略かなと難易度が高いようです、他の動画では長安の手前に幾つもの城があり、それを落とさないと長安を責められない。第一次北伐が一番のちゃんすでしたね、孟達の反乱が伸び街亭で負けなければ長安へ行けたかもしれない、司馬懿恐るべし。
演義、正史とも異なる内容が魏略には残されてるんだよね魏略が真だとするならば魏延は名将でしかない
諸葛亮は自身がいなくなったあと、蜀を牛耳って乗っ取れる力があると恐れたから殺したんだと思う魏延に生きてられたら絶対に長安攻め一回は試そうとするだろうし、それを止められる人材はもういなかった魏延が生きてたら姜維も従うしかなかったらだろう一度失敗したら滅亡する程度の兵力で魏延の博打に付き合うのは危険すぎたんだろうね
久しぶりにリクエストしたい人物ができました。その名も「何進」です。
何進とは相変わらず渋いですな〜
演義でも派手にまんじゅうになってたじゃないですか!メジャーですよメジャー()
あれは饅頭でも種類が(笑
長編お疲れ様です。魏延からの目線だと、孔明は『劉備様亡きあと軍に関わりだした政治家、功績は分かるが武人ではない!』『遺託を受けた?羨ましい事だな、俺の任地は最重要地なので放って行けなかった!』と思っていたんでは…なのでその下の楊儀らはもう相手にする価値もない、と驕慢になっていったと。(個人の推測)
驕慢な理由の根源は私も分かりませんが、それが原因で周囲から煙たがられてはいたようですね
魏延と性情が似ているとは思いませんが、私も楊儀の話なんか聴く価値無いね!って思ってたな…
魏延は項羽と同じで、尊敬する誰かの下で働けば全て上手くいったかも知れない諸葛亮が居なくなってトップに立てる可能性がある地位に居たのがマズかった
魏延(;_;)個人的には劉備と五虎猛将軍の意思を継いだ諸葛亮、蒋琬、姜維と並ぶ蜀最高の人物の一人だと思いますね!
諸葛亮と魏延が劉備世代の文武の最期の要でしたね。
魏延はホント演義で割食った人物ですよなー。漢中太守に抜擢されたり、劉備の見る目は確かだったのに……。蜀漢の中軸だったのに、楊儀がry
その楊儀も劉備が引き上げた人材だったり
@@装甲猫 まとめ上げてた主が居なくなると、不仲はどうしようもなくなりますなぁ。つらたん
一兵卒ではなく手勢を率いて指揮する立場からのスタートというのは完全に同意。ただ、豪族という程の家ではないと思う。仕官を望めば歓迎されるほどの家であれば、劉表でもなく新たな支配者の曹操でもなく、劉表に身を寄せていた劉表の同族の根無し草に付いていく理由が弱すぎる。趙雲に替わっての親衛隊長はなるほど諸々うまく説明がつく。劉備が漢中太守に抜擢したがために、成都に居住する諸将との付き合いが薄かったことも最後に災いしたのだろうな。魏延はもろもろ廉頗までは至らなかった、孔明は藺相如とはなれなかった。二人が刎頚の友となっていたら北伐の成功可能性が少しは上がっていたのかもしれない。
コメントありがとうございますそれが不思議と荊州の豪族は結構地位や出身地を捨てて劉備のもとに参じてるんですよね~次の楊儀もそうだし廖化なんかもそうですね~
結局癖の強い猛将で、将に将たる劉邦や劉備だから使いこなせたそれ以外の人物には無理だった改めて劉備のでかさと亡くなった後よく蜀が持ったなぁと諸葛亮とその後継者の苦労が
孔明も最期にギエンに秘密をせずに最初から素直に退却を指示して殿を任せたりすれば案外すんなりと事は運んだんじゃないのかな?全部決まってからギエンに伝えたってのなら、蜀の武将たちも孔明もギエンをないがしろにしすぎだと思う。前線を任されている大将としてギエンもいろいろプランとか考えていたと思うからね。
長安奇襲策が成功するか、否か、という論争は知っていましたが、まさかそもそもそれが荒唐無稽な創作の可能性が高い、とは夢にも思いませんでした!投稿者さんの動画は別の動画コメントでも書きましたが、質が物凄い高いな!といつも驚嘆の一言です!😆もし仮に魏延が一緒に帰国しても、恐らく魏延を制御できる者はいないでしょうから、どのみち悲劇の最後になっていたのだろうかなと。そう思うと、華々しく戦場で散るのが、魏延にとっては1番良かったのかもしれませんね😢
長安奇襲策は軍事評論家でも戦史研究家でもない、私のようなただの素人でも簡単に困難が予想されるほど杜撰な作戦で、そんな作戦を提案した魏延は愚将なのか?でも、魏延は韓信ではなくても軍事的に有能であるのは実績が示している、ではどういう事か?それで「前提を疑え」という思考から、本当に魏延が提案したのか?という点について推察した次第です。状況証拠ばかりですが、一分の理くらいはあるんじゃないかと思います。魏延自身は諸葛亮の後釜を狙ったあたり「功成り名遂げる」たかったのでしょうから、本人の希望とは違うでしょうが、戦場で華々しく散った方が良かったかも知れませんね。ただ諸葛亮は人材を捨駒にする戦術はとりそうにないので、法正が死んだ時点で詰んでいたのかも知れません。
よく調べてまとめ上げたな‼️
ありがとうございます。
33:33やっぱり戦いでは強いなあ。諸葛亮が性格に目をつむって使いたくなるのはわかる合肥の戦いで張遼、楽進、李典と不仲だったのに、一致団結して呉の大軍を破った魏と蜀、なぜ差がついたのか?慢心、環境の違い
互いに不仲なのは私事で公事には持ち込まない、という公私のケジメをつける人格の成熟の差でしょうか
@@装甲猫 趙儼が調整していたようです
于禁をお願いします。
于禁良いですね~私は于禁をよく使います(無双で)
私も于禁好きです!于って北京語だと魚と同じ発音なんですよね。中国に住んでいた時に私の発音の悪さをからかって、ネタにされていました。
『火と水』の間柄・・・?それだと水の方が明らかに有利なので、この場合『水と油』じゃないですかね(;^ω^)?
