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時々登場するお父様の写真が、味があってとても好きです。
懐かしいですね~、50年ほど前学校見学でこの坂を訪れたことがあります。周りの景色は何ら変わっていません。水神社から坂を挟んで建っているお屋敷は関口芭蕉庵で松尾芭蕉のお住いの跡です。
自分は二十歳代、この映像の駒塚橋の、すぐそば(西早稲田1丁目の神田川沿い)に住んでました紹介されたあたりは、ときどき散歩で歩いてました、なんだか凄く懐かしい6分30秒ぐらいから映されてる火事痕の窓がある建物は都営のアパートで、昔はここの屋上で盆踊りとかもやってたんですよあのへんで今も残るのは早稲田オートテニスプラザとかぐらいですかね甘味処の一ノ瀬とかは、もう残っていないし
胸突坂、今も使っています。この周辺は坂が多くそして急な坂が多いことで知られていますね早稲田アパートの火災はたばこの不始末による火事で1人死亡、1人火傷で4階下の部屋まで放水時に水浸しになったとのことです。以前は屋上で盆踊りとかイベントもやってましたが、飛び降り自殺などあったりしたので屋上の柵を撤去し閉鎖されました。竣工時は富士山や隅田川の花火大会も見れました。近隣の方々にも開放してました。
1923年の胸突坂の様子がちょっと紹介されていますが、1928年頃の胸突坂を上る人の姿を、小説家藤森成吉は「駒塚橋を渡って坂へかかるやいなや、彼女はクルリと背後向きになりながらよじあがり出した。」(「小石川」)と描いています。手すりもなく、今よりも上るのは難渋だったのでしょうか。何回か通ったことがありますが、確かに急峻な坂です。
カテドラル関口教会にオルガン聴きに行くのに、早稲田電停からよく歩きました。還暦過ぎたら無理だなぁ。
東京の中心近くにまだこのような森があるとはちょっと驚きました。
今回は早稲田ですね。水稲荷神社についてどうしてこの名前が付いたのかが気になったので調べました。創建時は「冨塚稲荷」と称したようですが、1702年に神木の根元から突如湧水が湧き出したようです。その湧水が眼病に効くと評判になり、湧水が火難除けの霊水として認められたことから「水稲荷神社」と改名されたという経緯があるようです。尚、元々は今の早稲田大学の敷地内にあった様で、1963年に土地交換を行って現在の場所へ移転したようです。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 👍🙏
何気に感じる昭和の雰囲気に引き込まれます。
江戸時代はもっと急だった事がうかがえますね。恐らく明治から昭和の時代に路面が整理され、幾分緩やかにしたのでしょう。
橋の下を流れる川は、神田川。その界隈は、よく歩きました。
武蔵野台地の突端の一つ、目白台地とその南端を削って流れる神田川。この辺りは高低差もさることながら、南北にあたる坂上~坂下の距離がとても長く、それが東西数キロに渡って延々と続く。胸突坂の両隣は幽霊坂と目白坂、豊坂、日無坂・・・、とにかく東西どちらに行っても坂、坂、坂。この広大な坂エリアを「目白台・神田川坂ベルト地帯」(語彙力w)として世に広めたい。都内最大級だと思う。
何年か前に、都電荒川線で早稲田三ノ輪橋まで乗って見た事がありました。その後に仕事で早稲田大学にも行く機会がありました。私にとっては、初めて見る早稲田大学でした。私が都内の大学を見たのは法政大学,順天堂大学、大妻女子大学、早稲田大学計4つの見られる事は、めったに見る事は、無かった事です。
今この動画坂を見たとたんに、急な坂で何だか息切れしそうになってしまいそうになってきます。また戻るようになって来ると何だか憂鬱に,なって来ますね。
胸突坂は内田百閒も文章で触れていますね
ボンクラ学生時代に痛飲してまさにこの凄まじい坂を登り這々の体で友達の安アパートに転がり込んだ懐かしい思い出ですね。当時から手摺りアレバもっと楽に登れたのになぁ😂
東京には坂道が多いですがそれぞれに名前がついているのがすごいですね。
まだ仕事をしていた頃に、何となく歩きたくなり、仕事帰りに関口芭蕉庵のあたりまで気の向くままに歩いた事があります。自分では気づかずに、ストレスが貯まっていたのかもしれません。夜なのに、土地勘もないところを時々ふらついていましたから(^_^)
☝👍👍 شكرا شكرا ترجمه عربي
水稲荷神社は以前は早稲田通りの馬場下付近にあつたのを現在の茶屋町通りに移転、隣りは私の母校戸塚第一小学校、甘泉園。
昭和60年 つい このあいだに思えますが、もう39年も前に なってしまいました! 歳とるわけですね~🍀
胸突坂の上の寮に、昭和59年までいました。
初めて受けた司法試験の早稲田会場。終わって江戸川橋まで歩いて帰ろうと歩き回っていたら、水神社にたどり着いた。不思議な感覚だった。もう一度行けと言われても辿った道を思い出せない。
試験の結果が気になります。
永青文庫のとこですね。
山手線の内側にこんな鬱蒼とした山道があったなんて・・・・w
ترجمه باللغه العربيه
お疲れ様です。チンチン電車(懐かしい場所のひとつですね、僕の時代には、大隈講堂の横、空き家か、鳩小屋が有りましたよ、あぁまだまだグランドがありました、学帽屋さんも、もう無いのかな?
