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皇子を皇太子にすることはできなかったが定子の名前をポジティブな評判だけを1000年以上残すことができたあたりで、清少納言の試みは大成功といえるな
女性作家の本が当時も評価され、現代まで語り継がれてきたことがすごい。印刷技術もなく、数多の戦があっても、写本に次ぐ写本で現在まで生き残り、定子や中野関白家の優雅な交流を書いて拡散し続けた清少納言や家族の想いの強さを感じられますね。
吹き出しのセリフが絶妙で、心情が身近に感じられます
「誰もが目を奪われていく 君は完璧で究極の中宮様」一条天皇と行成が言ってるのが愛おしいw
定子は頭が良く、綺麗で、明るく優しいかなり高等な女子。根暗でめんどくさそうな彰子とはえらい違いがあるもの。どちらとお話したいか、お友達になりたいかは明白な事実。たしかに素晴らし過ぎる定子とは付き合いづらい、情けない、性格の御人もいるだろうが。
はじめまして。とても詳しくすばらしい解説に感心いたしました。清少納言の生涯について記している本では、「定子サロン出仕時点でバツイチ」「定子崩御後に藤原棟世と再婚した」「枕草子の完成は1009年ごろ」が定説とされていますが、それでは小馬命婦の年齢と合わないという弱点があり、ずっと気になっていました。「出仕時点でバツ2で、小馬命婦は既に生まれていた」という年譜は、まさに目から鱗でした。978年ごろ周防から戻って3年ほどで、最初の結婚をしたことになりますね。私は藤原実方との密かな恋愛エピソードが好きです。定子サロン出仕中に愛を育んでいて、それゆえ実方の陸奥守拝命に驚いたと解釈していましたが、出仕前の交際とする説は斬新です。定子崩御後は実質的隠居状態となり、一条天皇・藤原公任・赤染衛門など限られた人と細々と交流していたと語られていて、それを前提に数々の落魄伝説が作られたという見方が一般的ですが、どうしてどうして、今でいうリモートワーク的なやり方で貴族社会に影響を及ぼしていたということですね。紫式部日記の執筆当時、オンタイムで枕草子の新作章段が内裏に届けられていたとすれば、紫式部が怒りに任せて筆を進めた理由も納得できます。能因本の原型は、清少納言がいよいよ引退するという時に、既に立派に成長なされていた一品宮・脩子内親王に「あなたの母上は、これほどすばらしく麗しいお方だったのですよ。どうかそれを誇りとして、末永くお健やかに。」という思いを込めて献上したもの、と考えています。
枕草子を広めて道長に一矢報いる清少納言は、強かでした。道長はこれに対抗して、紫式部の源氏物語を広めようとしたのでしょう。枕草子は定子の輝かしいことばかりで暗いところを描いていないが、人には光も影もある。枕草子を読んだまひろは人の美しい面だけでなく醜い愚かなところも多面的に描いた物語を書こうと思い立ったのでしょう。一条天皇と定子を桐壺帝と桐壺更衣に投影させて、その光と影を描くところから源氏物語は始まっている様です。
彰子が皇子二人を産んだ後にさえ尚強烈な印象を残していた”枕草子”の影響力、恐るべしですね。行成が国母と記したことでも分かるように、定子の評価は死後の方が高まっていて、”枕草子”がその直接的媒体だったのでしょう。”枕草子”により、事実以上に定子の理想的后象が確立されたように感じられます。彼女の悲劇的最期が、”枕草子”により昇華され、永遠の命を吹き込まれ後世まで伝えられた。ネットもテレビもない時代、娯楽の王者だっただろう読書、それも最近の話題を散りばめた”枕草子”は、一種の週刊誌的な話題性や興味もそそり皆に歓迎され、死者定子の色褪せない姿として永遠に記憶に留められたのでしょう。単なる懐古ではない、アップデートな話題も含み(定子の子敦康親王の行く末)、宮中で取り沙汰されたことは容易に想像されます。現実に生きている彰子を脅かすほどの影響力を、道長は放置できないわけです。それが、紫式部の”源氏物語”執筆へと導く流れに至るわけですね。清少納言が家庭より職場での生きがいを重視したため家庭人としては居心地が悪かっただろうという指摘、今も昔も変わらない女性の生きづらさですね。
メディアによる印象操作を1000年前に健気に実行し続けたのはすげぇことよ
レキショック様清少納言は気骨のある方だったとは小学生時代に読んだ本に書かれていました。当時は清少納言は誰からも交流がなく、ひもじい思いをしながら亡くなったが定説だと記憶しています。しかし清少納言は中々の忠義者ですね。それと定子皇后は余程魅力的な方だったんでしょう。紫式部の方が陰湿といいますか、気位が高かった気がします。今でいえばトラッシュトークです。まだ分かりませんが、ドラマでは対立関係にはならないような気がします。定子皇后と枕草子が源氏物語に影響を与えたことは間違いは無いと思いました。
18:12 すごい度胸!