ふふふ。『相剋』と言いまして『火と水』というのは古くからある表現なのです。だから三国志の中でその様に表現されているのです。対して水と油というのは割と最近の言葉なんですよ。
牙門将(牙門将軍説あり)といえば趙雲の次男の趙広が任じられてましたね。北伐の折、大将である姜維に随行していたのですがなぜか最前線で戦死しているという謎
『次子(趙)広牙門将随姜維沓中臨陳戦死』『次男の趙広は牙門将となり、姜維に随って沓中に行き陣に臨んで戦い死んだ。』趙広の話というと多分これの事かな?姜維が沓中で戦ったといえば鄧艾に追撃を受けたときで、その際に誰かの牙門将として陣を守って死んだという事で、特に不思議な話でもないですよ~もし他の話であれば、調べてみるので出典を教えて下さいね~
はい、その逸話ですね。「誰かの」というのはやはり大将軍の姜維だったと考えるのが適当なんでしょうかね?
どうでしょうね?将軍が直接率いる兵は5,000弱なので、もし姜維の率いた兵が3万だとしても、6人は牙門将がいる事になります。なので姜維のかも知れませんし違うかも知れません。それは姜維と一緒に沓中に駐屯した将軍の名前が全て明らかになってないのと同じですね。
傲慢が綻びを生んだ結果、感情を処理できず蜀漢を乱す物の怪になってしまった……なんとぉ!
F91(笑
大人しく撤退していればその後も蜀の重鎮として活躍していたと思うと惜しい限り仲の悪かったあの人は自滅するんですから
感情を抑える術を体得してればですね〜和を持って貴しとなす、というのはいつの時代も変わらないですね〜
傲慢であっても、せめて後輩を取り込む度量があれば・・・。某ヤザ○みたいな。魏延を支える姜維、なんて未来もあったかも?
関羽と違うのがそこなんですよね〜せめて目下の者だけでも優しくしてやってたら善く士卒を養成してるあたり人を育てる能力はあったと思うんですけどね〜某ヤ◯ンみたいにキレてる様に見えて実は冷静だったらもっと活躍したでしょう
孔明死後に楊儀と内ゲバした挙句味方の退路を潰し劉禅に上奏。最後は破れて敗走してる所を馬岱に斬られる。むしろ演義の最期の方がマシにみえる
まあ魏延は能力を評価された武将で人格や徳で用いられたわけではないので
扱いの難しい人物。魏延を扱えたのは劉備一人だけだったんじゃないかと思う。劉備は魏延の心を掴んでいた唯一の存在だったんじゃないか。関羽と似たタイプなんだろうねえ。楊儀は蜀にとって必要だったのかちょっと疑問です。
実は楊儀も劉備が抜擢した人材なんですけどね~
@@装甲猫 それは知りませんでした。勉強になります。楊儀みたいな人は現代にも割りと居ますからね。親近感はあります。
反骨の相がある男
牙門将軍って趙広もなってなかったっけ?
趙広はなってないですね〜
@@装甲猫 もしかして牙門将と牙門将軍って違いますか?一応渡邊先生の本に趙広が牙門将に任じられたと書いてあってあと一応wikiにも書いてありました(正史持ってないから参照できない...)
違いますよ。牙門将軍は雑号将軍の一つで、牙門将は将軍直属の「部」を率いる指揮官か「部」レベルの別動隊指揮官を指す称号ですね。一番分かりやすいのは牙門将裨将軍となった王平とかですね。牙門将が牙門将軍と同じなら将軍位を重複してもらった事になるか降格した事になるので(笑適当な解説してる人は十把一絡げで区別せずに説明してるので正史を持たれてない方が勘違いするのは仕方ないんですけどね(汗悪いのはよく知らずに適当な解説する人なので…
牙門将軍といえば王平
惜しい!王平は牙門将の方ですね厳密には裨将軍牙門将(副将兼本営部隊長)です
魏延て柴田勝家ぽくないですか?
