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いやあ凄い内容だった。歴史のミステリーをコンラン先生に指摘されるのは斬新でゾクッとした。
これは歴史系動画界における最大の快挙なのではないでしょうか戦国期の朝廷権力の衰退の原因の一つとして大寧寺の変をあげているのはなるほどなぁとなりました大内家関連を学ぶために大勢の人々が何度も見る動画になる予感です
一解説系動画投稿者とは思えないほど有益な発信というか、素晴らしいバイタリティがなす面白い動画でした。Wiki丸写しみたいな動画にはない新たな発見と説得力があり、大変勉強になりました。
是非とも、コンラン先生の新刊の日本語版を読んで見たいですね。
ある意味、日本にいると気が付かなかった点が多かった時代区分問わず、日本の歴史が好きな一般人に留まらず、研究者の方々も大きな刺激を得られると思う
非常に面白い会談でした、仮に遷都計画が成功してたら大内義隆が天下人になる世界線もあったかもしれない。歴史にもしもは無いですが多くの人に見てもらいたい動画です。
いつも素晴らしい動画の制作、ありがとうございます。僅かではありますが支援させていただきます。
しかかくさんって何者なんだろう。歴史初心者の自分でもこんなに楽しめる動画を作れるなんて。
0:00大寧寺の変に対する評価の変遷1:13義隆による山口遷都計画説の概略説明2:22プリンストン大学コンラン先生迄の行程5:47コンラン先生との面会(インタビュー開始)6:04「大内義隆による遷都計画」論文迄の軌跡ーなぜコンラン先生は大内氏研究を始めたのかー10:49遷都計画はどこまで進んでいたのか13:01遷都における近衛家問題ー同論文批判に対する反論1ー18:52義長の従五位下叙任問題ー同論文批判に対する反論2ー19:59駿河伊達文書公開中@プリンストン大学HPーしかかく氏による宣伝及び反論2ソース補足ー21:11大寧寺の変の黒幕推測21:42大寧寺の変が起こった原因ー陶隆房の分析及び問田家との繋がりー24:53内藤興盛と大寧寺の変ー内藤興盛は首謀者の一人だったはずー28:59「大内義隆記」についてーいつ、誰により、何のために書かれたのかー32:48最後にーコンラン先生による視聴者へのメッセージー(インタビュー終了)33:24しかかく氏による総括33:39コンラン先生の新著の紹介【記述ルール】①”ーー“で囲んだ箇所はサブタイトルとして明示させました。②サブタイトルがない章もありますが、それは章のメインタイトルのみで章の内容を俯瞰できると、私自身が判断したからです。そもそもサブタイトル付与の目的は、メインタイトルの補足にあるからです。③大内氏に限って名前のみ記述、他の人名に関しては姓名記述としました。その目的は、「大内」という単語が頻出することによる煩わしさを避けるためです。*尚、書籍名・論文名に含まれる【大内】は、そのままにしています。④(2023/11/25 21:11追加)用語解説 以下使い分けてます。黒幕:表に姿を見せず裏から企みや陰謀を操る人首謀者:名前と顔を明らかにして企みや陰謀を遂行する人2023/11/2610:44にもあるようにコンラン先生の論文名「大内義隆の遷都計画」に準ずるために、一部を記述変更しました。それにより、2箇所で一行当たりの文字数が増えました。個人的希望により、一行当たり全角17文字迄に制限したかったので、平仮名を漢字に変更しました。まで→迄【副助詞】
個人的感想をここにぶら下げ。こんな企画を遂行してしまうしかかく氏に脱帽。最近歴史的系某TH-camチャンネルにて出演者のどなたかが、大学・研究機関に未所属の研究者がこれから増えてくるだろうと仰っていた記憶が蘇りました。(記憶違いならばすいません)西国限定沼歴史系TH-camrであるしかかく氏もその一角を担う気がします。しかかく氏の意思と大人の事情やその他状況が許せばですが、しかかく氏自らコンラン先生の新著の日本語版を翻訳してはいかがでしょうか?コンラン先生の著作を翻訳するには、単純に英語が堪能というだけでなく、背景となる歴史的知識が必須になるからです。新歴史用語の創出も必要になる可能性もあるので。これが実現したら歴史的快挙になりそうな予感がするのは、私だけでしょうか?最後に、本チャンネルの一視聴者より、このチャンネルも末永く続けられることをお願い申し上げます。
有能ありがとうございます😊
朝廷視点も新しいし世界史、経済史にも影響(銅銭輸入に支障をきたし鐚銭横行→石高制への移行や唐入り等にも影響?)を与えたから大寧寺はもっと注目されるべき案件よね…宣教師関連の記録は海外だからこそのアドバンテージも大きそうですね 内藤がキリシタンだったとは…海外視点と日本視点でどっちが政権の中枢だったかの認識も違いそうアメリカにまで赴いて取材する丹念な調査や事前知識の含畜等、素晴らしいものを見ました!
やっぱ視点が違うなぁ凄い良い内容だった
すごいものを見させてもらいました。ありがとうございます
ありがとうございます!
SuperTanks誠にありがとうございます!!
大変興味深い内容でした。足利幕府を過大評価しすぎというお言葉、朝廷の権力に関しても大して気にしていなかったので目から鱗が落ちました。
SuperThanksありがとうございます。
30:53 思わず、おお~!と叫んでしまった、、あと、いつも何気なく不動院の前を車で通り過ぎてました。歴史を知らないと地元にある宝にも気づかないのですね。。。
16:54朝廷内における大内氏の地位の高さについて指摘する部分要するに、朝廷は足利幕府を見限り、大内氏に鞍替えしようとしていたということ個人的に、この点が、後世の将軍追放後の織田政権や、豊臣政権に与えた影響は大きいのではないかと感じ、非常に面白い論であると思いました
外国の人に日本史を研究してもらうのは、イイよね〜。日本の歴史学者とは違ったアプローチがあって、刺激になりそお。
期待しかない。ワクワク。(これは公開前コメントです)
非常に面白かったです。また、遷都説は海外の研究者ならではの見方故に出てきたのかもしれないとも思えました。様々な視点によって研究がさらに進化してくれるのが楽しみになる動画でした。
今八幡宮の小方宮司親子や、古熊神社の真庭宮司親子、朝田神社の宮成宮司親子、山口大神宮のまで松田宮司親子、皆様がたくさんの資料を提供された。瑠璃光寺様やたくさんのお寺も協力された。山口大学の先生たちも
陶の家臣、子孫は敏腕弁護士になりました。
一番頼れる大内は時間が来たら山口に帰っちゃうんだよなぁ…せや!じゃあ俺らが山口行ってまえばええんや!は条件反射的に「有り得ない」「アクロバティック過ぎィ!」とついつい考えてしまうけど元々幕府権力をある程度飛び越えて活動できた大内氏の足下の山口そこに内外様々な勢力が入り乱れて、自分の想像以上にアクロバティックな政治運動が行われる下地が醸成されていたのかも
やばい面白い。面白いすぐる。近衛家絡みの説明がすんばらしい。
コンラン教授、日本人より日本史への理解と考察が深すぎる。
なるほどね。。陶晴賢の晴の字の位置が大友晴英からの偏諱だとなぜ一文字目に来るのかが不思議だった。足利義晴ならば一文字目に来ることに何の違和感もない。何にせよ、面白い動画でした。
凄く興味深い動画でした!ぜひ日本語訳が出るとうれしいなぁと思いました
公家関係者の日記から共通項を見いだして裏付けるという、気の遠くなりそうな作業にただただ敬服です。日本の史学科生達でも古文書をしっかり読みこなせるレベルの人は少なくなっている昨今、外国からの視点で解き明かされる真実が必ず出てくると思います。
遷都というよりは行幸の帰りに、一緒に大内が上洛するとすると見事に利害が一致します。一方で内藤家と切支丹、そして大友家との関わりはなんかビックリします。主導が内藤家なら毛利が当初変に協力的で、陶がノコノコ本人が厳島まで出てきてもおかしくない(普通執政はわざわざ親征しない)。ロマンですねぇ…。素晴らしい説を直接聞いて頂きありがとうございます。
素晴らしい対談でした!できれば詳述を一般向けの新書などで出していただけれはわ嬉しいです!!😊
見入ってしまうほど面白かったし、為になった。今の教育が良くないとかそういう話にはしたくないけど、歴史というのはこうやって興味を持つと本当に面白い学問だなと。この面白さがわからないのはやっぱり勿体無いと思う。
瑠璃五重塔に行ってみたいと思いました✨ありがとうございます😊
大変面白いお話でした!お話を聞く限り、陶・内藤と対立を抱えながら遷都(行幸)を考えるのは、大内義隆にどのようなメリットがあったのか気になります。コンラン教授の著作が読みたくなりました
山岡荘八の小説「毛利元就」(中学時代に何度読み返したことか)にも山口遷都の話が出てきます。1964年に書かれたこの小説でも触れられているくらいなので「そうだったんだろうな」くらいにはみんな漠然と考えていたのだろうけどそれが大寧寺の変の根本原因で、なおかつ内藤興盛(大河ドラマで小野寺昭が演じた穏やか武将のイメージ)が主犯格というのは衝撃的で新鮮でした。この説が定着した後に小説「毛利元就」が書かれていたなら、朝廷からの間者と堺からの間者である主人公夫婦が山口でとる行動も大きく変わっていたことだろうと思うし、そこの想像がふくらんでワクワクする自分に少年かよ!と突っ込みを入れざるを得ません。また、後奈良天皇は宸筆をばらまいて収入源にされていた涙ぐましい努力の天皇として有名ですが、(以前「本願寺展」で宸筆の六字名号「南無阿弥陀仏」を拝見してファンになった)山口御幸を実行に移そうとされていた行動力にますますファンになりそうです。そして内藤家・問田家をはじめとした大内家臣たちの歴史ももっと掘り下げてみたくなりました。すばらしいインタビュー動画をありがとうございました!