清少納言、しっかり四納言と交流があったとは凄いな。しかし藤原公任って、詮子にも「こちらの女御はいつ立后なさるのか」とか余計なこと言う人だったけど、清少納言と歌を詠み合う仲になったのね。清少納言は定子が亡くなってから10年以上経っても枕草子を書き続けていたんですね。大人になった脩子内親王のサロンでも、きっと枕草子は置かれていて話題になっていたのでしょうね。
脩子内親王と道長の諍いが見たい。道長は負けっぱなし。一品宮様だからね。左大臣なんか、へっ!でもないから。
一品宮様戸は天皇に無茶苦茶に近い存在だから。正一位上は天皇。敢えていえば、正一位下かな。正二位か従一位の左大臣は身分が下。だかんね。
『枕草子』と言う作品があって初めて、中宮定子や一条天皇の寵愛に纏わる逸話、父親の道隆の、政治面は、大河ドラマ~光る君へ~で描かれた通り、娘の利発さを理解し、女房のフォローも上手い定子に後宮管理を任せ、後宮の後見を楽しむ姿が垣間見られる。 何人にもいる女房たちは自由闊達で、女房が自信を持って発言できる活気あるサロンである逸話、同母兄弟の伊周・隆家や、後の三条天皇の女御原子も出てきます。 まだこの頃、中宮職の長官として出入りしていた中宮の父親の末弟・道長の敵対する前から才能を見抜き、将来性があるなど、彼女が何度も定子に話し、かえって「例の思ひ人(いつものひいきの人)」と笑われたり、そのため女房たちから、「あの人は左大臣様(道長)側の知り合い筋だ」と、遠ざけられたりする事実上のくだりもある貴重な随筆。 もちろん、作品世界の清少納言と、清少納言その人を同一視するのは、危険なこと。紙をいただく逸話は、最終段あとがきにある通りで、逆境にあっても、たぶん父親譲りの性質で、渾身の力を込めて、良いことも、悪いことも満遍なく、彼女の感性を書き綴ったのも事実。なんのために書かれたかは分からないものの、少なくとも、村上朝を代表する才女・女蔵人と同じエピソードが「香炉峰の雪」であり、宮仕えを始めた清少納言にとってよいお手本にしたのも事実。 中宮彰子のほうは、中宮定子が漢学の才で持って、女房の才能を引き出すのに長けたのと異なり、女流歌人・才女が目立つのも事実。
月の輪の候補っていくつもあったんですね。任天堂の近くしか知らなかった。
21:03 紫式部(まひろ)もいつ亡くなったのか分からないんですよね。幾つか説があるけど。
上質なひと時… ♪
まひろが道長派閥に加わったからな。
ドラマはどうかは知らないが、彰子のサロンは呼ばれて参加する公卿はいても自ら参加をしたがる公卿はあまりなく人気はなかった。これは性格だから仕方がない。
逃げ上手な若君北条時行も ❤お願いします
二月つごもり頃にの段における清少納言と公任のエピソードですが、この頃には連歌が流行していたのでしょうか?