戦国武将で例えると勝家より佐久間盛政の方が近いかも
徐しょももったい無かった。蜀に居れば・・・
別に韓信様になることもないです!魏延様は魏延さまの凄さがあったのだから
動画観ていて、いきなり気になったのは、『魏延』ではなく、掛け軸の『猫缶』だにゃー!w(ФωФ)キラリwww
他のバージョンもありますよ~
個人的に魏延に対する解釈が一致してて気持ち悪いくらいです
あ、それは奇遇?でもないですね。多分、自分で正史を読む人の多くは似たような印象をもつんじゃないかなあ?と想像してみたり
@@装甲猫 子午道の時代による変遷とか初耳で興味深かったです。下調べだけでも大変でしょうが、それだけに私は貴方の動画が好きになりました。
@@elbeti8100さん ありがとうございます😊
魏延の朕のイメージ=先帝(劉備)大好きマン&丞相(孔明)あんまり好きじゃないマン
コメントありがとうございますあ~、つまり阿斗様は眼中にない感じで(笑
蜀、即ち益州で、桟道焼き落としたのは、行き過ぎ以上に愚行。嫌いじゃなかったけど残念。この人少しがっかり。怒りで我忘れる人に兵率いさせては、いかん。兵が気の毒。
確かにそうですね兵の立場になって考えると違って見えてきますよね
孔明と劉備は、漢室復興でも魏延は、ただの出世願望上昇志向だったんだろう。だから二人の下でイライラしたと思う
そうなのかも知れませんね
魏が延びて文(帝)が長じるという、徳川家康が好きそうな名前の超名将ですね(*´∇`*)この人が劉琮→曹操の君主リレーをしていたら文聘なんて出る幕もなかったかもしれません(笑)
家康の配下なら難癖つけて粛清されそう(笑
@@装甲猫 荊州からだから三河侍みたいに安月給で大久保彦左衛門みたいになってたかもしれません。(笑)
孔明はガチで易占が出来る人なので、あらゆる作戦の吉凶を占ったのだと思いますよ。因みにナポレオンはジプシー占いを専らしていたそうです。アルプス越えが吉と出たから越えたのだと思いますよ。魏延の提案は魅力的ですが、当時は司馬懿の全貌が見えない不気味さも有ったはずです。司馬懿は名前は把握しているんだろうけど、よくわからない人だったはずです。しかし長安急襲作は凶だったのだと思いますよ。あと孔明は易占でそれぞれの君主の先天運や国運も測っているんだと思います。慎重策で北伐をしたのは劉禅の運が乏しい為、大胆策を取ったら壊滅する可能性大だったのだと思います。それは後年、姜維が示しています。では何故無理な北伐したのか?簡単です。魏を認めたら蜀の存在意義が無くなるからです。全力で魏を倒しに行かなくては大義が成り立たないからです。
易から読み解く三国志新しい視点ですね!
諸葛孔明は北極神界(中国では天帝)では昌佐神と呼ばれています。三国志演技の諸葛孔明はかなり脚色が入ってますが(笑)それでも天界では神も驚く程の知恵、と言われてます。死後は沢山の人達を天界から守護して功績を立てさせているみたいです。特に明代に守護に値する人が居たそうです。考えられるのは2人なんですよね。因みに諸葛孔明の5倍天才だった人物は楠木正成だったそうです。三国志の人物は日本の戦国時代に生まれて微妙〜な貸し借りが有って負けた側が今度は勝ってなどして家康が天下を取ったそうですよ。中国の伝承はアテにならないらしく同時代の邪馬台国の伝承の殆どはデタラメみたいです。因みに諸葛孔明は上杉謙信に生まれたそうです。余り書きすぎると炎上しそう(笑)な為、ここまでで。良ければタチバナ出版の強運、大金運はかなり面白いです。
。
張飛殿でなく漢中を任されるまで至ったワシが、なんで孔明君の顔色うかがってるだけのゴマすり無能楊儀なんぞに今後従わなければならんのじゃ!みたいな感じだったのかな
そう考えると、魏延には後方兵站の重要さとそれを維持するに辣腕を振るう楊儀の功績が理解できなかったのかもしれないですね。
単純に本など書かれてることだけでなく、地図や時系列、諸将の性格まで交えた分析、数ある三国志動画の中でもかなり突出してると思う。そのうえ文章もしっかりしてて素晴らしい。動画投稿これからも楽しみにしてます。
コメントありがとうございます。何か気づきなどあればドンドンご指摘をお願い致します。
細かい所までよく分析された素晴らしい考察だと思いました。
他の解説動画ではなかなか見受けられない視点が特徴的。
ここまでご洞察されるとおそらく頭痛も絶えないことでしょう。
どうぞお体をご自愛下さいませ。
演義の趙雲=冷静で優秀な兄貴分、魏延=少し脳筋だけど優秀な弟分的な立ち位置好き。
自分の中の前提として劉備と関羽は任侠の価値を共有する同志で、それに憧れていたのが少年張飛。関羽は塩の産地の傭兵で手勢を持っていた。劉備の意思に賛同しあくまで価値を共有する僚友として共に戦っていくことになる。
魏延を知れば知るほど「ミニ関羽&張飛」のような気がしてならない。魏延は手勢を持って劉備陣営に参加。当然その私兵は自らが訓練し育てた兵なので連携は抜群。戦場で大いに活躍したと考える。性格は同僚にも部下にも傲慢という、関羽と張飛の悪い所を併せ持った性格。だが軍事だけでなく行政の手腕もあったので漢中の都督に抜擢。夷陵の戦いにも参加せず漢中を良く治め、北伐までに漢中の地理もよく把握していたからこそ、孔明に対し別案を提示できた。自分は魏延の案はあくまで孔明の戦略を助ける目的で提案したと考える。漢中争奪戦で複数の陽動を同時に繰り出し夏侯淵を討ち取った経験があるので、趙雲だけでなく自分も陽動として使ってくれ、というのが魏延の目的だったのではないか?と考える。当然手勢だけで戦ってみたいという野望はあっただろう。孔明としては趙雲だけでなく魏延まで陽動として使うと本隊の指揮官クラスに不安があったのではないか?また魏延も法正や関羽のように「劉備でなければ扱えない」という人物だったのでは?
孔明は行政のトップなので、法を超える評価や判断、抜擢が出来なかった。あくまで残した結果を法の中で評価していた。だからこそ人事に悩んでいたり優柔不断の部分が垣間見えたりする。南蛮鎮圧に功績のあった馬謖を使ったのは当然のように思う。だが君主である劉備はその人を見て法を超えて判断決断できる立場にあった。この差はかなり大きいように思う。
なるほど、なるほど君主という立場と、あくまで家臣の首班にすぎない立場の違いと言うことですね
確かにそういう差はあったと思いますね~
言うこと聞かない人間に対して「お前は俺に逆らうのか?」と言えるかどうかは大きな違いですものね~
魏延を漢中に置いたのは
劉備の人を見る目の抜擢の他に
張飛を手元に置きたかったのもありそうですね
あるかも知れませんね!