山口市で行われた講演会が懐かしい
日本史だけを見たら「あり得ない」お話ですが、世界的に見たら遷都は十分にあり得るお話ですよね。ましてやこれだけ朝廷儀礼に関わる重要人物が多数移住しているともなれば……しかし、(理系出身の)歴史沼動画投稿者とアメリカ人の日本中世史研究者の対談……ゆっくり解説動画は数あれど、こんなにハイレベルで貴重な動画は今後現れないのではないかと思えました。個人的には先日自分が投稿した動画で「伊達政宗の乱」と大内義弘の「応永の乱」が連動していて面白いなと思ったところに、「プリンストン大学駿河伊達コレクション」なる爆弾が投下されて狂喜乱舞しました(これは是非確認しないと!)大内と伊達の繋がり、思ったより強い?
後奈良の追号は単に父・後柏原の後だからというだけでなく、奈良遷都を強行した奈良天皇(平城天皇)に重ね合わせたところがあったりしたんでしょうかね
確かに、変に居合わせた公家は大物が多いなあとは思っていましたが..
明銭の流入の減少が、大きな背景としては、ありそうですね。明の銭経済から、メキシコ銀の大量流入による、清の銀決済の経済への移行期でしたから。陶が、石見銀山利権の関係者であったというのも、興味深いですね。
いや、凄いです。海外の一流の研究者の視点の素晴らしさもさることながら、互角に語り合えるすごさ。俄で申し訳ありませんが、朝廷・将軍家、当時は今以上に権威というものが染みついていたのでしょうね。この権威がいかに崩れていって、出自のいかがわしい豊臣家を経て徳川家での再構築がされたのか。信長にしろ道三にしろ守護なんてさっさと殺せばいいじゃんみたいに今の人は思うかもしれませんが、そうもいかない。どのように権威が死んでいったのか権威史みたいのがあれば、読んでみたいです。家康が高家を残したのを血統マニアみたいな言い方もされますが、もしかしたら染みついた何かがあったのかもなどと思ってしまいます。貴重な動画をありがとうございました。
自分も偽書・偽文書とされる史料を使用して修論を書いたけど、書かれていてしかるべきものが書かれていないことにこそ本質があるかもしれないってのはよく感じてたし、先生・先輩方にもよく指摘された。実証史学としては、書いてある内容の裏付けが取れなければ偽書・偽文書なんだけど、当時作られた意味や当時果たしていた役割をこそ考えるべきだと思う。
テキストはテキストですよね2〜3代後に作られた家系図や〇〇記の類いさえ誰が誰にどんな意図で誰に読ませるために作られたを考える必要がありますから。特に日本では古来から事実はそこまで重視されて来なかったのでテキスト研究は作られたタイミングやどのような状況の要請によってなど考えるべき周辺が広い
コンラン先生の説は非常に合理的で、日本特有の「感情のもつれ」による行動をほぼ排除しているから解り易い。この日本人特有の感情のもつれは当時室町後期の行動も、ちょっと前の研究者達の個人的な見解にも影響しているので非常に厄介です。恒久的な遷都というより京が戦乱続きで困窮していたので幕府も頼りにならず臨時の処置という感じもしますが、快く思わない大内家臣団が暴走した。朝廷に強い権威が残っていたのは事実で、大義名分にはなるがその責任は負いかねるというのが大内家臣団の実情だったのではないかと宣教師の史料に内藤家が陶家より出てくるのはそりゃ保護されてるからだとしか。ただ内藤がキリスト教徒だったというのは初耳で、なるほど"関白"秀吉が朝廷の権威を何とも思わないキリスト教勢力を快く思っていなかった・・とも考えられるかもしれん
とても興味深く面白い動画でした。応仁の乱ではまだ朝廷の庇護者はいましたがその後は朝廷を守れる存在が消えました後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇ずっと困窮していたことを思えば朝臣から遷都計画もあるのかなと思いました平安京に落ち着く前は各地に都を動かしたこと、南北朝時は動座したことを先例とするならば山口への遷都も説得をさせれる内容の一つかなと思いましたかねがね大内家は陶や内藤の当主一族を殺してきましたが、それを知る世代がその後も気持ちよく仕えられるかと言えば難しいと思います。かられもまた人間です。
今後の研究が進展しそうな予感…!
園城寺は鎌倉時代に毛利氏初代の弟が別当になって以来の由縁がありますねあと、内藤興盛黒幕説(大内義隆記ではスルー)も毛利輝元の外祖父なので可能性がありますね
陶隆房(晴賢)より問田と内藤が乱を煽って、義隆親子の殺害に至ったというのが衝撃でした!
これはなかなか刺激的でした。しかし山口以外の、いわゆる「小京都」と呼ばれてたところはいくつかあるので、そことの関係性も気になる(遷都ではなく御動座の可能性なども)。しかし、駿河伊達氏の名を聞いたの何十年ぶりだろう。
今回の動画も興味深かったです。自分は「武家政権台頭に伴って朝廷権威は箔付け」みたいな風に思っていた節がありましたので、コンラン教授の「朝廷権威(官位)軽んじすぎ」というのもなるほどと。以前の動画で「そっかー、幕府からじゃなくて朝廷から独自に官位授与されるんだな~」程度に思っておりましたが、逆にあんまり朝廷を軽んじると大内を武家の棟梁に据えるように画策しそうです。(朝廷が金欠に目をつぶれば)ひょっとすると、本能寺の変で「誰が信長を殺したのか!?」みたいなのの大内verも後々テレビやyoutubeで膾炙されそうですね。
結果としては、明治時代の江戸行幸、まで遷都がないので突飛な考えに見えますが南北朝時代に南朝方とは言え吉野そして賀名生へ移ったことや各地に親王を派遣したことを考えると今の感覚よりも京から動座することに対して抵抗がなかったかもしれない気がします。また、将軍も近江や山口に流転する状態なら新たな庇護者を求めて一時的と言え動座する選択も十分にあったのかもしれませんね。
とても興味深いお話ありがとうございます。まさか主犯が陶ではないとは思いもしませんでした。それはつまり、陶と他の大内家臣団は、内藤の提案に乗れば多くのメリットがあるから乗った、ということですね。
コンラン先生のお話大変楽しみです。一年前の大寧寺の変の動画も改めて拝見しました。遷都の実現性についてはなんだか眉唾に思いますが、義隆が多くの公卿を山口に招き入れた事実は、強制隠居ではなく弑虐に至るほどに陶晴賢の殺意を高めたのでははいか。陶「永年に渡り公卿への献金、朝廷工作にカネを使う殿には不満を持って来た。俺がというより、下で槍働きする者どもの不満を抑えきれん。今年に入って遂に殿は公卿供を御囲いになるご決心。彼奴等の引眉や贅沢暮らしを見せつけられるのは叶わん。是非ともシんでもらわねばならぬ、、、しかしそれほど殿の顔に泥を塗ったからにはただ御隠居いただくだけでは済むまい。やむを得ぬが、殿には公卿供の死出の供となっていただこう。。。」妄想が捗ります。是非ともコンラン先生には日本語でお話し頂きたいです!