定子死後も戦い続けていたのか、と驚く。まあおとなしくフェードアウトするのは彼女のキャラクターに合いませんよね。紫式部は自分たちが貴族たちに酷評されるのは彼らに見る目がないから、と日記に怒りをぶちまけていますが何だかフェミニストみたい。清少納言をはじめとする定子の女房たちと比べられ低い評価をされることはプライドが許さなかったのですね。もっとも和泉式部と清少納言は良好な関係が続いたようですが。
@@かんすいどう 和泉式部もう少し早く生まれてたら定子サロンの方が向いてたと思う。
@@パン大好き-s4i 確かにそうですね!彰子サロンでは異質な感じですが定子サロンならしっくりきそう。
和泉式部の母親は、皇太后昌子内親王に仕えていたので(乳姉妹の可能性が高い)、和泉式部も昌子内親王に仕えていたと思われる。
定子とその子どもたちは何故ここまで蔑ろにされるのか…?後ろ盾がないだけでここまでになる…?道長の策略?
それも大いにあるでしょうが 日本の天皇は権威はあるけど 権力はそこまで強いわけじゃないので外戚の後ろ盾がないと政権運営に行き詰まってしまう当時 圧倒的な権勢を誇っていた道長系統が サポートする気がないならば 天皇になるのは諦めざるを得なかったんです
私には一条天皇と定子の子供達がそれほど蔑ろにされていたとは思えないのですが。脩子内親王は、一品宮 ·准三宮で内親王の中でも超破格待遇です。経済的にも文化的にも存在感がありました后腹の親王、内親王でも三品程度の位の人が多い中でです。敦康親王にしても彰子が男子を産んでいなかったならもっともっと重視されたでしょうが、それでも頼通や彰子との関係は深いし、蔑ろでもないと思うのです。結局のところ定子腹の御三方のお子さんは脩子内親王を除くと早逝の方ですし、そこが一番大きな問題だったと思います。
なぜ一条天皇が定子を忘れようとするのがいかんの?
清少納言
アイドルワロタ
死後も周囲を動かしていく感じがどうも重なります笑
皇子を皇太子にすることはできなかったが定子の名前をポジティブな評判だけを1000年以上残すことができたあたりで、清少納言の試みは大成功といえるな
女性作家の本が当時も評価され、現代まで語り継がれてきたことがすごい。印刷技術もなく、数多の戦があっても、写本に次ぐ写本で現在まで生き残り、定子や中野関白家の優雅な交流を書いて拡散し続けた清少納言や家族の想いの強さを感じられますね。
吹き出しのセリフが絶妙で、心情が身近に感じられます
「誰もが目を奪われていく 君は完璧で究極の中宮様」
一条天皇と行成が言ってるのが愛おしいw
定子は頭が良く、綺麗で、明るく
優しいかなり高等な女子。根暗で
めんどくさそうな彰子とはえらい違いがあるもの。
どちらとお話したいか、お友達になりたいかは明白な事実。たしかに素晴らし過ぎる定子とは付き合いづらい、情けない、性格の御人もいるだろうが。
はじめまして。とても詳しくすばらしい解説に感心いたしました。
清少納言の生涯について記している本では、「定子サロン出仕時点でバツイチ」「定子崩御後に藤原棟世と再婚した」「枕草子の完成は1009年ごろ」が定説とされていますが、それでは小馬命婦の年齢と合わないという弱点があり、ずっと気になっていました。「出仕時点でバツ2で、小馬命婦は既に生まれていた」という年譜は、まさに目から鱗でした。978年ごろ周防から戻って3年ほどで、最初の結婚をしたことになりますね。