@@装甲猫 お返事ありがとうございます
張飛をあえて最前線に置かないで後方に置くことにより遊撃隊にしたり
場合によっては別働隊や荊州への援軍とかにしようとしてたかもしれないですしね
p.s
いずれでいいので呉の武将も取り上げてほしいなと思ってます
魏蜀や群雄に比べると呉将を取り上げることが少ないので、機会があったら呉の武将も見たいです
呉の武将も良いんですけどね~呂蒙の凄く嫌な奴な話とか、面白い話も多いですし
ただ、呉書は間違いか意図的か、魏・蜀・後漢と記録が食い違うので整合させるのが大変なんですよ~
スリキンの魏延かっこよすぎて好き
優秀な人材が少なくなっていたこの頃の蜀にとって痛かったですね
孔明とそりが合わなかっただけで、まだまだ使える武将だったし孔明も魏延の武勇は認めていましたから
痛かったですね。
だからこそ諸葛亮も魏延が大人の分別を身につけてくれるように願っていたと思います
その残念さを緩和させる為に演義では「反骨の相」とかのエピソードが強調されたのかもしれませんね。
魏延の解説ありがとうございました!これは私のただの想像なのですが、魏延の生年は不明なのでわからないのですが、
仮に蜀平定戦時が30歳とした場合、五丈原は50歳を超えていたと思います。もし、おとなしく退却すれば次の北伐では
生きていない可能性もあるので、自暴自棄になったんじゃないかなと思いました。
まあ、20代の若者達(姜維とか)には気持ちが通じるはずもないのですがね。
ああ、なるほど。
魏延の年齢については考察してませんでした!参考になります!
@@装甲猫 早い返信ありがとうございます。昔、ニコニコ動画で「【HR】─誰敢殺我─ 『魏延の最期』」という動画を見てまして
こういう想像もあってもいいのではないかと思ってました。
紫電Pのですね。知ってますよ。ちょっと魏延を贔屓し過ぎかな?とは思いましたけど。
いい動画
ありがとうございます!
他の人の魏延動画を見た直後に見たのですが深い考察に感心させられました
これだけの内容にするには苦労なされたと思います
お疲れ様でした
ありがとうございます。次は馬謖の解説があがりますので、良かったら見てって下さい。
正史の魏延を取り上げてくれて嬉しい。そう決して彼は蜀に対して謀反を起こしたわけではない。とはいえ最期はやはり将としては弁護しようがない。が一人の人間としては我慢ならない所は
理解できなくもない。魏延、字を文長。名前が凄く好きなんだよね。カッコいい。
ただ、蜀も孔明臨終の際、軍の中心に魏延と楊儀を配置せざる得ない人材難は深刻ですよね。ほんとか嘘か孫権の二人に対する評価は演義の脚色なしにどうしても覆せない重みがあるんですよね。実際そうなったし。
コメントありがとうございます。
本当に惜しい人材なんですよね!
孫子に限らず兵法書の一致するところでは、戦いのおいて最も必要なのは軍を団結させる「和」であるとされているので、魏延がもう少し和を重んじられる性格だったなら色々と変わったろうと思います。
圧倒的な武勇と武略を持ちながら、プライドの高さで滅ぶところは関羽にそっくりな気がします。
魏延の死を聞いた劉禅が泣いたところに彼の功罪の真実が隠されているのではないかと思います。
京劇なんかでも魏延は関羽に似た特徴を持たされるそうですね
劉禅の涙については無粋になるのでノーコメント(笑
@@装甲猫 劉禅については、母国が恋しくないのか?って問いにここの生活の方が居心地が良い!と笑顔で答えたところに真価があると思います。
@@elbeti8100さん
劉禅は別に暗君では無いんですよね
乱世の英雄としては全く向いてなかっただけで
孔明しか魏延をおさえる人がいなかったのが残念ですね、個人的には魏延は好きですがもし生きていたなら後に人材不足の弱小軍のしよくでは魏に勝てなかったのは当然だったかも、おまけに馬超もしょくに入ってからはもなにもできなかったし、ばたいは少数の魏延を切っただけの話で情けない一族だよな。ようぎやしようえん、ひい皆かなり酷い性格な奴らにかかっては殺されるわな単純の魏延では。
@@川村信二-n5t 馬超のピークは対曹操戦だと思いますし、関中、蜀攻略時のネームバリューの大きさ、羌族との橋渡しの窓口役等に貢献しているので、しょぼい一族は言い過ぎだと思います。
何かしらの理由をつけて、魏延と張飛の配置替えを行っていれば、短期的には手駒は減らさずに済んだかもしれませんね。
張飛が存命なら、魏延にとっては孔明に次ぐ、しかも軍事面での重石になったでしょう。
すげぇ勿体無かった武将・・・
流石にこの時の諸葛亮には、殺意覚えたw
うおおおおおおおおお魏延!!俺の好きな蜀将第三位のメッチャ好きな奴来たコレ!留賛リクエスト済みですか他にも笮融、郭図リクエストします!笮融も誰もやってないし興味深い人物ですし郭図は資料的に厳しいかな?ネタ武将筆頭角の1人ですしね。動画投稿再開嬉しいです。自分も干宝の捜神記を中心にや平和や演義までの過程の考察等を大学の論文にもしているので今後私も猫さんに憧れて演義成立までの過程やそれまでに削除改変された後代の人物像の成立の過程やら面白エピソードを中心にあげたいです!個人的に史実ベースだとやっぱり資料の少なさから考察ばかりになるので架空の話でもとんでも面白エピソードとか色々考えてます。動画投稿ありがとうございます!
熱意のあるコメントありがとうございます!
搜神記を中心に考察なんてすごいですね~
私も史料をいじくり回して、可能な限り妄想から根拠のある推察のレベルになるように努力して動画をあげていきますね!