初めて知りました。都の荒廃や治安上納得の行く説です。山口は辺地と思われがちでが、対明や対南蛮交易から見ると絶妙な地域です。皇室の行事は一般が考える以上に重要で、現代でも陛下皇族の方々は行事に忙殺されております。将軍家も滞在した山口は天皇家を迎え入れるポテンシャルは十分あったと思う。幕末も天皇を長州に迎えるという計画もあったし、中山忠光や七卿も長州に滞在している。山口は皇室とは因縁の地は間違いない。
まず、外国の大学で大内氏の研究をしている外国人がいることに驚く
内藤興盛に着目してみると、大寧寺の変の見方が全然変わって見えてびっくりしました
コンパクトにまとまってますが、実際はどれくらいの時間お話しされてたんでしょうね、1時間ぐらいじゃすまなさそうな・・・
実際は2時間半ほど対談しており、三好家や山名家についてなど幅広く対談させて頂きました
大内氏については勿論、「当時の摂関家を近衛派・九条派に分けるという一面的な見方は難しい」というご指摘も興味深いですね。先日の古事鏡さんの生放送でも、室町期の五摂家の勢力図として「前期は二条・一条が覇権を争い、後期は近衛の一強」という構図が見えており、五摂家の中では終始存在感が乏しい九条を朝廷内における一方の旗頭と見なすことが、果たして適切なことなのか?非常に疑問に思うようになりました。
山口県出身者として、極めて興味深く拝聴しました。生まれ故郷の田布施町にも大内の残党の末裔の方が居られましたね。
外国人が大寧寺の変を研究してるのが珍しいみたいにいう人は、阿部謹也のハーメルンや白川静の甲骨文字研究とか知らない?そも露文科や英米文科で米川や村上を研究しますか?日本のような大国の歴史や文化ならそれこそハイチや赤道ギニアにも研究者はいますよ。大学は研究機関でもありますから。
興味深すぎて一言一句真剣に聞いてた。なるほど、内藤興盛か、、、気の弱い東向殿が両者を庇ったかもしれないって聞いて鳥肌立った、、、。彼女は父を義興に○され、その後彼の妻になったんだよね。義隆が襲撃されたと聞いて失神したりしてるし、義隆はそんな母を心配して医者を派遣してるんだよな、、、戦乱の世は無情よな。大内義興は重臣達を警戒して大宮姫を吉見家に嫁がせたんじゃないかと思う。内藤家に酷い仕打ちをしてしまい、彼らを警戒して新しい一門家を創ろうとしたんじゃないかな。吉見家は内藤家とも親戚だし。そうなると、吉見信頼は大内政弘の指示で陶を討ったわけじゃない、、、?でも、信頼の孫の吉見隆頼は陶のチンピラに襲撃されて暗○されてるし、本当に興味深い。お二方の対談見て本当に涙が出ました。ありがとうございました。
確かいまの皇室も東京行幸中なんですよね?なら山口行幸→実質的な遷都はあり得る話です、ただ明治維新の時代に比べ乗り越えるべきハードルが高すぎる気がします。
大内幕府或いは武家公卿としてのプレ豊臣政権的な統治。朝廷視線で完璧に辻褄が合うのはしかかくさんがうpしてる義隆と義晴の動画からも明らか行幸からの義隆の上洛なら当時の混乱を収束させる最終手段として全然悪く無い作戦だと考えますね
外人が大内研究とか物好きだよなあ
投稿お疲れ様です。内藤興盛視点で考えてみるのって、たしかに必要だなと考えさせられました。『大内氏実録』にもあるように、興盛の説明文は晴賢や問田隆盛だけではなく、野田興方や杉重矩、杉隆泰の後になっており、明らかに興盛に視点をあてていないことを暗示しているのではないでしょうか。また、近衞稙家派閥と九条稙通派閥で分けるのではなく、稙家も稙通も遷都反対派で、二条尹豊は遷都推進派と考えるべきだと知り、そう考えると一条房通は土佐一条家の宗家であり、かつ土佐一条家は故・恒持と「チャチ若君」義房を養子に出しているので、間接的ではあるものの一条家と義隆は関係があります。だとすれば、一条房通も遷都推進派だと考えることができるのはないでしょうかということです。僕の憶測ですが、しかかくさんはどう考えますでしょうか。
質問ありがとうございます。「大内氏実録」は明治18年に刊行された本でその順番はどちらかと言えば毛利家と内藤家に関わりがあること&資料が少ないことが原因かと思われますまた、一条房通は遷都計画寄りだった可能性は仰る通りあるとは思います。ただ、親族の土佐一条は天文18年に房基が死去、大寧寺の変に加担した大友家との間に生まれた子(一条兼定)が当主となっている、という反証もあるため今の所は何とも言えないかなと思います。
@@SquareDeerHorn そうですか。たしかに、兼定になっているので、難しいですね。後々になって考えてみたのですが、阿波細川氏之は義隆の妹婿であり遷都推進派かなと思いました。
冒頭でもう書きたいことがいっぱいw「いや、あなた本職で渡米したんじゃ…」→ちゃんとふだん住んでるロサンゼルスって言ってる!鴨で沸き立つX(Twitter)の猛者たち!!電車の旅路もいいなあ☺️
アメリカの有名大学教授が大内義隆をこんなに調べてるとは思わなかった。日本人より遥かに日本詳しいw
神
さすがに遷都までは考えづらいが、当時の京の政情不安を考えれば山口に行宮設置くらいはあり得そう(山名・赤松領を通らざるを得ない陸路は実現性が低そうなうえ、海路での行幸は斉明天皇以来前例がない(戦没の安徳天皇は除く)という難点はあるが)。大内義隆は地方の戦国大名としては異例の従二位に昇ってるのは確かに不自然だと思っていたので、巷間思われているより大内家と朝廷の結びつきは深かったのかもしれない
内藤興盛に関する指摘はなるほどと思いますが、動機を内藤弘矩の誅●とするのはやや無理があるように思えます。興盛は弘矩の件がなければ家督を継いでなかった立場ですし、義興を恨むならまだしも、従弟で娘婿の義隆をそれで恨むかな?と。復讐の機会を伺ってるにしては雌伏が長すぎるようにも思います。そっちの線よりも、義隆・大内家の武家公卿化に公家嫌いの興盛の不満が爆発したという動機の方が個人的には納得感を感じます。
追記:隆房側の動機を問田と相良武任、益田と吉見の対立と考えれば、当初の計画が主君押込のような穏健な手段だったのも納得です。公家や義尊の抹●は興盛側の意向で、彼らの協力を得るために隆房も同意したと考えれば筋は通る。とすれば興盛はなぜ公家や義尊の●害を主導したのかが問題です。公家●害を義隆や大内家への怨恨だけで説明するのは難しい。叙位任官の形跡がないことから公家(朝廷)が嫌いだったからという類推はできますが、もう少し踏み込んで考えると、公家の山口下向(あるいは天皇行幸・山口遷都)を抑止するための見せしめでやった可能性はあると思います。後年織田信長が朝廷から金を散々せびられてるところから遡及して考えると、単純な好き嫌いに加えて、金銭絡みの悪感情もあったのかなと思いました。
義尊●害はやるメリットがあまり思いつかない。通説で言われてるような義尊母のおさいやその父小槻伊治による家中紊乱(でもこれが事実なら隆房が義尊への当主交代を当初画策したことと整合しない気も)、義尊が義隆の実子か疑わしいから(ソースの大内義隆記の性質的に義尊は誹謗される立場にあるので信憑性は微妙)、あるいは興盛の孫の問田亀鶴丸への家督継承を狙って結果失敗したのか。義隆に不満があって当主を変えるのはいいとして、一度廃嫡した大友晴英を呼び戻すより、幼年の義尊にそのまま継がせて傀儡にする方が合理的だと思うんですけどね。
ちなみに、足利義晴黒幕説はだいぶ眉唾だと思います。当時の幕府にそこまでの影響力があったのかという点もそうですし、大内家は義晴からあまり良い扱いをされてない(義晴目線だと義維側になりうる警戒対象)ので、仮に命令されたとて従う義理がないと思います。隆房が義晴から偏諱を受けたのは、当時の西国で義隆の権威が絶大なものであったことから主君弑逆を正当化するために幕府のお墨付きを欲し、そこに元々義隆を警戒していた義晴が便乗したという構図だと思います。