私は藤原実方との密かな恋愛エピソードが好きです。定子サロン出仕中に愛を育んでいて、それゆえ実方の陸奥守拝命に驚いたと解釈していましたが、出仕前の交際とする説は斬新です。
定子崩御後は実質的隠居状態となり、一条天皇・藤原公任・赤染衛門など限られた人と細々と交流していたと語られていて、それを前提に数々の落魄伝説が作られたという見方が一般的ですが、どうしてどうして、今でいうリモートワーク的なやり方で貴族社会に影響を及ぼしていたということですね。紫式部日記の執筆当時、オンタイムで枕草子の新作章段が内裏に届けられていたとすれば、紫式部が怒りに任せて筆を進めた理由も納得できます。
能因本の原型は、清少納言がいよいよ引退するという時に、既に立派に成長なされていた一品宮・脩子内親王に「あなたの母上は、これほどすばらしく麗しいお方だったのですよ。どうかそれを誇りとして、末永くお健やかに。」という思いを込めて献上したもの、と考えています。
枕草子を広めて道長に一矢報いる清少納言は、強かでした。道長はこれに対抗して、紫式部の源氏物語を広めようとしたのでしょう。
枕草子は定子の輝かしいことばかりで暗いところを描いていないが、人には光も影もある。枕草子を読んだまひろは人の美しい面だけでなく醜い愚かなところも多面的に描いた物語を書こうと思い立ったのでしょう。一条天皇と定子を桐壺帝と桐壺更衣に投影させて、その光と影を描くところから源氏物語は始まっている様です。
彰子が皇子二人を産んだ後にさえ尚強烈な印象を残していた”枕草子”の影響力、恐るべしですね。行成が国母と記したことでも分かるように、定子の評価は死後の方が高まっていて、”枕草子”がその直接的媒体だったのでしょう。”枕草子”により、事実以上に定子の理想的后象が確立されたように感じられます。彼女の悲劇的最期が、”枕草子”により昇華され、永遠の命を吹き込まれ後世まで伝えられた。ネットもテレビもない時代、娯楽の王者だっただろう読書、それも最近の話題を散りばめた”枕草子”は、一種の週刊誌的な話題性や興味もそそり皆に歓迎され、死者定子の色褪せない姿として永遠に記憶に留められたのでしょう。単なる懐古ではない、アップデートな話題も含み(定子の子敦康親王の行く末)、宮中で取り沙汰されたことは容易に想像されます。現実に生きている彰子を脅かすほどの影響力を、道長は放置できないわけです。それが、紫式部の”源氏物語”執筆へと導く流れに至るわけですね。
清少納言が家庭より職場での生きがいを重視したため家庭人としては居心地が悪かっただろうという指摘、今も昔も変わらない女性の生きづらさですね。
メディアによる印象操作を1000年前に健気に実行し続けたのはすげぇことよ
レキショック様
清少納言は気骨のある方だったとは小学生時代に読んだ本に書かれていました。当時は清少納言は誰からも交流がなく、ひもじい思いをしながら亡くなったが定説だと記憶しています。しかし清少納言は中々の忠義者ですね。それと定子皇后は余程魅力的な方だったんでしょう。
紫式部の方が陰湿といいますか、気位が高かった気がします。今でいえばトラッシュトークです。
まだ分かりませんが、ドラマでは対立関係にはならないような気がします。
定子皇后と枕草子が源氏物語に影響を与えたことは間違いは無いと思いました。
18:12 すごい度胸!