@@装甲猫 返信ありがとうございます。そうです!捜神記からこのエピソードが唐とか宋時代にはこうなって〜こういう民間伝承で〜とか色々日本の昔話に繋がってんじゃね?みたいなのとか架空の演義とかほぼ架空だろコレwっていうぶっ飛びエピソード系をやろうかなと 笑 張飛が大喝して橋壊れるとか孔明の毛が兵士になるとかそういうファンタジー系ですね 笑笑 個人的に猫さんの動画は他のゆっくり三國志系の方々より面白く分かりやすと思っているので次の投稿も楽しみに待ってます!
政争に敗れたために必要以上に脳筋扱いに貶められた感じがありますね。
コメントありがとうございます
或いは演義イメージでの色付けなのかも知れませんね
魏延大好きです。チャンネル登録しました!
ありがとうございます!
大戦略ゲームのように駒を配置して敵の首都を落とせばよいのではなく。
官爵・封土・地盤が複雑に連動しているのが封建の戦ということでしょうか。
コメントありがとうございます
どうしても魏延と関羽は重なって見えるんだよね。
共に有能で有能なせいで自滅してるし、一人の武官としては間違えてるとは言いきれないけど一つの組織の一員としては間違えてるあたりとか。
朱桓さんが味方であろうと邪魔をする者は早目に排除しないから関羽も魏延も味方に足を引っ張られるのだと仰せです
というわけてまた関羽タイプですが良ければ朱桓さんをお願いします
朱桓推しですね(笑
法正が生きていたら、魏延をうまく使えたかもしれませんね。
そうですね。法正なら魏延を死地に置く策だってとれたでしょう
傲慢な性格は李厳に近い感じがしますね、二人とも清廉潔癖な孔明とは合わず李厳は失脚し魏延は孤立の末死去…
周りが頭でっかちばかりで話が合わない蜀最後のゴリゴリの武骨系(知略もあるとのことですがあえて)武将の最期…現在でも職場の異動(現場→営業等)や転勤(都会育ちが地方に飛ばされる逆も然り)で話が合わず孤立とあり得る話…せめて魏延を制せる理解者が一人でもいれば違ったかも知れませんね。
諸葛亮は理解者だったかはともかく、魏延を評価してくれた最後の大物だったんでしょうね
まあ胡三省曰く魏延が諸葛亮の後を継いだら国が滅びるわ!って事ですが(笑
魏延を理解できる人間より魏延をコントロールできる人間の方が必要。つまり、劉備や曹操のように戦場に自ら出て君主の立場で実戦部隊に命令できる人間が魏延を扱える。彼を総大将にしてしまうと、そこから軍閥の始まりになってしまう。名士たちの集まる荊州より軍人武人のぶつかり合う袁紹や公孫瓚らのもとで暴れまわっていた方が彼にとっては幸せだったであろう
貴方の文意とは異なりますが、馬岱という魏延を制する人物がいたのが救いだったのかもしれませんね。
勿論、間に入って調整可能な人物がいれば…との思いは全く同感です。
そう言えば記憶が不確かなので真贋は言えませんが、蒋琬が後々、魏延の名誉を回復させるためか
漢中?で彼を祀ったことがあるようですね。蒋琬はどちらかと言えば北伐推進派だったので、何か思うとこがあったのかも。
それと諸葛亮が別軍を許さなかったのは、魏延の指揮能力をあてにしていたから、と言うのもあったかもですね。
蒋琬が魏延を~という話しはたまに聞くのですが、どなたも出典をご存知ない、都市伝説みたいなものですね~
私もそれなりに史書関連は読んだつもりですが見たことないです
創作話なら知ってるんですけどね(汗
実はカットした中に諸葛亮は実戦指揮官として魏延を手元から離したくなかった、という推察を入れてたんです
@@装甲猫
ちょっと気になったのでネットを調べてみたら、漢中市内の石馬坂と言うところに大きな墓があり
これが魏延の墓ではないのか、と言うことらしいですね。ただ蒋琬が作ったものか、本当に魏延の墓なのか、
あくまでも学者の推論らしいです。石碑でもあって、延の文字でも入ってれば決定的なのでしょうがw
@@くま爺-t4z ほうほう面白い情報をありがとうございます。
三國志演義以前の三國志平話とかが発見されたら更に楽しいんですけどね。花関索伝とかも読んでみたい。
石碑については、「延」の記載くらいで、中国の史跡を判断するのは危険です。
福岡の志賀島で発見された金印も彫刻法の流行時期等の差異から偽造品説が大きくなっています。
見たいのは法正かなあ…諸葛亮に先んじて過労死したような奴だけど、性格には色々難があったらしいからねえ・・。
なんだかんだで、魏延・張飛・関羽の扱い方とかも見ても、劉備の人を見る目と用い方はかなりのもんだよなあ…。
コメントありがとうございます。
劉備は間違いなく一代の英傑で、百戦錬磨の人物眼を持ってたと思います。
ただイメージが先行しすぎて、劉備の人材登用の失敗についてはあまり言及されないんですよね~
例えば馮習、張南も劉備が用いた人材なんですけどね(笑
@@装甲猫 フウシュウ、張南は確かに…。しかも、フウシュウなんて張飛の仇を取れなかった原因みたいなもんですからねえ…。
@@kissom.4546 さん、多くは成功してますが、劉備も常に正しい選択が出来てるわけじゃない、という事ですね。
劉備が評価した=凄い、とは限らないというだけで。
魏延大好きなんだよな〜
私も好きですよ〜
というか嫌いだったらこんな動画つくりませんけど(笑
結果的に負けたわけでもないのに孔明以下トップ三名を失うところがきついなぁ
国政のNo1と武略のNo1と事務手腕No1が揃って喪失
そりゃ国も衰えますね
牙門将軍=王平のイメージ(横山感)
名前読んでくださりありがとうございます!