当時の人達の中には恨みから事件を起こす者もいたようで、吉見隆頼は陶家の雇った?チンピラに暗○されてます。陶家は益田家と関係が深く、吉見家は内藤家と関係が深いですね。
吉見隆頼は大内義興の娘を嫁に迎えてて、警戒されたのでしょうね。隆頼が亡くなった後は、還俗した後の吉見正頼派と、上野善右衛門派に分かれて後継者争いをしてます。
呉座さんのチャンネルから来ましたが、コンラン先生って日本語ペラペラ過ぎてまずびっくりします、本当にアメリカでは第一人者なんだろうなって伝わってきましたもしかしたら五年後くらいに講談社学術文庫から訳出されるかもしれませんね
変わった人がいるもんだな。(尊敬。
先生にはまず、良くあんな交通の便の悪い山口まで来ていただいたことにお礼を言いたいです。おいでませ山口。
そうかな、かなり道が良いと思うよ
@@THE.Everestlist悪いぞ
こういういい意味で「ドライな目線」での深堀は大歓迎よな。身内だとどうしても「悪い意味での色眼鏡」が付き纏うから。こんな説を発現する人もひょっとしたら昔から国内に居たかもしれんけどさ、無かったよな?その理由をどうしても邪推するとねえって。
行動力の化身
超良い動画、GJ遷都説より内藤興盛の方が面白いねしかも後の内藤氏は毛利家の重臣で内藤氏を白くするだめにも陶にすべてを押し付ける理由が十分すぎる
日本史を研究してる外国人がいた事に驚き。
機会と興味があれば『海外の日本中世史研究』(勉誠社)って本がちょうど今月出版されたから読んでみると良いかもコンラン先生だけでなく中韓やドイツの研究者も論を寄せてるので面白いと思う
自分もめっちゃ思いました笑歴史は面白い。
小弐が唯一?打ち取った大内の党首、大内盛見とその戦いについても気になる
内藤興盛。毛利隆元の義父、輝元の母方の祖父か
興盛の娘の一人は備後守護代の山内直通に嫁いでます。
さらっと言ってるけどしかかくさん海外住みなのか
大内家とか日本人もよく知らん存在に外国の方が新説を出してるのは面白いですね
ぜひウプ主さんの意見が聞きたいです。もし良ければ返事下さい。大内義隆の遺児だとされてる人物に「大石義胤」という人物がいます。何でも、大内家の女官を大内義隆が孕ませたとか何とか、、、彼女は大寧寺の変の時、逃げる事が出来たみたいで益田家臣の城一正納に保護されてます。城一正納は楠木正成の子孫で、応永の乱の時に楠木正勝の遺児を大内盛見が益田家の要請で引き取り、益田家が200貫の領地を与えて家臣にした家なんだそうです。ここで疑問が2つ浮かんだんです。①この女官は大内家の重臣達にその存在が知られていないようだが、それは可能だったのか?、②陶晴賢の親戚で、変では陶に加担してる益田家の家臣の元へ逃げて大丈夫だったのか?、です。妊婦だった女官が城一正納の元へ逃げた理由は城一家と大内家の上記の縁を頼っての事だったそうです。女官はどうやってその「縁」を知る事が出来たのでしょうか?日頃からその話題がないと、文献?を調べるしか方法は無いかと、、、いくら楠木正成の子孫だとはいえ、日本屈指の大大名になってた大内家の人間が、配下の国人の家臣について話するかな、、、?ちなみに福屋氏の姫も城一家に避難してます。何でだろ、、、?上記の「大石義胤」の子孫は庄屋になりました。代々「義」の字を使ってるところを見ると、自分達は大内義隆の子孫だという自覚を持っていたようです。
横から失礼します。逃げていた女官は「妊婦」だと仰っていますが、だとすると逃亡時点では生まれてくるべき子供の性別は判断できないということになる筈です。戦国の他家の滅亡時の事例を参考にする限り、直系男子であれば幼子であっても処刑されるのが通例です。しかし逃げ延びてる場合、生き残っている事例も多々あります。また直系女子であれば生かされる事例が多い気がします。また妊婦といっても初期段階では体型に変化は見られず、外見だけでは妊婦かどうかの判断も難しいと推測できます。その他諸々の条件が重なった上で、大内氏直系が続いたのではないでしょうか?その他の疑問については、当方に推測する能力がないので、返答できかねます。
たしかに、生まれてくる子供の性別はわからないって指摘は重要ですね。この女官は、逃げてる最中に義隆の子を出産して、その後に城一家に匿われたそうです。個人的に思うのは、この女官は大寧寺にいなかったって思うんです。じゃなきゃ妊婦が逃げられるはずがない。石見の三隅氏の滅亡時の状況を見ると、最後の城主の子供をかろうじて寺に送り届けたお付きの家臣や侍女も追手にサツ害されてます。現場にいたら一見無関係な侍女でもダメだったようです。これは、この三隅氏に限った事例ではなく、旧長門守護の厚東氏が大内氏により滅ぼされた時にも、逃げる厚東氏の姫を大内氏の侍はその場でサツ害してるし、石見高橋氏が二つ山城の富永氏(出羽氏)を攻めた時も、家臣と一緒に小笠原氏に援軍を求めに行った姫がシんでます。
これらの事から、大内義隆は突発的にこの女官に手を出していて、それが恐らく一回っきりか多くても数回程度だったから大内家の重臣達にその存在が知られず、加えて女官でも身分が低い上にそれほど寵愛を受けてる存在ではなかったから大内義隆の大寧寺について行かずに大内氏の居館に残った。んだと思うんです。ウプ主はこの辺どう思うのか気になります。
質問ありがとうございます。①についてですが、女官が逃げ切ること自体は不可能ではなかったと思われます。というのも、義隆の母である東向殿やおさいの方(義尊の母)、義隆の側室である広橋兼秀娘など大内義隆と関わりのある女性はけっこう生き延びているためです(典拠が「大内義隆記」のみのため確実とは言い切れませんが)。この原因は大寧寺の変は大内氏族滅が目的ではなく、当主すげ替えのためのクーデター、義隆・義尊の殺害が目的であり、大内氏を根絶やしにすることを目的としていなかったためと考えられます。一方で②についてですが、これは大問題かと思います。当時の益田家当主である益田藤兼は完全に陶隆房に協力しており、変後に逃げてきた相良武任の一族と思われる相良虎王を殺害しています。逆に益田領よりも周防・長門に近い吉見領の吉見正頼は明白な義隆方です。仮に大寧寺までついていってそのまま海から益田領へと入ったのだとしたら、義隆も逃げられたはずであり矛盾します。そのため陸路以外は考えにくいのですが、その場合吉見領をスルーして陶に加担している益田領に逃げているのは結構説明としては苦しい話かと思います。「大石(志摩守)義胤」という人物については管見の限りその存在を示す当時の史料はなく、本当に義隆の子なのかというと正直私はかなり怪しいかと思います。忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖先が大内家だ、とする説でもよく出てくる人物ですが、赤穂藩家老大石家は恐らく近江の国人出ですので関係がなく、その説もどこから来たのか不明です。また、悲劇的な最期を遂げた人物というのは必ず隠し子説が流布するものですが、義隆もその例に漏れず義胤以外にも大内義隆の実子とされる人物は実は他にも数名います。しかし、どれもかなり後になって出てくる話であり、正誤判定はつかない状態です(一次史料はともかく当時を知る人物が書いた資料も無いとどうしようもない)。毛利元就の隠し子である二宮就辰のように「そういった」扱いをされていることがわかる書状があれば区別はつくのですが・・・。
@@SquareDeerHorn ご返事くださりありがとうございます。やっぱり違和感凄いですよね。
確かに陶晴賢は評価としてはヘボ扱いされてもやむなしの聞かん坊なのは事実やからなあ。内藤興盛や元就等の黙殺あっての大寧寺の変だと思ってたけど、三条パパ○してたの興盛もか!