清少納言、しっかり四納言と交流があったとは凄いな。
しかし藤原公任って、詮子にも「こちらの女御はいつ立后なさるのか」とか余計なこと言う人だったけど、清少納言と歌を詠み合う仲になったのね。
清少納言は定子が亡くなってから10年以上経っても枕草子を書き続けていたんですね。
大人になった脩子内親王のサロンでも、きっと枕草子は置かれていて話題になっていたのでしょうね。
脩子内親王と道長の諍いが見たい。道長は負けっぱなし。一品宮様だからね。左大臣なんか、へっ!でもないから。
一品宮様戸は天皇に無茶苦茶に近い存在だから。正一位上は天皇。敢えていえば、正一位下かな。正二位か従一位の左大臣は身分が下。だかんね。
『枕草子』と言う作品があって初めて、中宮定子や一条天皇の寵愛に纏わる逸話、父親の道隆の、政治面は、大河ドラマ~光る君へ~で描かれた通り、娘の利発さを理解し、女房のフォローも上手い定子に後宮管理を任せ、後宮の後見を楽しむ姿が垣間見られる。
何人にもいる女房たちは自由闊達で、女房が自信を持って発言できる活気あるサロンである逸話、同母兄弟の伊周・隆家や、後の三条天皇の女御原子も出てきます。
まだこの頃、中宮職の長官として出入りしていた中宮の父親の末弟・道長の敵対する前から才能を見抜き、将来性があるなど、彼女が何度も定子に話し、かえって「例の思ひ人(いつものひいきの人)」と笑われたり、そのため女房たちから、「あの人は左大臣様(道長)側の知り合い筋だ」と、遠ざけられたりする事実上のくだりもある貴重な随筆。
もちろん、作品世界の清少納言と、清少納言その人を同一視するのは、危険なこと。紙をいただく逸話は、最終段あとがきにある通りで、逆境にあっても、たぶん父親譲りの性質で、渾身の力を込めて、良いことも、悪いことも満遍なく、彼女の感性を書き綴ったのも事実。なんのために書かれたかは分からないものの、少なくとも、村上朝を代表する才女・女蔵人と同じエピソードが「香炉峰の雪」であり、宮仕えを始めた清少納言にとってよいお手本にしたのも事実。
中宮彰子のほうは、中宮定子が漢学の才で持って、女房の才能を引き出すのに長けたのと異なり、女流歌人・才女が目立つのも事実。
月の輪の候補っていくつもあったんですね。
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21:03 紫式部(まひろ)もいつ亡くなったのか分からないんですよね。幾つか説があるけど。
上質なひと時… ♪
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逃げ上手な若君
北条時行も ❤お願いします
二月つごもり頃にの段における清少納言と公任のエピソードですが、この頃には連歌が流行していたのでしょうか?
定子死後も戦い続けていたのか、と驚く。まあおとなしくフェードアウトするのは彼女のキャラクターに合いませんよね。紫式部は自分たちが貴族たちに酷評されるのは彼らに見る目がないから、と日記に怒りをぶちまけていますが何だかフェミニストみたい。清少納言をはじめとする定子の女房たちと比べられ低い評価をされることはプライドが許さなかったのですね。もっとも和泉式部と清少納言は良好な関係が続いたようですが。
@@かんすいどう 和泉式部もう少し早く生まれてたら定子サロンの方が向いてたと思う。
@@パン大好き-s4i 確かにそうですね!彰子サロンでは異質な感じですが定子サロンならしっくりきそう。
和泉式部の母親は、皇太后昌子内親王に仕えていたので(乳姉妹の可能性が高い)、和泉式部も昌子内親王に仕えていたと思われる。
定子とその子どもたちは何故ここまで蔑ろにされるのか…?後ろ盾がないだけでここまでになる…?道長の策略?
それも大いにあるでしょうが 日本の天皇は権威はあるけど 権力はそこまで強いわけじゃないので外戚の後ろ盾がないと政権運営に行き詰まってしまう
当時 圧倒的な権勢を誇っていた道長系統が サポートする気がないならば 天皇になるのは諦めざるを得なかったんです
私には一条天皇と定子の子供達がそれほど蔑ろにされていたとは思えないのですが。
脩子内親王は、一品宮 ·准三宮で
内親王の中でも超破格待遇です。
経済的にも文化的にも存在感がありました
后腹の親王、内親王でも三品程度の位の人が多い中でです。
敦康親王にしても彰子が男子を産んでいなかったならもっともっと重視されたでしょうが、それでも頼通や彰子との関係は深いし、蔑ろでもないと思うのです。
結局のところ定子腹の御三方のお子さんは脩子内親王を除くと早逝の方ですし、そこが一番大きな問題だったと思います。
なぜ一条天皇が定子を忘れようとするのがいかんの?
清少納言
アイドルワロタ
死後も周囲を動かしていく感じがどうも重なります笑