こちらこそリクエストありがとうございます!
失礼します。
呼ばれるとテンション上がりますよねw
やっぱり、魏延と孔明の対立って軍部と政治の対立構造そのままなんだよな。
魏延自身が謀反の気持ちがないといわれているけど、一旦魏延が軍部における全権を掌握したら間違いなく蜀は歴史より早く滅ぶ。それは魏延の国政を無視した北伐によって国家は疲弊していくだろうし、仮に政治の方がそれに歯止めをかけるだろうけど、そのときは政治を魏延が武力で脅すだろうし、魏延自身が武装蜂起してクーデターをおこし蜀を過激派の武装国家にして、蜀としては最悪の未来が待っている。226事件以降の武装過激派に支配された大日本帝国と同じ未来が待ってる。
また魏延と孔明の対立構造は姜維と費偉の対立に受け継がれているわけだし。よく言う姜維が孔明の後継者って費偉であって姜維は魏延の後継者となってる。
人は一度権威を持つと人格が変わると言われている。魏延に軍部の全権を握らせるのは最悪の結果を招く。あくまで魏延は存在そのものが危険極まりない兵器であり、孔明が管理していたことによって有用ではあったが、孔明が死んでは孔明もろとも廃棄されなければならなかった。
実際に中国の学者で魏延が諸葛亮の後釜になったら蜀が亡ぶと言ってますね〜
魏を延ばすって名前の癖に蜀にいるの面白い
それは本人のせいじゃないでしょ(笑
魏を延く(招き入れる)
という意味では
遠因を作って名前どおりというか(´・ω・`)
魏って元々国の名前じゃなくて姓氏だし
魏延の案が的中して関中を確保できれば後年の北周と同等の地域確保が出来
蜀の天下統一も夢ではなかった ただ北周ですら相手の北斉のオウンゴール的展開があっての勝利なので
あの当時の統治ではやっぱり魏の優位はかわらなかったでしょうね
韓信の時に成功したのは項羽が覇権を奪って僅か半年しか経っていない事。
また東方でも内乱状態で劉邦勢力に注力出来ないという点もありますね。
北周では韋孝寛やらの戦場に限らない活躍などもあっての勝利なので中々難しいかも知れません。
仮に魏延が撤退に従っても、魏延を抑える人物がいないので楊儀と魏延で混乱を招くことになる。費禕や蔣琬が丞相でも、魏延が実質ナンバー1で北伐を主張しそなので兵站を軽視するので無理な北伐で蜀の滅亡が早くなる可能性もある。北伐から長安攻略かなと難易度が高いようです、他の動画では長安の手前に幾つもの城があり、それを落とさないと長安を責められない。第一次北伐が一番のちゃんすでしたね、孟達の反乱が伸び街亭で負けなければ長安へ行けたかもしれない、司馬懿恐るべし。
演義、正史とも
異なる内容が魏略には残されてるんだよね
魏略が真だとするならば
魏延は名将でしかない
諸葛亮は自身がいなくなったあと、蜀を牛耳って乗っ取れる力があると恐れたから殺したんだと思う
魏延に生きてられたら絶対に長安攻め一回は試そうとするだろうし、それを止められる人材はもういなかった
魏延が生きてたら姜維も従うしかなかったらだろう
一度失敗したら滅亡する程度の兵力で魏延の博打に付き合うのは危険すぎたんだろうね
久しぶりにリクエストしたい人物ができました。
その名も「何進」です。
何進とは相変わらず渋いですな〜
演義でも派手にまんじゅうになってたじゃないですか!
メジャーですよメジャー()
あれは饅頭でも種類が(笑
長編お疲れ様です。
魏延からの目線だと、孔明は『劉備様亡きあと軍に関わりだした政治家、功績は分かるが武人ではない!』
『遺託を受けた?羨ましい事だな、俺の任地は最重要地なので放って行けなかった!』
と思っていたんでは…
なのでその下の楊儀らはもう相手にする価値もない、と驕慢になっていったと。(個人の推測)
驕慢な理由の根源は私も分かりませんが、それが原因で周囲から煙たがられてはいたようですね
魏延と性情が似ているとは思いませんが、私も楊儀の話なんか聴く価値無いね!って思ってたな…
魏延は項羽と同じで、尊敬する誰かの下で働けば全て上手くいったかも知れない
諸葛亮が居なくなってトップに立てる可能性がある地位に居たのがマズかった
魏延(;_;)
個人的には劉備と五虎猛将軍の意思を継いだ諸葛亮、蒋琬、姜維と並ぶ蜀最高の人物の一人だと思いますね!
諸葛亮と魏延が劉備世代の文武の最期の要でしたね。
魏延はホント演義で割食った人物ですよなー。漢中太守に抜擢されたり、劉備の見る目は確かだったのに……。蜀漢の中軸だったのに、楊儀がry
その楊儀も劉備が引き上げた人材だったり
@@装甲猫 まとめ上げてた主が居なくなると、不仲はどうしようもなくなりますなぁ。つらたん
一兵卒ではなく手勢を率いて指揮する立場からのスタートというのは完全に同意。
ただ、豪族という程の家ではないと思う。
仕官を望めば歓迎されるほどの家であれば、劉表でもなく新たな支配者の曹操でもなく、劉表に身を寄せていた劉表の同族の根無し草に付いていく理由が弱すぎる。
趙雲に替わっての親衛隊長はなるほど諸々うまく説明がつく。
劉備が漢中太守に抜擢したがために、成都に居住する諸将との付き合いが薄かったことも最後に災いしたのだろうな。
魏延はもろもろ廉頗までは至らなかった、孔明は藺相如とはなれなかった。
二人が刎頚の友となっていたら北伐の成功可能性が少しは上がっていたのかもしれない。
コメントありがとうございます
それが不思議と荊州の豪族は結構地位や出身地を捨てて劉備のもとに参じてるんですよね~
次の楊儀もそうだし廖化なんかもそうですね~
結局癖の強い猛将で、将に将たる劉邦や劉備だから使いこなせた
それ以外の人物には無理だった
改めて劉備のでかさと亡くなった後よく蜀が持ったなぁと
諸葛亮とその後継者の苦労が
孔明も最期にギエンに秘密をせずに最初から素直に退却を指示して殿を任せたりすれば案外すんなりと事は運んだんじゃないのかな?