しかかくさんが翻訳したら?福岡博士が確かドリトルを翻訳してますから理→文跨ぎは前例がある。
できなくはないのですが、畏れ多いのと別に私は翻訳が得意ではないのと、時間がかかりすぎるので流石に難しいですね・・・やるとすればコンラン先生の本(英文)をみながら生放送解説でしょうか
@@SquareDeerHorn さんそれは是非お願いします。
追加、内藤興盛の事についてですが、幾ら一族の仇が義隆でも当時は身内や兄弟は最大のライバルであり倒さなければならない一番最初の敵でもあった訳でして、一族を排除して自分を当主と認めてくれた義隆に興盛は感謝していてもおかしくはありません応仁の乱はそもそも畠山家の跡目争いだった訳ですから
申し訳ないですがありえない説だと感じます。
カモじゃなくてカナダガンBGMうるさい
コンラン氏にお会いするのは良いですが、旅行動画じゃあるまいし道中は不要。
超有名なプリンストン大学行くんだからこれなかったら皆肩透かしですよ。これは礼儀の問題でもあります。外国の研究者への敬意。
@@丸山康平-l2f 何とか大学は日本史研究で有名でしたか。すみません、単なる歴史オタクなもので。知ってる海外の大学は一般に知られているレベル止まりでした。
毛利元就の謀略
いやあ凄い内容だった。
歴史のミステリーをコンラン先生に指摘されるのは斬新でゾクッとした。
これは歴史系動画界における最大の快挙なのではないでしょうか
戦国期の朝廷権力の衰退の原因の一つとして大寧寺の変をあげているのはなるほどなぁとなりました
大内家関連を学ぶために大勢の人々が何度も見る動画になる予感です
一解説系動画投稿者とは思えないほど有益な発信というか、素晴らしいバイタリティがなす面白い動画でした。Wiki丸写しみたいな動画にはない新たな発見と説得力があり、大変勉強になりました。
是非とも、コンラン先生の新刊の日本語版を読んで見たいですね。
ある意味、日本にいると気が付かなかった点が多かった
時代区分問わず、日本の歴史が好きな一般人に留まらず、研究者の方々も大きな刺激を得られると思う
非常に面白い会談でした、仮に遷都計画が成功してたら大内義隆が天下人になる世界線もあったかもしれない。歴史にもしもは無いですが多くの人に見てもらいたい動画です。
いつも素晴らしい動画の制作、ありがとうございます。僅かではありますが支援させていただきます。
しかかくさんって何者なんだろう。歴史初心者の自分でもこんなに楽しめる動画を作れるなんて。
0:00大寧寺の変に対する評価の変遷
1:13義隆による山口遷都計画説の概略説明
2:22プリンストン大学コンラン先生迄の行程
5:47コンラン先生との面会
(インタビュー開始)
6:04「大内義隆による遷都計画」論文迄の軌跡
ーなぜコンラン先生は大内氏研究を始めたのかー
10:49遷都計画はどこまで進んでいたのか
13:01遷都における近衛家問題
ー同論文批判に対する反論1ー
18:52義長の従五位下叙任問題
ー同論文批判に対する反論2ー
19:59駿河伊達文書公開中@プリンストン大学HP
ーしかかく氏による宣伝及び反論2ソース補足ー
21:11大寧寺の変の黒幕推測
21:42大寧寺の変が起こった原因
ー陶隆房の分析及び問田家との繋がりー
24:53内藤興盛と大寧寺の変
ー内藤興盛は首謀者の一人だったはずー
28:59「大内義隆記」について
ーいつ、誰により、何のために書かれたのかー
32:48最後に
ーコンラン先生による視聴者へのメッセージー
(インタビュー終了)
33:24しかかく氏による総括
33:39コンラン先生の新著の紹介
【記述ルール】
①”ーー“で囲んだ箇所はサブタイトルとして明示させました。
②サブタイトルがない章もありますが、それは章のメインタイトルのみで章の内容を俯瞰できると、私自身が判断したからです。そもそもサブタイトル付与の目的は、メインタイトルの補足にあるからです。
③大内氏に限って名前のみ記述、他の人名に関しては姓名記述としました。その目的は、「大内」という単語が頻出することによる煩わしさを避けるためです。
*尚、書籍名・論文名に含まれる【大内】は、そのままにしています。
④(2023/11/25 21:11追加)
用語解説 以下使い分けてます。
黒幕:表に姿を見せず裏から企みや陰謀を操る人
首謀者:名前と顔を明らかにして企みや陰謀を遂行する人
2023/11/26
10:44にもあるようにコンラン先生の論文名「大内義隆の遷都計画」に準ずるために、一部を記述変更しました。それにより、2箇所で一行当たりの文字数が増えました。個人的希望により、一行当たり全角17文字迄に制限したかったので、平仮名を漢字に変更しました。
まで→迄【副助詞】
個人的感想をここにぶら下げ。
こんな企画を遂行してしまうしかかく氏に脱帽。最近歴史的系某TH-camチャンネルにて出演者のどなたかが、大学・研究機関に未所属の研究者がこれから増えてくるだろうと仰っていた記憶が蘇りました。(記憶違いならばすいません)西国限定沼歴史系TH-camrであるしかかく氏もその一角を担う気がします。
しかかく氏の意思と大人の事情やその他状況が許せばですが、しかかく氏自らコンラン先生の新著の日本語版を翻訳してはいかがでしょうか?コンラン先生の著作を翻訳するには、単純に英語が堪能というだけでなく、背景となる歴史的知識が必須になるからです。新歴史用語の創出も必要になる可能性もあるので。
これが実現したら歴史的快挙になりそうな予感がするのは、私だけでしょうか?
最後に、本チャンネルの一視聴者より、このチャンネルも末永く続けられることをお願い申し上げます。
有能ありがとうございます😊
朝廷視点も新しいし世界史、経済史にも影響(銅銭輸入に支障をきたし鐚銭横行→石高制への移行や唐入り等にも影響?)を与えたから大寧寺はもっと注目されるべき案件よね…
宣教師関連の記録は海外だからこそのアドバンテージも大きそうですね 内藤がキリシタンだったとは…海外視点と日本視点でどっちが政権の中枢だったかの認識も違いそう
アメリカにまで赴いて取材する丹念な調査や事前知識の含畜等、素晴らしいものを見ました!
やっぱ視点が違うなぁ
凄い良い内容だった
すごいものを見させてもらいました。ありがとうございます
ありがとうございます!
SuperTanks誠にありがとうございます!!
大変興味深い内容でした。足利幕府を過大評価しすぎというお言葉、朝廷の権力に関しても大して気にしていなかったので目から鱗が落ちました。
SuperThanksありがとうございます。
30:53 思わず、おお~!と叫んでしまった、、
あと、いつも何気なく不動院の前を車で通り過ぎてました。
歴史を知らないと地元にある宝にも気づかないのですね。。。
16:54
朝廷内における大内氏の地位の高さについて指摘する部分
要するに、朝廷は足利幕府を見限り、大内氏に鞍替えしようとしていたということ
個人的に、この点が、後世の将軍追放後の織田政権や、豊臣政権に与えた影響は大きいのではないかと感じ、非常に面白い論であると思いました
外国の人に日本史を研究してもらうのは、イイよね〜。
日本の歴史学者とは違ったアプローチがあって、刺激になりそお。
期待しかない。ワクワク。(これは公開前コメントです)
非常に面白かったです。
また、遷都説は海外の研究者ならではの見方故に出てきたのかもしれないとも思えました。様々な視点によって研究がさらに進化してくれるのが楽しみになる動画でした。
今八幡宮の小方宮司親子や、古熊神社の真庭宮司親子、朝田神社の宮成宮司親子、山口大神宮のまで松田宮司親子、皆様がたくさんの資料を提供された。瑠璃光寺様やたくさんのお寺も協力された。山口大学の先生たちも
陶の家臣、子孫は敏腕弁護士になりました。
一番頼れる大内は時間が来たら山口に帰っちゃうんだよなぁ…せや!じゃあ俺らが山口行ってまえばええんや!
は条件反射的に「有り得ない」「アクロバティック過ぎィ!」とついつい考えてしまうけど
元々幕府権力をある程度飛び越えて活動できた大内氏の足下の山口
そこに内外様々な勢力が入り乱れて、自分の想像以上にアクロバティックな政治運動が行われる下地が醸成されていたのかも
やばい面白い。面白いすぐる。
近衛家絡みの説明がすんばらしい。
コンラン教授、日本人より日本史への理解と考察が深すぎる。
なるほどね。。陶晴賢の晴の字の位置が大友晴英からの偏諱だとなぜ一文字目に来るのかが不思議だった。足利義晴ならば一文字目に来ることに何の違和感もない。
何にせよ、面白い動画でした。
凄く興味深い動画でした!ぜひ日本語訳が出るとうれしいなぁと思いました
公家関係者の日記から共通項を見いだして裏付けるという、気の遠くなりそうな作業にただただ敬服です。
日本の史学科生達でも古文書をしっかり読みこなせるレベルの人は少なくなっている昨今、外国からの視点で解き明かされる真実が必ず出てくると思います。
遷都というよりは行幸の帰りに、一緒に大内が上洛するとすると見事に利害が一致します。一方で内藤家と切支丹、そして大友家との関わりはなんかビックリします。主導が内藤家なら毛利が当初変に協力的で、陶がノコノコ本人が厳島まで出てきてもおかしくない(普通執政はわざわざ親征しない)。ロマンですねぇ…。素晴らしい説を直接聞いて頂きありがとうございます。
素晴らしい対談でした!
できれば詳述を一般向けの新書などで出していただけれはわ嬉しいです!!😊
見入ってしまうほど面白かったし、為になった。今の教育が良くないとかそういう話にはしたくないけど、歴史というのはこうやって興味を持つと本当に面白い学問だなと。この面白さがわからないのはやっぱり勿体無いと思う。
瑠璃五重塔に行ってみたいと思いました✨
ありがとうございます😊
大変面白いお話でした!