時々登場するお父様の写真が、味があってとても好きです。
懐かしいですね~、50年ほど前学校見学でこの坂を訪れたことがあります。周りの景色は何ら変わっていません。水神社から坂を挟んで建っているお屋敷は関口芭蕉庵で松尾芭蕉のお住いの跡です。
自分は二十歳代、この映像の駒塚橋の、すぐそば(西早稲田1丁目の神田川沿い)に住んでました
紹介されたあたりは、ときどき散歩で歩いてました、なんだか凄く懐かしい
6分30秒ぐらいから映されてる火事痕の窓がある建物は都営のアパートで、昔はここの屋上で盆踊りとかもやってたんですよ
あのへんで今も残るのは早稲田オートテニスプラザとかぐらいですかね
甘味処の一ノ瀬とかは、もう残っていないし
胸突坂、今も使っています。この周辺は坂が多くそして急な坂が多いことで知られていますね
早稲田アパートの火災はたばこの不始末による火事で1人死亡、1人火傷で4階下の部屋まで放水時に水浸しになったとのことです。
以前は屋上で盆踊りとかイベントもやってましたが、飛び降り自殺などあったりしたので屋上の柵を撤去し閉鎖されました。
竣工時は富士山や隅田川の花火大会も見れました。近隣の方々にも開放してました。
1923年の胸突坂の様子がちょっと紹介されていますが、1928年頃の胸突坂を上る人の姿を、
小説家藤森成吉は「駒塚橋を渡って坂へかかるやいなや、彼女はクルリと背後向きになりな
がらよじあがり出した。」(「小石川」)と描いています。手すりもなく、今よりも上るの
は難渋だったのでしょうか。何回か通ったことがありますが、確かに急峻な坂です。
カテドラル関口教会にオルガン聴きに行くのに、早稲田電停からよく歩きました。
還暦過ぎたら無理だなぁ。
東京の中心近くにまだこのような森があるとはちょっと驚きました。
今回は早稲田ですね。
水稲荷神社についてどうしてこの名前が付いたのかが気になったので調べました。
創建時は「冨塚稲荷」と称したようですが、1702年に神木の根元から突如湧水が湧き出したようです。
その湧水が眼病に効くと評判になり、湧水が火難除けの霊水として認められたことから
「水稲荷神社」と改名されたという経緯があるようです。
尚、元々は今の早稲田大学の敷地内にあった様で、
1963年に土地交換を行って現在の場所へ移転したようです。
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo ! 👍🙏
何気に感じる昭和の雰囲気に引き込まれます。
江戸時代はもっと急だった事がうかがえますね。恐らく明治から昭和の時代に路面が整理され、幾分緩やかにしたのでしょう。
橋の下を流れる川は、神田川。その界隈は、よく歩きました。
武蔵野台地の突端の一つ、目白台地とその南端を削って流れる神田川。
この辺りは高低差もさることながら、南北にあたる坂上~坂下の距離がとても長く、それが東西数キロに渡って延々と続く。
胸突坂の両隣は幽霊坂と目白坂、豊坂、日無坂・・・、とにかく東西どちらに行っても坂、坂、坂。
この広大な坂エリアを「目白台・神田川坂ベルト地帯」(語彙力w)として世に広めたい。
都内最大級だと思う。
何年か前に、都電荒川線で早稲田三ノ輪橋まで乗って見た事がありました。その後に仕事で早稲田大学にも行く機会がありました。私にとっては、初めて見る早稲田大学でした。私が都内の大学を見たのは法政大学,順天堂大学、大妻女子大学、早稲田大学計4つの見られる事は、めったに見る事は、無かった事です。
今この動画坂を見たとたんに、急な坂で何だか息切れしそうになってしまいそうになってきます。また戻るようになって来ると何だか憂鬱に,なって来ますね。
胸突坂は内田百閒も文章で触れていますね
ボンクラ学生時代に痛飲してまさにこの凄まじい坂を登り這々の体で友達の安アパートに転がり込んだ懐かしい思い出ですね。当時から手摺りアレバもっと楽に登れたのになぁ😂
東京には坂道が多いですがそれぞれに名前がついているのがすごいですね。
まだ仕事をしていた頃に、何となく歩きたくなり、仕事帰りに関口芭蕉庵のあたりまで気の向くままに歩いた事があります。
自分では気づかずに、ストレスが貯まっていたのかもしれません。夜なのに、土地勘もないところを時々ふらついていましたから(^_^)
☝👍👍 شكرا شكرا ترجمه عربي
水稲荷神社は以前は早稲田通りの馬場下付近にあつたのを現在の茶屋町通りに移転、隣りは私の母校戸塚第一小学校、甘泉園。
昭和60年 つい このあいだ
に思えますが、もう39年も前に なってしまいました!
歳とるわけですね~🍀
胸突坂の上の寮に、昭和59年までいました。
初めて受けた司法試験の早稲田会場。終わって江戸川橋まで歩いて帰ろうと歩き回っていたら、水神社にたどり着いた。不思議な感覚だった。もう一度行けと言われても辿った道を思い出せない。
試験の結果が気になります。
永青文庫のとこですね。
山手線の内側にこんな鬱蒼とした山道があったなんて・・・・w
ترجمه باللغه العربيه
お疲れ様です。チンチン電車(懐かしい場所のひとつですね、僕の時代には、大隈講堂の横、空き家か、鳩小屋が有りましたよ、あぁまだまだグランドがありました、学帽屋さんも、もう無いのかな?