全部決まってからギエンに伝えたってのなら、蜀の武将たちも孔明もギエンをないがしろにしすぎだと思う。前線を任されている大将としてギエンもいろいろプランとか考えていたと思うからね。
長安奇襲策が成功するか、否か、という論争は知っていましたが、まさかそもそもそれが荒唐無稽な創作の可能性が高い、とは夢にも思いませんでした!
投稿者さんの動画は別の動画コメントでも書きましたが、質が物凄い高いな!といつも驚嘆の一言です!😆
もし仮に魏延が一緒に帰国しても、恐らく魏延を制御できる者はいないでしょうから、どのみち悲劇の最後になっていたのだろうかなと。
そう思うと、華々しく戦場で散るのが、魏延にとっては1番良かったのかもしれませんね😢
長安奇襲策は軍事評論家でも戦史研究家でもない、私のようなただの素人でも簡単に困難が予想されるほど杜撰な作戦で、そんな作戦を提案した魏延は愚将なのか?でも、魏延は韓信ではなくても軍事的に有能であるのは実績が示している、ではどういう事か?
それで「前提を疑え」という思考から、本当に魏延が提案したのか?という点について推察した次第です。
状況証拠ばかりですが、一分の理くらいはあるんじゃないかと思います。
魏延自身は諸葛亮の後釜を狙ったあたり「功成り名遂げる」たかったのでしょうから、本人の希望とは違うでしょうが、戦場で華々しく散った方が良かったかも知れませんね。
ただ諸葛亮は人材を捨駒にする戦術はとりそうにないので、法正が死んだ時点で詰んでいたのかも知れません。
よく調べてまとめ上げたな‼️
ありがとうございます。
33:33
やっぱり戦いでは強いなあ。諸葛亮が性格に目をつむって使いたくなるのはわかる
合肥の戦いで張遼、楽進、李典と不仲だったのに、一致団結して呉の大軍を破った魏と蜀、なぜ差がついたのか?慢心、環境の違い
互いに不仲なのは私事で公事には持ち込まない、という公私のケジメをつける人格の成熟の差でしょうか
@@装甲猫 趙儼が調整していたようです
于禁をお願いします。
于禁良いですね~私は于禁をよく使います(無双で)
私も于禁好きです!
于って北京語だと魚と同じ発音なんですよね。
中国に住んでいた時に私の発音の悪さをからかって、ネタにされていました。
『火と水』の間柄・・・?それだと水の方が明らかに有利なので、この場合『水と油』じゃないですかね(;^ω^)?
ふふふ。『相剋』と言いまして『火と水』というのは古くからある表現なのです。
だから三国志の中でその様に表現されているのです。
対して水と油というのは割と最近の言葉なんですよ。
牙門将(牙門将軍説あり)といえば趙雲の次男の趙広が任じられてましたね。
北伐の折、大将である姜維に随行していたのですがなぜか最前線で戦死しているという謎
『次子(趙)広牙門将随姜維沓中臨陳戦死』
『次男の趙広は牙門将となり、姜維に随って沓中に行き陣に臨んで戦い死んだ。』
趙広の話というと多分これの事かな?
姜維が沓中で戦ったといえば鄧艾に追撃を受けたときで、その際に誰かの牙門将として陣を守って死んだという事で、特に不思議な話でもないですよ~
もし他の話であれば、調べてみるので出典を教えて下さいね~
はい、その逸話ですね。
「誰かの」というのはやはり大将軍の姜維だったと考えるのが適当なんでしょうかね?
どうでしょうね?
将軍が直接率いる兵は5,000弱なので、もし姜維の率いた兵が3万だとしても、6人は牙門将がいる事になります。
なので姜維のかも知れませんし違うかも知れません。
それは姜維と一緒に沓中に駐屯した将軍の名前が全て明らかになってないのと同じですね。
傲慢が綻びを生んだ結果、感情を処理できず蜀漢を乱す物の怪になってしまった……なんとぉ!
F91(笑
大人しく撤退していればその後も蜀の重鎮として活躍していたと思うと惜しい限り
仲の悪かったあの人は自滅するんですから
感情を抑える術を体得してればですね〜
和を持って貴しとなす、というのはいつの時代も変わらないですね〜
傲慢であっても、せめて後輩を取り込む度量があれば・・・。
某ヤザ○みたいな。
魏延を支える姜維、なんて未来もあったかも?
関羽と違うのがそこなんですよね〜
せめて目下の者だけでも優しくしてやってたら
善く士卒を養成してるあたり人を育てる能力はあったと思うんですけどね〜
某ヤ◯ンみたいにキレてる様に見えて実は冷静だったらもっと活躍したでしょう
孔明死後に楊儀と内ゲバした挙句味方の退路を潰し劉禅に上奏。最後は破れて敗走してる所を馬岱に斬られる。
むしろ演義の最期の方がマシにみえる
まあ魏延は能力を評価された武将で人格や徳で用いられたわけではないので
扱いの難しい人物。
魏延を扱えたのは劉備一人だけだったんじゃないかと思う。
劉備は魏延の心を掴んでいた唯一の存在だったんじゃないか。
関羽と似たタイプなんだろうねえ。
楊儀は蜀にとって必要だったのかちょっと疑問です。
実は楊儀も劉備が抜擢した人材なんですけどね~
@@装甲猫
それは知りませんでした。
勉強になります。
楊儀みたいな人は現代にも割りと居ますからね。
親近感はあります。
反骨の相がある男
牙門将軍って趙広もなってなかったっけ?