お話を聞く限り、陶・内藤と対立を抱えながら遷都(行幸)を考えるのは、大内義隆にどのようなメリットがあったのか気になります。
コンラン教授の著作が読みたくなりました
山岡荘八の小説「毛利元就」(中学時代に何度読み返したことか)にも山口遷都の話が出てきます。
1964年に書かれたこの小説でも触れられているくらいなので
「そうだったんだろうな」くらいにはみんな漠然と考えていたのだろうけど
それが大寧寺の変の根本原因で、なおかつ内藤興盛
(大河ドラマで小野寺昭が演じた穏やか武将のイメージ)が主犯格というのは
衝撃的で新鮮でした。
この説が定着した後に小説「毛利元就」が書かれていたなら、
朝廷からの間者と堺からの間者である主人公夫婦が山口でとる行動も大きく
変わっていたことだろうと思うし、そこの想像がふくらんでワクワクする自分に
少年かよ!と突っ込みを入れざるを得ません。
また、後奈良天皇は宸筆をばらまいて収入源にされていた涙ぐましい努力の天皇として有名ですが、
(以前「本願寺展」で宸筆の六字名号「南無阿弥陀仏」を拝見してファンになった)
山口御幸を実行に移そうとされていた行動力にますますファンになりそうです。
そして内藤家・問田家をはじめとした大内家臣たちの歴史ももっと掘り下げてみたく
なりました。すばらしいインタビュー動画をありがとうございました!
山口市で行われた講演会が懐かしい
日本史だけを見たら「あり得ない」お話ですが、世界的に見たら遷都は十分にあり得るお話ですよね。ましてやこれだけ朝廷儀礼に関わる重要人物が多数移住しているともなれば……
しかし、(理系出身の)歴史沼動画投稿者とアメリカ人の日本中世史研究者の対談……ゆっくり解説動画は数あれど、こんなにハイレベルで貴重な動画は今後現れないのではないかと思えました。
個人的には先日自分が投稿した動画で「伊達政宗の乱」と大内義弘の「応永の乱」が連動していて面白いなと思ったところに、「プリンストン大学駿河伊達コレクション」なる爆弾が投下されて狂喜乱舞しました(これは是非確認しないと!)
大内と伊達の繋がり、思ったより強い?
後奈良の追号は単に父・後柏原の後だからというだけでなく、奈良遷都を強行した奈良天皇(平城天皇)に重ね合わせたところがあったりしたんでしょうかね
確かに、変に居合わせた公家は大物が多いなあとは思っていましたが..
明銭の流入の減少が、大きな背景としては、ありそうですね。明の銭経済から、メキシコ銀の大量流入による、清の銀決済の経済への移行期でしたから。陶が、石見銀山利権の関係者であったというのも、興味深いですね。
いや、凄いです。海外の一流の研究者の視点の素晴らしさもさることながら、互角に語り合えるすごさ。俄で申し訳ありませんが、朝廷・将軍家、当時は今以上に権威というものが染みついていたのでしょうね。この権威がいかに崩れていって、出自のいかがわしい豊臣家を経て徳川家での再構築がされたのか。信長にしろ道三にしろ守護なんてさっさと殺せばいいじゃんみたいに今の人は思うかもしれませんが、そうもいかない。どのように権威が死んでいったのか権威史みたいのがあれば、読んでみたいです。
家康が高家を残したのを血統マニアみたいな言い方もされますが、もしかしたら染みついた何かがあったのかもなどと思ってしまいます。
貴重な動画をありがとうございました。
自分も偽書・偽文書とされる史料を使用して修論を書いたけど、書かれていてしかるべきものが書かれていないことにこそ本質があるかもしれないってのはよく感じてたし、先生・先輩方にもよく指摘された。
実証史学としては、書いてある内容の裏付けが取れなければ偽書・偽文書なんだけど、当時作られた意味や当時果たしていた役割をこそ考えるべきだと思う。
テキストはテキストですよね
2〜3代後に作られた家系図や
〇〇記の類いさえ
誰が誰にどんな意図で誰に読ませるために作られたを考える必要がありますから。特に日本では古来から
事実はそこまで重視されて来なかったのでテキスト研究は作られたタイミングやどのような状況の要請によってなど考えるべき周辺が広い
コンラン先生の説は非常に合理的で、日本特有の「感情のもつれ」による行動をほぼ排除しているから解り易い。この日本人特有の感情のもつれは当時室町後期の行動も、ちょっと前の研究者達の個人的な見解にも影響しているので非常に厄介です。
恒久的な遷都というより京が戦乱続きで困窮していたので幕府も頼りにならず臨時の処置という感じもしますが、快く思わない大内家臣団が暴走した。朝廷に強い権威が残っていたのは事実で、大義名分にはなるがその責任は負いかねるというのが大内家臣団の実情だったのではないかと
宣教師の史料に内藤家が陶家より出てくるのはそりゃ保護されてるからだとしか。ただ内藤がキリスト教徒だったというのは初耳で、なるほど"関白"秀吉が朝廷の権威を何とも思わないキリスト教勢力を快く思っていなかった・・とも考えられるかもしれん
とても興味深く面白い動画でした。応仁の乱ではまだ朝廷の庇護者はいましたがその後は朝廷を守れる存在が消えました
後土御門天皇、後柏原天皇、後奈良天皇ずっと困窮していたことを思えば朝臣から遷都計画もあるのかなと思いました
平安京に落ち着く前は各地に都を動かしたこと、南北朝時は動座したことを先例とするならば山口への遷都も説得をさせれる内容の一つかなと思いました
かねがね大内家は陶や内藤の当主一族を殺してきましたが、それを知る世代がその後も気持ちよく仕えられるかと言えば難しいと思います。かられもまた人間です。
今後の研究が進展しそうな予感…!
園城寺は鎌倉時代に毛利氏初代の弟が別当になって以来の由縁がありますね
あと、内藤興盛黒幕説(大内義隆記ではスルー)も毛利輝元の外祖父なので可能性がありますね
陶隆房(晴賢)より問田と内藤が乱を煽って、義隆親子の殺害に至ったというのが衝撃でした!
これはなかなか刺激的でした。
しかし山口以外の、いわゆる「小京都」と呼ばれてたところはいくつかあるので、
そことの関係性も気になる(遷都ではなく御動座の可能性なども)。
しかし、駿河伊達氏の名を聞いたの何十年ぶりだろう。
今回の動画も興味深かったです。
自分は「武家政権台頭に伴って朝廷権威は箔付け」みたいな風に思っていた節がありましたので、コンラン教授の「朝廷権威(官位)軽んじすぎ」というのもなるほどと。
以前の動画で「そっかー、幕府からじゃなくて朝廷から独自に官位授与されるんだな~」程度に思っておりましたが、逆にあんまり朝廷を軽んじると大内を武家の棟梁に据えるように画策しそうです。(朝廷が金欠に目をつぶれば)
ひょっとすると、本能寺の変で「誰が信長を殺したのか!?」みたいなのの大内verも後々テレビやyoutubeで膾炙されそうですね。
結果としては、明治時代の江戸行幸、まで遷都がないので突飛な考えに見えますが南北朝時代に南朝方とは言え吉野そして賀名生へ移ったことや各地に親王を派遣したことを考えると今の感覚よりも京から動座することに対して抵抗がなかったかもしれない気がします。
また、将軍も近江や山口に流転する状態なら新たな庇護者を求めて一時的と言え動座する選択も十分にあったのかもしれませんね。
とても興味深いお話ありがとうございます。
まさか主犯が陶ではないとは思いもしませんでした。
それはつまり、陶と他の大内家臣団は、内藤の提案に乗れば多くのメリットがあるから乗った、ということですね。
コンラン先生のお話大変楽しみです。一年前の大寧寺の変の動画も改めて拝見しました。
遷都の実現性についてはなんだか眉唾に思いますが、義隆が多くの公卿を山口に招き入れた事実は、強制隠居ではなく弑虐に至るほどに陶晴賢の殺意を高めたのでははいか。
陶「永年に渡り公卿への献金、朝廷工作にカネを使う殿には不満を持って来た。俺がというより、下で槍働きする者どもの不満を抑えきれん。今年に入って遂に殿は公卿供を御囲いになるご決心。彼奴等の引眉や贅沢暮らしを見せつけられるのは叶わん。是非ともシんでもらわねばならぬ、、、しかしそれほど殿の顔に泥を塗ったからにはただ御隠居いただくだけでは済むまい。やむを得ぬが、殿には公卿供の死出の供となっていただこう。。。」
妄想が捗ります。
是非ともコンラン先生には日本語でお話し頂きたいです!
初めて知りました。都の荒廃や治安上納得の行く説です。山口は辺地と思われがちでが、対明や対南蛮交易から見ると絶妙な地域です。皇室の行事は一般が考える以上に重要で、現代でも陛下皇族の方々は行事に忙殺されております。将軍家も滞在した山口は天皇家を迎え入れるポテンシャルは十分あったと思う。幕末も天皇を長州に迎えるという計画もあったし、中山忠光や七卿も長州に滞在している。山口は皇室とは因縁の地は間違いない。
まず、外国の大学で大内氏の研究をしている外国人がいることに驚く
内藤興盛に着目してみると、大寧寺の変の見方が全然変わって見えてびっくりしました
コンパクトにまとまってますが、実際はどれくらいの時間お話しされてたんでしょうね、1時間ぐらいじゃすまなさそうな・・・
実際は2時間半ほど対談しており、三好家や山名家についてなど幅広く対談させて頂きました
大内氏については勿論、「当時の摂関家を近衛派・九条派に分けるという一面的な見方は難しい」というご指摘も興味深いですね。
先日の古事鏡さんの生放送でも、室町期の五摂家の勢力図として「前期は二条・一条が覇権を争い、後期は近衛の一強」という構図が見えており、五摂家の中では終始存在感が乏しい九条を朝廷内における一方の旗頭と見なすことが、果たして適切なことなのか?非常に疑問に思うようになりました。
山口県出身者として、極めて興味深く拝聴しました。生まれ故郷の田布施町にも大内の残党の末裔の方が居られましたね。
外国人が大寧寺の変を研究してるのが珍しいみたいにいう人は、阿部謹也のハーメルンや白川静の甲骨文字研究とか知らない?そも露文科や英米文科で米川や村上を研究しますか?日本のような大国の歴史や文化ならそれこそハイチや赤道ギニアにも研究者はいますよ。大学は研究機関でもありますから。
興味深すぎて一言一句真剣に聞いてた。なるほど、内藤興盛か、、、
気の弱い東向殿が両者を庇ったかもしれないって聞いて鳥肌立った、、、。彼女は父を義興に○され、その後彼の妻になったんだよね。義隆が襲撃されたと聞いて失神したりしてるし、義隆はそんな母を心配して医者を派遣してるんだよな、、、戦乱の世は無情よな。
大内義興は重臣達を警戒して大宮姫を吉見家に嫁がせたんじゃないかと思う。内藤家に酷い仕打ちをしてしまい、彼らを警戒して新しい一門家を創ろうとしたんじゃないかな。吉見家は内藤家とも親戚だし。
そうなると、吉見信頼は大内政弘の指示で陶を討ったわけじゃない、、、?でも、信頼の孫の吉見隆頼は陶のチンピラに襲撃されて暗○されてるし、本当に興味深い。
お二方の対談見て本当に涙が出ました。ありがとうございました。
確かいまの皇室も東京行幸中なんですよね?
なら山口行幸→実質的な遷都はあり得る話です、ただ明治維新の時代に比べ乗り越えるべきハードルが高すぎる気がします。
大内幕府或いは武家公卿としての
プレ豊臣政権的な統治。
朝廷視線で完璧に辻褄が合うのは
しかかくさんがうpしてる
義隆と義晴の動画からも明らか
行幸からの義隆の上洛なら
当時の混乱を収束させる最終手段として全然悪く無い作戦だと考えますね
外人が大内研究とか物好きだよなあ
投稿お疲れ様です。内藤興盛視点で考えてみるのって、たしかに必要だなと考えさせられました。『大内氏実録』にもあるように、興盛の説明文は晴賢や問田隆盛だけではなく、野田興方や杉重矩、杉隆泰の後になっており、明らかに興盛に視点をあてていないことを暗示しているのではないでしょうか。また、近衞稙家派閥と九条稙通派閥で分けるのではなく、稙家も稙通も遷都反対派で、二条尹豊は遷都推進派と考えるべきだと知り、そう考えると一条房通は土佐一条家の宗家であり、かつ土佐一条家は故・恒持と「チャチ若君」義房を養子に出しているので、間接的ではあるものの一条家と義隆は関係があります。だとすれば、一条房通も遷都推進派だと考えることができるのはないでしょうかということです。僕の憶測ですが、しかかくさんはどう考えますでしょうか。
質問ありがとうございます。
「大内氏実録」は明治18年に刊行された本でその順番はどちらかと言えば毛利家と内藤家に関わりがあること&資料が少ないことが原因かと思われます
また、一条房通は遷都計画寄りだった可能性は仰る通りあるとは思います。ただ、親族の土佐一条は天文18年に房基が死去、大寧寺の変に加担した大友家との間に生まれた子(一条兼定)が当主となっている、という反証もあるため今の所は何とも言えないかなと思います。
@@SquareDeerHorn そうですか。たしかに、兼定になっているので、難しいですね。後々になって考えてみたのですが、阿波細川氏之は義隆の妹婿であり遷都推進派かなと思いました。
冒頭でもう書きたいことがいっぱいw
「いや、あなた本職で渡米したんじゃ…」→ちゃんとふだん住んでるロサンゼルスって言ってる!
鴨で沸き立つX(Twitter)の猛者たち!!
電車の旅路もいいなあ☺️
アメリカの有名大学教授が大内義隆をこんなに調べてるとは思わなかった。日本人より遥かに日本詳しいw
神
さすがに遷都までは考えづらいが、当時の京の政情不安を考えれば山口に行宮設置くらいはあり得そう(山名・赤松領を通らざるを得ない陸路は実現性が低そうなうえ、海路での行幸は斉明天皇以来前例がない(戦没の安徳天皇は除く)という難点はあるが)。
大内義隆は地方の戦国大名としては異例の従二位に昇ってるのは確かに不自然だと思っていたので、巷間思われているより大内家と朝廷の結びつきは深かったのかもしれない
内藤興盛に関する指摘はなるほどと思いますが、動機を内藤弘矩の誅●とするのはやや無理があるように思えます。興盛は弘矩の件がなければ家督を継いでなかった立場ですし、義興を恨むならまだしも、従弟で娘婿の義隆をそれで恨むかな?と。復讐の機会を伺ってるにしては雌伏が長すぎるようにも思います。そっちの線よりも、義隆・大内家の武家公卿化に公家嫌いの興盛の不満が爆発したという動機の方が個人的には納得感を感じます。
追記:隆房側の動機を問田と相良武任、益田と吉見の対立と考えれば、当初の計画が主君押込のような穏健な手段だったのも納得です。公家や義尊の抹●は興盛側の意向で、彼らの協力を得るために隆房も同意したと考えれば筋は通る。とすれば興盛はなぜ公家や義尊の●害を主導したのかが問題です。公家●害を義隆や大内家への怨恨だけで説明するのは難しい。叙位任官の形跡がないことから公家(朝廷)が嫌いだったからという類推はできますが、もう少し踏み込んで考えると、公家の山口下向(あるいは天皇行幸・山口遷都)を抑止するための見せしめでやった可能性はあると思います。後年織田信長が朝廷から金を散々せびられてるところから遡及して考えると、単純な好き嫌いに加えて、金銭絡みの悪感情もあったのかなと思いました。
義尊●害はやるメリットがあまり思いつかない。通説で言われてるような義尊母のおさいやその父小槻伊治による家中紊乱(でもこれが事実なら隆房が義尊への当主交代を当初画策したことと整合しない気も)、義尊が義隆の実子か疑わしいから(ソースの大内義隆記の性質的に義尊は誹謗される立場にあるので信憑性は微妙)、あるいは興盛の孫の問田亀鶴丸への家督継承を狙って結果失敗したのか。義隆に不満があって当主を変えるのはいいとして、一度廃嫡した大友晴英を呼び戻すより、幼年の義尊にそのまま継がせて傀儡にする方が合理的だと思うんですけどね。
ちなみに、足利義晴黒幕説はだいぶ眉唾だと思います。当時の幕府にそこまでの影響力があったのかという点もそうですし、大内家は義晴からあまり良い扱いをされてない(義晴目線だと義維側になりうる警戒対象)ので、仮に命令されたとて従う義理がないと思います。隆房が義晴から偏諱を受けたのは、当時の西国で義隆の権威が絶大なものであったことから主君弑逆を正当化するために幕府のお墨付きを欲し、そこに元々義隆を警戒していた義晴が便乗したという構図だと思います。
当時の人達の中には恨みから事件を起こす者もいたようで、吉見隆頼は陶家の雇った?チンピラに暗○されてます。
陶家は益田家と関係が深く、吉見家は内藤家と関係が深いですね。
吉見隆頼は大内義興の娘を嫁に迎えてて、警戒されたのでしょうね。隆頼が亡くなった後は、還俗した後の吉見正頼派と、上野善右衛門派に分かれて後継者争いをしてます。
呉座さんのチャンネルから来ましたが、コンラン先生って日本語ペラペラ過ぎてまずびっくりします、本当にアメリカでは第一人者なんだろうなって伝わってきました
もしかしたら五年後くらいに講談社学術文庫から訳出されるかもしれませんね
変わった人がいるもんだな。(尊敬。
先生にはまず、良くあんな交通の便の悪い山口まで来ていただいたことにお礼を言いたいです。おいでませ山口。
そうかな、かなり道が良いと思うよ
@@THE.Everestlist悪いぞ
こういういい意味で「ドライな目線」での深堀は大歓迎よな。
身内だとどうしても「悪い意味での色眼鏡」が付き纏うから。
こんな説を発現する人もひょっとしたら昔から国内に居たかもしれんけどさ、無かったよな?