趙広はなってないですね〜
@@装甲猫 もしかして牙門将と牙門将軍って違いますか?
一応渡邊先生の本に趙広が牙門将に任じられたと書いてあって
あと一応wikiにも書いてありました(正史持ってないから参照できない...)
違いますよ。
牙門将軍は雑号将軍の一つで、牙門将は将軍直属の「部」を率いる指揮官か「部」レベルの別動隊指揮官を指す称号ですね。
一番分かりやすいのは牙門将裨将軍となった王平とかですね。
牙門将が牙門将軍と同じなら将軍位を重複してもらった事になるか降格した事になるので(笑
適当な解説してる人は十把一絡げで区別せずに説明してるので正史を持たれてない方が勘違いするのは仕方ないんですけどね(汗
悪いのはよく知らずに適当な解説する人なので…
牙門将軍といえば王平
惜しい!王平は牙門将の方ですね
厳密には裨将軍牙門将(副将兼本営部隊長)です
魏延て柴田勝家ぽくないですか?
戦国武将で例えると勝家より佐久間盛政の方が近いかも
徐しょももったい無かった。
蜀に居れば・・・
別に韓信様になることもないです!
魏延様は魏延さまの
凄さがあったのだから
動画観ていて、
いきなり気になったのは、
『魏延』ではなく、
掛け軸の『猫缶』だにゃー!w
(ФωФ)キラリwww
他のバージョンもありますよ~
個人的に魏延に対する解釈が一致してて気持ち悪いくらいです
あ、それは奇遇?でもないですね。
多分、自分で正史を読む人の多くは似たような印象をもつんじゃないかなあ?と想像してみたり
@@装甲猫 子午道の時代による変遷とか初耳で興味深かったです。
下調べだけでも大変でしょうが、それだけに私は貴方の動画が好きになりました。
@@elbeti8100さん ありがとうございます😊
魏延の朕のイメージ=先帝(劉備)大好きマン&丞相(孔明)あんまり好きじゃないマン
コメントありがとうございます
あ~、つまり阿斗様は眼中にない感じで(笑
蜀、即ち益州で、桟道焼き落としたのは、行き過ぎ以上に愚行。嫌いじゃなかったけど残念。この人少しがっかり。怒りで我忘れる人に兵率いさせては、いかん。兵が気の毒。
確かにそうですね
兵の立場になって考えると違って見えてきますよね
孔明と劉備は、漢室復興
でも魏延は、ただの出世願望上昇志向だったんだろう。
だから二人の下でイライラしたと思う
そうなのかも知れませんね
魏が延びて文(帝)が長じるという、徳川家康が好きそうな名前の超名将ですね(*´∇`*)
この人が劉琮→曹操の君主リレーをしていたら文聘なんて出る幕もなかったかもしれません(笑)
家康の配下なら難癖つけて粛清されそう(笑
@@装甲猫 荊州からだから三河侍みたいに安月給で大久保彦左衛門みたいになってたかもしれません。(笑)
孔明はガチで易占が出来る人なので、
あらゆる作戦の吉凶を占ったのだと思いますよ。因みにナポレオンはジプシー占いを専らしていたそうです。
アルプス越えが吉と出たから越えたのだと思いますよ。魏延の提案は魅力的ですが、当時は司馬懿の全貌が見えない不気味さも有ったはずです。
司馬懿は名前は把握しているんだろうけど、よくわからない人だったはずです。しかし長安急襲作は凶だったのだと思いますよ。
あと孔明は易占でそれぞれの君主の先天運や国運も測っているんだと思います。慎重策で北伐をしたのは劉禅の運が乏しい為、
大胆策を取ったら壊滅する可能性大だったのだと思います。それは後年、姜維が示しています。
では何故無理な北伐したのか?
簡単です。魏を認めたら蜀の存在意義が無くなるからです。全力で魏を倒しに行かなくては大義が成り立たないからです。
易から読み解く三国志
新しい視点ですね!
諸葛孔明は北極神界(中国では天帝)では
昌佐神と呼ばれています。三国志演技の諸葛孔明はかなり脚色が入ってますが(笑)
それでも天界では神も驚く程の知恵、と言われてます。死後は沢山の人達を天界から守護して功績を立てさせているみたいです。
特に明代に守護に値する人が居たそうです。考えられるのは2人なんですよね。
因みに諸葛孔明の5倍天才だった人物は
楠木正成だったそうです。三国志の人物は日本の戦国時代に生まれて微妙〜な貸し借りが有って負けた側が今度は勝ってなどして家康が天下を取ったそうですよ。
中国の伝承はアテにならないらしく同時代の邪馬台国の伝承の殆どはデタラメみたいです。
因みに諸葛孔明は上杉謙信に生まれたそうです。余り書きすぎると炎上しそう(笑)な為、ここまでで。
良ければタチバナ出版の強運、大金運はかなり面白いです。
。
張飛殿でなく漢中を任されるまで至ったワシが、なんで孔明君の顔色うかがってるだけのゴマすり無能楊儀なんぞに今後従わなければならんのじゃ!
みたいな感じだったのかな
そう考えると、魏延には後方兵站の重要さとそれを維持するに辣腕を振るう楊儀の功績が理解できなかったのかもしれないですね。