その理由をどうしても邪推するとねえって。
行動力の化身
超良い動画、GJ
遷都説より内藤興盛の方が面白いね
しかも後の内藤氏は毛利家の重臣で
内藤氏を白くするだめにも陶にすべてを押し付ける理由が十分すぎる
日本史を研究してる外国人がいた事に驚き。
機会と興味があれば『海外の日本中世史研究』(勉誠社)って本がちょうど今月出版されたから読んでみると良いかも
コンラン先生だけでなく中韓やドイツの研究者も論を寄せてるので面白いと思う
自分もめっちゃ思いました笑
歴史は面白い。
小弐が唯一?打ち取った大内の党首、大内盛見とその戦いについても気になる
内藤興盛。毛利隆元の義父、輝元の母方の祖父か
興盛の娘の一人は備後守護代の山内直通に嫁いでます。
さらっと言ってるけどしかかくさん海外住みなのか
大内家とか日本人もよく知らん存在に外国の方が新説を出してるのは面白いですね
ぜひウプ主さんの意見が聞きたいです。もし良ければ返事下さい。
大内義隆の遺児だとされてる人物に「大石義胤」という人物がいます。何でも、大内家の女官を大内義隆が孕ませたとか何とか、、、
彼女は大寧寺の変の時、逃げる事が出来たみたいで益田家臣の城一正納に保護されてます。城一正納は楠木正成の子孫で、応永の乱の時に楠木正勝の遺児を大内盛見が益田家の要請で引き取り、益田家が200貫の領地を与えて家臣にした家なんだそうです。
ここで疑問が2つ浮かんだんです。①この女官は大内家の重臣達にその存在が知られていないようだが、それは可能だったのか?、②陶晴賢の親戚で、変では陶に加担してる益田家の家臣の元へ逃げて大丈夫だったのか?、です。
妊婦だった女官が城一正納の元へ逃げた理由は城一家と大内家の上記の縁を頼っての事だったそうです。女官はどうやってその「縁」を知る事が出来たのでしょうか?日頃からその話題がないと、文献?を調べるしか方法は無いかと、、、いくら楠木正成の子孫だとはいえ、日本屈指の大大名になってた大内家の人間が、配下の国人の家臣について話するかな、、、?
ちなみに福屋氏の姫も城一家に避難してます。何でだろ、、、?
上記の「大石義胤」の子孫は庄屋になりました。代々「義」の字を使ってるところを見ると、自分達は大内義隆の子孫だという自覚を持っていたようです。
横から失礼します。
逃げていた女官は「妊婦」だと仰っていますが、だとすると逃亡時点では生まれてくるべき子供の性別は判断できないということになる筈です。
戦国の他家の滅亡時の事例を参考にする限り、直系男子であれば幼子であっても処刑されるのが通例です。しかし逃げ延びてる場合、生き残っている事例も多々あります。また直系女子であれば生かされる事例が多い気がします。
また妊婦といっても初期段階では体型に変化は見られず、外見だけでは妊婦かどうかの判断も難しいと推測できます。
その他諸々の条件が重なった上で、大内氏直系が続いたのではないでしょうか?
その他の疑問については、当方に推測する能力がないので、返答できかねます。
たしかに、生まれてくる子供の性別はわからないって指摘は重要ですね。
この女官は、逃げてる最中に義隆の子を出産して、その後に城一家に匿われたそうです。
個人的に思うのは、この女官は大寧寺にいなかったって思うんです。じゃなきゃ妊婦が逃げられるはずがない。
石見の三隅氏の滅亡時の状況を見ると、最後の城主の子供をかろうじて寺に送り届けたお付きの家臣や侍女も追手にサツ害されてます。現場にいたら一見無関係な侍女でもダメだったようです。
これは、この三隅氏に限った事例ではなく、旧長門守護の厚東氏が大内氏により滅ぼされた時にも、逃げる厚東氏の姫を大内氏の侍はその場でサツ害してるし、石見高橋氏が二つ山城の富永氏(出羽氏)を攻めた時も、家臣と一緒に小笠原氏に援軍を求めに行った姫がシんでます。
これらの事から、大内義隆は突発的にこの女官に手を出していて、それが恐らく一回っきりか多くても数回程度だったから大内家の重臣達にその存在が知られず、加えて女官でも身分が低い上にそれほど寵愛を受けてる存在ではなかったから大内義隆の大寧寺について行かずに大内氏の居館に残った。んだと思うんです。
ウプ主はこの辺どう思うのか気になります。
質問ありがとうございます。
①についてですが、女官が逃げ切ること自体は不可能ではなかったと思われます。というのも、義隆の母である東向殿やおさいの方(義尊の母)、義隆の側室である広橋兼秀娘など大内義隆と関わりのある女性はけっこう生き延びているためです(典拠が「大内義隆記」のみのため確実とは言い切れませんが)。この原因は大寧寺の変は大内氏族滅が目的ではなく、当主すげ替えのためのクーデター、義隆・義尊の殺害が目的であり、大内氏を根絶やしにすることを目的としていなかったためと考えられます。
一方で②についてですが、これは大問題かと思います。当時の益田家当主である益田藤兼は完全に陶隆房に協力しており、変後に逃げてきた相良武任の一族と思われる相良虎王を殺害しています。逆に益田領よりも周防・長門に近い吉見領の吉見正頼は明白な義隆方です。仮に大寧寺までついていってそのまま海から益田領へと入ったのだとしたら、義隆も逃げられたはずであり矛盾します。そのため陸路以外は考えにくいのですが、その場合吉見領をスルーして陶に加担している益田領に逃げているのは結構説明としては苦しい話かと思います。
「大石(志摩守)義胤」という人物については管見の限りその存在を示す当時の史料はなく、本当に義隆の子なのかというと正直私はかなり怪しいかと思います。忠臣蔵で有名な大石内蔵助の祖先が大内家だ、とする説でもよく出てくる人物ですが、赤穂藩家老大石家は恐らく近江の国人出ですので関係がなく、その説もどこから来たのか不明です。
また、悲劇的な最期を遂げた人物というのは必ず隠し子説が流布するものですが、義隆もその例に漏れず義胤以外にも大内義隆の実子とされる人物は実は他にも数名います。しかし、どれもかなり後になって出てくる話であり、正誤判定はつかない状態です(一次史料はともかく当時を知る人物が書いた資料も無いとどうしようもない)。毛利元就の隠し子である二宮就辰のように「そういった」扱いをされていることがわかる書状があれば区別はつくのですが・・・。
@@SquareDeerHorn
ご返事くださりありがとうございます。やっぱり違和感凄いですよね。
確かに陶晴賢は評価としてはヘボ扱いされてもやむなしの聞かん坊なのは事実やからなあ。
内藤興盛や元就等の黙殺あっての大寧寺の変だと思ってたけど、三条パパ○してたの興盛もか!
しかかくさんが翻訳したら?
福岡博士が確かドリトルを翻訳してますから理→文跨ぎは前例がある。
できなくはないのですが、畏れ多いのと別に私は翻訳が得意ではないのと、時間がかかりすぎるので流石に難しいですね・・・
やるとすればコンラン先生の本(英文)をみながら生放送解説でしょうか
@@SquareDeerHorn さん
それは是非お願いします。
追加、内藤興盛の事についてですが、幾ら一族の仇が義隆でも当時は身内や兄弟は最大のライバルであり倒さなければならない一番最初の敵でもあった訳でして、一族を排除して自分を当主と認めてくれた義隆に興盛は感謝していてもおかしくはありません
応仁の乱はそもそも畠山家の跡目争いだった訳ですから
申し訳ないですがありえない説だと感じます。
カモじゃなくてカナダガン
BGMうるさい
コンラン氏にお会いするのは良いですが、旅行動画じゃあるまいし道中は不要。
超有名なプリンストン大学行くんだからこれなかったら皆肩透かしですよ。これは礼儀の問題でもあります。
外国の研究者への敬意。
@@丸山康平-l2f 何とか大学は日本史研究で有名でしたか。すみません、単なる歴史オタクなもので。知ってる海外の大学は一般に知られているレベル止まりでした。
毛利元就の謀略